8-2話【体が勝手に踊り出す】
人間という生物にとって『生きる為に何が要らないか』と考えた時、恐らく様々なものが浮かぶと思うかもしれないが、人間という生物は死の窮地に瀕した際にそれらの『要らないもの』を消し去ってでも『生きる事』に執着する事がある。専門家の中には、トラウマ級の恐怖に直面した人間が防衛機制によって失語症になるのもそれに起因しているとするものも多い。
空色の幽霊猫であるラムネ・ザ・スプーキーキャットは森山
しかし猫という生物は用心深く慎重な個体が多く、あの時のラムネは理性が消し飛んでしまっていた事も相まりタクトの記憶を破壊してしまった。
幼児退行、と一言で聞いた時、過半数の人間は「良い大人が赤ちゃん返りする」だなんて印象を抱きやすい。親族だけで無く関係者でも無い第三者の中には幼児退行という症状に対して「馬鹿っぽい」だなんて的外れこの上無い、それこそよっぽど馬鹿丸出しな感想を口にするものも決して少なくないだろう。
けれど恐怖や死の危険に際して、こと『生きる為にはどうすれば良いか』で頭を一杯にした時『幼児退行する』という選択は最も有効的な手段の一つであると言えるだろう。
哺乳類という生物の中でも明確な『子育て』を行う種類には『母性本能』というものが存在するが、それは同種に限らず他種にすら向けられる場合がある。人間は小さな子供に「子供は守らなきゃ」という感情を抱きやすいが、同種の子供に限らず自分より小さな子犬や子猫に対しても「守らなきゃ」という感情を抱くパターンは極めて多いのだ。
こういった本能的な庇護欲というものは人間だけでなく他の生物にも良く起こる。大きな犬が人間の赤ん坊を守ろうとする事は良くある事例だろうし、温和で知的と名高いオランウータンが動物園の中に迷い込んだ子猫を守ろうと、近付いた飼育員に攻撃性を見せる事だってある。
これらを踏まえると『生きる為に幼児退行する』という選択肢がどれだけ有効的かつ効果的な選択なのかが良く分かるだろう。誰かに守って貰いながら『生きる為』には、幼さを得るのが適解なのである。
「確かに成人した良い大人が
ペール博士ことペール・ローニーが手に持った一枚のペラ紙を眺めながらそう言うと、隣に立っていた
「第三者は知りませんから。誰の身に何が起こったのかなんて第三者は知らない、だからこそ好き勝手に「馬鹿っぽい」だの「シュール」だの、時として「気持ち悪い」だのと的外れこの上無い事が
浅く被った軍帽からハミ出した金色の猫耳を前後左右に向けて周囲の音を拾いながら金陽は言う。
「だからといって「知れ」と命じる事なんて出来ない。何か大きな見返りがある訳でも無ければ、そもそも知る必要性すら無く当然義務ですら無いのだから、他人の身に何が起こったかを知らない事は、特段罪でも何でも無いのです」
言いながら金陽が目線を動かす。視界の先では黒かった髪を空色にした猫耳の少年が、パルヴェルトに両手を牽かれながら歩く練習をしていた。記憶を大幅に傷付けられ五歳か六歳程度まで幼児退行した少年は、その当時とは全く違う手足や背丈の長さに上手く歩く事すら出来なくなっていたからだ。
それを眺める金陽の隣で、ペラ紙から顔を上げたペール博士が「だからこそだよ」と同じように少年を見詰める。
「だからこそ私は心無い言葉を投げる第三者に心が無いんだ。幼児退行した患者に対し心無い言葉を投げる第三者、それを咎める気なんて私には何も無い。だって彼らは何も知らないんだから、仕方が無い事なのさ」
えっちらおっちらと一歩ずつ慎重に歩く猫耳の少年を見て、その後丸テーブルに置かれたペラ紙を見る。
「だからこそ、私はその第三者に対して「そういうお前はロクな教育を受けて来なかったんだな」と言ってのける事が出来るんだよ。でも私のそんな言葉は罪にはならない、だって私も知らないからね。有象無象の無知蒙昧が私の知らぬ所でどれだけ苦労して来たのかなんて私は知らない。だからこそ私は好き勝手言う輩に好き勝手が言えるのさ」
「随分と乱暴な理論に思えますよペール様」
「構いやしない。言われたくなければ言わなければ良いだけの事だろう、自分の身の上に心無い言葉を投げられたく無ければ黙っていれば良い。そうすれば私も黙るしか無くなる」
「沈黙は金ですか」
「桃李物言わずの方が私的には近いかな。心無い言葉を投げられたく無ければ何も言わなければ良い。その内勝手に人が集まり、その内勝手に権力と名声を得て、いつしか心無い言葉を投げたとしても何も言い返されない盤石の立場を得るだろうからな。少なくとも私はそうだった」
視界の先、東屋の屋根の下から遥かに離れた庭の中央辺りで少年がよろけた。パルヴェルトの庇護無く一人で歩く事の練習をしていた猫耳の少年が足元の小さな窪みに爪先を引っ掛けてよろけると、どこからともなく銀色の犬耳を生やした執事が現れ、今にも転けそうだった少年の体をそっと支えた。
「おぉ……流石は
どこからともなく突然現れた犬執事に少しだけ驚いたような顔をした少年の頭を撫でた銀陽の姿を見て、金陽が長い金色の尻尾を左右に動かす。それまではクールで凛々しかった表情がにへにへとアホ丸出しになり始め、冷徹さを感じられたその声も馬鹿っぽい声色に変わってしまった。
「………銀陽さえ関わらなければお前は有能この上無いんだがね、どうにも銀陽が関わると一転して無能になってしまう。いっそ部署を変えるか? 忙し過ぎて銀陽が関われないような場所へと移転させてやろうか」
「次の日にはトイレで首を吊って死んだ私を拝めますよ。銀陽と関われない世界なんて戸棚の上の埃よりも無価値です」
「銀陽を殺す訳では無いんだからどうにでも出来るだろうが」
「生きるの死ぬのは関係ありません。仮に死んでいなくとも、生きている事がしっかり分かっていても、その人と二度と会えないのであれば死んでいるのと何も変わらない」
「ほう? 中々面白いものの考え方をする」
言われた金陽が「でしょう?」と少しだけ口元を緩める。軍帽の鍔を指で抓んで被り直した金陽が切れ長の猫目を銀色の犬執事へと向けながら「尊敬出来ますよ」と呟いた。
そんな金陽の言葉に「尊敬? お前をかい?」とペール博士が小首を傾げるが、金陽は即座に「私ではありません」とそれを否定する。
「絵空事の中に現れる
「まあ……そういう展開は多いな、湯気子が良く買ってくる書物は大体そんな感じのものが多い。虐められっ子だの何だのが異世界に呼び出され、無意識の内に
「度し難いです。培ってきた全てを無かった事にされ、憎んでいたものと同じ立場になっている主人公を見て何が面白いのでしょうか」
「何を楽しいとするかは人それぞれだろう。そんな悪く言うものじゃないよ金陽、もっと周りを尊重したまえ」
そう諌めるペール博士に「何を詰まらないとするかも人それぞれでしょう? 尊重して下さい」と金陽がしたり顔をする。切れ長の猫目をちらりと向けた金陽にペール博士が溜息を漏らせば、金陽はフルートやピッコロのように力強く透き通る声で「ふふふ」と笑った。
「愛したものと二度と会えない状況にさせられたのであれば、その主人公を呼び出した魔法使いなり何なりは愛したものを殺したのと何も変わらず、その主人公は愛したものをそいつに殺されたのと同義でしょう。私だったらそいつを同じ目に遭わせますよ、そいつだけ生かしてそいつの周りの全てを殺します。お前も私と同じ目に遭えと、お前も愛したものに二度と会えない状況になれと唾でも吐き掛けながら、自分の軽率な行いで何もかもを失ったそいつを、しかし自殺なんかさせずに長生きさせますよ。一生後悔すれば良い、一生苦しみ続ければ良い。私はそう思います」
「性格悪いな。流石は猫だ」
「あ、私は、ですからね。わーたーしーはー、です。他のご意見にどうこう言う気はありませんし? 他の何やらを否定する気だってありません。尊重してますよ? だから尊重して下さい」
「好き勝手ペラ回しておいて良く言うじゃないか。私がちゃんと人の話を聞くタイプで良かったな、最後まで聞かずに発狂する大間抜けであれば、今頃お前は私とリアルファイトでもする羽目になっていた」
「私の死体は銀陽に引き取らせて下さい。きっと彼は何も言わなくなった私に対し「お前、こんなに可愛かったのか……」とか言いながら無意識で私の衣服を脱がし始めてくれるでしょうから」
