1-1. 森の魔法使いと殺人事件
かたかたと機械的な音が聞こえてくる。その音が何の音で、何処から聞こえてくるのかをぼんやりと考えながら、僕はベッドの上で寝返りを打つ。カーテンの隙間から射し込む日差しは強く、今日も嫌味なくらい朗らかな一日になるであろうことを誰にともなく告げている。
首だけをぐっと捻って、壁にかけられた時計に視線を向ける。時刻は間もなく午後の一時を迎えようというところで、それを知るや否や唐突に空腹感を訴えてくる胃袋の存在に、僕は思わず胸中で悪態をつく。
えいやっと身を起こしてカーテンを開き、それから窓を半分だけ押し上げる。外からは木々の青くさくも瑞々しい香りが漂ってきて、寝ぼけた頭と体に少しずつ森の息吹が染みわたっていく。
僕の住むこの家――というか小屋は、街の一角にある公共森の中にあって、昼夜を問わず常に穏やかな静けさに包まれている。そんな静けさの中で風にそよぐ葉擦れの音だけを聞きながら、僕はうすらぼんやりと細胞の一つ一つが目覚めてくるのを待つ。
――が、そんな安息のひと時は、チーンというあまりにも無粋な金属音によって容赦なく遮られた。
隣の部屋から聞こえてくるその音は、おそらくタイプライターの改行を告げるベルの音だ。この家には僕しか住んでいないから、幽霊の仕業でもなければ、誰かが勝手に上がり込んで断りもなく僕のタイプライターを使っているということになる。
そういえば、起き抜けからずっとカタカタという奇妙な音も聞こえていたのだ。幽霊でも泥棒でも何でも構わないが、せめてもう少し静かに作業をしてくれないものか。
僕はひっそりと溜息をつくと、ベッドのキャビネットにおかれたペンダントを手にとる。青い宝石を中心に銀細工のリングが幾重にも絡み合った意匠のそれは、大き目のリングに小さな文字で『アテナ』という文字が刻まれている。誰が聞いても女性を思わせる名前だが、他ならぬ僕の名前である。
ペンダントを首にかけてぐっと背伸びをすると、ベッドの脇に無造作に脱ぎ捨てられたブーツへと足を突っ込む。そして、そのままサイドテーブルに引っかけてあったワイシャツを手にとると、扉の横に立てかけられた姿見の前に向かった。そこに写る僕の顔はやっぱりまだ何処か寝ぼけていて、ペンダントの宝石と同じ青色の瞳は不貞腐れたように半眼になっているし、ぱっと見では白髪に見えてしまうほど光沢のない銀髪は毛先が好きな方向に遊びまくっているせいでなかなか悲惨な様相になっている。
僕はあくびを一つすると、ワイシャツに袖を通して最低限の身だしなみを整える。ついでに、せめて寝ぐせだけでも何とかならないものかと手櫛で髪を撫でつけてみたが、残念ながらやるだけ無駄だった。
まあ、隣の部屋にいる謎の客人も、寝起きの人間にそこまで完璧な身だしなみを期待してはいないだろう。
僕は半ばやけくそ気味に扉を開けて寝室の外に出る。寝室の外はすぐ書斎になっていて、実質、ここがこの小屋の中心的な空間となっている。
書斎は東側に大きな両開きの窓があり、そこから差し込む木漏れ日が室内を柔らかく照らし出している。それ以外の壁にはびっしりと大小の本棚が敷き詰められていて、収まり切らない本は床や棚の上に無造作に平積みされている。書斎らしい様相といえば確かにそのとおりで、おかげさまで室内はいつもインクと古紙のにおいで満ちている。
カタカタ――と、相変わらず機械的な音は続いている。東向きの窓の前に古びた木造の机があって、音はそこから聞こえてきていた。机には僕が古語の翻訳で使っているタイプライターがおかれていて、そこにセットされた用紙の陰に隠れるように、一人の少女が黙々とキーを叩いている。
幽霊か泥棒か判断を迫られるとするなら、少なくとも泥棒ではなさそうなので、幽霊か。こんな真昼間から怪奇現象に出くわすとも思えないが、仮に泥棒でも幽霊でもないとしたところで、さて、どうしたものか。
そんなことを暢気に考えているうちに、気づいたときには音がやんでいて、用紙の向こう側から少女がこちらを見つめていた。とりあえず、僕が「やあ」とか「どうも」とか曖昧な声をかけると、少女の顔にぱっと光が射す。刹那、彼女の周囲の光量まで増したかのように感じたのは、はたして僕の錯覚だろうか。
面食らっている僕のことなど気にした様子もなく、少女は慣れた手つきでタイプライターから用紙を取り出すと、それを片手に軽い足取りでこちらまで歩み寄ってきた。
「こんにちは! わたし、こういうモノです!」
何か印字されているらしい用紙をこちらに差し出しながら、少女がぺこりと頭を下げる。
