7-5話【口付けに求める意味】



 娯楽の定義が「人が生み出した『人を笑わせるもの』」であるとするならば、ウィリアム・バートンにとって神はただの娯楽コンテンツ。本やアニメーション、漫才やアイドルグループと何一つ変わらない。

 遥か太古から存在する神。例えばゼウスだとか、例えば天照大神だとか、ヴィシュヌVishnuもキリストも全て同じにしか感じられず、ウィリアムにとってはどんな神であっても学校帰りの少年が手に持っている手頃な長さの木の棒と全く変わらない。関わっている人間の心がある程度以上豊かになり、笑顔を導き、それを提供している側が金銭的利益免罪符を得ているならそれは絶対に嘘っぱちだとウィリアムには思えてやまなかった。

 宗教自体を否定する気は毛頭無い。宗教家を叩くような意図だって微塵も無い。大自然を信仰する人間は心底から素敵な志を持っているものだと思えるし、それに伴う自然賛歌に関しても深い理解を示す事が出来る。

 けれど信仰される神自体にはどうしても協調する事が出来ず、ヘラヘラと笑いながら「こういう能力あったら面白いな」「こういう設定にしたら人気出るかな」だなんて浅はかな心理の元に生み出され、その後数多の人に良いように使われ免罪符売り金稼ぎの道具として扱われてしまっているような存在に、ウィリアムはどうしても心を預ける事が出来ない。

 ウィリアム・バートンにとって神という存在は娯楽コンテンツだとしか思えず、「まだ人が飽きていないから表に立てているだけの一発芸人」のようにしか思えない。何の予兆も無く、ある時ふっと飽きられ始め「そういや最近見なくなったな」なんて言われる間すら無く表舞台から消えていく。そこから十年近く経って「あの時の◯◯は今」といえような番組で晒しものにされるエンターテイナーのようにしか思えないのだ。

 神もそうである。いつ人が飽きるか………いつ人が「存在の真偽」について気が付いてしまうか分からない。今はまだ真偽不明だから良いが、いつ神の存在が科学的或いは物理的に証明されるか分からない以上、そんな存在に背中を託す事なんてウィリアム元傭兵には出来る訳が無かった。

 当然、神の存在が明らかになって「本当に神は居た」と世界に知られる可能性だって大いにあるが、そうなったらその時からなむなむと祈れば良いだろうとウィリアムは思う。その時になってから免罪符を買い始めても全く遅くは無いだろう。

 だがまだ神の存在が明らかになっていない内から、会費だの経費だの何だのといった「本当に利益に繋がっていない元取りだけ」の金なのかはっきりしない事に銭を支払うという行いが、ウィリアム・バートンにとっては「早過ぎる」としか思えず度し難い。

「…………怠いわねぇこのクソビッチが───ッ!」

 珍しく感情を表に出した声色でウィリアムが吐き捨て、横移動しながらパスパスと安っぽい銃声を鳴らす。しかし手元がブレるからなのか横移動の慣性が乗ってしまっているからなのか、マズルから飛び出た6mm弾はウィリアムの目視でも確認出来る程に逸れてしまっていた。

 だが横移動を止めれば紫色の衝撃波が体に直撃しかねない。既に何発か体の端を掠めたが、消し飛びこそしなかったものの「ウワァー絶対骨折れたァーッ!」と叫びたくなる程の激痛に視界がチラ付いてしまう。どう考えても折れたという時に限って絶対折れていない事を知っているウィリアムは、視界がブレた隙を突かれないようせめてもの抵抗でハンドガンを何発か撃つが、しかし痛みに振れた状態で撃った6mm弾は須らく大鎌の柄で弾道を反らされてしまった。

「トランプを使用した遊び方の一種にダウトというものがありますが、ダウトで遊んでいるとかなりの確率で湧きますよね」

 もはやまともに避ける必要性すら無くなったからか、ニチェア・グランツェが優雅に微笑みながらのんびりと呟く。

「ゲームコンセプトを何も理解していない、本当に大間抜けなパーティクラッシャーが」

「ダウトのコンセプトは「勝つ為に手札と口をどうやり繰りするか」よ、ダウトで仕掛けないのは立派な戦略だと思うわ。きっともう二度とパーティには呼ばれないでしょうけどね」

 ウィリアムの回答に「ふふふ」と笑うニチェア。相変わらずステンドグラスを背後に立っているニチェアは、恐らく本気でウィリアムと殺り合う気なんて無い。


 まさか死を受け容れた?

 全て諦め、せめて楽しく死のうとでもいうのか。


 常に上を取り続けているニチェアが何故か戦闘を終わらせようとせず楽しんでいる点を不審に思ったウィリアムが一瞬だけそんな考えに至ったものの、ガラス製であるステンドグラスのある面を常に背中に置いている点を鑑みれば即座に違うと気が付ける。

「みんなでわいわい楽しむパーティタイムを、自分一人で勝つ事に執着して白けさせてしまうような方ですからね。でもそういった方は口を揃えて言うでしょう、お前らみたいな連中こっちから願い下げだ、と」

 ニチェアは恐らく最初から逃げる気でいる。何せ自らが行った事が表に出ればもう助からない。サンスベロニア帝国はニチェアを許すつもりなんて無い。

 単に殺されるとは思わない。金に困って帝国内の富裕層に性病をばら撒いているだけなら情状酌量の余地はあるやもしれないが、そこからどういう心境の変化があったのか少年を攫って殺してしまっている。それも一人二人の殺人では無い完全なる快楽殺人なのだから、ただ死刑になるだけでは到底済まない。

 薬剤や魔法生物に関する人体実験に使われるか、或いは身柄を完全に拘束され慰安用の肉便器にでもされるのが関の山だ。恐らく後者から始まり、重篤な性病に罹患するか心が壊れて喘ぎもしなくなった辺りで処分前提の人体実験の材料になるのだろう。平和ボケしたものからすれば「それ何てエロゲ?」と言いたくなるような話かもしれないが、独裁国家にまともな倫理観を期待する方がよっぽど間抜けであり、7.62mm弾を90発も受けないだけ遥かにマシだと言える。

 故にニチェアは常に退路を確保しながらウィリアムを相手にしている。ニチェアがどの程度まで魔法を扱えるようになったのかは謎だが、危機が迫って来たと判断すれば軽く睨み付ける程度で発生させる事の出来る紫色の衝撃波を使ってステンドグラスを割り逃げ出す算段なのだろう。

「どっちが無様なのでしょうね。負け犬の如く盛大に遠吠えするのと、果敢に仕掛けて派手に散るのとでは、一体どちらの方が無様なのでしょう」

 故にニチェアは嘲笑う。反射的に怒りに囚われ「……チッ」と大きく舌打ちしたウィリアムが二丁のハンドガンを向けて二発ずつ発砲、相手の反応を目で追いながら即座に直進した。

「────ナメてんじゃねえッ!」

 腰を低くしながら石張りの床を蹴って前進し、その道すがらで持っていたハンドガンを後方に放り投げる。

 押されている身ではあるが、だからといって空になった銃をカチカチ鳴らす程ウィリアムは素人では無い。十八発の残弾は既に全て使い切り、追加弾倉も今しがた空っぽになった事は何となくの感覚で全て把握している。よしんば数発残っていたとしても関係無い、どうせ避けられ当たりもしない。

 素人であれば秒殺されるだろうが、実際ある程度の期間銃弾の飛ぶ軌跡を見慣れると割と目視で避ける事は出来るようになる。

 何せ銃という武器は直線武器。マズルファイアを見てから避けるなんて事は物理的に不可能だが「銃口を向けなければ相手に当てられない」という致命的な欠陥のある銃という武器は、相手がこちらに銃を向けようと動かす方向と自分を交差させるように体を動けば割と避けやすい。銃口から逃げてはいけない、射線を合わせようとしてくる銃口にむしろ近付くように体を動かすと、相手はどうしても反応が遅れてしまいやすい。

