三十四 与力の藤堂八郎への知らせ
翌日。文月(七月)十六日。曇天の昼四ツ(午前十時)。
「いつものお礼に、これを・・・」
多恵は、仕立物を届けに来た麻に礼金を渡す振りして、昨日の与三郎との打ち合わせをしたためた文を渡した。
「女将さん。ありがとうございます」
「女将さんじゃありませんよ」
麻の言葉に、多恵は微笑んだ。
「それなら御内儀様。あるいは奥様かしら。ねえ、お加代さん」
麻は多恵に、多恵の背後で聞き耳をたてている加代を目配せした。
この下女は抜け目がない。呉服の傷から汚れや臭いまで目鼻が利く。全てに敏感だ。用心せねばならない・・・。
「多惠さんは加賀屋の女将さんですよお。旦那さんの御内儀さんで奧さんですよお。
あたしたちは、女将さんって呼んでますよお」
加代はそう言っているが、いつもの加代ではない。いったい何を不信に思っているのだろう・・・。それとも、何かあったのだろうか・・・。
「ほら、やっぱりそうじゃないか。今度から女将さんと呼ぶよ。
そしたら、これで、お暇しますよ」
麻は加代を気にかけながら、多恵と加代に挨拶して加賀屋を出た。
長屋に戻ると、麻は、多恵之介に扮した八重と木村玄太郎とともに文を開いた。麻の父の八吉は大工現場へ出ていて長屋にいない。
文に一分銀が四枚貼ってあり、
『以下の内容を変えずに書き直して、二十一日の夕刻、閉門の刻限に北町奉行所の藤堂八郎様に届けて欲しい』
とある。文には、
『今月の加賀屋の締日翌日、二十一日の夜九ツ(午前〇時)に、与三郎一味が加賀屋の金蔵を襲う。
当日、夜四ツ半(午後十一時)に、加賀屋の店の雨戸と障子戸を開けておきます。
町方は密かに店の表から入り、裏庭の土蔵を囲んで与三郎一味を待ち伏せてください。
与三郎一味が裏口から侵入したら、その後を追って裏口からも密かに町方が入り、与三郎一味を捕縛するのです』
としたためてあり、
『与三郎一味に気づかれぬよう、この北町奉行所への知らせは、当日の夕刻にします』
と追記がある。
「日取りが決まった。北町奉行所に知らせよう。八重が多恵に扮して、この文を北町奉行所の与力の藤堂八郎様に届ければ良い」
そう言う木村玄太郎に、多恵之介(多恵之介に扮した八重)が言った。
「この文にあるように、北町奉行所へ知らせるのは、当日の二十一日です。
さもなくば、ただちに町方は私たち多恵を捕えて詮議します。そして、山王屋を家宅改めします。そのあいだに与三郎が逃げます。
与三郎が金蔵を襲った折に、町方に捕縛させるのです、
さすれば、与三郎は罪を逃れられませぬ」
「わかった」と玄太郎。
「さすがだね・・・」
麻はそう呟いた。加賀屋の多恵も、この多恵之介も、先を読んでる・・・。
多恵之介は、多恵から指示されたように、文を次のように書き直した。
『今月の加賀屋の締日の翌日、二十一日の夜九ツ(午前〇時)に、与三郎一味が加賀屋の金蔵を襲います。
当日、夜四ツ半(午後十一時)に、店の雨戸と障子戸の心張り棒を外しておきます。
町方の方々は密かに店の表から入って裏庭の土蔵を囲んで与三郎一味を待ち伏せし、与三郎一味が裏口から侵入したら、その後を追って裏口からも町方が密かに入って、与三郎一味を捕縛してください。
くれぐれも与三郎一味に気づかれぬよう、知らせは二十一日の夕刻にいたしました。
何とぞ、一味を捕縛してください。
なお、後日説明いたしますゆえ、一味捕縛後も、この知らせがあった事、店の雨戸と障子戸の心張り棒が外れていた事は内密にしてください』
