1-2. 事件概要

 《叡智の森》から自警団の自走車に乗せられて向かうこと十数分、商店の建ちならぶ大通りをまっすぐ進んでいくと、やがて奥まったところに《ゼネテニア自治警察署》と書かれた建物が見えてくる。

 ゼネテニアというのは単に自治警察のスポンサーの家名だそうで、とくに何か意味がある単語というわけではないらしい。そもそもこの街で生まれ育ちながらゼネテニアの部分を知らないという住人もいるし、さらに言えば自治警察という呼称も滅多に使われない。だから、初めてここを訪れる人からすると、大抵は『本当にここが自警団の本部なの?』という感覚になるとか何とか。

 まあ、そもそもが善良な一般市民の生活おいてはおおよそ縁のない場所だった。仮にこの街で生まれて死ぬまで生活したとして、その一生で一度もこの建物の中に足を踏み入れることなくその生涯に幕を下ろす可能性だって十分にある。

 ちなみに不名誉な話ではあるが、僕はこの街に来てまだ三年しか経っていないのに、気づけば結構な頻度でこの場所を訪れていた。いちおう釈明しておくが、原因は僕自身ではなく、概ね僕をとりまく周囲に問題がある。

「しばらくこの部屋で待っていてくれ」

 そう言ってダンケル氏に連れて来られたのは、署内の一角にある応接室だった。取調室というよりはまだ幾分か開放感のある部屋で、はめ殺しではあるが窓もあるし、設えられた調度品もくたびれてはいるが、それなりに見栄えのするものが揃えられている。

 僕はガラス製のローテーブルを回り込んで、奥にある年季の入ったソファに腰を下ろす。天井では空気を対流させるための巨大なファンが回っていて、窓側の壁にとりつけられている換気用のガラリからは、何故か美味しそうな匂いが漂ってきている。警察署の裏手には大きな公園があったはずだから、ひょっとしたらその近くに屋台でもあるのかもしれない。

 帰りに何か買って帰るのもいいかな――などと暢気なことを考えていると、不意に応接室の扉が開いた。

「待たせたわね」

 そう言って部屋にずかずかと上がり込んできたのはダンケル氏ではなく、よく見知った若い女性自警団員だった。長い栗色の髪は前髪の一部だけが金髪のメッシュになっているが、これは染めたり脱色したものではなく、生まれながらの地毛なのだという。猫を思わせる双眸は黄と茶色の中間のような琥珀色で、その上でペンで書いたようなくっきりとした眉がきりりと弧を描いている。体のラインがはっきりと分かるインナースーツの上に茶色い革のジャケットを引っ掛け、小脇には書類の束とファイルを抱えていた。

 ライラ・プラウナスである。僕がまだこの街に来たばかりの頃、酔っぱらい同士の喧嘩に巻き込まれた僕が面倒になって魔術でまるっと成敗した際、『市中で許可なく魔術を行使し、第三者を傷つけた罪』で酔っ払いもろとも僕を捕縛したのが彼女であった。以来、彼女との腐れ縁は続いていて、僕にとっては《水蝶》のご夫妻と同じくらい付き合いの長い人物である。

 ちなみにその時はしっかり留置所で三日間拘束されたが、いちおう酔っぱらいの喧嘩がことの発端ということで最終的には罷免された。

「なかなか厄介なことになったわね。何か飲む? 水か珈琲しかないけど」

 向かいの席に座りながら、ライラが言う。応接室の扉の横にはもう一人、彼女の部下である別の女性自警団員が立っていて、こちらに目配せしていた。赤毛のショートカットにほとんど金色に近い色の瞳が印象的な、いかにも快活そうな二十歳ほどの女性である。

 こちらはノーラ・サウザンドさんだ。ライラが率いる第七小隊の副隊長で、ライラほど深いつき合いがあるわけではないが、それなりに気心の知れた相手ではあった。

「じゃあ、珈琲を」

「珈琲ね。ノーラ」

「はいよ、隊長」

 ライラが肩越しにノーラさんに視線を送り、ノーラさんが頷いて部屋を出ていく。ほどなくしてノーラさんが二つの紙コップを手に戻ってきて、そのままテーブルの上まで運んでくれる。

「随分と好待遇のように見えるけど」

「そうかしら? あ、珈琲、熱いから気をつけなさいよ」

 言いながら、ライラがテーブルの上にファイルと書類を広げていく。内容的に僕が目にしていいものなのかどうかは分からないが、書類はほとんどが空欄だったから、おそらくこれから色々と書き加えていくのだろう。

