6-5話【しあわせだったよ】



 幼い頃、神に仕えるという人と他愛も無いお喋りをしました。

「人は誰しも、生まれながらにして罪人なのです」

 彼はそう言いました。だから「僕も? 僕も罪人なの? ………心当たりが無いよ?」と返します。

「貴方も罪人なんですよ。私だってそうです。誰しもが、生まれた時点で罪人なのです」

 産まれる時に母を苦しめ、息を吸って大気を汚し、命を奪って生きていく。

 だから誰しも罪人なのだと、彼は言いました。


 そう、彼は言いました。

 神に仕える彼は言いました。

 神の言葉を代わりに語る、彼が言ったのです。


 つまりそれは神の御言葉。

 僕は神にすら認められたのです。

 遂に神に認めて貰えたのです。


「なら僕は、産まれて来ない方が良かったんだね」


 産まれたいと願った訳でも無いのに、

 無理矢理命を授けられた僕。

 けれど死ぬ事は許されない。

 この世界では死ぬ事すら罪になる。

 死んだ僕の体を、誰かが勝手に処理しようとする。太古の昔はそれでも誰かの糧になったのに、今の時代は死体処理にも金が掛かると、死ぬ事すら許されやしない。


 生きている限り誰かに迷惑を掛ける僕は、

 死を選んでさえ誰かに迷惑を掛けてしまう。


「だからこそ、貴方は生きて償い続けなければならないのです」


「僕は生きて、苦しみ続けなければならないのです」


 全く他愛も無いお喋りでした。

 無価値な僕と、無価値な貴方の声なのだから。

 こんな言葉にすら、何の意味も価値も無い。



 ───────



「どうかしら。ラスボス感、出てる?」

 大広間を通り過ぎた向こうにある謁見の間。壁を背に高い階段のような上座が置かれ、そのいただに燦然と居座る魔王チェルシー・チェシャーが小ジワが増えながらも淫猥な微笑みを下座に向ける。

 初めて淫魔サキュバスの王と聞いた時、僕はてっきりセックスマシーンよろしく隙あらばハメ狂うような女性だとばかり思っていた。力が全てを統べるルーナティア国において純粋な力のみで先代の魔王を殺して成り上がったと聞いていたのだから、それこそ女忍者がする房中術的な暗殺術で相手をハメ殺したのだと思っていた。前魔王の死因はテクノブレイク辺りだったのかな、とそんな事を本気で思っていた。

「………ここに座るのも久し振りね、年単位で座ってなかった気がするわ。最後に座ったのっていつだったかしらね」

 普段は執務室で書類仕事を繰り返す魔王さん。時折執務室から出る事もあるが、それは視察か対談か食事か退勤ばかり。大体日がな一日執務室で書類とばかり戦っている魔王さんは、昔はそれこそ本当に淫魔サキュバスらしい淫魔サキュバスだった感じが窺い知れるくびれた腹部の、縦長だったろうそのおヘソをデスクワークで横長に変えてしまうぐらいには苦労している女性だった。

 玉座に敷かれたドーナツクッションなんかもう苦労の証拠でしか無く、「OLになったギャルがデスクワークのし過ぎで痔になった」みたいなリアルさのような見ていられない何かが感じられる。

「それで? わざわざこんな騒ぎにしてくれちゃったのには、一体どんな理由があったのかしら」

 熟年の主婦がするように頬に手を当てながら僕を見下ろす魔王さんは、すぐ隣に居るペール博士ではなく僕を見詰めている。要は「お前が語れ」という意図なのだろうと踏んだ僕が「頼み事をされたからです」と答えれば、魔王さんは「ふうん?」と鼻を鳴らす。

「その頼み事っていうのはどんな内容なのかしら、気になるわ。………今この国がどういう状況なのか、その状況で私が下らない与太騒ぎに出張る事がどれだけ愚かしい事なのか、それが分からな─────」

「知った事かよ」

「──────────へえ?」

 どうにもこうにも、この世界の連中は話が長い。今にも長文トークを始めんとしていた魔王さんの言葉を遮って僕が本音を投げ付ければ、魔王さんは特に表情を変える事も無く「随分な物言いね」と返してくる。

 冷たく冷めた無表情で僕を睨み付けてくる。

 けれど僕は物怖じしなかった。

 何せ僕は愚者である。

 世界から、神から、貴女から『愚かな死に方をした』という不名誉なレッテルを貼られた死人である。どれだけ愚かしいとか言われようが知った事では無いし、僕の意思や都合なんて完全に無視してこの世界に呼び出したのは貴女だし、ルーナティアに召喚された僕に「Welcomeようこそ fool愚か者.」と言ってのけたのも貴女なのだ。

 貴女が僕を呼び出さなければ僕は悲しい死に方をした有象無象の一匹で終わっていたのに。貴女が僕に愚者The まfool.というレッテルを貼らなければ、僕は栄えある異世界転生者として至る所で「また僕なんかやっちゃいました?」とか言いながらドヤ顔でもしていただろうに。

 僕を愚か者に落とし込んだのは貴女なのに、そんな貴女から「どれだけ愚かしい事なのか」とか言われたとしても「知るかよ」としか言えやしない。

 それでも僕が、愚かしくも僕が貴女の前に立ちはだかるのは、こんな愚かな僕を「キミは優しい子だよ」と撫でくれた一人の女性に泣きながら「助けてくれ」と頼まれたからに他ならない。

「ペール博士は、きっと藁にも縋る思いで僕に助けを求めたんだ」

 そして奇遇にも、博士の思いは僕の夢と噛み合った。それは数奇な巡り合わせ。

 僕の夢は藁になる事。僕の目標は藁で居続ける事。

 社会か、人か。苦難の荒波に流され、悪意の濁流に呑まれ、視界が汚濁に包まれ、耐え難い水圧に鼓膜を破られ上下左右が分からなくなる所か、もうまともに呼吸すら出来なくなった人は例えそれが一本の藁であっても手を伸ばす。

 ────僕は伸ばされた手が掴みたがるような藁でありたい。救いを求めて、藁にも縋る思いで手を伸ばした人に掴まれるような存在で居たい。


 だって嬉しかったから。


 僕が藁に縋った時、縋られた藁は僕の手に絡み付いて、頼り無いながらも絶対に僕から離れないでいてくれたから。

 だから今度は僕が藁になりたい。あの時の嬉しさを分け与えたい。ゴミ同然の藁如きであっても、身の程知らずであっても、愚かしくも僕はそんな事を思ってしまったのだ。

「分からないわね」

 けれど魔王さんはそう言った。僕から目線を外した魔王さんがペール博士に向き直り「ねえペロちゃん、要は今の私が気に食わなくなったんでしょう? 長い付き合いだもの、それは分かるわ」と問い掛ける。

「けど分からないわ。どうして耐えるのかしら、どうして変えようとするのかしら。気に食わないならタクトくんを連れて出ていけば良いじゃない」

 余りにも尊大な物言いに、余りにも身勝手な物言いに、ペール博士が息を呑む音が聞こえる。

 それは僕にとって─────親との関係が悪化した事が理由で自他の殺しを選んだ僕にとっては、何よりも一番聞きたくない言葉だった。

 もう聞き飽きた言葉。根本的な解決になっていないクソみたいな言葉。ただ相手を言い返せなくして黙らせるだけの言葉。


 最も無意味で、最も最低な言葉。


「卑怯者」


 だから僕は口を突いて、そんな陳腐な言葉を投げていた。


 親は子を選べないらしい。

 けれど子供も親を選べないらしい。

 どちらもどちらも選べないのだから、互いが互いを憎み合う事なんて不毛なのだそうだ。


「嘘吐き」


 けれどそれは大きな間違いだ。

 親には「産まない」という選択肢があるが、子に「産まれる事を拒否する」なんて選択肢は存在しない。親は「産む」か「産まない」かを選べるが、子は「産まれるしかない」という事を棚に上げる偽善者の戯言たわごとに騙されてはいけない。

「死んでくれよ、頼むから。頼むから死んでくれよ」

 僕はルーナティアへの召喚を拒否するなんて選択肢、ただの一回すら見聞きしていない。僕は呼び出されるしか無かった、死んだはずなのに墓穴を掘り返され、怪しい紫色のパウダーを掛けられたんだ。

