7-小咄【家族】



「……………………………」

 人の感覚では認識出来ない僅かな風か、それとも海流による水の動きによるものなのか。ちゃぷちゃぷと鳴り続ける水面からそっと頭を出す百鬼童子もものきどうじは、水面から生えるように伸びたその特徴的な二本の角から潜水艦のようにも見える。

「……………」

 そのまま頭を微動だにさせず、目線だけで小さな漁港の様子を窺った百鬼童子。やがて周辺に人が居ない事を確認すると、可能な限り頭を上下させずに漁港の中へと向かっていく。

「………………さびい」

 水中はかなり暖かかったが、全身が濡れている状態でおかに上がれば微風によって冷やされた海の水と気化熱とが合わさり一気に体が冷えてくる。

 それに小さく文句を言いながら、気持ち程度り足を意識して移動する。……意識した所で結局足音や水音は鳴ってしまうものの、それでも靴の中に入り込んだ水をガッポガッポと鳴らしながら歩き回るよりはよっぽど良いだろう。

「………………向こうか」

 錆だらけで赤茶色になった二つの上架施設船台やそれに繋がっている鎖とウィンチワイヤーに足を引っ掛けないように気を付けながら、滑車を通して繋がるワイヤーを辿って小さな小屋に向かっていく。

「………………ふん」

 その小屋の引き戸式の扉を見て、百鬼童子は思わず鼻で笑ってしまった。一見扉はしまっていたが、小屋と扉の間に僅かな隙間がある。要は無施錠だったのだ。

 その隙間に親指と中指を差し込み、手のひらを開くような感覚で少しずつ押し広げていくと、牛歩よりも遥かに遅いが一切音が鳴らずに少しずつ開いていく。

「………………………汚え」

 やがて人一人が通れる程度まで開いた引き戸を、自分のを引っ掛けないようにしながら通って入り込むと、小屋の中は大量の機械類と一緒に様々なものがゴチャゴチャと乱雑に置かれていた。その中を「……どこだ?」と呟きながら見渡せば、漁師なら誰もが見慣れているものの誰もが正式名称を言えない棒を発見する。

 それはさながらロングスクレイパーとでもいった所だろうか。長く細めの木の棒の先端に金属製のヘラ・・が取り付けられたその棒を手に取った百鬼童子は、小屋から出る前にその中をざっと見直す。

「…………工具類は売れる。あの魚籠は使える、持ってくか……。あの金槌もバラせば売れる…………いや、だったら絡繰全部ぶち壊してバラすか」

 れるものなんて何も無いだろうとタカを括っていたのだろうか、不用心にも南京錠すら掛けていないその小屋の中にあるものの中から売れる金属部品やスクラップを見繕った百鬼童子は、壁に引っ掛けられていた竹製の小さな魚籠を担ぎながら、次回小銭稼ぎとしてここへまた来る算段を立てながら小屋から出た。

「…………………あぁぁ〜、あったけえ」

 再びざぶざぶと鳴らしながら海の中に戻っていった百鬼童子が、まるで冬場に青姦でもしている男のような事を呟きながら停泊している漁船に近付き、息を止めて水中に潜る。

「…………………………」

 そのまま海水域の水中で瞳を開き、馬鹿みたいな目の痛みに耐えながらロングスクレイパーを使用して船艇の側面をガリガリと削っていく。

 やがて藻や船底塗料と共にふよふよと緩やかに何かが海底に向かって沈んでいく。………通常こういった時に船底塗料は剥げにくいものなのだが、今回の獲物とした船はやたらと塗料が剥げていく。

 この手の船底塗料というものは頻繁に塗り直しをするが、その度に前回塗った塗料をわざわざ落とすような事はほぼ無く、重ね塗りを繰り返していく内に塗料の層はどんどん厚くなるものなのだが………使用している塗料の質が悪いのか、それとも塗料の塗り方が悪いか頻度が少ないのか。何にせよ海中を漂う藻のカスや塗料は中々どうして視界を悪くして煩わしい。

「………ん」

 その中でも沈む速度が早く、かつ比較的大きいものを見繕って手で掴み、腰に引っ掛けたままの魚籠にぽいぽいと突っ込んでは、再び船の側面をガリガリと削る。それを無心で繰り返す。

