8-5話【戦う理由は】



 暗く昏い深海の底を泳いでいる気分だった。

 何も無い深海の底。時々通りすがる生き物は全て不気味な外観をしていて、光の届かない闇の世界に適応した黒い見た目の奴は、総じて鋭く巨大な牙を幾本も持っている。

 深海の世界で目立つ白っぽい外見をしている奴は、僕が指を差し出すと少しだけ興味を示すけれど、けれどすぐに怖がってどこかに逃げようとしてしまう。

 生物は闇を恐れるものが多いと聞いた事があるけれど、こと深海の闇に関してだけは、僕は神秘的な何かを感じずには居られない。

 深海自体はどうだって構わない。けれど深海の闇というものに関してだけは、厨二病とは別ベクトルで神秘性を感じずには居られない。

 だってそうでは無いか。太陽の輝きは、星の瞬きは、途方も無い程に遠い僕の目にも燦然と映るのに、そんな力強い深海の底僕の瞳には届かない。

 数値を予測する事しか出来ない、到底数え切れやしない程の微生物とその死体残骸に、星の輝きは阻まれてしまっているんだから、ですら生と死の壁を乗り越える事は出来ないんだから、命のは星のすらもを断ち切ってしまえる程に強い・・んだ。


「─────────────」


 最早どっちが上でどっちが下なのかも分からない。前後左右、三百六十度から好き勝手にやってくる重過ぎる水圧期待に押し負けた僕の鼓膜は音も無く破れてしまった。これではもう『泳いでいる』だなんて呼べない。

 僕は流されている。暗く昏い生と死の中を、流される事しか出来ない。せめて足を止めて息をしたいと思う事すら許されない海の底を、流される事しか出来ない。


「─────────────」


 手足の感覚はとうに無い。冷た過ぎる深海ヒトの温度に負けた僕の手足は既に神経が凍えて腐り始めてしまっていた。

 でも、別にいっかと、僕は海の底で思う。

 どうせ手足なんてあった所で何の役にも立ちやしない。泳ぐ事も、抗う事も、まして地に足付けて一人前に歩く事すら叶わないような冷酷な世界なのだから、手足なんてもう要らない。

 目も要らない。どうせ何も見えないし、怯える白い生物ヒトか、僕に向かって牙を剥く黒い生物ヒトしか見えないんだから、目なんていっそ無い方が幸せだ。

 体も要らない、体があった所で痛みを感じて辛いだけ。頭も要らない、怯える白い生物ヒトに「どうやったらあいつを食いものに出来るか」なんて考える頭、牙を剥く黒い生物ヒトに「どうやったらあいつに勝てるか」なんて考える頭はもう要らない。

 そこまで行ったら、もう心すら要らない。

 心なんてものがあるから、僕はしがみ付いてしまうんだ。深海の底という生と死の極地に混ざり合い溶けていく事に「いやだ」と思ってしまうんだ。


 心が無ければ幸せだった。

 心さえ無ければ幸せだった。

 心さえ無ければ、僕はを求めてに手を伸ばす事なんて無かったのに。


 けれど心を無くす為には心を使って想う必要がある。心なんて要らないと、心から想う必要がある。

 その為には心が必要で、結局僕一人では心を失う事なんて出来やしなかった。


「─────────────」


 神様なんて要らない。神様なんて嫌いだ。

 有象無象の不幸な生と死の一匹として僕を深海の底に沈めるような神様なんて、僕は絶対に信仰しない。こんな汚濁の吹き溜まりのような深海の底のどろりとしたヘドロに僕を呑み込ませようとする神を信仰するぐらいなら、僕は悪魔クランベリーを信仰している方が幸せになれる。


「げぼく、こっち」


 だから僕は手を伸ばす。


 空色のひかるを求めて、再び悪魔を崇拝する為に、


「おいで、げぼく」


 僕は空に向かって手を伸ばす。


 暖かい青空を膝に抱いて、もう一度みんなで笑う為に。


「おいで、ラムネ空色



 ───────



「………タクトは甘え好きだのう」

「………………うん」

 色白な玉藻御前の綺麗な指先が少年の空色の髪を撫でると、その指の先にある長い爪が陽光に反射してキラキラと輝く。

 身長三メートルを超える大柄な体格である故に人間向けの化粧品を上手く扱えないトリカトリ・アラムが見れば、きっと「どこまで磨けばそこまで艷やかになるんですか?」と首を傾げるぐらいだろうが、玉藻御前は基本的に暇を持て余している女であり、かつて傾国として名を馳せていた頃から隙あらば指先のケアだけは怠らなかった。

「どれ」

 小さく言いながらタクトの下唇をむにゅっと押し下げると、赤い歯茎を僅かに見せたタクトが「んぅぇ」と呻く。

「ヤニ女に影響されてタクトまでヤニを吸うような事は無さそうだの」

「んゅ………うん、タバコはすってないよ。ジズといっしょにいるから、ふくりゅうえんはあるだろうってトリカがいってたけど」

 少年の言葉に「妾はどっちでも気にせんがな」と淫猥に微笑む玉藻御前が、所在無さげにタクトの下唇をぷにぷにと押して遊ぶ。性的アピールの意図が強いこの行為は、とても親しいスキンシップでありながら男性の上を取っているように見せ掛ける事が出来る。この行為をする際に最も重要になるのが指先であり、一通り相手の唇をぷにぷにと弄んだ玉藻御前は、無意識的にその指を自身の唇に触れさせ間接キスのように思わせて相手を惑わせるのが好きだった。

「ヤニを吸わぬもの目線での「百害あって」と宣うつもりは無いがな、それでも得られる利に対して害が多いのは揺るがぬ事実。タクトは人間の血が強い故、長生きしたいとするならヤニはキメん方が良いだろう」

 歯茎の付け根を見てタールによる色素沈着の有無を確認した玉藻御前が、その指先を赤い舌で舐めながら「ヒトで無いのなら好き放題吸えば良いがな」と穏やかに語る。

 そんな玉藻御前の姿を見て、しかし少年は何ら性的な興奮を覚えず「ぼくジズのにおいすきだよ、それもだめなの?」と小首を傾げながら玉藻御前に頭を近付けた。

 女性故の本能か、それとも男を甘やかし堕落させる存在として生み出された傾国故なのか。差し出された頭を反射的に抱き寄せて撫でる玉藻御前が「ふむ」と使い勝手の良い便利な相槌を打ちながら、上目遣いの少年と見詰め合う。

 …………傾国として男を誘うその仕草に、しかし男ではなく少年になっているタクトは何一つとして反応出来ていない。僅かに鼻を鳴らして匂いを探っても、発情した男独特の匂いがせず、玉藻御前は今目の前に居る少年が本当に少年になっている事を、言葉では無く感覚で理解した。

