1-3. 零れ落ちた名前

『調書を上司に見せてくるから、あんたはしばらくそこで待ってて』

 そう言って僕が連れてこられたのは、署内の待合室だった。先ほどの応接室よりもだいぶ広々としており、壁際には雑誌類が収められた書棚がある他、お茶を入れるためのポットや珈琲のサーバなどがおかれた棚も用意されている。所狭しとならべられた背もたれのないソファには利用客と思われる人の姿がぽつぽつとあって、それぞれに受付の順番を待っているようだった。

 そんなに繁盛しているとも思えない様相だが、そもそも警察署なんてものはこれくらい閑散としていたほうが街の風紀的には望ましいことなのかもしれない。もちろん、ここにいる人のすべてが僕みたいに何か後ろ暗い理由があるということではないのだろうが。

「ライラは仕事中もあんな感じなんですか?」

 立てかけられたコルクボードの掲示物を何とはなしに眺めながら、隣のノーラさんに向けて僕が訊く。

「そうだね、だいたいあんな感じだよ。とにかく行動力の塊っていうかさ。自警団って基本的に男社会なんだけど、そこいらの男よりパワーあるからね、隊長は」

「それはたぶん、気性的な話だけではないんでしょうね」

「そうそう。普通に手も足も出るからね。この前、団内で戦闘技能試験会があってさ、各隊ごとに何人か代表を選んでリーグ形式で優秀者を決めるってやつなんだけど、個人戦では本当に圧倒的だったよ。強い人ってのはいるもんだねえ」

「団体戦ではいまいちだったんですか?」

「うちの隊は女ばっかりだから、そこはね。聞くところによると、隊長があまりに色んな意味で強すぎるからバランスとるために女ばっかり配属してるって噂もあるけど」

「ノーラさんも十分強そうですけど」

「そりゃ、その辺の男に負ける気はしないけど、隊長はまた別格さ」

 苦笑気味に肩をすくめながら、ノーラさんが言う。

「そういえば、あんたと隊長って、けっきょくどういう関係なんだい? 隊長からあんたの話はよく聞くけど、別に恋人同士とかってんじゃなさそうじゃないか」

 その問いは、答えようと思えば非常に簡単に答えられる問いではあった。しかし、その答えで納得してくれるかどうかはまた別問題だ。

 僕とライラの関係なんて、実際のところほとんどただの腐れ縁である。向こうのほうが歳上だからか姉貴風のようなものを吹かせてくることはあるが、それは今でこその話であり、出会ったばかりのころはどちらかというと決して良好な関係ではなかった。

 そもそも、その出会いが最悪だった。

「どうせ暇だし、ちょっと昔話でもしましょうか」

 本日二杯目の珈琲をずずっと啜りながら、僕はぼんやりと過去の情景に思いを馳せる。

 あれは今からおおよそ三年前の話――僕がまだこの街に来たばかりのころで、右も左も分からないまま日中を森の小屋で過ごし、夜は夕食を食べに《水蝶》を訪れるという空虚な生活を繰り返していたころの話だ。

 ある夜、いつもどおり《水蝶》の片隅で夕食を食べていると、仕事終わりの酒盛りをしていた男たちが急に言い争いをしはじめた。僕も少し酒を飲んでぼーっとしていたのでとくに内容などは気にならなかったし、最初は無視していたのだが、そのうち男たちがとっくみ合いの喧嘩をはじめたので、いよいよ無視できずに遠巻きからその情景を観察しはじめてしまった。

 それがよくなかったのだろう。とっくみ合いをしていた男のうちの一人が、急にこちらに向かって因縁をつけてきたのだ。もう絡める相手なら誰にでも絡んでやろうという心理状態だったのかもしれないが、僕としてはたまったものではない。そうでなくとも、お世話になっている《水蝶》で面倒ごとを起こされるのは僕にとっても決して愉快な状況ではなかったのだ。