 ……百鬼童子が採っているものはフジツボ。船の底に馬鹿みたくへばり付いているそれらは、流線型の船底に無秩序なデコボコを作ってしまい、放置していると船が走るスピードやその際の燃費を著しく悪化させてしまう。一応漁船の底部には赤み掛かったフジツボ避けの塗料が塗られているものの、正直「塗らないよりは遥かにマシ」程度であり船底塗料を塗っても大量のフジツボが船の側面にへばり付く。潮の流れや水質によってその量はまちまちだが、今回の船は比較的大きなフジツボが多い。

 それを乱雑に手で取っては魚籠に突っ込んでいく百鬼童子を、フジツボ泥棒と呼ぶような漁師はまず居ないだろう。船体に取り付いたフジツボの除去はどんな漁師でも経験する仕事の一つだろうが、順当に行っても「船を上げてフジツボを取る」「その後船を乾かして塗料を塗り直す」とで丸々二日………途中で雨が降れば塗料が乗らなくなるので更に時間の掛かるその仕事は、しかし船の速度や燃費を悪化させない為のものでしか無く一銭にもならない。

 それに対して「船上げてない状態で塗料剥がすなや」と怒る漁師は居ても、フジツボを剥がしていく事に対して怒る漁師は居ないだろう。

「───ぷへぁっ……………。ペラは………あっちか」

 やがて息が続かなくなり水面から顔を出した百鬼童子が、全体的に長い船体の尻を探してそちらに向かっていく。

 底引き漁船なのか細長い船体の割に、しかしその船を走らせる為のスクリューはかなり小さい。これには恐らく漁船法とエンジンの大きさが関係している。

 漁船というものは基本的に何らかの動力を元にしたエンジンによってスクリューを回し、そこから得た推進力によって海を進む。しかしそのエンジンには馬力制限が設けられており、どんなやり方で漁を行うかによって「◯馬力まで」という制限が掛かっている。これは好き勝手にエンジンを載せさせてしまうと、小さな船でも漕ぐ力が強ければ強い程どんどん魚を獲ってしまう。それらを防止する為の漁獲制限として、底引き網漁を行う船というものは大体が大きな船体の割に船尾のスクリューは小さい事が多い。

 そしてプロペラスクリューとシャフト、高速回転するそれが振れて折れないようにする為のブラケットはフジツボ避けの塗料が塗れない事も多い。

 この世界では銅が産出されず酸化銅を叩き直すぐらいでしか銅を得られないものの、基本的にはプロペラ周りに塗料は塗らない。

 船の底部に塗られる船底塗料には水生生物が付着しないようにする成分が含まれているが、これらは「亜酸化銅タイプ」と「酸化亜鉛タイプ」の二種類が存在する。

 現代で使用されている塗料は主に亜酸化銅タイプが主流だが、プロペラ、スクリュー、シャフト、ブラケットや舵。それらは基本的にステンレスや真鍮で造られているものが多く、亜酸化銅タイプの船底塗料をステンレスや真鍮に塗ってしまうと電食作用が起こってしまい、驚く程の速さでそれらが蝕まれて破損してしまう。一部の無駄なやる気のある漁師は他所の漁師の漁獲量を減らす為の嫌がらせとして陸に上げられている船に亜酸化銅タイプの塗料を塗る、といった事があるぐらいには気を付けなければならない。

 ………現代では人材の高齢化によって造船所の数が減っていて、それに伴い漁師の数だって目減りしている昨今で、そんなしょうもない嫌がらせをしている余裕なんてあるのかと思いたくなる事だろうが、しかし漁師も漁師で必死なのかもしれない。周りに対して嫌がらせを行い、沖へ出る回数を減らしてでも自分が儲かる可能性を高めたいという切実過ぎる思いがあるのだろう。

 似たような事例として、台風の日に他所の田んぼの排水弁を締めて稲を腐らせるという事例も当たり前にあるのだから、国が本気で動いてくれなければ水産業や農産業の未来は明るくならないのかもしれない。

「…………ぶへっ。………こんなもんか」

 そんな事なんて何も関係無い百鬼童子が、水面から顔を上げて息継ぎをする。海底に海老やタコ、カメノテ辺りが居てくれれば飯になったが、生憎と今日の釣果はまさかのフジツボのみ。塗料が塗り難いプロペラシャフトやスクリュー周りは笑える程にフジツボが付着していたが、しかし高速回転による遠心力が理由なのか付着しているフジツボは過半数が死んでしまっていた。遠心力によって内臓の位置がズレるのか血流が変わるのか、それとも回転速度の高さから水中に居るのに酸素が得られないからなのか……理由は分からないが、付着しているのは全て亡骸ばかりだった。