「………ヤニの匂いはにこちんでは無くたーるや煙自体の匂いだと聞いた事がある故。依存性こそ少ないだろうが、結局肺に良くない事に変わりは無かろうよ」

「へえ~」

 言いながら優しくタクトに口付けをする玉藻御前。派手なものでは無く、ちゅっちゅと優しく唇を合わせながらするバードキス。

「……………………………」

 一回、二回、三回と音を鳴らす度に、ジズの眉間のシワがどんどん深くなっていく。

「……何なんだろうなあ、ぼくもちゅーしたいのになあ。何でぼく見せ付けられてばっかなんだろう……」

「そういえばポルカねえね、にいとちゅーしてるとこ殆ど見ないのよ? トト、ポルカねえねはジズねえにお手付きダメって言われてると思ってたのよ」

「そういう事は無いんだけどねえ………何でだろお、ぼくお色気キャラの自覚あるのになあ………ちょこっと程度のお色気シーンはあるのになあ、結局タクトくんとえっちしてないんだよねえ」

「…………してないのよ? 一回も? トト、ポルカねえねは絶対ヤりまくりピーポーだと思ってたピーポーなのよ」

「ぼくもそう思ってたピーポー超無限大なんだけどなあ。…………また笑えるようになったら、ちょっと深入りしてみよっかなあ」

「それが良いと思うのよ。浮気とか寝取り寝取られとかじゃ無いなら、トト我慢は良くないなって思うのよ。だってこういう状況だと、我慢した先に幸せが無いのよ」

 安眠のおまじないが如く優しい口付けが繰り返される。男をたらし込む事が存在理由である妖狐である白面金毛九尾、玉藻御前と無限に思える口付けの応酬を繰り返す少年という絵面は、しかし不思議な事に何一つとしてエロティックには見えない。

 けれどそれもそのはず、今の玉藻御前は自身がする口付けに性的な感情を含めていない。玉藻御前にとっては本当に悪夢除けのおまじないでしか無く、幼児退行しているタクトにしても母からのスキンシップだとしか思っていないのだからエロに繋がるはずが無かった。

「ふふ………………タクトや、少しは元気が出たか?」

 淫靡に微笑む玉藻御前が優しく空色の髪を撫でると、少しくすぐったそうに猫耳の向きを変えたタクトが「……うん」と眠たげに目を細めて玉藻に擦り寄る。

 ……この傾国はもう傾国としての力を持っていない。傾国として、史実に名を遺す大妖怪としての玉藻御前は、もう既に過去のものとなってしまっているのだから。

 玉藻御前藻女が傾国としての力を持っていたのはルーナティアに呼び出された数百年前までであり、玉藻御前の伝説を知るものがほぼ皆無であるルーナティア国では、この妖狐は力を付ける事が出来ない。

 ……ただの存在が『人非ず』として神や妖として力を付ける為には『畏れられ』『崇められ』『奉られる』という条件を満たす必要がある。この三つの内のどれか二つ以上が満たされる事で『ただの存在』は『ただならぬ存在』へと在り方を変え、その割合によって妖や祟り神、土地神や全能神と役割が変わる。

「何じゃ、眠くなったか? 久々に妾が来てやったというに、もう眠くなってしもうたか?」

「……………………ごめんなさい」

「構わぬよ。ここ暫くは賑やかだったろうからの、偶にはこうして落ち着く事も肝要ぞ」

「……………うん」

 人も悪魔も、神も妖も変わらない。我々は「どういう在り方を求められているか」によって、少しずつ少しずつその在り方を変えていく。変えてしまう。変えられてしまう。

 抗う事は出来る。素直に流される事も出来る。後々想いを弾けさせる事だって出来る。将棋をやりたいと願っていたのに囲碁教室に通わされた少年が『作者』に願われ主人公と共に囲碁大会で活躍したように、存在というものは周りの意思によって在り方を変える。色欲Lustの象徴として割り当てられた淫魔サキュバスのように「もう飽き飽きしてるの。良い加減に振り回されるのも嫌気が差すわ」と抗う事も出来る。

 求められるから、求められたから。「そう有るべき」と願われたら、この世の存在は少しずつ少しずつ形を変えていく。

 時々若い頃を思い出して『おいた』をするものの、それでもこの世界の玉藻御前はもう傾国としての役割を持っていない。ルーナティア国の重要人物たちから妖狐としての役割を期待されたからか未だにその力自体は健在なものの、けれどルーナティア国に呼び出されてからの玉藻御前は誰からも「傾国」を求められず、その在り方を見失ってしまった。

「……………眠くなったのなら寝てしまえば良い。この場にそれを叱り付けるものは居らん」

 今の玉藻御前はただの『母』でしか無い。双子を産み落とした一人の母。トト族の村長むらおさに、その家内の忘れ形見に、ルーナティアの魔王に────神に願われそうなった・・・・・、ただ一人の母である。

「………ん、まだねない。まだみんなとあそんでたい」

 故に、である。故に口付けが繰り返されたとしても、それを見てエロスを感じるものはこの場に居らず、本来生理用として使われるナプキンを胸元に当てて母乳の染みを防いでいる玉藻御前の豊かな胸元にタクトが埋もれていたとしても、タクトは当然ながら玉藻御前だって性的な思想は何一つ無い。

「そうか、ならば久々に妾とも遊ぶか。盤上遊戯は昔から得意での、妾がぼこぼこにしてくれようぞ」

「うん。リバーシしよ、まけないよ」

 眠気に負けそうな目元をこしこしと擦ったタクトの言葉に玉藻御前が「ま、結局妾が一番強くて美しいんじゃがな」と大人気無い笑みを見せた。

 それにジズが答えようと口を開くが、しかしルカ=ポルカがそれよりも早く「そういえばオセ──じゃないや、リバーシい」と自称勝ち確盤面の事を思い出し、それを見たトトが「───やべっ」と小さく呟きながら後ろ手で必死に勝ち確盤面(個人の見解)だったリバーシを隠し直す。

 けれどポルカはもう気にも留めていないようで「ぼくにコツとか教えて欲しいなあ」と、実は全て見ていた隠されたリバーシをすいすいと手元へ手繰り寄せて駒を整える。それを見たトトは何か言われるのでは無いかと一瞬ヒヤリとするが、ポルカはもう何も言わずトトは安堵の溜息を漏らした。

「………うん、おしえるよ」

 平和の中心に居るタクトが穏やかに笑う。

「…………………………」

 けれどジズは笑えなかった。

 ………面倒味が良いというものも、時として面倒を生む。

 橘光たちばなひかるが二匹の虹蛇の元へ向かった話を知っていたジズには「どうせヒカルは成功させるし、タクトが戻って来る事はほぼ揺るがない」という確信があった。二匹の虹蛇からすれば子猫の体を創るぐらい大した手間では無く、その割にかつて絶たれたルーナティアとの繋がりを戻す事が出来るという大きなメリットもある。繋がりが戻れば、繋がりが増えれば、二匹の虹蛇は神として必要不可欠な信仰心をしっかりと得る事が出来るようになり、まともに信仰心を得られない辺境の地へ自らを追いやった魔王チェルシーに復讐する事も出来るようになる。