「これはご丁寧に、どうも」
実際のところ、僕はかなり狼狽えていたが、そこは家主の維持で何とか対面だけでも平静を保ちながら応じる。
少女はにこにこと屈託のない笑みを向けていて、本音を言えばあまり気は進まなかったが、僕は手渡された用紙の文面にほとんどやけくそに目を落とす。
『拝啓、森の魔法使い様――』
のっけから随分とパンチの効いた書き出しではあったが、続く文面は想像していたものよりはいくらかまともだった。
『平素より、当店をご愛顧いただきまして、まことにありがとうございます。
本日は、母が所用で配達に出られなかったため、急遽、私、セシル・アルコニィが代役を務めさせていただく運びとなりました。
本日の昼食のメニューは、以下の二つと紅茶のセットになっております。
・トマト、レタス、チーズと鶏肉のサンドイッチ
・ニンジンとタマネギのポテトサラダ
森の魔法使い様におかれましては、本日はとても気持ちよさそうにお昼寝をされているご様子でしたので、この書き置きにて挨拶の代わりとさせていただきたく存じます。
今後とも、水蝶をご愛顧賜りますよう、よろしくお願い致します。
グライツァ歴四五八年 春の第一期十八日 セシル・アルコニィ
追伸、バスケットはいつものようにお店のほうまで返却していただきますようお願い致します』
「水蝶……の、娘さん?」
「はい、セシルと言います!」
元気よく手を上げて、少女――セシルが顔を綻ばせる。彼女の所作に応じて揺れるポニーテールは陽光を反射する亜麻色で、くりっとした大きな瞳は灰色に近い碧眼だが、確かによくよく観察してみれば、僕が日頃から何かと世話になっている《水蝶》の奥さんとよく似ているような気もする。
《水蝶》というのは市民街にある大衆酒場兼宿屋の名前で、僕はこの街に来た当初からそこで主に食事の面倒を見てもらっていた。どういう経緯でそうなったのかは説明すると日が暮れるほど長くなるので割愛するが、週のうち火、地、風の日は森の入口にある警備員の詰所まで昼食を届けてくれることになっている。
しかし、わざわざ娘さんを寄こした上に、その娘さんがわざわざ詰所を通り過ぎて森の奥にある小屋まで足を運んでくるとはどういう状況だろう。そもそも、配達に来れない場合、大抵は前日の晩に教えてくれるはずだ。
「奥さんに、何かあったのかい?」
少し心配になって訊いてみるが、少女はにこにこしたまま首を横に振る。
「母さんには何もないです。ただ、昼前からお店に自警団の人がきてて、ずっと難しい話をしているみたいでした」
「自警団が?」
これはまた穏やかではない単語が出てきたものだ。わざわざ説明するまでもないだろうが、自警団というのは、その名のとおり民間で組織された警備団体のことである。
といっても、この街における自警団は一般的なものとは少し異なる。主な相違点としては、私設とはいえ、市の評議会から正式に警察権を認可されている警察機構でもあるということが挙げられるだろう。組織としての呼称も正式には《自治警察》だ。
しかし、その一方で署員は自らの組織を『団』と呼ぶし、自分たちのことも『団員』や『隊員』と呼ぶ。有事の際は軍事的な活動を行うこともあるらしく、警備団体というよりは私設の軍隊が警察権を持っているような組織といったほうが近いのかもしれない。
いずれにせよ、そんな連中が《水蝶》に食事以外の用事で訪れたとなれば、なかなかきな臭い話ではあった。
「何か事件でもあったのかな」
僕が訊くと、少女はこっくりと頷いた。
「そうみたいです。学校もいつもより早く終わっちゃって。まあ、もともと今日はお昼までだったんですけど」
学校というのは、市民街にあるというオーバルイン市民学校のことだろうか。下は幼年部から上は高等部まであるらしいが、僕はこの街の出身ではないので詳しいところまでは分からない。見た目の印象からすれば、さしずめセシルは中等部の高学年か、高等部に上がりたてといったところだろうか。
「そういえば、肝心の昼飯は何処かな」
それはそれとして、そろそろ本格的に腹が減ってきた。
「あ、そこです。机の上の……」
「ああ、これか」
先ほどまで少女が打ち込んでいたタイプライターの横に、編み上げのバスケットがおいてあった。思い出したように主張をはじめる腹の虫をなだめながら、僕は机のほうに歩み寄ってバスケットの中を覗き見る。中にはサンドイッチとポテトサラダの入った透明な容器と、紅茶の入った可愛らしいポットがおさめられている。
僕は机をぐるっと窓側に回り込むと、バスケットを手元に引き寄せながら、よいしょと椅子に腰を下ろす。椅子にはまだセシルの体温が少し残っていて、奇妙な居心地の悪さに僕は思わず身動ぎをする。
