最悪の出会いは雪の日に (5)
ソファーに腰を下ろした私は、テーブルを挟んで彼と相対する。私はテーブルの上に肘を付くと、両手の指を組み、その上に顎を乗せた。
「さて。私と一体何の話がしたいんだ?」
彼は私から目を逸らさずに、きっぱりと言い切る。
「ずっと気に入らない。俺はお前の、その『目』が大っ嫌いだ」
私は雷に撃たれたような心地がした。
私の目が嫌いだと言われたことなど数えきれない程ある。だが、私の目を見ても顔色一つ変えなかった彼はそんな者たちとは違うと思っていたのに。大きな裏切りにあった気分だった。
「何の話かと期待した私が馬鹿だった。そんなことを言うために私を呼び止めたのか。良くしてやったというのに。この恩知らずが」
私は席を立とうとする。彼の口からぽつりと言葉がこぼれ落ちた。
「……恩知らずはどっちだよ」
「話は終わりだ。直ぐにでも出て行ってくれ」
身を乗り出した彼は私の腕を力一杯掴む。
「まだ終わってない。最後まで聞け」
琥珀色の瞳を強く睨みつける。
「もううんざりだ! 私のこの紫の目が気味悪いことなんて、言われなくても知ってる!」
彼は口調を荒げた。
「違う! 落ち着けよ。俺はお前の瞳の色を言ってるんじゃない」
「聞きたくない!」
肩で息を切る私の腕を掴んだまま、彼は私達の境界になっていたテーブルを軽やかに飛び越えた。腕を強く引かれるやいなや視界が反転する。
「人の話は最後まで聞け。馬鹿」
ソファーに私を押し倒し、上に乗り掛かる。言い返そうとした私の喉元に、彼は何処からか取り出したナイフの切先を突きつけた。
「抵抗しようものなら、殺してやる」
私はどうでもいいと言う目で彼を見ていた。獰猛な獣のような瞳には強い迫力があった。今にも私の喉を貫かんとしながら、彼は呟くように言った。
「……それだよ。俺がずっと気に食わないのは」
言いながら彼はナイフを喉元から引いた。
「それ?」
彼は一呼吸おいて答える。
「全てを諦めた目。初めて会った時から、お前は濁り切った目をしてる。身を売られそうになっても、死を間際に感じても、平然としていられるなんて普通じゃない。俺はお前の命を助けてやった。でも、お前は折角助けてやった命を簡単に捨てようとする。恩知らずはお前の方だろ」
私は彼の話を黙って聞いていた。彼は雑にナイフを投げ捨てる。がしゃん、というけたたましい音が遠くから聞こえた。金属音は私の脳内に響き渡り、彼に会った時から心の中で蟠っていた霧を晴らしていった。
「ああ……。漸くようやく分かった」
私は彼の襟首を掴む。
「窮地に立たされようとも常に生きる事を諦めないお前に、私は惹かれたんだ。
それは私が持ち合わせていないものだから。自分に足りないものは欲しくて堪らなくなる。だから一目見た時から、私はお前のことを気に入った」
強い光を宿した目で私を見下ろす彼の温い頬に触れる。
その温もりさえ、私には無いものだ。人の身体とはこうも温かいものなのか。私の体は血が通っているのかも疑わしいほどに常に冷えきっているというのに。
「お前は私のことが嫌いか?」
「お前をそんな風にした奴らが嫌いだ」
徐に頬から手を離させた彼は、私の手首を掴む。心が嫌にざわついた。
「……離せ」
「俺は人よりも鼻が効くんだが……。
――お前が部屋に入ってくる度に、薬の匂いがするんだ。なんで毎日こんなに薬品の匂いをさせてる。おかしいだろ」
全身の血の気が引いていく感覚。私は咄嗟に腕を引こうとする。しかし手首はきつく掴まれたままで、私の力では動かすことも叶わなかった。
「勘違いだ。早く手を離せ」
「俺の勘違いなら、どうしてお前は焦ってる?」
彼は私の顔からから一瞬たりとも目を逸らさずに、私のシャツの袖に付いているカフスボタンを外した。
「やめろ……!」
激しく抵抗する私を押さえつけたまま彼は私にぐっと顔を近づけた。息がかかるほどに近い距離から低い声で囁く。
「な。図星だろ?」
人を痛ぶることで快楽を得ているかのような愉しげな笑いを含む声にぞくりとする。抵抗する気力を削がれた私の様子を見て、表情を消した彼は淡々とシャツの袖を捲っていく。私は横を向き、唇を強く噛んだ。自分でも驚くほどに弱々しい声が発される。
「嫌だ……。離してくれ」
腕に残る、大きな火傷の痕と無数の痣。
まだ血が滲んでいる火傷跡を目にした彼は嫌悪感を露わにする。
「こんな傷、普通に生活していて出来るものじゃない。旦那様……だったか。お前の父親だろ? お前にこんなことが出来るのは、お前よりも立場が上の奴だ。碌でもない父親を必死に庇って健気なことだな。反吐が出る」
「違う!」
声を荒げた私とは対照的に、彼は静かに声を返す。