 とはいえ船の側面に付着していたフジツボだけでそこそこの量が手に入った。フジツボが食えるかは謎だが、もし食えるのであればまたここに来た時に使えるようロングスクレイパーと魚籠を持ったまま、百鬼童子がそこを離れる。

「さみー」

 そのまま沖に流されてしまわないよう気を付けながら動き始めた百鬼童子は、水に触れて泡混じりな音で文句を垂れながら帰路に着いていった。



 ───────



 誰しも小さな頃は夢を抱くもの。その夢が叶えられるかとか、叶えた所で大したメリットが無いとか、金銭的に生きて行く事が出来るとか出来ないとか、そういった理屈を度外視して「それでも憧れてしまうもの」が『小さい頃の夢』というもの。

 そんな『小さい頃の夢』の中でも、理論上世界人口の半数が叶えられるものの一つに「お嫁さんになりたい」が存在する。

「今日はジビエ料理です。猪肉のステーキに、フジツボのスープ。そしてツワブキのおひたしです」

 どこまで敬虔な神職者とて、幼い頃は色々な夢を見たものだろう。具体性なんて無くたって良い、赤子の仕事が寝て起きて泣き叫ぶ事であるとするならば、そこから何年か経った子供の仕事は夢を見て騒ぎ邁進する事だと言えるだろう。日本では極めて少ない例だが、海外では「親に認められたい」というだけで夢を成し遂げるものも少なくないのだから、それはまさしく懸命に仕事を続けたものが報われ出世していくのと殆ど変わらない。

「Ohhhhh....良い匂いだ腹が鳴りそう───ぁ今鳴ったよHahaha楽しみだねえ肉料理って時点でもう心が踊るね因みに味付けは何だい? 雑に粉出汁混ぜただけで和を名乗る和風は嫌だがかと言って焼肉にソイソースぶっ掛けられても正直味に深みが無くて困るだけだからデミグラス辺りが良いな! まあデミグラスソースなんて掛かっていたら秒で分かるだろうけどね!」

「味無しです」

「Opps....塩ぐらい振っておくれ」

「獣さまが塩分過多で肝硬変にならないよう、お塩は一粒すら振っていません。というのは建前で、実際には塩が無いので振りようがありませんでした」

「……………ついさっきフジツボと言っていたが、となれば近隣に海があった訳だろうあれは海水域に生息する甲殻類の一種だからね。だとすると海水の蒸発で塩が採れるものじゃないのかい?」

「空焚き防止で定期的に足し水していたら薪が燃え尽きました。しかも足し水が悪手となりお塩も採れませんでした」

「料理下手とかそういう次元を通り過ぎてるとは思わないのかい? というか君如何にも料理上手感あるのに料理下手なのかギャップ萌えという奴か?」

「お料理には自信がありすよ、でも面倒臭いんでやめました。我々は逃亡中の身ですからね、いつ追手が差し向けられてもおかしく無い状況でそこまでする時間的余裕はありませんし、まだ手配書が出回って数日なのでこっそり買いに行くのも難しいですし、そもそも路銀すらありません。お塩は当分我慢なさって下さい」

「…………僕の稼ぎの無さが窺い知れるね何せ源泉徴収票を手に入れる事すら困難な身なんだ済まないねえおとっつぁん」

「それは言わない約そ───あれおとっつぁ……いえ私はお嫁さんですよ獣さま」

「というかフジツボって食べれるんだな初めて知ったよハハハハこの世界に来てから色々な知識が得られる大体は実用性の少ないものだがとりあえず知っていて面白い知識がいっぱい得られるね!」

「いえ、フジツボが食べられるかどうかは不明です」

What何だって?」

「なので私は食べません。でも獣さまなら食べられるはずです」

「Ahh.....hmm......えっと、 Why何で?」

「獣さまですもの、食べられるはずですよ」

「意味が分からないけど何故か納得出来る自分が一番意味分からない」

 満面の笑顔でそう言うニチェア・グランツェにジェヴォーダンの獣が眉間にシワを寄せる。ここまで眉間がシワシワになったジェヴォーダンの獣は滅多に見れないだろうが、しかしそれを眺める百鬼童子もものきどうじは特徴的な長い牙を覗かせながらひたすらイライラしていた。