セシルは先ほどと同じ場所に立ったまま、特に何をするでもなくにこにことこちらに笑みを向けている。まだ何か用が残っているとも思えないが、用がなければ帰れ、というのもそれはそれで愛想のない話ではあるか。
そもそも本来ならば彼女は昼食の入ったバスケットを森の詰所に預けてくれれば良かっただけなのだ。それなのにわざわざここまで足を運んだと言うことは、きっとこの辺鄙な小屋に何かしら興味があったからに違いない。
「良かったら、その辺に座ってくれていいよ」
「え? あ、ありがとうございます! えっと、その辺って……」
言いながら、セシルが少し慌てたように周囲を見回す。そこにはちょうど彼女が座れそうな高さに平積みされた本の山がいくつかあるのだが、さすがにその上に腰を下ろすという発想は出てこなかったようだ。
僕は少し思案して、それから平積みされている本の山のひとつに視線を向ける。そして、そちらの方向に人差し指を向けると、虚空で円を描くようにくるくると回した。
特に意味のある動作ではない。ただ、何をするにもきっかけというのは必要で、例えば単純に声を発したりするのもそうだし、対象に向かって手を伸ばしたり、実際に触れてみたりといった方法でも構わない。
そう、魔術のきっかけである。とっかかりを作ったら、あとは意識を集中して世界の構造にアクセスし、自分のイメージする形に書き換えていく。
魔術は事象を操る力だ。熱を生んだり、光で照らしたり、目の前の物体を動かしたり――何でもできるわけではないが、想像力と精神力次第で大抵のことはできる。そういった力である。
つまり、例えば無造作に平積みされているだけの本をレンガのように均整に組み上げ、即席のスツールを作ることくらいは造作もないということだ。ついでに部屋の隅に転がっていたクッションを宙に浮遊させ、力場で作った不可視のハタキでぽんぽんと埃を叩き落としてスツールの上に設える。
「どうぞ、ごゆっくり」
とりあえず、着席を促してみるが、セシルは仰天したように丸い目で即席のスツールを見下ろしたまま動かない。
「す、すごい!」
そして、破裂したように歓声を上げる。
「これ、座っても大丈夫なんですか?」
「小一時間くらいなら、蹴っ飛ばしても大丈夫だよ」
「うわあ……これ、魔術なんですよね? こんなの、授業でも見たことないです!」
恐る恐るといった様子でクッションの端を掴みながら、セシルがそっとその上にお尻をのせる。そのまま彼女が完全に体重を預けきった状態になっても、本で組まれたスツールはびくともしない。座り心地を確認するように何度も身じろぎするセシルの体重など何処に吹く風といったように、どっしりとその場に鎮座している。
最近はあまり魔術を使うこともなくなったが、それでもまだこの程度なら余裕をもって制御できる。我ながらなかなかの出来栄えではないかと一人で自画自賛していたが――はて、この少女は今、奇妙なことを申さなかったか。
「授業でも見たことがない?」
そうだ。彼女は授業といったのだ。授業というからにはまず間違いなく学校の授業だろうが、はてさて、最近では市民学校で魔術を教えるようにでもなったのか。
「はい! 授業で見たことあるのは、光を照らしたり、モノを動かしたりするのばっかりで、こんな素敵な魔術を見たのは初めてです!」
そう応じるセシルの顔は、宝石みたいにきらきらと輝いている。僕はうーむと首を傾げながら、とりあえず、遅まきながらバスケットの中に入っているサンドイッチとサラダの容器に手を伸ばす。
「最近は、学校で魔術を教えているんだ?」
「あ、はい! 去年から専門の先生が来て、教えてくれてるんです! 部活みたいな感じで、必修ではないんですけど」
「ふーん、市民学校で魔術ねえ……」
「なにかおかしいですか?」
僕の反応の仕方が気になったのか、セシルが訝しむように眉を顰める。僕は容器からとり出したサンドイッチを齧りながら、どう答えたものかと少し思案する。
「おかしくはないけど、まあ、とくに魔術を習うメリットもないかなって」
かつて、魔術師と言えば誰もが憧れる存在だった。まあ、超常的な力を自在に操れる存在なのだから、それができない者からすれば崇敬の対象となることは自然なことではあったのだろう。
しかし、現在は少し様子が異なる。実際のところ、僕が生まれた頃にはすでに魔術なんてものは普通に生活していく上でほとんど必要のないもので、すでに学問として研究する以上の価値なんてほとんどなかったのだ。エーテル機関の普及に伴って、それまで魔術師にしか行えなかった作業、仕事のほとんどを代替することができるようになった影響も大きいのだろう。