多恵之介は、したためた文を見ながら呟いた。
「かんたんにはゆきませぬ。この私とは気づかれぬよう、多恵に扮してこの文を八郎様に渡さねばなりませぬ。どうしたものか、じっくり考えねばなりませぬ。
お麻さん。良い策がありませぬか」
「加賀屋の多惠として文を渡さねば、八郎様は信用しないと言うんだね・・・」
麻は考えながら言った。
「だったら、こうしようよ・・・・」
麻は説明した。
北町奉行所の閉門の刻限に、麻の父大工の八吉が与力の藤堂八郎に、
『お麻が内密に加賀屋の女将さんから、北町奉行所の閉門の刻限に、この文を藤堂様に届けるように頼まれた』
と言って文を届けるのだ。大工の八吉は頭領だ。北町奉行所の修繕を一手に任されている。門番をはじめ、八郎や北町奉行所の者たちと顔見知りだ。
八郎が北町奉行所に不在なら、八丁堀の八郎の組屋敷に文を届ければよい。さすれば、多惠の素性は気づかれぬ。
やはり、亡き父が好いた女御だ。母とは違い、切れ者だ・・・。
「その手がありましたね。義伯父上の八吉さんに、一肌脱いでいただきましょう。
それと、多恵に、
『事がうまく運んだら、私が佐恵に代わり、多恵になって北町奉行所の詮議を受けますゆえ、頃合いを見て長屋に戻るように』
と伝えてください。佐恵は多恵から多恵之介になって、木村の義父上とともに円満寺に身を潜めるようにと」
多恵之介の指示に、
「わかった」
と麻と玄太郎が頷いている。現在、麻の父の八吉は大工現場へ出ていて、昼餉には戻るはずである。
三日後。文月(七月)十九日。雨の昼四ツ(午前十時)。
多恵之介と麻と玄太郎の打ち合わせは、仕立てた呉服を加賀屋へ届けた麻から、多恵に知らされた。多恵は納得した。
五日後。文月(七月)二十一日。晴れの暮れ六ツ(午後六時)前。
北町奉行所が閉門する少し前、八吉は北町奉行所の門前にいた。
「与力の藤堂様は中においでですか」
「先ほど出先から戻ったばかりです。急用ですか」
「はい、御用の筋です。急ぎの知らせがあります」
「それなら早く伝えて下さい。まもなく閉門ですから、帰りはその潜りを抜けて下さい」
門番は八吉に向かって丁寧に言い、門の潜り戸を示した。
「はい、ありがとうございます」
八吉は北町奉行所に入って八郎の詰所へ行った。
「藤堂様。お麻がこれを、今日この刻限に藤堂様に渡すように、と加賀屋の女将さんから預かってきました。
内容を確認して藤堂様に届けるようにとの事でした。御用の筋かと・・・」
八吉の話を聞いて、八郎は文を読んだ。
「まさしく御用の筋だ。今夜、加賀屋に夜盗が入る。
それにしても、加賀屋の女将は、どうして夜盗が入るのを知ったのであろうか・・・」
八郎は文の筆跡に見覚えがあった。
もしやして加賀屋の女将は八重か・・・。八重は亡くなったはずだ・・・。夜盗に八重が絡んでいるのか・・・。
「藤堂様。どうかしましたか」
八吉は、考えこむ八郎が気になった。
「いや、今夜の捕り物の手筈を考えていた。店の表と裏から、入れるだけの捕り方を手配する。夜盗を捕えるまで、この事は内密にしてくれ」
「わかりました、お麻に話していいですか」
「加賀屋の女将さんには後日話す故、そのようにお麻さんだけに話せ。
他言は無用だ」
「承知しました。お麻にだけ話します」
「頼みます・・・」
そう話しながら八郎は、夜盗の件が落着したら、八重の生死を再確認せねばならぬと思った。
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