軍帽から金色の猫耳をハミ出させた金陽の言葉に「負ける前提か。もう少し気概を見せたまえ」と返せば、一人歩きを一旦諦め再びパルヴェルトの手を掴んでよちよちと歩き始める少年から離れた銀陽が「無理でしょう」と二人の元へと現れる。
「民が認識する本当の魔王を物理のみで蹂躙するようなお方に、我々のような
それまで少年の近くに居たはずなのに、瞬きする程度の時間で瞬間移動が如く二人の近くに現れた銀陽に「私は持久力に欠ける」とペール博士は冷静に応じる。
「金陽では相性が悪いかもしないが、銀陽の速度であれば挑むぐらいは出来るだろう。あの時だってタクトくんがどう抗うか楽しもうとしなければ、私を含めた全員を即蹴り殺していたはずだろうからな。上手く翻弄するなりして私のスタミナ切れでも狙えば良いじゃないか」
「無茶を仰る。確かに速度には自信がありますが、下手に蹴りでも入れれば即座に掴まれてお終いでしょう?」
「蹴りを当てようとしなければ良いだろう。上手く翻弄するんだよ」
「ただ筋力的に強いだけのデカブツを相手にするのとは訳が違うでしょうに。ペール様であれば私の動きも読むでしょうし、仮に持久勝ちを狙うにしても
銀陽の言葉に「ふむ……」とペール博士が鼻を鳴らして考えるが、すぐに「………私もタクトくんに強く言えないな」と何故か少年の名前を出す。
「私は
聞き馴染みがあるようで無いその単語に金陽と銀陽が眉を
「……ああ、申し訳ございません。………こちらです」
言われた銀陽が我に帰り、スーツの尻ポケットから折り畳まれた白い紙を取り出した。
そんな仕草を見たペール博士が「………む?」と不思議そうに唸る。銀陽から手渡された紙を受け取りながら銀陽の腰回りを怪訝そうに眺める博士が「おい銀陽」と犬執事の名を呼んだ。
「お前尻尾はどうしたんだい?」
「……………はい?」
尻周りをしげしげと見やるペール博士に銀陽が少しだけ目を丸くすると、博士は驚き半分不思議半分といった声で「無いじゃないか」と呟いた。
「お前にも尻尾は生えていたはずだろう、まさか金陽に「ストラップにしたいから」とせがまれ断尾でもしたのかい?」
その言葉を聞き、驚いていた銀陽が「ああ」と唸る。そしてすぐ穏やかな表情に戻って「ありますよ」と答えた。
「服の中に隠しているだけです。金陽と違い、私は尻尾から露骨に感情が読まれてしまいますから。普段は………というか基本的には常に服の裾に通して隠しております。金陽と違って近接戦闘が得意な私では、荒事の際に掴まれる可能性だってありますからね」
言いながら博士に右足側を向ける銀陽。かと思えば、その右足を通しているズボンの裾がもこもこと動き回る。
それを見たペール博士が「……ほう」と呻く。
「ジズ様は滅多に感情が尻尾に出ませんし、意識すれば尻尾を任意で動かす事も出来ます。けれど我々は意識して動かす事すら結構大変ですから、表に出すメリットなんて「可愛い」ぐらいしか無いのですよ」
「十分だろう、数多の女性ファンでも獲得して喜んでいたまえ」
納得したペール博士が受け取った紙を開き中を見ながらそう言うが、しかし銀陽はすぐに「要りません」と即答した。
そんな銀陽を見た金陽がにこにこと笑い、
「銀陽は私が居れば幸せですもんね」
「お前が居ない方がよっぽど幸せですよ」
「このヘタレ犬っ! 御託は良いから早く孕ませて下さいよっ! 私銀陽の赤ちゃん産みたいっ!」
「もう歳だから勃たないと何度言えば理解するんですかこの馬鹿猫。そもそも種族が違うでしょうが、産めませんよ」
「昔読んだエロ本では人間がゴブリンの赤ちゃん産んでましたよっ!? なら私も銀陽の赤ちゃん産めるはずですっ! ゴブリンに出来るなら銀陽にも出来ますっ!」
「私がエロ本のゴブリンと同等の扱いをされている事に関しては百歩譲りましょう。ですが種が違えば受精こそすれ着床しません。アダルトコンテンツにある「らめぇ受精しちゃうゥっ!」みたいな展開は、受精してそのまま着床せずに終わりです。異次元レベルで遺伝子が似ていない限り「産まれちゃうゥッ! おほォッ!」にはなりません」
「………何でそんな台詞知ってるんですか?」
「…………………………………む、昔、読んでいたもので。好きだったんですよ、異種姦」
「その割には随分スッと出てきましたね。昔って具体的にどのぐらい昔かスッと言えますか? 言えたら許します」
「………………………………………………………えー、と」
「言えなかったので許しません。この後銀陽の部屋行きますね。大丈夫ですえっちな事はしません、ただ色々探すだけです。持っていく事もしませんし処分もしません、ただ机の上に綺麗に並べて置くだけです」
「やめなさい金陽、色々な意味で私は貴女を「母さん」と呼ぶ気なんてありません。プライバシーの侵害ですよ。良いでしょうが別に。歳食った今でもエロ本読んでて別に良いでしょうが。知識があっても勃たなくなっても面白いものは面白いんですよ。表現の進化とか描き手のやり方とかそういう方向性で私は楽しんでるんですよ、不純って言われる程不純では無いはずです」
「許しません、許せません。猫系のイラストで肉球の数がおかしかった時ぐらい許せません。猫の指の本数や位置を知らなかったとか知った事か。私は絶対許さない」
「それは確かに許し難───違います金陽、違う。違います関係ありません。そも私が何を読んでいても金陽には関係無いはずです。せめて夜になさい、夕方以降になさい、この後いきなり家探しするのはやめなさい」
「隠すでしょう。時間を空けたら銀陽えっちな本隠すでしょう」
「隠しません。だってえっちな本なんてありませんから。世間の性風俗の変化に関する参考文献こそあれえっちな本なんてありませんから」
「何を慌てているんですか銀陽。別に怒ったりとかはしませんよ、何で私で抜かずにそっちで抜いてんだぶん殴るぞこの野郎と少し傷付きはしましたが、別に怒ってはいませんよ」
「抜いてません勃ちません。あと金陽、その傷付き方は八割ぐらい苛立ちが混ざっている傷付き方です。ほら、本当に怒っていないのであればその尻尾は何ですか。音鳴ってますよ、ブンブン鳴ってますよ。………ああもうこれだから尻尾は嫌なんです、表に出した所で何の得にもなりゃしない。今私が尻尾を出していれば内向きに巻いているのが丸分かりですからね」
「巻いてるんですか?」
「…………………………………………す、少しだけ」
「想像したら可愛かったので今回は見逃してあげます。ですが怯え続けなさい、何も置かれていない机の上を見る度「まだバレてない」と安堵する日々を繰り返しなさい。そして何度も隠し場所を変える落ち着かない日々を過ごしなさい。「実は全部バレているのでは」と怯え続けながら日々を生きなさい」
誰が見ても不機嫌だと分かる尻尾の動きが少しずつ緩やかになると、銀陽は疲れ切った溜息と共に「…………最悪ですよ」と苦しげな文句を漏らす。
「…………………………………」
やがてその場に沈黙が訪れる。与太話が終わった事を悟った銀陽が博士の顔を見れば、銀陽の顔を見ていた金陽も釣られて頭を動かす。
「…………………やはり縮んでいるな」
呟いた言葉には複雑な感情が篭っていた。その意味を図りかねた銀陽が「縮んでいる……と、仰いますと?」と小首を傾げると、持っていた紙と受け取った紙とを見比べていたペール博士が苦しげな声で「タクトくんの身長だ」と答えた。
その言葉に金陽も銀陽も真面目な顔になる。
「…………兆候はあったんだ。タクトくんが死ぬ前から、彼の体は非物質に寄り始めていた」
それは呪いのようなもの。
幽霊である空色の猫に憑依されていた少年は、ほんの少しずつではあるが存在が幽霊のような幻想の存在に寄り始めていた。
ラムネ・ザ・スプーキーキャットは幽霊猫であり、基本的には誰もラムネに触る事が出来ない。唯一触れるのはラムネに憑依されている存在だけ。ラムネに憑依されている存在だけは、ラムネという空色の幽霊猫に『呪われている』という判定になりラムネに近付く事が出来る。故に少年はラムネを撫でる事が出来ていた。
しかし憑依されている期間が長過ぎたのだろう。本人は殆ど気付いていなかったかもしれないが、彼はラムネに憑依されていない状態になってもラムネを触る事が出来る程『呪い』が進行していた。
「だからこそラムネくんはタクトくんに入り込む事が出来たんだろう。
ラムネ・ザ・スプーキーキャットの
故に
「死者と生者の両方の性質を持つ状態であるラムネくんであれば、幾らタクトが死んでいる状態だったとしてもその中に入り込む事は出来ないはずだ。死者の性質だけならまだしも、生者の性質まで持っていれば、互いの性質がぶつかり合いしっちゃかめっちゃかになってしまうからな」