僕も魔術のあつかいについてはそれなりに長けているほうだと思うが、かといってそれが僕の生活に何かメリットを与えてくれているのかと言えば、残念ながらそれほどでもないというのが正直なところである。
そもそも僕らが住むこのザルインの街は魔術の使用にかなり厳しい規制を設けていることでも有名だ。内容は多岐にわたるが、例えば公共の場での魔術の仕様を禁止するというような比較的ポピュラーなものから、魔術によって行われた犯罪はより量刑が重くなるなどといった変わり種まである。
これらはすべて魔術による不要な事故やトラブルを防止するためのもの、というのが法令を制定した評議会の言い分だが、その根底には反魔術思想があるのではないかという噂もないではない。仮に評議会側にそういった意思はなかったのだとしても、世の中には魔術師に対して良からぬ印象を抱いている人間なんていくらでもいる。
だからこそ、そんな状況で未来ある若き学生諸君が敢えて学業の中で魔術を教わることに何の意味があるのか、僕には少し理解が及ばなかった。あるいは反魔術思想だの何だのという変な噂を払拭しようという役人たちのパフォーマンスか。
「授業を受けているみんなには人気ですよ! 私も魔術の授業って大好きです!」
セシルは相変わらずにこにこと笑っている。
「まあ、魔術で色々できるようになっていくのは楽しいよね」
「はい!」
我ながら芸術的だと自賛してしまうほど当たり障りのない僕の返答に、セシルが元気いっぱいに頷く。そして、そのまま小首を傾げながら訊いてきた。
「魔法使いさんも、やっぱり最初はそんな感じだったんですか?」
それは彼女にしてみれば素朴な疑問以外のなんでもなかったのだろう。しかし、その問いは僕にとってちょっと答えづらいものだった。先の発言だって別に単なる相槌以上の意味はなく、自分の過去と重ね合わせてみた、なんていう洒落た理由があったわけではないのだ。
そもそも僕には、重ね合わせる過去がない。
「どうかな? あんまり覚えてないんだ。僕はこの街に来るまでの記憶がほとんどなくてね」
サンドイッチを食べ終え、今度はポテトサラダにフォークを突き立てながら僕が答える。唐突な記憶喪失発言にはさすがに面食らったのか、セシルが言葉を失ったように目を見開く。それにしても大きな瞳だな、と僕は暢気に考える。
「魔法使いさん、記憶がないんですか!?」
「まあ、そうだね。魔術のこととかこれまでに学んできた知識とかは綺麗に残ってるんだけど、自分が何者で何処で何をしてたとかってのはまったく覚えてないんだ。聞いた話では、この街に来るまでは傭兵をしていたらしいんだけど」
「傭兵! 魔法使いじゃなくて、兵隊さんだったんですか!?」
「とりあえず、兵隊ではないかな」
ひたすらテンションを上げ続けるセシルの紅潮した顔を眺めながら、僕は胸中でひっそりと溜息をつく。
彼女に説明したとおり、僕には過去の記憶がない。そもそも僕がこの街に住むことになったのも、数年前にとある街道の路肩で行き倒れかけていたところをたまたま通りかかった魔術師に拾われて連れて来られたからで、僕の意志ではないのだ。そして、どうやら僕はその時にそれ以前の記憶をすっぽりおき忘れてきてしまったらしい。
傭兵をやっていたというのも単に僕の荷物の中に傭兵ギルドの認識票があったからで、おそらく傭兵だったのではないだろうかといった程度のものである。傭兵ギルドに問合わせればもっと詳しい出自は知れるのかもしれないが、僕が知るかぎりこの付近にそんな物騒なものはないし、そもそもあまり自分の過去というやつにも頓着がなかったので、とくに詳しく知りたいとも思わなかった。
唯一確かに覚えていることといえば、今も首から下げているペンダントが誰か大切な人から送られたもので、そこに刻まれている名前が僕の名前で間違いないということくらいだろう。何故かこの点についてだけは、確信を持っている。
「ついでにいえば、魔法使いでもないけど」
どうせなのでと、そちらのほうもいちおう訂正しておく。
魔術を扱う者は、一般的に魔術師と呼ばれる。そんなことは魔術に精通しているいないに関わらずある種の常識のようなもので、ましてセシルは学校で魔術を習っているのだから、それくらいのことは知っているはずなのだ。
つまり、彼女が僕を『魔法使い』と呼ぶことには、何か特別な理由がある。
「魔法使いさんは、魔法使いでしょう? 森の魔法使い……有名ですよね?」
