7-4話【死が罪であるならば】
正直な所、ウィリアム・バートンは物覚えが良い部類では無い。
長期記憶に関しては精緻化リハーサルが人より良い仕事をしてくれているのでかかり昔の事までしっかりと思い出せるが、こと短期記憶は苦手分野と言わざるを得ない。
「右二百、下二百五十六、左六十三よ。今でも思い出せるわ」
セーブデータを破壊しかねない代わりに対人戦て容易に友達を失える強キャラを捕まえられそうな暗号を口にしたウィリアムがそう言うが、当然ながら加藤梅雨にそれが何の数字なのかは分かるはずが無い。気配を完全に消し、存在感すらもを断ち切った加藤梅雨が黙ったままでウィリアムを見守りながら進んで行けば、やがて辿り着くのはサンスベロニア帝国に唯一存在している大きな教会。
神を信仰していないウィリアムは、それでも仏教周りに関しての作法であればかなり簡単に思い出せる。正規のパスポートが作れなかったウィリアムは何処の国に行くにしても常に不法入国ばかりだったが、それでも暇潰し感覚で日本に遊びに行った際には様々な寺を山ほど回っては「
作法に関してはその折に学んだ。寺に良くある手洗い場での洗い方すらしっかりと決まっているという話を聞いたウィリアムは、寺の住職から聞いたその作法を今でもしっかり思い出せる。
まず置かれている柄杓を持ちそれに水を汲む。左手を洗い、持ち直して右手を洗い、再び持ち直して左手に水を軽く汲んで口元を洗い、左手を洗い流し、水を汲んだままで柄杓を持ち上げ柄と手を同時に洗い流してそれで終わりという一連の流れは、今もしっかり思い出せる。その時に坊主が「守らなくても何ら構いませんけどね」と言っていた事だって、不思議と全て覚えている。
宗教に関わっている関係から数多の経費に税金が付かない事で相当豊かな生活をしている事が
ただし「口元を洗う」時に「口に含んでゆすぐ」のだけは宜しく無い。時代が時代であれば「
「寺のやり方は大体覚えたけど神社のあれこれはかなり飛んだわ。何でなのかしら」
二拍一拝一礼だったか、二拍二拝一礼だったか……あの動きはどちらも語感が似通っていて覚え難いし、そこに神社
「………教会とか───っく、………ロクなイメージ無いのよねっ」
いやに重たい大扉に肩を押し付け「試っ──試しのっ、門かよっ」と四苦八苦しながら押し開く。加藤梅雨は既に裏手に回って拉致の疑いが強い少年を探し始めているだろうから、この大扉はウィリアムが一人で開けなくてはならない。
「……………ふぅ……全く荘厳ねぇ、ステンドグラスが良い味出してるじゃないの。これでレポティ◯ツァが出て来たらかなり
大扉を開けばすぐ視界に入る礼拝堂。磔にされたキリスト像や聖母像は無いが、横並びになった石製の長椅子が幾つか並び、そこから目線を外して天井を見れば、天井にはしっかりと『最後の晩餐』が描かれ、壁と天井の間辺りに
………日本の寺や神社と違って自由気ままに中に入れる仕様には好感が持てるが、敬虔さのけの字も無い筋金入りの無神論者であるウィリアム・バートンからすれば、面白味に欠けるこの手の教会は来た所で何も観光するような場所が無く眠くなるだけである。
「これあれでしょ? 懺悔室の穴にち◯こ突っ込むとシスターがフ◯ラしてくれるんでしょ? もしくは懺悔を理由に拝み倒せば折れたシスターがその穴におま◯こ押し当ててくれてさ、「卑賤な身ながら私の穴をお使い下さい」とか何かそんな感じの事言ってくれるんでしょ?」
道徳性なんて母の子宮内に胎盤と一緒に置いてきたウィリアム・バートンがそんなような事を言えば、礼拝堂の奥から凛とした声色で「しませんよ」と否定が飛んでくる。
「教会は罪を償う祈りの場ですから、そういった行為を行うお店ではありません。性病の治療代を支払いながら風俗店で遊んでいる方がその時は幸せでしょう」
「施設であって店じゃないからお金の要らないフリースポットって話じゃないの? 懺悔を理由にしてりゃタダ抜きタダマンさせてくれる最高の場所、に思えて結局
オレンジ色の陽光にキラキラと輝くステンドグラスに照らされたシスター───ニチェア・グランツェが「そも我々は神と
背の高い修道女。丈の長い修道服に身を包みながらも、隠し切れない妙な色香を醸し出したニチェアが口元に手を当ててころころと笑うと、ウィリアムが「設定でしょそれ。厨二病が自分の能力考えるようなもんでしょ」と問い掛ける。
「規律だか戒律だかを破って処女膜破ったら、そのシスターは一体どうなっちゃうのかしら」
「いわゆる破門ですよ。神と婚約を交わしている身にも関わらず別の相手と事を致したとなれば、判定としては浮気になりますから。教会を追われ、神の怒りを買い天罰が下るその時まで怯えながら生きるのです」
右手で持った大鎌を揺らしながら言うニチェアの回答に「そう」とウィリアムは何でも無い事のような相槌を打つ。
「なら貴女はもうシスターとは呼べないわね」
「もしそうであったとして、それでも私はこの場を守る身なれば。やすやすと立ち去る訳にはいきませんよ」
柔和でありながら妖艶に微笑む口元に反し、しかしニチェアの双眸には力強く確固たる意志に煌めいていた。声色だって以前少しだけ交わした時と何ら変わらないが、刃を下げた大鎌の柄を握る右手には妙に力が篭っているように見受けられる。
「そう」
その姿を見て、だがウィリアムは特に何も変わらぬ声色で再び同じ相槌を打ち、上着の内側に入れていた二丁のハンドガンを取り出す。
セーフティが掛かったままのそのトリガーに人差し指を通し両手を前に突き出したウィリアムは、今にもくるくるとガンアクションを行いそうな体勢のままでだらりと垂らしたまま動かない。
その様子を見たニチェアが「あら」と驚いた様子で少しだけ目を開く。
「ウィリアムさんは二丁拳銃使いだったのですか。実用性はさておくとして、銃を二つ構えるというのは格好良いですよね。もしかしてウィリアムさんは───」
「その名前で呼ぶんじゃねえ」
ニチェアの言葉にウィリアムが目を細める。普段のオネエ口調が無くなったウィリアムの、苛立ちを隠しもしないその言葉にニチェアが思わず息を呑む。
「勘違いしないでよね、別に名前を捨てた訳じゃないわ。
ハンドガンのトリガーガードに人差し指を引っ掛けゆらゆらと動かすウィリアムは、それをテンポ良く前後に振りながら「ニチェアの国には黙字の概念無かったかしら?」と問い掛ける。
その問いに答えようとニチェアが口を動かすのに合わせ、ウィリアムは瞳孔一つ動かさず、ゆらゆらと振ったハンドガンのセーフティを外し、
「黙字の概念は私の祖国にも─────」
まだ喋っている途中のニチェアに銃口を向け、何一つ躊躇い無く即座ににその引き金を引いた。
一般的に使用されている9mm弾頭よりも更に小さな6mmの弾頭が、少ない火薬の爆ぜるパンッという乾いた音と共にマズルから飛び出す。螺旋状に回転しながら推進力を増した弾頭は雑過ぎる撃ち方をしていた割に、まるで両手で持ってしっかりと狙い澄ましたかのようにニチェアの額にめり込んで見えなくなる。何一つ血飛沫も無く額にめり込んだその鉛弾は、しかし螺旋状に回転している為ニチェアの脳髄を引っ掻き回し、脳内でそのまま停止した。
「────────────」
額に真っ黒な点を描かれたように見えるニチェア・グランツェ。その額からどろりと赤黒い液体が垂れ出し眉間を伝い落ちる頃、ニチェアの体がぐらりと傾き仰向けにどさりと倒れる。それに続き、支えを失った大鎌がニチェアに続いてガランと鳴った。
「………どんな国に住んでたとしてもね、相手の名前は相手が自己紹介で名乗るまで呼ばない方が良いわよ」
セーフティを掛け直したハンドガンを軽く振り、銃身内に残留している硝煙を払う。その後それを上着のポケットに仕舞い、ステンドグラス越しに射し込むオレンジ色の夕陽を頼りに吹き飛んだ薬莢を探そうと腰を曲げたウィリアムは、
「───主は
「………ッ!?」
脳天に6mm弾を直撃したにも関わらず、むくりと起き上がったニチェアの声に目を見開いて飛び退った。
とにかく距離を取ろうと後ろ歩きで後退るが、しかしウィリアムが開いていたはずの大扉はいつの間にか勝手に閉ざされており………ウィリアムはどすんと背中をぶつけながらもすぐに仕舞ったばかりのハンドガンを取り出しセーフティを解除する。
「……そう、ですね───っ、あぁ……名前のどの部分が黙字なのかは………自己紹介をなさる時に聞いてみなければ分かりませんからね………」