「───────シッ」

 視界がジリジリと赤くなるような感覚と共に、銃を捨てたウィリアムが一気に肉薄する。

 ハンドガンを投げ捨てる際に後方に放った腕の戻し際、腰に差した一対の『餃子』に指先を引っ掛けて持ち上げる。そのままニチェアが構える大鎌の内側に入り込んだウィリアムは、しかし敢えて『餃子』をしっかりと握り直さず、指先を引っ掛けたまま右手だけアッパーのように振り上げ相手の顎先を狙った。

「当たりません」

 くるりと半回転しながら振り上げられた刃先が宙を切り裂く。しかしウィリアムはその時間でしっかりと握り直した左手の『餃子』を、まるでボクシングのように力強く振り抜いた。

「それも当たり───」

 柄で防がれた刀身がガギッと鳴った瞬間、ウィリアムが一気に刃を滑らせる。大鎌の柄を握ったニチェアの指に向けて駆け抜けてくる銀色の刃に「───おっと」とニチェアが一瞬だけ手を開いて柄を離した。

「おるァッ!」

 そこへウィリアムが右手を振り抜く。

 自分の腕の下を通し渾身の右ストレートを放ったウィリアムだったが、しかしニチェアは腰を一気に反らしてそれを回避する。

「───あんっ」

 その右ストレートに握られていた『餃子』の刃先がニチェアの大きな胸を掠め、濃紺色の修道服を切り裂く。淫猥な喘ぎが聞こえるが、集中し切っているウィリアムの耳には全く入らず、空振りを理解したウィリアムは即座に右足を内向きに振って足払いを仕掛ける。

「アハッ」

 しかし相手の足首を蹴り飛ばそうとしていたウィリアムの右足は空気を蹴るだけ。タイミング良く左膝を追っていたニチェアはそれをバネのように勢い良く伸ばし、ウィリアムの股間に刺すような金的を入れた。瞬間、ウィリアムは目を見開いて「───アオッ!」と呻き本能的に腰を丸めて手を引いてしまった。

「──────」

 そしてニチェアが左後ろに飛び退るように地面を蹴る。ウィリアムの股間にめり込んでいた左足の爪先がスルリとそこから離れていくのに合わせ、ウィリアムの体感時間がスローモーションのように遅くなっていく。

 自身の股間を押さえた手を急いで上げようとして、すぐにそれを諦めたウィリアムはニチェアと同じ方向に地面を蹴り、右手に持った『餃子』を真左に向けようとするが…………、ニチェアが持った大鎌。その内向きに研がれた鋭利な刃は、既にウィリアムの左腕にめり込んでいた。

 遅くなった体感時間が一気に戻っていく。冷たく冷えた刃は驚く程なめらかに骨と筋肉を切り裂き、一瞬の間も無く左腕の感覚が無くなったウィリアムは、最早右手の『餃子』でその刃の進行を止める事は間に合わず、そのまま自分の胴体が真横に両断される事を本気で覚悟した。


「──────させぬゥッ!」


 そこに加藤梅雨が割り込んでくる。内向きに研がれた大鎌の刃に向かって突進するように入り込んできた加藤梅雨が、両手に握った小刀と苦無を使って懸命に大鎌の動きを止めた。

 刀身の腹や峰を向ける余裕の無かったその小刀がパキッという軽い音と共に二つに割れ、そのすぐ後ろに添えられていた苦無の刀身を滑った大鎌の刃はウィリアムと加藤梅雨のすぐ真横を切り上げるかのようにして上に逸れる。

「────チッ」

 ニチェアの舌打ちが聞こえる。直後、横倒れになるように地面を蹴ったニチェアが踏みとどまるズダンという足音が礼拝堂に響き、宙に振り上げられるように逸らされた大鎌の峰に当たる部分がまるで斧のように加藤梅雨に向けて方向転換。

「…………くっ」

 背後のウィリアムの腹を力任せに蹴り飛ばしながら背を低く屈めた加藤梅雨の真上を、大鎌の鋭利な峰が通り抜けていく。「ぐっ!」と呻いたウィリアムが反射的に受け身を取ろうとするが─────受け身を取る為の腕が一本足らず、ウィリアムは失った左腕の側に転がるようにして倒れ込んでしまった。

「雑草風情が」

 それまで柔和に微笑んでいたニチェアの顔から余裕が消える。低い声色で唸るように吐き捨てたニチェアが空いた手を加藤梅雨に向ければ、魔法での攻撃を察知した加藤梅雨はその場でバク宙でもするかのように飛び上がりながら距離を取り────、


「お間抜けです」


 直後、背後のステンドグラスが派手な破砕音を鳴らしながら一気に割れた。

 沈み切った太陽の代わりに登り始めた月の輝きが、紫色の輝きと共に割れたステンドグラスの破片に乱反射する。

「何ッ!?」

 向けられた手のひらから放たれる魔法攻撃を警戒、先読みして回避行動を取っていた加藤梅雨が「……計ったかッ!」と叫ぶ。着地に合わせて曲げた膝を一気に伸ばして床を蹴るがもう間に合わない。

「────アハッ」

 嘲り笑ったニチェアの足下がまるで地雷を踏んだかのように爆発する。燃焼を伴わない紫色の衝撃波によって真上に飛び上がるニチェアに、苦無を構えて猛進しようとしていた加藤梅雨がたたらを踏んだ。

 くるりと綺麗に回転したニチェア・グランツェがステンドグラスを通り抜けて礼拝堂から抜け出ていく、その刹那、


「ぬぅあ────ッ!」


 ────たたらを踏んだ加藤梅雨が、前傾姿勢になった体勢を利用し力任せに苦無を振り抜いた。

「────────」

 まるで放たれた矢のように真っ直ぐ綺麗に空を切り裂いた鈍色の鉄塊が、直前にウィリアムが切り裂いた修道服の隙間を通って突き刺さる。

「あ───ッは、ぁんっ」

 しかしニチェアの悲鳴は余裕の篭った淫猥な声色であり、自身の胸骨を砕きながら突き刺さったその苦無には目もくれない。

 かと思えば再び紫色の衝撃波が放たれ、空中に居るニチェアがその衝撃波に吹き飛ばされて屋外に飛んでいく。

「逃が────」

 加藤梅雨が吠える。が、その声は数え切れない程の爆音に掻き消された。

「………むッ!?」

 次の瞬間、ボカァンッという嘘みたいに大きな音が鼓膜を震わす。直後それと全く遜色無い爆音が礼拝堂の中に鳴り響き、砕けずに残っていた僅かなステンドグラスが床に落下する。

「あの売女─────壊す気かッ!」

 礼拝堂の中にメキメキという音が聞こえる。天井に配置された喇叭らっぱを吹く天使像が落下しゴシャッという破砕音が鳴り響く。

 それを聞いた加藤梅雨はニチェアを追い掛ける事を諦め、

「………くっ、自分でも動けッ! 足を動かさんか大莫迦ものッ!」

「ぐっ……く────あンの野郎………ォッ!」

 片腕を切り落とされた痛みに歯を食い縛るウィリアム・バートンの肩を抱き、その体を必死に引きずりながら閉じられた大扉に向かって歩みを進める。

「────要らねェッ!」

 その大扉が間近に迫ると、背負われていたウィリアムが加藤梅雨の腕を乱暴に振り解いて離れる。

 そしてそのまま倒れ込むように大扉に右肩を預け、力一杯体重を預ける。

「……………ぐっ」

 それを見た加藤梅雨がウィリアムの腰に右腕を回しながら抱き合うように左肩を押し当てると、重過ぎるその大扉がギギギと重く軋みながら少しずつ開く。

「────────」

 それが人一人分開くのに合わせ、加藤梅雨はウィリアムの腰に回していた腕に力を入れながら乱暴に床を蹴って隙間から飛び出す。押し当てられていた体重が無くなり大扉が閉まり始めるが、しかし二人は何とかその隙間から礼拝堂の外へと抜け出る事が出来た。