森の魔法使いとな。どうやら有名らしいが、もちろんそんなことを僕が知るはずもない。
「そういえばさっきの手紙にも書いてあったね。何だい、その森の魔法使いってのは」
「知らないんですか!?」
何故か仰天するセシル。そんなことで驚かれても、僕のほうが困ってしまう。
「森の魔法使いといえば、わたしの学校ではめちゃくちゃ有名ですよ! 森の奥深くで怪しい実験をしているって噂をする人もいますけど、どっちかっていうとこの街の守り神だって思ってる人のほうが多いです!」
そう熱弁するセシルの言葉に、僕は思わず飲みかけた紅茶を噴きそうになる。怪しい実験に関してはまだ噂話として分かる気もするが、守り神だなんて発想はいったい何処から出てきたのか。
「何だってそんな噂が。とくに、その、守り神って……」
「守り神は守り神ですよ。この森、地図には叡智の森って書いてあるんですけど、きっと魔法使いさんはその叡智を守るために一人でひっそりと暮らしてるんだってみんな言ってます」
叡智――というと、心当たりがあるとすれば、地下にある膨大な古書のことだろうか。
この小屋の地下には小屋の面積よりも遥かに広大な書庫があって、実はこの小屋自体がその書庫の出入口を兼ねて建造されたものだと聞いたことがある。僕が生業としている古書の翻訳というのも、実は誰かに依頼されたといったものではなく、その地下書庫から適当に選んだ本を翻訳して出版社に売りつけているだけだったりするのだ。
もちろん、この書庫にはちゃんとした管理者が別にいて、手をつけていい蔵書とそうでない蔵書というものは明確に区別されている。ただ、たまに『手をつけてはいけない蔵書』の翻訳を管理者から依頼されることがあって、その時は出版社ではなくそのまま管理者に翻訳した内容を渡すことになっている。
もちろん、内容については門外不出だ。もっとも、翻訳を依頼される古書は大抵が高度な技術書で、翻訳している僕でも何が書いてあるのかほとんど理解できていないのだが。
しかし、だとしたら人の噂というのもなかなか馬鹿にできないものだ。叡智を守っているつもりはないが、端から見れば確かに僕がやっていることは叡智の管理、守護ととれなくもない。
「なるほどねえ」
一人で納得しながら、僕はポテトサラダの最後の一口を平らげる。そして、空になった容器とポットをバスケットの中に戻しながら、少女に向かって両手を合わせて頭を下げる。
「ごちそうさまでした」
「いえいえ、お粗末さまでした……あっ!」
はっとしたようにセシルが立ち上がり、何かを思い出したのか、腕に巻いたピンク色の時計に目を落とす。
「いけない! 随分と話し込んじゃいました!」
「おっと、もうそんな時間かな」
「帰ったら家の仕事を手伝うつもりだったんです!」
「親孝行なんだね」
「いえいえ、そんなんじゃないですよ! あっ、バスケットはいただいていきますね!」
だだっとこちらに駆け寄ってくるなり机の上からバスケットを取り上げると、セシルはそのまま勢いよく踵を返して小屋の出入口へと駆け戻っていく。そして、最後にまたくるりとこちらを振り返りながら言った。
「お話しできて楽しかったです! また、遊びに来てもいいですか?」
「もちろん。次に来た時にまた僕が寝ていたら、今度は起こしてくれればいい」
「ありがとうございます! また来ます!」
そう言い残してぺこりと頭を下げ、セシルの姿が扉の向こうに消えていく。
まったく、嵐のような少女だ。しかしまあ、春の嵐と思えばまだ風情もあって悪くないか。
今回の古書の翻訳が終わったら、次は彼女のような少女が活躍する冒険譚なんかを探し出して翻訳するのも悪くないかもしれない。地下の書庫にある蔵書はいちおうは歴史的価値のあるものだが、内容に関していえば娯楽小説の類がかなりの割合を占めている。
「さて……」
ぐっと椅子の上で背伸びをしながら、嵐の後の静寂にそっと溜息をつく。決して不快ではなく、むしろ愉快な時間を過ごせたとは思うのだが、それでも寝起きに迎えるイベントとしては少々熱量が高すぎたなと振り返る。
このまま翻訳の仕事をはじめるのも気が進まず、かといって他にやることがあるわけでもない。小腹も埋まったことだし、二度寝でもしようかと思いはじめた矢先――不意に、扉をノックする音が響いた。
一瞬、セシルが戻ってきたのかとも思ったが、仮に彼女が戻ってきたとして、わざわざご丁寧にノックしてから入室するなんて真似をするだろうか。まあ、さすがに嵐のような少女にもその程度の良識はあるかもしれないが、しかし、今のこの瞬間に扉の向こうから感じる気配は、どうにも彼女のものとは異なるような気がした。