喉を慣らすように呻くニチェアが大鎌の柄を支えに体を起こす。顔を覆うように自身の手を額にかざしたニチェアの手が桃色に近い紫色の淡い輝きに包まれると、額に出来た黒点のような穴から何かがつるりと抜け出してくる。
「ん、っく………あぁ……はぁぁ…………」
直前に撃ち込まれた鉛の弾頭、それを引き出す時の痛みにニチェアが強く呻く。妙な淫猥さのあるその呻きに、普段のウィリアムであれば何かしらボケを投げていただろうが、けれど当然ながら今のウィリアムにそんな軽口を言う心的余裕は無かった。
「ニホンでも……そうですよね………。翼が生まれると書いてあっても、『
「………………………タクゾウ・カドノが言ってたわね。とある女性が名前を広めてくれるまで、カクノって呼ばれたりスミノって呼ばれたりしてイライラしてたって」
「ええ、まさしく」
額に当てた手の淡い発光が小さくなる。杖のように使っていた大鎌をガリガリ鳴らしながら軽く引きずり、ニチェアが額に当てていた手を軽く払う。
………やがて静かな礼拝堂の中にチャリンと音が鳴った。小さなコインを落とした時に鳴るようなその音は、家具が殆ど無い割に天井の広い礼拝堂を何度も往復しながら反響する。
それは紛う事無き6mmの弾頭。不意を打ったウィリアムが発砲したハンドガンから飛び出た鉛の弾。
────ニチェア・グランツェの脳を掻き乱したはずの弾頭だった。
倒れた際に多少ズレた修道帽を整えなら「……はぁ」と甘い吐息を漏らしたニチェアが「では改めて、ですね」と、いつに無く真面目な表情をしたウィリアムに向き直る。
「ニチェア・グランツェと申します。洗礼名はマールですが、お好きな呼び方でお呼び下さい。…………して、貴方のお名前は?」
「………………………ウィリアム・バートンよ。ウィリーって呼んでちょうだい」
努めて普通に喋ったその声は、自分でも笑ってしまう程に絞り出すような声になってしまった。口元に手を当ててくすくすと上品に笑うニチェアが「ウィリーさんのお名前、
「………今のは
少し咳き込むようにして喉を慣らしたウィリアムが「確実にヘッドショット決めたような気がしたんだけど」と付け足しながら問うと、特に隠すような気は無いのかニチェアは「両方ですね」と大鎌を持ち上げる。
「『範囲内の死を赦す』という
刃を下げた大鎌。刃先から石突きまでの長さだけで背の高いニチェアの背丈を超えているそれを、片手で軽々と持ち上げた彼女が器用にぐるんぐるんと振り回す。トワリングバトンでも回しているかのようにそれを回転させたニチェアが「便利な世界ですよね」と淫靡に笑う。
「
罪とは贖罪の果てに赦されるもの。どんな重罪であっても、長い月日か或いは死を以て償い、いつかは赦されるもの。
であるならば死んだものも、いつか、どこか、何かのタイミングで赦されなくてはならない。
死が赦される。
それはつまり生き返るという事。
輪廻転生の概念は仏教の教えだが………
でなければ罪と罰に対し、筋が通らない。
大鎌の刃先、先端が長く伸びた方では無く、逆の刃が短い方を軸にぐるぐると回転させながら「私に頼れば誰でも簡単に仙人気分になれるなんて、死神が聞いたら発狂してしまいそうな話ですね」と楽しそうに笑いながら、回転させている大鎌の柄に足を掛けてその回転を止める。
「ふふふふ…………どうです? 様になっていると良いのですが、似合っていますか? 小悪魔っぽく見えますか?」
逆さまに持った大鎌の刃を黒いパンプスで軽く踏みながらポーズを決めるニチェアに「………悪魔の翼でも生えてりゃパーペキだったわ」と答えれば、言われたニチェアは「そんなものを生やしては本当に悪魔になったようじゃありませんか」と構えた体を崩す。
「────────」
その瞬間を狙って、ウィリアムが二発目の弾丸を発射した。直前に聞いたものと同じパンッという乾いた安っぽい銃声と共に空気を切り裂いた弾丸は、
「二度も赦しません」
しかしニチェアの持つ大鎌の細長い柄によって射線を反らされ、礼拝堂の壁にビスッと音を立ててめり込んだ。
「何でよまだ二度目じゃない。仏の顔は三度までじゃないのかしら」
「神と仏は別物ですよ。そして何より、私は神になった気にはなっても神になった訳ではありませんからね。愚行を二度も赦す程、優しくはありませんよ」
「器が小さいわね、ア◯ルもキツキツなのかしら」
「ええ、キツキツでしたよ。過去形ですがね。ウィリーさんは惜しくも、私のキツキツなお尻を逃してしまいましたね」
「惜しくは無いわ。だって貴女死んでも生き返れるんでしょ? なら幾らでも死姦出来るじゃない、無限デスアクメだなんて最高の物件を見付けちゃったわね」
徐々にいつもの調子を取り戻してきたウィリアムが「首吊りスカルファックしてま◯こ裂けても治せる訳でしょ? マジ最高ね」と軽口を回し始めるが、その言葉に「それは出来ませんね」とニチェアは首を振った。
「私の
ウィリアムの不意打ちを警戒してか、大鎌の柄を自身の前に置いた体勢のままそう言うニチェアに「ふうん?」と鼻を鳴らす。
「ですので仮にウィリーさんに死姦されたとして、ウィリーさんがお果てになる頃には私は完全に死んでいます。スカルファックに至ってはそもそも入りません、私はそこまで拡張されていませんから」
「首絞めセックスしながら徐々に昂って、イキながらへし折っちゃうのはセーフ?」
「ええ。支援者の方にはそう言った行為を求める方もいらっしゃいましたよ。とはいえ時折早い段階から私を殺そうとして来る事もありますので、そういった時は罰を与える事になりますけどね」
何食わぬ顔でそう語るニチェアに、ウィリアムは思わず鼻を鳴らした。構えた両腕から力を抜き、それまでしていたようにトリガーガードに指を通したウィリアムが無意識でセーフティを掛けながら「何か居た気がするわねぇ……」と二丁のハンドガンをゆらゆらと弄ぶ。
「首が落ちても意識があるかについて自分の身で検証した博士、何か居なかったっけ。特に罪に問われた訳でも無いのに自らギロチンで自殺した研究者、居なかったっけ」
「ああ、居ましたね。予め助手に伝えておいたアイサインや口の動きを首が落ちてから行う事で、首が飛んで以降の意識の有無や痛みの有無、どれだけ意識が続くかを自己検証なさった方。………流石にお名前は失念してしまいました」
直前に一度殺されたとは思えぬニチェアの言葉にウィリアムが大きな溜息を吐く。
………今のウィリアム・バートンはサンスベロニア帝国の総帥、ペルチェ・シェパード御自らより勅命を受けている。たまにしか見せないキリッとした王の顔をしたペルチェからのその勅命は、曰く「愚かな勇者の息の根を止めて来い」との事で。
その命令を完遂するには、目の前に居るニチェア・グランツェを殺さなければならない。………もっと深く言うならば、死んでも即座に生き返る女を『声を出せない状態』にしてから殺さなければならない。
その為には多かれ少なかれ、戦闘を乗り越える必要がある。隠れる所なんて殆ど無い礼拝堂の中で、不意打ちが通用し難い────ハンドガンの発砲を目で見てから防御出来るような人の枠を飛び越えた
溜息が止まらない。頭が痛い。閃輝暗点でも無いのに、ステンドグラス越しに射し込む夕陽に脳をやられた気分だった。
………ウィリアム・バートンは『餃子』と名付けた二振りの魔改造ダガーナイフを持ってはいるが、実際の所直接戦闘……いわゆる近接戦闘はかなり苦手意識が強い。剣戟を交わし火花を飛ばし合うような戦闘は「刃こぼれって知ってる?」と心底から嫌っており、端から見る分には良いが間違っても自分がしたいとは到底思わない。
ウィリアムは口径の調和を取る必要は当然ながら、そもそも弾切れを起こさない刃物が好きであり、その中でも「ただ移動するだけで邪魔になり得る刀剣」では無く片手サイズのダガーナイフを選んでいるだけなのだ。それを時にはボクシングが如く殴るように扱っても効果のあるように改造し、それを刀身の歪みが起こり難い形状へ更に改造を追加した結果出来たのが『餃子』というだけであり、ウィリアム自身の立ち回りは
だからこそ過去には『首狩りウィリー』と呼ばれ、数多の戦場を銃火器の持ち込み無しで生き残って来た。
だからこそ溜息が止まらない。だからこそ頭が痛い。
