二十五 奉公人への慰労の宴
文月(七月)二十日。文月(七月)の商いの締日が終わった。
文月(七月)二十一日。今日は、ひと月にわたって仕事をした奉公人への慰労の日だ。
朝五ツ半(午前九時)過ぎ。
「お加代さん。ここは、こんなものでいいいですか」
大番頭の直吉が皿を詰めた箱を台所の隅に置いた。古い大福帳などの和紙に包んだ一枚一枚の皿が大きな皿箱にお納めてある。箱は重くて下女の手では動かせない。
「いいですよお。大番頭さんは手慣れてますねえ。家でもこういうことをなさるんですねえ。御内儀さんも助かりますよねえ」
加代は下女たちと流しで皿を洗いながらそう言った。
「ええ、まあ、女房を大事にせぬと、後が怖いですからねえ」
そう言って直吉は、番頭の平助が土蔵から台所に運んできた、もう一つの皿箱を台所に置いた。
大番頭の直吉は家で手が空いている折、女房の美代の家事を手伝っているが、店では下女たちの仕事を手伝ったことはない。
だが、八重が加賀屋菊之助の御内儀になって以来、八重の説明に納得した菊之助は、手が空いている折はみずから奉公人とともに拭き掃除から片付け、洗い物までするようになった。こうした主の姿を見れば、大番頭も番頭も主同様に動くようになり、奉公人も上に続けである。結果は、上の者が奉公人に命ずる事が無くなり、同時に、奉公人みずから気を利かせて仕事をするようになった。加賀屋は内部も接客も以前とは状況が変わり、加賀屋の評判は高まった。
そして、今日は、奉公人たちのひと月の労をねぎう慰労の日である。加賀屋の評判が高まった今月は、いつにも増して商いは増えていた。全てが加賀屋の御内儀になった八重のおかげだと大番頭の直吉は思っていた。
八重は加賀屋を見てまわった。
今日、八重に扮しているのは佐恵だ。今宵の宴の準備で長屋に帰れなくなった場合を見越し、佐恵みずから今日一日、八重に扮して行動する、と八重と麻に申し出ていた。
八重は菊之助がいる帳場へ行った。店とそれに続く座敷で、菊之助は先頭となって奉公人とともに拭き掃除し、昨日までに確認した在庫の呉服の整理をしていた。このまま菊之助が奉公人を家族のような思いで扱えば、いざ事が起こった折は、皆が加賀屋のために動くだろう・・・。
夜盗は御店に銭金が集った締日後の、奉公人たちの注意が薄らぐ、奉公人への慰労の宴の夜を狙うはず・・・。今宵、何時に奉公人たちの注意が薄らぐか見定めねばならぬが、あたしは惚れた菊之助との睦事で、奉公人たちの動きなど目に入らぬやも知れぬ。
しかしながら、義姉上も多恵之介に扮したあたしも、与三郎の居所を探したが、未だ見つけていない今なら、それも許されるだろう・・・。義父上の木村玄太郎からも、義伯父上の八吉さんからも、与三郎の居所の知らせはない。与三郎はまだ江戸に出てきていないのかも知れない・・・。
そんな事を思いながら、八重は台所へ行った。
「鰆、焼けたよっ」
番頭の平助の威勢の良い声が聞こえた。台所の土間の焼き台で、平助は手代の勘助や三吉とともに、四台の焼き台で魚介類を焼いている。加賀屋の総勢は、奉公人は男が二十三人、下女が九人、そして菊之助と八重の、計三十四人。焼く魚介類は三十四人分である。
今月は菊之助と八重の祝言があったため二度目の宴だ。奉公人たちにとって祝言と慰労は、盆暮れ正月と月々の祭りや行事につぐ楽しみだった。
「平助さん。焼き方を増やしましょうか」
八重は、膳を拭いている奉公人たちを焼き方にまわそうと思った。
「こちらはなんとかなります。洗い物を手伝ってやってください。
朝餉の片付けと、昼餉と宴で使う器の用意で女たちが大忙しです」
平助は、皿を配膳台に並べて焼きあがった魚介類を皿に盛りつけている奉公人たちを示した。見るからに奉公人の吉造と義太たちの箸裁きがおぼつかない。
「わかりました。私が洗いをしますよ」
女だ男だなどとの区別なく奉公人を使って仕事の効率を考えねば、無駄に時を費やすだけだ。平助はまだ奉公人たちをうまく使えていない・・・。そう感じながら、八重は、洗い物をしている加代の隣に立って、皿を洗いはじめた。
「すみません。女将さん。女将さんの采配のおかげで、みんな、大助かりですよ。
