第一章 雪降らずして銀に染まらず、朱に染まる

 うだつの上がらない男は陽気だった。飲みに飲みまくって、時間は既に零時を過ぎていた。県庁お膝元の繁華街で職場の新年会を夕方から開催し、気付けば三次会まで発展していた。日本酒を飲み過ぎたせいか、少し足元がふらついていた。

 今年の彼は平和そのものだった。相変わらず用務員のような生活を送ってはいたが、新型ウイルスが5類感染症に移行して普段通りの生活に近付いていった。少しずつ遠出することが出来て、年末にはコミケにも足を向けた。前日には大学の同級生と飲みに行けたから万々歳だ。それに、今年から釣りも始めた。早い時間から出向く苦労はクソ野郎とも思ったが、釣れれば面白い。釣れなくとも初心から学べることがあるからと意気消沈することはなかった。ただ、夕暮れのせいで車を電灯にぶつけてしまったことだけは悔やむ。

 思い返せば、本当に良い年だった。仕事が増えようとも自由に行動出来て、遊びに行けるのは素晴らしい。夏には仕事で地元の花火大会に駆り出されたが、まったく苦にはならない。暑さで嫌だっただけだ。とはいえ、なんなんだ最近の夏は。マジで死ぬ。どうなっているんだ。自分が幼少期の頃は全然涼しかったし、なんなら寒いぐらいだぞ、と文句を言いたいぐらいの夏を過ごし、秋を過ごした。

 そして冬。新年を迎えた。いつも飲みに行く同級生からは最近連絡が少なくなって物足りなさを感じている。正直寂しい。気の知れた奴らと飲みたいのは薄々感じていた。補う訳ではないが、地元の行きつけで飲んでいた。まぁ、それはいつものことなのだが。

 こんな年でもいいじゃないか。平和でいいじゃないか。本当にそう思う。雪も少なく移動には良い年だ。狩猟と猟銃免許も趣味の範囲内で取りたいと思っている。余計なことまで考えているのは世界が平和な証拠だ。田舎だから、ではない。日常が平和だからだ。

 このままでいい。平和が一番だ。トラブルなんてなにもない方がいい。

 それなのに、心にぽっかりと穴が空いたような空虚感を抱くことがあるのは何故だろう。

 腕時計で時間を確認する。まずい。いつもの店に行かなくては。マスターに頼んでいた本場顔負けの麻婆豆腐を食べに行かなくてはならない。痺れる辛味の中にある旨味が素晴らしい。一種の中毒性を持つほどに病みつきになる。次の日も食べたくなる衝動に駆られるほどだ。

 繁華街を歩いていると冬風が吹く。酒で火照った体を覚ますには丁度良かった。

 冬風に吹かれていると、ふとあの時を思い出す。去年の年の暮れ、東京で出会った少女のことを。

 殺し屋と名乗った少女のことを。

 あの時の出来事が本当なのかどうか、今となってはわからなくなってきた。体験した事件は一切の情報もなく、それらしいニュースすらない。最後に少女を見つけたが、声をかけることはできなかった。はっきりと存在していた筈なのに、時が経つにつれて記憶が曖昧になってくる。今となっては、胡蝶の夢のように思えてきた。

 あれは本当に、現実だったのだろうか。

 それとも、自分の妄想だったのだろうか──

「あ。すいません」

 物思いに耽っていた訳ではないが、通りすがりの男と肩がぶつかった。うだつの上がらない男は謝ったが、対して男は謝らなかった。

「お前、カノシタか?」

「はい?」

 酔っていたせいもあって反射的に返事をしてしまった。

 気楽に呼ばれたものだから知り合いだと思って振り向いた直後、顔面を殴られた。

 予想できていない出来事にカノシタは尻餅をついた。かけていた眼鏡は無事だったが、鼻血が少し出ていた。

 ────は?