「……………大鎌ってロマン武器じゃなかったかしら。デスサイズって書いて鉄屑ってルビ振るって聞いてたんだけどね」
近接武器を使用してのカチ合いを不得手とするウィリアムの眼前に立つのは、
「武器という目線で見た際、ここまで扱い難いゴミも中々無いと思ってしまう程、これは見た目だけのロマン武器ですよ」
「その割には余裕そうじゃない」
呆れ混じり……というよりは嫌気が差しまくったような声色のウィリアムに「ふふふ」と笑ったニチェアが「私はこれを鎌として扱いませんからね」と高速回転させていたそれをビタリと止める。
「私は荒事を行うようになって日が浅いですからね。基本は魔法と呼ばれる奇跡を軸に立ち回るようにしています」
ニチェアのその言葉にウィリアムが少しだけ目を細める。脳裏に浮かぶのは直前に使用していた治癒の魔法と思しきパープルピンクの淡い輝き。
……そして、少し前に『澱様』に会いに行った時の事を思い出す。澱様を制御するチャラい口調のボインなメカクレシスター。彼女があの時に言っていた言葉が脳裏をよぎった。
────生粋の悪人……もしくは天地万物を知り尽くしたとかってレベルの魔法使いさんでも無い限り、異世界人がこの世界で異能力を使おうとすると体が耐えられなくなるんすよ。
あの時あの女、ベルナルディーノ・ヴェンティセイはそう言っていた。この世界の魔力は濁り切っていて、言うなれば『破滅色の魔力』であると。
しかしニチェア・グランツェはついさっきその破滅色の魔力とやらを使用して、自身の脳天にめり込んだ鉛弾を取り除き、額に出来た丸い穴を塞ぎ、音を超えた際に生まれる小さな真空波に掻き回された脳髄を元の状態に治した。
それは詰まる所、ニチェア・グランツェは破滅色の魔力に対応しているという事に他ならない。彼女はもう生粋の悪人に堕ちてしまっているのだと、魔力を扱ったその指先が証明してしまっていた。
「私はこの鎌を鎌として扱わず、斧として扱っています」
そう言いながら大鎌の峰に当たる部分を礼拝堂の床にコツンと当てるニチェア。「この方が振りやすいですから」と言ったニチェアがクッと腕を引くと、緩やかに反った大鎌の長い刃が空気を切り裂く音が鳴る。
かと思えばそれを即座に返し、下げた長い刃の先端をウィリアムに向けた状態に戻す。
「…………めんどくさ」
思わずそんな言葉が漏れてしまった。
どう考えてもどう見てもメイン武器にしか見えないその大鎌は、しかしその実カウンター用のサブ武器だとニチェアは言う。
基本は魔法での立ち回りを行い、相手が肉薄してくれば斧として扱い相手を迎撃する。しかしそれを聞いて単に「攻撃掻い潜って入り込めば良い」という話にはならない。恐らく……いや確実に、そんな事をすれば真っ二つにされるだろう。
まだ見てもいないニチェアの魔法とやらを回避し、斧として扱っているというその大鎌をすり抜ける事は簡単かもしれない。少なくともウィリアムにはそれぐらいは何とか出来るだろうという自信があった。
しかし実際にそれを行動に移せば次の瞬間には自分が背後から真っ二つに両断される。その時に首を斬り落とす事が出来なければ、血反吐に咳き込んだニチェアが治癒魔法か何かを使いながら喉を治し
それは本来大鎌の短所であり、大鎌がゴミ武器と呼ばれる最たる所以。
大鎌という武器はただ振り回すだけでは相手を傷付ける事すら難しい。円柱状の柄は大きく歪な形状の穂先に振られて握った手の中で回転してしまいやすく、間違っても上から振り下ろそうものなら柄に滑り止め加工を施しゴム手袋を着けた上で、ゴム手袋をギュムギュムと絡ませながら穂先がズレて回転してしまう程に扱い難い。
故に大鎌は下段に構え、相手の足元から刃先が
そしてそれすらもただ鎌を引くだけではいけない。それでは相手の腰に刃が押し当てられ、皮膚と筋肉を少し怪我するだけで終わってしまうからだ。刃が相手の体を滑るよう斜め後ろに引いて、そこでやっと大鎌は刃物としての役割を果たせるようになる訳だ。
だがニチェア・グランツェはそのデメリットを誤魔化した立ち回りをする。
基本的には魔法による中から遠距離での戦闘を軸にし、近距離での接近戦を求めてきた相手に対して峰打ちのような感覚で逆向きに大鎌を振るうか、或いは下から突き上げるように振るう。それを避けて相手が更に入り込むという事は、大鎌とニチェアの間に自ら入り込まなければならないという事。その際よ大鎌は大体が刃先を上に向けている状態……そんな所に入り込めば、ニチェアは柄で相手の攻撃を誤魔化しながら軽く引き切りを行うだけで足や股間を斬り捨てる事が出来る。
つまり、本来大鎌の短所であった『振って柄を相手の体に激突させてから引いて斬る』という無駄な行程を省ける上、攻撃後であるにも関わらず常に刃先が下から上を向いている状態を維持する事が出来る。
最下段から飛んでくる刺突……それがどれだけ面倒臭いかは、ある程度武道に関わった事があるものでならすぐに分かる。
「………まさかそんなクソデカい獲物をカウンター用に使うとはね。効率悪くない? 最悪でしょ」
拳で殴り合う程の至近距離に入り込んだ相手は、こちらの攻撃を柄で誤魔化しながら距離を取って逃げようとするニチェアに一瞬でも反応が遅れた場合、股下か背中に担いでしまった内向きの刃に両断されてしまうのだ。
逃げたがるニチェアを追い掛けるなら追い続けなければならない。手を取り合いタンゴか何かを踊るようにニチェアとの距離を離さず追い掛け続けなければ、ニチェアを追い続ける相手を更に追い掛け続ける大鎌に裂かれてしまう。
更に、ニチェアに出来る事は逃げるだけでは無い。片手で大鎌を扱えるような筋力を得たニチェアは、反対の手で魔法を扱う事だって可能だし、何なら逃げる素振りを見せながらドロップキックのように相手の腹を蹴ればそのまま足裏と大鎌に挟まれた相手は力任せに背骨を傷付けられてしまう。
「面白い立ち回りでしょう? 我ながら上手く出来たと思います。花丸ですね」
ニチェアがくすくすと笑う。さっきから余裕に満ち溢れているのは、遠近両用の立ち回りが行える絶対の自信と、『死という罪を赦す』とかいうインチキみたいな
「…………………」
ウィリアムがちらりと顔を動かす。ニチェアを視界に入れたまま、礼拝堂の奥の方にある扉を見る。
その扉が開かれるような事は当然無い。加藤梅雨に託した任務は『恋人石を持っていた子供の救出』だけだったが、これだけ喋って時間稼ぎをしたにも関わらず加藤梅雨がウィリアムの援護に戻って来ないという事は、加藤梅雨にも何かしらのアクシデントが起こっていると見て間違いないだろう。
「はぁ…………だっる」
恐らく魔法によって勝手に閉ざされた背後の大扉。今も魔法によって抑え付けられているとは思えないが、だからといってあの重い扉を蹴破って出られるとは思えない………つまり撤退は不可能。仮に外に出るとすればウィリアムが唐突に超覚醒、超人的な脚力を使って自身の背より高い位置に張られたステンドグラスから飛び出すか、もしくは視界の隅にある扉を何らかの手段で開けて先に何があるか予測も付かない道を進むか。
「はぁ…………めんどくさ。……………はぁ」
何度目か分からない溜息を繰り返すウィリアムに「あらあら」とニチェアが困ったような顔になる。
「何だか物憂げな溜息が沢山ですね。何かお悩みが御座いましたら、懺悔室まで行かずともここで私がお聞き致しますよ。卑賤な身ながら、ね」
「あらそう? じゃあちょっとお言葉に甘えて聞きたいんだけどさ」
「ええ、お伺い致しましょう」
だからこそウィリアムは溜息が止まらなかった。
「ちょっとヤニ吸って良い?」
「ここは禁煙です」
更なる時間稼ぎを狙って銀色の煙草ケースを取り出そうとしていたその指は、大きな溜息と共にハンドガンの引き金に戻される。
当然、ウィリアムの口から紫煙は吐き出されなかった。
───────
ウィリアム・バートンがひたすら溜息を繰り返している頃、別行動をしていた加藤梅雨は虚ろな瞳した全裸の中年男性を前に、ウィリアムと同じぐらい困り果てていた。
「………くっ。─────しつこいッ!」
自身の体を掴まんと乱雑に伸ばされた手指を、片手に握った小刀で乱雑に切り払う。まるでコンビニ弁当の中に入ったソーセージのようになった数本の指が血飛沫と共に宙を舞い、べちゃりと壁に叩き付けられる。
「……………………」
しかし虚ろな目をした全裸の男は一切動きを緩めず、足りない指を力任せに握りながら加藤梅雨の胸倉を掴む。