「何かあんまり取り調べって感じがしないからさ」

 率直に感想を述べながら、珈琲を手にとり、ふーふーと息を吹きかける。ライラがわざわざ珈琲の熱さについて一言添えてくれていたのは、僕が猫舌だと知っていたからである。

「そんな大袈裟なもんじゃないわよ。いわゆる事情聴取がしたいだけ。あんたはまだ被疑者じゃなくて、ただの参考人なんだから」

「でも、殺人事件だろう?」

「別にあんたがやったわけじゃないでしょう? そんなに身構えることないわよ」

 随分と気楽に言ってくれる。僕の周りにはこういう類の人物ばかり集まる傾向にある。

「第一、こういう取り調べって知り合いがやっちゃまずいんじゃないか?」

 さらに疑問を投げかけてみる。

「便宜供与の可能性があるからってこと?」

「ありていに言えば」

「馬鹿にしないでほしいわね。あんたのことは信用してるけど、もしあんたが今回の件に絡んでるって分かったら、その時はあんたを殺してわたしも死ぬわ」

「いや、それはそれでどんな覚悟だよ」

 げんなりと嘆息する僕に、扉の横の定位置に戻ったノーラさんがくつくつと笑った。

「あんたの取り調べを誰がするかって話になったときの隊長、凄かったんだよ。中隊長に向かって『わたし以外の人間に取り調べをさせるつもりなら覚悟なさい! 今すぐ適当に犯人にでっち上げて無理やりこの事件を終わらせるわよ!』って啖呵を切ってさ」

 しっかりとライラの声のトーンを真似ながら言う。意外と物真似がうまい。

「ちょっと、そんなこと言ってないわよ。いや、言ったかもしれないけど、もう少し穏やかな感じだったと思うわ。確か『彼は人格に少し問題を抱えているから、私が取り調べを行ったほうが円滑にことが進むと思います』とかそんな感じよ」

「どっちにしたって問題発言がすぎると思うけど」

 もはや突っ込む気力もわかず、僕はちびりちびりと熱い珈琲を飲みはじめる。

「まあいいじゃない。きっと他の隊員とあんたじゃ話が噛み合わなくて面倒なことになるだけよ。いちいち発言が回りくどい上に、そもそもの性格がひん曲がってるんだから」

「ごく自然に罵倒してくるよね」

「愛ゆえよ。いちいち突っかかってこないの」

 軽く言い捨てて、ライラがテーブルの上から一枚の書類を取り上げ、手元のクリップボードに挟んで膝の上に乗せる。

「さ、それじゃ、そろそろはじめましょうか。さすがにのんびりしすぎたら中隊長に怒られちゃうわ」

 顔も知らない中隊長の機嫌なんて正直どうでもよかったが、さっさと取り調べを終えて帰れるのであればそれにこしたことはなかったので、概ねその意見には賛成だった。

「まずは昨晩、何処で何をしてたか教えてくれる?」

「昨夜は伯爵のところにいたよ。三番区のコールマン図書室」

「ああ、あそこね……何時くらいまでいたの?」

「日付が変わる前には帰ったよ。森の門が深夜十二時に閉まっちゃうから」

「そういえばそうだったわね……」

 複雑そうな顔でライラが眉を顰める。何かまずいことでも言っただろうか。

 僕の住んでいる森は周囲を堀と高い塀に囲まれていて、出入口となっている通用門からでないと出入りができない構造になっている。もちろん、表向きはただの公共の森なので門が空いている間の出入りは基本的に自由なのだが、それでも入場者名簿への記帳はしなければならないし、閉門時間までに退出が確認されない場合は自警団に要請して捜索をしてもらうことがあるほど、わりと厳重に管理されていたりする。

「門は閉まったらもう開けてもらえないわけ?」

 やや深刻な面持ちで口元に手を当てながら、ライラが訊いてくる。

「守衛さんはいるから開けてもらうことはできるよ」

 森の詰所には交代制で守衛が最低でも一人は駐在していて、森への入退場を管理していたり、《水蝶》から届けられる僕の昼食を預かってくれていたりする。あまり手間をかけたくないので普段はできるだけ深夜までに森に帰るようにしているが、たまに閉門時間に間に合わなかったときなどは無理を言って開けてもらうこともある。

