二十九 山王屋の番頭安吉

 二日後。卯月(四月)三十日。快晴のその日。微風が吹いていた。

 呉服問屋にとって風は大敵だ。風に乗って土埃や砂埃が店に舞いこみ、呉服が汚れて台無しになってしまう。


 昼四ツ(午前十時)。

 日本橋呉服町二丁目の呉服問屋加賀屋の前で、番頭の平助と加代は通りに水を撒いていた。すると、加代と平助の前に二人の男が足を止めた。

「これはこれは、加賀屋の番頭の平助さんとお見受けいたします。

 手前どもは、千住大橋南詰め中村町で口入れ屋をしております、山王屋と申します。

 主は山王屋与三郎です。私は番頭の安吉、こちらは手代の富吉です」

 山王屋の番頭の安吉は、引き連れた手代とともに、平助と加代に挨拶した。

「口入れ屋さんが、私どもに何か御用でしょうか」

 平助は、何事かと思った。

 店に荷を運ぶ運脚は、地方の反物問屋や出入り業者が手配している。呉服を仕立てる加賀屋の手間賃が良いので、お針子をしたいと言う者が跡を絶たない。店の修繕に必要な人足は、修繕を専門に請け負っている隣町の大工の頭領八吉が手配している。


「加賀屋さんの御内儀様が亡くなって、御店はさぞやお困りと存じます。

 私どもで手助けできる事があれば、何なりとお手伝いたしたく、こうして、刷り物を用意してまいりました」

 山王屋の手代の富吉が、持っている風呂敷包みから木版刷りの刷り物を取りだして、山王屋の番頭の安吉に渡した。


 平助と加代は顔を見合わせた。

 まもなく、女将さんの八重さんが亡くなってふた月になる。確かに八重さんがいた頃より仕事の段取りに手間どっているが、八重さんが女将さんを務める前にくらべたら、仕事の段取りも手早さも、以前とは雲泥の差だ・・・。だけど、算盤や書き物はそうはゆかない。八重さんの算盤の速さと正確さ、達筆な筆捌きに勝る者は加賀屋には居ない・・・。


 互いに顔を見合わせた平助と加代に、山王屋の番頭の安吉は、

「いえ、いえ、押し売りではござんせん。

 加賀屋さんの御内儀さんが、御店の仕事を切り盛りなさっていた事は、お噂で伺っております。それらの仕事をこなせる上女中を手配して、皆様のお役に立てればと思っております」

 と言って、手代から受けとった刷り物を平助に渡した。刷り物には、斡旋する上女中は武家の娘で、見目麗しく算盤と筆に才長けており、これまで口入れした上女中は、主の後妻や妾(江戸期の妾は家族親族が認めた第二の妻である。現代の愛人とは違う)になったと記載がある。


 また平助と加代は顔を見合わせた。加代が平助に頷いている。

「ここで、待っていただけますか。大番頭に話してきますので」

「ようござんす。何なりとご相談ください」

 平助は、加代と安吉と手代を店の前に待たせて店に戻り、この口入れ屋、山王屋の話を大番頭の直吉に伝えた。



 帳場机に向う大番頭の直吉は、平助の話を聞きながら山王屋の刷り物を読んでいたが、すぐさま文をしたためて平助に渡した。

「これを山王屋の番頭さんに渡して、返事を聞いてください。

 中の文を見てはいけませんよ」

 直吉はそう言うが、すでに文は糊付けして封がしてあった。

「わかりました」


 店の外へ出た平助は、直吉がしたためた文を山王屋の安吉に渡した。

「では、これをご覧ください。大番頭の直吉が返事を待っておりますので・・・」

 山王屋の安吉は文を読むと文を懐に入れ、

「では、明日、お待ちしています、とお伝えしくださいまし」

 と言って、手代の富吉とともに深々と御辞儀し、その場を去った。


「ねえ、平助さん。文に何て書いてあったんだい」

 加代は不審な眼差しで平助を見た。

「わかりませんよ。糊付けして封がしてあったし、見てはならぬと言われましたから」

 平助も、文に何が書いてあったか疑問が湧いた。


 翌日。晴れの皐月(五月)一日。

 大番頭の直吉は昼四ツ(午前十時)に駕籠で出かけ、昼八ツ半(午後三時)に戻った。

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