なまじ小刀の斬れ味が良いのが悪かったか。数本の手指を綺麗に斬り飛ばされたその手は、しかし大業物クラスの斬れ味を持つ小刀によってつるりと吹き飛ばされただけであり、伸ばしていた手自体はほんの少しだけブレる程度で進行方向はまるで変わらなかった。
「────────このっ」
自身の胸倉を力任せに掴んだ全裸の男に、加藤梅雨は同じく力任せに体を捻るように横へ向ける。そのまま男の肘に向けて掌底を叩き込むような感覚で手のひらを押し付ければ、ボキッという鈍い音と共に掴まれていた指から力が抜ける。
それは恐らく痛みからでは無い。肘を逆向きにへし折られる事によって筋肉が突っ張り、脳から伝わる電気信号が乱れ、指周りの筋肉が勝手に動いてしまった事が理由だろう。
「しつこいと────」
その手指に再び力が込められるよりも早く体を回した加藤梅雨は、腰を落としてしゃがみながら回転するような感覚で小刀を振るう。スッと肉を斬る感覚の直後、小刀が全裸の男の二の腕の骨にぶつかるカッという硬い感覚がする。
「────申しておるッ!」
その音を認識した瞬間、しゃがんでいた体を小刀ごと全力で持ち上げるようなイメージで飛び跳ねれば、昇◯拳よろしく螺旋状に回転した加藤梅雨に中年男性の二の腕が幾らかの血を撒き散らしながら吹き飛び天井にぶつかる。
「…………………」
しかし濁った瞳をした全裸の中年男性は何一つ呻く事は無く、反対の手で回転の余韻が残る加藤梅雨の肩口を鷲掴み、その回転を止めた中年男性は頭を大きく後ろに振り被って頭突きを狙う。
「振りが大きいッ!」
今にも加藤梅雨の顔面に叩き付けられんとしていた中年男性の頭部は、当然ながら加藤梅雨に当たる事は無く。間に挟まれるように置かれた
「───────鬱陶しいッ!」
その苦無を力強く引き抜いた加藤梅雨が振り向きながら小刀を振り抜けば、同じように虚ろな目をした二十代半ば頃の男性の腕が斬り払われ壁に叩き付けられた。
「……………チッ」
腹の出た中年男性とは違っていやに大きな青年の陰茎に目線を奪われるが、舌を吸うように舌打ちしながら雑念を振り払う。
「ああ全く───」
倒れた中年男性の足を踏まぬよう気を配りながら後ろ足で木張りの床を蹴って肉薄した加藤梅雨は、そのまま突進でもするように全裸の青年に向かって急接近するが、
「────他のものを選べッ!」
青年の喉笛に小刀を突き立てた瞬間、即座に床を蹴って真横に飛んだ。
肩を壁にぶつけんばかりの力で蹴り払った床に、青年の喉に突き立てられていた小刀が真横に斬り払われる。喉仏ごと頸動脈を斬られた青年がどろどろと緩やかに血を流しながら倒れ、加藤梅雨はそこでようやく「……ふう」と吐息を漏らしながら肩の力を抜いた。
「全く………その手の淫行は拙の得意分野では無いと言うに。
不満げに呟きながら二人の男たちの服を掴もうとした加藤梅雨はすぐに二人が全裸である事を思い出し「……チッ」と口を吸う。死体から破り取った服で武器に付いた血糊を拭きたかったのだが、何をどうトチ狂えばそうなるのか男たちは須らく全裸だった。
仕方が無いので左右に握っていた小刀と苦無を自身の肘で挟みながら引き、べったりと付着していた血糊を拭く。
「………………………」
そのままそれを鞘には仕舞わず、いつでも力を入れて振り回せるようしっかりと指で固定したまま、
「………よ、っと」
倒れたまま微動だにしなくなった全裸の青年の頭を力任せに踏み潰し、そのまま同じように中年男性の禿げた頭部も踏み割った。圧力に負けて砕けた頭蓋骨が皮膚を裂き、その隙間を我先にと脳髄が噴き出すブジュルィッという湿った音が部屋に響く。
「……………………念の為折っておくか」
しかしそれだけでは不安を拭い切れなかった加藤梅雨は、湿った靴底をにちにちと鳴らしながら少しだけ歩き、倒れて動かなくなった中年男性の両膝に足を掛ける。そして目線を中年男性の上半身に向け、意識を少し離れた青年へと向けながらその足首をぐっと持ち上げれば、ポキっという軽い音が鳴る。それを両足分終えた加藤梅雨、同じようにしながら青年の両膝も逆向きにへし折って────、
「………………………大きいな」
────仰向けに倒れた全裸の青年の、その股間を眺めながら、先程は即座に振り払った男性の個体差に改めて思いを馳せた。
「…………」
微動だにしない青年の股間を見下ろしながら血糊を拭いた小刀と苦無を仕舞った加藤梅雨が、空いた両手で大体の目測を測る。
それをズレないように動かしながら自身の下っ腹にあてがい、
「うむ、入らん。
何事も無かったかのように踵を返して小部屋を出た。
………当初の想定通り教会の主である修道女がウィリアム・バートンと立ち会わせているとすれば、連れ去られたと思しき子供に危害が及ぶ事は物理的に有り得ない。そう踏んだ加藤梅雨は恋人石が片割れの位置を指し示す方向に向かうその道すがら、人の気配がする部屋は全て中の様子を確かめて回っていた。
それまでに攫われた幼い少年たちが今も生きていると思える程加藤梅雨は楽観的では無いが、一縷でも生きている望みがあるのであれば救い出す方向性で動いた方が良いだろうという思いからだった。
「……………………どうなっている」
しかし廊下に並ぶ幾つもの小部屋の中に居るのは尽くが虚ろな目をした全裸の男性であり、それはは須らく痛覚が無いかのように加藤梅雨の攻撃を受けても眉一つ動かさないで掴み掛かってくる。
まずその時点で不可解極まりない。しかし最も不可解なのは、虚ろな目をした男たちは皆一様に攻撃して来ず、加藤梅雨の服を掴んでくるという事だった。
「…………………………」
これまでに入った小部屋は都合四つであり、この部屋を含めれば累計五部屋存在していた。中に居た男性の数は部屋毎にバラけていて、一人だけの部屋もあれば五人居る部屋もあったが、そのどれもが共通して殴り掛かってくるような露骨な攻撃性は殆ど見せて来なかった。
する事といえば、加藤梅雨の服を掴み、まるで破り捨てんばかりの力で加藤梅雨を裸にしようとしてくるだけ。
「………………はぁ」
加藤梅雨は男性経験こそ無いが、何も汚れ知らずの純真無垢という訳では無い。彼らの目的はすぐに分かった。
要は犯したいのだろう。この大きな教会に誘き寄せられた男たちは、教会の主である修道女に何かしらの術を掛けられ、繁殖行為に直結する以外の全ての感情や感覚を失い、部屋に入ってきた女性を犯す事しか考えられなくなっているのだろう。
そしてその何かしらの術は、側頭部を蹴り飛ばした程度では解除されない。手足を斬り落とされとしても変わらず加藤梅雨を犯そうと動き続け、仮に喉を真横に切り裂かれたとしても変わらず、血のあぶくを切り裂かれた喉の隙間から噴き出し続けるのだから、脳を損傷させるか頚椎を傷付け体に電気信号が行かなくなるようにしてやらねば彼らの繁殖本能が途絶える事は無い。
「…………全く、猿でももう少し節操があるというに」
溜息混じりな言葉を繰り返しながら廊下を歩く。木張りの床にゴツゴツと靴がぶつかる足音だけが響き、普段は気にもならないはずなのに、今に限ってやたら大きな音に感じられる。
しかしその靴音はすぐに鳴り止む。
他の部屋を探していた加藤梅雨が行き詰まってしまったからだった。
「……………………何?」
これまでに辿り着いた部屋はさっきの部屋を含めて累計五つ。そして最後に加藤梅雨が辿り着いたその部屋は、部屋というよりはただの台所であった。
リビングを兼ねているのか中サイズのテーブルと小さな木椅子があるだけで他に目新しいものは何も無い、至ってシンプルな台所だった。
唯一目に留まった奥の扉も、開けてみればそこまで広くない石畳式のような風呂があるだけ。浴槽は少しだけ広めで、高身長なシスターでもしっかり足が伸ばせそうだという印象ぐらいしか受けない。
「周囲に他の建物は無かった。この建物に二階は無い」
呟いた加藤梅雨はすぐにその答えに行き着いた。
ある程度その手の『お約束』が分かるものであれば、恐らく加藤梅雨で無くとも同じ答えに辿り着く事が出来るだろう。
「何処かに地下への入り口でもあるか」
そう呟いた加藤梅雨が風呂場を後にする。
これまでに入った部屋を探索し直そうと、台所と廊下を繋ぐ扉を開けたその瞬間だった。
「む……?」