「ふーん……じゃあ、こうしましょう。昨夜は伯爵との話が盛り上がって、森に帰ったのは明け方になってからだった。伯爵には口裏を合わせてもらうように伝えておくわ」

 すらすらと調書にペンを走らせながら、ライラが奇妙なことを言う。

「いや、僕はちゃんと十二時前には森に帰ったんだけど」

「いいえ。あんたは明け方まで伯爵のところにいたのよ。伯爵もきっとそう言うわ」

「え? いや、ええと……」

 僕は何か言おうとしたものの言葉を飲み込み、ソファにもたれかかりながらぐったりと嘆息する。露骨な便宜供与のにおいがするのは気のせいではなかろう。

「僕が時間どおりに帰宅していたら都合が悪いことでもあるのかい」

 とりあえず、気になったので訊いてみる。

「そりゃね」

 ライラが鼻を鳴らし、テーブルに広げられていた書類の中の一枚を指先でこちらに向かって弾いた。どう考えても部外者が読んでいい類のものではなさそうだったが、ライラが目線だけで『読め』と迫ってくるので、仕方なしに書類を手にとる。

 さっと目を通した感じでは、どうやらこの書類は昨夜の事件に関する報告書のようだ。

「そこにも書いてあるけど、事件が起こったのは昨夜の十時から十二時の間と推測されているの。その時間帯にあんたが付近にいたんじゃ、状況的にちょっと不利でしょ」

「不利とか有利の話ではない気もするけどね」

 ぼやきながら、書面に目を這わせる。

 事件の被害者はハワード・ジョナスン、男性。歳は二八歳で、三番区の外れにある集合住宅に住んでいたようだ。職業は市民学校高等部の教師で、生まれも育ちもこのザルインの街らしい。教師としての評判は可もなく不可もなくといったところだが、どうもあまり女癖がよくないらしく、同僚の女教師に手を出して問題になったことが過去に何度かあるらしい。

 死亡推定時刻から事件が起こったのは昨夜の十時から〇時の間と推察されるが、詳しくはまだ調査中とのこと。死因は魔術による外傷性ショック死。遺体は胸部が著しく陥没しており、おそらく魔術による攻撃を受けたことが死因と見て間違いないだろうと調書には記述されている。それ以外に外傷らしい外傷はなかったようだ。

 胸部が陥没するほどの一撃なんてもらったら心臓が破裂してたっておかしくないし、死因としてはまあ妥当だろう。しかし、他に外傷がないというのはどうにも引っかかる。

「何か気になることがあるって顔ね」

 こちらの顔を覗き込みながら、ライラが言った。

「まあ、色々ね」

「言ってみなさいよ。魔術に関してわたしたちは素人だし、正直、今回の事件って団内でもあつかいに困ってるのよ。魔術による殺人なんて、もう随分と起こってないから」

「自警団の中に魔術師はいないの?」

「それがいないのよねえ。学問として魔術を勉強してたって人はいるんだけど、そういうのって大抵は実体に即してないじゃない? 捜査の役に立つかっていうと、微妙なところよ」

 ライラが肩をすくめ、まだ湯気を立てている珈琲に口をつける。

「ひとつ感じたのは……」

 僕はソファの上で脚を組みながら、少し頭の中を整理する。

「この被害者と犯人は、少なくとも互いの顔を見て話ができる程度には近しい関係にあるか、そうでなくとも普通に会話ができる程度の距離で向かい合ってはいたってことかな」

「……何でそんなことが分かるわけ?」

 露骨に眉を顰めながらライラが訊いてくる。

 どう説明したら伝わりやすいか悩んだ末、僕は実際に体験してもらうことにした。

「例えば、そうだな……今から、僕は君の体を持ち上げる」

 そう言って、ライラのほうに向かって手を伸ばす。刹那、ライラの体を中心に形成された力場によって大気が流動し、テーブルの上の書類がばたばたとはためいた。ライラは驚いたように目を丸くするが、彼女が何か言葉を発するよりも早く、その体はふわりと宙に浮遊しはじめる。

「ちょ、ちょっと! いきなり何すんのよ!」

「うわっ! すげえ、隊長! 浮いてますよ!」

 ライラが悲鳴を上げ、ノーラさんがきらきらと目を輝かせながら歓声を上げる。宙空で必死に手足を振り回すライラを見上げながら、せめてその足がテーブルの端を蹴飛ばさないようにと僕は高度の調整に気を配る。

