三十二 愛しの上女中
皐月(五月)十九日。晴れの昼四ツ(午前十時)前。
菊之助は帳場机の前に座ったかと思うと、すぐに立ちあがって客の前に座り、また立ちあがって店の入り口に目をやり、帳場机の前に戻った。
そして、また立ちあがって店の中を歩きまわり、そのあいまに店の入り口へ目をやり、暖簾の間から現われる客の顔を見て溜め息をついている。
加代は、朝から店をうろつきまわる主の菊之助を見て、奉公人たちが日頃の働きを注意されるのかと思ったが、時が経つにつれ、菊之助が誰かを待っているらしいとわかった。安堵した加代は主の奇妙な立ち振る舞いに笑いをこらえた。主に見張られていると勘違いして畏まっていた奉公人たちも、加代とともに笑いをこらえた。
「これ、番頭さん。奉公人たちを静かにさせなさい」
大番頭の直吉は、番頭の平助を呼んで言い含めた。
「そう言っても、あれを見てください。とても、今までの旦那様とは思えません。
旦那様は、誰を待っておいでですか」
平助は、大番頭の直吉なら主がそわそわしている訳を知っていると思い、確かめるように直吉の顔を見た。
「余計なことを考えずに、奉公人たちに御店の拭き掃除をさせなさい」
直吉は顔色を読まれぬよう、平助に言いつけた。
「御店が開く前に、しっかり拭き掃除しました。もう一度するのですか」
平助は聞き違えではないかと思い、直吉に確認した。
「そうです。今日は天気が良いから、店先の塵や埃が御店に入って呉服が汚れます。
塵や埃が風で舞わぬよう、店の前に水を撒きなさい」
直吉の言葉に、もっともだ、と平助は思った。
「わかりました。
これっ、お加代さんっ。外に水を撒きなさいっ」
平助は加代を呼んで仕事を言いつけた。
店の畳を拭いている加代は他の仕事を言いつけられ、ぷっと頬を膨らませ不満顔だ。
「私もいっしょに水を撒くから、そんな顔をするな」
平助は加代をなだめた。
「平助さんがそう言うなら、いっしょに水を撒くよ」
一瞬に、膨れていた加代の顔が笑顔に変わった。
平助と加代は、店先の橫から奥へ続く土間を通って井戸から桶に水を汲み、店先の通りに立った。
皐月半ばの晴れた午前は風も穏やかで、陽射しはさほど強くない。
ここ日本橋呉服町二丁目の、呉服問屋加賀屋の前の通りは、呉服を買い求める呉服屋や一般客が溢れていた。店先の通行人をよけながら、加代と平助は柄杓で桶の水を撒いた。
すると、目の前に二人連れが立ち止った。そのまま歩こうとしない。
加代と平助は顔を上げて二人を見た。
「あっ・・・・」
と言ったまま加代と平助は言葉を失った。
加賀屋の前で足を止めた二人連れは、口入れ屋の山王屋与三郎と多恵だった。多恵の容姿は、他界した菊之助の女房の八重と瓜二つだ。その多恵が、店の御内儀風の化粧と装いで加賀屋の前に佇んでいる。
一瞬に加代は、あの優しい八重に見つめられているような気持ちになった。
「女将さん・・・」
加代の目に涙が溢れた。
ふた月ぶりですね、騙してごめんなさい。しばらくがまんしてください・・・。そう思いながら、多恵は加代に微笑んだ。
「私は山王屋与三郎でございます。
加賀屋様からお頼みされていた上女中を連れて参りました。
なにとぞ、加賀屋菊之助様にお取り次ぎくださいまし」
与三郎は同伴した多恵とともに、平助と加代に深々と御辞儀した。
番頭の平助は大番頭の直吉からそれとなく、上女中が来る、と聞いていたが、これほど八重に似た人が来るとは思っていなかった。
「ささ、こちらへ。
お加代さん。手桶を片づけて、奥の座敷へ茶菓を頼みますよ。
ささ、中へどうぞ・・・」
平助は与三郎と多恵を加賀屋へ案内した。
「旦那様!女将さんが・・・」
そこまで話した平助は、店の奉公人の目がいっせいに多恵に注がれるのを感じた。皆が多恵の姿に言葉を無くしている。
「これ、言葉を慎みなさい。
本日は良くおいでくださいました。ささ、奥へどうぞ・・・」
