二十八 口入れ屋の与三郎
八重の葬儀からひと月半余りが過ぎた。
卯月(四月)二十八日。晴れの明け六ツ(午前六時)。
「気をつけて行くんだよ。奉公が決まるのを待ってるよ」
「はい。行ってまいります」
多恵に扮した佐恵と多恵之介に扮した八重は、麻と木村玄太郎と、麻の父の八吉と丈庵住職に見送られ、人知れず湯島の円満寺を出た。向かう先は千住大橋南詰め中村町の口入れ屋、山王屋である。
朝五ツ(午前八時)。
多恵と多恵之介が千住大橋南詰め中村町に着いた。
「あの店だ。暖簾に『山王屋』とある。まちがいない」
多恵之介が、通りの半町ほど先の西側を目で示した。
「では、奉公が決まったら、昼四ツ(午前十時)までに店の前で水撒きをします。
あの旅篭から見ていてください」
多恵に扮した佐恵は、通りの東を示した。そこには、入り口の『飯』の暖簾の横に『中村屋』の看板が掛かった小さな旅篭がある。
「相分かった。では、私は先に旅篭に入る。
旅篭の二階から見ている故、気をつけて口入れ屋へ参られよ」
八重は言葉使いからして、若衆の木村多恵之介になりきっている。
「はい」
多恵はそう言って、通りの東側にある旅篭『中村屋』へ向かうのを見送った。
多恵之介が旅篭、中村屋に入った。
「朝餉を頼みます。
知古の者の到着を待っている故、昼まで二階で休ませて下さい」
そう尋ねる美しい若衆の多恵之介に、旅篭の下女が目を見張った。
「はあい・・・」
多恵之介の上背は五尺七寸と、並みの男より高い。そして美しい若衆姿だ。
「待ち人が現われるまで、日中、ここに詰めることになります。部屋を取っておいて下さい。休息代はまとめての払いか、日払いか、どちらですか」
「日払いで、お願いします」
「相分かりました。二階へ案内して下さい」
「はあい」
多恵之介は帯びている刀を外し、下女に案内されて二階へ上がった。脇差は腰に帯びたままだ。刀(打刀と脇差)は佐藤家に伝わる刀で、父の源助が佐藤源之介を名乗っていた当時と、仙台の与三郎一味に夜討ちをかけた折に使用した遺品だ。この刀を帯びると、多恵之介に扮した八重は、父の佐藤源之介を身近に感じ、守られている気がした。
二階に上がった多恵之介は、父を身近に感じたまま、通りに面した障子戸を開けた。
中村屋の二階の障子が開いた。多恵之介が通りを見下ろしている。
多恵之介の姿を確認すると、多恵は山王屋の暖簾を潜った。
「ごめんくださいまし」
この日の多恵は、風呂敷包みを抱え、今流行の紺地に浅葱色の小紋の小袖を着こなし、白足袋の足に雪駄を履いて、髪は玉結びで前髪を立てて膨らませた吹前髪だ。
「へい。どのような事をお望みですか。どのような者でも、私どもで手配いたします」
店の奉公人は、店先に立つ多恵の五尺七寸の上背と、目鼻立ちの整った器量の良さに目を見張った。
「あんたが、番頭の安吉さんかえ」
多恵は臆せず、睨むように奉公人を見た。奉公人の上背は低い。多恵より小柄だ。
「おや、私を御存じとは、いったいどちら様ですか・・」
番頭の安吉は一瞬考えた。そして、思いだして言った。
「まちがったらごめんなさいよ。
もしやして、器量の良さと上背から推察するに、多恵さんですかい」
安吉は驚きを隠せぬまま多恵を見つめた。
こいつが番頭の安吉だ。義父の調べによれば、日本橋南鍛冶町の錠前屋、獅子堂屋の番頭を務めていたが、先月、与三郎が江戸に出てくると、夜盗一味に加わった。与三郎の腹心の手下は、こいつだけのはず・・・。
「与三郎を呼んどくれ」
多恵は雪駄を脱いで白足袋の塵を払い、店の板の間に上がった。
番頭の安吉は板の間に座布団を敷いて、店の下女に茶菓を用意させた。
多恵は我家の居間で寛ぐように、出されたお茶を飲んで茶菓子を摘まんだ。
