プロローグB. 死を待つ者、あるいは死をとめる者

 森を切り裂くようにまっすぐ伸びた街道を、一台の馬車がのんびりと走っている。昨夜の雨のせいか地面にはまだところどころに水たまりが残っているが、今日は日差しも穏やかで、荷台を引く馬の足取りも軽い。

「たまには馬車も悪くないものね」

 荷台に座る女性客が、ポツリと呟いた。縁の豊かな黒髪の、三十代半ばほどの女性だ。意志の強そうな瞳の色は濃い褐色で、旅装束を思わせる厚手の外套に身を包み、膝の上に小さな荷袋を抱えている。

 この女性以外に、荷台に乗客の姿はない。ゆえに、その言葉は独り言のようなものだった。しかし、愛想の良い御者がその一言に答える。

「そうでしょう? やっぱり旅は馬車に限りますよ」

 首だけ振り返りながらそう言う御者は、丸く大きな鼻が特徴的な初老の男だった。無造作に伸ばした口ひげはともすれば不潔に見えなくもないが、その丸鼻のおかげか奇妙な愛嬌を感じさせる。御者としての生活ゆえか肌は真っ黒に焼けていて、荷物の積み下ろしを行うこともあるからか、上着の袖口から伸びる腕は意外にも筋肉質だった。

「最近は何でもかんでもエーテル機関だエーテル機関だって、風情も何もありゃしませんや」

 御者が続ける。そう言っているそばから、街道の反対側を四輪のエーテル自走車が駆け抜けていく。車輪が水たまりを跳ね上げ、それを嫌がった馬が急に体の向きを変えたせいで、馬車が大きく揺れた。御者は舌打ちをしながら手綱を操り、女性客は荷台の縁を掴んで振り落とされないように姿勢を保つ。

 エーテルとは、植物が光合成を行う際に大気中に放出するエネルギー物質のことだ。日中はほとんど目にすることはできないが、わずかながら光を反射する性質があるため、夜間に明かりを点けていると大小のシャボン玉のような形で目視できることもある。

 そして、エーテル機関とはそのエーテルを動力源として動くエネルギー機関のことを指す。ここ数十年で急速に普及し、以降、市民の生活に大きな変革をもたらした革新的な発明であり、現在では人々の生活になくてはならない必需品となっている。

「まったく、見やしたか? あんな風にスピードばっかり出してちゃ、景色を楽しむゆとりもありゃしない」

 不機嫌そうに御者がぼやく。とはいえ、これだけエーテル機関が普及した世の中で、敢えて馬車の旅を選択する者がどれだけ残っているかといえば、難しい問題だ。エーテル自走車の中には客を乗せて長距離を走ることを目的とした旅客車も存在する。そちらのほうが移動にかかる時間も短縮できるし、安全性も高い。

「そうね…」

 女性客が気のない相槌を打つ。彼女が旅客車ではなく馬車を選んだのも、単なる気まぐれに過ぎなかった。特段、馬車に何か思い入れがあるわけでも、エーテル機関に対する嫌悪感があるわけでもない。今回、旅の足として馬車を選んだことで唯一良かったと思えることがあるとすれば、今日みたいな朗らかな昼下がりに緑に囲まれた街道を往く馬車旅というのは、存外、悪くないものだと知ることができたことくらいだろう。

 ――と、その時だった。

「とまって!」

 女性客が声を上げた。その視線は、馬車が通り過ぎて行った道のやや後方、街道の縁に繁る茂みの一角に向けられている。

 御者が慌てて手綱を引き、馬が足をとめる。何事かと振り返る御者を無視して、女性客はそのまま荷台から飛び降り、来た道を駆け戻っていく。彼女の向かう先には、注視していなければ決して気づかなかったであろう奇妙な影があった。

 人の足だ。茂みの中から、何者かの足が伸びていたのだ。

 女性客が駆け寄って茂みを掻き分けると、その奇妙な足の正体はすぐに知れた。

 若い男だった。軍属か、あるいは単なる傭兵か、戦闘服を思わせる薄汚れた装衣に身を包んだ男が、まるで行き倒れのように地面に突っ伏している。幸いにもまだ息はあるようだが、その横顔は蝋燭のように青白く、頬に手を当ててもほとんど体温を感じられない。昨夜の雨に打たれたのか髪も服もまだ湿り気を帯びており、それがこの男の体温を奪う原因になっているのかもしれないが――。

「大丈夫? 私の声が聞こえる?」

 女性客が男の肩を叩きながら、できるだけ大きな声で彼の耳元に呼びかける。しかし、反応はない。女性客はそのまま男の体を横向きに起こし、改めて首筋に手を当てた。弱々しいが、脈はあった。呼吸も極端に乱れてはいない。ただ、あまりに血色が悪く、体温が低すぎる。

