8-6話【愛】

8-6話【愛】



 例えば橘光たちばなひかるは望まぬ才能ナニカが理由で人生を潰したし、例えばパルヴェルト・パーヴァンシーは成功する権利を与えられなかったし、例えばルカ=ポルカは望まぬ子を産む事すら許されなかった。

 それらを鑑みると、森山拓人タクトという名の少年は幸せに満ちていた部類だと言えるのかもしれない。

 何せただ父親が不況の波に飲まれただけの話。アルコール中毒になった父親が母親に乱暴を働き、頚椎損傷で全身麻痺にしてしまったというだけの話。父の暴力に怯えながら、その傍らで動けない母親の介護をしていたタクトが、遂に耐え兼ね両親を殺害して自殺したというだけの話。


 別にどうという事は無い。ただの良くある不幸の一つでしか無い。

 何の事は無い。ただ恵まれなかったというだけ。


 どこにでも居るような冴えないサラリーマンと特に取り柄も無い良く居る女子大生は、互いに本気で愛し合っていたにも関わらず相互の親から理解を示されず………結婚はおろか付き合う事すら猛烈に反対されたが、しかし二人はそれらを振り切り駆け落ち同然に何とか結婚まで漕ぎ着ける事が出来た。

 両親からの理解を得られなければ当然ながら手助けだって全く得られなかった二人だが、しかしそれでも懸命に働き続け、やがては遂に一人の子供を授かる事が出来た。

「名前は拓人に決めたよ。指揮棒のタクトって意味と、英語でのTaktで「機転の効く、周りを導ける子」にって意味を込めたんだ」

 恐らく寝る間を惜しんで考えたのだろう。少しだけ眠そうな半目でそう言う男に、女は「貴方が考えてくれたなら、きっ私はどんな名前でも「それが一番」って言うと思うわ」と微笑みながら答えた。

 やがて生まれてきた拓人は途轍も無い程に愛を受けて育ったが、けれどその愛は決して偏愛と呼ばれるようなものでは無くて。怒られて然るべき時はしっかりと怒られたし、褒められる時はしっかりと褒められた。

 ………現代ではまともに存在しなくなってしまった『正しい教育』を受けて育った子………経済的にはそこまででは無いが、それでも本当に・・・恵まれた子の一人だった。

 そんな拓人が破滅の道を歩み始めるのは小学校を卒業する頃だったろうか。不況の波に飲まれた父が何の事前通告も無しに、ある日突然リストラクチャリングリストラされてしまったのが歯車のズレを生み出した切っ掛けだった。

「大丈夫、心配要らないわよ。この世界、この国に、仕事なんて幾らでもあるわ」

「………そう、そうだな。視野を広く持とう、今まで見向きもしなかった仕事が天職になる可能性だってあるんだ」

 父はそう呟き、母はその肩を優しく支えるが………しかし世界現実はそんなに甘くない。再就職を図るも何一つとして上手く行かず、父が酒に溺れるのは時間の問題でしかなかった。「いざという時」の為に貯めるだけ貯めていた貯金を少しずつ溶かしながら、無職となった父は毎日酒を飲み続けるようになっていったのだ。

 平和で愛に満ちた森山家は、その頃から着実に破滅へと進むようになる。夫のアルコール依存症が悪化する中、妻が献身的に彼を支え続けるも上手く行かず………やがて悲観的になり始めた夫がDVを始めるようになるのは自明の理と言える程に見えている未来だったのかもしれない。

 未来明日が確定したのは拓人が中学一年生の半ば頃。度重なるDVによる影響で妻が頚椎を損傷し、拓人の母は首から下が麻痺して動かせなくなる後天性の半身不随となり要介護状態になってしまった。

 だが今現在亭主が無職である為長期的な入院も難しく、また介護施設への入居もアル中DV男と学生の二人暮らしをさせる訳には行かないという母の思いから病院への入院や施設への入居は断念、結果としてタクトが母の介護を務める事になる。母の介護をする必要があるという理由で学校の了解を得た拓人は、まだ中学生だったにも関わらず例外的なレポート制で出席日数を得つつ、内申書への記入を約束される。

 しかし同時に完全な不登校が確定し友人が居なくなってしまった。

 まだまだ遊びたい盛りにも関わらず、まるで「今日塾あるから」と繰り返す優等生のように「ごめん、お母さんにご飯食べさせてあげなきゃいけないから」と繰り返して遊びの誘いを断る拓人は、けれど母の介護は特に苦に感じていなかった。

 拓人にとって────まだ中学生である拓人にとって最も苦痛だったのは、物理的に抵抗が出来なくなった母に対する父の性的暴行を見せ付けられる事だった。

 一体何に急かされているのかと思える程、四六時中聞こえてくる父の怒声と母の喘ぎ声を聞きながらも、しかし拓人は無事に中学を卒業。奨学金を頼りにそのまま高校に行くも、中学と同様の理由で完全な不登校。何だかんだレポートは提出していた為、出席日数及び単位は全部取得したが、それでも中学時代と一切変わらない・・・・・生活を続けていた。

 

 だがそれもようやく終わりを告げる日が来る。

 それは拓人が十九歳の誕生日の夜の事だった。


 最早朝から晩まで母へ性的暴行を行っている父から「俺がイクまでに片付けとけ」と命じられ、拓人は性的暴行が行われているのを横目に部屋の片付けを行うが、既に壊れていたタクトは清掃をしようと手に取ったビール瓶を握った際、無意識で性交中の父の後頭部をビール瓶で乱打し始めた。 

「が─────」

 人間という生物は、力を入れる際に息を飲む事が多い。ぐっと息を飲んで力を溜め込み、その後息を吐きながら溜めた力を解放する。

 けれどその時の拓人は息を飲む間も無く父の後頭部を空のビール瓶で叩き付けた。

 故にビール瓶は割れず、父の頭蓋骨も皮膚が裂けるだけで割れやしなかった。

「──────がっ、なっ」

 だからこそ────だからこそ拓人は本気になる事が出来たのだろう。

 性行為中に後頭部を強打された父が怒り狂う姿が脳内にフラッシュバックした拓人は、自身が今何をしたかを即座に理解し、片手で持っていたビール瓶を両手でしっかりと持ち直す。

「もう終われよぉぉぉおおおおお──────ッ!」

 慟哭のような絶叫。吠え、猛り、狂いながら終幕を望む少年は、ただひたすらに握り締めたビール瓶を振り続けた。

 激痛と激情に怒り狂った父が振り返るが、拓人はそれでも構わずビール瓶を振り続けた。上げては降ろし、上げては降ろしを繰り返せば、十回に満たない回数でビール瓶が割れるガチャンという空虚な音が鳴る。その頃の拓人は既に上げては降ろしだけでは遅いと気付いており、何とかして振り返ろうと必死になっている父の顔面に、鋭利に割れたビール瓶の先端を、まるで餅搗もちつきが如く突き刺し始めていた。

 顔の原型なんてとうに無い。「人間という生物の顔の作り」という常識に伴い「この辺に目玉があって、この辺に鼻があったはず」という朧げな想像は出来るだろうが、仮にそれらの認識が無ければ「生物だったのかすら分からない」という程までに、拓人は父の顔面を破壊していた。

「…………………………たく、と」

 ともすれば朝まで繰り返していたであろうその凶行だったが、しかし拓人は自身の名を呼ぶ母の声でようやく理性を取り戻した。

「─────────────」

 その時、弱冠十九歳の少年は何を思うのだろうか。

 血縁関係のある父親を、顔面が陥没するまで割れたビール瓶で抉り続けた十九歳の少年は、そんな父に犯されていた母にその名を呼ばれて一体何を思うのだろうか。

「…………………もう、終わろっか」

 結論から言えば『何も思わない』。そんな余裕は無い。高々実父を殺した如きで何か思う所があるような人間であれば、年齢や成長環境を問わず「殺す前に何か思っているはず」であり────であればきっと、素敵な日々に幕を下ろす事を望む母の声だって届いているはずが無かった。

「───────────」

 言われるまでも無い。誰に言われるまでも無い。母にそんな下らない与太を言われずとも、拓人は既に買うだけ買って使われもしなくなっていたコンドームの箱からそれを三つ手に取り開封、伸ばし切った三つのコンドームをゴムロープ代わりに、火照った声色で行為の余韻を醸し出す母を躊躇い無く絞殺した。

「──────────────何だったんだよ」

 今起こった事は。今した事は。

「何なんだよ」

 僕の人生は、一体何だったのか。

 この後自分はどうすれば良いというのか。

 豚箱入りか? それとも更生施設入りか? 或いは逃亡生活でもしてやるか?

