〜ノア 過去編〜
自らに課した罪を背負いて (1)
【まえがき】
ノアの過去のお話。視点はノアです。
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「どうして……!」
私が生まれて初めて見たものは、泣き崩れる一人の女性の姿だった。
黒い髪色の男性が女性の肩を抱き、彼女の背を摩っていた。手で顔を覆っている女性はまるで喉を掻き切られたように叫ぶ。
「私が……! 一体何をしたっていうの!?」
男性は静かに彼女の背を摩っていた。
「落ち着け。君のせいじゃない」
「どうして!」
女性は肩を抱く男性の胸を力の限り叩き付けた。女性は男性に泣き腫らした顔を向ける。
「ありえない! ねえ、私を信じて?」
男性は女性を宥め続ける。
「俺は君を疑ったことなど一度もない」
「嘘よ! 疑っていないのに、どうして哀れなものを見る目で私を見るの?」
泣き叫び続ける女性に男性はかける言葉を失っていた。愛おしい女性を胸に抱き、男性は私に目を向ける。
「──全て無かったことにすれば良いだけだ」
彼は目の奥に、激しい憎悪を燃やしていた。力を少し加えれば簡単に折れる私の首に手を掛ける。女性は必死で男性の腕にしがみ付く。
「駄目よ! そんなことしたら貴方は!」
「隠す手段など幾らでもある」
女性は無理やり男性の手を私の首から離させた。
「もしも、この事が明るみに出たら? 貴方は、私は、どうなるの? それだけはやめて。お願いだから……」
女性は私を守ろうと小さな体の上に覆い被さる。女性の懇願に折れた男性は、今にも溢れそうなほど目に涙を溜めながら私に言った。
「──俺はお前が憎い」
私がその言葉の意味を理解するのは、それから何年も後のことになる。
幼い頃から人よりも記憶力が優れている私は、見たものを、聞いた事を、触れた物を、全て覚えている。一度経験したことは、いつでも鮮明に思い出せるのだった。
その中でも生まれて初めて見た光景はとりわけ衝撃的で、色濃く私の脳裏に焼き付いている。
女性の涙を。取り乱す姿を。泣き叫ぶ声を。
男性が女性を見る時の優しい目を。
そして──
私に向けられた激しい憎悪を。
『憎い』という言葉を。
全ての原因は私の目が生まれつき紫色をしていたせいだった。
紫の目を持って生まれる者は数百年に一度生まれるか生まれないかという大変珍しい存在である。事実、私自身も私と同じ紫の目を持つ者を見た事がない。
そして、『悪魔は紫色の目をしていた』という言い伝えが古くから残っており、紫眼は悪の象徴であるとされている。史実に名を残す紫眼持ちの者は皆、まともな精神の持ち主ではなかった。幼少の頃から私は、自分自身も彼らと同じ道を辿るのではないかと恐れていたものだった。
私が『普通』の人間とは違うということに気が付くまでにさほど時間はかからなかった。嫌でも気付かされたと言った方が正しいかもしれない。
私の顔を見た人間は大抵嫌悪感を露わにするからだ。そして、人々は好き好きに話を膨らませ、私や母に言葉の刃を向けた。
「目を合わせてはダメよ。気味が悪い。あなたも呪われてしまうわ」
「全く醜い。人間とは思えない」
「本当にあなた達二人の子供なの?」
「奥様が悪魔と契約を結んだせいよ。そうでもなきゃ、青い目の両親からあんな子は生まれないわ」
「なあ、聞いたかい? 噂では奥様が不貞を働いていたらしいぞ。穢らわしい」
「きっと前世で重い罪を犯したのよ。あれは神様がお与えになった罰」
「近寄らないで。悪魔」
何度も浴びせられた罵詈雑言の数々。穢らわしい物を見る視線。そして、野良犬でも追い払うかのような態度。それら全てが私の中に焼き付いていった。
一つ一つの傷は浅くとも積み重なっていけば、次第に傷は深く、深く抉られていく。
私が生まれてから、父は『悪魔』を産んだ母すらも憎むようになっていった。母を愛する心は失われていき、彼女に感情的にあたることが増えた。そして、次第に母は精神を患っていった。
それでも母はつねに私の事を擁護してくれていた。幼い私にとって、母は唯一の心の依代だった。
私が六つになった頃だった。
「お呼びですか。母上」
「近くにいらっしゃい、ノア」
ベッドに横たわる女性は骨と皮だけになった手で私を招く。
元々細かった体はさらに薄くなり、頬は痩せこけていた。目の下には真っ黒な隈ができ、真っ白になり乾燥した唇は切れている。背の中程まであったブラウンの髪は、彼女の手で乱雑に短く切られていた。枝毛だらけでガサガサになった髪に艶はなく、傷んでいる。
嘗ての美しかった母の面影はもう何処にも残っていなかった。
あまりの痛々しさに、私は母を直視できなかった。見るに耐えない姿の母に近づき、ベッドの横まで寄ると、母は私に語りかけた。
「ごめんなさいね。貴方をそんな容姿に産んでしまって」
私は俯き、母の言葉を聞き流した。もう何度目かも分からない謝罪の言葉だった。母は私を抱き締める。顔のすぐ側で、鼻を啜る音が聞こえた。そうされるのはいつものことだった。なんと応じるのが正解なのか分からなかった私は、言葉を返す代わりに母の背に手を回した。母は黙ったままの私には構わず、言葉を継いだ。
「──『可哀想』なノア」
『可哀想』という言葉が、何度も脳内をこだまする。残酷な言葉が私の心に大きな穴を開ける。母の背に回した手から力が抜け落ちていった。
ああ、そうだったのか──。
この人はずっと、私の事を可哀想だと思っていたのか。
たった一人の味方だと思っていたこの女性は、ただ私に同情していたのか。
この時、私は自分自身の孤独さに気付いたのだった。私の中でぷつりと糸が切れた音が響く。死んだ目をした私は母にされるがままにされていた。
それは母から私に贈られた、最後の言葉だった。
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