 であれば虹蛇は確実にタクトを連れ戻してくれる。最悪タクトを丸々創り直す事だって出来るかもしれない。

 なら今の幼い少年に感ける理由なんて殆ど無いはずなのに、しかしジズはどうしてもタクトから離れたくなかった。

 気が付けば理屈なんて関係無くなってしまう程、ジズはタクトの事を好いてしまっていたからだ。

 故に、面倒味が良いというのは必ずしも良い事ばかりでは無い。自分がタクトの面倒を見てあげたかったはずなのに、面倒味が良い自分がタクトの面倒を見てあげたかったはずなのに、けれど今はどうだろうか。

 どうして自分に面倒を見させてくれないのだろうか。

「……………チッ」

 面倒味が良いはずの自分を放置して、周りが全て面倒を見ていると。そんな光景を見て────いや、見せ付けられたような気がしてしまって、取り残されたような感覚に陥った悪魔の少女は口を吸って舌打ちした。

 イライラする。妙に、何もかもが妙にイライラする。癇に障る。癪で仕方が無い。

 何が最もイライラするかと問われれば、何でなのか分からない事が最も自分の苛立ちを掻き立てる。

 そこで思考を放棄せず、苛立ちに負けず、怒りに支配されないようにしながら考えてみると、一つの答えが浮かび上がってくる。

 要は幸せそうなのが憎いのだ。愛した男を失い、取り残されてしまった自分を差し置いて、同じく取り残されたような境遇の少年にばかり意識を向けて誰も自分の事を気にも掛けない全てに苛立つのだ。

 それに気が付いた時、ジズは耐え難い嘔吐感に襲われた。それに気が付いてしまった時、せぐり上げてくる喉仏と鼻腔の奥を突き刺すような強い熱さに涙が出そうになった。


 一体いつまで、自分は周りに嫉妬していれば良いのだろう。


 けれどジズはもう何も考えなかった。この問い掛けに対して、自分はもう答えを見付け出していたからだ。

 自分が得た法度ルールがどんなものかを鑑みれば、答えなんてすぐに浮かび上がってしまうだろう。

 法度とは『一生掛けても揺らがない程に強い意志や感情』を根源として発現する。

 つまり答えは一つ。


 ────一体いつまで、自分は周りに嫉妬していれば良いのか。


 「無論、死ぬまで。」


 自分は死ぬまで、誰かに嫉妬し続けなければならない。

 そういう運命さだめ。それはもう運命うんめい付けられている。

 自分の体に由来する法度ルールを得ているという事は、自分のコンプレックスに由来する法度ルールを得ているという事は、


 自分は死ぬまで、他人に嫉妬し続けるような女から変われないという事を、誰あろう神から、世界そのものから、認められてしまっているのだ。


 先延ばしにするのを止める。怒りコントロール支配されするるな

 笑顔。伝染する。好戦的になるんじゃない。

 罵るのを止めて、語彙を増やせ。

 金の壺には用心深く二度付け見せよ

 褒め言葉を口にする。話す前に考えろ。

 情熱をコントロールし、情熱に導かれてはいけない。

 欲望に駆られて、現在の行動を後で後悔してはいけない。

 平均よりも上に行きたければ、平均よりも遥かに努力しなければいけない。

 決して忘れてはいけない! 昨日は取り戻せない。

 しかし明日は勝つも負けるも私のもの。

 負けるのは私だ。私は決意している。

 目の前の明日を勝ち取れ。

 66/8/1  Cこの思いは私にJ・は大きW過ぎる


 頭がおかしくなりそうな感覚に陥る。ともすれば既におかしくなっているのでは無いかと思える程の猜疑心は、冷静さを取り戻した振りをしてみると「タクトもおンなじだったのかなァ」なんて言葉と共に少しだけ和らぐ。

 気分はまるで母猫だった。

 理由があるとはいえ、何故自分からタクト《我が子》を取り上げようとするのか。面白コンテンツぐらい他に幾らでもあるだろうに、どうして・・・・、よりにもよって自分から取り上げようとするのか。

 ポルカも、トトも、男なんて他に腐る程に居るだろうに何故タクトを選ぶのだろうか。この目狐・・に至っては男を通り越して夫が居るのに、我が子タクトよりよっぽど我が子な存在が居るはずなのに、どうして・・・・どうして・・・・こいつはタクトに色目を使うのだ。

 勝てる訳が無いのに。自分ではお前たちに勝ち目なんて無いのに、負けるのが私なのは分かり切っているのに、取り上げるならいっそ一思いに奪い去ってくれれば良いのに、どうして・・・・目の前で子猫を持ち上げたまま、まるで見せ付けるかのようにこちらを見るのだろうか。

 それでもヒカルが帰ってくればタクトも帰ってくると思ったのも束の間、自分が誰のお陰で帰ってくる事が出来たのかを知ったタクトが誰に傾くかと考えた時、ジズはまともに眠れなくなってしまった。


 愛が心配。

 愛が不安。

 愛が────分からない。

 どうして・・・・

 嗚呼、

 戻ってきたタクトが自分を愛している保証なんて、この世の何処にも無かったのに。


「──────」

 ドス黒い嫉妬Envyが湧き上がってくるのを感じられる。反吐が出そうな程に見苦しい嫉妬Envyが、自分の奥底で眠り続けていた怠惰Slothに火を付けていくのを感じる。じりじりと静かに燃え上がった怠惰Slothに、このまま行けばまるで疫病が如く一酸化炭素を周囲に振り撒き、全てを中毒死させかねない程に赤熱してくるのを感じる。

「チッ」

 いけない。考えるな。思考を放棄しろ。見苦しくいつまでも愛恋に縋るな。

 周りに配慮する余裕なんて無くなってしまっていたジズが大きく舌打ちし、少しでも頭を冷やす為にと水の入ったガラスコップを手に取った。

 ………そのつもりだった。

「────あっ」

 軽く握ったはずのその手には自分でも思った以上の力が込められてしまい、ビシッと大きくヒビの入った透明なガラスコップが、その隙間からじわじわと透明な液体を流れさせ始めてしまった。

 反射的に力を緩めて手を離した事でガラスコップは何とか砕け散らずヒビだらけのまま机の上に戻されたが─────そのヒビ割れの形が、ジズには一匹の蝶に見えた。

 大量に入った小さなヒビ割れが蜘蛛の巣に見えて、それに捕らえられたヒビ割れの蝶が透明な涙を流しているように見えて仕方が無かった。

 通常であればそんな風には見えないのに、今に限ってそう見えたという事は「今はそういう精神状態である」という事に他ならない。

「……………………………」

 一体どうしてこんなに好きになってしまったのだろうか。別にどこにでも居るメンタルの弱い少年、ちょっと不幸なだけの有り触れた少年を、何故自分はこうも好きになってしまったのか。

 恋の病。恋は熱病、愛は盲目。

 フォリアドゥ感応精神病を思い出す。

 なるほど、そういう事かと得心した。

「振れるなよ、雑鬼」

「────────ぇ」

 横から声がして目を向ければ、玉藻御前が切れ長の瞳でジズを見据えていた。すぐ横のタクトも、ポルカも、トトも、全員が自分を心配そうに見えている中で、玉藻御前だけは全てを見透したかのような力強い瞳でジズを睨んでいるようだった。