 そもそも生まれる意味はあったのか? 生まれてこの方、何か成し遂げた事といえば親殺しぐらいなものだが、一体自分は何の為に生まれて何の為に生きてきたのか。

「………………………」

 呼吸は乱れていない。心拍数は平常値。

 けれどただ涙だけが止まらない。


 何故なら、神からのお告げを聞いたから。


 お前は幸せになれない。

 お前というキャラクターモブは、幸せになる事が出来ない。


 神がそう言っている。

 でなければ血の繋がった両親を殺すだなんて現実に直面しようはずが無いだろうから。


「…………………………終わろうね」

 ぼんやりと鼓膜を震わせたのは、死んだはずの母の最期の言葉。

「…………………………終わろっか」

 聞こえないはずの声。常温下での人間の脳は酸素の供給が絶たれてから五分程度しか生きていられない………もう脳死が始まっているはずの死者の声────けれど確かに鼓膜を震わせる、幻のおと

 台所で両手を洗い、冷えた手で顔を洗う。返り血が付いていると終わる前に止められてしまうだろうからという意図があったものだが、つめたくえた水道水で顔を洗うと、まるで全て夢だったかのように目が冴える感覚がする。

「終わらせなきゃ」

 振り返って確認する。覚めた目で二つの死体を見て今が夢では無い事を確認した拓人は、まるで始業式の朝のような心持ちで靴紐を結び、びっくりする程に晴れ晴れとした顔で家を出た。

 スマホも、財布も、何も持たずに近所の駅に歩いて向かった拓人は、快速急行で駅を通り過ぎる電車の前に飛び出し自殺する。

 全身を強く打ち弾け飛ぶ拓人の最期の姿を見た、事故当時の運転手曰く、

「笑顔でした。とても自殺を選ぶような人間とは思えない程………まるで受験に受かった子みたいな、晴れやかな笑顔でした」



 ───────



 ジズが悪くない事ぐらい、僕にだって分かっている。

 ジズを恨むのがお門違いだって事ぐらい、僕にだって分かっている。

 それぐらいは分かる。

 けれど分からない。

 じゃあ誰を恨めば良いんだ? じゃあ誰が悪なんだ?

 僕は死んだ。あの時、憤怒Wrath嫉妬Envyに狂った魔王さんに殺された僕は紛う事無き不幸だった。

 なら僕の不幸を得て、一体誰が幸福になったんだろうか。

「……………………………」

 森羅万象は平均を取りたがる。宇宙の特定箇所だけ膨張するような事は無く、地球が三角形になる事は無く、不幸な人が現れれば何処かで誰かが笑えるように、宇宙は満遍無く膨張する。

 あの時僕が死んだ事で喜んだのは魔王さんだろう。そしてペール博士を魔王さんが殺して作り直したという話が事実なら、魔王さんの死でペール博士が幸せになったはずだ。

「………………ここ、何処だろう」

 でもそこから不幸が続いている。僕みたいなゴミを守ろうとしたせいでラムネがただの喋れる猫になり、僕みたいなゴミを取り戻そうと必死になったせいで『いつものメンツ』は軒並み心身を擦り減らしてしまった。

「……………………疲れた」

 みんな僕に構ってくれる。みんな僕に構いたがる。

 最初は嬉しかった。僕のようなやつでもここに居て良いんだって思えて、本当に嬉しかった。嫌な事は多かったし、不快な気持ちになった事なんて数え切れない。口は悪いし下品だし、取り敢えずパワープレイで解決したがる連中に嫌気が差す事だっていっぱいあった。

 けれどただ構って貰えてるという事がそれでもただ素直に嬉しいというのは、きっと『いつものメンツ』と出会っていなかったら未来永劫知る事が出来なかった事だろう。

「もう……………疲れた」

 だからこそ居なくなれば良い。いつまで経っても消えてなくなってくれないなら、僕が消えてなくなるのが一番手っ取り早い。

 みんな僕に構ってくれる………裏を返せば、それは僕が居るせいでみんな僕に構うしか無くなってしまっているのと同じなんだと…………僕はようやく気が付いた。

 けれど自殺を選ぶ気にはなれなかった。

 なかなかどうして不思議なもので、あの時は躊躇い無く自殺を選べたのに、今は何でか自殺を選ぶ気になれなかったんだ。

 あの時は嬉しかったのに。ふらふらと覚束無い足取りで向かった駅で、ちょうど快速列車が向かってきていると知ったあの時は本当に嬉しかったのに。「僕は何で運が良いんだ!」って。「何て最高な日なんだ!」って。世界が僕の死を認めてくれたような気がして、本当に嬉しかったはずなのに。

 それが今はどうだ。ルーナティアを出てふらふらと歩き続ける気力はある癖に、そんな体力があるなら首を吊る為のロープと手頃な高さの木を探している方が絶対に建設的だろうに。

 ああ気持ちが悪い。何でこんなに胸が気持ち悪いんだろうか。

「うわ何か踏んだ………きも」

 何か肉っぽいものを踏んだ僕は思わずそんな事を呟いてしまう。…………死体、では無い気がする。肉っぽい何かなのは確かなんだけど、それが何の肉かなのかがはっきりしない。

 一歩、また一歩と足を動かす度にぐじゅぐじゅと水音が鳴るような場所は、言うなれば肉の森。木々の代わりに触手が乱立し、雑草の代わりに触手が生えているこの場所は、きっと触手スキーたちにとってはアガルタにも等しい聖地のような場所かもしれない。

 そんな場所を、一体どれだけ歩いたかは分からない。一日二日では効かないだろうけど、気付けば迷い込んだそこで、しかし僕は未だに死ぬ事も出来ずに醜く生き永らえていた。

「……………疲れた」

 知恵も働かず体も強くないゴミが、装備一つ無い状態で異世界をふらふらと歩き続けられている事はきっと奇跡にも等しい確率なのかもしれない。いつ野盗に襲われてもおかしくないし、いつ獣だとかモンスターだとかに食い殺されても違和感は無い。何なら食事だってまともに摂ってないんだから、いつ栄養失調で倒れたって不思議じゃないんだけれど、それでもどうしてなのか僕は今も歩き続ける事が出来ていた。


 けど何も楽しくない。何も嬉しくない。


 幸せって何だっけ。


 僕が今生きているのは幸せ?


 なら僕が死ぬのは不幸せ?


「おお………見るからに「ザ・迷い子!」って感じの少年っすね。絵に描いたような迷える子羊っすよ」

 僕が貴女と会えた事は幸せ?

 僕は貴女と会えて良かった?

「愚者の子っすね? 君の人相書き、サンスベロニア周りで出回ってるっすよ。おお愚者よ、死んでしまうとは情けない! …………とか言ってみるっすけど、もう生きて息をする余裕すら無さそうっすね」

 でも僕は違うと思う。僕は貴女と会うべきでは無かった。

「仕方が無いのでベルお姉ちゃんが迷える子羊を導いてあげるっすよ。おっぱいデカくて? メカクレ系で? お姉ちゃん属性があって? でも気安い感じで取っ付き易い素敵な修道女だったベルお姉ちゃんが? 何と君の歩む先を大阪のオバちゃんがする道案内ぐらい超ざっくりと示してあげるっすよ。こんな奇跡のような自分と出逢えた奇跡に感謝するべきっすね」

 だってそうだろう。貴女悪魔人間と出会ってしまったせいで、失恋を経験してしまったのだから。

 悲しむ貴女の顔を見た事で、僕は不幸になってしまったのだから、僕は貴女と出会うべきでは無かったんだ。

「因みにお助け料は一億万円。少し前に料金受け取れずに逃げられた事例があるのでローンは不可っす」

「どこのぶりぶりざ◯もんだよあんた」

「ここのぷりぷりお姉ちゃんっすよ。デブ的にぷりぷりでは無く、峰不◯子的にぷりぷりっす」

「お前みたいなシスターが居るか」

「それ結構言われるっすけど、そんなの適当にガーッと行ってガーッとやってりゃ良いんすよ」



 ───────



 AさんとBさんが仲違いをしてしまった理由は分かりませんが、しかしAさんがくないのは揺るがぬ事実です。

 しかしBさんもくありません。それも同じく、揺るがぬ事実です。

 けれどこの世には必ずが存在します。それもまた、揺るがぬ事実です。


 ではAさんとBさんは、一体何がくて仲違いしてしまったのでしょうか。


 答えは一つ。


 ただ運がかっただけなのです。



 ───────



 僕が今を生きるのに今の僕の意思なんて関係無いのだと気が付いたのは『魔法店よどみハウス』という名前の小さなお店に入ってから十数分経ったぐらいの頃だったろうか。淡い桃色にほんのりと輝く液体を眺めながら、僕は「オットーっ! 糖分が足んねっすよーっ!」と憤慨する高身長で獣のような手足を持つボイン系目隠れシスターとかいう属性過多で胸焼けしそうな女性の声を聞いていた。

 シュガーポットの中に入っていた五つの砂糖を使い切ったベルナルディーノさんは、何でも最近コーヒー豆の種類を変えたとか何とかで。味の濃さや渋みが今までのものと全く違って砂糖を多めに入れないとやってられないのだと言うが………僕からしてみればコーヒーなんて突き詰めれば全部同じ豆から生まれているものなのだから、全部同じ飲み方をすれば良いのにと思ってしまう。

 けれど当然、そんな事を口にする気にはならない。何処へ向かう当ても無く何日もふらふらとほっつき歩いている中、偶然出会った飲まず食わずの僕に対してご飯を提供してくれただけでなく、この女性は「悩み事がありそうなツラしてるっすね、そういう時はベルお姉ちゃんにおねショタものの竿役が如く一気に全部曝け出すと良いっすよ」と僕の話を聞いてくれたのだ。………逆向きに生えた蝙蝠の翼が忙しなくパタパタと動いていた辺り、善意でのお悩み相談室というよりは単にゴシップ好きってだけなんだろうけど…………それでも今の僕にとっては有り難い話だった。


 ………………有り難い話だった? 何がだ? 何がどう有り難いんだ?