直吉は店の左手にある奉公人用の入り口から、多恵と与三郎を店の奥へ招き入れ、主の住居になっている奥座敷へ二人を案内した。
奥座敷で主の菊之助と、多恵と与三郎の挨拶がすんだ。
加代は二人の前に茶菓を運んで奥座敷を去り、立ち聞きするため、隣の座敷の襖の陰に立った。
加代が去ると、与三郎は書き付けを大番頭の直吉に渡した。直吉はその書き付けを菊之助に渡した。菊之助は書き付けの内容を確認して直吉に、
「お足を差し上げてください」
と言った。
加代は、直吉が帳場へ行くと思い、隣の座敷の襖の陰から外廊下へ出た。
直吉は書き付けを持ったままその場を立った。隣の座敷を通って店の帳場へ行き、すぐさま紙包みを載せたお盆を持って戻り、お盆を菊之助の前に置いた。
加代は外廊下から座敷に戻り、襖の陰から奥座敷の様子を聞いた。
「これをお納めくださいまし」
菊之助は、すっとお盆を山王屋与三郎の前へ押した。
「では、確認させていただきます・・・」
与三郎は紙包みを手に取った。中を確認して紙包みを巾着袋に入れ、懐から受け取りの証文を取り出してお盆に載せ、菊之助の前へそっとお盆を押した。
菊之助は証文を手に取って確認し、直吉に渡した。
証文を見て直吉が頷くと、与三郎は、
「私どもの仕事はこれにて終わりにございます。
今後も末永く、多恵をよろしくお願いいたします」
と言って多恵とともに深々と御辞儀した。
菊之助は返礼して、親しみをこめて与三郎に言った。
「こちらこそ、無理なお願いを聞いていただき、ありがとうございました。
昼四ツ半(午前十一時)も過ぎました。昼餉をともにいかがですか」
「ありがたいお言葉ですが、私も次の仕事がありますゆえ、これにてお暇いたします」
与三郎は多恵に、しっかり働いてくださいよ、と言ってその場を立った。
「では、外までお見送りいたしましょう」
菊之助は立ちあがった。
加代は座敷の襖の陰から外廊下へ出た。
与三郎は慌てて菊之助を制した。
「とんでもございません。加賀屋様はここで多恵に仕事の事などお教えくださいまし。
では、加賀屋様。大番頭様。これにてお暇いたします」
「直吉。送ってさしあげなさい。私は多恵さんに仕事の事を話しますゆえ・・・」
「では、失礼いたします」
そう言って、与三郎は直吉とともに奥座敷を去った。
加代は外廊下から座敷に戻り、襖の陰から奥座敷の様子を聞いた。
奥座敷は菊之助と多恵の二人になった。
「よくおいでくださいました。
今日からここが多恵さんの家だと思って、私の身の周りの世話をお願いします」
菊之助は、目の前に正座している多恵に頭を下げた。
「旦那様。お顔をお上げくださいまし。
私は旦那様に使える上女中にございます。なんなりとお申しつけくださいまし。
旦那様の言いつけとあらば、お伽もいたします。
ですが、私を旦那様の慰みものになさるのであれば、どうかご容赦くださいまし。
私とて独り身の女。我が身を持て余す日もございます。
しかしながら、それだけで、お伽に応じとうはございませぬ。
どうか、私の心を見定めた上で、私に末永いお情けをおかけくださいまし」
多恵は目を潤ませて、菊之助の前に深々とひれ伏した。旦那様の気持ちはわかっています。旦那様の心に残っているのは亡くなった八重です。今日からこの多恵が、旦那様と店の者たちの心に残る八重の面影を塗り変えてゆきます・・・。
多恵の言葉は菊之助の心に染みた。多恵から、菊之助の後妻か妾になるから、そのつもりで情けをかけて欲しい、と宣言されたのである。菊之助は多恵の潔さに、町屋の女と違って武家の女だけのことはある、と感銘を受けた。
「よくぞ話してくださった。私はね、お前を一目見た時から、お前の虜なのだよ。
わかりました。じっくり時をかけて、お互いをよく知り合いましょう。
最初は私の身の周りの世話をしてもらいましょう。
