二十六 御内儀と睦事
八重が加賀屋に嫁いで以来、加賀屋は変わった。
『加賀屋は客に対する態度が低姿勢で、客の事を考えて商いをしている・・・。
御内儀が御店の采配を振っている。奉公人思いだ・・・。
分け隔てせず、主みずから奉公人とともに働いている・・・。
御内儀は情け深くて見目麗しく、文を書くにも、算盤を弾くにも、一方ならぬ才がある。おまけに主への情が深い・・・。
良き品を安く売るようになった。一番の客思いだ・・・。
御内儀が加賀屋を大きく変えて、評判の御店にした・・・』
八重が加賀屋に嫁いで一年も経たぬうちに加賀屋の評判は高まった。
だが、八重は巷の噂に耳傾けず、日々、奉公人とともに台所や拭き掃除などの下働きから帳場の大福帳の管理まで、店のあらゆる仕事をしていた。この事は、さらに加賀屋と八重の評判を高めた。
八重が加賀屋に嫁いで一年と八ヶ月が過ぎた。
弥生(三月)五日。夜四ツ半(午後十一時)過ぎ。
「八重、やえ。やえ・・・」
褥の菊之助は八重を抱きしめて耳元で八重を呼んだ。
八重は睦事の最中に目を閉じたまま何も話さなくなった。手足から力が抜けて口元から僅かに涎が垂れている。今月に入って三度目である。
「やえ・・・、やえ・・・」
菊之助は心配だった。連日の仕事と激しい睦事で、八重は疲れ切っている・・・。
八重が目を開けた。
「ああ、旦那様・・。あまりの心地良さに、眠ってしまいました。
いつものように、ゆっくり優しくしてください・・・」
「わかった。これでいいか・・・。ここだな・・・」
菊之助は八重の求めに応じた。
「そうです。そう・・・、ゆっくり・・・、ゆっくり・・・。
ああっ、八重が旦那様を受けとめます。そのままつづけて・・・。
熱くなって溶けてしまいます・・・」
八重は菊之助の腰に脚を絡め、菊之助の背に腕をまわして抱きしめた。
「私は・・・、もうっ・・・」
菊之助は耐えきれなくなった。
「アアッ、きてくださいっ」
八重は手と脚で菊之助を引き寄せて菊之助をしっかり受けとめた。
「やえっ・・・」
二人はともに抱きあって昇りつめ果てた。
「やえ・・・」
「はあい。なんでしょぅ・・」
八重は菊之助の目を見つめた。
「このままでは、八重の身が持たぬのではないか。毎夜ではなく二日に一度にせぬか。
さもなくば、毎夜、気が逝ってしまう睦事を、一度ならずも、二度三度とくりかえしては八重の身が持たぬゆえ・・・」
「そうは言っても、熱い旦那様を受けとめて私の身も心も暖こうて、この上なく心地良うございます。一度ならず何度も熱い旦那様を受けとめとうございます」
八重は菊之助の背を撫でて愛おしんだ。
「もう一度、お情けを・・・」
八重は菊之助にすがって唇を重ねた。
ここまで八重にせがまれては、むげには断れぬ菊之助である。
「だいじょうぶか。さきほどは手足と腰から力が抜けておったぞ」
「はあい。もう、こんなに・・・」
八重は菊之助の手を導いた。
「わかった。先ほどより優しくする。激しく気を逝かせてはならぬゆえ・・・」
「はあい。うれしゅうございます・・・」
八重は菊之助を引き寄せて抱きしめた。愛おしいと思った。菊之助の八重に対する気持ちも、八重と同じだった。二人は互いに、ぞっこんだった。
翌日。晴れの弥生(三月)六日。朝五ツ(午前八時)。
八重が長屋に帰った。
いつも、八重(八重に扮した佐恵)は、朝餉後の朝五ツ(午前八時)と、夕餉後の暮れ六ツ(午後六時、日没の三十分前)に長屋へ帰っている。
今朝は長屋に、義父の木村玄太郎がいた。
「義父上。いつ、こちらに」
「昨夜だ。与三郎の居所が知れた故、急いで参った。
『与三郎が千住大橋南詰め中村町に口入れ屋の山王屋を開いた』
と聞いたから、ここに参る道中、千住大橋南詰めで口入れ屋、山王屋を探った。
確かに主は与三郎だ。他に男が三人と下女が四人いる。
三人の男は立ち居振る舞いからして商人ではない。無頼漢だ。盗っ人の一味だろう」
玄太郎は八重に扮している佐恵に、探索の結果を説明した。
麻と、多恵之介に扮していた八重と、麻の父八吉は、すでに玄太郎の探索結果を聞いて今後の謀を打ち合わせていた。
「ところで、御内儀の暮らしは如何か」
玄太郎は、着換えはじめた佐恵に訊いた。
「姉上からお聞きと存じますが、とても良うございます」
佐恵はごく自然にそう言って、育ての親である義父の玄太郎に、幸せに満ちた顔で微笑んだ。