「どうぞ」
ひとまず入室を促すと、軋んだ音を立てながら扉が開き、その向こうから一人の男性が姿を見せる。軍服を思わせる紺色の制服を身にまとい、腰にサーベルと思しき剣を下げた壮年の男性である。猛禽を思わせる鋭い双眸は褐色で、短く刈り揃えられた髪は地毛なのか単に白髪交じりなのかは分からないが、全体的に灰色がかっている。
少なくとも顔見知りでないことだけは確実だが、その制服には見覚えがあった。連邦警察の制服だ。ザルインの街は自治領であるが、大陸の南部一帯を統括するロウガスト商都連邦とは同盟関係を結んでいて、自警団にも常に何人かの連邦警察員が駐在していると聞く。
「失礼するよ。君がアテナ・ラスティングくんで間違いないかな?」
静かな足どりで室内に踏み入りながら、男性が言った。その声音は落ち着きを払っており、少なくとも敵意のようなものは感じない。とはいえ、連邦警察の人間がこんなところにわざわざ足を運ぶなんてこと自体がすでに異常事態で、この男性に敵意があろうがなかろうが、どうせこれは面倒なことになる。
「はい、そうです」
素直に応じる。ラスティングという姓は傭兵ギルドの認識票に書いてあったものと同一のものだから、たぶん僕はアテナ・ラスティングなのだろう。
「私はビクトール・ダンケルという者だ。連邦警察から派遣されてきた、いわゆる派遣警察員というやつだな」
にっこりと愛想よく笑いながら、男性――ダンケル氏が自己紹介をする。黙って見つめられていると鷹にでも睨まれた気分になるが、笑うとそれなりに愛嬌のある顔になる。
しかし、その温和な印象とは裏腹に、ダンケル氏からは張り詰めたような不可思議な圧力を感じる。例えるならば抜身の刃が目の前に飾られているような、そんな気配である。どうしてそう感じるのかは僕自身にも分からない。
「連邦警察の方が、こんな辺鄙なところにどういったご用件で?」
「いやなに、少し話を聞かせてもらいたくてね」
「話、ですか?」
「三年前の紛争のことを覚えているかね?」
あくまで表情は笑顔のままで、ダンケル氏が訊いてくる。刃の切っ先がこちらに向いた気がした。
三年前の紛争――知識としては知っている。大陸の西部、ジルベニアス帝国内の政情不安からくる貴族同士の内乱がそもそもの発端らしいのだが、そこに東のアンスベルグ共和国がロウガスト商都連邦を通じて内部干渉をはじめたことで規模が拡大した。最終的には旧神王都領――大陸中央部にある巨大遺跡群において帝国軍と共和国軍が衝突するという状況にまで発展してしまったという、ここ数十年の中で最も大きな紛争である。
一時は共和国軍が帝国領内まで侵攻するまでに至ったが、帝国軍の奮戦により戦線が再び旧神王都領まで押し戻されたことで共和国軍の士気は大幅に低下、もともとの紛争の発端が共和国側の不要な内部干渉であったこともあり、国内で停戦を望む声が強くなったことと疲弊しきっていた帝国側の利害が一致し、そのまま紛争は勝者も敗者もないまま停戦を迎えることになる。
これだけ聞くと共和国側がただの間抜けのようにも見えるが、実際はこの紛争に乗じて帝国領内にある良質な鉱山の支配権を獲得しようと狙っていたのではないか、というのが概ねの見方である。エーテル機関の普及によって鉱山資源の価値がここ数十年で信じられないほど上がっているのだが、共和国の領内は平野や盆地ばかりで農作に向く反面、鉱山資源には恵まれていなかった。
一方で山岳地帯にある帝国はこれまで食料資源に恵まれていなかったことに常に悩まされていたが、鉱山資源の価値が上がったことで経済的に恵まれるようになってからは輸入によって食料問題を解決できるようになり、急速に国力が強化――されるかと思ったが、今度は自領内の鉱山の有無による経済力の格差によって貴族間の対立が激化し、帝室の後継者問題も相まって政情不安が状態化するという、何とも皮肉な結果となっている。
「ええと、知ってはいます。でも、覚えてはいません」
ともあれ、僕は正直にそう答えた。
これはおそらくの話だが、僕はその紛争に参加している。僕が街道の路肩で行き倒れていた時期と先の紛争が終結した時期はほとんど同時期だし、その時の僕はまるで戦場にでもいたかのような格好だったと聞かされていたからだ。
「覚えていない?」
「ちょうど三年前くらいから先の記憶がないんです。都合のいい話みたいですけど」
「ふむ……?」
ダンケル氏が訝しむように眉を顰め、顎鬚をさすりながらじっとこちらを見つめる。