臥所は私の隣の部屋を使ってください」
菊之助は、奥座敷から襖一枚を隔てた隣の座敷を示した。
「安心なさい。お前が納得するまで、お前には触れませんよ」
生前の八重の求めに応じ、菊之助は毎夜、睦事を重ねた。八重が他界した原因は毎夜の睦事にあったのではないか・・・。そう懸念する菊之助は、多恵が求めぬ限り、多恵を抱いてはならぬ、と心から思っていた。
加代は座敷の襖の陰から外廊下へ出て台所に向かった。旦那さんは八重さんに似た多惠さんに一目惚れしてる。多惠さんがどんな人か、あたしが見定めよう・・・。加代は決意を新たにしていた、
その日の午後。
麻の父の八吉が、日本橋元大工町二丁目の長屋から、千住大橋南詰め中村町の旅篭、中村屋に戻った。
これまで多恵之介は、知古の者の到着を待っている、と言って、日中だけ中村屋に詰めていた。
「たった今、待ち人が無事に日本橋に着いた、と義伯父から知らせがありました。
これでお暇します。世話になりました」
多恵之介は中村屋の主に礼を言って、日払いである今日一日分の休息代を払い、八吉とともに中村屋を出た。日本橋へ帰る道中、円満寺の丈庵住職に経緯を報告して、日本橋元大工町二丁目の長屋に戻った。
その後。
多恵の上女中としての評判は八重同様に良かった。以前の昼の上女中の八重は八重自身で、今度の昼の上女中の多恵は佐恵が扮している。上女中として八重と佐恵の才に、極端な相異が無かったのが幸いしていた。
以前の夜の八重は佐恵が扮していた。そして今、多恵に扮しているのも佐恵だ。今後、菊之助と情を交すことになれば、どうしても本音が出る。多恵として、どのように振る舞えばよいか、見当もつかない佐恵だった。
多恵は加賀屋に奉公してから麻と親しくなった振りをして、仕立て物(仕立てた呉服)を届けた麻に、次に仕立てる呉服の反物が入った風呂敷包みを渡しながら、こっそり相談した。
麻は、渡された風呂敷包みの反物としつけ糸と寸法の書き付けを確認しながら、
「心の赴くままにやんなさい。疲れを残すんじゃないよ。いざとなれば姉さんがいるさ」
と多恵の耳元で囁いて微笑んだ。
怪しまれるから、早く仕事に戻りな・・・。麻がそう思っているのを感じながら、多恵は頷いた。
「いつも、ありがとうございます。よろしくお願いします」
「あいよ。仕事、がんばっておくれ」
「はあい」
多恵は店を出る麻を見送った。
文月(七月)二日。
多恵が呉服問屋加賀屋に奉公してひと月半が過ぎた。八重が他界して三ヶ月余りだ。
どんよりと雲が垂れ込めた梅雨空の宵。奥座敷の褥に睦み合う二人の姿があった。
「旦那様・・・。多恵は、毎日、旦那様の優しさに触れて、この時を熱い思いで待っておりました」
多恵は、襦袢を肌蹴た胸に菊之助の手を導いた。
菊之助は、多恵の容姿が前妻の八重に似ているだけでなく、睦事の所作も似ているのを感じた。菊之助は多恵を抱きしめて唇を重ねた。
菊之助の手と唇に応じて、多恵は身体を菊之助にすりつけ、菊之助と唇を重ねた。
「ぁぁっっ。声が・・・」
「だいじょうだ。気にしなくていい・・・」
菊之助はそう言いながら、多恵をそっと優しく撫でた。
「ああ・・・そのようにしては・・・。
どうか末永く、私にお情けをおかけくださいまし・・・」
「多恵さんを見た時から、私の心は多恵さんでいっぱいだ・・・。
多恵さん無しで生きてゆけない・・・。
どうか、私の女房になってくだされ」
菊之助は多恵の目を見つめてそう言い、多恵を優しく愛撫した。
「ああ、多恵は幸せにございます・・・」
多恵は菊之助に抱かれ、喜びに満たされて菊之助を受け入れた。多恵は睦事では見せぬ憂いに満ちた笑みを浮かべた。有明行灯の薄明かりの中、多恵を愛撫する菊之助は多恵の顔を見ていなかった。
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