 別にイチャイチャする事自体は構わない。自分の方が先にジェヴォーダンと組んでいたのにポッと出の女が、というような事も無い。どっちが先にと言い始めてしまえば肉女と骨男の方が先にジェヴォーダンと組んでいたのだから、言い出してしまえば墓穴を掘る事になりかねない。

「………………………チッ」

 百鬼童子が苛立っているのは、面白食材おして扱われているフジツボを獲って来たのも帰り道で猪を追い掛け回したのも、何ならそれらを調理したのも全部自分なのに、まるでニチェアが全てこなしたかのように扱われているという事に対してだった。確かに「ただ加熱しただけ」のそれらは調理と呼ぶには些かおこがましいかもしれないが………それでも自分の方がジェヴォーダンを思っているのだから、下らないポッと出の女にかまけてないで自分とイチャイチャして欲しいと考えると、どうにもこうにも嫉妬の炎がちらちらと燃え始める。

「怖くないですよ、恐くないですよ」

 馬がするように両腕を曲げ、文字通り腰を下ろした肉女が片手を使い百鬼童子の頭を撫でる。希薄ながらも確かな意思のある魔法生物なりの慰めのつもりなのだろうが、百鬼童子は「五月蝿えクソが」と頭を振ってそれを追い払おうとする。

 だが肉女はプリセットされたボイスアセットの如く「怖くないですよ、恐くないですよ」と頭を撫でるのを止めない。

 やがて不貞腐れた百鬼童子が「うっせえデカババア」と言いながら頭の上の手を払い除けようとすれば、幸か不幸かタイミング良く肉女がその手を退けた瞬間だった。

 ………全高四メートルから五メートルはある大柄な魔法生物とはいえ、肉女と骨男は腰から下が存在しない。そんな魔法生物が小柄な体格の百鬼童子の、しかも座っている彼の頭を撫でるには体を曲げて近付かねばならない。

「────あ?」

 それはさておき、肉女は全裸である。

 百鬼童子の手のひらがぴんっと大きな何かを弾くのと全く同時「怖くな───ぁはっん、ぃですよ、恐くないですよ」と喘ぎ声混じりの肉女の声がする。

「怖くないですよ、恐くないですよ」

 言いながら微笑む肉女。声色は何一つ変わらず表情も穏やかに笑ったままだが、心無しか異様な程に目が冷たいように見える。

「………あ、えー………あー。……………す、済まん。わざ、わざとじゃなくてだな………つかお前あの、あ、っと、その、そういう声出るん……あの、えっと───か、可愛い声、ですね?」

 完全に想定外な事態にしどろもどろになる百鬼童子に、肉女が小首を傾げながら手を伸ばして頭を撫でる。先程は煩わしそうに嫌がっていた百鬼童子だが、今はもうドラ息子のようにその手を退けるような事は無く。

「……いやっ、悪っ、悪かったっ……悪かったって……っ」

 魔法生物は感情が希薄だとされるものの、しかし唐突なお色気シーンに対して相当ご機嫌を損ねたのか、かなりの力でぐりぐりと撫でられる百鬼童子。その姿はさながらゲームコントローラのアナログスティックが如く、前後左右に体が揺らしながらも、けれど「すまっ、すまんかった……っ、次は無いよう気を付けるからっ」と素直に謝りながら無抵抗だった。

「そ、そうだ、そうそう、そうだ思い出した」

 と、そこで百鬼童子が何かを思い出したかのように体を反らして肉女の手から逃れる。

 そして「ほら肉、お前も腹減ってるだろ飯食おう飯」と、良く焼けた猪の肉を見やる。

「食え食え、オレ様が手ずから仕留めて手ずから焼いた大物だぞ。お前も─────は?」

 まだ喋ってる途中だったにも関わらず百鬼童子が呆然としてしまう。

「……………………オレ様が食わせてやるのか?」

 彼の瞳には、大きな口をぱかりと開き、艶やかに濡れる舌を少しだけ伸ばした肉女が映っていた。

 そこにジェヴォーダンが「それはそうだろうMr.モモ」と口を挟む。

「君が手ずから仕留めて手ずから焼いたその肉だが、Mr.モモは僕たちのサイズに合わせて捌いただろう彼女の体格では指で抓むのも大変だぞ」

「…………………そう、か。そうだったな…………」

 至極正論、全高五メートルか六メートルに達する巨大女へのバリアフリーの精神に欠けていた百鬼童子が肉女に対してケアをしてやらなければならないのは、至極当然の話であり。「ほらずっと待ってるぞMr.モモ早く彼女に食べさせてあげろ」と急かされた百鬼童子が「おっ、おう」と少し焦りながら自作の箸で肉を取る。