 僕をこの世界に産んだのは貴女だというのに。僕をこの世界に産み落としたのは貴女だというのに。

 産道を通り抜けた僕の「産まれたくない」という雄叫びに嘲笑を投げておいて、「気に食わないなら出ていけ」は絶対に赦さない。

 何処にも行く当てが無いから此処に居るしか無いというのに、行き場など何処にも無い者に『出て行け』だなんて無理を押し付けて黙らせる。

「お前みたいな悪魔ルシファーが居るから、僕らは苦しみ続けるんだ」

 人間ヒトを創り出したのが神だと言うのなら、神が人間僕らの意思を無視したというのなら。同じように神に生み出された天使ルシファーも神の奴隷であり続けろ。

 人間より上位の存在だからどうした。お前は神に「人間ヒトを支えろ」と命じられたんだろうが。

 それが気に食わないから反旗を翻すだって? 笑わせるな。

 人間に自由が無いのは人間が神じゃないからだ。

 そしてルシファーも神では無い。

 神にすらなれなかった悪魔大罪にそんな自由なんてある訳が無いだろう。

「お前みたいな悪魔Prideが居るから、僕らは安らかに寝る事すら出来ないんだ」

 そう吐き捨てる僕の頭を、隣に立っていたペール博士が優しく撫でる。それを見やった魔王さんは「………なるほどね」とゆっくりと瞳を閉じる。

「お前の言い分は分かったわ。お前の意思は伝わって来たわ。全て受け止め、その上でお前を尊重するわ」

 再び開かれた瞳は、どこか悲しげで寂しそうなものだった。今の僕はただ気に食わない事に噛み付いただけの傲慢Prideな奴でしか無く、間違っても魔王さんを説得するようなつもりは無かったのだが、それでも僕がどういう思いを持って今ここに立っているのかが伝わってくれたのかと思うと、僕は少しだけ嬉しくなる。


 その嬉しさに呑まれ、僕は魔王さんが何で悲しげで寂しそうな瞳をしているのかなんて全く気が付かなかった。


「言ったのにね、私。数日前に、お前の前で、ちゃんと言ったのにね。お前に向けて言った言葉じゃなかったから、自分は例外だなんて傲慢Prideな事を考えちゃったのかしら。けれどお前がそれを望むなら、私はお前の言葉に答えてあげるわ」

 だから僕は、気付けば魔王さんが僕に対しての呼び方を変えている事にも意識が向かなかった。

「私は今、ペロちゃんと話していたの」


 ──── さえずるなら撃ち落とすわよ。


 ポンっという小気味の良い音と共に、僕の体が少しだけ揺れる。部屋の扉を開けて出ようとしたらドア枠に肩をぶつけてしまった時のような軽い衝撃に、僕の体が小さく揺れた。

「─────────え?」

 我ながら間抜けな呻きが口から出たと思う。

 けれど僕は実際に間抜けだったから、そんな呻きしか出せないのも無理は無かった。

「お前はきじよ。人のげんが分かる、小賢しい雉。汚らしい濁声だみごえで喚く、愚かで醜い一羽の鳥」

 鳴くなと言われていたのに、鳴かねば生きられると知っていたのに、間抜けにも鳴いて撃ち落とされた愚かな雉。

「僕はもう躊躇わない、だったかしら」

 気付いていればまだマシだったかもしれない。もしかしたらマシな結果になっていたかもしれない。次第に熱を持ち痛み出してきた僕の左胸に、きっと体を揺らしていたかもしれない。

 人が罹患する病気というものは一つでは無い。風邪を引いているから他の病気に掛からないなんて道理はどこにも無い。

 八つの人間の想念は、必ずしも一人一つしか当てはまらないだなんて事は無い。

 そんな事誰も決めていない。エヴァグリオスはそんな事、修行論には一文字たりとも書いていなかったというのに。


「私の方が躊躇わないわよ? お前が私を超える躊躇の無さを見せたとしても、私はそれを更に超えるわ」


 傲慢Prideであり、嫉妬Envy深く、強欲Greedな、色欲Lustの王。


「愛した女の愛する男だからって、殺す事を躊躇うとでも思ったのかしら。だとしたら本当に傲慢だわ」


 静かな憤怒Wrathに狂う淫魔Lustの王は嗤う。


「お前が私の為に生きる限り、私はお前の為に生きると言ってあげたのに。お前は自らの意思で私に牙を剥いた。だから私はお前の為に生きない」


 そういえば、と間の抜けた事を思い出す。

 人間一般の想念、八つある七つの大罪における色欲Lustを司るアスモデウスは、確か「激怒」と「情欲」を司る魔神であり、色欲Lustに当てはめられたモチーフはサキュバス淫魔だったっけ。

「……………………あ」

 激痛が走り出す。今まで感じた事の無い激痛。変な痛み方をする気持ちの悪い激痛。

 変な痛み方? そう、気持ちの悪い痛み方。生まれて初めて感じる不快極まりない激痛。

 音がしない。ドクンドクンという音がしない。聞こえるのは静かに怒り狂う王の淫靡な嘲笑だけで、生きている限り感じられる生きている証の音が聞こえない。

 痛み続ける。ずっと痛い。怪我をした時や頭痛に悩む時とは違う、ずっと続き続ける痛み。心臓の動きに合わせたズクン……ズクン……という「僕が知っている痛み」では無い「僕が知らない痛み」に視界が白く濁っていく。

「言葉を返してあげるわ。せめてお洒落にいきましょ?」

 誰かが僕に語り掛ける。誰の声だろう。

 そもそもこれは声なのか? それともただの音か?

 耳鳴りがし始める。キーンという甲高くも太い耳鳴りがし始める。それは止む事を知らないかのように大きく鳴り続け、


「指先を差し伸べられる事すら待てないお前の事なんて、もうどうでも良いわ」


 僕はぐるりと目を裏返らせて、そのまま意識を失った。



 ───────



 心臓を吹き飛ばされている状態を何と呼ぶのかは人それぞれ異なるだろうが、まだ脳が生きているからといって「心臓は物理的に無くなったけど彼はまだ生きている」というのは些か無理が過ぎると言わざるを得ない。

「────────────タクト?」

 怠惰Slothを極めた悪魔の呼び掛けに、当然ながら少年は何も答えない。

 輝きを失ったその瞳を向ける事すら出来やしない。


 少年は既に死んでいたから、息をする事すら出来ていない。


 例え脳が生きていたとしても、その脳を生かし続ける為のポンプ心臓がポッカリと消し飛ばされてしまったのだから、もはや少年は助からない。

「───全身全霊、心の底から心行くまで───」

 ペール・ローニーが造り出した蘇生機は死んだものを『生きている状態で造り直す』機械であるが、それには三つの要素が必要不可欠。

「───ボクは強くあらねばならない───」

 一つはペール・ローニーの法度またはそれに準ずるもの。二つ目はルーナティア国が備蓄している魔力貯蔵用の魔石を二秒で空に出来る程に膨大な魔力。

 そして三つ目は損耗の少ない体。手足の無くなった体や頭を失った体では、造り直すには質量が足りない。

「───どうか私に教えておくれ───」

 つまり「心臓を消し飛ばされたタクトの体」を使っても「心臓がある時のタクトの体」には戻せない。

 大量の魔力を使っても空っぽの魂を造り、ペール・ローニーの法度ルールによって得た『現在と過去』の情報をそこに書き込み────再構築された体に魂を入れる。

「……………………………………起きて、タクト」

 脳が生きていたとしても、もう脳を生かす手段がどこにも無い。倉庫にある妖精の魔法薬を全て使ったとしても、出来るのは新陳代謝の異常活性だけ。どれだけ代謝が活発化した所で、傷こそ治れど抉れた部分は元に戻らない。

「おはよう、タクト。おはよう、ねえおはよう。おはよう、ほら起きて」

 喉に力を入れる事すら面倒怠惰だと間延びした喋り方をする悪魔の少女。女性的な体に恵まれず、ベルフェゴールよりも強い女性嫌悪性から何もかもを信じられなくなったジズベット・フラムベル・クランベリーがゆさゆさと少年の体を揺する。

