第4話『憎くて、愛しい』

「もうこんな時間か」


 緋織が腕時計を見て呟く。

 時計の針は6時を刺しており、外はとっくに夕方になっていた。


(結局肝心なことは何も分からないままだな…)


 この時間で分かったことは、緋織の年齢と目的だけ。自殺未遂の理由や彼女の正体については、何も分からず仕舞いだ。


「そろそろ出よっか」

「…そうだな」


 俺達は会計を済ませ、店の外へと出た。

 未だ警戒心の解けない俺は、緋織の次の行動を慎重に観察していた。


「じゃあ…ボクは帰るね」

「……へ?」


 俺は盛大にマヌケな声を出してしまった。

 帰る?そう言ったのか?このワガママ大魔神が?


「何その反応。ボクが帰るのがそんなに意外?」

「あぁ…帰るとは思ってなかったからな」

「今日は初日だしこの辺で勘弁してあげる」


 拍子抜けするほどあっさりと引き下がった緋織。

 こいつの事だからこのまま泊まるとか、家まで行くとか言い出すものと思っていたが。

 もしかしたら、本当に俺に気を使ってくれているだけなのかもしれない。


「それにキミの家はもう知ってるし」

「そうだったな畜生!このストーカーめ!」

「ふふっ、否定はできないな」


 そこは笑うところじゃないだろ…

 相変わらず緋織が何を考えているのか掴めない。初めの頃に感じていた恐怖心は薄らいだとは言え、コイツ自殺未遂をしていた危険人物であることには変わりは無い。


「またね、弥人」


 いつの間にか呼び捨てになっている緋織がヒラヒラと手を振る。

 俺は何かあるのかと警戒しつつも、緋織に背を向けて帰り道に着いた。

 妙な奴に捕まったものだな…

 俺はこれからどうなる事やら…




 ∵─∵─∵─∵─∵─∵─∵─∵─∵─∵─∵─∵




 は帰っていく弥人やひとをずっと見ていた。

 弥人は無警戒に背中を向けて歩いていく。今なら後ろから簡単に襲えそうだ。


「本当に純粋なんだね…キミは」


 昨日の夜からずっとそうだ。彼はボクを突き放そうとしない。

 家までつけて来てるのに、まだそんな態度なんだ。


「はぁー…ムカつく」


 胸の奥に燻っていた感情が込み上げてくる。

 あの夜もそうだった。弥人はなんの躊躇いもなくボクを掴んで、沿岸まで引き上げた。

 一緒に溺れるかもとか、飛び込んだボクの事情とか、何も考えてなかったんだろうな。


「羨ましいよ…何も知らないで」


 ボクが死にたがってた理由も弥人は知らない。

 きっとキミはボクの事情を話せば、心の底から同情してくれるんだろう。

 だからこそ、話してやるもんか。

 無責任に人を助けておいて、自分だけ楽になんてさせてやるもんか。


「キミはボクと一緒に沈むんだよ」


 あの夜、ボクだって相応の覚悟をした。

 水の中で苦しくなって、終わりを受け入れた。

 それなのにキミは…

 水に溺れる感覚を思い出して、全身の血の気が一気に引く。鳥肌が立ち、身体が震えてくる。


 海の中で感じた死の恐怖。

 弥人が無責任に助けなければ、こんな恐怖を味わう必要なんて無かったのに。

 ボクは心の底から弥人を憎んで…感謝もしてる。

 もしあの時、弥人が通りかからなかったら…ボクは本当に死んでいた。


 ボクの手を掴んでくれたこと、本当に嬉しかった。

 帰宅途中の人混みに紛れてしまった背中に手を伸ばす。もう弥人の背中は見えない。


「……助けてよ…」


 無意識に呟いたのはボクの本心。

 一緒に沈んで欲しいのも本音。

 相反する2つの心に掻き乱されながら、ボクは暗くなり始めた空に向かって中指を立てた。

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