「今、僕は君の体の周りに力場を作って持ち上げている。でも、実はこれってけっこう難しいことなんだ」

「とてもそうは見えないけど……」

 じとっとした半眼でこちらを見下ろしながら、ライラがぼやく。まあ確かに、僕は力場制御に関しては自分でもびっくりするくらい得意だったりするので、逆に説得力にかけるかもしれない。ただ、一般的にこの手の制御が難しいというのは事実である。

「ねえ、ライラ、そのままとにかく僕の魔術に逆らってみてよ。手足を振り回すんじゃなくて、自分の体の中から外に向かって見えない力を広げるようなイメージでさ」

「ええ? そんな難しいこと、急に言われても……」

 困惑したようにライラが顔をしかめ、しかし、それでもいちおうはやってみようと思ったのか、目を閉じて集中するように唇を結ぶ。

 それからしばらくして、唐突に僕の頭にノイズのような嫌な気配が走る。これは、僕の魔術の制御に対してライラの持つ魔力が干渉してきたことによるものだ。やがてノイズは存在感を増し、集中力を維持できなくなった僕が魔術の制御をやめる。刹那、ライラの体はすとんと地上に落下し、そのまま彼女はソファの上に尻餅をつく。

「いたっ! もう、なによ!」

「あ、ごめん。でも、なかなか見事じゃないか」

「何が見事だってのよ」

「君が今やったことだよ。自分の魔力で僕の魔術を跳ねのけた」

「わたしに魔力なんてないわよ」

「いや、あるよ。誰にだって魔力はある。というか、君、ひょっとしたら才能あるかも」

 お尻を撫でながらこちらを睨みつけるライラに、僕は笑いながら拍手をおくる。彼女は今、僕の魔術に自分の魔力で対抗して見せたのだ。これは素直に賞賛すべきだろう。

 意外と誤解されがちだが、魔力自体は魔術師であろうがなかろうが、この世界に生きている生命ならば何者でも持っている普遍的なものである。単にその制御法を勉学やら修練やらの末に体得し、自由に行使できるようになったものを魔術師と呼ぶだけだ。

「どうにも馬鹿にされてる気がするわね」

「誤解だよ。ただ、今の話を前提に聞いてほしいんだけど……」

 まだあまり納得のいっていないような顔でこちらを睨みつけるライラに、僕は居住まいを正しながら言葉を続けた。

「人間にはもともと魔力があって、他人の魔術に対する抵抗反応というのもちゃんと備えているんだ。僕はどちらかというとこの手の魔術が得意だからできちゃうんだけど、普通は人の体を持ち上げたり動かしたりなんてことだって、そう簡単にできることじゃない」

 魔術に対する抵抗反応というのは、つい先ほどライラが僕の魔術に対して行ったようなことを示す。自分自身の魔力で他者の魔術に干渉し、その制御の精度を著しく低下させる現象で、先ほどのライラは意識的に行ったが、本来は無意識化でも起こりうる。とくに自身の生命を脅かしかねない魔術に関しては魔術師だろうとそうでなかろうと強烈な抵抗反応が起こるため、魔術によって他者を殺めようとする場合、直接相手の心臓を握り潰したり呼吸をとめたりすることはまず不可能になる。

 それなら抵抗反応が起こる前に素早く魔術を行使すれば良いと思うかもしれないが、実はそういうわけにもいかない。魔術というのは実際に事象の変化が起こるより先にまず世界の構造にアクセスする『接続』という段階があり、その先に『制御』という事象を操作するための工程がくるのだが、抵抗反応はこの『接続』のタイミングで発露し、『制御』の内容に反応して事象に干渉してくるというかなり瞬発的かつフレキシブルな防御反応になっているのだ。

 つまり、例えば僕が仮にライラの心臓を直接握り潰そうしたところで、僕が実際に魔術を行使するよりも先に強烈な抵抗反応が起こってしまうということである。

 これは学問上の話になるが、実は魔術によって直接対象の生命を奪うという行為自体が世界の構造に対する強烈な改変行為に当たるので、世界の構造そのものがそれに抵抗しているのではないかという見方もある。ゆえに、実は抵抗反応というのも魔術の対象となる当人の能力ではなく、世界そのものが持つ防衛機構なのではないかという話もあるのだが、実際のところはよく分かっていない。