「走れェッ!」

 加藤梅雨が絶叫する。完全に倒れ込もうとしていたウィリアムがハッとなり、つんのめるようにしながらも懸命に足を動かして地面を蹴って駆け抜けるが、何歩か進んだ先で小石に躓き小さくよろめいてしまう。

「───────────莫迦ものがァッ!」

 その尻を加藤梅雨が力任せに蹴り飛ばした。足の甲を当てる蹴りでは無く、左足の靴底で押し出す感じの蹴り方にウィリアムが「おわっ!?」と呻きながら転がっていく。

「────ッグ」

 その次の瞬間、耳が痛くなる程の破砕音と共に強い風がウィリアムの後頭部を吹き抜けて行き────支えを失い倒れた大扉がバァンッと鳴るのに合わせ加藤梅雨が呻く声が聞こえた。

「───ッ!? ツユちゃんッ!」

 残された右手を使って振り返った先、倒れた大扉によって巻き上げられた土埃の中に加藤梅雨の姿を発見したウィリアムは心の底から深く安堵した。


「……………………ツユちゃ────」


 しかし直後に絶句する。自分の尻を蹴り飛ばす為に上げた左足、自分の事を押し出す為に移動を止めた加藤梅雨が軸足として使ったその右足が、倒れた大扉にほぼ丸々圧し潰されている光景を目の当たりにしたウィリアム・バートンは、


「──────────」


 普段であれば雄弁に回るはずのその口から、一体何を言えば良いのか全く分からなくなってしまっていた。



 ───────



「お前たちが生きているだけで十分だと、そう伝えてやってくれ」

 サンスベロニア帝国の現総帥であるペルチェ・シェパードが力強く握った手に向けてそう言うと、その手に握られた言葉石ことのはいし越しのアダン・グラッドは何も言わずに会話を切った。

 そんなアダンの対応の悪さに、しかし大総帥であるペルチェは「ふぅ……」と吐息を漏らすだけで苛立つような事は無かった。

「…………全く、どいつもこいつも」

 人攫いの修道女は結局あの後行方を眩ませた。囮操作に使った生ける証拠は完全に心を壊しこそしなかったものの、女性的な体格や声色をした相手に対して強い恐怖心を抱いてしまうようになった。

 こちらは一切の得をしていない。その割に、失ったものや失うものが余りにも多い。犯罪というものは得てしてそういうものであり、人間が知的生命体を自称する限りこればかりはどうしようも無い。

 囮操作に使った少年は心に傷を負い、倒壊した教会の瓦礫を片付けるのも、地下室から出て来た大量の死体の山を火葬するのも、その骨を遺族の元に届けるのも、民の間に広まる「勇者を呼び出したせいで死人が増えている」という話題を揉み消すのにも………ああ、兎にも角にも金ばかり嵩む。

 だがそれはまだ良い。国庫の損耗に追加で金を刷る訳にはいかないが、それでも金は巡り巡って周るもの。他国に対して支払った訳では無い金なのだから、いずれは国内を巡って再び国庫に戻ってくる。


 だが失った手足は戻らない。


 斬り落とされたウィリアムの左腕は倒壊した教会の下敷きになり、加藤梅雨の右足も太ももの辺りから下が完全に圧し潰されて戻しようが無い状態になってしまった。

「陛下、こちら見積書に御座います」

 人目を気にした余所行きの口調をしたニェーレ・シュテルン・イェーガーが政務室の机に数枚の紙を置きながら言うと、それに書かれた数字を見たペルチェは露骨に眉根をしかめながら長く大きな溜息を吐き出した。

「…………これだけ使って、出来た事が笛吹き女と狂犬を国外に追いやっただけか」

 教会周りに掛かった金やジェヴォーダンの獣によって破壊された建物の修繕費はまだ常識的な額だった。直接的な被害だけで無く破壊された城下の家屋やそれらに対しての慰安に使う金も含めると頭が痛くなるが、それでも何とか許容出来る。

 問題は、ジェヴォーダンの襲撃によって死んでしまった多数の兵士、その遺族に対して支払わなければならない手当金の額だった。

「判をお願い致します」

 言われたペルチェが豪勢な装飾の施された木箱の蓋を開け、中に仕舞われた大きな判子を数枚の見積書に捺していく。

「ありがとうございます」

 それをニェーレが受け取り茶封筒に仕舞い込んで「それでは失礼致します」と一礼すると、ペルチェが「ニェーレ」とその背中を呼び止める。

 慰安をお求めか、とニェーレが期待に内股を擦る。

 しかしペルチェは椅子をずらし、その膝をぽんぽんと叩きながら「来てくれ」と言うだけで他には何もしない。過去の事例に合わせるならば脱衣を命じるかズボンを降ろして咥えさせるかしているはずだが………と少しだけ困惑したニェーレが茶封筒を机に置き、「は」と言われるまま彼の膝に座る。しかしペルチェはそのまま何も言わず、身長百センチの小柄な宰相を優しく抱き寄せるだけだった。

「…………………ペルチェ様? 如何なさいましたか? お求めなら幾らでも致します、どうかご遠慮なさらずに」

 余所行きながらも何処か期待の篭った声色のニェーレに、ペルチェは「今は良い。そんな時間は無いだろう」とそれを断る。

「ならば何かお悩みで? 僭越ながら、出費に関してでは無いように見受けられますが………」

「難しいなって思っただけだよ」

 ニェーレの問い掛けにペルチェがか細い声色で答える。それに「国の運営が、ですか?」と余所行きの口調を止めたニェーレが聞くが、しかし彼は「それも難しいけどな」と言いながらニェーレの首元に鼻先をうずめる。

 ………これはペルチェ・シェパードの癖のようなもの。およそ独裁国家の総帥には到底向かない頑張り屋で心優しいペルチェ・シェパードは、しかし頑張り屋で心優しいが故に時々押し潰れてしまいそうになる事がある。

 背負わなければならないもの。産まれた瞬間から背負う事を運命付けられてしまっているが故に背負わなければならない数多の重圧に押し潰されてしまいそうになると、ペルチェは決まってニェーレすきなひとの首元に顔を近付け小さな宰相の匂いを嗅ぎながら甘えたがる。

「では何にお悩みですか? お教え下さい、解決出来るよう一緒に考えますから」

 後ろ手に頭を撫でる。自分の体を抱き寄せる手に自分の手を重ねながら、後ろ手に愛すべき想い人の頭を優しく撫でるニェーレに、しかしペルチェは「うん……」と頷きながらも言い淀むような素振りを見せた。

「…………………」

 けれとニェーレは急かすような事はせず、ゆっくりと金色の髪を撫でながら彼の答えを待った。

「…………………どうしてみんな死に急ぐんだろうなって、少し考えてたんだ」

 やがてペルチェが口を開く。

 素朴な悩みを親に伝える子供のような声色をした今のペルチェは、誰がどう見ても独裁国家の総帥とは思えない程に幼気あどけ無く弱々しいものだった。

「異世界から呼び出されたからとか、大金が貰えるからとか。………どうしてそんな理由で、どいつもこいつも死に急ぐんだろうな」

「…………………」

「何でもう少し………ゆっくり生きて行こうと思わないんだろうな」

 その疑問に、しかしニェーレは上手く答える事が出来ず無言になってしまった。

 尽くす義理なんて無いのに、何のしがらみも無いサンスベロニア帝国に尽くす勇者たち。

 他に仕事は幾らでもあるはずなのに、どうしてか命を対価にしてまで国に尽くして死んで往く兵士たち。

 それがどうしてなのか、ニェーレにはちゃんと分かっている。

 この国がそれだけ良い国であり、今の国王がそれだけ良い国王であると思っているからこそ、皆揃って「命を預けても良い」と思ってくれているのだとニェーレはちゃんと分かっている。