 食べるものや飲みものを貰ったから何だ?

 それらで食い繋いだ先、僕が生きている意味なんてもう無いじゃないか。

 全てを蹴ったんだ。僕は。そう、僕は全てを蹴ったんだ。

 話を聞いてくれたから何だ?

 話した先、僕の価値なんて変わらないだろうに。


 何の為に生まれて、何の為に生きるのか。

 ここに来て、ここまで来て、僕はようやくそれに気が付いた。


 僕はもう生きていない。僕はもう────死んだんだおろかもの


 幸せな空気に当てられて忘れてしまっていたんだろう。こんな当たり前の事に気が付くのに、何だか随分と長い時間を要してしまったような気がする。

 僕は生かされている。僕はもう死んでいるはずなのに、しかし僕は愚者として選ばれ、世界によって生かされている。僕はもう死んでいるのに、僕はもう終わっているのに、世界は僕を生かし続ける。


 世界みんなは僕を─────生かそうとしている。


「…………………………何の意味があるんだよ」

 掠れ切った声。もしこれが通話アプリだとか何だとかを介していたら、きっと今の僕の声はノイズ雑音として扱われ、言葉として認識されていなかった事だろう。

「意味なんて無いっすよ」

 けれどベルナルディーノさんはしっかりと聞き取ってくれていたようで、喘鳴のような僕の慟哭に、気の抜けた声色で言葉を返してくれた。

「誰も彼も変わんねっすよ。生きる意味とか? 生かされる理由とか? 何の為に生まれたのかとか? 実はそんなもん何処にも無いんすよ」

 こくりと喉を鳴らす音が聞こえる。獣のような焦げ茶色の体毛が生えた手を使い、器用にマグカップを持つベルナルディーノさんが「Maybe多分ね」と囁くと、カウンターの奥の暖簾を潜って現れた不機嫌そうなオットーさんが「白糖は高えんだからあんまし使い過ぎんなよ」と口を尖らせる。

 そのまま大きな紙袋の口を開き、空っぽになったシュガーポットに傾けた紙袋の中身………真白な角砂糖をがらごろという小さな音と共に注いだ。

「お代わり」

 入れ終えた直後、紙袋の口を折り畳むオットーさんにマグカップを差し出すベルナルディーノさん。当然ながらオットーさんは更に不機嫌そうな顔になり「豆はもっと高えんだからもっと控えろって」と小言を漏らすが、けれどオットーさんも慣れたものなのか。口を閉じた紙袋を片手に、小言を漏らしながらもしっかりとマグカップを受け取り二杯目を作ろうとしてあげていた。

「お前はどうする」

「…………ぇ」

 言われて頭を上げれば、そこには「お代わりだよ。要らねえならそれで構わねえ」と僕を見るオットーさんが居た。

 空っぽになったベルナルディーノさんのマグカップをゆらゆらと僕に向けながら言うオットーさんに、僕は数秒悩んでから「………大丈夫です」と答えると、しかし彼は「茶請けは無えが、茶だけはある。紅茶と緑茶ならどっちが良い」と、あくまでお代わりを譲らない雰囲気を醸し出していた。

 そんなオットーさんの気遣いに少しだけ吐き気を催しながらも、しかし遠慮が過ぎると逆に失礼だという話を思い出した僕は「じゃあ………」と少しだけ思案して、

「ルイボスティーって、ありますか」

 そんなような事を口にした。

「ある。待ってろ」

「ありがとうございます」

 言いながら中身の無くなったコーヒーカップをオットーさんに差し出すと、彼はベルナルディーノさんのマグカップを持ちながらも片手で器用に僕のコーヒーカップを受け取る。そしてそのまま再び暖簾を潜り、カウンターの奥へと消えていった。

「ルイボス好きなんすか?」

「……………いえ、余り好きじゃないです」

「不思議っすね、なら何でルイボスにしたんすか。アップルティーとかレモンティーとかでも良かったんすよ? 何ならオレンジティーとか言ってくれても、自分がオットーに生搾りのガチめなオレンジティー作らせてたっす。作らせた事無いから美味しいかどうかは知らねっすけど」

 矢継ぎ早に問い掛けるベルナルディーノさんに言われ、しかし何でルイボスティーを頼んだのか自分でも良く分からなかった僕は「多分」と間に挟んでから、

「見えないものが、見たかったんです」

 と、そんな訳の分からない事を口にしてしまっていた。

 当然のようにきょとんとした顔になる目隠れ系シスターだったが、しかし何を汲み取ったのか「なるほどっすね」と得心し「何となく言いたい事分かるっす」と同意した。

「あのキツい味で、目ぇ覚ましたかったんすね?」

「………………はい」

 きっと僕は今、何も見えていない。見るべきものが、見なくてはならないものが、見たくないものが、それでも見なければならないものが───けれど何も見えていないのだから、僕が今すべき事はきっと目を覚ます事だろうと思ったんだ。

 コーヒーでは目が覚めない。どれだけ飲んでも眠気が取れるだけで、目は覚めない。

 飲み過ぎて寝れなくなっても、瞳はどんどん濁って曇っていく。頭の中に靄が掛かったように思考が鈍り、見なくてはならないものが目の前をよぎっても反応出来なくなってしまう。

 そう思ったからこそ、僕は癖の強い味がするルイボスティーを頼んでみた。

 今見るべきものを見る為に。

 今見たくないものから、確実に目を逸らす為に。

「それあんましオススメしないっすけどね」

 けれど僕は知っている。僕はちゃんと知っている。それが間違っている事ぐらい、そんな選択が正しい選択である訳が無い事ぐらい、知らないはずが無いだろう。

 だけど、だけど、

「でも………花粉症にも、効くらしいですから」

 ああ、けれど。今の僕は目がんでいて、現実すらもがまともに見えていないのだから、僕は必死に「でも」「だけど」と下らない接続詞を繰り返す事しか出来なかった。

 それが良い事か悪い事かは知らない。言い訳と呼ばれる接続詞で言葉を繋ぐ事が善なのか悪なのかは、今の僕には分からない。

 濁り切って何も見えていない、生きているようで生かされているだけの今の僕には、そんな疑問の答えなんて見えるはずが無かったんだ。

 叫びたかった。誰か助けて、って。大きな声で叫びたかった。

 理由が知りたかった。何で僕がこんな目に、って。この世の真理が知りたかった。

 叶うはずが無かった。そんな思い、叶う訳が無かった。


 僕は何でここに居る?

 僕はどうして・・・・ここに居る?

 言わずもがな。

 お前自身が、お前の意思で、愛すべき女を捨てたのだから。

 僕がここに居るのは、僕のせい。


 僕のせい。

 そう、僕のせい。

 お前が全部悪いんだ。


「───────生まれて来なきゃ良かった」


 吐息のように漏らしたその慟哭に、逆さまに生えた蝙蝠の羽根がピクリと動く。前髪で隠された双眸がちらりと僕を流し見たような気がしたが、けれどベルナルディーノさんは口を閉ざしたまま何も言わない。

「──────────────」

 その無言がどうにも心地良い。こんな濁り切った頭なのだから、どうせ何を言われても耳に入らない。

 ………と、熱くなった目元から何かが流れ出る感覚がする。涙かと思ったそれは、しかし涙では無く全く別の液体。

 真っ黒な液体。存在しないはずの、真っ黒な液体。

 生まれてからずっと積み重ねてきた、くすんだ紫色の隈が溶け出るような感覚がする。

 だけどベルナルディーノさんは目から黒い液体を流す僕には目もくれず、そんな様子を見て僕は「ああ、これは幻覚なんだ」と流れ落ちる液体を拭う事はしなかった。

「ほれガキ、ルイボスだ。砂糖なんか入ってねえからな」

 黒い黒い液体。僕の目から流れ出る、黒い黒い液体。それには見向きもしないオットーさんが透明なグラスを僕に差し出してくれる。

 いつの間にやってきたのだろうか。「ありがとうございます」と応じながらそれを受け取り一口飲んでみると………不思議な事に、僕の目から流れ落ちる黒い液体が嘘のように掻き消えて無くなった。

「……………………」

 何せ本当になのだからこんなもの流れるなんて有り得ないのだが、しかしついさっきまで僕の手のひらにぽたりぽたりと流れ落ちていた黒い雫の感触は確かにそこに存在していて。

「美味いっすか?」

「…………はい、美味しいです」

「そっすか。自分には度し難い味っすけどね、それ」

 目が覚める感覚。鼻の奥を突き抜けていく独特な清涼感に、僕の目が覚めていく。

 目が覚める。目が覚める? そう、僕は寝ているんだ。

 何で起きてしまったんだろうか。何で目覚めてしまったんだろうか。

 死んで眠っていたかった。一生、永劫、時間の続く限り目を閉じていたかった。

「──────花粉に」

「はい?」

 けれど、けれど、

「花粉症に、効くらしいですよ。ルイボスティー」

 僕は目覚めて生き返ってしまった。

 誰かに起こされた? 自然に目が覚めた?