「…………あ、あーん」

 全く慣れていないのが分かるその仕草と表情に、肉女が少しだけ頭を傾け舌を伸ばす。

「あ、熱いかもしれねえから………は、早めに噛んで飲み込めよ…………?」

 そんな気遣いになっていない気遣いをしながら肉女に猪肉を食べさせる百鬼童子に、肉女が穏やかにそれを咀嚼しながら彼の頭を撫でる。その手付きは直前のものとは違い、とても優しいものだった。

 完全にテンパってしまい「腰から下が無い肉女が食べものをどう消化吸収するのか」という疑問すら浮かばない百鬼童子のその様子に、ニチェアが「ふふふふ」と楽しそうに微笑んだ。

「割とお似合いですよショーティークソチビ、ええ皮肉でも何でも無く本当に似合っています。そのままお付き合いなさったらどうですか?」

「………………五月蝿え売女、穴の無え女と付き合ってられるか」

 クスクスと笑うニチェアを余所に、肉女が「怖くないですよ、恐くないですよ」と言いながら百鬼童子の頭をぽふぽふと軽く叩く。「……あぁ?」と唸った百鬼童子が振り返れば、彼女は再び口を開き『あーん待ち』をしていた。

「……………オレ様も食いてえんだ。待ってろ順番だ、代わりばんこって分かるだろ」

 純然たる鬼、本物の鬼。酒呑童子のように名前こそ売れなかったが、数多の鬼を従え数多の人間を蹂躙して来た百鬼童子は、それ故に仲間と認めたものに対しては性別や年齢だけでなく種族すら問わずに面倒味が良く、見放されない限りは絶対に見放さない。

 種族的には豚に近いが、良く肥えるよう養殖された豚と違って筋肉質な猪の肉をむぐむぐと咀嚼しながら「……ほりぇ」と舌足らずに肉を差し出す百鬼童子と、それを舌先で受け取っては感謝の意志が篭った「怖くないですよ、恐くないですよ」という言葉を繰り返す肉女は、とても殺戮の限りを尽くす『人の敵』とは思えない程に微笑ましかった。

「………………」

 そんな光景を見て、ニチェアが胸の奥がほかほかと暖かくなるのを感じる。まるで姉弟のように食事を食べ合う二人を眺める自分とジェヴォーダンは、であればまるで夫婦のようでは無いかと思えて止まない。

「さて………では獣さまもどうぞ」

 人間向けの一口大に切り分けられた肉を自作の箸で挟み、それをジェヴォーダンに向けて「はい、あーん」と差し出すニチェアに、ジェヴォーダンが驚きを顕にしながら「待て待て」と軽く手を振って否定する。


「いやそれは良いよそこまでは求めて無い自分で食べる自分で食べれりゅ熱っづァッ!」


 しかしニチェアはにこにこと心底楽しそうに微笑んだまま良い具合に焼かれた猪肉を獣の唇に押し当てた。

「お口を開いて頂けなければあーん出来ませんわ。ほら、あーん」

「待て待て何なんだ君は何で開幕から好感度マックスみたいぬぁ熱ッぢゃァいッ! やめなさいまだジェヴォザベスが喋ってる途中でしょうがッ! 嫉妬か嫉妬なのかあの二人に当てられて嫉妬の炎が燃えてるのか燃えるように熱いのは僕のくちびゃァあぢゅゥいッ! ───聞けッ! 良いから一度落ち着いて僕の話を聞けッ!」

 押し当てられた肉の熱さに悲鳴が飛び出し、それに対しての不満を言おうと口を開けばその隙を突いたニチェアが驚く程の速さで再びあーんを強行する。何処かの手刀の人で無ければ見逃してしまう程の速度で口元に迫ってくるそれを防ごうと口を閉じれば、当然のようにぎゅんむと熱い肉が押し付けられ再び悲鳴が飛び出してしまう。