「納得するな。自問に出た自答に、自分で納得するな」

「………何言って───」

「妾の経験上、それは破滅しかもたらさん」

 男を誑し込む事に特化した幻想の存在である玉藻御前は、そのままであれば数多の女から反感を買い見苦しい嫉妬に殺されて消えるだろう。

 しかし玉藻御前という人外が最も優れていた点は男を誑し込むその手練手管だけで無く、その上で女からの反感を買わないようにする優れた世渡り能力………処世術の高さにあるだろう。

 早い話、玉藻御前は男女問わず「他者の心を読み取る力に極めて長けている」という事である。

「自問に出てきた自答は必ず他者の意見と照らし合わせい。浮かんで来た自答……それが納得出来る答えであればある程、殊更第三者の意見を聞き入れよ」

「……………何でよォ、いきなり何言ってン───」


「貴様が救い出したものを思い出せ。あのわっぱはどうして、何が理由で貴様に救い出されたのだったか」


 静かに問い掛ける玉藻御前の言葉にハッとなる。そしてそこで再び、ジズはなるほどと得心した。

 疑心暗鬼に陥って全てを諦めんとしていた以前のタクトは、自問自答の結果に否定が出せずに溺れ死ぬ寸前まで沈んでしまっていた。

 今の自分もそれと大差無い。自分がここまで盲目的にタクトを愛している理由を、ジズは「恋なんてそういうものだから」と思考放棄していた。

 考えの止まった先には最早何も存在しない。疑心暗鬼に否定を投げられなかったタクトはそのまま沈み続け、自分がタクトを好きになる理由を「そういうもの」と思考放棄したジズも、きっとこのまま進んでいたら怠惰的な関係のままでだらだらと過ごす事になっていただろう。それこそ「相互にとって都合が良いから」と、体だけの関係にでもなり「出来ちゃった」と雑に命を育み、望まれなかった子供─────二人目のタクト愚者を次の世に送り出していた可能性すらある。

「…………チッ」

 それに気が付いたジズが反射的に舌打ちをすると、その後を聞いた幼いタクトが「ジズはおかあさんのこときらい?」と心配そうに問い掛けて来た。

 少年を悪く言うつもりでは無いが、その問い掛けのせいで玉藻御前に感謝するタイミングを逃してしまったジズが、緩やかに頭を振りながら「好きになれねェってだけよォ」と答える。

「何から何まで………徹頭徹尾敵わねェ完全上位互換みてェなやつ、アタシじゃなくても好きになれる訳ァ無ェのよォ」

 女性的で、強く、気高く、高貴でありながらも堕ちる事の無かった人外の女。男を誑し込む事も、女から好かれる事も、手に入れた男を手放さない実力すら持っているこの女を見ていると、まるで自分の存在価値の無さを見せ付けられているようでクソみたいにイライラしてくる。

 不満げに吐き捨てた言葉に「ほう?」と玉藻御前が鼻で笑いながら返す。

「面白い事を言うのう悪魔っ娘、お主それは一体誰から聞いた話なのか言えるか?」

「誰からって、そりゃお前ェ──────」

 そこまで口にして、喉が詰まったような感覚がした。

 玉藻御前を、何から何まで、徹頭徹尾敵わない完全上位互換だと決めたのはどこの誰だったか。その情報はどこから出てきたものだったか。

「…………………」


 それは自問に出てきた自答に他ならない。

 間違っても誰かに「お前じゃ玉藻御前には敵わない」なんて言われた記憶なんて無い。


 なるほど、こりゃァ敵わねェ。


「………今日はどうにも………どうにも調子悪ィわねェ」

 大きく溜息を吐き出しながら素直に諦める。少し嫌気が差すものの、しかし納得してしまったならもうどうにもならない。

 この納得は言ってみれば本当の「はい論破」と変わらない訳であり、これに何か言い返すという事は、とどのつまり「自分は事実に対して顔真っ赤でキレるチンパンです」と言い返しているのと何ら変わらない事になってしまうだろう。

「…………ジズねえ? 大丈夫なのよ? 調子良くないのよ?」

「…………なンも無ェ」

 単に腹が立つだけ。相手に対してては無く、相手に言い負かされた自分に対して腹が立つというだけ。

 思考を放棄する事こそが平和と安寧に繋がると思っていたのに、この目狐・・は「考え続けろ」と言っている。

 何が正しいのか何も分からなくなってきて、ジズはもう「今は良いや」と全部投げ出してしまいたくなったが、しかしこの思考放棄こそが────問題の先送りこそが破滅を導く最たる要因。

 死にたくなければ考え続けなくてはならない。

 自らの望む本当の幸せを掴みたければ、間違っても思考放棄してはならないのだ。

 考える事を止める───それはもう、知的生命体をやめる事と同義である。


 例えそれが、どれだけ苦しいものだとしても。


 それでも考えなければならない。


 どんな心理状況であっても、どんな身体状況であっても、どんな周辺環境であっても。


 理由なんて関係無い。


 諦めるやつは悪呼ばわりされる。


 それが嫌なら生きるしかないのだ。



 ───────



「……………………………懐かしい空気だな」

 白。白。白。真っ白。真白。純白。月白げっぱく胡粉色ごふんいろ

 とにかく白の一色だった視界に、少しずつ少しずつ緑や茶色が現れる頃、二匹の虹蛇が一柱である創造神ルドミラは吐息を漏らすように呟いた。

 吐き出す息はもう白く無いが、しかし足元にはまだまだ雪が残っている。ジズが言うには「この世界の雪は我慢強いのよォ」との事だったが、気温的には二十度を余裕で上回っているはずなのに何故まだ足元にちらほらと雪が残っているのかは謎でしか無いが。

「オバンお前行けるんやろな」

 そんな落ち着いたルドミラの様子を見て、まるで尻にタケ◯プターを付けたの◯太くんのような体勢で空を飛ぶ橘光が冷静に問い掛ける。

 当然ルドミラは「侮るな」と譲らない。

「貴様から聞いている話が事実であれば、喋る猫や猫人間ぐらい幾らでも創れる」

「ほなら────」

「だが恐らく、その猫はもう法度ルールを適応出来ぬだろうな。魂を再構築するとなれば、魂が抱え込んだ熱意を軸に発現する法度ルールは消える。その後創り出された新たな魂が再び同じ想いを抱けば分からんが…………まあ、そうある事では無かろう」

「………………………さよか」

 光がルドミラの言葉に小さく答えると、ルドミラは「さっさと向かうぞ」と飛行速度を上げていく。それに「うい」と返す光もそれに合わせて加速するが、ルドミラの魔法によって宙吊り状態になっている光は特に何をするでも無く、まさしく俎上之肉そじょうのにくが如くルドミラに追従していった。