「毎夜、何度も睦み合うていると聞いた。互いに相性が良いのだな。
私と妻の香織と同じじゃ。疲れる故、気をつけるのだぞ」
玄太郎は、八重たち三姉妹の情の深さを、八重と今は亡き実父の源助(佐藤源之介)から聞いている。
「はあい。今も、疲れております・・・」
佐恵は若衆の着物に着替えて、ほっと満足と幸せに満ちた溜め息をついた。
玄太郎は佐恵に頷いて、座っている膝元の小袋を佐恵に渡した。
「よく眠れるように、産婆の梅から薬を預かって参った。
一粒で一日、二粒なら二日、ぐっすり眠れる。死んだようにぐっすりだ。
当初は、与三郎の居所を見つけて、与三郎に加賀屋の内情を知らせ、夜盗に入った与三郎を町方に捕縛させる予定であったが、佐恵が菊之助の御内儀になったゆえ、この薬が必要であろう」
そう言って玄太郎は、御内儀の着物に着替える島田髷の八重と、佐恵の島田髷を総髪茶筅に結い直す麻、麻の父の八吉に頷いて、佐恵に今後の謀を説明した。
説明を終えて玄太郎は言った。
「すでに、加賀屋の菩提寺には話をつけた。住職は、
『加賀屋の先祖も、嫁の仇討ちに助太刀するだろう。天気の良い日取りを選ぶように』
と納得して助言しおった。
有り難いことだ」
「わかりました。その折まで、義父上はここに留まってくださりませ」
「ああ、もちろんだ。八吉さんとともに佐恵を守る故、安心いたせ」
玄太郎は八吉を目で示した。大工の八吉には頼む事がある。
「わかりました。我が命、義父上と義伯父上に預けまする」
佐恵の態度は毅然としていた。
「では・・・・」
八重と佐恵は、父源助と妹多恵の位牌に線香をあげて合掌し、祈った。
「では行ってまいります」
祈りを終えると八重は長屋を出た。
八吉と麻と、多恵之介に扮した佐恵は、玄太郎を長屋に残して、長屋の隠し扉を抜けて隣の長屋に戻った。
長屋の外で、八重は隣の長屋に小声で伝えた。
「お麻さん、留守を頼みます」
「はい。気をつけていっといで」
隣の長屋に戻った麻は小声でそう言った。
朝五ツ半(午前九時)前だった。
加賀屋に戻る道中、八重は円満寺の丈庵住職との打ち合わせを思いだした。
加賀屋の菩提寺は湯島の円満寺だ。
打ち合わせで話した八重の謀に、丈庵住職は、
「わかりました。加賀屋の馴染みの町医者竹原松月に話を通しておきますが、如何ですか」
と言った。
「打ち合わせが町方役人へ漏れませぬか」
心配する八重に、丈庵住職は、
「竹原先生は北町奉行所の検視医。お役目の筋は他言無用と心得ておりましょう。
今回の謀も、いわばお役目の一つ。全てを話して納得してもらうのが良きかと・・・」
と答えた。
「わかりました。御坊にお任せします」
「御仏の教えはともかく、御公儀も仇討ちを許す世です。
なあに、全ての事が終わったら、私から菊之助様に話して納得していただきましょう」
丈庵住職は八重と木村玄太郎、そして麻と父の八吉の思いを理解していた。
「さて、棺桶は、息抜きができませぬといけませぬ・・・」
「わかりました。雨水が染みこまず、さりとて、息が詰まらぬように作ります」
大工の八吉は住職の意図を理解していた。
「では、日取りが決まり次第、連絡してくだされ」
住職は八重たちに微笑んだ。
八重は気持ちを、丈庵住職との打ち合わせから、加賀屋の女将に切り換えた。
加賀屋に戻った八重は、掃除や洗濯、台所仕事などをしながら、呉服の仕入れと販売と在庫の管理、機織りと呉服の仕立ての外注管理を考え、大福帳に算盤を入れてまちがいがないか確認し、常に一つの仕事をしながら、店の内外にわたる他の仕事や、次の仕事の段取りを考えていた。
奉公人とともに働く八重に、奉公人も感心した。八重の言動は全てにそつがなく嫌みがない。ありふれた話を聞いていても面白い。ついつい話に引きこまれて、いつのまにか、八重の話すとおりに仕事をし、無駄なく今までより短時間で仕事を終えている自分たちに驚く有様だった。
八重は店の者たちから好かれ、慕われた。
弥生(三月)十日。明け六ツ(午前六時)の晴れた朝。
八重が褥を片付けながら倒れた。異変に気づいた菊之助が八重を抱き起こしたが、虫の息だった。
ただちに神田佐久間町の町医者竹原松月が呼ばれたが、竹原松月は八重の脈を取って首を横に振った。八重は息をしておらず脈も無かった。
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