三 一目惚れ

 八重が十四の初夏。皐月(五月)二十日。

 日本橋元大工町に長屋住まいした源助と八重は、人別帳の届けに北町奉行所へ行った。源助と八重は、父と娘だけの人別帳の記載手続きに手間どった。

 見かねた与力の藤堂八十八は、子息で与力見習いの藤堂八郎を紹介して、人別帳の記載手続きを手伝わせた。源助は母の奈緒と次女の多惠を離縁した、と人別帳に記載した。

 源助と八重は、穏やかに説明する物腰の柔らかな八郎の雰囲気と態度、そして体躯に目を見張った。それは、上背もあって器量の良い八重を見る八郎も、同じ思いだった。二人は相思相愛、互いに一目惚れしていた。八重は十四歳。八郎は十九歳だった。


 八郎の助力で、源助と八重は事無く人別帳に記載をすませた。

「こたびは御子息の助けにより、無事に記載できました。

 御子息はいい若者ですなあ・・・」

 源助は藤堂八十八に礼を述べながら、八郎に好感を抱いている八重の心の変化を見逃さなかった。

 八重は江戸に着く前から母と多恵の愚痴を聞かされ、さらに、長屋に着くや不平不満を並べ立てる二人に、ほとほと嫌気がさしていた。そんな八重が八郎を見るや、雨雲が立ち去った青空のような、心からの笑顔になったのである。


 八重は上背があって五尺三寸を超えている。まもなく私の五尺五寸を越すだろう。そうなった折、男は己より上背がある女を相手にはすまい・・・。

 藤堂八郎の背丈は六尺に近い。立ち居振る舞いといい、容姿といい、良き若者だ。八重が気にかけるのも無理はない・・・。

 この私が武家なら藤堂八郎に、八重を妻にして欲しい、と願い出ているだろう・・・。 しかし、私は堅苦しい侍の世界から足を洗って武家から町人になった身だ。今さら武家へ嫁ぐなど、八重は考えているだろうか・・・。

 いずれ八重が誰かに嫁ぐとしても、まだ歳月がある。いつまでも長屋暮らしにはしておけぬ。なんとかして八重の思いを遂げさせてやりたい・・・。

 そう思う源助は、藤堂八十八と指物について話しながら、北町奉行所の外へ歩いた。源助と藤堂八十八の前に、八郎と話しながら歩く八重の姿がある。


「それでは、気をつけて帰りなさい」

 北町奉行所の門を出て、八郎は八重にそう言った。

「なにかとありがとうございまする。そうは言っても、元大工町は、ここ北町奉行所から呉服橋を渡れば、すぐそこ。心配には及びませぬ。

 何かの折には、ぜひ、元大工町の指物師の源助をお訪ねくださいませ。

 父は仕事で出かけていても、私はいつも長屋におりますので・・・」

 八重は俯き加減にそう言って、いつまでもこの人の傍にいたい、との心の内を伝えた。


 八郎は八重の気持ちがわかった。

「分かり申した。八重さんの気持ち、しかと受けとめました。都合がついた折に寄らせて頂きます。

 しかしながら、御用の筋で、何かと北町奉行所を空ける事が多いものでして・・・」

 そう言って俯く八郎を、八重は見上げた。八郎は八重より頭一つ分背が高い。

「事件が多いのですね」

「まあ、そういうことです。まだ、与力見習いですが、する事は与力と同じです・・・」

 そう言ったあとで、八郎は背後の父が気になった。与力見習いのする事が与力と同じなどと言ったため、父から咳払いの一つもされるだろうと思っていたが、藤堂八十八は源助と指物について話していた。


「では、ここで」

「はあい。ありがとうございまする」

 八重がそう言って八郎に御辞儀すると、背後から藤堂八十八の声がする。

「源助さん。長屋はここから目と鼻の先じゃ。私はここで失礼しますよ。

 見習いと違うて、与力の仕事があります故。

 八郎。八重さんを長屋まで送って参れ。戻る頃には閉門の刻限故、そのまま八丁堀に帰れ」

「分かりました」

 八郎はふり向いて父に御辞儀した。


「父上様に、しっかり、聞かれていましたなあ」

 そう言って八重はクスクス笑った。

「はい。見栄を張るものではないですね」

 八郎は八重を見て素直にそう言った。この言葉で八重と八郎は互いの心が打ち解けた。

「はあい。見栄は張るものではありませんね」

 八重は満面の笑顔で答えた。この人は素直な人だ。年下の私にも丁寧な態度だ。誰からも好かれるだろう・・・。八重はそう思った。

「では、八重さんと源助さんを送り、そのまま帰宅します」

「うむ。気をつけて送るのじゃ」

 藤堂八十八に見送られ、八郎は八重と源助とともに呉服橋御門へ歩いた。



 呉服橋御門を抜けて呉服橋を渡り、北町奉行所から五町も離れていない日本橋元大工町の長屋に着いた。

「では、私はここで失礼仕る」

 長屋の外でそう言う八郎を、八重は引き止めた。

「狭い長屋ですが、お茶を差しあげとう存じます。

 ぜひ、中へお入りくださいませ」

 まだ夕七ツ半(午後五時)だ。八重は八郎を帰したくなかった。

 八郎の返事を待たずに、早くも源助は八郎に礼を言って長屋に入り、土間の竃に火種を入れている。

「さあ、どうぞお入りくださいませ」

「分かりました」

 八郎は八重に勧められて長屋に入った。


 八郎は片づいた土間から六畳の畳の間に上がった。出された座布団に座るまもなく、八重はお茶をいれて、茶碗が載ったお盆をすっと八郎の前に置いた。

「では、頂きます」

 八郎が茶碗を手に取ると八重は尋ねた。八重の隣に源助が座っている。

「八郎様は好いた女御がおりますか」

 単刀直入な問いに驚きもしたが、八郎も八重にそう訊きたい気持ちだった。

「今までおりませんでしたが、今日、変わりました。

 八重さんは如何ですか」

「私もおりませんでしたが、今日変わりました」

 お互いの言葉を聞いて二人は笑った。

 この言葉で、源助は、八重と八郎が互いの気持ちを確認し合ったのを感じた。

 その後、八重の巧みな誘導で、八郎はみずから家族の事を話した。


 半時ほど経って八郎が帰ると、

「いい男よのう・・・」

 源助はそう呟いた。

「はあい・・・。八重はあの方と添い遂げとうございます・・・」

 下級侍とはいえ、武家から町人になった身だ。娘の正直でひたむきな性格は良く心得ている。しかし今さら武家に嫁ぐとは・・・・。

「・・・」

 源助は何も言えなかった。

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