「分かった分かった食べる食べるからッ!」

 やがて悲鳴のように言ったジェヴォーダンにニチェアが嬉しそうに微笑めば、獣はその一瞬の隙を見逃さず自作の箸ごと食い千切らんばかりの速度でその肉を掠め取る。

 むぐむぐとそれを力強く咀嚼しながらしたり顔でニチェアに流し目を送ってみれば、

「はい、あーん」

「んむっぐっ……んっぐ。───ん? あれ僕今肉食べ……あれ?」

「はい、あーんですよ獣さま」

「はやァいッ! どっかのストレイトもビックリだよ肉を用意するのも早ければそれを僕に差し出すのも速い味わった余韻に浸る時間ぐらいくれないかッ!」

 普段はひたすら好き勝手に喋り続けるエンターテイナーが弱々しいボケと共に焦り続ける様を「ふふふふ」と微笑みながら嬉しそうに眺めるニチェア。

 ………ニチェア・グランツェは別段ジェヴォーダンに対しての好感度が高かったという訳では無い。本人の中では一目惚れのような感覚に陥っている節があるが、しかしそういう訳でも無い。

 ニチェア・グランツェは『神を信じ続けたまま死ねた勇者』の一人であり、しかし死ぬまで信じ続けた神に死後見放されてしまった修道女の一人である。


 そして獣は神に捨てられた人間を拾った。


 捨てる神あれば拾う神ありというのであれば、今のニチェアにとってジェヴォーダンの獣は自らを恥辱と死の淵から救い出した神に他ならない。

 故にニチェア・グランツェはジェヴォーダンに対しての好感度が高かった訳では無い。ジェヴォーダンに、というよりも、そもそもの『神』という概念に対して好感度が異様に高いというだけの話である。

「………ではお次はフジツボですよ、あーん」

「おいそれ食べれるか分からないと言っていた奴だろう大丈夫なのかいやまあ食うけどさ面白そうだから食ってみるけど、度胸試しでナメクジ生食して重篤な脳障害を負った青年みたいにならないだろうな」

 そして修道女シスターというものは神と結婚している身。

 今のニチェア・グランツェは、幼い頃に夢見た「お嫁さんになりたい」という夢が叶っている状態なのだから、余りにも嬉し過ぎて歯止めが効かなくなってしまっている彼女のご機嫌さは語るべくも無い。

「………美味しいですか?」

「敢えて言おう、微妙だと。不味くは無いが美味くも無いな旨味はあるんだが何か食感は微妙だし磯臭さがかなり強いし身が小さくて食べ応えが無い割に何か謎の苦味がある。個体差なのか調理法なのかそれともマジで良くないものなのか判断し兼ねるが、何にせよ確かに山程採れるのは事実だがこれは流行らないね歩留まりが悪過ぎるしこの謎の苦味がひたすら不安感を煽る僕死なないと良いな」

「では私を食べますか? お口直しにしましょうか」

「その発想は無かったし別に要らなかったよ何でそうなるんだい」

「体型維持の為にフルーツ中心の食生活を意識していたので甘味があって美味しいかもしれませんよ」

「聞きなさい良いから僕の話を聞きなさい、良いかい? 健康意識でフルーツや野菜ジュースを増やすのは構わないが程々にした方が良いぞ缶ジュースじゃ無いから大丈夫と思った無知蒙昧が果糖にやられて糖尿病になるのはかなり良くある事例だ」

「飲尿プレイがお好みですか? 飲ませたいより飲みたいだなんて流石は獣さまですね、お盛んなんですから」

「酷い連想ゲームだ最低だよ。…………ああ全く何でこんなの拾ってしまったんだ今からでも捨て───」


「…………ぇ」


 溜息と共に漏れ出た獣の言葉にニチェアが絶句する。燦々と輝く太陽のようだったその笑顔が絶望に染まり、不評だったフジツボの口直しとして箸で挟んでいた猪肉がぽろりと落ちる。

 そんな唐突な反応にジェヴォーダンはどうすれば良いのか分からず同じように無表情で驚く事しか出来なかった。

「…………………けものさま……?」

 やがて音も無くボロボロと涙が溢れ始める。口を開いてから数秒も掛からず、余りに唐突過ぎる、まさに完全な不意打ちを受けたニチェアの反応に、全く同じように不意打ちを受けたジェヴォーダンは反射的に「じっジョークッ!」と叫んでいた。