 もっとも、僕がどうこうするよりも先に、それまでカウンターにいた奥さんも表に出てきて男たちを仲裁しようとしていた。それはそうだろう。僕なんかよりも、この店の店主たるご夫妻のほうが状況の変化に関しては敏感だったはずだ。

 ただ、タイミング的に少し遅かったのだろう。男たちは奥さんの言うことなど聞かず、あろうことか奥さんにまで因縁をつけて掴みかかろうとしていた。

 これが良くなかった。もともと少し酒が入っていたせいもあるのだろうが、その時点で僕の堪忍袋の尾はあっさりと切れてしまった。そして、一度切れてしまうと今度は歯どめがきかない。僕はその場にいる男たちを一瞬のうちに魔術で宙吊りにすると、そのまま中空で四肢を引き裂くかのように力場を制御した。奥さんは慌てて僕に魔術をとめるように言ったが、僕も頭に血が上っていたので素直には言うことをきかなかった。

『お前ら、これ以上やるつもりならそのまま手足をちぎりとって店先にならべてやるぞ』

 今でも覚えているのは、そんな小恥ずかしい脅し文句だ。もちろん、本気でそこまでするつもりはなかったのだが、よほど凄みかたに迫力があったのか、酔っぱらいたちは一瞬で竦みあがり、中には宙にはりつけられたまま酔いと恐怖で嘔吐する者までいた。すっかり戦意を失った酔っぱらいたちを見て僕も興をそがれ、こんなもので良いかと魔術の制御を解こうとした――その瞬間だった。

『なにをしているの!』

 そう怒鳴りながら出入口の扉を勢いよく蹴り開けて入ってきたのが、ライラだった。後で聞いた話だが、酔っぱらいたちが諍いをはじめた時点で奥さんが自警団に連絡をとってくれていたらしい。だから、余計に奥さんは僕にすぐ魔術をとめるように言っていたのだ。

 ライラは有無を言わさず僕のほうに踏み込んでくると、殺意を感じるほど鋭い飛び蹴りを放ってきた。僕がそれをかわせたのは、たぶん傭兵をやっていたころの記憶が体に残っていたからだろう。かわせた僕自身も驚いたが、ライラも相当驚いたに違いない。目を丸くしながら一旦飛びのいて距離をとり、腰から折り畳み警棒を抜きながら低い姿勢でこちらに身構えていた。

 この時点でライラが自警団員だと知っていれば、あるいは気づいていれば、僕にもまだ冷静な判断が下せたと思う。ただ、この時の僕にとっては目の前の女が何の脈絡もなく唐突に姿を現した謎の闖入者にしか見えていなかった。

 だから、僕は彼女を遠慮なく——ぶっ飛ばした。入ってきたドアからそのまま店の外に転がり出ていくぐらい、文字どおり盛大に魔術でぶっ飛ばした。

 ここまで話した時点で、ノーラさんが「ぶふっ!」と盛大に噴き出した。

「これが僕とライラの出会いです。そのあと《水蝶》のご夫妻に羽交い絞めにされた上で事情を説明されて、でもその時にはもう何もかもが手遅れで、けっきょく僕は三日間ここの拘置所にぶち込まれました」

「あっはっは! 三日で済んでよかったじゃないか!」

 笑いながらばしばしとノーラさんが僕の肩を叩く。実際のところ、僕が犯した罪状からいうと間違いなく三日で済む内容ではないのだが、そこは《水蝶》のご夫妻が丁寧に事情を説明してくれたことと、ライラ自身が『事態収拾のために警察権を行使する場合、事前に自治警察署員としての所属を明確にしておかなければならない』という原則を無視していたことをひたすらねちねちと突っ込み続けた成果である。