 ………自然に目が覚める事なんて有り得ない。自然に目が覚めるだなんて不自然は有り得ない。

「そうなんっすか?」

「らしい、です。飲んですぐは無理だけど、半年とか、そういう年単位で毎日飲んでると全然違うんだって…………ある女の子から、そう聞きました」

 朝日か、過眠か、理由なんて何でも良い。

 目が覚める理由なんて何でも良い。

「へえ、そうなんっすね」

 寝たら、起きる。

 そうでなければ不自然だ。

「仲違いには効くんすか?」

「────え?」


 だから、誰か、

 どうか、僕を、


「お友達のお迎えっすよ」


 起こして下さい。


「──────────ここに居たんだね、ブラザーだいじなひと


 僕は起きたいんです。


「随分遠くまで来てんなあ。………徒歩やろ? ようここまで歩けるもんやわ」


 でも僕はもう、一人では起きられません。


 そんな勇気は、もう僕にはありません。



 ───────



「こちら生搾りオレンジティーにございますお嬢様」

「おう大義や。善きに計らえ」

 まるで椅子のように形を変えた何本かの触手、それの上に座った橘光がぶっきらぼうにカップを受け取り、そのまま軽くふーふーと冷ましてからそれをこくりと少しだけ飲む。

「…………うん」

「如何でしょうかお嬢様」

「熱ぅて何も味分からん」

「悲しい」

 うやうやしい姿勢や態度を止めたオットーさんが背筋を伸ばせば、足を組み直した光が再びオレンジティーを飲む。そのまま流れるようにごくごくと喉を鳴らして一気に飲み干し、

「結構不味いなこれ」

「凄い悲しいなそれ」

「もしかせんでも、適当な紅茶に頭空っぽで果汁ぶち込んだやろお前」

「イエスマムッ! 分量は自分の直感を信じまして候ッ! 詰まる所が目分量ッ!」

「あれ本来は既に味整えられとるオレンジジュース入れるんやで。味整えとらん生搾りでやるんなら、かなり慎重に試飲して分量把握せなならん」

「なるほ────」

「そも茶なんざ個々人の淹れ方によって結構味変わるねんから、果汁の分量も結構気ぃ遣わなグチャグチャになるで」

「ぁごめ────」

「つかウチ別に茶ぁ要らんっちゅーたんにこれぁ何やお前。あーええよええよーって遠慮した客に無理矢理ゴックンさせたもんがこれってお前ナメとんか? お?」

「────────」

「ボロクソ言われてるっすね。自分の馬鹿義弟が済まねっす」

「ホンマやわ。躾がなっとらん」

「ぶっちゃけ躾けなかったっすからね、野放しみたいなもんっす」

「犬猫の放し飼いは糞文化やで。事故死、獣害、感染症…………ウチはわんにゃーの放し飼いを「飼う」の括りとして認めとらん。あれは「動物飼いたいけど糞尿の世話は絶対したくない」みたいなクソカスが「可愛がってるだけ」であって「飼育」はしとらん。放し飼いは命に責任持てんゴミのやる事や」

「仰る通りっす。お陰でオットー、パイオツカイデーなチャンネーを見るや秒で盛るクソ童貞みたいになっちまったっすから」

「誰彼構わずケモミミ生やす日本のクリエイターみたいやな」

「どっちかってーと取り敢えず最高レアのキャラに日本刀デザインの武器持たせたがる台湾の量産型萌え萌えソシャゲみたいなノリっすね」

「誰彼構わず盛るよりは趣味嗜好が絞られとるだけ幾分マシやな。精子の放し飼いっちゅーてあっちゃこっちゃにぶっ掛けられるよか百倍ええでよ」

「そうなる前に去勢するべきっすね。スプレーマーキングは一度癖が付いたら去勢しても直らねっすから」

 言い合いながらちらりとオットーさんに流し目を送る二人だが、しかしオットーさんは「言われ慣れたぜ」と妙にしたり顔で聞き流す。

「……………………………それで、キミはここで何をしているんだい」

 それを小耳に入れながら、じっと僕を見詰めていたパルヴェルトがようやく口を開く。

 向かい合い、まるで睨み付けるかのように僕に問い掛けるパルヴェルトだったが、しかし僕はもう手遅れなようで─────駆け付けてくれた仲間たちに対して、何も心が動かなかった。

「何をしている訳でも無いよ。………ただ、何をすれば良いか分からなくなって、どこか遠くに行ってみたくなっただけだ」

 探しに来てくれてありがたいとか、心配されている実感だとか、迷惑掛けたとか。そういった普通・・は思って然るべき感情が何も湧いてこなくて、僕は無感情にそう答えた。


 何も見えない。何も。


 本当に何も見えなくて、何をどうすれば良いのかとか、どうするのが正しくて、どうするのが間違っているのかとかが何も分からない僕の言葉に、パルヴェルトも同じように小さく「そうか」と呟いた。

 けれど彼は僕とは違って何かが見えているようで。

「─────────」

 不意に一歩前進してきたパルヴェルトは、そのまま僕の胸倉を掴み─────、


「ッざけてんじゃねェッ!」


 ─────僕は為す術も無く、振り抜かれた彼の拳を受け容れる他無かった。

 力強く握り締められた拳で横っ面を殴られた僕が大きくよろければ、彼は怒りに満ち満ちた顔で僕を睨み付けて「分かんねェなら聞けよッ!」と怒鳴り散らした。

「居るだろうがッ! どこででもボクらはすぐ近くに居るだろうがッ! 折角こんなすぐ近くに居るのに────分かんねェなら聞けよッ!」

 そう叫ぶパルヴェルトの傍ら、視界の端でベルナルディーノさんが獣のような手を動かし何かを制する動きを見せていたが、しかしそれが何を制する動きだったのかを把握するよりも早く、よろけた僕の髪を掴んで無理矢理頭を上げさせられ、かと思えば僕は即座に胸倉を掴まれて引き寄せられた。

「テメエ一人で答えに辿り着けるだなんて自惚れてんじゃねェぞッ! 何をどうすれば良いか分かんねェってんなら近くの奴らに聞けば良いだろうがッ!」

 いつものキザな口調とは打って変わった荒い声色に一瞬だけ自分の心音が跳ねる感覚がしたが、しかしもう既に壊れていた僕はそれで何か思う所が変わる訳でも無く。

「高々一度しくじっただけで見放しやがってッ! テメエだって何度もしくじって来ただろうがッ! 初めての経験でしくじってッ! その時周りは怒鳴り付けて来たかッ!? 違えだろうがッ! 自分だってしくじって事あるからって一度目は絶対に見逃しただろうがッ! だってのにテメエは──────」

 グダグダと口上を垂れながらも僕を殴り続けるパルヴェルト。しかしその拳は力強いはずなのに何故か余り痛くなくて、日々鍛錬を繰り返しているはずなのに遅く見えて……………再び振りかぶられた右の拳を、僕は左腕を使って払い除け、


「──────お前に何が分かるんだよッ!」


 自分がされたのと同じように、僕は右の拳でパルヴェルトの顔面を殴り返した。

 だけど僕の拳に感じたものは不思議な感覚。………殴ったはずなのに妙に反発するような奇妙な感じに、僕は思わずたたらを踏んでしまう。

 すると普段から自己鍛錬を欠かさないパルヴェルトはすぐに顔を戻して僕を睨み付ける。────だから僕は思いの丈を吐き掛けて、自分がやられたように胸倉を掴みながら何度も殴り続ける事しか出来なかった。