「分かり易いな。感情的になるってことは、それが正しいと言ってるも同然だ。言い当てられたとしても、余裕を見せておく方が利口だぞ?」
私の中に抑えられないほどの激情が溜まっていく。経験した事がないそれをどうすればいいのか自分でも分からなくなっていく。
「……黙れ」
「脚に不自然な痣があるのも、傷の治療にやけに慣れているのも、お前の部屋にあった鏡台の引き出しに大量の薬瓶が入っていたのも、ずっと引っかかってたんだ」
ついに聞くことに耐えられなくなった私は喉を裂かれたように叫んだ。
「もう黙ってくれ! 私がどんな目にあっていようがお前には関係ないだろう!」
バラバラだった激しい感情が一つに纏まっていく。そして、一つの形を作ったその感情が一気に体の外へ放出される。
「…………っ!」
彼は目を見張った。そして只ならぬ様子で私から飛び退いた。私自身にも何が起こったのか分からなかった。
しかし、周囲の変化を頭が理解し始めた途端に驚愕する。暖かかった室内の温度が急速に下がっていた。まだ昼間だというのに、辺りは暗闇に包まれている。光を全て塗り潰すほどの漆黒の闇だった。
「……え…………?」
「悪かったよ。俺が煽りすぎた。早急にそれを鎮めてくれ」
暗闇の中から聞こえてきた声に私ははっとする。
「これは……私が?」
「間違いなくお前が原因だ」
「鎮めろって言われてもどうすれば……!」
「何でもいいから早くやれ!」
私は目を閉じ、一度大きく息を吸った。何度か深く呼吸をしているうちに、体の中に散らばっているものがゆっくりと下の方へ落ちていき、本来の在るべき姿を取り戻していく。私が冷静さを取り戻し始めると、次第に暗闇に光が差し始める。それは私の精神状態をそのまま反映しているかのようだった。
室内が完全に元通りになると、部屋の隅に立っていた彼は大きく溜息を吐いた。
「……闇を扱う魔術、か。俺は別に魔法に詳しい訳でも何でもないが、かなり強いんじゃないか? もう少しで呑まれる所だった。…………おい」
私がこの状況を作り出したのは私だと知らしめる、指の一本を動かすことすら億劫になるほどの酷い全身の倦怠感が遅れて反動として返ってきた。胸を引き絞られているような苦しさに喘ぐ私の元へ彼は駆け寄った。
「しっかりしろ」
「人は……私の事を悪魔だと言うんだ」
途切れ途切れの私の言葉を彼は黙って聞いていた。
「その通り、じゃないか。何故私にこんな力が? 知りたくも無かった」
魔術師の家系以外に、魔力を持つ者が産まれることなど無い。
――ならば、私は? 私という存在は一体何だ?
一つ息を吐いた彼は、ソファーの肘置きに腰を下ろした。彼は向こうを向いたまま、黒い髪の上に手を乗せる。私の手よりもずっと大きな温かい手だった。
「別に俺はお前を追い詰めたかったわけじゃない。ここからが本題だ。
――俺が、お前だけの味方になってやろうか?」
私は目を見開く。それは思いもよらない提案だった。
「それは同情からきた温情か? 私が『可哀想』に見えるからか?」
彼の言葉が本当だという確信が欲しかった私は、ソファーに横たわったまま、彼を試すように吐き捨てる。首だけ振り向いた彼は私の顎を掴み、正面を向かせると真っ直ぐに私を見下ろした。
「いいや。可哀想という言葉は嫌いだ」
その答えに満足した私は笑う。体を起こし、彼と相対した。
「ふっ。私もだ。案外私達は気が合うかもしれないな」
「お前に殺したい程憎い奴がいるのなら、俺が代わりに殺してやろう。お前が死ぬというのなら、一緒に死んでやろう。お前と出会っていなかったら、間も無く失っていた命だ。お前のものになってやる。俺のことを上手く使え。俺の世界を変えてくれよ。お坊ちゃん」
彼は好戦的に笑う。その笑みには一筋縄ではいかない獰猛さが強く感じられた。
「ノアだ。ノア・ヴィンセント。私の名だ。その提案を受けよう。私と契約を交わせ。
――私の従者になるがいい」
私は彼に右手を差し出す。
「喜んで」
彼は一切躊躇うことなく私の手を取った。こうして此処に異色の主従が誕生したのであった。
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【あとがき】
非常に文量が多く、内容も重めな全5話にわたる間話の読了、本当にありがとうございました。
次回の更新から、いよいよ本編第3章へと移って参ります。長らくお待たせ致しました。
1、2章から引き続き、お楽しみ頂けましたら幸いです。
もしよろしければ、作品のフォロー、♡マークのクリック等で応援して頂けますと大変嬉しいです! とっても励みになっております。
皆様、ご訪問ありがとうございます。
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