 命を賭して国の為に死ぬ兵士たち………彼らが本当に金だけを目当てとしているのであれば、国になんて尽くさず薬物取引や密漁などに手を出しさっさと首を刎ねられているはずだろう。

「…………どうしてでしょうね」

 しかしニェーレは敢えてそれをペルチェに伝えなかった。

 今の彼にそれを伝えても、きっと重荷にしかならないから。「周りの期待に応えられるよう頑張らなきゃな」と余計に心労を抱えてしまうはずだから、敢えてニェーレはその答えをぼかした。

「………ニェーレでも分からないのか?」

 愛すべき宰相の言葉に意外そうな反応をするペルチェに「はい」と宰相は即答する。

「その答えは個々人によって様々ですから、変に一つ二つと例を挙げる事は出来ません」

「…………どのぐらいあるんだ?」

「総人口と同じ程度はありましょう」

 宰相の言葉に思わず「多いな」と素直な感想を漏らすペルチェ。

 しかしペルチェは変わらずニェーレのうなじに顔を押し当てたままであり、それを受けてニェーレは「ふむ」と鼻を鳴らしながら膝から降りる。

 ペルチェの鼻先からニェーレの髪が離れていく。くすぐられたように擦れた毛先から香っていた想い人の匂いが空気に混ざって掻き消えるように薄くなり、ペルチェは消え入りそうな声色で「……ニェーレ?」とその名を呼ぶ。

 するとニェーレはくるりと向き直り、今度は向き合うようにペルチェの膝の上に座った。

 真正面から向き直ったニェーレに、ペルチェが無意識に顔を寄せて再び首元に顔をうずめる。

 それを両手で優しく抱き寄せたニェーレが「ペルチェ様」と耳元で囁く。

「…………………ちゅーしますか? ちゅーしたいです。ちゅーしましょう」

「お前噛むじゃないか」

「噛みませんよ。空気は読めます」

「空気より俺の心を読んでくれよ」

 どこか拗ねたような声色でそう言うペルチェにニェーレは思わず微笑んだ。

 向かい合わせになりながら膝の上に下ろした自分の腰をにじにじと動かしたニェーレが「でしたら」と言いながら、抱き寄せた頭から両手を離してペルチェのズボンのベルトを弄り出す。

「久々に優しいえっちでも致しましょうか」

 その言葉にペルチェが顔を上げる。不安と期待の入り混じった不思議な表情をしたペルチェに「心、読めているでしょう?」と悪戯っぽく言ってみれば、しかしペルチェは変わらず何も言わずにニェーレを見詰める。

「信じられませんか?」

「…………お前は前科が多過ぎる────ん」

 次から次へと不満を漏らす口に小さな宰相が唇を押し当てる。僅かに吸い付いたその唇は、しかしペルチェの予想に反してすぐに離れていった。

「……………ね? 優しかったでしょう?」

 生まれつき小柄なニェーレの、しかし体格に似合わず大人らしい微笑みと言葉に誘われたペルチェだったが、

「………………お前スイッチ入るとひたすら噛むからなぁ、お前地雷踏むとイく度に噛むじゃないか」

「なら踏まなければ良いのです。見てから回避余裕でしょう?」

「地雷探知機をくれ。上手く見えない」

「私自身が地雷探知機です。近いと良い声で喘ぎ出しますから、手探りで一生懸命探して下さい。ヒントは体外に露出しちてちょっと硬くなっている部分か、指を挿れて五センチ程度の所にあります」

「俺が探したいのはお前の性感帯じゃ無くて噛み癖スイッチだ。あとそれヒントじゃなくて答え言ってるし、そもそもお前は地雷探知機じゃなくて爆導索だ」

「うるさいですね噛みますよ」

 完全に気分がそっちに傾いてきたというのに、何故か日和って手を出さないペルチェにイライラしてきたニェーレ。

 それが分かっているペルチェが少しだけ慌てながら「わ、分かったから」と小さな唇に口付けをすれば、ニェーレは嬉しそうに微笑みながら吸い付くように何度も音を鳴らして、優しいキスを繰り返した。



 ───────



 さっさと想い人のお誘いに応じなかった金髪の青年が結局行為中に昂ぶった想い人に唇を噛まれている裏、アダンが造り出した人型医療機械どくだみFish mintによる緊急手術を終えたウィリアムは「……割…と落ち着かないわね」とせわしなく左腕を動かしていた。

「……………………ふむ」

 その隣に立つ加藤梅雨が小さく鼻を鳴らしながら右足で何度か金属製の床を踏む。

「ツユちゃんは割と冷静そうね」

「いや全く冷静では御座らんよ、極めて落ち着かぬ。ソラ殿が異例であっただけなのだな」

「そうね………遂にあたしもシャ◯クスみたいになっちゃうのね。いつか来る時の為に麦わら帽子買っといた方が良いのかしら、じゃなきゃ違和感果てしないわよこれ」

 言いながら同じように左手を握っては開いてを繰り返すウィリアム。

 ………体の一部を喪失する事に憧れる男性は多く、特に隻腕や隻眼といった呼び名はむしろステータスが如く扱われ、世界各国の様々な厨二病諸兄に好まれる。

 しかし理想に酔い痴れ現実から目を背けた厨二病諸兄は何も知らない。手足の一部を失うという事は何一つメリットが無い所か、むしろ数多くのデメリットに苦しむだけであるという事を。

「これが痛み止めだ。んでこっちが安定剤、んでこっちが抗生物質と解熱剤。解熱剤は普段使いするな、熱が出た時だけ飲め」

 不機嫌を隠しもしないアダン・グラッドから渡された小さな紙袋を受け取ったウィリアムが「……こっちは?」と別の紙袋を見ながら言った。

「それは消毒液と包帯だ。当分は義肢と体の繋ぎ目が化膿すっから、毎日しっかり義肢取り外して消毒液ぶっ掛けろ。膿が垂れてくるようだったらガーゼ当てて包帯で固定……あぁそれもしっかり毎日替えろよ、十中八九血混じりだろうから放置してっと義肢錆びるぞ」

 くるりと背を向けたアダンが「あぁそうだ」と再び向き直り「おいニンジャ」と無言のままで薬を眺めていた加藤梅雨に呼び掛ける。

「薬は茶で飲むんじゃねえぞ。ジュース系かスポドリみてえなので飲め」

「……………水では無いのか?」

 アダンの言葉に顔を上げた加藤梅雨が首を傾げると、ウィリアムが「水で良いでしょ」と薬の入った紙袋を乱雑にクシャリと握り潰しながらポケットへねじ込んだ。

 しかしアダンは「天然水みてえなのじゃ無けりゃ良いんだが、基本やめとけ」と鼻を鳴らした。

「何でよ。薬をお茶で飲んじゃ駄目なのは知ってるわよ? 何かアレでしょ、効果が変わっちゃうんでしょ?」

「薬を茶で飲むと効果がどうのこうのってのは、茶の中に含まれてる大量のミネラルが薬効成分と反応しちまう可能性が高いからだが…………お前らミネラルウォーターって知ってっか?」

 アダンの言葉にウィリアムが「あーね」と納得する。

「何から何まで駄目って訳じゃねえ。薬に入ってる成分と飲んだ水に入ってるミネラルとによっちゃあ別に何も起こらねえって事もザラにある。だが水の中に含まれてるミネラルの種類と分量が何も分かってない以上、大丈夫だろっつってタカ括るんじゃ無えぞって話だよ」