「お前らに聞いた所で何も分かんねえよッ! 二度も死んだやつの気持ちなんて誰に聞いた所で分かる訳が無えよッ!」

 しかし当然パルヴェルトも負けては居られず、怒鳴り散らす僕に殴られながらも、僕と同じように怒鳴りながら僕を殴り返していく。

「分かるかもしれねェだろうがッ! テメエ一人でウダウダ悩んでるよりよっぽど答えに辿り着き易いだろうがッ!」

「適当な綺麗事垂れてんじゃ無えよ偽善者ッ! 辿り着ける訳無えだろッ!」

「そんな事─────」

「どんだけ悩んだと思ってんだッ!」

「───────」

「悩んで悩んで─────胃が荒れてゲロ吐くぐらい悩んで………それでも分かんねえってのにッ!」

「──────っ」

「自分自身でも分かんねえもん────第三者が分かる道理なんて無えだろうがッ!」

「そういう所だっつってんだよッ! 何でもかんでもそうやって自分一人で決め付けてんじゃねェッ!」

 叫んだ僕の顔面に、カウンター気味なフックが入る。脳髄が揺れる感覚がして、まるで魂が漏れ出るかのように吐息が漏れる。

「誰だって物事には得手不得手があるんだよッ! 物理が得意なやつとか数学が得意なやつとかッ!」

 妙に動く体。馬鹿なクリエイターが脳死で付けたような猫耳によって得た身体能力が無ければ、きっと僕は今頃ゴミクズのように野垂れていた事だろう。

 けれど今の僕は妙に体が動く。

 だから殴る。怒鳴りながら、叫びながら、殴り続ける。


 何度も何度も、何度でも殴る。

 何度も何度も、何度でも殴り続ける。


 早くこいつを黙らせたい。聞き苦しい、ムカつく声を黙らせたい。

 今はこいつに構ってやってる場合じゃないんだ。今の僕は、今後どうしていくかをしっかりと考えなければいけないんだ。

「馬鹿なんだよテメエはッ! テメエの得手不得手を考えもせずにッ! 俺らの得手不得手を考慮すらせずにッ! 一人でどうすれば良いか考え続けてるテメエは本物の馬鹿なんだよッ!」

「じゃあお前に分かんのかよッ! どうすれば良いかちゃんと分かんのかよッ! 言ってみろよッ! 僕がどうすれば良いか─────デケえ口叩いたなら答えてみろよッ!」

「分かる訳無えだろッ! 俺だってテメエと同じぐらい馬鹿なんだから分かる訳無えだろッ!」

「なら──────」


「それでも惚れた女放ったらかしてんのは絶対ェ違えだろうがァッ!」


「───────────」

 フック気味に入ったパルヴェルトの拳が僕の横っ面をしっかりと捉える。ガッと重い衝撃が脳髄に伝わり、自分の意思とは正反対に足の力が抜けた僕はそのまま仰向けに倒れてしまう。

「どんだけ泣いてると思ってんだッ! どんだけ泣かせたと思ってんだッ!」

「────────────」

「テメエの中で女泣かせんのが正しい選択だってかッ!? 違えだろうがッ! それは違えって分かるだろうがッ! 俺らみてえな本物の馬鹿おろかものでも─────それだけは間違ってるって分かるだろうがッ!」

「────────────ぁ」

 殴り合っていたはずなのに。互いの胸倉を掴み合い、互いの顔面を殴り合っていたはずなのに、

 痛みが消えていく。殴られていた顔から、殴っていた拳から、溶けるように痛みが消えていくのが分かる。

「はあ……っ、はぁ……っ」

 しかし溶けた痛みがどこかに消えるだなんて事は物理的に有り得なくて。

「戻れよ……っ、戻って来いよ……っ! そんで謝れ………っ! 誰にでもあるような一度や二度の失敗で疑ってごめんって…………ちゃんと謝って泣き止ませてこいよ………ッ!」

 消えたように感じたその痛みは、代わりとばかり僕の胸へと押し寄せてくる。

「は」

「誰が悪いとか何が理由だとか、そんなの何も関係無えだろうが………。…………理由はどうあれ過程が何であれ、お前の言葉で────お前の行動で一人の女が泣いてんなら、ちゃんと謝って泣き止ませてこいよッ!」

「……………………あぁ」

「ふらつくのはその後だろうがッ! 死にに往くならちゃんと泣き止ませて─────ちゃんと終わらせてから死に場所探せよッ!」

 まるで自分の事のように怒鳴るパルヴェルトに、しかし特に涙は流れない。別に心を打たれた訳では無かったから。

 嗚咽も何も無い。悲しい事なんて起こっていないから。

 だけど上手く前が見えなかった。視界が濁ってしまったように上手く前が見えなくて、僕はまるで上から見下ろすかのように「この気持ちは何なんだろう」だなんて事を思っていた。

「なあタクト、ちっとばかしウチぃ口挟むけどな」

 すると今まで聞いた事も無いような透き通ったその声が聞こえてきて、僕は一瞬だけ誰が喋っているのか本当に分からなくなった。

「書類上、ラムネはタクトの所有物って判定になっとるらしいで」

「しょゆう……ぶつ………」

「せや、所有物。…………犬や猫が脱走した時ってな、警察に遺失物届けってん出すんよ。財布が無くなった時とかと同じように、自分のものが失くなりましたーちゅーて遺失物届けを提出するんよ」

 淡々と。或いはぽつりぽつりと呟く光の声に、すぐに何を言いたいのかが伝わってきた僕は────目の前が明るくなっていく感覚がして、

「ウチはラムネに飯なんざやらん。パルも、博士も、魔王のオバンも当然飯なんざやらん。優しさのリソースは有限や、自分のものやあらへんもんに何から何まで慈悲深くぅとか言うてられるかいな」

 見えていなかったはずなのに。見るべきものが、見なくてはいけないものが、何も見えていなかったはずなのに、

 光の言葉を聞いている内に、それが次第に見えてくる感覚がする。

「今はジズがラムネに飯ぃやっとる。やけどそれはジズの慈悲がまだ余っとるからやし、ジズがまだ生きとるからや」

 自分が不器用な人間である事は自覚していた。僕は不器用だから、周りと上手く噛み合う事が出来なくて苦しんでいた。

 けれどそれは傲慢な考えだったんだ。不器用故に自分の事しか考えられず、ただ我儘を言っているに過ぎなかったんだ。

「タクトが戻らなんだらその内ラムネ死ぬからな。…………命賭けてタクトの命ぃ繋ぎ留めてくれたあの子猫、二度目の死因は餓死やろな。二度目の、餓死死んだ理由や」

 不器用なのは僕だけじゃない。わざわざそんな遠回しな言い方しか出来ない橘光という女も相当な不器用で、怒鳴って殴る事でしか僕のような不器用な愚か者への説教が出来ないパルヴェルトも心底不器用なやつで。

「─────────────」

 だからこそ僕ら噛み合うんだと気が付いた時には、僕は無言でぼろぼろと涙を流してしまっていた。

 器用な丸では噛み合わない。一人で回る事は出来るだろうが、器用な丸は僕らみたいな不器用な歯車とは噛み合わない。

 不器用な歯車は、同じような不器用な歯車と出会って初めて、器用に回り始めるんだと気が付いて────。


 ああ本当に、何て良い奴らと巡り逢えたんだと、

 ああ本当に、僕は死んで良かったと、

 そう思えて止まなかった。



 ───────



「あーあー……全く、ガキの喧嘩で商品割りやがって………澱様は止めて正解だったけど、…………ああもう、やっぱ姉ちゃんが止めるの無視して俺だけ入れば良かった。…………クソ、並べてるの安物ばっかで良かったよ全く」

 革製の手袋を着けながら割れたガラス瓶を片付けるグァルネリ・オットーが「つかあいつら弁償すらしねえでやんの」とぶつくさ文句を垂れれば、豊かな胸をカウンターに乗せながら頬杖を突くメカクレ系シスターが「青春の観覧代とでも思えば良いんすよ」とけらけら笑った。

「個人差はあれ、自分らにもあったはずっすからね。あんな感じの青春。自分に経験があるなら人にあれこれ言っちゃ駄目なんすよ、そんな権利無いっすから」

「…………………俺と姉ちゃんに青春なんてあったか? 記憶に無いぞ」

「あったっすよ? 青春時代。絶対にあったっす、誰にも彼にも」

「ホントかよ、心当たりねーぞ」

「青春ってのは方言っすから。地方によっては「反抗期」とか「倦怠期」とも呼ばれるっすよ」

「…………そう言われりゃ確かにあったわ」

 割れたガラス片をチリトリに乗せ、それを木箱に移す。中身は少しの間外で乾かして、魔法薬が乾いたらガラス片は再び融かして瓶に戻す。割れたから捨てるだなんて贅沢な真似、この世界ではおいそれと出来ない。

 溢れてしまった魔法薬の中には素人が扱うと危険なものも多いが、しかしグァルネリ・オットーは当然ながらベルナルディーノ・ヴェンティセイも素人とは程遠い。おちゃらけた雰囲気と軽率に見える口調から侮られがちだが、それでも二人は様々な魔法薬の生産を完全に自己流で続けている身。過去に行方不明となったメルヴィナ・ハル・マリアムネがもし生まれていなかったら、今頃サンスベロニア帝国で抱えられていた魔法軍医はこの二人だったかもしれないぐらいの玄人である。