「ええと、どうして三年前の紛争のことを?」
黙って見つめられても間がもたないので、とりあえず素朴な疑問を投げかけてみた。
「いやなに、実は私も連邦警察に来るまではアンスベルグの軍にいたものでね。昔話ができるかと思って聞いてみたのだが……」
何ともはや。予想外の返答に僕は言葉を失ってしまう。つまり、元アンスベルグ軍で、今は連邦警察の派遣員――そんな人物が今、こんな森の奥にある辺鄙な小屋にわざわざ足を運び、僕に向かって三年前の紛争について尋ねてきているわけだ。こうなってはもう春の嵐どころの騒ぎではない。
そこで僕はふと嫌な予感を覚えた。実は僕は逃亡兵か何かで、ダンケル氏はそんな僕を罰しに来たという可能性もあるのではないか。もちろん、すでに軍は退役しているのだからダンケル氏にそんな権限はないだろうし、そもそも僕が逃亡兵かどうかだって定かではないのだが、この際、あらゆる可能性を考慮しておくくらいの気構えはあっても損はないだろう。
「あなたはまるで昔の僕を知っているみたいですが……」
とりあえず、訊いてみる。自分の過去になんて今さら興味はないが、逃亡兵かどうかくらいは確認しておいても罰は当たらない。
「どうかな…噂くらいのものだよ。直接、顔を見るのも今日が初めてだなのでね」
すっと目を細めながら、ダンケル氏が答える。鋭さを増したというよりは、何処か遠くを見るような目だ。あるいは過去の記憶に思いを馳せているのかもしれない。
どうにも嫌な予感がした。
「あの紛争には《銀の大槌》と呼ばれる傭兵が参加していた。彼は向こう側……ジルベニアスの軍に与する傭兵だったが、その名はこちらの軍にも伝わるほど有名だった」
――と、ダンケル氏が語りはじめる。そういえば、最初に『昔話でもできるかと思って』と言っていたが、これがその昔話だろうか。
《銀の大槌》――聞き覚えのない単語のはずだが、どうにも胸の奥がざわつく。
「ドレイク砦の戦いというのがあってね」
ダンケル氏が言葉を続ける。
「ドレイク砦は帝国側にとって要所となる砦だった。だが、我々アンスベルグ軍はついにその砦を攻め落とすことに成功し、いよいよ帝国の領内へと侵攻を開始するまでに至った。ドレイク砦は旧神王都領と帝国を繋ぐいわば玄関口のようなもので、ここを抑えておけば帝国は戦線を押し上げられない。逆に言えばここを守り切れなかった時点で帝国側の敗戦はほぼ決まったようなものだった」
ドレイク砦の戦いについては、僕もふわっとした程度ではあるが知識があった。僕の記憶に間違いがなければ、その後、帝国軍が奇跡的にドレイク砦の奪還に成功し、そのことが決起となって再び戦線を押し上げることに繋がるのではなかった。
「ある日のことだ。順調に帝国領内への侵攻を進めていた矢先、伝令からとある報告が上がった」
ダンケル氏の表情に少し影が差した。続く口調もこれまでに比べて幾分か重たげなものになる。
「《銀の大槌》が単身でドレイク砦に向かっている……とね。私は嫌な予感がした。ただの勘だったのだが、彼奴をドレイク砦に近づけてはいけないと思った。だが、私だけの力ではたった一人の傭兵のために部隊を動かすことなどできるはずもない。作戦司令部にも近くにいる部隊をすぐにドレイク砦に集結させるよう進言したが、鼻で笑われたよ」
自嘲気味に口の端を歪めて、ダンケル氏がそっと嘆息する。
「結果、ドレイク砦は落とされた。我々だって砦の重要性は理解していたから、すでに帝国領内に進攻を開始しているとはいえ、それでも後方支援を含めて千人規模の部隊を駐留させていた。だが、たった一晩で砦は陥落した。それもたった一人の傭兵によってだ。まるで悪夢だったよ。しかも《銀の大槌》はそのまま単身で旧神王都領に攻め上がり、さらに二つの砦を落とすまでその侵攻をとめなかった。もはや共和国軍の指揮系統は完全に乱れ、我々は帝国領から尻尾を巻いて逃げ出すより他なかった」
そう言って言葉を切るダンケル氏の声には、深い悔恨が潜んでいるような気がした。話を聞くかぎりダンケル氏が何か特別に責任を感じる必要はなさそうな気もするが、あるいは僕には分からない元軍属なりの思いといったものでもあるのかもしれない。
しかし、それにしたって荒唐無稽な話ではある。まるで思春期の若者が夢うつつに思い描く空想のような話だ。いくらなんでもそんな超人じみた傭兵が実在するのだろうか。というか、今時は子ども向けの寓話でだってそんな無茶苦茶な設定のヒーローは出てこないような気もするが。
「大変な経験をされたんですね」
とりあえず、無難そうな相槌を打っておく。