仮にラムネが
けれどあの時のラムネは帰る家を失ったという事実から激情に囚われ、急いで新たな憑依先を見付けなければならないという焦りすら生まれない程に理性を失っていた。
「仮に完全な霊体のままであればまだ取り憑く事も出来たろうが、咄嗟の判断的に
詰まる所あの時点でのタクトの体は、あの時点でのタクトの存在は、
それだけならまだ良かった。それだけなら「何だかんだ言いつつタクトが助かって良かったね」とみんなで笑えていたかもしれない。半人半霊となったタクトだって、きっと「何かその肩書きどっかの庭師みたいでカッチョイイな」と笑っていたかもしれない。
けれどタクトは笑っていない。タクトという少年は「生きようとする事」だけを考えたラムネによって記憶を破壊されて幼児退行してしまっている。
そしてタクトの幼児退行は、様々な存在に見聞きされている。
それが何を意味するのかは、そもそもタクトという少年が誰に殺されたのかを思い出せば分かるだろう。
タクトは魔王チェルシー・チェシャーに殺された。破片の一つでも残っていれば良かったものの、タクトの心臓は『魔王を望んだ人心によって魔王にされた』チェルシー・チェシャーという一人の
チェルシー・チェシャーは抗えなかった。人の心が産んだ幻想の存在である一匹の
今のタクトはもう人間では無い。
今のタクトは魔王チェルシーと同類の存在。淫魔や悪魔でこそ無いが、今のタクトは幽霊猫の魂が混ざった猫耳を持つ幻想の存在である。
そしてタクトは、身長と体重が少しずつ減少している。
「…………背が、縮んでいる」
「………まさか」
金陽が呆然と繰り返す。それを聞いた銀陽が、その言葉の真意を理解し唖然とした。
「急がなければ引っ張られるぞ」
全てが向かい風となってしまっていた。
誰も悪くない。誰も悪くないはずなのに、金陽と銀陽は視界に映るタクトの両手を牽くパルヴェルトの笑顔に、苦虫を噛み潰したような思いになってしまった。
誰も悪くないはずなのだ。パルヴェルトは本当に彼を想っているからこそ彼の手を取り
にも関わらず全てが向かい風。
皆一様にタクトの事を心から想っているから、
だからこそタクトという少年は────幼児退行した心に合わせて
「しかもかなりの進行度だ。………チェチェと違うのは何故だ………想いの強さか? いや民一人一人の想いは弱くとも数が違い過ぎる…………チッ」
ペール博士が口を吸うように舌を鳴らす。情報が少な過ぎる。参考文献が足りなさ過ぎる。
「…………………………………クソが」
「「────ッ」」
知りたいのに知る事が出来ない苛立ちが溢れ始めたペール博士に、金陽と銀陽が身を竦める。犬耳の執事と猫耳の軍人は二人して耳を真横に倒し、金陽はその尻尾を股下から通し内向きに巻いた。見えてこそいないが、恐らく銀陽の尻尾も同じような状態になっているだろう。
「む? ………ああ、済まない」
それに気が付いたペール博士が一気に力を抜くが、しかし苛立ちが消えた訳では無い。表面上は平静を取り繕っては居るが、犬や猫といった動物は人間が腹の中にどんな感情を抱いているかを察する事が出来る。どれだけ「お前らに当たる気は無い、許せ」と謝罪しようとも、二匹の犬猫の耳は倒れたまま戻らなかった。
「…………今は座して待つしか無い。分かっているさ」
そんな有様を見たペール・ローニーが大きく溜息を吐き、そこでようやく金陽と銀陽は後退りを止める。しかし変わらず耳は倒れたままであり、警戒は止めていなかった。
「今は、彼女に託すしか無いんだよ。─────そんな事ぐらい知っている」
言いながら二枚の紙を丁寧に折り畳み、白衣のポケットに差し込む。その後肩をぐるぐると軽く回しながら、
「───どうか私に教えておくれ───」
自身の想いを世界に向けて宣言、六つの口が現れる。
「───────ぁちょッ、金陽お前───離しなさい邪魔ッ!」
「死にたくないですッ! 死ぬなら銀陽と一緒が良いッ! 私が死ぬなら銀陽も死んでッ!」
「
適応された
………銀陽はいわゆるスピードタイプに分類される戦い方を得意とするが、老体である事も相まってか筋力的には秀でていない。移動速度や攻撃速度だけなら魔王チェルシーや本気を出したペール・ローニーに匹敵するが、仮に追い付けたとしても一撃一撃の威力が低く、また相手の攻撃も「避ける」以外の選択肢が無い。まともに受ければその時点で戦闘不能になるし、防御するにしてもかなり負担が大きい。
「離し───離っ、離しなさい離せッ! 邪魔だ馬鹿猫ッ! いっつもそうだお前はいつもそうだッ! だから私はお前を愛さないッ!」
しかし金陽は意外と力がある。魔法を主体に戦いこそするが、軍部の頭である立場からトレーニングを怠る事の出来ない金陽は、他のものへの示しとして普段からある程度の筋トレを欠かさない。
そして何より金陽は銀陽よりも若い。「良い匂いがしますッ! 銀陽の濃ゆい匂いがしますッ! このまま死ねれば幸せですッ!」と叫ぶ余計なお荷物にしがみ付かれて上手く逃げられなくなった銀陽が「嗅ぐなッ! ここぞとばかりに嗅ぐなこのクソ猫ッ! 私はこれでも加齢臭とか気にしてるんだッ!」と必死にそれを剥がそうとするが、当然ながら金陽は離れない。
「…………………別に荒事を始める気は無いよ?」
そんな馬鹿な犬と馬鹿な猫に、ペール博士が呆れ切った顔をする。言われた二人が揃って「「え?」」と真顔になれば「タクトくんと遊ぶだけだ。
「お前らも付き合え。どうせこの後やる事といえばエロ本探しとエロ本隠しぐらいだろう? ならば付き合いたまえよ、暗雲が立ち込めているというのなら、太陽と月は雲に隠れて休むべきだ」
どこか遠い目をしたペール博士が少年を見る。パルヴェルトの足の上に更に足を乗せたタクトが彼の一緒に歩いている微笑ましい光景を眺めたペール博士が「犬や猫は人間を笑顔にするものだろう」と小さく呟く。
「心や記憶、口調なんて関係無い。彼は私が初めて好きになった男なんだ……………アニマルセラピーだよ、お前たちも手伝いたまえ」
言いながら歩き始めるペール博士に、金陽と銀陽は愕然としてしまった。
言葉こそ慇懃無礼に思えた彼女のそれは、しかし今にも泣きだしてしまいそうだと思える程にか細く弱々しく。
そんなペール・ローニーの声なんて、二匹の
───────
この世の中には様々な信仰心というものがあるが、こと日本人というものは円環を好む傾向がある。「円環の理に導かれてどうのこうの」というような話では無く、日本人はメビウスの輪のような『繰り返し』を信仰しがちである。
例えば蛙や蛇は不老不死の象徴として名高い。諏訪大社における赤蛙信仰は最もポピュラーな不老不死の信仰だろうし、全国数多に散らばる蛇神信仰や白蛇信仰もそう。
田舎辺りの夏頃から秋の頃まで煩わしい程に出会える蛙や蛇。まだ知識が浸透していなかった頃の日本人は、冬になると居なくなる彼らを「寒さに耐えかね死んてしまった」と判断した。
しかし冬が終わり春が来ると、蛇や蛙は冬眠から目覚めて土の中から現れる。何百何千という昔の日本人はそれを「死の眠りから覚めた」として信仰するようになった。
生きて、繁殖して、死んで、そして生き返る。赤蛙によって力を付ける赤口様は蛙の神様であり、それを打ち倒した八坂尊は長い
この手の逸話は日本人の中でも比較的知名度が高いが、実は海外にも色々と似たようなものは存在する。生息域や外見といった関係から蛙の神様は殆ど存在しないものの、蛇やトカゲを不老不死の象徴とする『蛇神信仰』というものは海外ではかなり多い。自らの尾を食らい無限に生き続けるウロボロスは名前だけなら余りにも有名だろうか。
タクトという少年が記憶を破壊されたとして、ペール・ローニーが自身の
しかしその場合ラムネという猫の魂は消し飛ばされる。仮にそれを押してでもタクトという少年を造り直したとして、きっとその事実を知った少年は心を壊しかねない。
ラムネを知る前の状態までタクトの記憶を戻すという選択肢も浮かんだが、その頃のタクトは愚者として呼び出された瞬間。いうなれば心が壊れる寸前の状態であり、誰かに構う余裕が何一つとして無かった頃のタクトへと造り直したとしても、今のような元気なタクトになるとは思えない。