「もう一つ、実験してみよう」

 次に僕はライラが持っていたペンを魔術でひょいと取り上げ、それをテーブルの上に浮遊させた。そして、そのままペン先をライラのほうに向け、ゆっくりと彼女の眉間あたりを目がけて滑空させていく。

「ちょっと、何を遊んでるのよ」

「だから実験だよ、実験」

 文句を言いながらソファの上で後ずさるライラに、僕はにやにやとしながら告げる。どのみち、ペンは彼女の眉間に届くことなく動きをとめるのだ。ライラの体の周りには目に見えない障壁のようなものがあって、僕の魔術によって制御されたペンの侵入を頑なに拒んでいる。

「魔術師だろうが魔術師じゃなかろうが、人間には自分が『嫌だ』と感じる魔術に対して無意識に抵抗する力がある。だから、このペンは僕が本気でやろうとしないかぎり、これ以上君に近づくことはできない」

「ほ、本当でしょうね?」

 今や眼前まで迫ったペンの先を寄り目で見つめながら、ライラがうめく。

「魔術で直接他者を傷つけるのは想像するよりずっと困難なんだ。だから、もし何か事情があって魔術で他人を傷つけようとする場合、僕らはもっとシンプルな方法を使う」

「……どういうこと?」

「こういうこと」

 僕はテーブルの上の冷めきった珈琲をぐいっと飲み切ると、空になった紙コップを手の中でぐしゃぐしゃに丸めて、そのままぽいっとライラの頭に向けて放り投げた。

「ちょ、何すんのよ! ていうか、どう見ても魔術じゃないでしょコレ」

「理屈は一緒さ」

 答えながら、僕はライラの頭にこつんと当たって床に落ちた紙コップのくずを再び魔術で自分の手の上に引き戻す。そして、今度はそれを手に持ったまま、ぐっと腕を伸ばしてライラの頬にぺたんとくっつけた。

「あんた、さっきから何してんのよ……」

「魔術の説明」

 ライラの僕を見る目は、今やかわいそうな子を見るそれになっている。何故だ。

 ともあれ、説明を続ける。

「この紙コップが実際に作用している事象で、僕の手が魔術。こうやって傷つけたい相手の手前まで魔術の制御を続けていると、相手の抵抗反応によって狙ったほどの効果は期待できない。だから、魔術の制御は抵抗反応が起こらない距離で行って、結果として起こった事象によって相手を傷つける。例えばこの紙コップが大きな岩だったとして、魔術で直接相手にぶつけようとすると何処かで必ず抵抗反応が起こるけど、もっと手前から勢いをつけて投げ飛ばすだけなら、そこで魔術は完結するから抵抗反応は起こらないし、魔術の制御を外れても岩は慣性の法則に則って対象に飛んでいくから、しっかりと相手にぶつけることができる。相手が避けてしまう可能性は残るけど」

「分かるような分からないような……」

 ライラが眉を顰めながら首を傾げる。

「ていうか、それがさっき言ってた近しい関係云々とどう関係があるわけ?」

「単純な話さ。相手の胸だけを綺麗に陥没させるような魔術が使える距離感ってたぶん相当な至近距離だし、他に外傷がないなら通り魔的犯行でもないんじゃないかなって」

「何でそんなことが分かるのよ」

「例えば遠くから指向性の衝撃波で胸部を狙い撃ちにするとして、そうなるとよほどピンポイントかつ正確に的を絞らないかぎりもっと陥没の範囲が大きくなったり衣服が引き裂かれたりしていないとおかしい気がするし、そもそもそんな高度な制御が可能なのかって疑問が残る。例えば胸部を貫通しているとか、胸部の陥没だけじゃなく体中に打撲の痕や擦り傷があれば衝撃で大きく吹き飛ばされたんだろうって想像もできるけど」

「めちゃくちゃ高度な魔術だったのかもしれないわよ」

「高度ではあると思うよ。たぶんだけど、実際は抵抗反応の上から無理やり衝撃波を打ち込んだんじゃないかと思うんだ。だからこそ『魔術による攻撃にしては胸部の陥没程度で済んでいる』と考えたほうが自然だし、そもそも本気で魔術で人を殺しにかかったのなら五体満足で遺体が残っているほうが不自然だしね」