「起きてよ。ねえタクト、起きてよ。おはよう、おはよう、って言ってンだからさ────」

 もはや何一つ動かなくなった体を、ジズが懸命に動かす。吐息のようにしか聞こえぬか細い声で呼び掛けながら、ゆさゆさと彼の体を動かす。

 とめどなく溢れ続ける涙が少年の目元にぽたりと落ちる。それはただ物理法則に従って流れただけなのに、まるで少年が泣いているように見えたジズが彼の体を揺するのを止めれば、

「─────おはよう、早いねって………言ってよ」

 少年の体は動く事を止め、そのまま微動だにしなくなる。

 少年は死んでいる。脳は生きているが、心臓が死んでいる。心臓の代わりを用意する事も出来なければ、死んだ心臓を作り直す事も出来ない。

 つまり少年はもう死んでいる。脳死を待たずして、もう既に少年は死んでいる。

「───返せよ外道」

 眉間に青筋を立てたトリカトリ・アラムが静かに牙を剥き、何もかもを壊した女の何もかもを壊さんと太く大きな拳を振るうが、小さく「遅いわウスノロ」と呟いた魔王チェルシーに腹部を蹴り飛ばされ、為す術も無く吹き飛んでいく。

 未だかつて感じた事も無いような強さの蹴りに吐瀉物を撒き散らし、トリカトリはそのままルカ=ポルカの真横を転がっていく。けれどポルカは自身の髪を凪ぎながら無様に転がる仲間には見向きもせず、

「───お前が踊れよ───」

 意味が無いと分かっていながらも、それでも自身の思いの丈を世界に向けて宣言せざるを得なかった。

 言わずには居られない。口に出さずには居られない。吐き捨てずには居られない。

 そんな雄叫びにも似たルカ=ポルカの激昂にチェルシー・チェシャーが「無駄よ」と微笑む。

「害意なんて無いもの。まして悪意すら無い、私はただ自分の身を守る為だけにお前を殺そうとしているのよ」

ビッチクソ女が」

 何一つ感情の感じられない声色をしたポルカの言葉に、しかし魔王は「ビッチですって? アハッ」と楽しげに嗤う。

「吊られた男にもなれない『売られた女』が良く言うわ。何人の男を咥え込んだか分からないその口で、ビッチ売女はどっちって言葉遊びでもしたいのかしら」

 途端、魔王の姿が掻き消える。それまで二人の百パーセントを指先一つで全ていなし続けていた魔王の姿が消え失せ、まるでワープでもしたかのようにポルカの眼前に現れた。

Heyよう Fuck'n即尺 suckerクソ女. You小便 canでも drink飲んで itろよ peeお前

 しかしそれはワープでは無い。魔王チェルシーは魔法なんて使っていない。口汚く罵り返す魔王は、わざわざ魔法でワープなんてせずとも筋力を使って瞬間移動が出来る。

「寄るな汚らわしい」

 それをペール・ローニーが迎撃する。法度ルールによってその場に具象化させた六つの口の内、都合五つを攻撃に回したペール博士がポルカを守りながらも食い殺さんと攻め立てる。

「あら失礼ね」

 しかしチェルシーは再び瞬間・・的に移動・・し、元居た玉座の前に仁王立ちした。

 それはただの純粋な身体能力。魔王という肩書きにより「魔王らしくなるように」という周囲の信仰心から増強された身体能力による、瞬間移動にしか見えない芸当。

 それは決して人と悪魔だから身体能力に差があるという訳では無い。悪魔の王だから出来るという話では無い。

 そも人間と悪魔とでは根本的な概念に違いがあるのだ。

 人は誰かに何かを思われた所で大して変わらないが、悪魔は誰かに何かを思われるだけでその有り方が容易に変わる。人が物理的存在であるとすれば、悪魔はまさしく概念的存在なのだから、周りがどう思うかによって悪魔はその存在の有り方を周りの思うように変えていく。

 ………蝿の王として名高いベルゼブブは元々豊穣の神だったが、入植して来た宣教師によって「作物に集る蝿の王」と呼ばれ、いつしか数多の異教徒から邪教神と呼ばれ始める。やがて信仰心を失ったベルゼブブは「周りに望まれるまま」邪教神として堕ち続け、やがて魔王としてその形を定着させた。しかしそれでも人は飽き足らず、現在に至るまで「そうである」と求め続けた結果、地獄においてはサタンに次ぐ罪深さで、権力ではサタンに並び、その実力ではサタンすら超えてしまう程の存在に「された」のである。

 本来であれば豊穣をもたらし、不作と豊作を神託として人間に伝えながら、作物を荒らす害虫から人を救う神であったはずだった。

 しかし人の心が歪めば神も歪む。栄養バランスに気を遣わなかった人間がぶくぶくと醜悪に太るのと同じように、糧となる信仰心が歪めば幻想の存在も醜悪に有り方を歪めていく。

 けれど人はまだ良い。自己意識に改革を起こし、生活習慣を改善する事によって健康的な体を取り戻す事が出来るのだから、人はまだ良い方である。……良薬は口に苦し、忠言は耳に逆らう。誰かからの口煩い言葉に、それでもしっかり耳を貸す事さえ出来れば人はいつだって変わる事が出来る。

「正直な所を言うならね、もう飽き飽きしてるの。良い加減に振り回されるのも嫌気が差すわ」

 けれど幻想の存在はそうもいかない。

 人が生み出した人外たちは人の言葉から離れる事が出来ない。神の力をもってしても、ベルゼブブは創造神人間の意志に抗う事は出来なかったのである。

「だって納得出来ないんだもの。何で私が苦労してるのに彼は甘やかされてるのかしら。その差は一体何?」

 チェルシー・チェシャーは本来ただの淫魔サキュバスの一匹でしか無かった。ただ偶然名前を貰い、偶然その形を明確にし、偶然下克上を成し遂げ魔王の立場を得たというだけの淫魔サキュバスでしか無かった。

 けれどそこからは必然の連打。

 淫魔サキュバス如きが魔王になるなんて有り得ない。きっと相当な実力者なんだろう。淫魔サキュバスが使える魔法なんて高が知れてるぞ。だったら物理で前魔王を殺したんだろう。魔王の座を維持出来るぐらいには強いんだ。


 種族が淫魔サキュバスというだけで、中身は本当の魔王であるに違いない。


 彼女は変えられてしまった。兆候を感じ取ったペール・ローニーが何をしようがもはや全て手遅れだった。

 どんな世界も多数決が正義。声の大きいものが訴える言葉こそ世界の真理であり、それが正しいか間違っているかなんて一切関係無い。ルーナティア国だけでなく敵対しているサンスベロニア帝国の心理さえ傾いてしまったのであれば、今更ペール・ローニー一人が何をどうした所で是非も無し。もう長いものに巻かれる以外の選択肢は無かった。

「そこの糞虫の心がどれだけ弱かろうと私の知った事じゃないのよ。心の病に苦しんでるとか私にとってはどうだって良いのよ」

 だからこそペール・ローニーは見放さなかった。一匹の淫魔サキュバスが人心に弄ばれ狂ってしまった理由が「ただ偶然名前を貰ったから」である事を理解していたペール博士は、チェルシー・チェシャーという名の淫魔サキュバスが少しでも誰かの心に寄り添えるよう懸命に「チェチェ」という愛らしいあだ名で呼び続けた。例えそれが手遅れであるとしても、焼け石に水を掛けるだけの無意味な行いであるとしても、全ての責任は名を与えた自分にあるとして、心も体も陵辱されながらも一生懸命に「チェチェ」と呼び続けていた。

「辛くて苦しいとか全生物の共通意思なのよ? みんな辛くて苦しい中をそれでも頑張ってるっていうのに、何でそこのゴミは甘やかされてる訳? 不眠不休で命削って、それでも誰かの為に働き続けてる私が安定剤一つ貰えず血反吐撒き散らして働き続けているっていうのに、何でそこのゴミだけ悲劇のヒロインのように甘やかされてウダウダ休んでる訳? 百歩譲ってその幸せさを享受して立ち上がらんとしているならまだしも、何でそのゴミは甘やかされている立場に居ながら「自分がどれだけ恵まれているか」を棚に上げて不幸を噛み締めてる訳?」