「生理食塩水のデリバリーは?」

「さっさと出てけ」

「あら酷い」

 言いながら軽く笑うウィリアムに、アダンは「あと」と更に付け加える。

「お前ら二人、早死にする覚悟はしておけよ」

 丈長な白衣の胸ポケットから取り出した自作の電子タバコを咥えながら、アダンは二人に向けてそう言い放った。

 その余りにもな言い方に、しかしウィリアムも加藤梅雨も苛立つような事は無い。

 むしろどこか穏やかな表情になりながらアダンを見詰め返す。

「あったはずの手足が無くなりゃあまずストレスが溜まる。そのストレスが何処に向くかは知らねえが、偏頭痛や緊張性頭痛に繋がる事もあれば内臓周りに向かって過敏性腸症候群だの胃潰瘍だのを引き起こす事もある」

「………………………………そうね」

「仮にそれらのストレスが皆無だったとしても血の流れ方は変わってるし、神経系の伝達もグチャグチャになってる。血流が変わればそれまで血管の内側に張り付いていられたゴミクズが剥がれて心臓に詰まる可能性も高まる。神経系の迷走は神経障害を引き起こす確率を跳ね上げるし、余程のラッキー野郎でも無い限り色んな壁にぶち当たって長く苦しむ事になる」

 隻腕や隻眼に憧れるような厨二病というものは、早い話が現実を知らないものなのだ。手足を欠損するという事が、それだけでどれ程辛く苦しいものなのかを何も分かっていない。だからこそ厨二病はそれらに憧れるのだろう。

「ケジメ付けるっつってエンコ詰めるのとは訳が違えんだ、長生きしてえなら今の内から引退を考えておくんだな」

 その言葉に「あら」とウィリアムが口を開き、鼻で笑うようにしながら特徴的な垂れ目を歪める。

「そんな余裕この国にあるの? あたしら居なくなったらだいぶ苦しでしょ、国が回らなくなっちゃうんじゃないの?」

「知った事か」

「────え?」

 思っていた回答と全く違うアダンの言葉にウィリアムが呻くと、アダンは力強い意志の篭った眼差しで「関係無えんだよ」とウィリアムの瞳を見据えた。

「お前らが居なくなった如きで潰れるような国ならさっさと滅びゃあ良い。オレらはお前らがいきなり居なくなっても国を回せるようにしてある。そういう義務……責務があっからな」

「………………………」

「民無くして国は非ず、国無くして民は非ず。この言葉は大体どっちか片方ばっか挙げられるが、本来は持ちつ持たれつみてえな意味の言葉だとオレは思ってる」

「……………どういう事かしら。言ってる事の真意が読めないわ」

 遠回しな物言いを続けるアダンの言葉をウィリアムが急かすと、アダンは大きく舌打ちしながら電子タバコを吸い込んだ。


「オレより早く死ぬんじゃねえっつってんだよ」


「─────────え?」


 吐き出された紫煙が立ち昇る。紙巻き煙草とは重さの違う水蒸気が研究室の中に巻き上がり、空気と混ざって一気に霧散する。

「どうせペル坊も全く同じ事を言うだろうがよ………オレらは何も、捨て駒確保の為にお前らを呼んだ訳じゃ無え。呼び出した瞬間死んだっつーなら好き勝手に利用するが、お前ら別にそうじゃねえだろうが。生きてる状態でオレとお前らは出会ってんだから、なら少しでも長生きさせてやりてえって話だよ」

 気恥ずかしさから生まれた苛立ちを隠しもしない声色でぶっきらぼうに言うアダンの言葉に呆然としていたウィリアムだったが、すぐに彼の言葉の意味を汲み取ると「……ふ」と鼻で笑い口元を歪めた。

「あなた本当に不器用過ぎでしょ。何が言いたいのか全然伝わって来ないわよ?」

「長生きして欲しいって言いてえんだよぶっ殺すぞ」

「ぶっ殺しちゃダメでしょ、長生き出来ないわ」

「じゃあ黙って長生きしとけ馬鹿野郎が。………どいつもこいつも簡単に手足吹き飛ばしやがって………マジで甘く見てんじゃ無えぞ」

 ニコチンの混ざった水蒸気を吐き出しながら「……ったく」と呆れるアダンに「………世話掛けるわね」と立ち上がったウィリアム。上着のポケットにねじ込んだ紙袋を念入りに奥へと押し込み「………行くわよツユちゃん」と横のくノ一の肩に腕を回した。

 それに少しだけ体重を預けた加藤梅雨が「うむ」と唸りながら不器用にひょこひょこと歩き始める。




「………………………………」

 ごうんごうんと低く唸るような駆動音を鳴らすエレベーターカーゴの中。ウィリアム・バートンがちらりと目を向けると、小柄なくノ一の旋毛つむじが視界に入った。

「…………」

 それを無言で眺めるウィリアムだったが、やがて視線に気が付いた加藤梅雨が「………む?」と唸り頭上を見上げるよう頭を上げる。

「如何したか」

 くりくりとした丸い目で見上げる加藤梅雨がそう聞くが、ウィリアムは何も言わずその目を見下ろし続けた。エレベーターカーゴの中に設置されている強い光源のおかげで、彼女の瞳に映った自分の顔すら良く見える。

 半分以上が口布で覆い隠された加藤梅雨の顔は、しかしその瞳から意外と何を考えているか分かりやすい。

「……………良く見ると超可愛いのよね」

 綺麗な瞳でウィリアムを見上げる加藤梅雨にそんな事を言ってみればすぐさま「は?」と馬鹿を見るような表情になる。口布で顔の半分以上が隠れているにも関わらず露骨に怪訝そうな顔になった加藤梅雨に、ウィリアムは何だか少しだけ面白くなる。

「一体何を────お?」

 そんな加藤梅雨の肩口にウィリアムが手を回して引き寄せると、加藤梅雨は少しだけ呻くものの、しかし何も抵抗せずその胸元に抱き寄せられた。

「………………………珍しいな、もしやさかったか?」

 怪訝そうな顔をしながらウィリアムを見上げる加藤梅雨が小さく呟く。

「聞く所によれば、この籠は最下層から地上に向かうまでの間だけで男女のまぐわい一回分は掛かるという」

「そうね」

「拙を抱くか?」

 余りにも包み隠さないその言い方にウィリアムが「唐突ね」と小さく呟く。

 しかし加藤梅雨は「そうでも無かろう」と穏やかな表情で否定した。

「この籠の中に入ろうとした辺りから、ウィリー殿はそういう空気を纏っていた。………前世で着替えを見られた時も、拙の体を見たおのこは似たような目をしていた」

 言いながら加藤梅雨がウィリアムの手を取る。

 ウィリアムの左手………義手へと変わってしまった金属製の手を取り、加藤梅雨はそれを親指ですりすりと撫でた。

「少なくとも、これまでのウィリー殿が拙を見ていた目線とは異なる」

 その冷たい質感を生身の手で感じながら加藤梅雨が小さく呟く。感慨深そうな、しかし何も感情が篭っていなさそうな不思議な声色で喋る加藤梅雨に、ウィリアムは「どっちかなって思ってたのよ」と同じような声色で呟き返す。

「助けに来るのが遅くてキズモノにされちゃったって思うべきなのか………それともあたしが弱いせいでツユちゃんをキズモノにしちゃった、って、思うべきなのか………どっちなのかなって思ってたの」

