三十一 上女中の多惠

 皐月(五月)六日。晴れのその日の昼八ツ(午後二時)。

 加賀屋菊之助と大番頭の直吉が、千住大橋南詰め中村町の口入れ屋、山王屋を訪れた。

「これは、これは、ようこそおいでくださいました。

 ささ、どうぞ奥へお入りくださいまし」

 山王屋の番頭の安吉は、菊之助と直吉を奥座敷に案内した。



 奥座敷で、山王屋与三郎は菊之助と直吉を待っていた。

「よくおいでくださいました。私は主の与三郎です。

 こちらにお座りください」

 与三郎の勧めに応じ、菊之助と直吉は上座に座った。

 与三郎は番頭の安吉を後ろに控えさせて、改めて菊之助と直吉に挨拶した。

「本日はご足労いただきまして、誠にありがとうございます。

 私は山王屋の主、与三郎です。

 先日、大番頭様から文をいただき、翌日、大番頭様から、加賀屋様の御内儀様に似た上女中を御要望とお聞きしました。

 今日は、加賀屋様からじかにお話をお聞きして御内儀様の似顔絵を描くため、私どもの絵師ともどもお待ちしておりました。

 このあと、加賀屋様のお話を聞きながら、この透水絵師が御内儀様の似顔絵を描きます。それがすみましたら、御内儀様に似た上女中について、打ち合わせしとうございます。

 いかかでしょうか」

 与三郎の右隣に、痩せた小柄な四十がらみの総髪茶筅の男がいる。持ち物から絵師とわかる。


「御説明、ありがとうございます。

 なにぶんにも、女房を亡くして、どうしていいものか、途方にくれておりました。

 こちらで上女中を斡旋してくださるとお聞きして、こちらに伺った次第です・・・」

 菊之助の説明は商人らしい型どおりの言い方だった。

「大切な御内儀様を亡くしたのですから、ごもっともな事です。

 ささっ、御内儀様に似た御要望の上女中の似顔絵を描きましょう。

 透水先生。頼みましたよ」

 与三郎の言葉に透水絵師が頷いている。

「では、御内儀様の容姿をお話しくださいまし・・・」

 与三郎は菊之助の女房について説明を求めた。

「わかりました。私の女房は・・・・」

 菊之助は八重について話した。透水絵師はじっと菊之助の説明を聞いた。

 菊之助の話は四半時余り続いた。



 菊之助の説明が終わった。

 透水絵師は墨を含ませた筆で紙に目や鼻や口などを描き、あとから顔の輪郭を描いている。しばらくすると、

「お話から、口元、目元などを描くと、こうでしょうか」

 透水絵師は書きかけの似顔絵を菊之助に見せた。


 菊之助は透水絵師の描いた似顔絵に、今は亡き八重の面影を見い出した。

「まさに私の女房の八重です。

 このような上女中がいるなら、ぜひとも、私どもの商いを手伝って欲しいものです」

 菊之助は与三郎を見つめた。

「商いだけでよろしゅうございますか。加賀屋様のお世話もご所望なら、そのように言い含めますが、いかがでしょう」

 与三郎は、透水絵師が描いた上女中が、すでに存在しているような口振りだった。


 菊之助は与三郎の話に合わせた。

「そのような事まで、できますでしょうか」

 山王屋の番頭の安吉が、与三郎の言葉を捕捉するように、

「そこは加賀屋様の誠意次第というものでございましょう」

 とつけ加えた。

 はたと気づいて加賀屋の大番頭の直吉が言った。

「私どもも、それなりの用意がございます。

 山王屋さんのご要望どおりにしますので、何なりとおっしゃってくださいまし。

 旦那様。それでよろしゅうございますね」

 直吉はそう言って菊之助を見た。

「八重に似た上女中がいれば、商いにも張り合いが出るというもの。いかほど用意すればよろしゅうございますか」

 菊之助は、金に糸目はつけぬ、との態度で与三郎を見た。


 すると、与三郎は、

「しばし、お待ちください」

 と言って、背後に控えている番頭の安吉に耳打ちしている。

 そのあいまに菊之助は再び似顔絵を見た。

「誠に、良く描けている・・・。八重そのものじゃ・・・」


 与三郎が番頭の安吉と話を終えると、安吉が言った。

「これにて、私と透水は失礼いたします」

 安吉と透水絵師は菊之助と直吉に御辞儀してその場を去った。

 二人が去ると与三郎は、

「私どもは、似顔絵に似た上女中を探して、世話をしようと考えておりまして・・・」

 と言って、柏手を二度打った。



 奥座敷から柏手を打つ音が聞こえた。

 多恵(多恵に扮した佐恵)は茶菓の盆を持って、衣擦れの音を立てぬよう、開け放った控の間を静かに通り、伏し目がちに奥座敷へ歩いた。菊之助と直吉の前まで来ると正座して深々と御辞儀し、二人の前に茶菓を置いて再び御辞儀した。そして、顔を上げた。


