第3話 日本人に宗教は要らない

「オレはオレである」という自覚(による幸福感)のために、これまで200冊以上の本(エッセイ)をネットで書いてきたわけですが、今回、ラジオの視聴を通じ、目に見えない仲間たちと、あらためて「同じ縄文人」という、大きな連帯感・一体感に浸ることができました。


 昨日のお昼(素人のど自慢大会」)から、ラジオ深夜便を経由して今朝までの10数時間、幸せに過ごせたのです。なんと安上がりで、大きく奥深い幸福感でありましょうか。

  もともと、縄文人日本人(在来種純粋日本人)には、聖書やコーランのような、人間としての在り方を規定するような教科書は必要ありませんでした。

  単一民族の中では、「血は水よりも濃し」と、血に由来する家族・民族・人種として人間の特性が暗黙の了解であり、且つ明確に存在するので、敢えて言葉によって、こうあるべき・こう生きるべしなんていう「教え」とか「法律」は要らないのです。 

  仏教というものでさえ、上から押しつけられた(強制された)ものであり、朝鮮半島から来た外来種天皇や貴族階級(弥生人)が、在来種純粋日本人(縄文人)を統治するために持ち込んだものです。

  6世紀、物部氏と蘇我氏との争いから始まり12世紀平家と源氏の殺し合い等、天皇という権威の下で2つの権力者が争うという悪の構図は、織田信長・豊臣秀吉、そして徳川家康によって終息し、「天皇という宗教」は京都に封じ込められ、以後、300年にわたり日本は平和な時代が続いたのです。(明治になってから悪魔が復活し、日本は再び戦争の国になってしまいました。)


  現在、縄文人の遺跡からは、狩りをする道具が見つかっても人殺しをする武器や兵器は見当たらない。発掘されるのは土器や女性のための装飾品ばかりなのだそうです。

  縄文人という同一民族、すなわち、日本の住民全員がひとつの家族であったのですから、多少のけんかはあっても殺し合いなどしない。

  聖書やコーラン、仏教経典といった、異民族同士の心をつなぐためのプロトコール(交信手順・議定書)や法律というものなど必要なかった。

  なんとなれば、日本人(縄文人・在来種純粋日本人)には「日本人としての自覚」を呼び起こしてくれる(聖書や仏教経典に代わる)ものが沢山あるのですから。 (聖書やコーラン・仏典に関しては、宗教というよりも教養として役に立つ言葉があるのは事実です。特に聖書とは、世界中のあらゆる民族の中で鍛えられてきただけあって、人間関係においては優れた見識がちりばめられています。


  また、漢民族の中での戦争や闘争・革命という混乱を通じて煮詰められてきた「中国古典書籍」には、同じ単一民族縄文人にとってmake senseな言葉・考え方が極めて豊富です。日本人にとっては、仏教よりもむしろ、中国古典籍の方が向いているのです。)



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