最悪の出会いは雪の日に (3)

「撒けたな。そろそろいいか」


 彼は少しずつ速度を緩めていき、立ち止まった。

「来い。降りる」

 彼は私を抱き、屋根から飛び降りた。無我夢中で走っていた私は周りを見回して初めて、そこが家の近くの通りであることに気付いた。


「……凄い! 凄いな、君は!」

「いちいち癪に障る奴だな」


 目を輝かせた私に彼は嫌悪感を露わにする。私は人から幾度となくその感情を向けられてきたが、彼のそれは全く異なっていた。


 私のことを嫌っていることに変わりはないが、どこか温かくて縋りたくなるような目――


 彼は腰に巻いていた上着を取ると、私に投げ返した。


「最後に一発殴らせろ」

「ん。ほら」


 目を閉じた私の肩を彼は軽く小突いた。

「……気が変わった。さっさと失せろ」

 背を向け、そそくさと立ち去ろうとする彼を私は呼び止める。


「待て。まだ対価を貰っていない」

「はあ? 充分お前に付き合ってやっただろ」

「その程度では足りない。まだ私に付き合え」


 私は彼の腕をきつく掴むと、自宅の方に向かって駆け出した。




「よし。着いた」

 私は自宅の前で足を止める。無理矢理私に引っ張ってこられ、息も絶え絶えな彼は尋ねる。私の手などいつでも振り払うことが出来ただろうに、彼は私に付き合ってくれていた。

「……どこだ、ここは」

「私の家」

 彼は一瞬で顔色を変えた。

「…………はあ? お前の妄言にまで付き合ってやれるほど俺は暇じゃない。離せ」

「妄言ではない。紛れもない事実だ」

 私は彼の腕を離さず、屋敷の門を潜る。私のことに気づいたらしいメイドがすぐに近づいてきた。

 

「まあ。お帰りが遅いので、どこに行かれたのかと思ったら! どうしてそんな汚い服をお召しになって? それに何ですか、それは! 貧民街の子供でしょう。どうしてそんな穢らわしいものを拾って来るのですか!」

 矢継ぎ早に言葉を浴びせてくるメイドに、私は即座に言葉を返す。

「それ、ではない。人間だ。彼は私の命の恩人だ。今は時間が無いから話は後で」

 私の姿をしげしげと眺めていたメイドは、突然大声を上げた。

「待ってください! 耳飾り、片方無くなってるじゃないですか! どこへやってきたんですか!」

「落とした」

「何ですって!?」

「そんなことより今すぐに医者を呼べ。命令だ」

 話を無理やり切り上げた私はまだ何かを言っているメイドを無視して、彼を屋敷の中へ引っ張り込む。二階にある自室に転がるように駆け込んだ。



「……お前は一体俺をどうしたいんだ」

 私は彼の顔をじっと見つめる。

「私は君に興味がある。このまま別れるには惜しい」

「俺は一刻も早くお前と別れたい」

「辛辣だな。はっきり言われるのは嫌いじゃない」

「うわ……」

 彼は露骨に顔を歪めた。

「医者が到着するまでにはまだ時間あるから、それまで私と遊ぼう。その前に、まず風呂に入ろうか」



 私は彼を浴場に連れていく。物珍しそうに、キョロキョロと周りを見回している彼にバスタオルを渡してやる。

「何をしてる? それを脱がないと。そのまま入るつもりか?」

 タオルを押し付けられた彼は固まっている。

「は?」

「ほら早く。私は後ろを向いていよう」

「風呂ぐらい一人で入れる」

「水の出し方は分かるか? 入ったところの右側にある栓をひねれば冷水がでて、左側の栓をひねれば湯が出るようになっている。どちらも回す方向は同じだ。右に回すと水が止まり、左に回すと水が出るようになる。その下には……」

 早口で粛々と説明を始めると、彼は大きな声で遮った。

「あー、うるさい! 脱げばいいんだろ」

 彼は大きな溜息をつくと、屈辱的な表情で汚れきった衣服を脱ぎ始めた。



 後ろを向いていた私に彼が声を掛ける。


「もういい」

「ん、分かった」


 服の下に隠されていたのは、痩せこけて骨と皮だけになってはいるが、スタイルが抜群に良い体だった。もう少し肉付きが良くなりさえすれば、美しい肉体になるに違いない。

 肋骨や腰骨は浮き出ており、手足は枯れた木の枝よりも細い。白い肌には至る所に切り傷と青い痣が付いている。背中は鞭で打たれたところの皮膚が裂け、赤く爛れている。見ているだけで痛々しい様相だった。満身創痍の身体で、私を無傷で家まで連れ帰ってくれたことが信じられなかった。

「……大丈夫。これぐらいの傷だったら、痕も残らず綺麗に治る」


 私がズボンの裾を捲っていると、ギョッとした顔をした彼は突然私の手首を掴む。


「…………お前、その脚……」

「うん? ああ……」


 指摘を受け、私は自分の脚を見下ろす。彼のもの程ではないが、私の脚にも幾つか青い痣が色濃く残っていた。

「あの時、俺が途中でどこかに……」

 手首を掴まれたまま、私は反対側のズボンの裾も上げていく。

「違う。今日出来たものじゃないから気にするな」

「気になるだろ」

 私は彼の手を強く振り払う。

「そんなに私に興味があるとは知らなかったな」

 苦々しい顔をした彼は私から目を逸らした。

 

 私は脱衣所の横にある棚から一つの瓶を取り出す。白い湯気が立っている浴槽の中に瓶の中身を注ぎ入れ、薬湯に変える。

「こっちに来て」

 彼を浴室の中に呼び寄せた私は、白濁した湯で満ちた浴槽の方を指差す。

「入って。身体が冷え切ってる」

 彼はつま先をほんの少し湯の中につけたが、すぐに足を引っ込めた。


「…………っ」

「熱いか?」

「……痛い」


 裸足で雪の中を走っていた彼の足は赤く腫れていた。

「霜焼けがひどいものな。ゆっくりでいい。薬湯だから、傷には滲みない。安心して」

 少し足を浸しているうちに、痛みが薄れてきたらしい彼は恐る恐る体を湯の中に沈めていく。肩まで湯に浸かった彼は驚いた顔をしていた。


「……温かいな」


 私にとってそれは当たり前のことであり、彼の反応が私には新鮮だった。


 彼に浴槽の中で身体を温めさせている間に、私は彼の長く伸びた髪を濡らして洗っていく。グレーの髪は傷んでガサガサになっており、所々がぐちゃぐちゃに絡まっていた。

 不思議そうに風呂の湯を手で掬って遊んでいる彼はふと口を開いた。


「一つ気になっていることがあるんだが」


 髪を解しながら私は答える。

「うん」

「どうしてお前の顔を見た男はあんなに怖がっていた?」

「ああ……。きっと、この気味が悪い目の色のせいだろう。紫の目は悪魔の生まれ変わりだという言い伝えがあるからな。自分から私に近づこうとする者なんていない」

「………………」

「でも君は私の顔を見ても、私が触れても、顔色一つ変えなかった。嫌な顔をされなかったのは初めてだった。だから私は君のことを知りたいと思った」

「……へえ」

 興味が無さそうに言った彼の手の平に収められていた水が、指の隙間から少しずつこぼれ落ちていった。


 洗っても洗っても、薄い灰色の髪からは茶色く濁った水が流れてくる。私は彼の髪を何度も洗い、汚れている肌を丁寧に磨き上げていった。飲んだ薬の効果が切れてきているのか、彼は時折息も絶え絶えに咳をし続けていた。

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