何せタクトの精神状態の改善に最も貢献したのは、ほぼ常にタクトと一緒に居たラムネに他ならないからだ。目の前で喋る人間が「人の声で喋る灰色の何か」にしか見えていなかった彼は、常にラムネと過ごすというアニマルセラピーを強要されたおかげでどうにか笑顔を取り戻す事が出来たのだ。
残された選択肢は二つ。
一つは諦める事。幽霊猫に取り憑かれている期間が長過ぎた故に存在が霊体に傾いていた所を、更にラムネの魂と溶け合ったタクトが少しずつ幼児退行していくのを、諦めの目線で眺めながら、小さなタクトを育て直すという選択肢。
もう一つはラムネの体を造り直し、タクトの魂と溶け合っているラムネの魂を丸々破壊。その後二つの魂を造り直して記憶を上書きするという選択肢。
この後者の選択肢を叶える為に、ルーナティアは橘光という女をとある神の元へと向かわせた。
オーストラリアの先住民族である
命の水と食料となる魚を供給しながらも、時として全てを汚濁の底に沈めんと暴れる川のように、創造と破壊を司る二匹の蛇神。その神にラムネという一匹の猫の体を創造して貰おうと、ルーナティアは光を向かわせたのだ。
責任は重大である。創造神と破壊神の機嫌を取る事が出来なければ荒事に発展する事は請け合いであり、下手をすればルーナティア国にすら牙を剥きかねない。
そんな責任を負いながら、更に『いつものメンツ』の想いまでもを背負った橘光は、しかし「恋の熱量をナメるな」と自信に満ち溢れた顔を────、
「おい誰や六止めとんのぉーッ! ダイヤぁーっ! ダイヤの六ぅーっ! ウチもうパス無いぃーっ!」
────不機嫌極まりない表情へと変えていた。
「ご、ごめんね光ちゃん………は、ハートの十出すから。繋げれる? 光ちゃんここから繋げられる?」
「ああシレン、ありがとう。これでおれはハートの十一が出せるよ。いえーい」
「ならば我はハートの十二に繋ぐとするか。いえーい」
「だからパス無いっちゅーたやろが繋ぐなボケぇッ! クソゲーやんこんなんクソゲーやアホかぁーッ! ポーカーやらせぇよお前マジでぇッ!」
手札に握っていたダイヤの五、四、三、二、一を投げ出した橘光がズバーンっと仰向けに倒れる。そんな様子を見た
「おお、ポーカーだったら相当強かったね。まあポーカーだったとしても、手札が強いだけじゃ勝てても稼げないんだけどね」
「ふん、話にならんな」
創造神ルドミラが吐き捨て、まだ一人しか飛んでいないにも関わらず所持していた手札をばら撒くルドミラに、
「………あぁッ!? このババアお前やりよ────表出ろやァッ!」
撒かれたカードの中にある『ダイヤの六』を確認した光がドスの効きまくった声で怒鳴り散らしながら、爆乳をゆんゆんと揺らして怒り狂う。
そんな光に「上等じゃ雑魚が」とルドミラも負けじと爆乳を揺らして立ち上がれば、破壊神ヴェルニールが「ほらほらルドミラ、大人気無い事しないの」とにこにこ微笑みながら妻を諌める。
「売ってきたのはこの人間だ、我は大人の財力で買い取っただけの事。ケツの
「それが大人気無いと言うんだよルドミラ、ほら落ち着きなさい。あと口悪いよ」
「ええやないのウチ丁度パイ◯ンに憧れとった所やねん、ケツ毛毟り取ってくれるっちゅーなら手間ぁ省けるわ。毟り取ったウチのケツ毛お前の鼻ん中に植毛したるけえ息苦しさで一生口呼吸しとれや」
「凄いやこっちはもっと口悪い」
にこにこと微笑みながら二人の喧嘩を眺める破壊神ヴェルニールは、しかし蛇の破壊神という肩書きの割には二人の喧嘩を心底面白そうに眺めており、もしょもしょと豊かに蓄えられた口髭も相まりただの穏やかなおじさんといった印象を受ける。
「ほらシレン、早く次何するか言わないと二人の喧嘩が始まっちゃうよ。うん、多分この二人は放っておくと本当にガチな喧嘩をしそうだ。そんな気がする」
そんな穏やかなおじさんである破壊神に優しく言われた長柄恣恋が「あっ、えっ、えとっ、えとっ」とわたわた慌て始めれば、それまで喧嘩をしていたはずの創造神ルドミラと橘光がちらりと見やり「おー何も浮かばんならガチでやるか」「そうじゃな。たまには人間ぐらい消し飛ばさんと示しが付かん」だなんて事を言って長柄恣恋を急かし出す。
「えっ、えっと、えっと………じゃあ────」
───────
長柄恣恋は生前、目が無かった。
目が見える見えないという話では無く、そもそも眼球が存在しなかった。先天性身体欠損、『
それでも両親は長柄恣恋を可愛がり、障害者手当で得た金は全てしっかりと恣恋の為に費やした。視覚障害や聴覚障害を持ったものが必要とする点字印字用の道具等が何故か割高な事に対して足元を見られていると腹を立てた事もあったし、ドキュメンタリーを撮りたいと願って来るマスメディアやテレビ関係の人間はこぞって「何が辛かった」と人の不幸ばかり聞きたがる事にも苛立った。聞く所によれば、障害者が背負った壁を金に変えたがるのは日本ばかりであり、海外では「自分たちが付いてるから大丈夫だ」と体を支えるのに対し、日本では思い出したくも無い過去を掘り返しては面白可笑しくして視聴率を取る事しか考えないらしいという話に強い憤りを感じた事だって少なく無かった。
けれど幸せだった。目が見えないのは確かに壁であり、何度乗り越えても立ちはだかるそれを繰り返し乗り越え続けるのは決して楽では無かったが、それでも自分の娘が笑ってくれるのだから、恣恋の両親は幾らでも人間の汚さに立ち向かう事が出来た。
だがある時、恣恋の母が死んだ。
何て事は無い、ただの交通事故。有り触れた不幸の一つに、恣恋の母は巻き込まれて命を失ってしまった。
父が壊れ始めたのはその辺りからだった。それまでは母と二人で共に支え合って生きてきたが、共に手を取り合う同胞がある時突然居なくなってしまえば、恣恋は元より自分の体を支える事すらままならなくなってしまうもの。
「お前がそんな体たらくでどうするんだ」
周りは口を揃えてそう言った。当人の心情や不幸なんて毛程も知らない赤の他人は、口を揃えて好き放題言いたい事を言い続けた。
しかし父は耐え続けた。こんな時の為にと貯めて来た貯金をここぞとばかりに使い、その貯金や障害者手当によって得られる金を狙って擦り寄ってくる豚共を力強く振り払い、恣恋と共に艱難辛苦に挑み続けた。
だが国が悪かったのだろうか。日本という国に生まれた恣恋の父は、海外と比べて障害者に対するサポートが多い反面、障害者に対する理解やその家族を「人と違うステータスを持った面白コンテンツ」としてしか見ないものの多い日本人という『隣の芝を羨む民族』に囲まれる内に、日に日に摩耗していってしまったのだ。
「…………許してくれ…………許してくれ、ごめん………許してくれ」
そんなような事を言いながら恣恋の服を脱がす父に、しかし恣恋は特に何も不満を持たず体を差し出してしまった。
元より長柄恣恋は幼い頃から父や母と一緒に風呂に入る事が多く、母が死んでからは特にそれが多かった。加えて恣恋は自分の目が見えない事で両親に迷惑を掛けていると思ってしまっていた為、父が自分に何をしようとしているかは分からなかったが、だがそれで父のストレスが少しでも和らぐのならと抵抗せずに体を父の体を受け入れてしまったのだ。
目が見えない恣恋でも買い物に行くぐらいは出来た。点字ブロックの上に自転車が違法駐車されて進めなくなる事も多かったが、それでも白杖を天に掲げる『緊急サイン』を知っているものも多かったから、買い物や通学ぐらいはどうにでもなった。
だがコンビニやスーパーにピルは売っておらず、通っていた学校の専門用語を羅列するだけの酷い性教育によってまともな性知識が無かった恣恋が妊娠するのに、そう大した時間は掛からなかった。
最初はただの体調不良だと思っていた。けれど目が見えない恣恋に反し、目に見えて娘の腹が大きくなる事に自分の犯した罪の重さを理解した父は、何を思ったのか恣恋を車に乗せて練炭自殺を図った。
…………いや、もう何を思う程の余裕も無かったのだろう。
結束バンドによって手足を拘束された長柄恣恋という盲目の女は、享年十九歳で命を絶たれてしまった。
愚者として呼び出された際の長柄恣恋も当然目が見えなかった。当時まだペール・ローニーによって造り直される前の魔王であるチェルシー・チェシャーは呼び出した長柄恣恋に対し、まず真っ先に「要らない」という判断を下した。荒事に役立つ訳でも無く諜報にも使えず、その割に衣食住を必要とする盲目の女を、もはや人情の欠片も残っていなかった魔王チェルシーは「欲しいならくれてやるわ」と二匹の虹蛇に明け渡した。