「さらっと怖いこと言うわね」

 じとっとした半顔でこちらを見ながら、ライラが宙空で静止しているペンをもぎとってジャケットの胸ポケットにしまう。確かに穏やかな発言ではないことは確かだが、魔術で人を殺すということは、つまりそういうことだ。僕が本気で指向性の衝撃波をぶっぱなせば、きっと人間の上半身くらい軽くちぎれ飛ぶ。

「それでも、まだ通り魔的な犯行の可能性が消えたわけじゃないんだろ?」

 ――と、これはライラではなく、その背後に立つノーラさんの言葉だ。とくに話には参加していなかったが、しっかり聞き耳は立てていたらしい。確かに通り魔的な犯行の可能性はゼロではないが、現実的かといえばどうだろう。深夜帯に見ず知らずの人間が近づいてきたとして、そこまで接近を許すものだろうか。泥酔していたというのであれば話は変わってくるが、調書にはとくにそういった記述は見受けられない。

「可能性だけで言えばなくはないんでしょうけど、それを言い出したらなんでもありになっちゃいますからね」

「あんた、ノーラには敬語よね」

 茶化すように言って、ライラがぐいっと珈琲の残りを飲み干す。別に特段の意味があるわけではないが、僕にだって相手によって言葉遣いを変える程度の常識はある。

「実際、僕はどのくらい疑われているんだい」

 ふと気になって、訊いてみる。ライラがどう思っているかは別として、自警団の意志として僕の処遇をどう考えているのかは気になるところではあった。

「わたしは別に疑っていないわよ」

 ライラがソファの上で長い脚を組みながら、はっきりとしたその言葉とは裏腹に、何やら思案するように視線を泳がせる。

「まあでも、団としては半々ってところかしらね」

「半々ね」

「実はもう一人、あんた以外にも参考人として事情を聞いてる人がいるのよ」

「去年から市民学校で魔術を教えてるとかいう教師のことかな」

「あら、ご明察。知ってたの?」

 驚いたように目を見開きながら、ライラがぽんと両手を打つ。

「たまたま噂に聞いてさ」

「噂にね。まあ、団としてはそっちも十分怪しいんじゃないかって考えているわけよ。何せ被害者も同じ市民学校の教師だし、職場内での諍いが原因で事件に発展したと考えるほうが自然でしょ?」

「僕が通り魔的に殺人事件を起こすよりかは、遥かにね」

「でも、だからといって『じゃあ、本命は魔術教師のほうで決まり!』というわけにはいかないの。これは単に大人の事情ってやつだけど」

 そう言って、ライラは肩を竦めながら嘆息する。そこまで深く考えなくても大人の事情というやつがいったい何なのか、おおよその察しはついた。

 おそらくは評議会への顔色窺いというやつだろう。以前にも軽く触れたが、自警団はあくまで評議会から警察権を認可された私設の警備団体に過ぎず、公的な警察機構というわけではない。つまり、お上である評議会や行政を敵に回すことは組織にとってあまり都合のいいことではないのだ。

 今回の市民学校で魔術を教えるという決定を評議会が行ったのか行政が行ったのかは分からないが、どちらにせよ魔術教師を逮捕となれば彼らの顔を潰すことになるのは間違いない。できればそういった事態は避けたいというのが自警団側の本音だろう。

「僕が犯人であれば、いくらか溜飲が下がる面々もいるわけだ」

「まあ、そういうことよね。わたしがいつか上に立つようになったら、そういう腐った連中なんてまとめて一掃してあげるから、今は我慢してちょうだい」

「いや、別にそこまでは望んじゃいないけどさ……」

 炯々と目を輝かせながら宣言するライラに気おされながら、僕は思わず苦笑いする。

 そのままライラは再びジャケットの胸ポケットからペンをとり出すと、何やらクリップボードの書類に書きなぐりはじめた。いよいよ調書をまとめにかかろうということなのかもしれない。聴取の中で露骨な便宜供与があったような気もするが、そのあたりが調書にどう反映されるのか興味深くはあった。

 それにしても、この部屋に連れてこられてから、どれだけ経っただろうか。部屋に時計はないし、僕も時計を持ち歩くタイプではなかったので、正確な時刻は分からない。どうせ帰ったところでやることがあるわけではないし、夕刻までまだ時間があるのであれば、ぶらぶらと街を散策してから帰るのも悪くないかもしれない。

 そういえば、裏手の公園からおいしいにおいがしてきていたな――などと、真面目に調書を書いているライラのおでこを眺めながら、僕は暢気に考える。

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