 …………断腸の思い、とまではいかない。ラムネの戦線離脱がタクトを連れ戻す為の対価であるならば、光にとってはむしろ安いものだとすら思える。

 仮にこれが「一つの体に二つの魂」というような絵空事に良くある事例だったらどうにでもなったろうが、しかし今回は一つの体に「二つが溶け合った一つの魂」という異例の事態。ペール・ローニーの事だろうから一応は魂の分離も試すだろうが、それは恐らく成功しない。何も書き記されていない空っぽの魂を創り出す事だけで異次元規模の魔力と金が消し飛ぶのだから、溶け合った二つの魂を一つずつに分離するのは、いわば水槽に溶けたインクを水と完璧に分離させるのと同じぐらい難易度が高い。

 となると選択肢は一つしか無い。魂の無い猫の体を創り出し、タクトの体の中に溶け合っている二つの魂を壊し、その後新たな魂を二つ用意してそれぞれに入れる。

 そして何より、目覚めたタクトにはしっかりと事情を説明し、「自分がちゃんと愛されている存在」である事を自覚させる。

 今回の一件でとんでもない額の銭が消し飛んでいるのでその後はしばらく安静にしてタクトを守らねばならないが………元よりラムネの背に乗る事が出来なくなったタクトなのだ、猫耳と猫尻尾が生えた事によりどれだけ身体能力が向上しているかは知らないが、慢心させずに大人しくさせるのが賢明だろう。

「………ウチは───────ウチはタクトに会えるなら何でもええ」

 薄情な人間だと思われたとしても構わない、誰ぞ彼ぞの戯言たわごとなど知った事か。そんなものに耳を貸したとて大層な利益にはなってくれないのだ。

 そんな事を呟く光に「それで良い、その考えで良い」とルドミラは素直に同意を示した。

「他者の言葉に呑まれるな。他者の理屈に振り回されるな。貴様の生き方は貴様が決めねばならん………与太に耳を貸しながら生きるのは「生きている」とは呼ばん。それは「ただ死んでないだけ」だ」

 ………実戦に持っていく剣や鎧に装飾を施す理由なんてどこにも無い。有象無象の兵士たちに威光を示しこそすれ、出来る事はそれだけ。豪奢な装飾の施された剣を天高く掲げた所で「けんから いなづまが ほとばしる!」というアナウンスが流れるような事は無い。

 命の掛かった実戦の場で周りに何かを見せ付ける事の無意味さは誰もが知っている事だろう。

 だが誰もが忘れている。今この瞬間だって「いつ死ぬか分からない場」である事を、全ての人間が忘れている。

 朝の通勤、通学、勤務中、昼休憩時のコンビニ………みんな命が掛かっていないと思い込んでいる。部屋でのんびりしている瞬間だって事故に巻き込まれる可能性や、通り魔に殺される危険性や、強盗に鉢合わせする事だって幾らでもあるのに…………何故か誰もが軽視して、自分の身よりも周りに見せ付ける身嗜みにばかり気を遣う。

 世の中は図太いぐらいがちょうど良い。正直者が馬鹿を見て、気遣い上手が自殺する。真面目に生きているはずの人間が痛い思いばかりして、周りに優しさを振る舞える人間が擦り切れて天井からぶら下がるのがこの世界なのだ。

 もうどうしようも無い。世界がそういう風に出来てしまったのだから、最早どうしようもない。


 何の為に生きるのかという疑問は古今東西から人類の命題として君臨しているが、「何の為に」ばかり意識を向けて「生きるのか」という言葉の本質を見失う事だけはしてはならないだろう。

「それが生きる為であるなら躊躇うな。やって後悔どうのこうのでは無いぞ」

「分かっとるがな。……………クソオバンやと思ってたんに、お前中々ええ事言うやん。今の名言系のサイトに上げられるやっちゃで」

 タケコ◯ターを腰に付けた時のの◯太くんのような体勢で空を飛ぶ光の言葉に、創造神ルドミラが「はっ」と鼻で笑う。と思えば不機嫌そうな表情をしながら「貴様如きの矮小な思考回路では度し難いだろうがな」と続けた。

「我はまれてこの方、名言以外の言葉を口にした記憶が無い。我の言葉は全てが後世に語り継ぐべき名言ぞ」

「ほならクローゼットん中で叫んどった「中が良い、中に出して」も名言として残したるわ」

「な─────」

「一生語り継いだるで。お前の在り方がねじ曲がってメス堕ち創造神のレッテル貼られるぐらいまで、未来永劫語り継いだるよ」

「貴様─────ッ! ………くっ、何故、………貴様聞いておったのかッ!」

「カマ掛けただけやアホ」

「なぁ………っ」

「お前がクローゼットん中で野太い声でイキ狂っとる間、ウチは恣恋しれんと一緒にわちゃわちゃしとったし」

 悔しげに歯噛みするルドミラに、しかし橘光は特に勝ち誇るような事も無く「ちゃんとウチのお願い聞いてくれたら、ウチはちゃんと黙ったる」と遠くを見るような目をしたまま。


 もうすぐ帰る。もうすぐ戻る。

 自分が。解決策を連れた自分が。

 

 もうすぐ帰ってくる。もうすぐ戻ってくる。

 好きな人が。大好きな、初恋の男の子が。


「神様がウチ人間のお願い叶えてくれたら、ウチ人間は神様のお願い叶えるよ」

「……………………む」

「お前の信仰心増やすぐらいで想い人が帰って来んなら安いもんやで。……………神に成り上がったとはいえ、お前も………お前もウチとおんなじ女なら分かるやろ」

「…………………………ああ」

「ほっだら聞き入れろや。したら聞き入れてやる」

「傲慢な小娘だな」

「ウチは「ウチの為に生きる」だけや」

 例え誰かの為に生きていると嘯いた所で、それは結局「その後で自分が自己満足に浸っている」という結果から抜け出す事は出来ない。

 どんな人間でも、どんな聖人君子でも、絶内に自分の心の為に生きているという運命からは抜け出せない。

「それが許されんのやったら、もう人類に行き場は無い」

 果たして罪とは何なのだろうか。果たして悪とは何なのだろうか。

 人間は自分の為に生きるしか出来ないのに、人間は自分の為に誰かを生かす事しか出来ないのに。

 人類が制定した「図太い」と「我儘」と「利己的」の境目は一体どこにあるのだろうか。タケ◯プターで飛ぶの◯太くんのような体勢になった橘光は、重力での垂れが気になり始めていた胸元を腕組みで誤魔化しながら、そんなような事を考えていた。

 答えなんて出る訳が無いと分かっていながら、それでも考える事を止めずには居られなかった。




 ───────



「……………………………」

 空色の髪と空色の猫耳に不釣り合いな、人間の耳を携えた少年の前。麻酔を掛けられ意識を失ったまま動かない少年の前で、パルヴェルト・パーヴァンシーもまた、ぎゅっと握った右の拳を自身の胸に当てながら目を閉じていた。

「…………………神へのお祈りかい?」

 それを眺めていたペール・ローニーが嘲るような声色で「神に祈る程の案件では無いんだがね」と呟くと、パルヴェルトは「ボクは神を信じていないよ」と目を閉じたまま吐息のように答えた。