 言いながらぎゅっと抱き寄せると、ウィリアムの胸板に手を預けた加藤梅雨が「ん」と小さく呻く。

「…………どっちだと思う? 責任取るなら、どっちが責任取るべきだと思う?」

「どっちでも良かろう」

 金属製の手がゆっくりと離れ、加藤梅雨の肩に回される。ぶっきらぼうな声色で答えながら口布をずらした加藤梅雨が、足の爪先を伸ばしながらその体に自分の体を預けていく。

「舐め合えば宜しい。二匹の狗で、互いの傷を」

「人の世は持ちつ持たれつね。………こういうのは苦手分野じゃ無かったかしら?」

 共に死線を潜り抜けた二匹の走狗。命を賭けて、命を預け合った二人の戦士が惹かれ合う事を『吊り橋効果』だなんて言葉で片付けるのは些か野暮が過ぎる。

 物事の切っ掛けに理由なんて必要無い。誰かを好きになる事も、誰かを嫌いになる事も、理由なんてわざわざ作る必要は無いのだろう。

「苦手だからと触れぬままでは永劫得意になれぬ。……そういう貴君は勃たぬのでは御座らなんだか?」

「勃たせて欲しいわね。ツユちゃんなら出来るかもよ?」

「一方的なのは好かぬ、丁寧にするなら丁寧にして貰いたいし、丁寧にされるなら丁寧にして差し上げたい。持ちつ持たれつなのだろう? …………貴方は拙に優しくして下さるか?」

 小さな背丈を懸命に伸ばす加藤梅雨に、しかし アダン・グラッドに対して直前に言った言葉が脳裏をよぎったウィリアムはら何も言わずに腰を曲げていく。

「終身雇用で決定ね。あたし部下は大事にするわよ」

「不器用だな、素直に拙の心に惚れたと言えば宜しかろうに。……………んむ、ん」

 ウィリアム・バートンも大概、感情を素直に伝えられない人間だった。



 ───────



 日本という国に古くから伝わる存在に山姥やまんばというものがある。事実上妖怪と同一視されているものの、その実態はただの人間の老婆……カニバリズムに対しての抵抗が無くなっただけの老婆である事が多い。

「……あ、っん、………く……はぁ、………っ」

 背中に何発かめり込んだ銃弾の痛みに喘ぐニチェア・グランツェは食人思想こそ強くないものの、包丁を研ぐ音の代わりに淫猥な声を発して小坊主を誘う山姥と言っても遜色無い。

「は………っあ───んん、っく」

 荒い呼吸で山の中を歩く。枯れ葉や小枝を踏み折るザクザクという小さな足音の他には、胸元にぽっかりと開いた傷口を指でにちにちと弄る音ぐらい。

「………んふ、ふふふ。………ふふふ、少し楽しいですねぇ………ぁんっ、はふ………ふふふふ」

 夜の闇に冷やされた指先を胸元の傷口に突っ込んでみると、その指先が温められると同時に冷えた指先で焼けるように痛む傷口の熱が冷めていく感じがして心地良い。

 気が付けば、血が滴る程の痛みすら快感の一つとして数えられる程に壊れてしまったニチェア・グランツェ。

 勇者としてサンスベロニア帝国に呼び出されて数日。古ぼけた教会の中で身寄りの無い子供たちを必死に保護していたニチェアは、食べるものに困って餓死した子供の死体を生のまま貪っている子供たちを目撃した事で、遂に体を売る道を選んだ。飢えに苦しんだ末、生のカニバリズムに手を出した子供たちが髄膜炎菌に苦しめられて更に死んでいくのを防ぐ為には、もうこうするしか道なんて無かったのだ。

 有権者に限らずある程度以上の支援金を「子供たちの為」に渡してくれる男を相手に、ニチェアは「夜が明けるまで体を好きにして良い」という条件を提示した。

 事に及ぶ前の時点では強い抵抗感があったが、子供たちが飢えに苦しまなくなると考えれば別に自分の体がどうなろうと何も関係無く、むしろ「どうして最初からこうしておかなかったのか」と強く後悔する気持ちすらあった。抵抗感があったのは一回目の終わりまでであり、事が済んで手元に残された大金を目の当たりにしてみれば「これで生かしてあげられる」と体を洗う事すら無く修道服を羽織るだけで足早に食べものを買いに行く程だった。

 二回目にはもう抵抗感なんて無く。三回目に至る頃には、この単調で面白味に欠ける無駄な時間を少しでも楽しもうと自ら進んで体を動かしていた程だった。

「……………はぁぁっ、あっう……。………っく、んっ」

 ぼんやりとした紫色の輝きが自身の体を包み込む。この治癒の魔法も「好きにして良い」という条件の元好き放題してくる男たちに付けられた痣や小傷を治療する為に学んだものの一つ。服を脱いで痣だらけになった体を晒した時、比較的心優しい支援者の一人が治癒魔法について話を聞かせてくれたのだ。

「ふぅ……ふっ、ぅ………ふぅ………」

 しかしニチェアは知らなかった。「好きにして良い」だなんて軽率な事を言ったものがどうなるか、そんな言葉を聞かされた男が一体どんな行為に及ぶかなんて『神を信じ続けたまま死ねた修道女』である純粋なニチェアが知る訳は無かった。

 ある時、ニチェアは自分の首を締めながら腰を振る男の目玉を抉り出してしまった。そんなつもりは微塵も無かったが、首の骨を折らんばかりの力で首を絞めるその男に対して、視界が真っ白になったニチェアが死に物狂いで藻掻いた際に指がめり込んでしまったのだ。

 自らの眼球に突き刺さった指の痛みに更に力を込める男に、まさしく神に縋り付くかのように指先を伸ばしたニチェアは、命を賭けた最高の絶頂と引き換えにショック死した男の死体を目の当たりにすると同時にその法度ルールを得た。そして同時に、神を信じ続けて死んだ身である自分を救い出す神なんて、この世界には居ない事を悟ってしまった。

 以降、ニチェア・グランツェは支援の対価として自身の豊満な体を求める男を魔法によって虜にしては金だけ奪って解き放つという事を繰り返していたが、ある時疼いてやまない体の火照りを鎮める為に身寄りの無い子供の一人を相手に強姦を決行してしまった。

 ニチェアが完全に壊れたのはその時だっただろう。自身に馬乗りにされながら犯される子供を見ていたニチェアは、大量の支援金を渡してでも自分の体を好きにしようとする男たちの気持ちが少しだけ分かると共に、どれだけ行為に及んでも何故か収まらない体の疼きに数多の子供を腹上死させてしまった。

 当然ながら自身の法度ルールを適応して生き返らせるが、体が生き返っても心は生き返らない。やがてピクリとも動かせなくなった子供を「もう要りませんね」と殺したニチェアは、その子を生き返らせる事無く別の子供を探し回るようになった。

「……………さて」

 魔法によって治療した体を見下ろしながら、あの時自分の胸元に突き立てられた苦無を弄びながら後方を見る。

 苦無の柄尻にある輪っかに指を通し、それをくるくると回して遊びながら、ニチェアは意識を集中させて暗く深い森の奥を睨み付けた。

 しかし誰かの声や気配は感じられず、近くの水辺から聞こえてくる穏やかな河音せせらぎ以外には呼吸音すら聞こえてこない。

 魔法によって生まれたぼんやりとした明かりに誘われた羽虫が如く「居たぞ」と叫ばれ追い回される事もが無い事を理解したニチェアは「……ふぅぅ」と大きく溜息を吐いて体の力を抜いた。

 その瞬間だった。


Today今日 is a good良い day日だ.」


「─────ッ!?」

 背後から掛けられた陽気な声色にニチェアが心臓を掴まれたように飛び退き、木々に引っ掛かって邪魔だからという理由で消したままだった大鎌を手元に呼び起こす。

「………………どちら様でしょう」

 全く気配を感じなかった。まるで足元から生えてきたかのようにいきなり現れたそのに向けてニチェアが務めて落ち着いた声色で問い掛けると、背の高いニチェアより更に少しだけ背の高いその影の奥からザクザクという足音が聞こえてくる。