「ああチェチェ、お前はもう手遅れだな」


 自分がどんな境遇であるか、自分がどんな環境に置かれているかは関係無い。どんな重罪を犯したか、どれ程他者の思いを踏みにじったかも関係無い。

 それは仮初めの罪。人が作り出した法という枠にしか当て嵌めれない体裁上だけの罪。

「予想通り、私にお前は救えないな。お前はもう、私の手の届かない所まで墜ちてしまったようだ」

「………はぁ? 堕ちてんのはそっちでしょう? 私のデカマラ突っ込まれてハメ汁垂らしてヨガってる女の方がよっぽど堕ちてると思うわよ」

「………はぁ。………本当に救えないな。チェチェ、キミはもう居なくなってしまったようだ」

「居るだろうがここに。頭腐ってんのかお前は」

「居なくなったものを救う事は私には出来ない。もう既に居なくなっていると分かっていれば、こんな無駄な事に無駄な時間を割かずにすんだものを」

「聞けよガバマン。……あぁ、マジで脳味噌腐ってんのかカチ割って確認してみるべきかしら」

 本当の罪は人が生み出した法で裁けない位置に有る。


 他者の心に寄り添えないもの、

 例え思ってしまったとしても、それを口にしてしまうもの、


 誰かの苦しみに嫉妬してしまうものこそが、

 最も裁かれて然るべき大罪人である。


「生きて償う事は無理だろうな。死を以て償え」

 あくまでも悪魔の言葉を無視して独りごちるペール・ローニーに「………うぜえなこいつ」と返すチェルシーが、次第にその表情を変えていく。

 それは直前までしていた淫魔サキュバスらしい淫靡なものから怒り狂ったような形相へと変わり、やがてその顔は虫のようなものへと変貌していく。

 瞳は無数の複眼に変わり、大きく裂けた口からは鋏角が見え隠れする。滑らかだった手足には横向きの小さな棘が生え始め、黒いヒールを突き破って飛び出た爪が床に敷かれた絨毯に刺さって食い込んでいく。

 けれどペール・ローニーはその様子に何ら思う事は無く「いや、少し違うな」と小さくかぶりを振って自己否定する。


「死を以て償え、では無い。────死を以て償わせる、だった。貴様の在り方に貴様の意思なんて関係無かったな」


 静かながらも果ての見えない怒りに突き動かされたペール博士が地面を蹴ると、それだけで謁見の間の床が地割れのように砕けていく。巻き起こされた風は真空波ソニックブームとなり、周囲の万物をヒビ割れさせる。

「───────────」

 それを前に、魔王チェルシー・チェシャーは身動き一つ取れずに殴り飛ばされるしか出来なかった。


 ………それは知る人ぞ知るペール・ローニーの実力。

 常日頃から彼女の側に居続け、彼女を愛し見詰め続けた魔法生物ぐらいしか知らない本当の天才の本当の実力は、最強だなんて陳腐かつ月並みで下品極まりない言葉でしか言い表す事が出来ないだろう。

 誰よりも探究心が強いという事は、一度でも「知りたい」と願った瞬間誰も追い付けぬ所まで辿り着けるという事であり、一度でも「自分はどこまで強くなれるのか」について興味を持てば、高々魔王なんて遠く及ばない程に強くなれるという事。

「早く死ね。目障りこの上無い」

「ぶ───ガ───ッ!」

 一発殴って、腕を引く。たったそれだけの動作にしか見えないペール・ローニーの右手の動きには二つの動作が含まれていたが、きっとそれはペール・ローニー以外には視認出来ていなかったろう。

 一発殴り、即座に戻って来た相手の頬を払い上げるように裏拳で弾く。

 ………それは素人相手では通用しない技。一発殴られただけでそのままよろけてしまうような雑魚相手では通用しない技。殴って来た相手を即座に睨み返せるような打たれ強く荒事慣れしている相手にのみ通用する本物の喧嘩芸だった。

「──────クソがァッ!」

 いつだかした殺し合いとは全く違う戦い方に魔王チェルシーが怒号を吐き散らす。あの時は法度ルールによって形を持った口によって物理も非物理も全て流され、非物理に至っては食われた側から丸々流用されていた。

「下品な口だな。それも作り替えてやろう」

 しかし今のペール・ローニーは自身の法度ルールを何一つ攻撃に回さず、掴み掛かろうと伸ばされた虫のような魔王の腕を逆に掴み、軽々と引き千切って投げ捨てた。

「─────ギ」

 ペール・ローニーが法度ルールによって具象化させる自身の願い、全てを食らうその口は決して暴食GluttonyMouthでは無い。

 ペール・ローニーは知りたいと思った事は絶対に知ろうとする強欲Greedの権化である。その強欲さが魔王チェルシー如きでは遥か遠く及ばない事は、その「絶対に知れる口」の有無からも明らかだろう。

「全て私好みに全て作り直してやろう。………百年程度前まで戻せば何とか軌道修正出来そうだな。まあ駄目だったとしてもまた作り直してやるから、安心してさっさと死ね」

 それを使わないという事は、詰まる所知りたいと思っていないという事であり、とどのつまりチェルシー・チェシャーに対してもう興味を持っていないという事。

「な───ガッ、………ギィ───げァッ!? ─────ギザマァァァッ!!」

 知りたいと思った事が必ず知れる。それはもう出来ない事なんて無くなるのと同義である。出来ない事があったとしても「どうすれば出来るか」が知れる。覚えられない事があっても「どうすれば覚えていられるか」が知れる。分からない事があったとしても「どうすれば分かるか」が知れる。

 ある種最も強欲Greedな彼女は、しかし暴食Gluttonyというには程遠く、何から何までを求めている訳では無い。

 何せペール・ローニーは知りたいと思った事しか知ろうとしない。

 そして何より、好みという概念がきちんと存在している。

 やろうと思えば魔王チェルシー如き一方的に蹂躙して理想通りになるまで永遠に作り直す事が出来る彼女だが、しかしそれは自分の好みでは無かった。出来る事なら正しいやり方でチェチェに帰って来て欲しかった。

 だからこそペール・ローニーは愚者の少年に頼った。自分の力だけでは正しい修正が行えないから、誰かの力を借りなければ彼女を殺すぐらいしか選択肢が無いから─────何でも知れる割に、知った結果自分に出来る手段がそれしか無い悔しさに涙を流しながら、彼女は少年という細い藁に縋ったのだ。

「もう無理だ。早く死ね。お前は要らない」

 全て諦めたペール・ローニーが魔王の喉を力任せに掴む。その動きすら魔王チェルシーには目で追えず、であれば背後で眺めているものたちにとっては何が起こっているのかすら理解出来ていないだろう。何せ喉笛を掴む際に一瞬触れたチェルシーの髪が摩擦で縮れるように焼け焦げたのだから、もう誰も追い付けやしない。音すら置き去りにしているのだから、それまでペール・ローニーが語っていた言葉なんて魔王チェルシーの耳には聞き取る事すら出来ないはずだ。

 しかし魔王は───チェシャ猫の名を冠したその悪魔は首を掴まれた瞬間、悪意の牙を剥いて人を誘った。


「ごめんなさいペロちゃん、大好きよ。愛してる。それだけは忘れないで」

「────────────」


 一瞬の間も無く虫の顔から元の素顔へと戻ったチェルシー・チェシャーが悲しげに訴える。

 それは悪魔のいざない。本心からの言葉でありながら、人をパンドラの底へと落とそうとする蛇の甘言。

 甘い日々が思い出される。懐かしい友の思い出が脳裏を駆け巡る。

 郷愁にも似た懐かしさに指の動きが止まる────、


お前・・の愛なんて興味無い。死ね」


 ────ような事はもう無かった。

 手遅れである。魔王チェルシー・チェシャーはもう手遅れである。もう助からない。もう助けられない。もう救えない。もう救われない。

 誰かの苦しみに寄り添えないようなものが、自身の愛に寄り添って貰える道理なんて無いのだ。

 チェルシー・チェシャーは救えない。ペール・ローニーだけで無く、チェルシー・チェシャー自身ですら自分を救えない。

 思い出での誘惑チャームを狙ったその一言は無慈悲にもごぎゅっという粉砕音と共にへし折られ、魔王チェルシーはそのまま血の泡を吹きながら絶命した。

「………………………………………ふぅ」

 制御を失い狂った電気信号に小さく痙攣し続けるチェルシーを掴んだまま、ペール博士が溜息を吐く。興味と好奇心に縛られるが、一度動けば物理的に他の追随を許さないペール・ローニー。