「神はいざという時に手を差し伸べない。………絵空事以外の事例で、神が直接人を助けたという話をボクは知らない………人はいつだって人の手によって助かっているんだ。それが神であれ何であれ、結果として心の拠り所である何かを信じる事で強くなった人間に助けられているのさ」

 自分の心臓の辺りに握り拳を置きながら答えるパルヴェルトに、ペール博士は「へえ?」と少しだけ感嘆する。

 大して意味も無いだろうと思っていた秘密トレーニングだったが、今の彼を見る限り何かしら内面に影響を及ぼしている事は明白…………今までのパルヴェルトであれば誰かに頼るという選択肢ばかり選んで神頼みに耽っていただろうが、ここに居るパルヴェルトは何か得たものがあったのか、力強い雰囲気を感じられる。

「神は信用ならない。でもボクはボクだって信用していない。………だから、ボクはボクが最も信じている強い男に「そろそろ帰って来てくれ」と念じているだけだよ」

 キミが居ないと寂しい。馬鹿にするのも、馬鹿にされるのも、笑うのも、怒るのも。キミが居ないと全て空虚で物足りない。

 同性愛とかそんな次元では無い。そんな言葉で自分の気持ちを片付けられたくは無い。

 性的感情はオマケ以下のもの。掘るの掘られるのなんてクソ程にどうでも良い。

 恋よりも、愛よりも、もっと強い何か。

 これがきっと『血よりも濃い感情』なんだろうと確信していたパルヴェルトは「まあ彼は勝手に信じられるのを嫌がると思うけれどね」と少しだけ照れ隠しを交えながらも、それでも勝手に信じ、勝手に願い続けていた。

 自分に出来る事なんてこれぐらいしか無いのだから、せめてそれだけは成し遂げたい。心にある思いはただそれだけだった。

 そんなパルヴェルトに「そうか」とだけ返したペール博士はすやすやと寝息を立てる少年の首元に指を当てて心拍数を見る。それが平時よりも大人しいものである事を確認すると「では連れて行くよ」と言いながら、いつしか背丈の低くなってしまった少年をお姫様のように抱いて部屋を後にする。

「Good luck.」

 パルヴェルトはただそれだけの言葉で、その背中を見送った。



 ───────



 創造の虹蛇を連れて戻ってきたヒカルが勝ちを確信して寝ているのはまだ良しとするが、しかし悪魔の少女までもが少年の再来に立ち会おうとしないのは、他者の感情を察する力に長けたトトにとっては疑問でしか無かった。

「………………ジズねえ、元気無いのよ」

 何故か今にも泣き出しそうな声色でそう呟くトトに「んー?」と呻きながら流し目を送るジズ。

「にいが戻ってくるのよ? にいにやっと会えるのよ? …………なのにジズねえ、全然嬉しそうじゃないのよ」

「嬉しくない訳ァ無ェっての」

 愛した少年、一生一緒に居るという約束を結んだ少年が遂に戻ってくるという話に胸が踊らない訳が無い。

 だがジズの胸中には別の感情も混在していた。

 神故に、信仰心を得て力を付ける前に北方へと追いやられたはずの虹蛇夫妻………その一匹を連れて戻ってきたヒカルから話を聞いた際、ジズは「タクトが戻ってこなければ良いのに」という不謹慎な気持ちを抱いてしまい、少年の目覚めに立ち会う勇気が無くなってしまった。

「嬉しいに決まってンじゃん。幸せに決まってンじゃん。だって…………そうじゃなきゃ嘘でしょォ?」

 嘘偽り無い本当の気持ち。

 けれど別の気持ちも存在している。

 どちらも嘘では無い、本当に本当の気持ち。

 少年が戻ってこなければ、少年の本心に触れずに済む。

 戻ってきた少年が誰の元に向かうかどうか………少年が永劫帰って来なければ、ジズは永劫それを目の当たりにしなくて済む。

 

 知りたいけれど、知りたくない。

 強くなって欲しいけど、弱くあって欲しい。


 愛したいけれど、愛したくない。

 

 不思議で仕方が無い。荒事となれば自らが剣山に抱かれる事すら厭わないのに、灼き殺される覚悟で太陽に黒点を作ってみせるのに。

 骨を折る事も、骨を折られる事も、殺す事も、死ぬ事も、何も躊躇わないはずなのに、上っ面では無い本当の恋を前に、悪魔の少女は臆病になってしまっていた。

「…………ジズねえ、こっち来るのよ」

 それをトトは察していた。

 獣だから? 単純に勘が鋭いから? 魔法がある世界で何でもありだから?

「トトがお膝貸してあげるのよ。………ジズねえ、最近ゆっくり寝れてないのよ? そんなだと、にいが戻ってきた時に笑われちゃうのよ」

 橘光は譲った。自分には新しい友達とセフレまで出来ているから、ここで更にジズからタクトを奪うのは傲慢であると光は遠慮した。………その気遣いに妙に苛立つ反面、苛立ちがあるからこそ「望んでいた事」を理解する。

 パルヴェルトは祈る信じる事を優先した。本当なら我先にと抱き着いて泣きじゃくって「キモいあっち行けお前」とか言われて「酷いやブラザーッ!」と周りを笑顔にしてやりたかったが、けれどパルヴェルトは遠慮した。

「ボクが出来る事……ボクがすべき事は、幸せになる事じゃあないみたいだ。ボクがすべき事は、幸せにする事。そこで初めて、ボクは幸せになれる」

 一丁前にそんな事を言いやがったパルヴェルトに苛立ったが、その言葉はまるで世界の真理でも突いているかのようで、やはりジズは言葉を失った。

 トリカトリも同様である。単純に忙し過ぎてタクトに構っている余裕が何も無いという事も確かにあるが、トリカトリは『戻って来られる場所』を守る為に奔走している。仕事明け、戦車のような魔改造バイクこと『メーちゃん』に抱き着きながら寝落ちして風邪を引いてしまったとしても、それでも彼女は仕事を休まず咳と鼻水を撒き散らしながら『その場所』を守る為に、今日もルーナティア国を走り回っている。

「………枕あンだけどォ」

「枕如きじゃ安眠出来ないのよ? トトのお膝に比べたらイシガメとカミツキガメぐらいの差があるのよ?」

「カミツキガメの膝で寝る気は無いわねェ」

「卑屈な事言ってないで早く来るのよ。………ほらっ、なのよっ」

「うォっ、ちょ」

 ルカ=ポルカはペール博士と共に動いている。ペール・ローニーが最も苦手とする分野である心境把握を、ポルカが代わりに行っている訳である。周りのストレス値のチェック………表でどう振る舞って内心でどう考えているかを予測し、場合によっては振る舞った飲食物に安定剤を混ぜ込む等してケアする役回りを担っていた。