「Joke!! It's a joke!! じょっ冗談さウソウソウソ冗談冗談小癪なマイケルの小粋な冗談ジョーダンってねHahahahaha!」

「────ぁ」

「最高ッ! 最高だよ今僕幸せ君を拾って良かった良かった素敵な拾いものだよスンバラシーッ! 生憎僕に竿は無いがもし竿があれば確実に孕ませていたぐらい君は素敵さ子供は作れないがせめて死ぬま───あそうだ死ぬまで死ぬまでそうだ忘れてた終身雇用だよ終身雇用ッ! ダメダメ離さないもう離さないからねI love you! ………Ohいざ言ってみるとこれ凄い照れるなでもこれも君が居てくれたからこそ得られた気持ちだねHahaha!」

 口調こそ幾らか慌ててしまっていたが、それでもここに居るジェヴォーダンの獣La bête du Gévaudanは生粋のエンターテイナー。愛想笑いであっても傍から見れば本当に嬉しそうに笑っているようにしか見えず、そんな獣の笑顔を見たニチェアが過呼吸気味になり始めていた呼吸を少しずつ落ち着かせていく。

「─────」

 その様子を傍から眺めた百鬼童子が呆れたように口を開き掛けるが、しかし彼は穏やかに微笑んだままの肉女の大きな指先で口を塞がれる。怪訝な顔で背後の肉女を見上げてみれば、肉女は何も言わずににこやかに微笑んだままでニチェアとジェヴォーダンを眺めていた。

「………………………ふん」

 百鬼童子が小さく鼻を鳴らすが、本当に小さいその音は必死に弁明する獣の早口に掻き消される。

 しかしすぐ近くに居た肉女だけはその音を聞き取っており、彼女は百鬼童子の頭を、やはり無言で優しく撫でた。

 魔法生物は基本的に感情が希薄であり、一切の感情を持たず本能のみで行動する個体も決して少なくない。

 しかしルーナティア国に居る全身が霧状のダストで構成された魔法生物のように良く喋り良く笑う魔法生物も確かに存在する。

 ………思うに、肉女と骨男は語る言葉を持っていないだけで感情は豊かなのかもしれない。少なくとも、今の肉女の立ち居振る舞いからは『感情が希薄』だなんて到底思えない。

「………獣さま、お手を繋がせて下さい。私、獣さまとお手を繋ぎたいです」

 ニチェアはついさっき「まるで自分と獣が夫婦のようだ」と思っていた。仲が悪そうで仲が良い肉女と百鬼童子が姉弟のようだと、ニチェアは思っていた。

「いや何でそうなるん────ああ分かった分かった拒否じゃない違う疑問だ疑問ッ! どっかの懐かしい芸人のようになんでだろ~なんでだろ〜って思っただけだから悲しそうな顔をするんじゃないお前さては味をしめたなッ!?」

 けれど実際には違うのかもしれない。ニチェアとジェヴォーダンは夫婦のようでは無く、百鬼童子と肉女は姉弟のようでは無いのかもしれない。

「………………ほらこれで良いだろう食事が食べ辛いんだから早く満足してくれ」

「獣さま、指を絡めて下さいまし。指と指とを絡め合って下さいまし」

「は? いやおいそれ恋人繋ぎという奴だろう何で君は僕に対してそんな好感度が高いんだまだ出会って数日────いや照れるな照れるなモジモジするな何だお前その反応は意味が分か───だからって一気に暗い顔になるなッ! ………分かった分かったからもう諦めるよチクショウ諦めれば良いんだろうッ!」

 言いながら指先を軽く開けば、涙で潤んだ瞳を嬉しそうに歪めたニチェアがその隙間に自分の指を絡め「ありがとう御座います」としなだれ掛かりながら肩を寄せていく。

「…………………………」

 それを無言で見詰める肉女。構って貰えなくて少しだけ不貞腐れた少年のような顔で肉を食べ続ける鬼の頭を優しく撫でながら、幸せそうに微笑む修道女と、困ったような顔をしながら肉を食べさせて貰う獣の姿を眺める肉女。

「…………………怖くないですよ、恐くないですよ」

 小さな吐息。蚊の鳴くより小さなその言葉。

 そんな言葉を呟く肉女の目には、一つの家族と恋人が映っていたが、しかし肉女にそれを口にする事は出来なかった。

 時々喧嘩になってしまう程仲の良い兄弟。口ではああだこうだと言うが面倒味の良い兄に恋人が出来て、少しだけ後回しにされるようになってしまった弟が寂しさから不貞腐れてしまっていて、仕事ばかりで滅多に家に現れない骨男を持つ自分がまるで母のようだと肉女は思っていたが────、