創造と破壊を司る二匹の虹蛇。
「暇なら彼女に目を創ってあげて頂戴」
種が悪いか畑が悪いか、それとも神だからなのか。心底から愛し合っているにも関わらず子供を作る事が出来なかった二匹の虹蛇は、自分の元に長柄恣恋という女の子を突然送り付けて来た魔王チェルシーの思惑………養子を与えるついでにコネクションを持ちたがっているという彼女の腹をすぐに察したが、しかしもはや復讐する気なんて無くなっていた二匹の虹蛇は、魔王チェルシーの思惑に乗り長柄恣恋を育てる事に決めた。
その際、長柄恣恋は生まれ付き持っていなかった両眼を
その後、何の脈絡も無く突然やってきた橘光。こちらに言ってきた「猫の体を
「あの子のお友達になってあげてくれないか」
───そんな条件を提示した。
けれどそれは当然の話なのかもしれない。
その辛い過去を知った新たな両親。子供が作れない夫婦の間にやって来た「本当の子供の記憶」を持った長柄恣恋に、自分たちとたった数人のメイド以外のちゃんとした気安い関係の「お友達」を
───────
橘光は『お約束』を守らない。
世界各国、古今東西この世には『お約束』というものが存在する。死亡フラグのようなものと混同されがちな『お約束』の中で代表的なものといえば、例えば「悪役が無防備に名乗りをあげる」や「敵キャラの変身シーンを何故か呆然と眺める」といったものがあるだろうが、橘光はその手のお約束を絶対に守りたがらない。
戦場はアミューズメントパークでは無いのだ。少なくとも自分の命が懸かっているのだから、第二形態に変身しようとしている敵が居れば、橘光という女は容赦無く変身を邪魔したり変身前に仕留めたりといった『お約束破り』を行う。必殺技を溜めようと「か〜、め〜、は〜、め〜」だなんて叫んでいる敵が居れば全力で長ドスをぶん投げるだろうし、邪魔が出来そうに無いと判断すればその露骨な攻撃タイミングの宣言を聞き逃さず回避に全てを賭す。
「………………………………………………」
そんな橘光でも、破るに破れない『お約束』というものが存在した。
「……ちょ、ばかものっ……おま───ヴェルニールっ、何でお前は───っ」
「………済まない、ルドミラの匂い嗅いでたら、その………ちょっと、ね」
「ちょっとでは無いばかものっ………何でお前はっ、昨日あれだけしただろう………っ」
「ルドミラが可愛いから……………良いよね、ルドミラ」
「良い訳があるかばかも───ぁっ、う………っ! このばかっ、ばかものっ」
数分前、今にも喧嘩を始めようとするルドミラと橘光を止める為の次の遊びに「かくれんぼがしたいっ」と言い出した恣恋に対し、そんな彼女と「お友達」になる為には彼女と自分が一緒に遊ぶ事が大事だと思った橘光は「ほならウチがオニやるわ、十秒しか数えん代わりにウチ走らんから……ほら急いで隠れや」と自ら恣恋を探すオニを買って出た。
「可愛いよルドミラ………可愛い声、もっと聞かせてくれ」
「ひっ、ん……ばかもの………ばか……っ、ばかものぉ………っ」
そして見知らぬ古城の中、何の変哲も無い部屋に入った橘光はガタゴトと揺れるクローゼットの中で『お約束』に興じる二匹の虹蛇を前に、どうするのが正解なのか分からず無言になってしまった。
アニメやゲーム、漫画なんかのコンテンツで良く見る「超狭い空間に男女が二人っきり」というシチュエーション。自分がタクトと同じような状況になったら絶対にしているだろうその『お約束』に対し、「実際興じている場面に第三者として鉢合わせたらどうすれば良いのか」を知らなかった橘光が「………あー」と小さく呻けば、どう考えてもお楽しみの最中である二匹の虹蛇が中で絡み合っているだろうクローゼットが、一際大きくガコンっと揺れる。
「……いっ、居るっ! 居るからっ、小娘来て───ひっ、ぃんっ……ばっばかっ、何で……ぁっ、やだ……こんなっ、こんなとこで……っ」
「ほら……声出したらバレちゃうよ? 恥ずかしい所、見られちゃうよ? ………我慢して」
いやもうバレとるがな。既にクソ恥ずかしいっちゅーねん。どないせえっちゅんじゃ。
そんな事を口に出して言いたくて仕方が無かった橘光は、しかし何が最適解なのか分からず口にするタイミングを失ってしまった。
「………………どこやろなー、この城広いからなー、はよせな恣恋待たせてまうなー」
馬鹿丸出しなその棒読みに、馬鹿みたくガタゴト揺れていたクローゼットが動かなくなる。しかし破壊神ヴェルニールに『お約束』を中断する気は無いのか、創造神ルドミラが必死に声を抑えて我慢している………いや、我慢しているつもりな呻き声は無くならない。
「………………別の部屋ぁ探すかー。ここにゃあ居らん気がするなー」
そう言いながら背を向け『お約束』に興じている二人を見逃す橘光。………この世界に来てから学ぶ事は色々とあったが、今回の一軒は光という恋する乙女にとっては最も大きい経験の一つだったろう。
「…………………あんな声モロバレなんやな。………気ぃ付けよ」
部屋の扉を閉めた光が誰にとも無く呟く。中でカーセックスに興じている車が中の男女の思いに反してギッコンバッコンと車を揺らしているという話は知っていたし、公衆トイレで行為に及んでいる金の無い学生カップルが「同じトイレに入る瞬間を見られまくってて馬鹿丸出し」であるという事も知っていた光だったが、流石にクローゼットの中に身を隠した男女がイチャつき始めた時の声が丸聞こえだという事は知らなかった。何せ中でイチャつくようなシーンはあっても、逆にそういった場に鉢合わせるようなシーンはアニメやゲーム、漫画で描かれる事は極めてレアケースだからだ。
「……………恣恋探しに行ったるか」
元より虹蛇夫妻に関しては最初に見付けたくない部類だった。
何だかんだとクソ女扱いされがちな橘光は、しかしそれでも気遣いだけはしっかり出来る心根の良さを持ち合わせている。理想では恣恋を先に見付け、その恣恋と一緒にあれやこれやと喋りながら二匹の虹蛇を探すという流れにしたかったのだが………本当に運が悪かった。
「………………えぇー? 恣恋見付けてまたここ来るまでに終わっとるかなぁ………終わっとらんかったらごっつギクシャクするでよ」
友達の家で遊んでいる途中「ちょっとトイレ借りる」と部屋を出たら別の部屋で親が二人目を作ろうとしていた時のような感覚。
確かに自分も似たような事に憧れはした。タクトに対して自分が擦り寄った時、タクトがどんな反応を返してくれるか気になった事はあった。見付かるかもしれないというスリルを経験した事なんて無かったから、公然猥褻罪で引っ張られるリスクを負ってでも野外露出をしたがる変態共がどうしてそこまで楽しみたがるのかを知っておきたいという気持ちも確かにあった。
「…………はあ……あほらし」
が、あの光景を目の当たりにしてしまえば「自分は良いや」という気持ちになる。中で行為に興じる連中は楽しんでいるのかもしれないが、端から見れば余りにも馬鹿丸出しで阿呆丸出し。間抜けと呼ぶ事すら
仮にスリルを楽しんだとしても、自分が周りからこんなように思われていると考えればスリルで得た楽しみを含めた上で下らな過ぎると思えて止まない。
神としてはまだまだ成り立てであり、力も強くなければ人間寄りの思考回路が残ったままだとは言うものの………何と言ったら良いのやら。橘光は溜息しか出なかった。
「………さて」
と、廊下の中で周囲を見渡せば、視界に入るのはここに到着した時に見た羊角のメイド。どう見ても人間では無い彼女なのだから中で何が起こっているかぐらい人間より優れたその耳で聞き取っているはずだろうが、しかしもう慣れてしまったのか、羊角のメイドは古城の内部をほぼ丸々使った『かくれんぼ』で橘光が不審な行動をしないよう黙って見張り続けているだけだった。
「お前、恣恋がどこ隠れたか分かるか?」
「はい。大まかな方向は把握しております」
羊角のメイドの今の役目は光の見張り。しかしそれが無ければ、養子として引き取られたようなものである愛娘、長柄恣恋の身を守る事が再優先事項であるはずだ。
故に自分の監視をしていながらも、それでも草食動物由来の優れた聴覚で庇護対象の位置ぐらいは読んでいてもおかしくないと踏んだ橘光は「ほなら場所教えてや」とイカサマ同然の事を羊角のメイドに言っていた。
「…………それはズルと呼ばれるものでは? ヒカル様が降参するのであればお教えする所存でしたが……」