 そんな彼女はどうしてこんな土壇場に至るまで動こうのしないのかという疑問は、

「─────ぅぃでででで………あぁクソ───ぁ痛だだだだ………ゲホっ、ぇほっ」

 単に持久力と耐久力が致命的に乏しいからである。戦闘高揚によって抑え込まれていた筋肉の痛みが戻って来るに連れ、日頃の運動不足で衰えた体が酸素を求めて心臓を力任せに動かし始める。その頃になれば無傷無被弾だったにも関わらず、脇腹を抉られるような強い痛みが襲い出す。

 ペール・ローニーは興味を抱いた事しか追求しない。求めたもの以外は必要としない。故、緊急用として一時的に異次元規模の身体能力を得られる体こそ求めたものの、それを長時間維持する事には興味を惹かれずスタミナ周りに関してはほぼ手付かずなままなのである。

 ぜひぜひと荒い呼吸を繰り返せば、喉の奥から鉄錆のような香りが口内一杯に広がる。何度ゴクンと喉を鳴らしてもそれは止む事は無く、乳酸が溜まり重くなった膝が震え始めれば、片手で握っていた想い人の死体すら煩わしくなり投げ捨てたくなる。


 …………しかしそれを皆で笑って、これにて一件落着、とはいかない。


 愚者の少年の死。それを受け止めたものが、その事実に遂に理性を壊し始めたからだ。


 ジズ? 光? パルヴェルト?

 もしくはトリカトリ? 或いはポルカ? 新参のトト?


 否。


「───おなかへった───」


 付く家拠り所を失った空色の幽霊猫が、誰よりも何よりも暴走してしまっていた。

「やば───────こっちゃ来いジズぅッ!」

 状況を察した橘光が床を蹴る。法度ルールこそ効果時間が切れているが、焦りに少し無茶をした光は鼻の奥を熱い何かが流れる感覚に視界をチラ付かせながら、茫然自失のまま動く気力すら無くなっていた悪魔の少女を抱き寄せた。

「───おなかへった───」

 既に法度ルールを適応してスケアリー化していたラムネ・ザ・スプーキーキャットが都合三回目の法度ルール重ね掛けを行う。過去に行った実験ではこの時点でラムネの理性は完全に消し飛び、攻撃性の塊となっていた。

「───おなカへっタ───」

 にも関わらずラムネはその言葉思いを繰り返す。ラムネの法度ルールが適応される事で発生するパワードレインは完全な割合。具体的にどれだけの『生きようとする力』を奪うのかは数値化出来ていないが、法度ルール適応時のラムネの周囲にラムネが認識出来る生物が複数人居れば、その全員から累計百パーセントになるよう固定割合で『生きようとする力』を奪う。

「───オなかヘッたァァァ───」

 都合五回目の宣言。法度ルールの理不尽さばかりが際立つものの、中身はただのアイドル崩れであるルカ=ポルカが『生きようとする力』を奪われ過ぎて遂に意識を失いぐらりと倒れ込んでしまった。

「……っく、不味いッ」

 咄嗟にパルヴェルトが駆け出し倒れたポルカの胸倉を掴む。そのまま力任せに後方へと放り投げれば、大きな四本指をしたメイドが投げ出されたポルカを抱き寄せ、パルヴェルトは全身を投げ出すようにラムネから距離を取った。

「───オナガヘッタァァァァッ───」

 だけどそんな周りには何一つ意識を向けず、泣き叫ぶように世界に向けて思いを宣言し続ける空色の幽霊猫は、既に法度ルールによって奪った『生きようとする力』に体が耐え切れなくなり始め、文字通り目から赤い涙を流しながら叫び続けていた。


「───アアアアアアアアオナガヘッダァァァァァァァァッッ───」


「………ぎぃッ、耳ぃぃッ!」

 それでも繰り返す。大気を震わせる慟哭に抱き抱えていたジズを取り落とした光が両耳を塞ごうとも、それでも小さかった猫は大きくなる事を止めない。

「───ッゲァァァァァアアアアアアアオナガァァァァアアアヘッダァァァァァァアアアアアア───」

 遂に喉が裂けたのかラムネが口から血飛沫を吐き散らすが、それでも寄る辺を喪った猫は泣き叫び続ける。

 犬は人に付き、猫は家に付く。

 帰る家を失った猫は、懸命に鳴き続ける。

 帰る場所を返せと、居なくなった下僕に向けて鳴き叫び続ける。

「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア───────ッッッ!!!」

 この声を聞いた下僕が、きっと帰る場所を元に戻してくれると信じて。

 この声がきっと下僕の耳に届いてくれると信じて。

「───────────────────────」

 空色の猫が睨み付ける。全身の毛穴から噴き出た血飛沫に溺れる『生きている理由』を、力強く見詰める。

 ラムネの頭にはもう生きる事しか残っていない。敵も味方も、もう何も無い。

 自分が生きる為にはどうすれば良いのか。ラムネの頭にあるのは『生存本能』ただ一つ。


「ゲボグウウウウウウウウウウウウウウウウウウ───────────ッッッ!!!」


 だからこそラムネは足元の下僕に向けて叫び、


 その死体と混ざり合った。


 自分が生きる為に、

 自分を生かしてくれるものを生かす為に、

 自らが得た『生きようとする力』を全て分け与え、


 その猫は、かつて開けなかった夏の扉を開いた。



 ───────



 魔王チェルシー・チェシャーの死は決して語られる事は無く、まかり間違ってもルーナティア国に住む民草の耳に入るような事は無かった。

 それはルーナティア国に潜入している数多の間諜も同様であり、国内に放たれている草刈り師によって刈り取られていた大量のスパイたちではそもそもルーナティア城内に侵入する事さえ出来ていなかったのだから、魔王チェルシーがあの日あの場で首を折られて死んだ事は当然ながら、


「…………………………この私が殺されたなんてねえ、正直信じられないわ」


 ペール・ローニーの手によって作り直された事なんて知る由も無かった。

 ほこほこと白い湯気を立ち昇らせるマグカップに口を付けたチェルシーがこくりと喉を鳴らして中のコーヒーを飲み、余りの苦さと濃さに眉根を寄せる。

「ごめんね湯気子ちゃん、ちょっとお砂糖頂戴。五つ。お砂糖五つ頂戴」

「………もう三つ入れてたですう。糖尿になっても知らないですう」

 チェルシーの言葉にふよふよと体を動かした湯気子がシュガーポットから角砂糖を五つ取り出し、チェルシーの差し出したマグカップにぽちょぽちょと入れ込んでいく。それを見届けたチェルシーがゆらゆらとカップを回しながら「ペロちゃんのコーヒー濃いのよ。豆の量、確か三倍でしょ?」と呟いた。

「そりゃ寝れなくなるわって話よ。カフェイン中毒者もケツからカフェラテ漏らして逃げ出すわ」

「それカフェラテじゃなくてただの下痢便ですう、うんこ垂れですう」

「因みに私は血便ばっかりだからカフェラテは漏らさないわ。朝イチのおトイレは大体ビターコーヒー、毎朝便器を真っ黒にしてるわ。正直辛い」

「どっちにしてもうんこ垂れですう。というか陛下生まれ変わったのにお口悪いまんまですう。百年以上前の陛下に戻ったのに、百年以上前から陛下既にお口わるわるですう」

 呆れ果てた湯気子の言葉に「あそういえば」とチェルシーが思い出したように「ねえペロちゃん」と白衣の探求者の名前を呼べば、何でも無いかのような声色をしたペール博士が「何だチェチェ、どうした」といつも通りの呼び方で返事をする。