「しかし、そんなところからよく今の関係まで持ちなおしたもんだね」

「不思議ですよね。その一件以来、しばらくは夜道をぶらっと歩いてるだけで『不審者だ!』とか言って署まで連行されてましたから」

「見事な職権乱用だね。まあ、隊長らしいっちゃらしいけど」

 ノーラさんがくつくつと喉を鳴らして笑い、僕もつられてちょっと笑う。

 ――と、その時、不意に待合室に新たな人影が増えていることに気がついた。窓がついている西側の壁に持たれかかるようにして、一組の男女が立っている。

 男性のほうはおそらく自警団員だろう。ライラやノーラさんと同じようなぴったりめのインナースーツに革のジャケットという格好で、これは外回りを担当している自警団員にとっては制服のようなものだと聞いたことがある。

 一方の女性は煌びやかに艶めく銀髪をショートカットにした若い女性だ。たぶん、歳は僕と同じくらいだろう。タイトめな黒いロングスカートに白のブラウスという飾り気のない服装で、肩には薄い空色のストールをかけている。

 少し気になったのは、その女性がアーモンド形の碧眼をじっとこちらのほうに向けていることだった。隣の自警団員は何やら女性に向かって話しかけてい様子だったが、女性がそれを聞いている様子はない。

「あれは噂の魔術教師だね」

 ノーラさんが言った。そうか、あの女性がもう一人の参考人というわけか。世の中にはかけ値なしの美人というやつがいるものだが、この女性もまた遠目に見ても分かるくらいのとんでもない美人で、僕は柄にもなく少し緊張してしまう。

「知り合いかい? なんかずっと見られてるけど」

「いえ……」

 首を振る。何の自慢にもならないが、僕がこの街で知り合いと呼べる人間の数なんてせいぜいが両手の指で足りる程度だ。こんな美人の知り合いがいたら、僕はたぶん死ぬまで忘れない。

 忘れない――そう、忘れないはずだ。

「ルドラ……」

 ぽつりと言葉がこぼれ落ちた。まるでその瞬間だけ唇に意志が宿ったかのように、僕の意志とは無関係にその言葉を紡ぎ出していた。

 まったく心当たりのない言葉だ。あるいは誰かの名前なのかもしれないが、まさかそれがこちらを見つめるあの女性の名前であるとか、そんな奇跡みたいな話はないだろう。いくら何でも無骨すぎる。こんな見目麗しい女性にはクリスティーナだとかエリザベスだとか、そんな瀟洒な名前がお似合いだ。

「ん? やっぱり知ってるのかい?」

 ノーラさんがきょとんとした顔で首を傾げる。どうにも嫌な胸騒ぎがする。

 僕が言葉を返せずにいると、ノーラさんが顔に疑問符を浮かべながら続けた。

「いや、名前、知ってるみたいじゃないか。あの魔術師、確かルドラって名前だったはずだよ。ルドラ・R・フランチェスカだったかね」

「ルドラ……あの人が、ですか?」

 何だか急に喉が渇いてきて、冷めかけた珈琲を無理やり流し込みながら僕が訊く。

「それ以外に誰がいるってのさ。あたしだって参考人の名前くらいは覚えてるよ」

 呆れたように嘆息して、ノーラさんが再び女性のほうに視線を向ける。僕もつられてそちらに視線を向けるが、もう女性はこちらを見ておらず、肩越しに窓の外の風景を眺めているようだった。

 ルドラ――どうして、その名前が僕の口から出てきたのか。どうにも嫌な動悸が収まらない。あの女性は何かしら僕と因縁のある人物なのか、あるいはただの偶然か。

 そういえば、最初に僕のところに事件の話を持ち込んできた連邦警察のダンケル氏も僕の過去を知っているような口ぶりだった。これは本当にただの偶然なのか、あるいは僕の知らないところで運命とかいうやつが密かに歯車を回しはじめたのか。

 ひたすら喉の渇きに飢えながら、僕はライラが戻ってくる時を今か今かと祈るように待ちはじめた。何故かは分からないが、とにかく、今すぐにでもこの空間から逃げ出したい気分だった。

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