自らに課した罪を背負いて (3)

 当然、執事の行動は父の逆鱗に触れた。


 激怒した父は、執事への見せしめとして私を鞭打った。執事は地に這い蹲り、必死で懇願し続けていた。体裁も構わず私を庇おうとする執事の姿は強く私の胸を打った。


「当主様……! 全て私めが悪いのです! 罰なら私が幾らでも受けます。御子息に罪はありません。当主様の命に逆らった私が悪いのです。どうか、どうかお願い致します。私を罰して下さい」


「黙れ。今まで可愛がってやったというのに! 俺の命に叛いただと? 貴様が今の地位にいられるのは誰のお陰だと思っている!」


 執事は喉が枯れた声で叫んだ。

「貴方様の命に叛いたのは私です。どのような罰でも甘んじて受けます。御子息は一切、関係ありません」

 


「…………ふ」



 父は鞭の柄で、突然肩を震わせ笑い始めた私の顔を上げさせた。

「何が可笑しい」

 問われた私は嘲りの目を父に向けた。

「いつまでつまらぬ言い合いを聞かされねばならないのでしょうか。もう聞き飽きました」

「お前は黙っていろ」

 父は再び執事を問い詰めようとした。私は出せる限り、声を張った。


「父上は私に負けたのですよ」

「はあ?」

「おやめ下さいノア様……!」


 血を吐く様な叫びと共に、私に近付こうとした執事は動けぬ様に使用人達に取り押さえられる。父は顔を引き攣らせていた。父の気を私に引くという目論見は成功していた。


「少し情を煽ってやっただけで、あの者は私に惑わされた。父上への忠誠心が簡単に崩れていく様子はあまりにも滑稽でした。最も信頼していた家臣に裏切られた気持ちは如何ですか? 愚かな私めに聞かせて下さい」


 

「──やはりあの時、殺しておくべきだった」



 少しずつ遠のいてゆく意識の中、鞭がしなる音と執事が許しを乞う声が延々と耳に響いていた。


 

 どれほど時間が経ったのかも分からない。光一つ入らない闇の中で私は目を覚ました。

 嫌に湿気があり、物一つない無機質な空間。地下室に閉じ込められていた私の手足はきつく縛られ、四肢の自由は奪われていた。石で出来た床が体温を奪っていく。ふと、コツコツと壁に反響する靴音が聞こえた。


「だれ……」


 蝋燭の仄かな灯りが地下室を照らす。一つの人影が私の前で立ち止まった。


「ノア様……」


 聞き覚えがある声の主が私を抱き起こし、太腿の上に座らせた。執事は髪と目の色を変えているところを見るに、見張りの衛兵に擬態して中に入ったらしかった。


「…………ばか」


 私は彼の行動力に呆れて物も言えなかった。硬く複雑に縛られた縄が、彼の手にかかると呆気なく解かれていく。


「貴方こそ。あんな無謀な真似をしなければ、こんなに傷を負うことも無かったでしょうに」


 執事は私の体の生傷に水薬を塗り、簡易的な治療を行った。手当てを終えると、彼は羽織っていたマントを、冷え切った私の体に掛ける。そして彼は懐から水筒を取り出し、私に飲むように勧めた。

 執事は私の調子に合わせ、ゆっくりと私にそれを飲ませた。白湯さえも乾燥で割れた唇には酷く滲みた。


「これもどうぞ」


 私の喉が潤うと、執事は銀紙に包まれた小さな物体を私の手に乗せた。


「……これは、なに?」


 訝しげに物体を見つめていると、執事は私の手に置いた物を取り上げた。執事が銀の包み紙を剥いていくと、隙間から艶々とした茶色が覗いた。


「チョコレートです。もっと栄養が有るものをお持ち出来れば良かったのですが難しく……」


 言葉尻を濁しながら、執事は申し訳なさげに目を伏せた。

「たべられるもの?」

「はい。そうですよ」


 銀紙の中身を私の手の平に置く。私は初めて見るそれを恐る恐る口に運ぶ。物を食べるという行為自体が好きではなかった私は、空腹を満たすための最低限の食事だけは摂るようにしていたが、それ以上には食べ物に興味を示さなかった。その為、菓子の類を口にした事はおろか、見た事すらも殆どなかった。執事がくれたチョコレートは、私が初めて口にした菓子だった。


「いかがですか?」


 執事は私に和かに言う。口の中で少しずつ溶けていくそれは背徳の味がした。


「あまい……」


 そうでしょう、と言いながら執事は私の頭にぽんぽんと手を乗せた。



「…………ぁ」



 執事は私の頭を広い胸に寄せた。



「なんで……」



 ぽたぽたと私の目から落ちていく雫が執事の服を濡らしていく。私は生まて初めて涙を流した。


「そんな時があっても良いのですよ」


 頭を撫でながら執事は私に微笑みを向ける。彼が私に向ける優しさは闇夜に差した一筋の光のようだった。静寂に満ちた地下室には私が嗚咽する声だけが響いていた。


 

 長らく黙っていた執事が声を発する。

「此処を出て行かねばならないことになりました」

「……そうだろうな」

 父の信頼を失した以上、此処に執事の居場所が無くなる事は自明だった。しかし、それ以上の処罰は無かったようであったことに安堵した。

 執事は私の濡れた頬を袖で拭う。



「一緒に行きませんか? 今なら、私は貴方を此処から出してさしげられる」



 思いがけぬ提案に私は驚きを隠せず顔を上げる。彼の魅力的な提案は激しく私の心を揺さぶった。


「偽りの身分を作らせても良いし、私の養子になって頂くのも悪くないかもしれません。多少の不自由を強いることにはなるでしょうが、辛い思いをさせない事はお約束致します」

 

「…………行きたい」

「ならば」

「でも」


 言葉を被せた私は執事の服を握りしめる。


「行けない。今を逃せばきっと……、この家から離れる事は出来ない。それでも私は此処に残る事を選ぶ」


 私の目を見ながら話を聞いてくれていた執事は頷いた。彼の顔は心無しか寂しそうに見えた。

「…………そうですか。私は貴方の選択を尊重します」

「だけど、嬉しかった。私の事を気に掛けてくれて、ありがとう」


 執事は夜が明けるまで私の側に居続けた。規則正しいリズムで頭を撫でられ、微睡んでいた私に執事は告げる。

「……そろそろ行かねばなりません」

「ん……、まって」


 その声で目を覚ました私は袖口のカフスボタンを外した。シルバーの台座の上に、きめ細やかな彫刻がされた黒蝶貝が嵌っている物である。黒蝶貝に彫刻を施す事が出来る職人は非常に数が少なく、価値が高い物だ。私の一番のお気に入りで毎日身に付けていた物だった。奥深い七色の輝きを放つそれを執事の手に握らせる。

「これは……。大切な物でしょう。私が戴いてよろしいのですか」

「うん」

 執事は小さなカフスボタンを清潔なハンカチで包み、懐に仕舞った。カフスボタンの行方を見届けた私は言う。



「またあえますか? おじ様」



 目を見開いた執事は私の背にきつく腕を回した。

「……なんて狡い子。ええ。いつでも歓迎しますよ」

 名残惜しそうに私に触れながら執事は私に語りかけた。



「立派な当主になりなさい。いつか必ず、会いましょう。ノア」



 太腿の上から降ろされると身体が冷えていく心地がした。すっと背筋を伸ばし、立ち上がると執事は私に背を向ける。私から離れていく背中は誰よりも逞しく見えた。執事は日が昇る前に屋敷を去っていった。その後の彼の行方は分からない。

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