「ほら、ふかふかなのよ? トトのお膝はちょーふかふかなのよ? 安眠し過ぎて永眠してもおかしくないのよ」

「…………何か少しゴリってする部分があるわねェ、膝の骨かしらァ。後ちょっと高ェ、………も少し下げれねェ?」

「しかたないにゃあ、なのよ。えぃっしょ…………このぐらいなのよ?」

「肉球も寄越しなァ。お前ェの黒豆みてェな肉球でアタシのほっぺあっためなァ」

「ジズねえクソ図太いのよ………。…………でもトト、こういう図太さが大事なんだなって最近知ったのよ」

 ではトトは何をしているかと問われれば、トトは最も負担の大きい『総合補佐』であっちこっちを駆けずり回っていた。

 時にはジズやポルカと共にタクトと遊び、時には朝早いトリカトリよりも更に早く起きて市場へ向かう。市場のおいちゃん連中がトリカトリ用にと用意していた様々な品々をおいちゃん連中と一緒にトリカトリが牽く荷台に載せやすいよう荷造りを手伝ったかと思えば、ペール博士の手伝いの為に研究室へと全力疾走………霧状の体で構成された湯気子のダストを吸い込み無限にクシャミをしていたり、パルヴェルトのこっそりトレーニングが終わる頃合いを見計らって「あ、パルにい! ちょうど良いのよっ、トト今ジュース買い過ぎちゃったのよっ!」と飲料水を振る舞ったり………時には周りのメンタルケアに意識を取られてしまっているポルカに「ポルカねえが一番お薬飲むべきなのよッ! おるァンッ!」と叫びながら安定剤を喉奥に手首ごとねじ込む特殊プレイを敢行していたり。

 けれどそれは少年の為では無い。トトは少年の事が気になってはいるが、しかしそれは恋と呼ぶにはまだまだ弱く幼く小さなもの………今の整える原動力は「どうして・・・・」を解消したいからという自分本位に他ならない。

 自分はまだ日が浅い。知り合って、仲良くなって、まだまだ日が浅い。

 だから分からない。何でみんなが少年の事を信頼しているのか、少年の魅力が、トトにはまだ分からない。

「ヒカルねえが良く言ってるのよ。前の人生では誰かに気を遣った結果自殺だっから、今回の人生では誰にも気を遣いたくない、気を遣わず好き勝手に生きたらどうなるかを知っておきたいって」

 後世に繋ぐ為。少しでもこの世の不条理に押し潰されてしまうものが減って欲しいから、怖くて動けなくなってしまったものの代わりに自分が動く。

 成功と失敗。どっちが成功でどっちが失敗であっても構わない。どうせ終わった身なのだから、今以上の発展は望まない。

 次始まるものの為に自分は動くのだと、橘光はトトに良く言っていた。

「…………アイツはアイツで何だかんだ気遣い上手なんだけどねェ」

「不器用さんなのよ。感情表現とか、ちょっとした事とか………上手い伝え方が出来ないのよ。だからヒカルねえはチョーゼツシモネタ暴言女で、傍若無人に生きれないヒトなのよ」

 しっとりとして温かい肉球で両頬をぷにぷにと動かされながら、ジズが吐息のように「そうねェ」と漏らす。

 みんな何かしらで頑張っていて、みんな何かしら不幸で、みんな何かしらで苦しんでいる。

 そんな事はみんな知っているはずなのに、みんな都合の悪い時ばかり「他人と比べるな」と吐き捨てる。

「………………………ちょっとマジ寝して良い? 少しだけ………少しだけ休みたい」

「良いのよ。少ししたら多分トトのお膝枕がぷるぷる震えると思うけど、そしたらトトのお膝が痺れたんだなって思ってれば良いのよ」

「したら言えよ、退くからさァ」

「トト寝てる人起こさないようにしながら退くの得意なのよ。放っといて寝たまんまで良いのよ、その方がトトも「あー足痺れた、トトも寝るのよ」って言いながらお部屋に戻りやすいのよ」

「……………そ」

 みんな何かしらで頑張っていて、みんな何かしら不幸で、みんな何かしらで苦しんでいる。

 そんな中、自分は一体何をしているのか。

 自分も頑張っているはずだ。自分も必死に戦っているはずだ。

 心が幼くなったタクトに、まるで母猫のように付きっきりだったはずだ。睡眠時間を削って、風呂に入る時間も、トイレに行く時間も、飯を喰う時間だって当然削っていたから、あっさりとやって来た今この瞬間に「いざ」と立ち会ってみれば、弱い心から「精神摩耗で幻覚でも見ていたのかも」と思ってしまう事もある。

 だけどそれでも自分のしてきた事に嘘は無いはずだ。

 だけど何も言われない。誰にも何も言われない。

 この気持ちは何だろうかと思った直後、微睡まどろみの瀬戸際でジズは思い至る。


 ───タクトもこんな気持ちだったのねェ。


 使いっ走りの果て、間違っても一般人がすべきでは無い支持塔という責任の重さに押し潰されそうになった少年は、それでも少年なりに必死に頑張ったというのに誰からも褒めて貰えなかった。

 だからこそ少年は道に迷ってしまった。

 知った気で居た。似たような気持ちを味わった事があるから、少年の気持ちを知った気で居た。

 けれどとんだ知ったかだった。ただの智者気取り、にわかも良い所だった。

「───────────」

 不謹慎とか知った事では無い。当事者の気持ちとか全てがどうでも良い。誰に何を言われようとも、今のジズの気持ちはただ一つ。

 今のジズの心では、このまま心臓が止まり、寝たまま息を引き取れたら良いのにな、という願いの裏で、


 ────もし起きたら、いっぱい甘やかしてあげなくちゃねェ………。


 そんな事を考えながら、微睡みの中に沈んでいった。



 ───────



 僕は一体何が出来るのか。僕には一体何が出来るのか。

 例えば魔法とか、例えば法度ルールとか、例えばチート能力とか、そういうのは含めない。

 それは僕の力では無く、僕では無いから。それらを使って何か派手な事を成し遂げたとしても、それは僕に異能力をくれた誰かの手柄にしかならない。

 人を殺す事なんて誰にでも出来る。人を守る事だって誰にでも出来る。

 では僕にだけ出来る事って、一体何だろうか。

 他の誰かでは出来ない事、誰あろう僕にしか出来ない事。

 それは僕にとっての命題。永遠の疑問だと、僕はずっと思い続けていた。

「…………………んがっ!? ─────────あ?」

 でも最近ようやく、それが何なのか分かった。

 僕にしか出来ない事、僕にだけ出来る事。


 僕でなければ出来ない事。


「おはようジズ。早いね」

「…………………………ぇ」

 それは僕を求めてくれている人に尽くす事だと、僕はようやく気が付いた。

 すやすやと寝息を立てていたジズが、僕の膝の上でようやく目を覚ました。


 ────ようやく、目を覚ました。


 起きる。起きた。目が覚めた。脳が覚醒した? これは何だろう。起きた。起きる。起きている。寝ていた? 寝ていた。でも寝ていない。起きた。起きた。

 起きている。起きたんだ。何かに。起きた? 起きる。ああ、起きたよ。起きていたよ。


 ────僕は知った。知っていたんだよ。


「もう少し寝てるかと思ってたんだけど、思ったより早かったね」

 気怠けな半目をしていたジズが呆けた顔で僕を見上げ、僕はそれを無表情で見下ろす。さらりとした髪を優しく手で撫でながら、そのまま頬を撫でていき、その指はやがて左耳のピアスへと触れる。

