二十一 妻問い

 水無月(六月)十五日。曇天のその日。朝五ツ半(午前九時)前。

 まもなく、長屋から八重が加賀屋に戻る刻限だった。

「お加代。八重さんはどうですか」

 座敷で拭き掃除する加代に、番頭の平助が座卓の大福帳を見ながら訊いた。八重が大福帳のまちがいを見つけたため、平助は店の帳場を大番頭の直吉に任せ、店に隣接した座敷で大福帳を再確認している。

「はあい。覚えは早いし、機転は利くし、いつも先を読んで、あたしらの仕事の采配を振ってますよ。それでいて、みんなに優しいんですよお。歳は若いのに女将さんですよお。

 帳場の方はどうなんですか」

 加代は拭き掃除の手を止めて平助を見た。

「帳場は大助かりですよ。算盤は速くて数字のまちがいは無いし、字も綺麗でまちがいが無い。大福帳の確認で、私たちのまちがいを幾つも見つけてくれましたよ。

 旦那さんより、商いに向いているかも知れません。

 いっそのこと、旦那さんに代わって帳場に座ってもらえたら、と思いますよ」

 平助は、八重の正確で早い算盤と綺麗な字を思いだして、そう言った。


「そんな事させたら、あたしたちと旦那さんの世話を、誰が焼くんですか。一人で三役はできませんよ」

「そうは言っても、今までお加代は二役してましたよ。八重さんが帳場に座るようになったら、下女の采配は、今までのようにお加代が振ればいいんですよ」

「そしたら、あたしはいつまでもここで働くことになって、暖簾分けが遠のきますよお。

 八重さんに女将さんになってもらえば、八重さんはもっと働きやすくなるのにねえ」

「御内儀ですか・・・」

「いっそのこと、みんなで、八重さんと旦那さんを夫婦にしたらいいですよお」

「八重さんの気持ちを確かめねばなりませんね・・・。

 八重さんは旦那さんをどう思っているか、知ってますか」

「嫌ってはいませんよお。心根は旦那さんより大人ですよお」

「そしたら、こうしましょう・・・」

 平助と加代は、手筈を打ち合わせた。



 朝五ツ半(午前九時)。

 長屋から戻った八重は店の奥の座敷で、座卓の大福帳を見て算盤を弾いた。

「八重さん。旦那さんがお呼びですよお。

 奥で待ってますよお。

 茶菓をお持ちしますねえ」

 加代はいつものように八重に微笑んだ。

「はあい」

 加代に答えて、八重は廊下伝いに奥座敷へ向かった。

 同時に、店の帳場から座敷を抜けて、菊之助がいそいそと奥座敷に歩いてきた。奥座敷で待っているはずの菊之助は店にいた。加代が主の居所を知らぬはずはない。八重は妙だと思った。



 奥座敷には座布団が二枚敷いてあった。しかも、床の間を横に見て相向かいに座るように敷いてある。これはいったい・・・。

 八重がそう思っていると、菊之助が座布団に座って、

「お話というのは何でしよう。何か困ったことでもおありですか」

 と穏やかに八重を見ている。

「旦那様からお話がある、とお加代さんが話していましたが・・・」

 八重はそう言って気づいた。お加代と平助だ。二人は何か企んでいる・・・。


「お待たせいたしました。茶菓をお持ちいたしました」

 番頭の平助が加代とともに廊下から奥座敷に現われた。加代は茶菓を二人の前に置き、

「直吉さあん」

 と加賀屋の大番頭の直吉を呼んだ。

「はーい」

 と声がして奥座敷の襖が開いた。隣の座敷から大番頭の直吉と女房の美代が現われた。直吉夫婦と平助と加代は、八重と菊之助の下座に正座した。


「おやおや、話があるというのは、八重さんではないのですね。

 ははあ、わかりましたよ」

 菊之助はその場の雰囲気から、大番頭の直吉と美代の夫婦、平助と加代が、何を言おうとしているか納得した。

 菊之助は、加代が置いた茶碗を手に取った。御茶を一口飲んで茶碗を茶托に置き、八重を見つめた。

 直吉夫婦と平助と加代は、固唾を呑んで菊之助を見つめた。


「八重さん。私の妻になってください」

 菊之助はじっと八重を見てそう言った。直吉夫婦と平助と加代は、ほっとした。ここまでは思い通りになった・・・。


 八重は茶碗を手に取った。ゆっくり口元へ運んで、これまたゆっくりお茶を飲み、茶碗を茶托に置いて思った。やはり、奉公人が動いた・・・。

「やはり・・・」

 やはり、八重さんは私に嫁ぐ気は無い、と菊之助は思った。嫁ぐ気があれば、茶など飲まずに快諾したはずだ。これで全てが終わった。奉公人がお膳立てした私の申し出を断った八重さんは、この店にいるのが気まずくなって、ここを出てゆくだろう・・・。

 菊之助はそう思った。

 菊之助の思いを知ったように、直吉夫婦と平助と加代は、まずいことになったと思って畳に目を落とした。


 八重は意を決したように、じっと菊之助を見つめた。

 その眼差しに、菊之助はぶるっと身震いした。八重さんは私の思いを見透かしている。そして、奉公人たちが私に八重さんを口説くように仕向けたのも承知している・・・。


 八重は、菊之助の心の内を見透かしたように微笑み、お茶請けの落雁を摘まんだ。そして、落雁を食べると、また、お茶を飲んで茶碗を茶托に置いた。

「床入りは祝言がすんでからです。それまでは、臥所は今まで通りですよ。

 約束を違えて睦事を強いしたら、私とお加代さんが書き付けを北町奉行所へ届けます。

 それで、良いですな」

 そう言って八重は菊之助に微笑んだ。


「・・・」

 奥座敷にいる皆が呆気に取られて言葉がなかった。菊之助も直吉夫婦と平助と加代も、己たちの心が、八重の手玉に取られていたのを実感した。

「祝言は来月、文月(七月)三日頃にしましょう。商う呉服の品が変わって、御店が落ち着いた時分ですよ・・・」

 八重は、梅雨明けの呉服の商売を見越してそう言った。

「ごもっとも、ごもっとも。八重さんの言うとおりですよ」

 菊之助はそう言ったが、なぜ、奉公してひと月余りの八重が加賀屋の商いの習慣を知っているか、直吉夫婦と平助と加代は、疑問にも思わなかった。

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