これまでは男手がほしくても、奉公人の手の空いた時しか手助けしてもらえなかったんですよ。なかには手が空いてても、手助けしないのもいますからねえ」
加代は、焼き台に向かって魚を焼いている平助を目配せした。
「どうかしましたか」
と八重は皿を洗いながら、小声で訊いた。
「焼き方なんて、いつも手代の勘助と三吉さんと他の奉公人たちがやってたんですよ。
せっかく女将さんが、あたしたち女と男衆が分け隔てなく仕事をするように采配してくれたんだから、いっしょに洗い物すればいいのに、気が利かないんですよお」
加代は平助に不満らしくそう言った。加代から、もっと平助が傍にいてくれたらいいのに、との思いが八重に伝わってきた。平助を見ると、洗い場の加代の傍にいたいが他の下女たちを気にする、平助の思いが伝わってきた。
「平助さんは、女御たちの間に入って皿を洗うのが恥ずかしいんですよ。
そしたら、こうしましょう」
配膳台で膳を拭いている達治は洗い場の下女の一人を好いている。
洗い場の下女の奈美と福は、配膳台の奉公人たちを好いている。
八重は、焼き台の平助と配膳台にいる達治に、大きな声で言った。
「平助さんと達治さん。洗い場の奈美さん福さんと交代して器を洗ってください。
奈美さんと福さんは配膳台で、お膳拭きと焼き魚の配膳をしてください」
ただちに皆から、
「へーい」
と声がする。
「吉造さんと義太さんは、お膳拭きと焼き魚の配膳を奈美さんと福さんに任せて、焼き台を手伝ってください」
「ヘーい」
二人の返事を聞いて八重は、
「では、私は配膳台で菜の盛りつけをしますね」
と言って加代に微笑んだ。
「はあい、女将さん。これで、仕事がはかどりますねえ」
加代は八重を見て微笑んだ。
気心合う者同士で仕事をするのが一番はかどる。女将さんはよく御存じだ。これから加賀屋のみんなはもっと働きやすくなる、と加代は思った。
暮れ六ツ半(午後七時)。
夕七ツ(午後四時)に始まった慰労の宴が終わった。
いつも八重は、朝餉後の朝五ツ(午前八時)と、夕餉後の暮れ六ツ(午後六時、日没の三十分前)に長屋へ帰っている。
慰労の宴で長屋へ戻る刻限が遅れたが、八重は暮れ六ツ半(午後七時)に長屋に帰って麻と多恵之介に事の次第を伝え、父と多恵の位牌に線香をあげて合掌し、皆が無事に事を成せるように祈って長屋を出た。
加賀屋に戻った八重は、片付けの途中で長屋へ行ったのを詫びた。奉公人たちが何か話そうとしたが、八重は気にせずにてきぱきと慰労の宴の後片づけをし、その後、いつもの様に下女たちと湯屋へ行った。
「今宵も伽をなさるんですかあ」
湯屋の帰り、加代が八重に小声で訊いた。八重はごく自然に答えた。
「はあい。旦那様が求めるなら」
菊之助と八重の毎夜の睦事を、奉公人の皆が知っている。
八重を妻に迎えて以来、奉公人たちを見る菊之助の眼差しは、今まで以上に優しくなっている。主は良き嫁を得たものだ・・・。仲睦まじきは美しきかな・・・。奉公人たちは菊之助と八重を暖かな目で見守ってる。
「旦那さんは八重さんにぞっこんですねえ」
「はあい。私もぞっこんですよ」
「もうおっ。でも八重さんが話すと、当り前に聞こえるから、ふしぎですよお」
「そういうお加代さんも話がお上手ですよ。わかりやすくて当り前に聞こえますよ。
本来は、お加代さんが上女中をなさっていた事でしょう。でも、平助さんがいるから、旦那様はそのようにはしなかった。
ところで、長屋暮らしをなさる気はないのですか」
菊之助は八重と祝言を挙げて以来、平助と加代の祝言を挙げて二人に長屋住いをさせ、加賀屋に通い奉公するように話していた。
だが、加代と平助は住み込みの奉公を望んだ。加賀屋に奉公している間は、その方が働きやすいからである。
「長屋に住んで平助さんと寝起きするのは、とってもうれしいですよお。
だけど、奉公している間は加賀屋から目を離せません。平助もあたしも、そういう質なんですよお」
加代は世間話するように話して小声で、
「平助さんと、いつもいっしょに仕事していられるようにしてくださいねえ」
と言った。
「はあい。そのように計らいますねえ。やはり、お加代さんは話がお上手です」
八重はそう言って加代に微笑んだ。
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