「おいテメエいきなり消えんじゃ────お? ……おおっ、女じゃねえか。おい一人で食おうってか、ずりぃぞオレ様にも寄越せ」

 和服を着た少年のような小柄な男のうきうきとした声色に警戒心を顕にしたニチェアが少しずつ後退りして距離を取ると、その様子を見た高身長の男が「Oh!」と驚いた様子と共にニチェアへ両手のひらを見せる。

「Wait wait wait! No no no no no敵意は無いよ敵意は無い今の所は何もしないよ多分きっとMeybe! Yeah, let's trust meなんてシスターに言うべき言葉じゃなかったかHahahaでも神を信じる暇があったら僕を信じてる方が色々とお得だよ! だって実利がちゃんとある神を信仰しても得られるものは基本目に見えないが僕を信仰すれば少なくとも僕の事は見ていられるよなんてこったそいつは最高だね!」

 いやに早口で捲し立てるその男の声はだいぶ前に聞いた事がある。確かあの時は白いスーツを着ていたような気がしたが、この癖の強い早口を忘れるのは中々難しい。

「……………赤頭巾の気分ですね」

 相手の言葉に耳を傾けず少しずつ後退りするニチェアがそう言えば「どちらかと言えば森のくまさんじゃないかい?」とジェヴォーダンの獣がにこにこ笑う。

「おいジェヴォ、どうせ食うならその前にちょっとヤラせろよ。減るもんでもねえだろ」

 やがて追い付く少年のような外見をしたその男は、しかしとても少年とは思えないような言葉を吐いていた。

「まさかMr.モモがハメ倒した後の女を僕に食えっていうのかい? 減りはしないが心底不快だ結果如何いかんにもよるが中に出すとか外にぶっ掛けるとかしたら本気で殴るよ、僕は君の白いあれやこれやで汚れた肉なんて食いたくない胃もたれで済まないだろうからな」

「旨味が増えるだろ。良い出汁取れるんじゃねえか?」

「お前は野糞とファックしてろ」

 ジェヴォーダンの言葉に少年がけらけらと笑う。特徴的な二本の角は夜の闇の中でもしっかりとニチェアの瞳に映り、害意を隠しもしない彼の物言いにニチェアは本気で嫌気が差したような気がした。

「………………男性はみんな、そんな事ばかり言いますね」

 ここに来る前、自分の事を追い掛けてきた兵士たちをやり過ごす際に数人が言っていた。息を潜めて姿を隠すニチェアに気が付かない無能な兵士たちは「しょっぴく前に一発二発はヤれるだろ」だなんて事を言っていた。反吐が出そうな言葉に殺意が湧いたが、しかしニチェアは抜き取った苦無を握り締めながら心を刃で押さえ付け、忍びの心を真似て懸命に耐えた。

 が、そう何度も耐えられる事では無い。そんな言われように対して、そう何度も微笑んでいられる程、ニチェアは出来た女では無い。

「そういう女はいつだって男の意見に否定的だな。何から何までキャンキャン反発しては女にも権利がどうたらこうたら騒ぎやがる」

「男尊女卑も黒人差別もナチスドイツも………私としてはどれも似たようなものですよ、過去に虐げられ辛酸を舐めさせられたものたちは虎視眈々といった所ですからね。騒がれたくなければ隙を晒さなければ宜しいのです。最も、過去に起こした『事実』という『隙』は消えませんが」

「コクジンってのも横文字もオレ様には分かんねえがよ、人間の女が劣等種なのは揺るがねえだろうが。犬や猫のメスオスよりも体がデケえがお前ら人間はチビばっかだとは思わねえか?」

「……アジアのショーティークソチビはどうしてこうも口ばかり達者なんでしょうか。他国籍の男性と違って「何となく」で学校に通い「何となく」で卒業、その後特に起業する訳でも店を構える訳でも無く「何となく」で社畜として使い倒されるアジアの短小チビは、その割に態度だけは世界で最もデカいんですよね」

「オレ様をその辺の糞袋と同一視してんじゃねえ肉便器。その口に糞尿突っ込んで黙らせてやろうか?」

「悪くない選択かもしれませんよ、その方が良い悲鳴を上げるでしょうから。硬さだけが取り柄のゴボウのような短小粗チンでは呻くぐらいが精々です、挿入はいってるんだか挿入はいって無いんだが分かりませんからね」

 前時代的な思想の強い純粋な鬼である百鬼童子の物言いに、ニチェアが何一つ臆する事無く言い返す。

 しかし今にも殺し合いかねないそんな空気にジェヴォーダンが「待て待て待て!」と慌てた様子で仲裁に入った。

「Wait! 待ってくれ頼むから待ってくれうちのバカモモが調子に乗っているようで済まない後で良く角をへし折っておくから許してくれ! あとアジア人で最も態度がデカいのはコリアンだがモモはメイドインジャパンだ勘違いしないで欲しいニダHahahahaha!」

 本人的には小粋なジョークで場を和ませたつもりだった。ここがステージの上であればオーディエンスが一気に沸いて、果てし無く嘘臭い茶番のような笑い声が会場内を包んでいただろう。

 しかしニチェアはそんな寒いトークを飛ばすエンターテイナーには見向きもせず「そもそも」とジェヴォーダンを完全にシカトして百鬼童子を睨み続ける。

「人間は男性よりも女性の方が無様にブクブクと太りやすい傾向にあります、出産や育児の為にかなりの体力を消耗しますからね。お互い同じ食生活をしていても妻の方が肉ダルマになりがちなのはそういう事なんですよ、体を大きくして子を守る必要がありますからね」

 言いながら膝を軽く曲げて臨戦態勢に入るニチェア・グランツェ。

 その様子に百鬼童子が何か言うよりも早く、ジェヴォーダンは大きく溜息を吐いてやれやれとかぶらを振った。

「……ああもうクソモモがデリケートな話題に変えるからご機嫌損ねてしまったじゃないかこのクソッ!」

 そう言ったジェヴォーダンが横に向かってフック気味なジャブを放つと、それは牙を剥いて苛立ちを顕にしていた百鬼童子の顎に命中する。まさか隣から拳が飛んでくるなんて思いもしていなかった百鬼童子が、ポコーンと音が鳴りそうな程見事に顎先を弾かれ「ぉうんぇ」という謎の呻きと共にぐらりと仰向けに倒れる。

 かと思えば背後から唐突に現れた肉女が「恐くないですよ、怖くないですよ」と呟きながら百鬼童子を鷲掴み、肩の辺りに背負うようにしながら何事も無かったように夜の闇の中に消えていく。

 それを尻目に「では仕切り直しだ」と向き直ると、


Today今日 is a good良い day日だ.」


「────ッ!」

 と、数分前と同じ台詞を繰り返したジェヴォーダンの姿が掻き消えた。そこからやり直すんですかとツッコミを入れようとしていたニチェアが目の前からいきなり消えた男に体を強張らせれば、同じように・・・・・背後から強い威圧感のような気配がする。

Freeze動くな.」

 反射的に振り向こうとしたニチェアの頬にひんやりとしたジェヴォーダンの手が当てられる。

「いや動きたければ動いて構わない。だがもう面倒臭いからね、変に動けば殺すよ。君にも一応の選択肢は与えてあげよう好きにしたまえ」

 背中側からまるで挟み込むかのように添えられたその手がすりすりとニチェアの頬を撫で回し、唇、喉を通って────穴の空いた胸元に向かっていく。

「………………真の獣は貴方でしたか」

 穴の空いた修道服の胸元からジェヴォーダンの指が入り込み、ニチェアが苛立ちの混ざった声色で呟いた。しかしジェヴォーダンの動きは止まらず、完全に服の中に手を差し込んだ彼が小さな声で「Wowノーブラだ」と驚いた。

「交渉をしよう」

 ニチェアの豊かな左胸を楽しげに揉むジェヴォーダン。しかし彼の手付きは本当に感触を楽しんでいるだけのものであり、意図しているのかそうでないのか、ニチェアの胸部の突起には全く触れない。