「あっ・・・」

 化粧で顔を変えているものの、多恵の顔を見た直吉は、驚きのあまり言葉を失った。

「八重・・・」

 多恵を見る菊之助の目に、じわっと涙が溢れた。


 この女の顔はあまりにも八重に似ていると思っている菊之助が、多恵はよくわかった。 すみません、旦那様。やっと会えました。ふた月ぶりですね・・・。多恵の心の内に明かりが灯り、身体の芯が熱くなった。


「旦那様・・・」

 直吉は菊之助に声をかけて菊之助の膝に手を触れた。菊之助は多恵を見つめたままだ。

 無理もない。この女が、これほど亡くなった奥様に似ていれば、私とて勘違いする。


 直吉に膝を触れられ、菊之助は我に返った。懐から懐紙を取りだして涙を拭き、声を詰まらせた。

「この方が、あまりにも、亡くなった女房に似ているもので・・・」

 この女は与三郎の女房や妾には思えない。女が女中なら、ぜひとも女を譲って欲しいものだ・・・。


 旦那様。旦那様を騙してごめんなさい。でも、騙されててください。事を成した折は、全てを御説明いたします。それまで待っててください・・・。多恵はそう思って菊之助を見つめた。


「こちらは、山王屋さんの御内儀様ですか」

 直吉は、女の事を尋ねようとしている菊之助に代わり、そう尋ねた。

「私どもの上女中にございます。おもに私の身の周りの世話をさせております。

 伽こそしませんが、私の女房と言ったところでしょうか・・・」

 与三郎はそう言って多恵を見た。実際は、山王屋には与三郎の女がいる。その者が与三郎の身の周りの世話をしている。


 与三郎の言葉に、多恵は菊之助との夜ごとの睦事を思いだしてぽっと頬を赤く染め、眼差しを畳へ向けた。


 この恥じらいの仕草は八重そのものだ。しかも姿形は八重と瓜二つ・・・。この場に及んで、八重に似た他の上女中の斡旋を頼んで立ち去るなどできぬ・・・。このまま帰ってなるものか・・・。菊之助は、呉服問屋加賀屋の主などと気どっていられなかった。

「山王屋さん。ぶしつけをお許しいただき、お尋ねします。

 この方は、何と言う名でしょうか」

 菊之助の心は、八重を見初めた頃に戻っていた。


「名は、多恵です。私どもで上女中をするようになって、かれこれひと月になります。

 多恵の実家は武家でしたが、昨今の天下普請の賂事件に巻きこまれまして・・・」

 与三郎はそこまで話して口を閉じた。あとは推測に任せると言いたいのだ。


 天下普請の仕事の斡旋を巡って江戸市中に賂事件が頻発していた。呉服問屋の加賀屋は天下普請に無関係だったが、菊之助はそうした事件を耳にしていたため、与三郎の作り話を真に受けて、多恵の身に起きた不幸を勝手に想像した。

