自らに課した罪を背負いて (4)

 私が十二の歳。


 私は父と顔を合わせることを避けていた。手をあげられたり、罵倒されたりすることが日常茶飯事だったからだ。


 日が西に沈んで間も無い時間だった。

 ソファーに腰掛けたまま、うとうとと舟を漕いでいた私は聞き覚えが無いノックの音で目を覚ました。私が返事をすると、ゆっくりと扉が開かれる。

 そして、中に入ってきた人間を見た私は体をこわばらせた。寝起きの頭が一気に覚醒する。


「…………私にご用ですか。父上」


 ソファーに座ったまま動けない私の前を、父は壁のような体で立ち塞いだ。父は突然私の前に跪く。



「すまなかった」



 首を垂れる父に私は戸惑いを隠せなかった。

「何の真似ですか。今すぐにやめてください」

「俺はお前の事を全く分かってやれていなかった。今日はゆっくり話をしようじゃないか」

 今までどれだけ存在を無碍にされてこようとも、私にとってはたった一人の父親だった。その申し出を拒絶することは私には出来なかった。初めて父が私と向き合おうとしてくれた事が、ただ嬉しかったのだ。


 この時私は、生まれて初めて父とまともに言葉を交わした。

「話すと喉が渇いただろう。ほら飲みなさい」

 私の前に置かれたティーカップに、父は自らの手で茶を注いだ。

「頂きます」

 父も自身のティーカップに茶を注ぐ。その様子を眺めながら、私はガラスのティーカップに口を付けた。砂糖とも異なる種類の、後に残る甘さを濃く感じる、不思議な味がする飲み物だった。父は私がそれを飲むところを満足気に見ていた。


 およそ四半刻が経った頃、体に異変が現れ始める。視界の縁がうっすらとぼやけ、手足の先ががちりちりと痺れる。初めは気のせいかと思ったが、時間が経つほどに体の感覚が曖昧になっていく。心臓がばくばくと音を立て始め、息が苦しい。


 どうやら私の考えは甘すぎたらしい。私はようやく自分自身が愚かな行動をとってしまったことに気が付いた。



 ──既に手遅れだったのだが。



「苦しいか?」

 席を立った父は私の背に触れた。体に触れられているという事実に肌が粟立った。

「……な、にを……、のませ、たの、ですか」

 父は上着から黒い液体が入った瓶を取り出し、私に見せる。禍々しい色をしたどろどろの液体が瓶の中でゆらりと波打っていた。後から考えるに、それはおそらく痺れ毒の一種だったのだろう。

「お前は体が小さいものな。もう少し話ができるかと思ったが、薬が回る方が早かった」

 思い返せば、私の元を訪ねてきた時から父の行動はずっと不可解だった。それに、父は一度も茶に口を付けていなかった。不快な手を振り払いたくとも、体は少しも思い通りに動かない。


「お前は生まれた時から今まで、『悪魔に取り憑かれて』いたのだ。穢らわしい血さえ出し切ってしまえば、悪魔を祓えると聞いた。お前に取り憑いている悪い物を、私が払ってやる」


 父は私をソファーに押し倒し、体の上に跨る。光が消え、澱んだ目で私を見下ろしていた。懐から純銀製の小型のナイフを取り出す。私は父親が成そうとしている事を瞬時に理解する。

「ま、っ……」

 ゾッとする鈍い輝きを放つそれで、私の左の脇腹のあたりを貫いた。


「ゔ……っ…………ぁ……」

 脳を焼かれるような痛みが全身を駆け抜ける。痺れ毒で全身の感覚を鈍らされているおかげで痛みを感じにくくなっていたことは、皮肉なことに幸いだった。

 私の体を貫いては刃物を抜き取り、再び刃物を突き立てる。血が点々と父親の顔に散っていく。地獄にいるのだと錯覚する光景だった。



 ──私さえ生まれてこなければ、母も父も今頃、幸せに穏やかな日々を過ごしていたのだろうか。



 もう何もかもどうでもよかった。どうにでもなれば良いと思った。

 父は狂ったように何度も何度も繰り返し、私を刺し続けた。繰り返される悪夢の中、私は泣くことも、声を上げ、助けを求めることもせず、朧げな視界の中に父親の姿を映していた。


 父に用を伝えるために部屋に入ってきたメイドが空気を切り裂く甲高い悲鳴を上げる。その声で続々と使用人たちが集まってくる。私に覆い被さる父を引き倒したリオンが、血が抜けて幾分か軽くなった体にしがみ付く。


「ノア! ノア……!」

 リオンはぐったりとしている私を急いで抱き上げ、リオンの私室へ連れて行った。少し身体を動かされただけで、大量の血が滴り落ちた。はっきりと意識があるのが不思議なぐらいだった。

 私は自分自身を恨み続けた。他の誰かを恨む気にはなれなかった。



 ──母が虚しい最期を遂げたことも、父の気が狂ったことも全て私のせいなのだから。



 いつか父が私に言った、私など生まれてこなければよかったという言葉が蘇る。自分という存在に吐き気がした。味わった事がない痛みが、何故まだお前は生きているのだと言っているようだった。




 その後、私は何とか一命を取り留めた。見るに耐えない状態になった体と埋めようのない喪失感だけが残されていた。

 傷を消すために、ありとあらゆる薬を試した。しかし傷痕が消えることは無かった。傷を見る度に自分が生きる意味が分からなくなった。痛みが残り、皮膚は常に引き攣れていた。無力な自分が許せなかった。


 元々華奢な上に、傷を負ったせいで動かしづらくなった体を人並みのものにするために、私は一日の大半を剣を振ることに費やすようになった。騎士見習いとして学ぶことだけでは物足りず、私は毎日のようにリオンから剣の手ほどきを受けた。

 誰かから学んだものではなく、リオン自身が過酷な環境を生き抜くために創り上げたものである。いかなる状況にも素早く適応し、必要最低限の動きで的確に対象物を斬る。私が知る中で、リオンが振る剣は最も実践的だった。実践的な部分は崩すことなく、私の体型に適した動きへと変化させていった。

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