当然ながら怪訝そうな顔になる羊角のメイド。
しかし橘光は「ええねん」と何でも無いような声色でそう言った。
「恣恋の場所ぉ分からんっちゅーて何時間も恣恋放ったらかしにするよりぁ、恣恋の場所知った上で「どこやろなー」っちゅーてヒヤヒヤさせる方がええやろ」
「…………………そう、なのでしょうか」
「せやで。かくれんぼで一番楽しいんは見付かるか見付からないかのスリル感じとる時や」
そう言ってから橘光は、自分の口にした言葉に自分でなるほど、と得心した。
なるほどスリル。一番楽しいのは行為そのものでは無く、行為の最中でスリルを感じるという事なのか。
確かにかくれんぼで誰にも見付からなければ、ただ眠くなるだけで何も面白くない。
さっきのお盛んな二匹の蛇もそうだったのだろう。かくれんぼは当然ながら、恐らくは性行為に関しても別に主目的では無いのだ。見付かるか見付からないかというスリルを感じながら、そのスリルを感じているパートナーの反応を楽しんでいるのだろう。
「あのスケベ共の要望はウチと恣恋が仲良うなる事やけどな、ウチかて袖擦り合った奴とは、どうせなら仲良うなりたいねん」
その為に七並べやかくれんぼで遊んでいる。本当なら一刻も早く元通りのタクトになって欲しいが、『いつものメンツ』と全く違うタイプである長柄恣恋とああだのこうだのと騒ぎながら遊ぶ事も中々新鮮である。
そして遊びとは一方的ではいけない。
例えば光が爆速で恣恋を見付けても、楽しいのは光だけで恣恋は面白くも何とも無い。逆に恣恋が本気で隠れてしまい、光がいつまで経っても恣恋を見付けられないというパターンでも光は全然面白くなく、何ならそのまま恣恋を放置して「五時のチャイム鳴ったから帰るわ、お前一生隠れてろや」と不貞腐れてしまうだろう。
遊びだからこそ本気になる。であれば、遊びの先に求める「みんなが楽しい思いをする」という事に対して本気で向かわなければならない。
「恣恋だけが楽しんでもウチだけが楽しんでも、それは遊びって言わんやろ。どっちかがマス掻いとるだけのオ◯ニーは遊びとは呼べん。……恣恋の場所、方向だけでええから教えてや。「どこかなー、やっぱこの部屋かなー」とか言うて恣恋に「隠れる側」の醍醐味ぃ楽しませたるわ」
橘光は勘が鋭い。「聞いた事は幾らでもあるけど実際感じた事なんてまず無い」と名高い『気配』を察知する事が出来る橘光であれば、ザックリとした方向を知るだけでも元から妙に鋭い勘と合わせて恣恋の居場所を読む事が出来る。
そうでなくとも建物の中という条件であれば、人一人が隠れられる場所はかなり限定される。古城の中でかくれんぼと聞けばひたすらワクワクするだろうが、実際に隠れられる場所は意外と少なく、加えて光は「十秒しか数えん代わりにウチ走らんから」という条件を本当に実行したのだ。
仮に光が逃げる側であれば火の点いていない暖炉の煙突に入り込んで手足を突っ張ってとか、本気で気配消しに挑戦してオニの真後ろをこっそり追い続けるとか、或いはオニが居た部屋の扉の真上にスパイダーマンが如く張り付きスタート部屋の中でゴロ寝でもしながら疲れ切って戻って来たオニに「おうお帰りやっしゃ」だなんて言う事もしたかもしれないが、しかし長柄恣恋は本当に普通の女の子。隠れられる場所といえばさっきのお盛んな創造神と破壊神のようにクローゼットの中に入るか、ベッドの下に潜り込むぐらいしか選択肢は無いだろう。
「……………信じますよ?」
「おう信じぃやぁ。友好関係を気付くにゃあまず自分が相手を信じるってんが大事やで」
「親しくない相手に対し自分から腹を開くのは度し難いでしょう。裏切られる可能性を考慮すれば、警戒するのが普通です」
少し不満げな羊角のメイドに光は「阿呆言いなや」と鼻で笑いながら言った。
「相手が信じてくれなきゃこっちも相手ぇ信じられんじゃろがって、んな事言い合っとったら一生誰も誰も信じられんやん。いじめられっ子やなし、信じて欲しけりゃまず自分が信じるんやで? 裏切られたらどうのこうのなんざぁ、裏切られてから考えりゃええんよ」
「………………………………シレンお嬢様は向こうです。ご自身のお部屋に向かいました」
橘光のその言い分は、橘光のような「裏切られてからどうにか出来る力」がある人間故の考え方。裏切られたら際に何も出来ず一方的にしゃぶり尽くされてしまう無力なものであれば、裏切られないように立ち回る方が基本的には得をしやすい。
だがそれでも、光の言う通りに生きていく事が出来た方が遥かに幸せである。そう思った羊角のメイドは「ベッドの下に隠れております」と長柄恣恋が居る場所を全て明らかにする。
それに「方角だけで良かってんけど、ベッドの下か………んふふ、ええ事聞いたわ」と悪戯を思い付いた少年のように楽しそうに笑った。
「……さーぁ、ってーとー? どっこやーろなー」
掃除の行き届いた綺麗な古城の中をしばらく歩いた光が、ようやく目的の部屋に入り込む。二回だか三回だか結局世間的に殆ど認知されていないノックなんて一切せずズケズケと無遠慮に扉を開けて中に入った橘光は、ネタばらしで聞いていたベッドの下にほんの一瞬だけ目を向ける。
「…………………っ」
息を呑む音が聞こえた。……が、仮にそれが無くとも、ベッドの下に居た僅かな影が奥の方に引っ込んでいくのを橘光は見逃さなかった。
「………ここ恣恋の部屋か。結構可愛い趣味しとるなぁ………つかむっちゃ甘い匂いするやん、何やろこれ」
言いながら部屋をキョロキョロと見渡した光が「ここか?」なんて言いながら、どう考えても人間が入れるとは思えないタンスの引き出しをズココと引いて開ければ、
「………お、パンツ。初っ端当たりの引き出し引いたな、可愛い柄の多いやん」
「…………っ!?」
「取り敢えず貰っとこ。………このピンクいのにすっか………被ったら伸びてまうかな………まあええか、ウチのやないし」
「っ!? ………っ!?」
困惑する息遣いが聞こえる。しかし恣恋は懸命に声を殺して耐え、角度的に見えない事が分かっている光はにこにこと楽しげに笑い「パンツとズラは人が被ってこそ真価を発揮するんや」と誰にともなく言いながら引き出しを戻す。
「…………………………ふーむ」
そして橘光が足を止めて部屋を見渡すと、冷静さを取り戻した恣恋の息遣いが少しずつ落ち着いていく。言いたい事は色々あるはずだろうが、しかしそれは後で問いただせば良い。今は見付からない方が優先だろう。
「ほっだらクローゼットん中か? ………あれ居らん」
「…………………………」
「………えぇー? すっと他どこやろ………んー」
「…………………………」
「まあ取り敢えずジャケットの腋の匂い嗅いどこ。脇汗染み付いとって酸っぱい匂いしたらおもろいねんけど」
「っ!? ────っ!」
「………あー甘ったるい香りやー、おもんない。二点」
「………………っ、…………」
好き放題の限りを尽くす光の一挙一投足に対する長柄恣恋の反応、それを感じ取っている光は過去全てを思い返しても中々無いぐらいに心から楽しんでいた。
しかし光はまだまだ楽しむつもりだし、楽しませるつもりである。「はー、歩き疲れた。ちと休憩」と言いながらベッドの上に腰を下ろした光は、
「……ベッドの匂いも嗅いどくか」
「………………っ」
けれど今回の反応は少し弱かった。
確かに息を呑む音は聞こえたが、直前に「匂いネタ」を擦っていたからだろうか。自由人の極地を行くような光の言動に多少慣れてきた長柄恣恋は、もう
しかし、
「枕の位置がここっちゅー事は…………身長と合わせりゃこの辺がお股の部分やな。嗅いどこ」
「───ッ!?」
遂にガタンッと音がする。それと同時に腰を下ろしているベッドから硬い振動を感じた光が、ニンマリと笑いながら「ん〜?」とその下を覗き込む。
「………んひひ。恣恋、見ぃ付けた」
ベッドに腰を掛けたまま前屈でもするかのようにその下を覗き込んだ光は、ベッドの下で必死に口元を押さえながら真っ赤になっている長柄恣恋と目が合った。
やがてずるずると急いでベッドの下から這い出た恣恋が「ひっ、光ちゃんっ!?」と大慌てでその名を呼ぶ。
「嗅いで無いよねっ!? ひっ光ちゃん本当に嗅いだりしてないよねっ!?」
「……………どう思うよ。ガチで嗅いだと思っとるか? それとも冗談やと思っとるか?」
「かっ、……………か、嗅いだの?」