(ただの行き倒れ? でも……)

 何か違和感がある。そう思った女性客は、男の体の表側に回ってその全容をじっくり注視する――と、全体的に湿っている上衣の中でも、特に腹部のあたりがどす黒く滲んでいることに気がついた。もともとが暗い色合いの装いだったために見逃していたが、明らかに雨で濡れたことでできた滲みではなさそうだった。

 男の上衣を捲り上げると、滲みの原因はすぐに見てとれた。脇腹のあたりに小さな刺し傷がある。指先ほどの本当に小さな傷だが、その深さまでは量れない。すでに出血はおさまっているように見えるが、単にもう出ていく血がないだけという可能性もある。

 女性客は傷口にそっと手を添えると、意識を集中させるように目を閉じた。刹那、傷口の周りに柔らかな光が溢れ出し、その光の中で傷口が見る見るうちに小さくなる。そして、数秒後にはまるで最初から何もなかったかのように傷口は綺麗さっぱりと消えていた。

「へええ、おどれえた。お客さん、魔術師だったのかい」

 追いかけてきたらしい御者が、女性客の肩ごしに様子を窺いながら驚きの声を上げる。

 魔術師というのは、読んで字のごとく魔術を操る者の総称である。そして、魔術とは特殊な才能、および技巧によって行使される超常的な現象を指す。今、目の前で行使された魔術は、人間の本来持つ再生能力を意図的に活性化させるものだ。それにより、本来ではありえないほどの速度で傷が癒えていったというわけである。

「ここからザルインまで、あとどれだけかかるか分かる?」

 背後の御者に問いかけながら、女性客が男の体に腕を回して担ぎ起こす。それを見た御者も、慌てて反対側から男の体を支えた。そして、思案するように言う。

「このまま行けば日暮れまでにはってとこですが……」

「それじゃ間に合わないかもしれないわ」

「この旦那がですかい? 傷はさっき魔術で治したじゃねえですか」

「傷が治っても、体力が回復するわけではないの。早くちゃんとした処置をしないと、命に関わるかもしれない」

 男の体を支えながら馬車へと向かう女性客の足には、その言葉以上の焦りが感じられた。

「分かりやした。それなら、こっちも旅馬車の意地を見せやしょう」

 御者がニヤッと口の端を吊り上げる。馬車まで辿り着くなり一人で男の体を荷台に担ぎ上げると、そのまま自分も御者台に飛び乗った。

「ちょいと揺れやすが、構いませんやね?」

「ええ。彼が頭を打っていないことを祈りましょう」

 女性客が答えながら男を荷台の座席に寝かせ、外套を脱いでその体にかける。馬車の揺れがこの男の容態にどの程度の影響を及ぼすかは分からないが、このまま日暮れまで大した手立てもなく放っておくよりかはまだ助かる見込みもあるだろう。

「お客さんも、振り落とされないように何処かに掴まっといてくだせえ!」

 御者が声を上げ、馬に鞭を入れる。ガタンと荷台が揺れ、緩やかに後方へと流れていく風景が次第にその速度を早めていく。車輪が悲鳴を上げるように軋み、水たまりが弾け、荷台はその揺れを増す。

「しかし、お客さんもお人好しなお方だ。別に見殺しにしたところで、罰は当たらんでしょうに」

 ふと、冷やかすように御者が言った。

「本当にね。自分でもそう思うわ」

 女性客は自嘲気味に笑って、静かに眠る男へと視線を向ける。薄汚れたその髪は、最初に目にしたときは総白髪のようにも見えたが、よくよく観察してみると、どうやら銀髪であるらしい。今は血の気の引いた青白い肌も、もとよりそれほど色味があるわけではないのかもしれない。

 長らく大陸の西部で生活をしていたが、実際、西部には銀髪で肌の白い人種というのも珍しくなかった。そう考えると、この男の容態というのも、それほど深刻なものではないのかもしれない。

(でも、本当にそう。仮にこの男が助かったとして……)

 何とはなしに男の冷たい頬を撫でながら、声には出さずに女性客は自問する。

(どれだけの意味があるというのだろう。もう自己満足にすらならないのに……)

 そっと自身の胸元に手を当てる。自己満足にすらならない――それでも無視することができなかったのは、あるいは自分自身がこれまでずっと医師として生きて来たからゆえかもしれない。

 それにしたって、やはり皮肉なものだ――と独りごちる。この先、どれだけ人を助けたところで、消えかけた生命の灯を繋ぎとめたとして、決して自分自身の命を救うことはできないと分かっているがゆえに。

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