「………………幸せです、獣さま」

「そうかい君が幸せで僕も嬉し────というかおいMr.モモお前どんだけ食うんだ僕の分殆ど無いじゃないかッ!」

「………何だよお前まだ食うのか? オレ様は完全に食後のイチャイチャだとばかり思ってたからよ」

「怖くないですよ、恐くないですよ」

「いや肉女お前も笑ってないで止めろ僕の分殆ど残───おい食うなモモお前「やっべバレたわ」みたいな感じでモリモリ食うなッ! 止めろ肉女ッ! そこのクソ野郎を今すぐ止めろ何でお前は暴食Gluttonyポジションの僕より暴食Gluttony感出してるんだッ!」

「………わ、私をお食べになられますか? 構いませんよ……私、獣さまになら……何されても構いません。………は、激しいプレイでも、その………私、獣さまがお相手であれば、きっと気持ち良くなれますから………」

「頬を染めるな僕には竿が無いと言っただろうッ!」

「………でしたら物理的にお食べになられますか? ………愛欲と食欲は紙一重と言いますから、きっと私は気持ち良く食べられる事が出来ます………」

「食わない絶対後味悪いッ!」

「怖くないですよ、恐くないですよ」

「怖いわいや違う怖がれKannival sex carnivalとか普通は恐怖でおののくものだろうッ! ……ああクソやり辛い何で僕がこんな常識人感出してツッコミに回ってるんだ落ち着かない凄く落ち着かないッ!」


「でしたら獣さま、卑賤な身ながらあの時のように私の胸に触れて、胸の高鳴りを聴きながら癒やされて下さい」


「────は? ………おいテメエ今何つった? あの時のようにっつったか?」


「あちょ」

「おいジェヴォーダン、お前何でオレ様が居んのに別の女抱いてんだよ性欲あんじゃねえか」

「いや違───」

「………優しい手付きでしたよ。好奇心のみで私の胸を揉んでいるように見えながらも、しかし力を込めて指を食い込ませるような事も無ければ爪を立てるような事も無い………ああ、私の体を気遣ってくれている事が分かる優しい触り方でした。もっと触れて欲しいと、また触れて欲しいと、今もそう思うぐらい素敵な気持ちにさせて頂きました………」

「上等だ───」

「おい待て何が上等なんだやめろMr.モモおかしい色々とおかしいだろう気付け気が付け、それは投資に失敗したアホ亭主が「みんな死ぬしか無いじゃない」とか叫びながら無理心中を強行する時の心理と全く同じだ。間に合うまだ間に合うからまずは末期思考を止めて借金関係に強い弁護士に無料相談する所から始めよう首を吊るのはその日の帰りでも遅くないぞ」

「────受けて勃つ」

「おいMr.モモお前その「勃つ」って絶対違うからな気付かないとでも思ったかこの野郎」

「あらあらショーティークソチビ嫉妬とは見苦しいですね。良いですよ、でしたらどちらが獣さまを気持ち良くして差し上げる事が出来るか勝負致しますか?」

「致しません僕を差し置いて僕を使って賭け事をするなそもそも僕には気持ち良くなる為の操縦桿が無いと言っ────」

「ケツ穴はあるだろうが」

「だがもう無くなったッ! ヒューッ! いやあるけどッ! あるけどもう無くなった事にして許してくれッ! クソが何で性器は無いのによりにもよって尻穴だけはしっかりあるんだどっちも消せよ融通効かないなあッ!」

「ほじほじして差し上げますよ。前立腺は無くとも出入りの快感は得られるはずです」

「馬鹿野郎がほじほじで済ますかよ絶対ぜってぇガバガバにしてやる。オレ様以外じゃイケねえ体にしてやる」

「忘れるなよ僕は立派な獣だ今でこそ人の姿をしているが僕はちゃんとした獣だ獣姦ア◯ル拡張とかお前らどんだけ業が深いんだふざけるなッ! しかも寄りにも寄ってされる側じゃ無くてする側と来た奇跡も魔法もあるのに救いだけが存在しないッ!」


「怖くないですよ、恐くないですよ」

 

 ────言いながら穏やかに微笑む肉女の思いは、あながち間違いでも無いのかもしれない。

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