小壁に備え付けられた小さな燭台。その魔石から放たれるほんのりと白い輝きに照らされる数個の何かが、木張りの廊下の奥の方からカリカリという謎の音を鳴らしつつゆっくりと這い寄ってくるのが見えた。
鼻を鳴らすようにして呻いた加藤梅雨が目を凝らそうするのに合わせ、その何かが低空飛行のように加藤梅雨の足を目指して不意に飛び掛かってきた。
「これは────」
それが何なのかをしっかり把握する為、敢えてその這いずる何かを避けずに受けた加藤梅雨は、
「うわきも──────ひァェっひゃぁいッ!?」
自身の足先にへばり付いた謎の手首に、思わず素面で悲鳴を上げてしまった。反射的に足を振ってそれを吹き飛ばすと、手首だけのそれは力強くベシッと木製の壁に叩き付けられボトリと落ちる。
………が、その手首は加藤梅雨に視認されるまでとは打って変わった段違いの速度で指を動かし、木張りの床のその木目に爪を引っ掛けてながら驚く程速く加藤梅雨に再接近する。
「────ひぃっ!?」
それに続き、他の手首たちも加速。露骨に怯える加藤梅雨に向かって一気に猛進し始めた。
「や───っ、やだっ! キモいッ! キモ───ひィッひぇえ無理無理無理無理無理」
半狂乱になった加藤梅雨が低空飛行気味に飛び掛るそれらを怯え混じりで蹴り飛ばすが、当然ながらそれらは蹴られて壁に叩き付けられようとも動く事をやめない。中には指が変な方向に折れた手首もあったが、その部分だけビクビクと不自然に痙攣させながらも他の指を使って異様な速度で這い回る。
「────無理ィッ!」
遂に耐えられなくなった加藤梅雨がそれらの手首を次々に踏み付けていく。つい数分前に成人男性の頭部を容赦なく踏み潰して脳髄を弾けさせた加藤梅雨だったが、焦りが混ざってそれ以上の力で踏み付けられた手首のゴリュッという感触に「ひっひィッ!?」と嫌悪感を顕にして涙目になる。
が、加藤梅雨は両手を胸元の辺りでギュッと握りながら必死にそれを我慢。恐怖と怯えと生理的嫌悪感に荒くなった呼吸で口布を膨らませては縮めて、を繰り返しながらも、何とか現れた手首たちを全て踏み潰す事に成功した。
「………ひ、やだやだ、キモい、キモい無理本当に無理」
しかし骨を踏み砕かれて上手く動けなくなった手首たちは、それでも何とか加藤梅雨の足に飛び掛かろうと懸命に筋肉を動かしもぞもぞと蠢き続ける。
後にしようとした台所の方へとゆっくりと後退りしながら廊下の奥を軽く見るが、視界に入る板張りの床はぼんやりと照らされているだけで追加の手首は無さそうだった。
そう思った瞬間、加藤梅雨の尻の辺りに何かがぶつかりゴトンという大きな音が鳴る。
「へわァッ!?」
慌てて床を蹴って飛び上がった加藤梅雨が天井と壁が合わさる角の辺りに、さながらスパ◯ダーマンが如く張り付いた。
「…………………つ、つくえ」
壁と天井の間に張り付いたまま、片手を自分の胸の前でギュッと握った加藤梅雨が呟く。後ろを確認しないで後退りした加藤梅雨の尻に押されて位置がズレた木製のテーブルが何なのかパニックになった加藤梅雨は理解が出来なかったが、じっくり二十秒程度それを見詰める事で、荒かった呼吸が整ってくる。そこでようやく、自分が何を見詰めていたのかを認識した加藤梅雨は「………ふぅぅぅぅぅ」と大きな溜息を吐き出しながら胸の前で握っていた拳をゆっくりと開き、
「……………全く。ビビらせやがってで御座───ゲホッゲホッ! ゲホッ、ゔぁー………げほっ。………び、ビビらせやがってで御座るよ」
むせ込んだ。喉が痛い。握っていた手のひらが冷や汗だか脂汗だかで凄いぬるぬるする。それを忍び装束の腰辺りでごしごしと拭いた加藤梅雨がようやと壁と天井の繋ぎ目から離れて床に降りる。
「ひぇキモい」
すると当然視界に入ってくる潰された手首たち。それに向けて嫌々近付いた加藤梅雨は「
「………もうっ」
予期せぬ事態に女の子の部分を見せてしまった加藤梅雨が不機嫌そうに吐き捨てる頃には、それまで元気だった手首たちは文字通り虫の息といった様子でビクビクと小さく痙攣し続けるだけになっていた。
………加藤梅雨は草として徹底的に育て上げられた。
が、しかし、どうにもこうにもこういった存在だけは許容出来ずに恐怖してしまう。
虫の類いが苦手という訳では無い。
しかし生前に父が幻術を使って時折見せる気色の悪い怪異のような存在だけはどうにもこうにも無理だった。幽霊だの何だのといったホラー感をありありと醸し出した有象無象はクソが付く程どうでも良いのだが、手が何本も生えたものだけはどうしても受け入れられなかった。
分かりやすい表現をするなら、多指恐怖症とでも言うべきだろうか。多指症の手指に限らず今のように、指がワキワキと動かされているのを見ると生理的嫌悪感と同時に耐え難い恐怖心が溢れ出す。仮に相手がウィリアムであったとしても、自身の胸元を見ながら両手をワキワキとさせていれば同様に涙目になってしまうだろう。
そんなものそうそう
だが終ぞそれを克服する事は出来ず、実父の目の前で派手に失禁しながら泣きじゃくったのを最後に「梅雨、お前はもう其れで良い。其れで一向に構わん」と父は恐怖症の克服を諦めながら泣き喚く加藤梅雨を懸命にあやした。
「…………すぅ………はぁ…………」
息を吸って、吐く。薄く瞳を開いた状態で体から力を抜いて呼吸にだけ意識を向ける。深く吸い、浅く吐くその深呼吸を繰り返すと、次第に思考がクリアになっていく。
「…………すぅぅぅぅぅ…………はぁぁぁ」
体が温かくなっていく。胸の辺りがじんわりと熱くなり、肩口を通って背中をぽかぽかと温めていく。そしてその代わりとばかりに、それまで熱くなっていた頭が冷えていく。
「……………うむ」
やがて現れるのは女忍者である加藤梅雨。代わりに居なくなった女の子である加藤梅雨。手のひらを湿らせていた汗は乾き、目元は冷静そのもの、サイズの小さなマスクを着けた時のように呼吸に合わせて動いていた口布は微動だにしなくなっていた。
「さて……」
と、振り返る。
この敷地内にある建造物は二つ。内一つは礼拝堂であり、もう一つは加藤梅雨が今居る居住用の建物。西洋の教会に関しては加藤梅雨が生前過ごしていた時代から、南蛮の宣教師たちによって建てられたものが存在していたので大体の構造は把握していたが、よくある『懺悔室』に当たる区画が存在しないという点以外は至ってシンプルな造りとなっている。
ここの何処かに攫われた少年が居る。或いは余り考えたくないものの、攫われた少年が殺された場所が存在しているという事になる。
これまでに加藤梅雨が踏み入った部屋は累計五つであり、四つの部屋と一つの台所。台所と扉一枚で繋がっている風呂場を部屋としてカウントするのであれば累計六つになるだろうが、それを有りとすれば脱衣所と風呂場と、だなんて次々に部屋数が増えてしまうので今は簡略化しておく。
風呂場に不審な点は見受けられなかった。洗面台のある脱衣所を隔てる曇りガラスの引き戸を開ければ、そこにあるのは魔法で温度調節を行うタイプのシャワーと、銀色をした気持ち広めの浴槽。他にあったのは風呂椅子と洗面器とシャンプーだの何だのばかりで、敢えて言うなら洗濯場を兼ねているのか洗濯桶と洗濯用洗剤もあったぐらいだった。
「……………………」
木張りの床をゴツゴツと鳴らしながら加藤梅雨が台所を歩き回る。特に何か探すような素振りは見せず、ただぐるぐると台所を歩き回る。配置されている机と椅子の位置を少しだけ変え、それらがあった場所も歩いた加藤梅雨は、やがて「……音に違和感は無いな」と小さく呟き台所を後にする。
台所も不審な点は無い。至ってシンプルを通り越してかなり簡素な造りであるその台所では何か仕掛けるような事もパッと見難しく感じる。そこを慎重に歩き回った加藤梅雨はゴツゴツと鳴った際の足音の変化で地下階段の有無を読もうとしたが、けれど特に何も違和感は感じなかった。
耳に意識を向けながら廊下を歩き回り、それまでに入った個室を再び散策する。邪魔臭い死体共は全て部屋の隅に積み重ね、床に敷かれているラグマットやタンスの下、クローゼットの中等まで念入りに探し回ったが、しかし地下室に向かうような隠し階段なんて何処にも見当たらなかった。
「…………………………何故だ」
まるで押入れのように部屋と一体化しているクローゼットの床を力任せに殴り床板を粉砕した加藤梅雨は、割れた隙間に苦無を差し込み『てこの原理』のような感覚でメキメキと床板を剥がしてみる。