「……………………あ」

 と、カウンターに頬杖を突いていたベルナルディーノが何かに気付いたように口を開く。

 まんまるに開いた口をしばらく開けっ放しにして呆然とするベルナルディーノに「どうしたよ姉ちゃん」とオットーが声を掛けると、メカクレ系シスターは獣のような腕で自身の顔を多いながら………、

「…………お助け料の証文作るのまた忘れたっす。タダ働きならぬタダお助けしちゃったっす」

「姉ちゃんそのネタ何回やるんだよ。もう億はやったぞ」

「何言ってんすか億はお助け料の額っすよ。回数は知らねっす、千超えた時点で数えんの止めたっすからね」

「端からお助け料なんか取る気無え癖に良く言うよ。………姉ちゃん、ただの照れ隠しだろ?」

「実際に受け取ったら終わりっすからね」

「…………どういう意味だ?」

「何年経ってもどんな体になっても、自分はシスター神に仕えるものとしてのプライドは捨ててないっすから。だからこのネタも自分が自分である限り、絶対にやり続けるっす。下らないジョークでもプライド自我が続く限りやり続けなきゃ嘘っぱちなんすよ」

「………そのプライド、今後捨てる予定は?」

っす」

「なら今後も付いていくよ。そんな姉ちゃんだから好きになったんだ」

「シスターって生涯貞淑じゃないといけないんすよ?」

「じゃあ早くシスター辞めてくれ」

「オットーはプライド無いっすね」

「プライドで満たされるのは私腹だけだろ、性欲は満たれねえ」

「アホっすね」

「そんな俺の事が?」

「いや別に好きじゃ無いっすよ?」

「なん────」

「寝てる所襲って自分の膜ブチ抜いたの一生忘れないっすから」

「………………………………………………根に持ってる?」

「本来、産まれる事と死ぬ事は一生で一回だけの経験なんすよ」

「……………こ、今度何かプレゼント探してくるわ。アクセサリーとかが良いかな」

「一生に一回を無為にブチ抜いた罪って、一体何を何回すれば償えるんすかね」

「生涯掛けてゴマを擦り続ける所存」

 腰を曲げて頭を下げるオットーに、不器用は不器用と共にあって初めて上手く回るのだと、ベルナルディーノは呆れ混じりの溜息を漏らした。



 ───────



「博士、失礼するよ」

 夜のルーナティア城。その中にある一区画、研究室兼医務室であり、またペール・ローニーの自室でもあり────魔法生物湯気子の飼育部屋でもあるその部屋に入ったパルヴェルトを見たペール博士は、開口一番「…………はぁ?」と怪訝な声を漏らしてしまった。

 その理由は部屋に入ってきた愚者の青年パルヴェルト・パーヴァンシーが、顔面をボコボコのボコと言って差し支えない程に腫れ上がらせていたからだった。

 そんなパルヴェルトを見て何かを悟ったペール博士は、直前のものとは全くイントネーションの違う「…………はぁ」という溜息を漏らしながら「湯気子、軟膏と湿布」と飼っている魔法生物に向けて声を投げる。

「待ってくれ」

 しかしそれをパルヴェルトが止める。

 パンパンに腫れた顔………青紫色に膨れ上がった唇で喋り辛そうにしながら静止する彼にペール博士が振り返れば、彼は「貴女に謝るべき事が二つあるんだ」と姿勢を正して向き直った。

「は?」

 三度目の溜息である。何せ今は夜中も夜中、夜勤職か引き篭もりのニートでも無ければ寝て然るべき時間帯だったからであり、そんな時間にいきなり押し掛けてきて「謝りたい」とか言われようものなら、ペール博士でなくとも大体の人間が似たような反応をしてしまうだろう。

「貴女の好きな男の子を殴ってしまった」

「はぁ?」

「ボクはボクの親友であり家族であり、最愛の人間を取り戻す為に、貴女の惚れた男の子を殴ってしまったんだ」

「はあ」

「この後か、或いは明日以降………そう遠くない内に似たような面構えになったボクのともだち大親友がここに来ると思うから、その時は宜しく頼むよ」

「はあ」

 言葉の意味は理解出来ている。何が起こったのかも大体察しは付いている。

 …………自分の身に起きた二度目の死を受け容れられなかった少年が飛び出すようにルーナティア国から去っていた後、パルヴェルト・パーヴァンシーが一も二も無くその後を追い掛けたという報告はトリカトリから受けていたから………まあ何となく青臭い喧嘩でもあったんだろうなぁという事ぐらいは想像に難くなかった。

 だが何も帰ってきてすぐそれを謝りに来るか? 今何時だと思っているんだ。こっちはまだ仕事中だし。

 けれどパルヴェルトはそんな女探求者の心情など察せる程器用では無く、ボコボコに腫れ上がった顔でペール博士を見詰めながら「それと」と言葉を紡ぎ続けた。

「アイキのすべを、喧嘩に使ってしまった」

「……………………………はぁ?」

「身を護る為の御業を、喧嘩の為に使ってしまった」

「………………はぁぁぁぁぁぁ」

 大きな溜息。何となく察してはいたが、溜息が止まらない。

 予感はしていた。勘というには細い線だったが、ルーナティアから飛び出したタクトを真っ先に追い掛けたのがパルヴェルトだったと聞いた時点で「何となくやりそうだなー」とは思っていた。

「…………破門だな」

 だが許す訳にはいかない。それはそういう教えであり、そういうもの。使い方を誤ったものを許す訳にはいかない。包丁を人殺しに使ったものを許してはならないのと同じように、身を守る為の力を傷付ける事に使ってしまえば、どんな理由であっても許してあげる訳にはいかないのだ。

「もう私から何かを教えてやる事は出来ない」

 だからペール博士は別の意味を含めてそう言い放ったのだが、この不器用な青年はその言葉の真意を汲み取る事が出来ず、ボコボコに腫れ上がった顔を悔しさに歪ませて俯いた。

「今後キミがどれだけ困ったとしても、もう私は・・何も教えない。全て自力で・・・解決するんだな」

 だからわざと強調して言った。面倒臭いとは思いつつ、言ってみれば妙な照れ臭さに反吐が出そうになるのを堪えながらそう言うと、顔面をボコボコに腫れ上がらせた不器用な青年は何かに気が付いたかのようにペール博士の顔を見詰め、やがて同じように「貴女には・・・・本当にお世話になった」と少し強調しながら頭を下げた。



「……………はあ」

 やがて湯気子から軟膏とガーゼを受け取り部屋から出て行ったパルヴェルト。扉が閉まり足音が遠ざかるのに合わせ、ペール博士は何度目か分からない溜息を漏らした。

「………白髪が増えるな、銀陽」

 金色の猫に付き纏われる銀色の犬は、奇しくも同じ金色の髪をした青年と、今後長い付き合いになるだろう。

 それを思うと、嫉妬に焦がれる太陽に髪が焼かれて白くならないか心配になるが………あの銀色の老犬はきっと、何だかんだと言いつつ不器用な青年に手を貸してしまうのだろう。

「…………………………」

 何せあの時不器用な少年に掛けた言葉………悪のヒーローに例えた道標は、残念な事に少年の心に残っていない。

 あの少年はきっと、今も自分の事を愚か者だと卑下し続けているだろうから─────であれば老犬は、前を向いて歩く青年の肩を支えるぐらいしか選択肢が無いのだろう。



 ───────



 この話を誰かにすると須らく驚愕の表情を隠しもしなくなるのだが、ジズベット・フラムベル・クランベリーという小さな悪魔は元々ルーナティア国でも屈指の高貴な血筋のお嬢様であり、幼い頃はフリルが大量に付いた可憐なドレスが私服というぐらいのお嬢様だった。

 父はただの庶民だったが、花も恥じらい萎れてこうべを垂れる程の血筋である母に求婚する為、富と名声を積み上げた猛者中の猛者だった。

 ジズベット嬢様・・・・・・・はそんな二人の間に生まれた小柄な悪魔だったというのは、最早酒の席でも話す事の無いジズの過去である。

 大きなお屋敷に住み、数え切れない程の使用人に朝起こされれば着替えの手伝いをして貰う。ただ立って手を広げるだけのジズベット嬢様・・・・・・・に対し、使用人たちは可能な限りその肌に触れないよう上着も下着も、果ては靴下すら履かせて差し上げる。ジズベット嬢様・・・・・・・自身は何も気にしないものの、お召換えの最中その素肌に触れた使用人は誰彼構わず解雇されてしまう程に、誰もが認める本物のお嬢様だった。

 今でこそ気怠げな半目と間延びしたダウナー系悪魔なジズだが、しかしまだジズベット嬢様・・・・・・・と呼ばれていた頃はそんな未来誰も想像出来ないぐらい眩い笑顔が素敵な小悪魔だった。