 痛い、よりも殴られたことの疑問が先だった。何故殴られたのだろうか。ぶつかったからか? 謝罪したのにぶつかっただけで殴るなんて酷い人間だ。

「いってぇな。いきなり何する──」

 相手の蹴りが顎を直撃。軽い脳震盪を起こして意識と視界が揺れる。酒を飲みまくっていたせいで一気に気持ち悪くなった。

 怒りよりも吐き気が込み上げてきたが必死に堪え、垂れる鼻血を押さえながら顔を上げる。目の前には若者四人が立っていた。

「あ? まだ起きてるぞ」

「気絶してないじゃねぇか」

「下手くそ」

「煩ぇな。次やりゃいいんだろ」

 人としての倫理観が欠けている会話を聞いて、ようやく怒りが湧いてきた。手で鼻血を拭き取り、言い争っている男の一人に突進した。

 隙を突かれ、体勢の低い体当たりで容易に押し倒された。腰を打った男は動けず、カノシタは馬乗りになって殴りかかった。

 しかし、殴るより先に両脇にいた男達に殴られる方が先だった。

 当たり前だが、数で圧倒的に不利だった。そんな初歩的なことを忘れていた。体当たりするのではなく、一目散に逃げれば良かった。そうすれば、逃げ切れたところで吐き気に負けて嘔吐し、胃の中を空っぽにしてから次の店に行くことができたかもしれない。麻婆豆腐を食べ、酒を飲んで殴られたことを笑い話に出来たかもしれない。

 ──コイツら蹴り過ぎじゃね?

 地面に転がり、頭を庇いながら体を小さくするカノシタを容赦なく蹴ってくる。たまに腹部や鳩尾に深く突き刺さる。こんなにされることをした覚えはなかったが、今となってはどうしようも出来なかった。

 ──ああ。

 どういう訳か頭は冷静だった。体は痛みで動かない。けれど頭は不思議とすっきりしている。まるでこの程度じゃ慌てることはない、と覚えているようだった。

 

 現実か妄想かわからないことだったのに。何故だろう。あの時の心臓の猛りが本当のように思えて仕方なかった。

「あのさ」

 袋叩きすることに躍起になっていたせいで、男達は声をかけられるまで人がいることに気付かなかった。

 暴行をやめて後ろを向くと、一人の女性──それも少女が立っていた。カノシタも彼女を見た。

 中性的な美女。そういう少女だった。

 両手を大きめな白いコートのポケットに突っ込み、地元ではないどこかの学校制服を着ていた。チェック柄のスカートを短くし、暗く淡い紺色のブレザー。それにより白のワイシャツと赤いリボンが際立っている。寒いのか一一〇デニールの黒タイツを身に着け、ハイカットのトレッキングシューズを履いていた。胸は大きくなく腰高。引き締まった体型。太股の付け根に隙間が少しだけあった。

 透き通るようなプラチナブロンドに染めた短い髪は、少し乱れていて無造作な印象を与えた。加えて髪の根元は黒くてまるでプリンのような頭でだらしない。その筈なのに、少女のスタイルと顔つきでそれさえもクールな印象を与えていた。

 そんな異質な少女がそこにいた。飲み屋街に、一人のJKが佇んでいた。

 つまらなそうな目つきだった。だがカノシタはすぐにわかった。その目つきは、あの時の少女と同じ目をしていたことを。

「その人に用事あるんだけど退いてくれない?」

 プリン頭の少女は気怠そうに言う。若者四人は顔を見合わせて笑った。

 少女は表情を変えない。

「それより俺らと遊ばない?」

「君みたいなスタイル良い子ってここら辺じゃいないんだよね」

「見ない制服だ。どこの学校?」

「高校生だけどお酒飲めるっしょ?」

「退けって言ったんだけど?」

「そんな怖い顔しないでさ」

 近付いて、男の一人が少女の肩に手を置いた。

 瞬間、少女の瞳が明確に変わったことをカノシタが見逃さなかった。

「やめろ、馬鹿!」

 四人が呑気な中、カノシタは叫ぶ。

 彼女が人殺しの目をしていていることを理解していたから。

?」

 殺意に満ちた刃のような言葉だった。

 肩に置かれていた手を掴み、手首と肘の間接を極めた。痛がった男は声をあげる。それだけではなく、少女は関節の抵抗を無視して肘を叩き折った。

「ああああああっ!」

 男の悲鳴が繁華街に響く。通行人やキャッチが何事かと振り向いた。

「何してるんだテメェ!」

 男達が殴りかかる。少女は容易く躱すと、男達の脇腹や鳩尾、股間や目などに打撃を与えていく。どれも急所への攻撃で的確。蹴りはせず、パンチだけだったが鋭い攻撃の威力は凄まじく、男達を一撃で伏させた。

 手を抜いている。カノシタの目にはそう見えた。パンチしかしていないのにこの実力差。大人の男を相手にしても怯まず、一撃で地面にのたうち回させる時点で、彼女はここにいる誰よりも強い事がわかった。