 故にニチェアは何一つ喘ぎ声を出すような事は無かった。媚薬を盛られた訳でも無し、胸を揉まれただけで喘ぐ程ニチェアはエンターテイナーでは無かった。

「君が断れば僕は晩御飯を食べて風呂に入って寝る。その場合の夕食はイノシシ肉をブルー未加熱で食べる予定だ」

 その指先がニチェアの胸元から少し離れ、切り傷と刺し傷が混在していた部分をくるくると撫で回す。むしろそちらの動きの方が、胸を揉まれた時よりよっぽどゾクゾクと背筋をあわ立たせてくれる。

「は……ぁ………。………交渉でも、な、何でも無いでしょう。あっ、あ……、圧迫面接という奴ですか………?」

「いいや交渉だよ。サムおじさんはこうやって世界から争いを無くし、世界中の子供たちにサンタクロースが如くナパーム弾を振り撒きながら平和をもたらしてくれるんだ」

 指先が腹部を通って下がっていくに連れ、ニチェアの声色が落ち着きを取り戻していく。そのまま指先が下半身に向かいまさぐられるものだとばかり思っていたニチェアだったが、しかし自分のヘソに引っ掛かって動きを止めたジェヴォーダンの「ズボンヌ。……ぐりぐり」という謎の擬音により、彼が性愛に興味を持たない………或いは子供のような無邪気さが強い存在である事を理解した。

 それと同時に妙な感情が胸の奥に湧き出てくるのを感じる。弄り過ぎて腹が痛くならない程度の、くすぐったくなって笑いそうで、でも笑わない絶妙な力加減でヘソ周りを弄るジェヴォーダンはさながら甘噛みしながら甘える獣のようで。

 そんな動きに焦れたニチェアが口を開き掛ければ、完全にタイミングを見計らったかのように「では交渉だ」とニチェアのヘソで遊びながら呟いた。

「こちらは魔法使いが欲しい。うちのパーティはファイタータンクアサシンの三種類が居るが、誰一人として回復魔法が使えなくてね。発想力が足りなかったのか手抜きなのかアーモンドウォーターを飲むだけで大体何でも解決出来てしまう便利な世界では無い以上、僕たちにはヒーラー………もっと言うなら全員無傷でやる事が無い時でも攻撃魔法で援護が出来ちゃうような万能系メイジが欲しい」

 言いながら指先がヘソから離れる。かと思えば再び腹部を通って上へ登ってきて、今度はニチェアの乳輪をくるくると指で撫で回す。

 しかしそれはほんの少しの事で、ニチェアが僅かな快感に背筋を震わせれば逃げるように離れていってしまう。

「対価は衣食と魔法のお勉強に使う教材の提供。因みに君の玩具代・・・も、衣食の食の中に含めているよ」

 するりと逃げた指先。切り裂かれた修道服の胸元から手を離したジェヴォーダンは、ニチェアの下腹部をとんとんと指先で叩きながら「欲しくなったら探して来てあげよう」と優しげな声色で呟く。

「…………私が逃げたら?」

「僕が悔しがるだけだよ。餌やルアーだけ持っていかれた釣り人のように「今の数メートルはあったぞ」と吹聴しながら悔しがるだけさ」

「それは────」

「ただし釣り人は魚を逃した悔しさから銃を取り出してしまうだろう。自分の釣り竿では釣れない事を理解したその釣り人は、次見付けた時は釣り竿では無く手元のリボルバーで魚を撃ち殺してしまえば良いというNoob trapに引っ掛かってしまう事だろう」

「……………なるほど」

 ジェヴォーダンの遠回しな言い回し、それをニチェアはすぐに理解した。逃げたければ逃げれば良い、しかし逃げた後再びどこかで相見あいまみえれば即座に殺すぞと、ジェヴォーダンはそう言っているのだろう。

 そこまで考え至って、だがニチェアの考えはもう決まっていた。そも考える間でも無い、彼は『交渉』だと言っていたが、こんなものを交渉と呼べる程ニチェアはお人好しでは無かった。

 選択肢は無い。仮にこの獣が自身の胸元から手を離したとしても変わらず、それこそ互いにテーブルを挟み自分と向かい合って椅子に座っていたとしても、この獣はある程度以内の距離であれば秒も掛からず自分の首を刎ねる事が出来るだろう。そうなってしまえば肺から空気を吐き出せなくなり声帯を震わせ法度ルールを宣言する事が出来なくなる。

 だが、と少しだけ考えたニチェアは、その言葉を口にするのに僅かながら躊躇いがあった。

「質問なのですが」

「Oh! 良いよどんな内容でも相談に乗っ────Shit待ってくれもう一回言ってくれ」

「は?」

「質問し直してくれ。最初からだ」

「………はあ。……質問、なのですが?」

Oh相談! ………どうだい? 最高にイカしたダジャレが言えた自信があるよ抱腹絶倒しちゃうかい?」

Nonsenseマジ有り得ねえ

「音楽性が違うようだね素直にヘコむ」

 言いながら自分の背中に抱き着いて項垂れるジェヴォーダンの獣から伝わってくる体重に、ニチェアの背中が温かくなってくる。

「……………ん、ん」

 と、ジェヴォーダンが自身の体に手を回してくる。右手は豊かな胸にそっと当てられ、左手は腹部の辺りに添えられる。「……で? 質問とは何だい」と耳元で囁く獣は、もしかせずとも、自分が何を言おうとしているのか分かっているかもしれない。

「…………この場合は終身雇用、という事になるんでしょうか」

「雇用契約書は無いけど、僕はそのつもりだよ」

 悪戯っぽく言うジェヴォーダン。言いたい事が、言わんとしている事が、言わずもがな伝わりながらも、けれど敢えてそれには触れずに言わせてくれるこういう会話が、ニチェアにはどうにもこうにも心地良く感じられて、

 神に捨てられた修道女。神を信じ続けて死んだその修道女は、死後の世界で神に見放されてしまった。

 だが捨てる神あれば拾う神ありとは良く言ったもので。

 神に捨てられた人間を拾い上げたに、ニチェアが心底から惹かれ始めてしまうのは自明の理。神という概念を信じ続け、見放された今も尚それに気が付かずに信仰し続けているニチェア・グランツェは、自らの事を必要だと求めるジェヴォーダンの獣に対してまるで一目惚れのような気持ちを感じていた。


「契約書が無いんですか? ………だとすると信用なりませんね」

「僕は獣であり悪魔では無いから契約を交わす事自体に意味は無い。だが僕は嘘が嫌いだからね、嘘を吐いたものに対して裁きを下す際自分を正当化する為の理由付けは確かに欲しい」

「私もですよ。事実上貴方の所有物となるのであれば、貴方を見捨てず見放さず付き従う理由が欲しいのです」

「おっとそうなると契約書は必要だね。………困ったな────何か契約書の代わりに判子キスを交わせるものはあるかな?」


 かつて教会で自分がしていた事……救いを求めて、心の安寧を願った子羊たちとの会話が、自分にとってどれだけ癒やしだったのかを自覚したニチェア・グランツェは、


「……………こちらに御座いますよ」


 肉欲の宴に踊り狂いながらも、しかし頑なに明け渡さなかった自らの唇をジェヴォーダンに向ける。

 にんまりと笑う獣を前に、愚かしくも堕ちた勇者は瞳を閉じて、


「………たまには私の事も可愛がって下さいね」

「道具の手入れは怠らないよ。道具肉奴隷を手入れする道具性器は無いが、手ずから丁寧にメンテナンスをしてあげよう」


 行き生き場に困った堕ちた聖職者は、神にすら捧げなかったファーストキスを、遂に暴食の獣に明け渡してしまった。

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