 背格好こそ小さかったものの、兎にも角にも明朗快活。いつも元気に笑っていて、中々成功しないものの色々な事にチャレンジする天真爛漫なお嬢様。そしてお召換えの最中素肌に触れてしまった使用人が居れば、何とかしてその事実を隠して解雇されないよううんうんと頭を捻るぐらい心優しい悪魔だった。

 だがこんなもの所詮は過去形である。華々しい現在は父が積み上げた努力の中にある汚職や借金の過去が世間に周知された瞬間瞬く間に崩れ落ちて過去形に成り下がり、力に物を言わせる悪魔が行う過度な追い込みに飲まれたジズ・・はその時に父母と離れ離れになってしまった。

 良くある不幸話。有り触れた、どこにでもある、ただの没落話しである。

 父と母が今どうしているかは分からない。生きてるという話は聞かないが、しかし死んだという話も同じく聞かない。きっとどこかで野垂れ死んでいるのだろうが、何にせよ当時のジズ・・に父母の生存を心配する余裕なんて全く無かった。

 住む家を追われて浮浪者として生きる事を決意して暫くは存命を祈りもしたが………食うに困って遂に人を殺し始めた辺りから、ジズ・・の頭の中は「何で自分がこんな目に遭ってンだ」という疑問でいっぱいになり、答えの帰ってこない疑問はいつしか「みんな死んでしまえば良いのに」という行き場の無い怒りに変わっていった。

 初めて他者に手を掛けた時、ジズは何日も悪夢にうなされた。殺した時の感触はいつまで経っても消えず、返り血を浴びた手のひらの冷えた血液の感覚は、まるで今も手が血で濡れているかのようにいつでも鮮明に思い出せてしまったが………何よりも記憶に──── ジズ悪魔の瞳に焼き付いて消えなかったのは、殺した相手の顔だった。

「………………こっち見てンじゃねェよ豚」

 もう完全に死んでいるはずなのだ。息は途絶えているし、当然心臓も動いていない。

 にも関わらず、死体がまるで自分を睨み付けているような錯覚に陥ってしまったのだ。

 その光景が網膜に焼き付いて離れない。何秒経っても、何日経っても、何年経ったって離れやしない。路上に敷いたダンボールの上に横になりそろそろ寝るかと目を閉じた瞬間、まるで目の前にそいつが転がっているかの如く鮮明に浮かび上がってきやがる。

 数を熟せば慣れて消えると思ったジズは、元よりその日暮しだった故に次から次へと殺し続けた。当時のジズにとって「食べるものが無くなる」という事実は即ち「そろそろ誰か殺せ」という神からの掲示のようなものであり、時には通り魔、時には押込み、時にはスり、時には空き巣。ただの空き巣で済ませようと入り込んだ家の中に誰か居れば、ジズは何の躊躇いも無く殺すようになった。

 けれどジズは捕まらなかった。捕まるはずが無かった。監視カメラなんて無い世界なのだから、出会う全てを殺してしまっていれば手配書なんて作りようも無くて………であれば国家や民が「連続殺人鬼が居る」以上の手掛かりを何十年も得る事が出来ないのは、ある意味では当然の結果だったろう。

「貴女、腕が立ちそうね」

 そんなジズがまだ若かったチェルシー・チェシャーと出逢ったのはそのぐらいの頃だったろうか。

「貴女、私が出世したら私と一緒に働いてくれる?」

「………………………………」

「私ね、今夢を叶えさせる為に夢を見てるのよ」

「……………耳から蛆こぼれてっぞォ?」

「ご生憎様、頭は湧いて無いわよ。愛した相手が何にも憚る事無く自由に生きられる………私は今、その夢を叶えようとしてるのよ」

「……………それがどうしたってンだよ」

「血の匂いがするのよ」

 まだ魔王になる前のチェルシーがそう言って微笑む。腰に手をやり、縦にくびれた淫靡なヘソをまるで見せ付けるかのようにくねらせながら「理由なんてどうでも良いけど」とジズに目を向ける。

「血の匂いがするの。でも貴女、見た感じ怪我とかしてないの。でも血の匂いがするの。濃い血の匂い………………最近誰かったでしょ」

「……………………経血の匂いじゃねェ? アタシ三日前まで生理だったからさァ」

「貴女の生理が終わったのは三日じゃなくて五日前でしょ? 淫魔をナメちゃいけないわ、シモの話題で間違える事なんて物理的に有り得ないわ」

「…………………………チッ」

 そう言ってくねくねと体を動かすチェルシー・チェシャーに、しかしジズは何だか妙にイライラして仕方が無かった。

「今は準備段階なんだけど、事が済んだら大量に手が要るのよ」

 淫猥な体付き。男に限らない………同性すらをも魅了する「女らしい体付き」をしたその淫魔が、まるで見せびらかすかのように体を動かすと、その度に大き過ぎず小さ過ぎない胸がふるふるとエロティックに揺れて────。

「ねえ、貴女そんなに暇扱いてるなら、その時が来たら私に仕えてよ」

 見るもの全てを虜にし、聞くもの全てを魅了する…………そんな淫魔が、ジズの瞳には羨ましく見えて止まなくて。

「……………………仕えるゥ?」

「そう、私その内ルーナティアの王様になるから。その時が来たら、貴女当分の間私の護衛やって欲しいのよ」

「……………………あーねェ」

 今にして思えば、それはまさしく悪魔の誘いだったろう。

 何言ってんだか分からねえが、良い加減悪夢に悩まされるのも飽き飽きしていた頃だったからと、そんな理由でジズ悪魔は──── 淫魔サキュバスの誘いに乗ったのだった。



 ───────



 絡み合う二匹の虹蛇の内の一匹であり一柱である創造神ルドミラから体を創って貰ったラムネ・ザ・スプーキーキャットだが、実際新たな体を得たからといって御大層な某かが起こるという訳では無い。

 幽霊猫であるにも関わらずふよふよと撒き散らされる抜け毛は生きて喋る猫になってからも健在であり、当然ながら毛玉だって頻繁に吐く。

 何か変わった事といえば食事が必要になった事と荒事に一切関与出来なくなった事ぐらいだろうか。

 ────そう、荒事には一切関与出来なくなった。創造神ルドミラの想定していた通り、新しく創り直されたラムネは法度ルールを適応出来なくなってしまったのだ。

 溶け合ったタクトとラムネの魂を分離する試みは確かに行われたが、しかし余りにも難易度が高くコストも掛かる為に断念。故、今あるタクトの体はそのまま新たにラムネの体を創りつつ、人と猫の魂も創り直す他に選択肢は無かった。

「………んぃ、……………んぃ」

 ジズの小さな手のひらが、小さな子猫の体を撫でる。小さな膝の上で小さく丸まった空色の猫を撫でる度、その空色の体毛がふわりふわりと宙を舞い、この世の心地良さを独り占めにしたラムネの独特な呻きが部屋に響く。

「……………………………わたし、は」

 振られたんだと、要はそういう事なのだろう。

 助けられなかったから。ずっと一緒に居ると誓いながらも、しかし自分は彼の命を守れなかったから、一度は天に召されてしまった彼は「一緒に居てくれなかった」と自分から離れていったんだ。

 喧嘩別れのようなものなのだろう。ウマが合わなかったと、鞘の反りが合わなかったと、要はそういう事なのだろう。

「……………………………わたしは」

 けれど何故なのか。いつまと経っても彼の顔が頭から離れない。

 彼と交際を始めてから、何をするにもいつだって一緒だったのだから、こんないきなり離れ離れになっても胸に穴が開くように空虚な気持ちになるのは当然の事かもしれない。

 何を食べても物足りない。彼の感想が聞こえない食事なんて何の意味も無い。

 何を見聞きしても物足りない。彼と語らえないものに存在価値なんて無い。

「…………………………………………わたしは、いまも、あなたがすき」

 誰にともなく呟いてみれば、自分がどれだけ惚れ込んでいたのかが良く分かる。

 けれど心を病んだ愚者の少年に、自分が何でここまで惚れ込んだのかは分からない。ホストにハマり込むOLもこんな気持ちなのだろうか。どうしてかは分からないが、とにかく好きで好きで仕方が無い。ロクな未来が待っていない事なんて分かり切っているのに、どうしてか好きで好きで仕方が無い。

 だから何度でも、その名を呼んでしまう。

「───────タクト」

「はい」

「……ぇ?」

 唐突な返事にジズがハッとなって顔を上げれば────そこには何故か顔面をボコボコに腫れ上がらせたかつての想い人が居て。

 一体いつの間に部屋に入ったのか、一体いつの間にそこに立っていたのか、というかそもそもいつからお前はそこに居たのか、見るも無残な程に腫れ上がった顔面をしたタクトが喋り辛そうに「ただいま」と腫れ上がった唇を動かして言った。