しかし現れるのは灰色をした砂粒のような砂利ばかり。苦無を逆手に持って柄の先で砂砂利を掘ってみても茶色の土が出てくるだけ、冷たく湿ったその土の臭いも埃っぽいぐらいで特に何も無い。
それを四部屋全て試した。木張りの床の全てを踏んで音を確認し、ぎゅっぎゅっと力強く踏みながら「畳返し」のように足踏み式の仕掛けが無いかも確認したが当然無かった。
「…………………………………」
建物の外の外観を思い出す。柵で区切られた区画に植えられている月桂樹と使われる事の無くなった共用墓地が脳裏に浮かぶが、どちらも候補にはならない。ウィリアムがナントカ言う名前の木の葉を見付けたあの共用墓地も、既に調査部隊によって再三掘り返されているが特に変わったものは出て来ていないからだ。
共用墓地の土の中を調べた際『最近掘られた形跡がある』という情報が得られたものの、当然ながらシスターは関与を否定。ほんの数個ほど埋められた棺桶の中身も、ミイラ化した成人の遺体が眠っているだけで子供の遺体は無かった。
その際に採集した土を調べ上げたアダン・グラッドが「んー……」と唸り「気持ち程度腐敗臭がしなくも無えな」と言っていたものの、しかしそれは本当に気持ち程度であり証拠として突き付けるには余りにも弱過ぎる。
「雑菌の量が多いのはあるが…………チッ、棺桶付近の雑菌量の平均値なんか記録に無えっての。最近埋められたから多いのか、それとも木製の棺桶を埋めた付近の土はどこもこんなもんなのかなんざ分かる訳あるかちくしょう」
「…………アレかしら。あたしアレなのよね、あのー、アレ、言ったのよ。殺人の際に死体を山に埋めるとか言語道断よって。殺人の容疑がある相手に殺人に関してのアドバイスしちゃったのよね」
研究室の椅子に座ってそう言うウィリアムにアダンが「馬鹿野郎だなお
「お前それアウトだろうが。掘り返された形跡があるっつー情報、どう考えてもその後すぐに死体掘り返して別の場所に移してるって事だろうが」
「あいたー」
「ご丁寧に腐臭の染み付いた土まで退けてやがる。………完全に証拠隠滅されてんじゃねえか、いやお前が証拠隠滅させてんじゃねえか。同罪か? 同罪として引っ張るか?」
「あいたー」
「マジで馬鹿野郎だな、あいたーじゃ無えんだよ………全く」
まるで「ワーオやっちまったぜHahaha!」とでも笑い出しそうな雰囲気のウィリアムが自身の手のひらで額をペチンと叩く姿に、アダンが大きく溜息を漏らして呆れ果てる。加藤梅雨もその時気配を断ちながら二人の会話を聞いていたのだ。
「………………とすると
加藤梅雨が腕を組んで思案する。
………礼拝堂か? いや、あの礼拝堂は日中開放され誰でも入れるように───調査に来た兵士たちですら簡単に入れるようになっている。タイミングによってはルーニャレット・ルーナロッカが祈りを捧げている事もあるから、いつ彼女が来るか予測出来ない場所にあるような隠し階段を使用するのは些かリスキーだろう。
「………地下室なんて無いのか? 攫った童は全て別の場所で殺害している、とか。墓場を掘ったのは捜査の撹乱……教会内で某かが行われているのだと思わせる為か?」
そこまで考えて「いや違うな」と加藤梅雨は頭を振る。もしそうであれば今日この日、ウィリアムとシスターが戦闘に発展するような事は有り得ない。
他所から持ってきた証拠を突き付けられたシスターが開き直って攻撃してきた、とかなら有り得るが……しかしウィリアムは決定的証拠なんて持っていない。にも関わらずあのシスターは開幕から臨戦態勢だったのだから、それつまり「この教会内に隠したい何かがある」という事になるだろう。
であれば外の地面を掘り返す必要も無い。礼拝堂の中で待ち構えている間に外の地面を掘られて地下室などの通路を見付けられてしまえば間抜けも良い所。
加藤梅雨は「もしや」と僅かな疑問に辿り着いた。
「……………………」
組んでいた腕を解いて小部屋から出て、急いで廊下を進む。それまでに鳴っていたゴツゴツという足音とは違い、ゴッゴッと力強く足早なテンポのそれは加藤梅雨が地下室への通路が何処にあるのかをほぼ確信している証拠だった。
廊下を通り、台所の扉を力強く開けるがそのまま素通りして風呂場に向かう。その扉を開けた脱衣所の先、曇りガラスの張られた引き戸を開けて再び浴室に入った加藤梅雨が無言でその浴槽を見詰める。
当然ながらただの浴槽である。中に何かある訳でも無い銀色をした金属製の浴槽。汚れは殆ど無く、水垢は当然ながら皮脂や垢がへばり付いているような事も無い。何か言える点があるとすれば少しだけ横長で大きめだという事ぐらいだが、あの修道女は背が高いのでこれぐらいの大きさが無ければ肩までしっかり湯に浸かれないのだろう。
「……よっ、と」
加藤梅雨はそれの縁を両手で掴み、力いっぱい持ち上げて退けた。……昨今では風呂の壁と一体化している浴槽が多くなったので余り見ないかもしれないが、基本的に浴槽というものは付け外しが可能になっているものが多い。でなければ浴槽自体が割れる等してお湯を溜められない状態になった際、浴槽だけで無く風呂場を丸ごと造り直さねばならなくなってしまうからだ。
思ったよりも遥かに軽いその浴槽を「よ、っしょ」と小さな呻きと共に外した加藤梅雨が、それを脱衣所へ置いておく。
「…………………………」
浴槽があった場所の床は当然何も無い。あるとすれば比較的整然と敷かれた平たい石だが、風呂に近い場所は木造にすると水気を吸って腐ってしまいやすく、石が敷かれている事自体は当たり前の話だった。
その石を、加藤梅雨は手で掴んで全て退けていく。背後に放り投げるようにして石を退けた下から現れた土を浴室の壁に寄せるように軽く手で動かせば─────、
「あった」
────現れたのは木製の隠し扉。もっと厳密に言うなら、幾つもの竹板を金属の
水気に対して極端に強く、かつその辺の山林に行けば簡単に手に入れる事が出来る竹で造られたそれを長方形の輪っかのように加工した金属製のタガで留めている蓋。そのタガの部分にある小さな金具に縛られている紐を引いて持ち上げるように蓋を開けば、
「──────ここか」
ぽっかりと口を開いたように現れる地下室への階段。それを見て目を細めた加藤梅雨は一旦その蓋を退けて風呂場から離れ、廊下の壁に取り付けられていた魔石式の燭台を根本からへし折り再び浴室に戻る。他の四つの小部屋にあった様々なものを使えば即席で松明ぐらい作れるだろうが、地下室がどういう構造をしているのか把握出来ていない現状、著しく酸素を消費してしまう燃焼体である松明を持っていくのは少しだけ
「………………」
壁に備え付けられていた燭台、その上に乗せられた魔石の白っぽい淡い輝きを頼りにかなり急な石造りの階段を降りていく加藤梅雨。目を向ければ階段の隅の方は風呂場から流れ込んだ水で少しだけ黒っぽく湿っていた。
コツコツという小気味良い音が狭く急な通路に反響して耳がおかしくなりそうになるが、加藤梅雨は意識を前後に向けながら無言でそれを降りていく。
「─────────」
やがて鼻を突き刺すような不快な臭いが立ち込め始めてくる。血と、糞尿と、腐敗臭の中に混ざる確かな淫臭に、加藤梅雨は不快感を通り越し次第にイライラと腹が立ってきた。
………生まれ育った時代が時代だからなのか。加藤梅雨は殺し殺されという事柄に対して、かなり淡白で素っ気無いストイックな性格をしている。
シスターが攫った少年たちに何をしようと構わないし、その攫われた子供たちの中に、仮に自分の子が混ざっていたとしても加藤梅雨は気にしない。加藤梅雨は我が子を攫われるような腑抜けにも多かれ少なかれ非はあると判断するし、強盗だとしても何一つ警戒せず防犯対策を施さない浮かれたやつも大概似たようなものだと判断する。そしてその上で「犯した罪に対する適切かつ適当な裁きを、『情状酌量の余地』だなんて考えず『完全に規律通り』罪人に対して与えるべき」であると加藤梅雨は常々思っていた。
そこに何か感情を移入するから第二第三の「報復」や「八つ当たり」、或いは「模倣犯」が生まれ悲劇の円環が断ち切れないのだと加藤梅雨は考えている。
愚者としてこの世界に呼び出された加藤梅雨は、この世界に来てまず真っ先に銭の数え方を学んだ。そして次に所属国で使われている言語を学び、それを活かしてとにかく本を買い込んで読み漁った。