「私の事、生き返らせて良かったの?」


 風の魔法を使ってマグカップの中身を撹拌させるチェルシーの言葉に、ペール博士が「ふむ?」と小首を傾げる。そのまま「問い掛けの意図が分からんな」と続けたペール博士は、アルコールランプにくべられ沸騰し始めていたビーカーを魔法で浮かばせ自身のマグカップに向けてだばだばと乱雑に注いでいく。

「溺れてたんでしょ? 私、周りの思いに溺死させられてたんでしょ? なら生き返らせちゃ不味いんじゃない?」

「何故不味いんだ?」

「いやだってそうでしょう。生き返った所で、また周りの思念に引っ張られて溺れるだけ………ペロちゃんに乱暴なエッチするようになって、………えと、何だっけ、タケシくん? の事、また殺しちゃうんじゃないの?」

 チェルシーの疑問に「タクトくんだよ。覚えてあげろ、それがせめてもの詫びだ」と返したペール博士がコーヒーを口にする。

 三角フラスコの底をくり抜き、逆さまにした簡易の漏斗ろうと。そこにキッチンペーパーを突っ込み、手で握ればギッチリと硬い粉団子が出来るぐらいの極細まで挽いたコーヒー豆をスプーン山盛り四〜六回入れる。そして蒸らしも何もしていないそれに、アルコールランプとビーカーで沸騰させたお湯をだばだばと流し込む、風情もクソもあったものじゃない酷い煎れ方をした特濃のコーヒー。

「まず前提が間違っている。私はチェチェを生き返らせてなんかいない」

 それをやはり風情もクソも無くごびごびと飲むペール博士に「………私生き返ってるけど?」とチェルシー・チェシャーが首を傾げた。

「キミは二人目のチェチェだ。一人目じゃない。だから周りの信仰心に振り回される事は有り得ない」

 ペール・ローニーが作り出した『人体蘇生出来る便利な機械』こと蘇生機は、便宜上『蘇生』と銘打ってはいるものの、実際に生物を蘇生させている訳では無い。

 体こそ元々あった死体を流用するが、大本命である魂は膨大な魔力によって創り出された全くの別物。そこにペール・ローニーの法度ルールを用いて得た『現在と過去の情報』を書き込む事で、擬似的な蘇生を成り立たせているだけの話である。

 今回は創り出した魂に書き込む情報を制限し『魔王として確実に動ける知識や経験が残っている』と『魔王として歪んでいない』の二つを条件に、二人目のチェルシー・チェシャーを生み出した。

 故にこのチェルシーは愚者の存在を知らず、まして自分が殺した少年の名前なんて記憶にすら無い。覚えていないのでは無く、そもそもサンスベロニア帝国との戦争に際して愚者を呼び出したという事すら『知らなかった』のだ。

 そんなチェルシー・チェシャーの様子を受けて「分かり易く言うとだな」とペール博士が向き直る。

「私は『過去のチェチェ』へと『現在のチェチェ』を作り直しただけだよ。民草が知っているのは『今のチェルシー』とは全くの別物なんだ、何を思われようとも『私の前に居るチェルシー』は影響を受けない」

「…………………分かり、易く……? ……………?」

 ペール博士のその言葉にチェルシーがアホ面になる。言っている事の意味が何一つ分からず助けを求めるようにチェルシーが湯気子を見やるが、湯気子はもっと意味が分かっていないようで。さながらFXで有り金を全部溶かした時のような顔をしながら、そもそもペール博士の説明を聞きもしていなかった。

「………ごめんなさいペロちゃん、意味が分からないわ」

「違うな、意味を分かろうとしていないんだ。チェチェは考える事を放棄しているだけだ、良く噛み締めれば良く分かる」

「気分は鮮度の良いホルモン食ってる時と全く同じよ、いつまで噛んでも飲み込み時が分からないんだもの。思考放棄して吐き出したくもなるわ」

「作り直しにミスでもあったか? 聡明なチェチェらしくない。お前牛ホル好きだろう」

「無茶言わないでよ。…………シェパード家の坊やが喧嘩売って来たまでは余裕で飲み込めるけど、この私が求められるまま他欲に飲まれて我欲に溺れたって言うじゃない。その時点で既に度し難いのに、更には徒手空拳のペロちゃん相手に何も出来ずブチ殺されたとか言われてるのよ? 意味不明よ、貴女隠しボスか何かだったの? ちょっと強過ぎない?」

「わけわからんぴーぽーですう」

「湯気子、キミは取り敢えずその顔をやめたまえ。何か……こう、何か凄い腹が立つ。私は煽られているのか? 私を煽っているのか? トロールフェイスの方が何倍もマシだよ」

「ばななあ、ですう」

「その顔もやめろ。怒るぞ」

 霧状の物質ダストで構成された顔を、まるで脳がショートしたかのようなアホ面へと切り替える湯気子に博士が「何でお前はムカつく顔ばかりバリエーション豊かなんだ」とツッコミを入れるが、湯気子は何も気にしていない様子で「ゔぁー、ですう」とアホ面を止めない。

 ………民草が言う「魔王チェルシー」は、もう今ここに居る「魔王チェルシー」とは別の存在である。ペール・ローニーが作り出した蘇生機は便宜上『蘇生』と銘打ってはいるが、実際には『瓜二つを作り出す機械』。確かにチェルシー・チェシャーは悪魔であり、今も昔も変わらず幻想の存在なので周囲の信仰心によって影響を受けてしまうが、「今のチェルシー」は『今のチェルシーが過去のチェルシーとは全く別の生命』である事を知っているものの思いしか受け付けない。

 他者の畏れや畏敬といった信仰心に振り回され我欲に溺れた魔王チェルシーを仮にAとするならば、今ここで湯気子と全く同じアホ面をしているチェルシーはBである。どちらも同じく周りの心によってその在り方を変える幻想の存在ではあるが、外見こそ同じなAとBとでは、しかし魂が異なる中身が全くの別の存在。

 そんな事情を知らない民草が幾ら「魔王チェルシーは本物の魔王だ」と思った所で、民草の言う「魔王チェルシー」とやらはAを指し示している。故にここでよだれを垂らし虚空を見詰めながら「おま◯こお」と呟くチェルシーBはそれらから影響を受けず、魂が全く別のものへと作り直されている事………要は一度死んで、その後作り直された事を知っているペール博士や湯気子、太陽と月、寄る辺を失った『いつものメンツ』ぐらいしか彼女の在り方に影響を与える事は出来ないのである。

「なるほど分かったわ。いや全然分かんないけど、分かったわ。分かった事にして話を進めて頂戴、もうそれで良いわ、無理。じゃなきゃ話が進まないもの、あきら明太子めんたいこ

 脳味噌が蕩けているとしか思えないアホ面から、小ジワの多いキリッとした顔に戻ってそう返すチェルシーに「何故ドヤ顔なんだい」と呆れるペール博士。

 ………可能であればこんな手は使いたくなかった。チェルシーの身体能力に関しては定期検診と運動力テストの結果から予測しており、どういった状況に持ち込まれても自分が負けて「はいガメオベラGAME OVER」とならない事だけは分かっていた。

 けれど余りにも傲慢Pride過ぎるこのやり方には強い嫌悪と抵抗感があり、自分がマッド狂気と呼ばれている事を見せ付けられているような気がして選びたく無かったのだ。

 それでもペール博士が実行に移ったのは、最も懸念していた「周りに対して最も影響力の強いとある少年」が殺された事が最たる理由だったろうか。

 彼は自覚こそ無く、むしろ自分が最も周りに影響される人物だなんて思ってはいるが、彼の心の動きが周囲に対して与える影響はとても大きく計り知れない。そんな少年が「作り直されたチェルシーB」に対して、どんな影響を与えてしまうのかが余りにも不確定過ぎたのだ。


 だからこそ怒りに任せて殺す道を選んだ。

 もう何も憂う必要が死んでしまったから、

 もう何も躊躇わず殺す道を選んだ。

 