「あたぼうよ。え〜ぇ香りしたで〜? 恣恋のお股ぁごっつ甘い香りした。これ何の香りなん?」
「な───おっ、あっ…………………ん、くぅ……。………お、お母さんがくれた、香水の匂い………だと、思う………な、名前は知らない…………」
「流石に銘柄は分からんか。後でオバンに聞いたろ、この香りはちょっち気になる」
色々な感情が
だが恣恋は不満げな顔のまま「………ぱ、パンツは?」と光に問い掛ける。直前に被ると言っていた光だったが、しかし今の光は長柄恣恋の下着を被っておらず手にも持っていなかった。
「ん?」
「ぱ、パンツ………どこやったの?」
「食べた」
「うっ嘘だよっ! 分かるもんっ! それは嘘なの私でも分かるもんっ! 光ちゃんが私の事馬鹿にしてるの分かるもんっ!」
「何言うとるん。ウインナーは先っぽをぺろぺろしながら食べるもん、パンツはクロッチ周りをはみはみしながら食べるもんやで? 恣恋は世間知らずやなぁ、クラ◯ザーさんに笑われてまうで?」
「えっ、うっ………えっ!? ほんとに食べたのっ!? うっ、嘘だよねっ!?」
余りにも嘘臭い話ながらも、しかし驚く程に真面目な顔と声色をした光に何を信じれば良いのか分からなくなった長柄恣恋が、少しずつ光の嘘を信じ始め疑心暗鬼のようになっていく。
そんな様子を見た光が「んふふふ」と再び楽しそうに笑いながら、自身のシャツの胸元……その豊満過ぎる胸の谷間を指差しながら「当店はセルフサービスや、自分で回収しい」だなんて言い出した。
それを受けた長柄恣恋はすぐに意味を理解し、その胸の谷間に手のひらを差し込むように潜らせて行く。
「つーかまーえた」
そして光がその手を胸でぎゅんむと挟み込めば、恣恋は「光ちゃっ、わっ、待っ、わっ!?」と自身の手をぼにゅぼにゅと包み込む肉の温かさに照れながら慌て始める。
………橘光にとって自分の胸は強いコンプレックスである。故に『いつものメンツ』相手であればこのような「おっぱいネタ」は絶対にしないはずだった。
だがそれは『いつものメンツ』の多くが自分の胸を性的な目、或いは嫉妬の目で見るからこそである。目の前でゆんゆんと揺らしたとしても、トリカトリのように「垂れには重々気を付けてくださいまし」と的外れな事を言ってくる相手や、タクトのように「そういえば最近ブラ壊してなくて偉いな」だなんてイレギュラー過ぎる褒め方をしてくるような相手であれば、光にとってその胸はコンプレックスにならない。
コンプレックスとは、周りの視線や意見と比較した時に生まれる自分に対してのネガティブな感情に起因するものなのだから、恣恋のように純粋な気持ちのみで「お……おっきいね……」と呟くようなものが相手では、コンプレックスはコンプレックスとして成り立たないのだ。
「……………あ、あった。……もう、何で私のパンツ胸に挟むの」
「
「…………お侍さん? 私のパンツ、おざぶみたいにお尻に敷くの?」
「パンツと男はケツに敷くもんや。パンツなんか履いたら絶対ケツに敷かれるし、男もケツに敷かな秒で調子乗るで」
「あ、確かに………それは、うん……お父さん見てるとちょっと分かるかも」
そんな言葉に素直に感嘆してしまうような女の子が相手なのだから、橘光にとって長柄恣恋はタクトと同じぐらい好感が持てる女の子であり、保護者に言われずとも自分から仲良くなりたいと素直に思えてしまうのは当然なのかもしれない。
多くの男性が性的な目で見て、多く女性が嫉妬の眼差しを向けるその胸の事などもう忘れてしまった長柄恣恋は、心が幼い子供故にまさしく歯牙にも掛けられないのだろう。
それがこの先どうなるかは分からない。乳歯が永久歯へと生え変わり、光の胸に関して牙を剥くようになってくれば、恐らく光はもう二度と長柄恣恋には見向きもしなくなるだろうし、場合によっては創造神と破壊神を敵に回す事になろうとも「煩わしいねん」と恣恋を殺す選択肢さえ選んでしまうかもしれない。
けれどそれは未来の話。そして未来は確定しておらず、多世界解釈やパラレル理論等を当てはめずともこの先何が起こるかは光にとって物理的に観測不能であり、主観では常に未来が分岐し続けているのだ。見えもせず予測も出来ず、その地点を通り過ぎて初めて「そうだった」と過去形で認識出来るようになる未来とやらを憂うぐらいなら、橘光は
「お父さんとお母さんはもう見付けた?」
クッキー系の焼き菓子に近い香りの部屋を出た光に、恣恋がその後を追いながら問い掛けると「あー……えー」と光は部屋の外で待機していた羊角のメイドにちらりと流し目を送った。
すると羊角のメイドは、綺麗な円形に近い曲がり方をした羊角の間にある可愛らしい耳をぴこりと揺らし、
「……………恐らくつい今しがた挿入なされました。恥ずかしがりながらもしっかりとした悦びの混ざった、奥様の可愛らしいお声が聞こえます」
「終わったわ。いや終わっとらんのか、始まったばっかやもんな。………いや早よ終われやクソが、かくれんぼ終わっとらんねんぞ」
羊角のメイドの酷い報告に呆れ返った光。言葉の意味を理解していない恣恋が「………? 光ちゃん? どうしたの?」と聞くが、光はその頭をぽふぽふと撫でながら、
「早漏?」
「足ピン遅漏です」
「シングルアクション?」
「ガトリング砲です」
「最悪や。いやほんまガチで最悪や。状況的にも物件的にもガチで最悪やわそれ、足ピン遅漏のガトリング相手にオバンも良う生き残っとるわ」
「残像が残る程の爆速ピストンがウリです。時折
「ええねんもうマジでええねん、遅漏なんに爆速ピストンとか遅いか速いか分からんなるわ。そんなクソ物件売りにしとらんと取り壊せや。……ゆっくり奥までズコズコ系のタクトがどんだけ優良物件だったんか思い知らされるわ……………はぁぁぁ、ほんま好き。早よ会いたい」
言いながらタクトと初めてした時の事を思い出す。獣人族の村でハッスルした時の事………すぐ隣の部屋に割り当てられていたルカ=ポルカはこんな気分だったんだろうかと思うと、今更ながらも心底申し訳無い気持ちになる。
どれだけ慣れていればこうなるのか、羊角のメイドと少ない単語だけで意思の疎通を図る橘光に少しだけ寂しそうな顔をした長柄恣恋が「何のお話してるの?」と光のシャツの袖口をくいくいと引きながら問い掛けると、光は「オジンとオバン、何ぞイチャイチャ始めよったらしいわ」と具体的な内容は隠しながらも本質だけしっかりと伝える。
「あー………。…………お父さんとお母さん、またラブラブになっちゃったんだ」
羊角のメイドがこれ程までに慣れているのなら、期間こそ短いながらもそれより近い位置に居る長柄恣恋がそれを知らないはずは無い。申し訳無さそうな表情になった長柄恣恋は「………どうする?」だなんて気を遣ってくる。
それに「んー」と悩んだ光は「せや」とふと思い付く。
「したっけ恣恋、ウチに家ん中ぁ案内してや」
「案内? お家の中の?」
小首を傾げる長柄恣恋に「うん」と素直な声色で返事をする。
「どうせしばらくはお泊りじゃろ? 広い家やし、ウチおしっこ行く度に迷子んなってお漏らし涙目光ちゃんとか嫌やねんで? ここにゃあ「上手にお漏らしイキ出来たね」って褒めてくれるタクトも居らんしな」
「何だかんだと言いつつヒカル様もお盛んですね。しかも相当躾けられてると見ました」
「つってもウチそんな頻繁にしとらんよ。本妻やないし、日数空ける代わりに一回一回が難易度ベリーハードなタイプや。代わりに毎回意識飛び過ぎて脱糞のリスク背負っとる、好き過ぎんのもイキ過ぎて困るでよ」
「奥様と旦那様は基本一日二回
「いや聞いとらんて。聞かされたウチ何て返したらええねん、どこそこマートのペットシーツ安いでーおざぶみたいにケツに敷いときやーとか言うたらええんか」
「何より奥様の御身が心配です」
「そら心配なるわ。んな命賭けた綱渡りみたいな夫婦の営み聞かされたら流石に心配なるわ。………いや何で人様の性事情で心労抱えてやらにゃならんねんアホか」
「かといって私が旦那様の処理をお手伝いしてしまうと、後日奥様がかなりご機嫌斜めになってしまうので………」
「いやだから聞いとらんて何て返せばええねんて、こっそりやりやーとか言うたらええん────じゃかあしわお前もう黙っとりゃあね」
「こっそりしても匂いと味でバレてしまうそうです」
「味て。味てお前もう黙りゃあね、しつこいねんこのネタもう擦るなや」