最初は簡単な字や表現を多く使っている絵本から始め、すぐに童話集のようなものへと繋げていくと………やがてその世界や地域での道徳に関するものが分かってくる。サンスベロニア帝国は完全なる独裁性であり、そんな独裁国家で売られる子供向けのそれらの本は、言い換えるなら子供を洗脳する為の機械のようなもの。どういう風に子供を育てれば国の為になるか、どういう道徳観念を植え付ければ国に害を成さない大人になるかといった国の策略を読み解きながら、しかしそれに批判ばかりせず「この世界のこの国に於いては、何が是であり何が非なのか」といった部分に踏み込んでいく。
やがて一通りの本を読み終えた加藤梅雨は、次に近隣諸国の言語を学び、同じように他国で売られている絵本を買い童話集を読む。
すると浮かび上がってくる、二つの国とで道徳に関する違い。何を是として何を非とするかといった国ごとの違いを考えると、次第に「三つ目の国ではこうだろう、四つ目の国では恐らく」といった「世界全体に浸透している基本理念」が想像が出来るようになってきて楽しくなる。
その中でも加藤梅雨が最も面白いと思ったものは、罪を犯したものに対しての処罰────主に死刑に関する事柄に対しての意見であり、何という事か人を殺した罪人に対して死罪を言い渡す事に否定的な意見があるという事実に、加藤梅雨は───戦国時代を生き抜いた忍者は強く興味を引かれた。
「…………………
石造りの降り階段を降りた先、少し開けた小さめの広間のような区画の隅に積み重ねられた大量の死体に、加藤梅雨は思わずそんな事を呟いた。
こんもりとした山のように置かれたそれらの死体は既に腐敗が進み、大小様々な蛆が腐肉を食らい成長を続け、周囲ではやはり大小様々な
「………………やはり掘り返したか、墓荒らしめ」
その死体の山に近付いた加藤梅雨が呟く。数多の死体………体格の小柄な大量の死体には、蛆に隠れて良く見えないものの確かに茶色の土が付着していた。
ウィリアムが初めてシスターと会話をしたあの時、恐らくウィリアムが踏んでいた共用墓地の土の下には攫われた少年たちの死体が埋められていたのだろう。そして後に「あいたー」とアホ丸出しの反省をするウィリアムの思う通り、シスターはあの後何かのタイミングでこっそり墓を掘り返し死体を地下室に運び直したのだ。
とはいえ死体の処理に困ったからこそ土に埋めたのだから、やっぱ止めたと持って帰って来た所で困るだけ。困った末に、あの修道女は放置する事を選んでしまったのだろう。お陰で
「…………………ふん」
だが素人の犯罪なんてこんなものだ。理論上どうすれば良いかは分かっていても、実際事を起こしてみれば理論上なんて所詮机上の空論ばかりであるという現実に直面する。化学薬品で溶かすだとかアスファルト合剤に混ぜるだとか、そんな話を知っていた所で実際人を殺した状態でスムーズに処理出来る事なんてまず無い。化学薬品工場にツテがあった所で共犯のリスクを嫌がった工場長に拒否される可能性は高いし、そうなれば密告を防ぐ為に死体の数を増やす必要に駆られる。かといって素人がアスファルト合剤なんて購入すればエシュロンよろしく警察機関に気取られ周辺区域のパトロールが増えかねない。
だがそれらは全て「死刑」というリスクがあるからこそ成り立ち抑止されているのだと、異世界の書物を大量に読み耽った加藤梅雨は思った。
これがもし死刑制度を廃止してしまえば、まず工場長は躊躇い無く大金を受け取り化学薬品で死体を処理するだろう。仮にバレた所で大金の内の幾らかを使えば堀の外に出られるし、その後は海外に高飛びして時効までのんびり暮らせば良い。何だったらそもそもの殺しを行ったものを餌に「恩赦」を強請るという手段すら取れるかもしれない。
アスファルト合剤を買った素人も同様である。素人は素人故にメンツを気にしなくて良い分「捕まっても別に死なねえし、むしろちゃんとした飯食えるし良いじゃん」だなんて事を考えながら容易に人を殺めかねない。
死刑制度はただ「死を持って償う」というだけのものでは無く、「核の傘」のように軽率な大量殺戮を抑止する為の「威圧」の役目を持っているのだと判断した加藤梅雨は、自分が生きていた時代に伝わる数多の裁き方である
それでもあの時代に
「古事記や天つ罪も莫迦にならんな」
呟きながら立ち上がる加藤梅雨。こぢんまりとした部屋の奥にある一枚の金属扉に向かい、それをギシギシと重苦しく軋ませながら開く。
すると再び廊下が現れる。しかしそれは地上階にあったようなものとは少し異なり、重厚な幾つもの扉の付いたは縦模様に張り巡らされた金属牢のような部屋とを区切る為の扉だった。故にわざわざ扉を開けて確認せずとも、外から幾らでも中を確認する事が出来るようになっていた。
「……………………………」
それをぼんやりと眺めながら歩いていく。中は全て空であり、所々床や壁を彩っている黒い染みから中で何が行われたのかを想像させてくれた。
血だけでは無いだろう。確かにこの地下空間は血液や臓腑の生臭い香りが染み付いているが、それ以上に淫猥な臭いが鼻を突き抜ける程に強く香っている。愛液なのか、精液なのか、腸液なのか。黒く染み付いているそれはきっと生半可な洗剤では取れないだろう。
「………………………む」
やがて辿り着く最奥の牢。その中の奥の壁に、薄汚れた裸の少年が冷たい石の床にぺたんと尻を付けて呆然と座っていた。
「おいっ! 大丈夫かっ! 無事かっ!」
壁に背を預ける少年に加藤梅雨が声を掛ける。
だが少年は何も反応せず項垂れたままだった。
「おい童っ! 貴様だっ! 返事をしろっ! 生きているんだろうっ!?」
檻を掴んでがしゃがしゃと鳴らしながら叫ぶと、やがて少年はぼんやりとした表情のままゆっくりと顔を上げ加藤梅雨を視界に入れる。
「……………………………あ」
青紫に近い色をした少年の唇が開かれる。土気色をしたその少年に「無事だなっ!? 待っていろすぐに開けるっ!」と加藤梅雨が叫べば、
「はい…………すぐ、おっきくします…………じゅんびします…………ごめんなさい」
何も感情が篭っていない声色をした少年がゆっくりと足を開き、何も着用していないその股間が顕になる。
「─────────────」
加藤梅雨は絶句した。彼が何を言っているのか理解が出来ず、目を丸くしたまま体が強張ったように動かなくなった。
そんな加藤梅雨を余所に少年は「おっきくします………すぐおっきくします……」とまるでうわ言のように繰り返し呟き続ける。
しかし少年のその言葉とは裏腹に、毛の一本も生えていない少年の小さな股間はピクリともせず、やがて少年はぼろぼろと涙を流しながら震え始める。
「ごめんなさい……おっきくします…………すぐ、すぐおっきくします…………ごめんなさい……………ごめんなさい…………」
土気色だった少年の顔がみるみる内に青ざめていく。呼吸は乱れ、なげうつように放られていた両手の指がぎゅっと握られ始める。
そんな少年に加藤梅雨が「おい───」と口を開いて呼び掛けようとした瞬間、少年は目を見開いて絶叫し始めた。
「ゆるしてゆるしてごめんなさいごめんなさいごめんなさいゆるしてェッ!!! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいたたかないでたたかないでいたいのやだいたいのやだ─────あああああああああああああアアアアアアアア─────ッ!!!」
まだ変声期も迎えていないだろう幼い子供の絶叫が地下空間に木霊する。壁に反射して響き渡ったその声は加藤梅雨の鼓膜を振動させるが、耳の穴に入らなかった音波は加藤梅雨を通り越して反響、まだ振動が残る加藤梅雨の鼓膜を更に振動させる。
「────────っ」
頭がおかしくなってしまいそうだった。性的虐待によって頭がおかしくなってしまった少年の雄叫びに、加藤梅雨まで釣られておかしくなってしまいそうだった。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい────」
膝を抱いた少年が呆然と呟き続ける。じょろじょろと流れる音は恐怖から失禁してしまった音だろうが、最奥のこの牢だけは床の染みが特に濃く、薄暗い空間である事も相まって漏れ出してしまった尿がどこに向かって流れているのかすら判別し難い。
「…………………………」