「………………………え、と」

 それを目の当たりにしたジズが何を言えば良いのか分からなくなって吃ると、少年は「僕は馬鹿だから」と口を開いていく。

「どうせ考えたって正しい答えなんて出て来ない癖に、僕は馬鹿だから、理屈でものを考えたがる癖がある」

「…………どう、いう」

「自分勝手だった。それに尽きると思う」

 気を抜いて居たのはあるが………まさか自分が人間の、しかも素人を相手にこんな隙を作るとは思ってはおらず…………いや待て、そもそも今日はいつだ? 少年が自死の事実を受け入れられずルーナティアを出てから、一体どれぐらいの時間が経った? そんな当たり前の事すら思い出せないジズに向けて、少年がゆっくりと言葉を紡いでいく。

「僕はただ自分勝手だった。僕が居ない間、ジズは僕の事を守ってくれてたのに。いざ目が覚めてみれば僕は僕の事しか考えなくて、僕は僕の為にしか叫ばなかった」

「─────────」

 それを聞いて、しかしジズは反射的に「それは、悪い事じゃないから」と小さく首を振って否定する。

「あなたは悪くない。自分の事を考えない生きものは居ないから、みんな自分の為に、誰かの為に動くものだから」

 ふすふすと穏やかな寝息を立てる空色の猫を撫でながら、ジズは「でも、」とそれと全く同じ髪色の少年に向けて言葉を繋げる。

「でも………約束した事に関しては、そうじゃない」

 約束。契約。そういった呼ばれ方をする事柄に限ってだけは、自分より他者を優先しなければならない。

 どんな理由であっても、どんな内容であっても、自分の事より他人の事を優先するのが約束というもの。

「………わ、私は、守れなかった」

 ずっと口にしてきた言葉。誰にともなく、幾度となく口にしていたはずなのに、いざ本人を前にしてみれば、空虚な感情が胸の中をぐるぐると巡っていく得体の知れない気持ち悪さを感じられる。

「いっしょに…………いっしょに居るって、約束したのに、…………か、体が、あの時、私、体が何も動かなかった………」

 もしかすると見惚れていたのかもしれない。傲慢な魔王を前に、珍しく自分の感情を剥き出しにしていた愚者の少年に、自分は見惚れてしまっていたのかもしれない。そうでなければ、この自分が守ると決めた誰かに加えられんとする危害に反応出来ないなんて事は有り得ない。

「だから…………だから、わるいのはわたし。約束を破った、嘘吐きは────わたし」

「……………その約束だって、破ろうと思って破った訳じゃないでしょ」

 少年の答えに「それは」と言い淀むが、しかしジズはその先の言葉を紡ぐだけの自信が無かった。

 好き。好き。愛してる。本気で、本心から、何もかもをかなぐり捨ててでも、彼の子供が欲しいと、彼の血と混ざり合いたいと想っているはずなのに…………しかし度重なる艱難辛苦の果て、今ではもう自信が無くなってしまっていた。

 彼の事を愛している事に揺らぎは無い。

 だけど全てに於いて彼の事を優先しているとは言い切れない。


 結局そうだ。

 愛だ恋だと宣いながらも、

 その愛恋あいれんは自分の為のもの。

 

 結局、自分の事しか考える事が出来ていないようにしか思えなくて、ジズは目の前がじわじわと濁っていく感覚に囚われてしまった。

「わた────わたしは、わがままだったから」

 ボロボロと零れていく。熱い何かが、目頭を伝ってボロボロと流れ落ちていく。

「………っ、ぐ。…………ごめ、ごめんねっ、違うっ、こんな、こんな────」

 それを慌てて腕で擦る。まるで見せ付けるかのように流してしまった涙を、手の甲で急いで擦って耐えようとする。

 泣いてはいけない。どんな理由でも、何が起こっても、誰が相手でも────泣いてはいけない。

 喜びの涙も、怒りの涙も、哀しみの涙も、楽しさの涙も。

 誰かが見ているとかいないとかは関係無い。どんな時のどんな涙であっても、絶対流してはいけない。

 瞳の奥から流れ出るこの液体は、涙の他に感情までもを流し出してしまう。

 声を出して思いっ切り泣いた時に胸がすっきりとするのは、涙と共に大事な感情を心の外に流してしまっているから。

 泣いた後胸が軽くなるのは、忘れてはならない、一生背負っていかなければならないはずの大事な荷物を放り出してしまっているから。

「ふっ、………ぐ、……はっ、…………はァっ、ごめ───ごめんねェ……っ。こっ、こんな、ちが………大丈夫だからっ、気にっ、気にしなくて良いから………っ」

 まるで当て付けのように流れて止まらない涙をぐしぐしと擦りながら謝るジズ。けれど少年は何も言わず、そんなジズをじっと見詰めたまま動かない。

 やがてジズの横隔膜が少しだけ落ち着いて来た頃、出来損ないが描いた不出来な笑みを浮かべて「ご、ごめんねェ」と何度目か分からない謝罪を口にする。

「捨てて良いからさァ。あ、アタシみてェなの、捨てられて当然だから………ひ、ヒカルとかポルカの方が絶対ェ良い女だし、タクトは他の─────」

 泣いたおかけで取り戻し始めた調子。戻ってきたいつもの口調で、しかしいつもよりも少し急ぎながら話を切ろうとするジズの言葉に、タクトが「ずっと特別な存在になりたかったんだ」と割って入る。

 捨てて欲しいのに。泣いたおかけで取り戻した口調。大事なものを流し出してしまった自分…………こんな見苦しい自分、早く捨てて欲しいのに、けれど少年は「夢に見るレベルだったから、どうしてもさ」と見捨てるような素振りを見せず、そんな少年にジズは思わず「え?」と呻くしか出来なかった。

 泣いたおかげで取り戻した口調。背負わなくてはならない大事な感情………或いは涙が無ければ理解出来ていたやもしれなかったが、涙と共にそれを零してしまったジズはタクトが何を言いたいのかが何も分からず当惑するしか無かった。

「納得のいかない人生を送ってきたやつが異世界に行った時って、大体その世界全てをひっくるめても他に代わりが居ないぐらい特別な存在になってたんだ。………ジズには分からないかもしれないけど、僕にとっては夢物語の世界が目の前に現れてる訳だから、僕は特別な存在に────主人公になってみたかったんだ」

 けれどゆっくりと思いを吐露する少年を前に、賢明であり聡明なジズはすぐにその言葉の真意を理解して、ぎこちなく微笑みながら「………二足の草鞋わらじはやめて」と首を振る。

「あなたは…………タクトは、もう特別な存在になれてるから」

「うん」

「タクトは………タクトはもう、アタシにとって、特別な存在だから」

「それに気付けなかった」

 ジズと同じようにぎこちない微笑みを見せるタクトが、ゆっくりと俯いていく。それに合わせるようにして、ジズもゆっくりと目線を下げる。

 瞳の先、空色の猫がふすふすと穏やかな寝息を立てているのを眺める。

 何秒。何十秒。何分。何時間。何日。何年。

 分からない。永劫のようにも感じられたし、瞬きのようにも思える時間を無為に流し────、


「「実らせたくて必死だった」」


 ────やがて口を開いた二人の声は、奇妙な程に重なり合った。

「「生まれて初めての恋を、生まれて初めての幸せを」」

 カンペで照らし合わせたかのようなその言葉のハーモニーは、或いは第三者がここに居たら驚きに目を見開いていたかもしれないと、そう思える程に寸分違わず重なっていた。

「「ただ実らせる事に躍起になって、肝心の実った果実を落とした」」

 だけど二人の言葉が重なり合うのは当然の話。重なり合って当たり前、重なり合わなければ嘘である。

「「だから絶望した。落ちた果実を見て、腐った果実を見て、絶望した」」

 前なら違う。けれど今はそう。

 心が本当に通じ合っていて、仮初や上っ面では無い本当の真実の愛恋で繋がり合う事が出来たのだから、


「「けど違った。気が付かなかった」」


 語る言の葉はもうズレようはずが無い。


「「腐り落ちた果実から漏れ出る種に気付かなくて、地面から顔を出す小さな芽に気が付かなかった」」

 ズレはあった。仲違いが如き噛み合いのズレはあった。確かにあった。それは揺るがない。

「「初めての恋だから、もう恋が実ってるって、気付けなかった」」

 けれどそれは過去の事。今はもう無い。軋轢は存在せず、この歯車は円滑に回り出している。

「「実った恋の果実は、いつかどこかで必ず落ちて」」

 ならばもう躊躇わない。お互いが想っている事が同じであり、お互いが想っている事がお互いに分かるのだから、

「「新しい芽を出してくれる」」


 だから二人はもう躊躇う必要なんて無くて、


「………………僕は、まだ、やり直せますか」

「………………私は、まだ、愛していて良いですか」


 差し伸べられた指先に触れる事も、


「「───喜んで───」」


 を確かめ合う為に口付けを交わす事すら厭う必要なんて無かったというのに、余りにも全てが手探り過ぎて、指先を怪我した痛みに泣いてしまっていたんだろう。


 こんな痛み、まだ序の口だというのに。

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