「おやっ、多恵姐さんではないかっ。よくここがわかったなっ」
店の奥から、多恵より背が低い痩せぎすの与三郎が現われて、多恵の前に座った。
与三郎は多恵たちが三つ子とは知らない。
初めて与三郎に会った折、佐恵は、佐恵に接近した与三郎に「多恵」と名乗った。与三郎を警戒してだったが、佐恵が多恵とすりかわっても、与三郎はその事にまったく気づいていなかった。
「三年前の如月(二月)二十日。町方の討ち入りで、皆、ばらばらに仙台から逃げたが、あんたは以前から、江戸に出ると話してたからね。
それに、いつでも逃げられるように、城下の外れに口入れ屋を開くとも言ってた。
三年前の如月(二月)二十日から今日まで、あんたを探した・・・」
佐恵は義父の木村玄太郎から、与三郎は仙台伊達家の手の者が仙台の山王屋を襲ったと思っている、と聞いていた。
「やはり器量の良さは、見た目だけじゃねえな。ここもだなっ」
与三郎は己の頭を指差した。
「当り前じゃないか。あんたに手土産だよ。
弥生(三月)十日に、日本橋呉服町二丁目の呉服問屋、加賀屋菊之助の女房が死んじまった。
主は女房無しの日がふた月近く続いてる」
「女房の死因は何だ」
「店の仕事と睦事で、疲れたらしい・・・」
「睦事が好きだったのは、女房と主の、どっちだ」
「二人とも好きで、毎晩だったらしい。それも、何度も・・・」
「それなら、事は簡単だな・・・」
「睦事のことかえ」
多恵は与三郎を見つめた。
「そうよ。女日照りがひと月も続けば、助平な主は女中に手を出す・・・。
すぐさま仕掛けに取り掛かっていいか」
この悪党は欲の皮が突っ張ってる。すぐにも夜盗に入る気だ・・・。
そう思って多恵は言った。
「まあ、いいだろうよ。加賀屋の主を手玉に取るのも、また一興さ。
おっと、忘れずに伝えておくよ。加賀屋の番頭は平助という名だ。晴れの毎日、下女のお加代とともに、店先に水を撒いてる。こいつから話をつけるといい」
「そこまで調べたんか」
「あんたに会うのに、手土産も無しじゃ、後々、何を言われるか、わかったもんじゃないからねえ」
「そうだな・・・」
与三郎は多恵を見て薄笑いを浮かべた。
こいつの頭ん中は銭金だけだ。人の事なんぞ、何とも思っちゃいねえ。それが証に、三年前は女たちを放ったらかして仙台から逃げやがった・・・。利用するだけして、後は野放しにすりゃあいいと思ってやがる・・・。
多恵は、与三郎の心の内を、今は亡き多恵の心を通じて感じていた。
「なんか、埃っぽいじゃないか。店の前に水を撒いたのかい・・・。
撒いてないんだね。ここんところ天気もいいから、ちょこちょこ水撒きしねえと、店の中が土埃だらけになるよ。あたしがちょいと撒いてくるよ。井戸はその奥だね」
多恵は店の横の土間を示した。
「来る早々すまねえ。ここで寝泊まりして、下女たちに、店の仕事と礼儀作法を教えてやってくれ」
与三郎は気楽に多恵に頼んだ。
「あいよ。そしたら、そこのあんた。名は何ていうんだい」
多恵は店の板の間を拭き掃除している下女に訊いた。外の通りに水を撒かなければ、土埃や砂埃がいくらでも入ってる。拭き掃除など切りがない。
「よね、です」
下女が拭き掃除の手を止めて多恵に微笑んだ。
「そしたら、およねさん。二人で店の表に水を撒こうか。水撒きすりゃあ、外から土埃は入ってこねえ。拭き掃除が少なくてすむさ」
そう言って多恵は土間の雪駄を履いた。
向かいの旅篭で多恵之介が、水を撒くあたしを待っている・・・。
その後まもなく、多恵とよねは手桶に水を汲んで山王屋の表の通りに水を撒いた。
二人が水撒きする様子を、向かいの中村屋の二階から、多恵之介が見ていた。
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