「そうだな。私も君のように綺麗に忘れられたらいくらか楽なのだろうが」
ダンケル氏がにやっと口の端を歪める。ひょっとして、これは皮肉を言われているのだろうか。
「それが、あなたのしたかった昔話ですか?」
「ああ。本当なら、あの時の《彼》の心境を聞いてみたかったのだが」
「仰っていることが、よく分からないのですが」
「分からないのなら、それで良いのではないかと思うよ。きっと、君にとってはね」
何やら不穏な気配が漂ってきた。ダンケル氏の言う《彼》とは――。
「そうですね。そんな気がします」
これ以上の詮索はやめておこう。ダンケル氏が気を使ってくれているのであれば、僕はただそれに甘えればいいだけのことだ。たぶん、ダンケル氏のいう《彼》が誰であるかとか、《銀の大槌》と僕の関係がどうであるとか、そういったことはきっとこのまま闇の中に葬っておいたほうが僕の残りの人生にとってはいくらか有益なのだろう。
それを責任逃れだと揶揄する者がいるかどうかは別として。
「さて、昔話も終わったところで、そろそろ本業に戻るとしようかな」
不意にダンケル氏が声のトーンを変え、先ほどよりかはいくらか柔らかい表情になってこちらを見る。どうやら本当に昔話をしに来ただけ、というわけではないらしい。
「本業というと?」
「今の私は連邦警察の派遣員だからね。もちろん、警察署員としての責務を果たさせてもらおうということだよ」
ダンケル氏は何故かにこにこしているが、どうにも穏やかな雰囲気ではない気がするのは気のせいだろうか。
「もともとここには自警団の団員が来ることになっていたのだが、どうしても君と話がしたくて特別に変わってもらったのだよ。申し訳ないが、無理を言って代わってもらった手前、できれば君にも素直に協力してもらえると助かるのだが」
「僕に協力、ですか」
「うむ。実は昨夜、市民街で魔術師によると思われる殺人事件があったのだが、その参考人として君に署のほうで話を聞かせてもらいたいのだよ。一緒に来てもらえないかね」
「えーえ?」
あまりに唐突すぎる展開に、僕は素直に面食らう。いくら何でも急展開すぎやしないか。
「……もう少し詳しく聞かせてもらえますか?」
「いいとも。昨晩、警邏中の自警団員が三番区の路上で変死体を発見した。検視の結果から死因は第三者の魔術によるものと断定。周辺への聞き込みで事件当夜に現場付近で金髪もしくはそれに近い頭髪の人物を見たという証言と、事件の直前に同様の特徴を持つ人物が被害者と言い争っているところを見たという証言が得られたことから重要参考人として君の名が挙がった、ということらしい」
この街にどれだけ魔術師が住んでいるかなんて知らないが、頭髪に関して言えば大陸の南部に位置するこの街は人種的に黒髪の住民が圧倒的多数で、先のセシルのような亜麻色だったり栗色だったりする頭髪の住民は少数派だ。魔術師という条件と金髪に近い頭髪という条件が重なる人物となると、必然的に数は絞られてくる。
ちなみに犯罪に魔術が用いられたかどうかを判別するのは、実は比較的容易だ。そもそも魔術にはその対象となった物体や空間に対して魔力を残留させる性質がある。これはいわゆる指紋のようなもので、魔術を扱う者によって固有の型があり、どれだけ魔術に精通していてもその痕跡を残さずに魔術を行使することはできない。今回の事件が魔術によるものと断定できているのも、その痕跡が確認できたからだろう。
「僕は無実ですよ」
「それは署のほうで釈明してくれ。君を疑うわけではないが、これで本当に君を連れて帰らなかったりしたら、今度は私が自警団に疑われてしまう」
ダンケル氏が肩をすくめ、困ったように苦笑いをする。その姿からは先ほどまでの剣呑な雰囲気はすっかり消えていて、昔話をしていた時の彼は実はまったくの別人だったのではないかと僕に錯覚させる。
しかし、これはまた面倒なことになったものだ。
セシルという嵐のような少女、ダンケル氏という僕の過去を知るらしい元軍人、そして、殺人事件。これだけの条件がそろえば、今日という一日がこの先どう転んでもろくな日にならないであろうことくらいは容易に想像できる。下手をすれば今日一日どころの話では済まないかもしれない。
僕は椅子の上でぐっと背のびをしながら、肩越しに背後の窓を見やった。射し込む陽射しの麗らかさがやけに嫌味に感じるのは、僕の性根がひねくれているからなんかじゃなくて、間違いなく僕をとりまくこの環境に原因がある。
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