「このクソガキが……!」

 納得できない男が立ち上がり、構えをとった。基本的なボクシングの構えだが慣れている。格闘技経験者だった。

 男は左右の打撃を繰り出す。先程よりも速い。本気で少女を潰しにかかる。

 しかし少女は余裕綽々に見て躱す。こんなものどうでもいいと言わんばかりに、つまらなそうな瞳で。

 スウェーして躱した時、男の右足が少女の左太股に直撃した。男はキックボクシングの経験者だった。

 嫌な顔をした少女の表情を見逃さず、男は微かに笑ってもう一度蹴りを繰り出す。今度は脇腹を狙っていた。決まればそれでうずくまる。後は好きに出来る。

「馬鹿でしょ」

 少女の冷たい一言。脇腹を狙った男のミドルキックを、少女は左足を高く上げて脛でカットした。予想以上に硬い脛で防御されて、男は呻き声を上げてしまった。それほどまでに少女の足は強固だった。

 僅かな隙を見逃さないのは少女も同じ。スッと下ろした左足は地面を固めるように踏みしめ、右足が柳の枝のようにしなりながらがら空きになった男の脇腹に振り抜かれた。

鞭のようなしなりだが、それ以上に衝撃力があった。男の骨を折るのは容易かった。肋骨を数本折られ、今度こそ男は息を吐いた。両足が震える。

 素早く戻された少女の右足がまた振るわれる。ミドルキックの軌道。男は上げていた両手を下ろし、腹部を守った。

 釣られた結果だった。少女の右足はしなやかに軌道を変えて、脇腹を狙ったミドルキックではなく、頭部を穿つハイキックへと変貌した。そんな芸当は最早プロ選手でなければ対応できず、格闘技を囓った程度のレベルである男が躱すことは出来なかった。

 重いブーツの蹴りが頭に叩き込まれ、頭蓋骨に罅を入れられて脳震盪を起こした男は硬直しながら地面に倒れた。頭を地面に打っていたが、少女はそんなこと気にもしなかった。

「引っ掛かるなんて雑魚でしょ」

「調子乗ってるんじゃねよガキが!」

 一人が喚き散らしながら立ち上がる。もう一人は骨を折られて叫ぶ男と気絶した男を引っ張りながら遠くに逃げ出した。懸命な判断と少女は思った。

 立ち上がった男はズボンの後ろポケットからバタフライナイフを取り出した。得意気に振り回す男だが、少女は溜め息を漏らした。

「用ないって言ったでしょ。邪魔だからさっさと消えて」

「ここで黙って引き下がれる訳ねぇじゃねぇか! 俺の人生がかかってるんだ!」

「自分の人生と命を天秤にかけて、どっちが重いとかわかんないの? 逃げなよ。今ならまだ間に合う」

「うるせぇ!」

 男が斬りかかる。少女は躱す素振りも、蹴りをする素振りも見せない。

 右手が後ろに伸びて出される。その手には、ホームセンターでも売られているネイルハンマーが握られていた。

 刃が届く前に少女が振るったネイルハンマーが男の肘を叩く。一振りで骨を砕き、男の手からバタフライナイフを落とす。それだけではなく、男の右膝裏に釘抜き部分を深く突き刺し、足を払う要領で男を地面に倒した。

 荒々しく抜いたハンマーは血で汚れ、隙間に僅かな肉がこびり付いていた。男の悲鳴が響くが、繁華街には誰もいなかった。

 空しく谺する中、少女は無視して男を跨ぎ、カノシタの目の前に立った。

 殺されると思った。

「生きてるね」

 少女はそう呟き、コートのポケットから取り出したアイフォンを操作する。

「アイツが言ってた通りの外見……間違いはなさそう」

 カノシタは見たことがあるような気がしていた。だが思い出せない。しかし別の事柄はわかる。わかりたくはないが理解できる。

「お前…………?」

「へぇ。わかるんだ」

 否定もせず、少女は感心していた。

「そう。

 少女はカノシタから叫んでいる男に向きを変えると、男の頭を蹴り飛ばした。だらんとしている男の真上に立つと、襟元を掴んで顔を引き上げた。

「誰に命令されたか言えば命は助ける」

「クソ食らえ」

 戯れ言を言った男の股間を、少女は躊躇せず蹴り上げた。金玉を潰すか潰さないかの絶妙な力加減だった。男が思わず泣いてしまうほどだった。そりゃそうだろう。そこは効く。カノシタも同情してしまう。