この少年はサンスベロニア帝国に現れた子供攫いを捕らえる為の囮であり、まだ捕まってからそこまで経っていない。教会がある方角をうろうろとしている状態だったのが一昨日、そして恋人石は昨日の朝方辺りに教会の方角を指し示したまま動かなくなった。故に本来であれば今日の日中に救出班が向かうはずだったのだが、運の悪い事にジェヴォーダンの襲撃とタイミングが重なり少しだけ後回しにされてしまった。
とはいえ本当に少しだけであり、決してそこまで長い時間では無い。襲撃に失敗したジェヴォーダンの獣が撤退したのは夕方が近付いてきた日没寸前頃、救出班であるウィリアム・バートンと加藤梅雨は教会が夕焼けに照らされる頃にここへ辿り着いた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
その間の、決して長くは無いはずの時間に、少年は人格を破壊されるまで陵辱の限りを受けたという事だろうか。
だとすればあのシスターは、一体どんな手練手管を使ったのだというのか。どこか淫猥さを感じる柔和な微笑みの奥に、あのシスターは一体どんな怪物を飼っているのだろうか。
「…………………………」
加藤梅雨が口を
そんな姿、これ以上見ていたくない。
余りにも胸が苦しくなる。
持っていた魔石式の燭台を床に置いた加藤梅雨が牢の扉に手を当てる。小さくガシャンという音が鳴ったが、そんな音にすら少年は過敏に反応して震え上がった。
「……………………………鍵が掛かっている。……当たり前か」
押しても引いてもビクともしないその扉を、ものの試して持ち上げたり押し下げたりとしみるが全て無駄だった。地上階の部屋にそれっぽいものは見当たらなかったが、しかし全ての引き出しや戸棚を調べ上げた訳では無い。
「……………戻るか? いや………」
少年を刺激しないよう吐息のように小さく呟きながら、持っていた苦無の刃先を鍵穴にあてがう。当然ながら入りもしないし、これて破壊する事は難しい。
「…………………………」
置いていた魔石式の燭台を取り鍵穴の奥が見えるよう照らす。薄暗く弱々しい輝き故にかなり見辛いが、中身はただのキーシリンダータイプの錠前のようだった。
「………………………………面倒な」
しかしピンの位置が意味不明である。ディンプル式でこそ無いものの、いやに奥行きのある錠内に生えている幾つものピンは完全に位置がバラけていて意味不明過ぎる。
………一般的な鍵は利便性の関係から鍵自体の向きを問わず、とにかく差し込んで指定方向に回せば解錠出来るようになっている。故に内部のピンの位置もある程度の法則性を持って飛び出しており、ピッキングの際は当たりの感触と音のするピンが一本でも把握出来れば、その法則性を頼りに他のピンの中でダミーがどれかを割り出す事が出来る事が多い。
だがこの牢に使われているシリンダーの中は一切の法則性が感じられず、上下左右だけで無く斜めにもピンが幾つか生えている。
要するにこの牢屋の鍵は、回す方向だけで無く鍵自体を差し込む際の向きすら決まっている。ディンプル式では無いのでピッカーとテンションレンチがあれば開ける事は可能だが、ピンの本数が多い上にダミーの予測もし辛いので十中八九時間が掛かってしまうだろう。
「………………………………」
それまでウィリアムが生きていられるか、加藤梅雨には分からなかった。
ウィリアム・バートンの実力は知っている。正面衝突こそ不得手だが、それでもあのイケメンオネエは相当のやり手である。
しかし相手の実力を何も知らない以上、加藤梅雨は「あいつなら負けない」だなんて頭の悪い事を言える程楽観的にはなれず、また同じようにウィリアムが勝つさと高を括る事だって出来なかった。
故に今回の作戦は最初から勝つ気なんて無い。勝てるならば当然勝ちに行くが、勝てない、或いは勝つのが大変だと踏んだ場合証拠である少年だけ速やかに救出してさっさと退散。後々押し掛けたサンスベロニア軍の数の暴力で轢き殺す予定だった。
「……………………こういったやり方は趣味では無いのだがな」
しかし肝心の人質を救出する時間があるか分からない。加藤梅雨が少年を助け出すまでウィリアムが耐え続ける事が出来るか分からない以上、長い時間を掛けてピッキングに挑む余裕も無ければ、ましてあるかも分からない鍵を探しに地上階の部屋を探し回る余裕も無い。
「………ふっ」
魔石式の燭台を床に置いた加藤梅雨は、牢屋の鉄格子の内の一本を両手で握り、それを支柱にしながらぴょんと飛び跳ねる。
そのまま上がった両足を適当な別の鉄格子に引っ掛け、
「──────ふんぬっ、ぅぅぅぅううううううッ!」
馬鹿丸出しで手足を伸ばした。
縦縞模様になっている幾本もの鉄格子に、まるで梯子を登っている途中のような体勢になりながら手足を引っ掛けた加藤梅雨が歯を食い縛りながら金属棒に力を掛けると、少しずつ、本当に少しずつだがミシミシと支柱が歪んでたわみを見せ始めていく。
「ぐっ、ぬぅぅぅぅぅうううう………ッ!」
こういう抜け出し方があるから、牢屋というものは縦向きの格子ではいけないのだ。縦向きに張った格子に、横向きの格子を溶接して対策をしっかり施しておかないと、こういった脳筋プレイのような脱走を許してしまう。留置所や刑務所であれば、そこに更に目の細かい網を溶接して四角い隙間から鍵穴をピッキングされないように対策を施す。
「ぬっ、く……ふぅっ、ふっ、ふぅ………っ」
やがて人一人がギリギリ通れる程の大きさまでたわみを広げた加藤梅雨が体の向きを戻す。ウィリアムぐらいの体格であれば厳しいだろうが、加藤梅雨なら何とか通れる。それより更に小柄な少年であれば余裕で通り抜けられるだろう。
「おいっ、こっちを見ろっ!」
「─────ッ!?」
とはいえいきなり入り込んで手を掴んで暴れられても困る。当身や手刀も出来なくは無いが、この状態の少年に当身を行い更に人間不信にさせるのもリスクがあったし、手刀はしくじれば全身麻痺に直結する。まだ成長途中で成人ほど骨が硬くない少年の首に手刀をするだなんて愚行、加藤梅雨には犯せなかった。
「出るぞっ、出してやるっ、助けに来たんだっ!」
「………………………え」
「時間が無いっ! 急がねばあいつが戻ってくるっ! そうなれば拙は貴様を見捨てるぞっ!」
加藤梅雨の言葉に少年がびくりと震える。『あいつ』という言葉にシスターの姿を思い出したのだろう。
見捨てる気なんて無かったが、何となく口を突いて出て来てしまったその言葉を、言ってから少しだけ後悔した加藤梅雨だったが………しかしそんな言葉を聞いた少年が再び発作を起こして発狂するような事は無く、濁り切っていたように見えたその瞳に少しずつ力強い意志が感じられるようになってきた。
それを確認してから、加藤梅雨が歪ませた檻の隙間を通って中に入り込む。
「しっかり握っていろ。この手を離すのは助かる時か死ぬ時だけだ。良いな?」
少年の手を取った加藤梅雨。妙にぬるりとしていた少年の体に何の液体が付着しているのかは分からなかったが、加藤梅雨は何も気にせず力強く少年の腕を取る。手と手を握り合うのでは無く、お互いがお互いの手首を取り合うような握り方をする加藤梅雨の言葉に、少年は「………う、うんっ」と力強く頷いた。
ここまで来れば、後は出るだけ。加藤梅雨は少年の手首を掴んだまま歪ませた檻を通り、急いでその場を後にする。
「…………待て」
その途中、加藤梅雨は少しだけ足を止めて少年の目元を手で隠した。繋いだ手を離さずに少年の目を隠す為、まるで背後から抱き締められるような感じになった少年が「え、え……」と少しだけ狼狽するが、加藤梅雨は山のように積み上げられた死体の近くを通り過ぎながら「心配要らん、貴様に見て欲しくないものがあるだけだ」と穏やかに宥める。
やがて「見て欲しくないもの」を通り過ぎた二人は、目隠しをやめて急ぎ足で階段を登る。
………正規の出入り口を使うなら礼拝堂を経由せねばならない。自分だけであれば本気で気配を絶って抜け出る事も可能だろうが、今回は少年を連れているのであの道は通れない。
とはいえこの地下室に入る為の風呂場に換気用の窓があるのは既に把握している。この少年はそこから出してやれば良い。
となれば後は、ウィリアムの無事を祈るだけである。
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