 音は鳴らさない。静かに優しく撫でる。音が鳴るぐらいの力加減だともしかしたら引っ掛かって痛むかもしれないから、そうはならないよう優しく撫でる。

「─────────タクト?」

「うん」

 まんまるに見開かれたジズの瞳は、まるで悪戯をしようとしている時のラムネの目のようで。今にもスパイダーキスが出来そうな膝枕という状況で、しかし僕は口付けをせず「おはよう」とか言ってみる。

 事情は全てペール博士から聞いていた。横に居たポルカが何も言わず僕に抱き着いた時は流石にテンパったし、止められなかった事を強く悔やんでいた湯気子から謝られた時は何事かと本気で当惑したけれど、ゆっくりと諭すように説明するペール博士の言葉を聞いているに連れ、僕は全てを理解した。


 僕は、僕の在り方を理解した。


「お、……………」

「うん」

「………………おっせせェのよ…………このタコォ」

 僕の膝に頭を乗せる小さな悪魔が、怒っているような悲しんでいるような不思議な表情をしながら罵った。

 そんなジズに「ごめん」とだけ謝った僕だったが、ぼろぼろと涙を流したジズは「許さねェ」と吐き捨てながら、僕の頭を抱き寄せるように両手を伸ばしてくる。

「詫び………詫び入れろやお前ェ」

「……………………」

「………………………………………タクト?」

 その言葉に、僕はもう答える気が無くなっていた。

 不安げに僕を見上げるジズの顔は、生まれて初めて見たような、こんな表情が出来る娘だったんだと思える程に弱々しかった。

 けれど、いや………だからこそ、だろうか。

 うん。だからこそ、僕は応えなかったんだ。

「決めたよ。僕はもう決めた。もう揺るがない」

「タクト………? 待ってタクト、やだ、違う、違────」

「好きだよ。僕は。ジズの事が。大好きだよ」

「……………何、な、え? …………そ、それなら────」


 決意とか、決心とか、言葉は何でも構わない。

 人間ヒトは何でもかんでも理由を付けたがる。

 それは逆の目線で見れば、他の理由を否定したがるのと何も変わらない。誰かが付けた理由を、自分が付けた理由で上書きしたがっているんだと僕は思う。

 気に食わないから。誰かが付けた理由が気に食わなくて納得出来ないから、「女性差別を無くす為」という着ぐるみ着ながら「自分が生き易くする為」に全てを叩きたがる自称フェミニストのように、人間ヒトは何かと理由を付けて他人ヒトの在り方を否定する。自分が納得出来る世界以外は全て悪だと、世界は世界を否定する。


「もう二度と戦わない。もう二度と荒事には関わらない」


 それはつまり戦う人間とも関わらないという事。

 でもこんな僕の気持ちも、きっと世界の誰かが否定する。

 けれどそんな事は関係無い。僕と同じ経験をした人間以外、誰も僕の生き方を否定する権利なんて無い。


 でも僕と同じ経験をした人間なんてこの世には絶対居ないはずだ。だから誰も僕の気持ちなんて分かるはずが無い。


「もう死にたくないからさ」


 荒事好きな連中と関わって何度も死ぬのは御免だ。

 三度目の正直だなんてクソ食らえ。


「僕はもう、格好良い主人公になるのは諦めたよ」


 だからこそ、今までに見た事も無いような表情で僕を見上げるジズの気持ちを、僕は理解してあげられなかった。

 愛した女性と一緒に居る為に、もう死なない為に、僕は遂に「休む」以外の選択肢を選んだ。

 僕はもう逃げない。僕はもう立ち向かわない。


 僕はもう立ち上がらない。


「──────────────うそ」


 けれどジズは理解出来ないだろう。

 けれどそれは当たり前の話だ。


 僕がジズの人生を経験した事が無いように、ジズも僕の人生を経験した事なんて無いのだ。


「ちが───違う、違うタクト………も、戻って来て欲しいから、みんな、みんなタクトと一緒に居る為に、みんなタクトと一緒に居たいから───────」

「諦めるのは悪い事? どうして諦めたのか、何で諦めるに至ったのか何も考慮せずただ悪い事だって否定する?」

「違っ……そっ、そうじゃなくてっ! ………諦めたら、諦めたら守れないっ! みんなの場所っ、楽しい事とか何も守れな────」


「そういうのは死んだ事が無いから言えるんだよ」


「─────────────」


 経験した事の無いやつが、経験したものの気持ちを理解する事は物理的に出来ない。の悩みも、死の悩みも────諦めずに頑張れだなんて酷い言葉、誰にも言う権利なんて無いんだ。

 好きな気持ちに嘘は無い。愛した心に偽りは無いし、今だって本心から愛していると断言出来る。

 だから馬鹿丸出しな「分かって欲しい」だなんて偽善を口にする事は無い。

 分かるはずが無いんだよ。分かる訳が無い、分かりようが無い。誰にも、彼にも、僕の気持ちが分かるだなんて事は有り得ないんだ。僕がジズの気持ちを分かってあげられないのと同じように、ジズだって僕の気持ちを分かる事は出来ない。

 出来るのは分かった気になるぐらい。


 二回死んだ人間の気持ちを、一回すら死んだ事も無い奴が分かった気で励まそうとするだけ。


「もう死にたくないから」

 殺されたくないから。好きで居たいから。好きで有り続けたいから。死んでしまえばもう二度と愛する事が出来ないから。

「…………………………やだ」

 誰かを愛するのが何の為なのかと問われれば、

「そう。でももう決めたんだ」

 それは結局自分の為。自分が愛していたいから、

「………やだァッ!」

 自分が愛されていたいから。


 嫌いになりたくないから、だから僕は君を好きになる。

 君に嘘を吐かれたくないから。

 一生一緒に居てくれなかった君に、

 もう二度と嘘を吐いて欲しくないから。


「もう僕に近寄らないで」


 だから僕は君を拒絶する。


 でも当然でしょ? 何も変な話じゃ無いよ。


 お前もきっと、僕に居なくなって欲しくて仕方無いんだろうからさ。


 でなけりゃ「一生一緒に居てあげる」だなんて嘘、僕に吐く訳が無いもんね。


「──────────────」


 僕は、僕の身を守る為に、君を好きで居続けるよ。


「死んだら好きじゃ居られないしさ」


 知ってた? 我儘の対義語は従順なんだって。


「…………あああアアアアア─────ァァァッ!」


 だから掠れた声でお前が泣き叫ぶのは、お前がお前の感情に従順である証拠だよ。それは別に悪い事じゃ無いんだ。


「今までありがとう」

 

 その言葉を口にして、

 僕はようやく、

 生まれて初めて、

 自分に素直になれた気がした。

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