「誠に厚かましいお願いですが、多恵さんはこちらの御店で、どのような仕事をなさっておいでですか。もっと詳しくお聞かせください。御迷惑は重々承知しております。

 この通りです」

 菊之助はその場で与三郎と多恵に深々と頭を下げた。


 旦那様。もう一息です。はっきり、多恵を上女中に欲しい、と言ってください。がんばってください・・・。多恵は菊之助の話を歯がゆい思いで聞いていた。


「加賀屋様。頭をお上げくださいまし。

 多恵がここにいるのを、加賀屋さんはどうお考えですか」

 与三郎は菊之助を見て笑っている。

「どう言うことでしょうか」

 菊之助は、与三郎が何を言いたいか、わからなかった。


 菊之助の橫で、直吉が苛々しながら菊之助に代わって口を開いた。

「誠に申し訳ございません。

 加賀屋菊之助は、多恵さんを加賀屋の上女中に欲しい、と思うております。

 もう私はじれったくて、見てられませぬ。

 山王屋さん。いかがなものでしょう」

 直吉は山王屋与三郎を睨んだ。


「もう一度お尋ねます。

 多恵がここにいるのを、加賀屋さんはどうお思いですか」

 与三郎はじっと菊之助を見た。


 多恵も顔を上げて菊之助を見た。

 旦那様。お見合いです。顔合わせですよ。早く気づいてください・・・。


「それは、もしやして、顔合わせか・・・」

 多恵は山王屋の上女中だ。まさかそんな事はあるまい、と菊之助は思った。


「多恵は、私ども山王屋になくてはならぬ上女中にございます。

 しかしながら加賀屋さんが多恵を見初め、多恵も加賀屋さんに好意を寄せるならば、私どもは、多恵が加賀屋様に奉公することに否とは言いませぬ。

 ですが、今日明日から奉公して欲しい、と言われましても、私どもから多恵がいなくなりますと、この店も、私の日常も、支障をきたします」

 与三郎は、猫の前で魚を見せびらかすようにそう言って、菊之助を見た。


 多恵は笑顔で菊之助を見つめた。旦那様。多恵を上女中にしたい、と言ってください。それで、事がうまく運びます・・・。


「ごもっともな話です・・・。

 ですが、ぜひとも、私どもの上女中になって欲しいのです」

 菊之助は多恵をチラチラ見ながら、与三郎にそう答えた。


 多恵は恥じらいの笑顔になって俯いた。言えましたねっ、旦那様っ。涙がこぼれそうです・・・。これで私は旦那様の元へ行けます・・・。


「多恵は、加賀屋さんにお仕えしたいか」

 与三郎は優しく多恵にそう訊いた。

 多恵は涙をこらえて顔を上げた。

「加賀屋様がお望みなら、お仕えしとうございます・・・」

 多恵はそう言って頬を赤く染めた。旦那様と、また、ともに暮らせる・・・。


「それでは、多恵に代わる上女中が見つかりましたら、多恵を加賀屋さんへ奉公させましょう。その時は、私ともども加賀屋さんに伺いますゆえ、よろしくお願いいたします。

 多恵の仕度にかかりますお足はその折に」

 与三郎は多恵とともに畳に手をつき、菊之助と直吉に深々と御辞儀した。


「では、奉公の日取りが決まりましたら、文をくださいまし」

 菊之助と直吉も畳に手をついて、与三郎と多恵に深々と御辞儀した。

「わかりました。文を差し上げます」

 与三郎と多恵は、再び菊之助と直吉に御辞儀した。

「ではこれで、お暇しましょう」

 そう言って菊之助と直吉はその場から立ちあがった。



 与三郎と多恵は、菊之助と直吉を送って山王屋の前の通りへ出た。

「いろいろ、ありがとうございました。文を待っています」

 菊之助と直吉は、与三郎と多恵に深々と御辞儀した。

 与三郎と多恵も、菊之助と直吉に御辞儀した。

「必ず文を送ります」

「くれぐれもよろしくお願いします」

 菊之助と直吉は、呼び寄せた駕籠に乗って山王屋を去った。


 通りの先に駕籠が見えなくなると与三郎が言った。

「仕掛けに嵌まったな。十日ほど後に加賀屋に奉公してくれ。

 奉公して主に信用されたら、銭金が集まる日と金蔵の開け方を探って、盗みの日取りを手引きしてくれ。これまでのように全て姐御の采配どおりにするぜ」


 与三郎の言葉に多恵は驚いた。私は多恵に扮した佐恵だ。多恵が盗みの采配を振っていたとは何だろう。多恵は与三郎に騙されていなかったのか・・・。

 そんな事は、今はどうでもいい。なんとしても、父と多恵を斬殺した与三郎を北町奉行所に引き渡さねばならぬ・・・。



 五日後の晴れた午後。

 与三郎は多恵の奉公の日取りを文にしたため、馴染みの飛脚を呼んで日本橋呉服町二丁目の呉服問屋加賀屋菊之助へ文を送った。その様子を、向かいの旅篭の中村屋にいる多恵之介と麻の父の八吉が見ていた。八吉はただちに中村屋を出た。


 飛脚が立ち去ると、多恵は店の前に水を撒くため、店の外へ出て通りに水を撒いた。

 中村屋から八吉が出てきた。八吉は多恵に近づいて、他の旅篭について尋ねた。多恵は千住大橋南詰め中村町の幾つかの旅篭を指差しながら話し、己の奉公の日取りを伝えた。

 八吉は中村屋に戻り、山王屋を見張っている多恵之介に多恵の奉公の日取りを伝えた。

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