虹蛇の夫婦はお盛んなだけで比較的常識的だったが、それに仕える羊角のメイドはかなり『いつものメンツ』よりの性格なのだろう。聞いてもいないし聞かされても困るような話題をペラペラと喋り続ける羊角のメイドに痺れを切らした光が「恣恋、お家案内してや。トイレん場所を重点的にな」と話題を戻すと、話に置いて行かれてぽけーっとしていた長柄恣恋が「あ、うんっ」と光のシャツの袖口を抓んだままその隣に並んで歩き始めた。
「……………」
そんな仕草に、橘光は敢えて何も言わなかった。それが長柄恣恋にとっての親しい間柄のものに対するスキンシップの一環なのか。それとも破壊神ヴェルニールによって
………目の見えないものに対して、目が見えるものは揃って「手を引こう」としたがる。しかしそれは全くの逆効果であり、目が見えない状態で一方的に手を引かれる事の恐怖は盲目のものか、或いはそれを試した事のあるものしか分からないだろう。
相手が一方的に動かず自分の歩幅に合わせてくれたとしても関係無い。そんな良く分からないあっても無くてもどうでも良い割に気ばかり遣わせるような
「あっちはお風呂でね、台所もあるの」
「飯は台所で食うんけ? それとも食事部屋とかか?」
「みんなで食べるよ。メイドのみんなたちも一緒に、おっきなお部屋で全員で食べるの」
「うわぁメイドむっちゃ気ぃ遣いそうやなぁ。毎日上司との会食やろ? うわあかん考えたら頭痛なってきた」
「そんな事無いと思うよ? ご飯の時だけはね、
「ほっだらカレーが出た時はウチに任せえ、全力でう◯この雑学披露したるけえ」
「それお父さんが毎回やってる」
「二番、煎じ………やと………ッ!?」
「良く言いますよね、一番で無ければ何の価値も無いと。世界一高い山の名前は多くのものが言えますが、世界で二番目に高い山の名前は九分九厘が覚えていないので言えない……覚えていないという事は価値が無い、覚えるに値しないという事だと」
「ウチが二番煎じッ!? ウチが
その仕草にどういった意味があるのか。光のシャツの袖口をくいくいと引きながら「でもねっ、でもねっ」と必死に光を慰めようと長柄恣恋が口を開いた。
「お父さん言ってたよっ? 世界で一番になれなくても、自分が一番好きな人にとっての『一番』になれれば良いんだよって!」
「うっわどっかで聞いた事あるけど「じゃあどこで?」って聞かれると無言になる言葉の代表格みたいな事言いよるやん、それこそ二番煎じやな。やっぱりウーチが一番。好きよ、好きよ、好きよ〜」
「うっふん、ですね」
「………………………………………メイドお前何でこのネタ乗れるん。お前実は愚者の勇者のだったりするんか?」
「………く、口が滑りました。こう………とぅるっと」
「
「ふむ……セルフパイ舐めした直後だったのでよだれが垂れていただけでしょう。それが何か?」
「冷静取り戻しましたよ感出した顔でシレッと言うとるけどお前その誤魔化し方は最悪ちゃうか」
「フ◯ラ抜き後とか言うよりマシではありませんか? 今日の客は早くて楽だった、とか言ってないだけマシでしょう」
「言っとるねん、今もう言っとるねんから最悪やで。お前がナンバーワンでええわ」
相当古い上、作画崩壊が多過ぎて評価が絶望的だったアニメのオープニングテーマのネタに何故か乗れた羊角のメイドに「やっぱウチはツッコミに回りとうないわ」と溜息混じりに言った光が「それよかトイレどこなん」と長柄恣恋に向き直る。
「おトイレならどこの廊下にも一個ずつあるよ、曲がり角があれば曲がる前と曲がった後で二つ。赤と青のドアノブがある扉は全部おトイレだよ」
「トイレハウスやん」
「おメイドのみんなも、お家が大きいとおトイレ探すの大変だからね。あとおトイレの数よりお部屋の数の方が多いから、トイレハウスじゃないよ?」
「人がようさん住める、こデカい屋敷………トイーレマンション?」
「掃除機でオバ───あっ」
「とぅるっとぅるか? ナンバーワンなお前はジューシーなからあげ食って唇とぅるとぅるトゥットゥルーか? 二度目やでお前、生前何して死んだよ」
「………………………………た、タイムリープマシン作るの横で見てて」
「わざとか? お前わざとやっとるか? ………ちょい試すか。………恣恋、一旦離しといてや」
そう言う光に長柄恣恋が「う、うん」と抓んでいたシャツの袖口を離す。かと思えば光はそのまま数歩だけ恣恋とメイドよりも前に躍り出て、
「ほれ」
羊角のメイドのおデコに手のひらを押し当て、羊角のメイドが前に進めないよう通せんぼしているような仕草をした。
常識的に考えれば手を退けるか、或いは自分が少しだけ体を逸らして手からズレれば良いだけなのだが、緊張した面持ちになった羊角のメイドは頭の中で乗るか反るかでひたすら熟考し、
「………す、す………進めないよお〜」
額を押さえ付けられた子供がその場でぐるぐるパンチでもするかのように、両手を前に突き出した羊角のメイドは困った声を出しながら一生懸命前に進もうと意味不明過ぎる行動に出た。
それを見た橘光が「おけ把握」と手のひらを退ければ、羊角のメイドは冷や汗をだらだらと垂らしながらも「う、うわぁい」だなんて言いながらひょこひょことそのまま前によちよち進み始めた。
「取り敢えずお前が「どんなボケでも何とか乗ってボケ倒したいタイプ」なんは良う分かった。しかもお前稲中ネタも分かるって事ぁかなり歳食っとるババアやな」
「………くっ。………あ、あれは、私にとって本当に
図星を突かれた羊角のメイドが心底悔しげに呻けば「お? ええんか? ぐるぐるに繋がんでええんか?」とその隙を逃さず、羊角のメイドの前でトンボを捕まえる際の都市伝説が如く人差し指を突き出しぐるぐると回転させる。
「や、やめてくださいよお〜……目が回りますよお〜……………オーェッ! オーゥェッ!」
そんな馬鹿みたいな反応を見た橘光が「ウチお前の事好きになれる気ぃするわ」と真顔で言えば、羊角のメイドは「体が……体が勝手に乗りたがるんです……っ! 好き過ぎて……っ、勝手にっ」と良く分からない言い訳をする。
「お前タクトと会ったらごっつ仲良うなれるで。タクトどんなネタでも何とかして拾ってツッコミ続けてくれるもん、ワンチャン惚れるまであるでよ」
「…………………………………………そのお方は処女厨ですか?」
「ガ◯マンなペール博士で童貞捨てた」
「とすると結構なデカチンですかね」
「なすび」
「…………そろそろ結婚出来るかな」
「魔王のオバンに直訴して一夫多妻制ぇ認めて貰うんやな。やないとジズと本気で殺し合う事になるでよ」
「…………………そろそろ結婚したいんですよ。良い歳ですし、その………せ、性欲も、高まってくる年頃なので」
「タクトごっつ甘えたさんやけど、甘えられんのはあんまし好きやないっぽいから相性合うかは分からんで」
「私クール系お姉さんメイドなので、普段の仕事疲れを甘えん坊なパートナーで癒やしたいタイプです」
「………クールの意味、知っとるか?」
「
「その
言った光が長柄恣恋の手を取り「恣恋も知らん外人さんからハァイジ◯ージィって言われたら警戒するやろ?」と言い、そのまま取った手の指先を自分で時分のシャツの袖口に持っていく。
すると長柄恣恋は少しだけ照れたような素振りをしながら、そっとその袖口を抓み「う、うん。英語得意じゃないし、緊張するから……」と、光の腕に擦り寄っていく。
それを反対の手で優しく撫でながら「日本人の民族性にフランクさを求めたらあかんからな」と微笑み、「さて……」とメイドに向き直る。
「バカップルはもうそろ終わったか?」
真面目な顔でそう問い掛ければ、羊角のメイドも即座に真面目な表情になって角の間の耳をぴこんと動かし、
「…………後ろの穴で楽しみ始めた可能性があります。奥様のお声が妙に野太い………いえ、これは後ろでは無いかもしれません。奥までズコズコされて野太くなってる感じでしょう」
「ウチ帰ってええか? タクトん所帰ってええか? もうほんまクソやわあいつら」
「えっ、やっ、やだっ! わたし光ちゃんともっと遊びたいっ! まだ居よっ!? もっと遊ぼうよっ!」
呆れ返った光に恣恋が泣きそうな声色で慌て出す。それを見た光は、また同じように呆れ返りながら「………しゃあないなぁ」と吐息のように呟いた。
「…………そこは「しかたないにゃあ」では?」
「お前マジ疲れるわ。ウチお前の事好きやけどツッコミに回るんは嫌いやねん」
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