「…………彼、タクト君だったわね。…………ねえペロちゃん、彼は戻るの? 戻って来るの? 私は彼に、何かしら償う事が出来るようになるの?」

 愚者の少年は死んだ。彼が死んだからこそ彼女を殺したのだ。

 魔法によって撃ち抜かれた心臓は小さな衝撃と共に塵も無く弾け飛び、蘇生機を使用して作り直すには構成物質が欠けている状態になってしまった。

「…………………………分からない。知りたくても知れない。我々に出来る事は待ち続ける事だけだろう」

 心臓という生きる力。生きる為に必要な部位を欠損してしまった彼に対し、空色の幽霊猫は周りから奪い続けた『生きようとする力』を自らの存在ごと彼の中にねじ込み補完した。

 結果として少年の心臓は自己再生が如く作り直され、左胸に大きな傷痕こそ残ったが確かな脈動を繰り返すようになってくれた。

 少年は生き返った。少年は生きている。

 しかし少年は起きなかった。意識不明、弱い血圧と遅めの心拍数を維持したまま、今は魔力によって空気を動かす人工呼吸器と点滴に繋がれ自室だった場所で眠り続けている。

「ペロちゃんが作り直すのは駄目なの? 連続で魔力の再充填するから多分国庫はスッカラカンになるけど………それでも私、聞いてる限りでは安いものだと思うわ。ペロちゃんがそんな愛おしそうに語る男の子、会いたいもの。会ってみたいもの。お喋りしてみたいもの。お付き合い出来そうなぐらいに心優しくて素敵な子としか思えないもの」

 魔王チェルシーの提案にペール博士がゆるゆると首を振る。その後「出来ない訳では無いがね」と訂正を入れながらも「どうなるか分からん」と否定を押す。

「今の彼の体には魂が残っている、それも二つ。新たな魂を入れて作り直すとして、体に残ったままの二つの魂がそれにどういった拒否反応、抵抗を示すかどうか予測も付かない」

「………蘇生機を調整して、魂を入れずに体だけ作り直すのは?」

「猫と少年。どっちが宿主になるか分からないが、それでも良いかね」

 その言葉にチェルシーが黙り込む。

 ………魂は周りの物質をねじ曲げ傷だらけにしてしまう程に強い影響力を持つが、それは「周りの物質を作り直せるぐらいの力がある」とも言える。

 仮に少年が死んで、魂が欠落した直後であれば新たに作り直した「少年の体の状態を覚えている魂」を入れ込む事で、「魂に体の状態を戻して貰う」事も可能だったかもしれない。魂にかなりの負担は掛かるだろうが、理論上魂のというものはそれぐらいには強い力を持っている。

 けれどそれは理論上の話。実際魂がどう動いてくれるかは誰にも予想なんて出来ず、そもそも魂に書き込まれた『現在と過去』が「生き返りたくない」とそれを拒否する事だって有り得る。

 特に愚者の少年であれば、それは大いに有り得る話なのだ。

「待つしか無いよ。…………今何を語ろうとも後の祭りでしか無いんだ、待つしか無い。現状出来る事は、少年の体を身奇麗にしてやって、毎日語り掛けながら座して待つぐらいだ」

 温かなコーヒーをごくりと飲み込むペール博士に魔王チェルシーが「……そう」と返す。しかしそれは悲しげなものでは無く、凛としていて力強い相槌だった。

「償う為には、まず償いの場を設ける必要があるわよね」

「……む?」

「国庫から出して良いわ、点滴代と魔石代。ペロちゃんが自腹切る事は無いわ。………正直記憶にすら無いから実感なんて一つも無いんだけど、それでも「もう一人の私」が彼を痛め付けてしまったんでしょう? 私大概クズだけどね、それでも慰謝料の支払いから逃げるようなカスじゃ無いつもりよ。公的に帳簿に残して支払って良いわ。きっとその子は、国の血を賭けるだけの価値がある」

 出来る事がそれしか無いなら、ただそれを行うまで。大人としての責任を子供に見せるくたびれた淫魔サキュバスの王の言葉に、ペール博士は「賢明だな」とだけ答えた。



 ───────



「………………………タクト」

 小さな悪魔の女の子は呼び続ける。気が付けば大好きになっていた、心の弱い少年の名を呼び続ける。

 朝も夜も無い。丸四十八時間の間、悪魔の少女は大好きな男の子の名前を呼び続けていた。

 ロクにものが置かれていない机の上にある二つのバスケット。「ボクに出来る事は、今すべき事は、これだけだから」と用意された二食分のサンドイッチが乾いてアルファ化を始めようとも、何一つ手を付けず呼び掛け撫で続ける。

 アボカドとマスタードを使ったシンプルの極地のようなサンドイッチ。その優しくも力強い香りに確かに食欲はそそられるが、口を開く事すら出来なくなった彼を尻目に自分だけがそれを楽しむ気にはどうしてもなれなかった。

「………………………タクト、起きて。お願い、起きて」

 悪魔の少女が少年の髪を撫でる。

 黒かった少年の髪を、不自然な空色に変わってしまった少年の髪を、優しく優しく撫で付ける。空色の幽霊猫から分け与えられた『生きようとする力』に影響を受けたのか、短めだった少年の髪はただの一日で自分よりも長く伸びていて、それが指の間を通り抜ける感覚がとても心地良かった。

「………………………タクト、起きてよ。起きて、タクト」

 穏やかな寝息と共に規則正しく上下を繰り返すその胸元は、しかし悪魔の少女がどれだけ呼び掛けようともその動きを乱す事は無い。

「…………………………ねえタクト、起きて。おはよう。おはよう、タクト」

 それでも名を呼び続け、それでも頭を撫で続ける。いつしかそれが惰性に変わらぬように、確かな習慣としていつまでも続けていられるように、掠れ切った喉を懸命に動かしその名を呼び続ける。

「…………タクト、タクト。耳、猫耳似合わないわよ。………ねえタクト、起きて。「そんな事無いだろ」って、「キュートだろ」って言って。起きて、答えて」

 何にでも猫耳生やしとけばウケると思ったクリエイターが取って付けたような空色の猫耳。人の耳と獣の耳とで四つの耳を持ってしまった少年の耳元を、悪魔の少女が泣きながら撫でる。けれど獣の耳は煩わしさにぴこぴこと振り回される事すら無く、悪魔の少女は不自然に残った人の耳を、長く伸びた空色の髪で覆い隠す。

 泣いていたのに、泣いているのに、気付けば涙が出なくなっていた。

 心の天気は雨なのに、少女の瞳に映る彼の髪は空色だった。

「………………………………………タクト」

 後悔ばかりが募る。いつだって誰かの死に隣り合わせた時は後悔しか浮かばない。

 助けられただろうに、助けられなかった。助けなかった。体が動きもしなかった。哀しみに暮れ、起こった出来事を受け止められず黙ってへたり込む事しか出来なかった。

 好きだった。それぐらい、大好きだった。

 愛するものを殺された怒りに狂う事すら出来ず、愛するものが死んでしまった哀しみに喚く事すら出来ず、ただその名前を呼んで必死に起こそうとする事しか出来なかった。

 後悔しか無い。もっと一緒に遊んでいれば良かった。もっと一緒に笑っていれば良かった。彼の言葉にもっと耳を貸し、彼が望む行為をもっとしてあげれば良かった。隙あらばやらしい事ばかりしたがる彼に、もっと応えてあげれば良かった。

