二十四 御内儀と奥様と女将さん
文月(七月)四日。朝五ツ半(午前九時)前。
八重は加賀屋に戻った。
「お帰りなさい。女将さんっ」
八重が、障子戸を開け放った加賀屋の店先に入ると、店の土間で、加代や番頭の平助たち奉公人が笑顔で八重を迎えた。
「ただいま帰りました」
八重は皆に挨拶して、下女たちに店の座敷の拭き掃除がすんでいるか確認した。
拭き掃除がすんでいるのを加代から聞き、八重は奉公人たちに呉服を畳に並べるように話し、大番頭の直吉と番頭の平助に、仕入れと売りの帳尻が合っているか、大福帳を確認するように言った。そして、店の入り口内側の長押しの暖簾掛け釘に掛けてある加賀屋の暖簾の竹竿を取り、店の入り口の軒下の暖簾掛け釘に掛けようと外へ出た。暖簾を出す刻限前だった。
番頭の平助は、帳場に座るために座敷に上がろうとしていたが、慌てて土間の雪駄を履いて外へ出た。
「わたしが掛けますっ」
八重から暖簾の竹竿を受けとると、店の軒下の暖簾掛け釘に暖簾の竹竿を掛けた。
「八重さんは加賀屋の御内儀で、旦那様の奥様です。わたしらの女将さんです。仕事の采配を振るって、わたしらに仕事を言いつけてくださいまし」
平助は深々と八重に御辞儀して奉公人の至らぬ行ないを詫び、叱られるのを覚悟した。
「何を言うのですか。暖簾はこの加賀屋の顔です。主が己の顔を奉公人に洗わせますか。
主やそれ相応の者が暖簾を掛けずして、如何するのですか。
これまでずっと気になっていたのですよ。これからは旦那様に暖簾の掛け外しをお願いします。この事、皆さんは気にせずにいてくださいね。
旦那様にも、それなりの事をしてもらわねば、困りまする」
八重はそう言って、店の外に出てきた奉公人たちを見て微笑み、加代に目配せした。奉公人たちは納得して頷いている。
八重さんは旦那さんに、もっと動きなさいよ、と話す気なんだ。旦那様は八重さんにぞっこんだから、必ず言う事を聞くだろう。旦那さんも良い奥様をもらったものだ・・・。
そう思いながら、加代は、
「御店の外ですから、中に入りましょうね」
と八重と番頭の平助と奉公人たちに、店の中に入るよう手招きした。
加賀屋の店開きを待つ客が、店の前にちらほら現われている。こんなところを見られて良くない噂が広まったら大変だ・・・。八重さんが与力の藤堂八郎様の側室だったのは、北町奉行所の奉行をはじめ一部の役人しか知らないと聞いている。加賀屋でその事を知っているのは旦那様と大番頭の直吉と番頭の平助と、このあたしだけだ。だけど、何かきっかけがあれば、その事まで悪評の種になりかねない・・・。
加代の心配を知ったかのように、加賀屋の開店を待つ客から呟きが聞こえた。客たちは加代の心配をよそに、
「加賀屋の御内儀は読み書き算盤に長けた才女だ・・・」
「見目麗しく器量の良さに加え、奉公人をいたわる情けがあり、商いの才に長けている」
「主思いの御内儀と聞いている。加賀屋菊之助も幸せ者だ」
と口々に八重を誉めたたえている。客たちは皆、上女中として働く、これまでの八重の評判を聞いていた。
取り越し苦労だったかしら、と思う加代の横で、八重は、
「加賀屋の開店の刻限になりますので、どうぞお入りくださいまし」
と言って、加代や平助や奉公人たちとともに客に御辞儀し、客を店に案内した。
昼四ツ(午前十時)の鐘が聞こえた。
その後。
開店時と閉店時の客の出迎えと見送りは加賀屋の恒例になった。天候に関わらす、客を出迎えて送り出す加賀屋の恒例は評判になった。
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