「三度目はない。ハンマーで頭割られて釘抜きで脳みそ掻き混ぜられたくはないでしょ。誰に命令されたの?」

「────あ」

 男が口を開いた時だった。

 遠くからタイヤが焼ける音を響かせながら、一台のランドクルーザーが繁華街に入ってくる。ランドクルーザーは猛スピードで通りを走ってきた。

 少女は男から手を離し、カノシタを引っ張って歩道に飛ぶ。ランドクルーザーは倒れた男を踏み飛ばして急停止した。

 ドアが開く。降りてきたのは明らかに堅気ではないスーツを着た男達。手には拳銃やサブマシンガンなど、各々が銃を持っていた。

 ──!?

 カノシタが叫びたくなった時、仰向けになっていた少女はブレザーの裾を上げ、腰のベルトにコンシールドキャリー──銃を隠匿して持っていること──していたホルスターから、ミートハンマーのようなマズルスパイクを装着したスプリングフィールドXDM4.5カスタム拳銃を抜くと、躊躇なく襲いかかってきた男二人を撃ち抜いた。

 M字開脚するような体勢から、倒れた二人の男の頭を撃ち抜く。車に残っていたもう三人の男は反対側から降りて、タイヤを盾にして隠れた。

「あのアマ仲間を撃ちやがった!」

「男は捕まえろ、女は殺せ!」

「わかりきったこと言ってんじゃねぇ! 当たり前だ!」

 男が身を乗り出して銃を構えようとした時。少女がボンネットを滑るように乗り越えてきた。右手に拳銃。左手にネイルハンマーを持って。

 目の前にいた男の胸と頭に数発撃つ。退けさせて次の男が構えた銃をネイルハンマーで弾いて腹部に数発撃つ。動きを止めて、釘抜き部分で深々と喉に突き刺した。強引に振り抜いたせいで血が激しく噴き出し、黒光りしていたランドクルーザーを朱色に染めた。

 最後の男を撃つが、後ろに隠れて間一髪で銃弾を躱した。近付きながら撃って牽制するが、撃ち尽くしてマガジンが空になった。

 男は車の窓越しから少女を撃つ。持っていたサプレッサー付きイングラムM10サブマシンガンは恐ろしいほどの速射性能を誇り、数秒もせず一マガジンを空にする。

 空マガジンを排出した隙を狙い、少女は飛び出す。男はサブマシンガンを捨てて懐からナイフを取り出した。この時点で、コイツらは先程相手にしていた若者達よりも経験があることがわかる。殺しの経験だ。

 それは、少女も同じであり。

 そして、遙か上でもあった。

 突き出されたナイフを躱しながら、ネイルハンマーの釘抜きでナイフを握っている手を突き刺し、そのまま車のボディに突き刺した。片腕を封じ、弾切れになっていた拳銃に装備していたマズルスパイクで男の鳩尾と顔面を何度も殴る。血が滲み、肉を潰すほどに強く、何度も何度も突き刺すように殴る。

 男がよろめいて、引き抜いたネイルハンマーでこめかみを殴る。骨が割れて脳みそに突き刺さる音が微かに聞こえたが、車に頭をぶつけたせいで掻き消された。まだ息があったので、右手に持ち替えたネイルハンマーで男の頭をかち割った。それでようやく絶命した。拳銃のマガジンを交換し、周囲に敵がいないことを確認した。

 車の陰でどんな事が行われていたか、カノシタは全てを見ていないのでわからない。ただ言えることは、出てきた少女が全て殺したのだろう。呼吸一つ乱すことなく、ゴミ掃除をするように淡々と作業していただけだ。

「思ったより速い。装備もいい。立って」

「……事情ぐらい説明しろよ。何だ、これ。お前は誰だよ……」

 少女は面倒臭そうに溜め息を漏らした。

「……騒ぎ立ててるよりはマシか。サキって呼んで。事情は移動しながら話す」

「…………お前は、本当に殺し屋なのか?」

。何度も言わせないで」

 少女──サキは表情を変えずに告げた。

 ──嗚呼。去年もこんな感じだった気がする。妄想のような現実のような、酷くあやふやな世界で。あの時の甘い少女は、こう言っていた。

 

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