自らに課した罪を背負いて (2)
それから一週間も経たないうちに母は亡くなった。
母の亡骸に縋り付き、慟哭する父のことを私は白い目で眺めていた。生前の彼女に散々酷い仕打ちをしておきながら、彼女の死後、白々しく泣き喚いている父のことを心の底から軽蔑した。部屋の入り口から二人の様子を見ていた私の心の中には憐憫の情の欠片も湧かなかった。
一頻り泣いた後、母の亡骸から離れた父は冷めた目をして部屋の扉の横に立っている私を見た。
目を腫らし、ぐしゃぐしゃになった顔のまま、父は大股で私に近づく。
生まれた時からずっと私は、父から激しい憎悪と怒りを向けられていた。父が私に一度たりとも穏やかな感情を向けたことはなかった。母を失った事で、さらに私を憎む気持ちが強くなっているようだった。
「お前に人の心は無いのか? 母親が死んだというのに、どうしてお前は平気な顔でいられる?」
「心が無い? 父上がそれを仰いますか」
嘲笑を浮かべた私の胸倉を、父は力の限り掴む。切り裂くような目つきで私を睨みつける。目を剥いたまま父は大きく手を振り上げる。咄嗟に奥歯を噛みしめる。同時に、頬を強く張られる。パチンと大きな音が鳴った。じわじわと頬が痛み出す。
小さな体は父に突き飛ばされ、呆気なく床に転がされる。私を見下ろした父は悪寒がするほど低い声で告げる。
「──お前など、生まれてこなければよかったのに」
父は部屋を立ち去る。私は冷たい床に横たわったまま、長い間動く事ができなかった。視界の端には真っ白な布を被せられた母の亡骸が映っていた。
母が亡くなってから、父はひどく荒れていた。父は気に食わないことがあったり、理不尽な言い付けを私が破ったりすると、私を執務室へと呼び出した。
「いつまで寝転がっている。立て。生意気な口が聞けぬようになるまで躾直してやる」
倒れようとも、その度に父は床から私を強引に立たせては何度も私に手をあげた。それを止めようとする者は誰もいなかった。
そんな日々が続いていたある日のことだった。
立つこともままならなくなった私の体を硬い靴で踏みつけながら、父は中年の執事を呼び寄せる。入室した執事は全身に血を滲ませ、床に倒れている私を見てぎょっとした顔をした。彼はいつも父の側に控えており、父の信頼を最も得ていた者だった。
「急ぎの用を思い出した。俺の代わりにこれが大人しくなるように躾けておけ。殺しさえしなければ何をしても良い」
命じられた執事は一瞬動揺を見せたが、すぐに父に対して恭順な姿勢を見せた。威厳すら感じる恭しい振る舞いには完成された美があった。
「承りました。当主様」
父はその返答に満足したらしく、すぐに私に背を向けた。
私と二人、部屋に取り残された執事は長い溜息を吐く。執事の威厳は幻だったかのように霧消していた。倒れたままの私に近付く執事の体は微かに震えている。
「あの……」
しゃがみ込み、私の体に恐る恐る手を伸ばした哀れな執事に声を掛ける。
「…………お前も災難だな。こんなことに巻き添いにされて」
「わ……」
屍のように微動だにしていなかった私に、突然話しかけられ、幽霊でも見た時のように腰を抜かした執事に言う。
「そんなに怯えるな。何をしてもいい。私はお前のことを恨まない」
「何をしても……、ですか?」
「ああ。ただあまり人目に付かない所にしてくれ。後で隠すのが面倒だから」
私は抵抗せず、体を横たえていた。
「失礼致します」
何やら考え込んでいた執事は私の体を起こす。執事の好きにさせようと思った私は目を閉じていた。執事は震える手で、私の体にペタペタと触れている。
「……何をしている?」
薄く目を開けると、今にも泣き出しそうな目をした執事と目が合う。
「しっかり食べておられますか?」
「急に何を」
執事は私の腕を掴んだまま、神妙な顔で言う。
「あまりにも華奢な体でいらっしゃる」
「……何をしても良いとは言ったが、言葉で辱められるとは思いもしなかった」
執事に悲しい顔をされる理由が私には分からなかった。
「なんという……。何処でそんな言葉を覚えていらっしゃるのですか」
「お前がすべき事は、私との会話ではなく私の躾けだろう。早くすべき事を成せ」
突き放すように言う私に、執事は寂しげに笑う。
「そうでしたね。当主様に言われた事を果たしましょう。動けますか?」
言われた私は、痛む体を気力で立ち上がらせた。
「……大したものです」
執事はさらに私との距離を詰めると、私の肩に手を置き、ゆっくりと言い聞かせる。
「暴れてはいけません。反抗する事もまた然りです。よろしいですか」
私は深く頷く。
「約束する」
執事は突如私を抱き上げる。
「は……?」
私は咄嗟に執事の体を押し返した。
「暴れないと約束したのは誰ですか」
仕事をこなすような無機質な口調で言い、執事は私を椅子に下ろした。
「待て。何をするつもりなのかだけ先に教えてくれ」
執事は無言のまま前に立つと、私に向かって手を伸ばした。床に伸びる長く黒い影に、得体の知れない恐怖を煽られた私はきつく目を瞑った。
「…………っ」
叩かれる事を覚悟していた私の頭上に、温かい手が乗せられる。その大きな手は私の頭を優しく撫でるのだ。
「苦しい時は苦しいと。嫌な事は嫌だと。辛い時は辛いと言いなさい。悲しい時は気が済むまで泣けばいいのです」
必死に封じていた感情が溢れ出しそうになり、私は執事の手を払い除けた。
「…………嫌だ。それは」
私は執事の服を、皺になる程に強く掴んだ。
「惨い扱いをされることには耐えられる。でもそれは嫌だ。それだけは耐えられない。それは私に要らない。私が知ってはいけないものだから」
執事の目の中では大粒の涙が光っていた。彼はその場に泣き崩れる。
「何故今まで気付いて差し上げられなかったのだろう」
ポロポロと涙を溢しながら、彼は語り始めた。
「……私事ですが、丁度貴方と変わらぬ歳の息子がおります。貴方ほど聡明ではありませんが、私にとっては目に入れても痛くない息子です。どうして当主様が、貴方に酷いことを出来るのか私には分からない。だから……、出来ません。罪無き子供を罰するなど出来ません」
私は目を細め、執事を眺めていた。
「…………馬鹿だな、お前は。父上に逆らえば、お前もただではすまないのに」
長い間涙を流し続けた後、執事は私を罰するどころか私の手当てをしたのだった。
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