三十 愛しの八重
皐月(五月)四日。今にも雨になりそうな曇天の朝五ツ半(午前九時)。
八重さんが亡くなって、まもなく、ふた月ほどになる・・・
加代は加賀屋の店と座敷を掃き掃除しながら、八重を思いだしていた。
旦那さんも、八重さんを亡くして悲しんでる。きっと、八重さんを亡くした悲しみは心にポッカリ穴が空いたみたいで、どうやって埋めていいか見当もつかないんだろうな。
大番頭の直吉さんは旦那さんに、遊郭へ遊びに行くよう話してるらしいが、旦那さんは耳を傾けない。無理もない。旦那さんにとって、八重さんに代わる者はいないのだから。
八重さんはいい女将さんで、いい奥様だった。身も心も八重さんに勝る者はいない。あたしらが見てそう思うんだから、旦那さんはなおさらだろうな・・・。
加代の目に涙が溢れて畳に落ちた。加代は涙を拭いて、店と店の座敷の拭き掃除をはじめた。
「はあぁぁ・・・・」
加代に、帳場机の前に座っている菊之助から溜め息が聞こえた。
加代には、菊之助が、
『この下女たちは何だ。炊事、掃除、洗濯、全てが八重より劣っている。
容姿は言うまでもない。才も情緒も八重とは雲泥の差だ・・・』
と思っているように思えた。
店の畳を拭く加代に、帳場から大番頭の直吉の声が聞こえた。
「旦那様。奥様はあれだけの器量で才女でしたから、旦那様の気持ちは良くわかります。さりとて、後添いを探すにも、奥様ほどの者はおりませぬ。
近頃、巷では器量の良い才女の・・・・」
主の菊之助にお茶を運んできた直吉は帳場机の横に座り、加賀屋菊之助に口入れ屋を説明した。
口入れ屋は、雇用主に人材を斡旋して手間賃をもらう事を生業としている。
昨今、江戸市中では、口入れ屋が美人で才女の上女中を斡旋しており、奉公に上がった上女中たちは主に見初められ、妾になったり後妻になったりしている。
「旦那様。一度、口入れ屋に足を運んでみてはいかがですか」
直吉は真剣な面持ちで菊之助を見た。
菊之助は、八重が亡くなってからのふた月たらずを永遠のように感じていた。
八重は昼も夜も働き過ぎた・・・。夜は八重の求めに応じて睦事をし過ぎた。睦事も毎日でなく、せめて二日に一度、いや、三日に一度にすれば、八重の寿命は三倍に延びていたかも知れない・・・。菊之助は八重を思いだして涙ぐんで俯いた。
「旦那様。旦那様。だいじょうぶですかっ」
直吉の問いかけに、菊之助は顔を上げた。
「ああ、だいじょうぶだ・・・。八重を思っておった・・・。八重は昼も夜も、尽くしてくれた・・・。毎夜に伽を・・・」
夜の伽と聞いて、直吉は菊之助の言葉を遮るように言った。
「奥様は美しく才がありました。それは、それは、私たち奉公人に良くしてくれました。
奥様に代わる方がいるとは思えませんが、ただ、ここに座っていても、旦那様の気が休まるとも、奥様に代わる方がお客として現われるとも思えません。
物は試しです。旦那様の求める上女中を、口入れ屋に頼んではいかがですか。
ここはひとまず、これを・・・」
直吉は持ってきたお茶のお盆を、すっと菊之助の帳場机の橫へ滑らせた。そして、懐から山王屋から渡された刷り物を出して、そっと帳場机に置いた。
お盆から茶碗を取り、菊之助は直吉が帳場机に載せた刷り物を見た。そこには、山王屋が斡旋する上女中について書いてある。
「これは?」
菊之助は不審な顔で直吉を見つめた。
「器量の良い才女の上女中を斡旋する、と評判の口入れ屋です。
明後日、先方へ伺うよう話してあります」
「そうか・・・」
菊之助は気の無い返事と素振りだったが、直吉は、菊之助の心に小さな希望の明かりが灯るのを見逃さなかった。
「旦那様に無断で申し訳ありませんでした。
私は、旦那様の悩む姿を、見ていられなかったものですから・・・」
「そうか・・・。私を気づかってくれたか・・・」
直吉は、私の心を読んでいたか・・・。そう思いながら、菊之助は手にしている茶碗を口へ運んだ。
「明後日、六日昼八ツ(午後二時)に、旦那様が挨拶に伺う、と先方に伝えてあります。
直吉のこの行い、旦那様の容態を気づかってのことです。
どうか、平にご容赦くださいまし」
加代や奉公人がいるのも気にせず、大番頭の直吉は菊之助の帳場机の前に深々とひれ伏した。
直吉と菊之助の話は小声だったが、耳の良い加代には全てが聞こえていた。
奉公人に、直吉と菊之助の話は聞こえなかったが、直吉が菊之助の前にひれ伏すと、奉公人の目がいっせいに菊之助と直吉に向けられた。
菊之助は驚いた。これまで直吉から、このように遜った挨拶をされたことがなかった。
「これ、顔を上げなさい。そんなに畏まる事ではありませんよ。
気にしなくていいですよ。
私はね、そこまで私を案じてくれる大番頭のお前を、誇りに思いますよ」
菊之助は涙ながらに頷いた。
「では、この事、考えていただけますね」
直吉が頭を上げて菊之助を見た。
「考えていただけねば、思い悩む旦那様は、仕事もままならぬと言うもの・・・」
「わかりました。考えましょう。ありがとうよ。直吉」
菊之助は直吉に深々と頭を下げた。
「とんでもありません。旦那様こそ面手をお上げくださいまし・・・」
直吉は主に頭を下げられて困り果てた。
この事はその日のうちに、加代から、仕立て物(仕立てた呉服)を届けに来た麻へ、麻から木村玄太郎と麻の父の八吉へ、そして、円福寺の多恵之介に扮した八重へ伝わった。
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