 彼は我慢していた。自分のような不出来な女の事を思って、自分のような出来損ないの心を尊重して、心の弱い少年は一丁前に我慢してくれていた。


 誰かが死ぬといつも思う。


 彼は幸せだったのだろうか。

 私は幸せにしてあげられたのだろうか。

 彼は私と共に居て幸せだったのだろうか。

 私は彼に我慢ばかりさせていたけれど、

 彼はそれでも幸せだったのだろうか。


「……………………………………………」

 答えなんて返って来ない。答えるものはもう居ない。浮かんでくるのは自分を慰撫する醜く下品な事ばかり。

 いっそ狂ってしまえれば良かったのかもしれない。その言葉は嘘だと、夢幻の花畑にある蠱惑の薫りなのだと、そう思えないぐらいに狂ってしまえれば良かったのかもしれない。

 そうすれば、少なくとも自分は幸せだった。

 幸せなまま、鈴蘭畑で死ねていた。

「………………………タクト、体拭くわね」

 少女が少年の体に触れる。温かく、生きている少年の体に触れる。

 その体を拭いてあげねばならない。今の彼は自分の力で自分を身奇麗にする事も出来ないのだから、せめて側に居る自分が彼の代わりに彼を綺麗にしてあげたい。

 おむつを替える事だって躊躇わなかった。脱がしたズボンの中、排泄物で汚れたそれを目の当たりにしても何一つ抵抗感なんて無く、知らぬ人であれば顔をしかめて嘔吐えずいてもおかしくない汚物の臭いにすら何も感じなかった。

 ただ胸が苦しくなるだけ。ぎゅっと強く締め付けられるように胸が苦しくなるだけ。

 こんなに好きだったんだと、もう手の届かなくなった想い人への気持ちを再認識させられて、何もかもをかなぐり捨てて泣き喚きたくなるだけ。

「…………………………傷、残っちゃったわね」

 上着を脱がせた少年の胸元。決して見て見ぬ振りなんて出来ぬ程に大きい、丸い傷痕を指で撫でる。乳首ごと吹き飛ばされた少年の胸元、その薄茶色の乳頭があった部分にそっと指を這わせれば、浮かんで来るのは強い後悔と嫌気の差すような強い吐き気。

「─────────────タクト………ォ」

 謝りたくなる。ぐるぐると腹の中を駆け巡る後悔に、胃袋の中身ごと思いの丈を吐き出してしまいたくなる。

 けれど少女はぐっとえる。とうに涸れたと思っていた涙を擦り、垂れてくる鼻水を力強く啜りながらも「謝る事だけは違う」と懸命に頭を振ってこらえ続ける。

 泣いてはいけない。辛く苦しい時ほど、泣いてはいけない。

 泣いてはいけない。泣いてしまえば心がすっきりしてしまうから。

 絶対に泣いてはいけない。泣いた後にすっきりするのは、胸の思いが涙と共に流れ出てしまっている証だから。

 この思いを溢れさせる訳にはいかないのだ。

「ふ、拭かなきゃねェ。体、痒くなっちゃうからねェ。綺麗───っく………んっ、く───き、綺麗にしてあげるわねェ」

 くしぐしと目元を擦り、必死に微笑みながら少年の上着を脱がしていく。痙攣を始めた横隔膜がしゃっくりのように跳ね始めても、必死に耐えながら笑い掛ける。

 後悔ばかりが募る。こんな事になるなんて思わなかったから、医療の知識や介護の知識なんて調べもしなかった。植物人間同様になってしまった人に対する床擦れの対策はどうすれば良いんだろう。横を向かせて、体を拭く時に背中の皮膚をマッサージしてあげれば少しはマシだろうか。………ああそもそもどういう原理で床擦れが起こるのかすら知りやしない。後悔ばかりが募る。調べておけば良かった。明日は我が身、いつどこで誰がどうなるかなんて分からないのだから、知る事の出来る知識は全て知っておけば良かった。

「………………………………タクトぉ……っ。教えてよぉ………っ」

 でもきっと彼は知っている。基本の知識力は低い癖に、妙な所で無意味に知識豊富な彼はきっと介護の知識も知っている。だっていつだか二人で城下町に行った時、彼は腰を悪くした小物屋のお爺ちゃんを丁寧に起こしていた。あの時の彼はお爺ちゃんの体にピッタリと抱き着くようにしながら体を起こしていた。「はい、僕にぎゅってして……そうそう。じゃあ起きるよ。よっ、こい、しょー」と穏やかな声色をした彼は、介護関係の基礎知識をひけらかす事無く黙って実践していた。

「……………どう、どうすれば良いのぉ………っ。どうすれば起きてくれるのぉ……っ、教えて、教えてよぉっ、ねえっ……………タクトぉ……っ」

 声に力が入らない。いつも通りの声が出せない。いつも通りに喋れない。こんな弱々しい声では─────こんな女の子らしい声では、彼を起こすには到底足りないだろうに。

 上手く出来ない。『いつも』と違う起きない彼に、『いつも』のように声を掛ける事が出来ない。


「──────────────タクトぉ………ッ」


 鳴り止まない喘鳴。溢れ続ける涙。止まらない嗚咽。


「──────ん」


 ともすれば聞き逃してしまいそうな程に小さな小さなその呻きに、悪魔の少女は頭が真っ白になったように身動きが取れなくなった。

「………………んん、んぅ」

「──────────────────」

 何年振りに聞いたかという程に懐かしい声。丸四十八時間意識を失い寝通していた事で体が軋むのか、少しぎこちない動作で自身の目元をこしこしと擦る愛おしい彼の動き。

 ゆっくりと体を起こしていく彼の動き、それを脳が少しずつ処理していく。


 帰って来た。帰って来てくれた。奇跡が起こった。


 ならば、待っていたものが返すべき答えは一つだろうと、見栄っ張りな悪魔の少女は慌てて目元の涙を擦る。まだ少し痙攣が残る横隔膜を、お腹に力を入れる事で必死に抑え込む。

 ずっと言いたかった言葉を、帰って来たものに対するその言葉を、少女は今か今かと待ち侘びる。

「………………………さむい………あれ、ぼくはだかだ」

 けれど目を覚ました少年の言葉に、悪魔の少女は強い違和感を覚えた。

 言い様の無い違和感。何もかもがいつも通りのように見えながらも、何もかもが違うようなこの感覚。

「………ん、ん? ……………あれ? なんなんは? にゃーん、なんなーん。どこ? あおいなんなん、どこいったの?」

 違和感は予感に、予感は確信に。横隔膜の痙攣が治まった少女、ひっくひっくとしゃくり上げていた体の震えが止んだ少女は、迫り来る絶望の影に体の震えが止まらなかった。

 未だかつて無い喋り方で、未だかつて無い呼び方で、居なくなった空色の猫を探し続ける少年・・が「あれ?」とようやくその目をこちらに向ける。

 後悔しか無かった。言ってあげたいと思う事すらおこがましかったのだと、自分にそんな幸せを享受する権利なんて無いのだと、奇跡なんてどこにも無いのだと、


 全て投げ出して再び引き篭もっていれば良かったのだと、強く後悔した。


 空色の猫は少年を守った。少年が生物として壊れてしまわぬよう、自らの持ち得る全てを使って少年を守った。

 死んだはずの空色の猫は、少年のお陰で生きてこれたから。度し難いエラーによって寄る辺が無ければ生きていけなくなった死んだ猫に、少年は何の対価も留めず自身の体を貸してくれたから。


 そのお陰で生きてこれたから。

 一緒に居て楽しかったから。

 死んだ猫は幸せだったから。

 小さな猫の、小さな恩返し。

 面と向かっては言えない天邪鬼な猫の、せめてもの恩返し。


 おれしあわせだった、ありがと、げぼく。


 ずっと言いたかったのに、いつも言えなかった言葉。

 いざ言おうと少年の温かい膝に乗れば、いつも決まって眠くなってしまうから。

 その言葉を伝える勇気は無かったが、

 けれどいつかどこかで言おうと思っていた。

 どこかで必ず、言えなくなる前に言おうと思っていた。

 

 少年が死んでしまえばもう二度と言えなくなってしまう。

 少年に死んで欲しくない。少年に生きて欲しい。

 自分の事を生かしてくれていた少年に、自分の分まで生きて欲しい。


 その為ならば、猫の一念は岩をも穿つ。

 その為ならば、空色の猫は夏の扉を開く事すら厭わない。


「おねえちゃん、だれ?」


 その為ならば、何だってする。


 その為ならば、穿たれた心臓を作り直す事ぐらい容易い。


 その為ならば、生きる為に必要の無い記憶要らないものを消してでも、


 死んだ空色の猫は少年を生かしてみせる。


「──────────────────うそ」


 あの日、言って欲しくても言って貰えなかった言葉を前に、


 悪魔の少女は「おはよう、おかえり」とは言えなかった。

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