6-4話【太陽の黒点】



 ある人は言いました。

「この世の人間の六割は自分の事で精一杯な連中で、二割は他人に理解を示している気になって喘いでいるだけの連中で、二割は理解を示して貰えない事にキレ散らかしてるキ◯ガイで、お前の事を真に理解してくれるような奴は世界に一握りすら居ない」

 その人は「俺は理解者を気取りながら知った風な口聞いてるだけの二割だよ。自覚があるだけまだマシな部類だとは思うけどね」と笑いながら締め括り、残り少なくなった甘口の日本酒を一気に煽ります。乾いた唇を酒精で湿らせた彼は「そろそろ帰ろうか」と席を立ち、そのまま僕と二人で会計を済ませ、「気を付けて帰れよ」と言い合いながら別れました。


 大して酒に強くない割に付き合いで酒を飲んだ僕は、もう何も考えられなくなっていました。

 ………いえ、何も馬鹿の飲み薬の過剰投与オーバードーズで頭が壊れている訳ではありません。確かに千鳥足ではありましたが、意識はしっかりしています。一本分けて貰った手巻きタバコジョイントがガンジャ入りだと知らず、開いて閉じなくなった瞳孔により信号機が尺玉花火にしか見えなくなった時と比べれば遥かに世界は明瞭です。

 彼の言葉はしっかりと頭に入り、少なくとも寝て起きてを繰り返しても忘れる事無く一言一句思い出せるぐらいには意識がはっきりしています。だからこそ僕はもう何も考えられなくなっていたのです。

 彼の言葉が本当なのかどうかは、結局の所誰にも分かりません。それが真理を突いた至言なのか、弱った相手の心理に付け込む甘言なのかは誰にも証明する事が出来ません。何せそれを証明する方程式などこの世には存在出来ないのですから、出来る事は宇宙を調べる人たちがするように「仮定の話だけど」と机上で空論を語るぐらいのものでしょう。

 ですがもし机上の空論で語る事が許されるのなら、「結果ありきでものを語るな」という言葉を無視出来るのなら、彼の言うその言葉が真実であるとするのなら、


 他人から理解を得られなければ治せない心の病を持つものは、運命的な出逢いに恵まれない限り────運が良くない限り、心の病を治す事は出来ないのでは無いかと。


 ──────僕は永遠に健常者にはなれないのではないかと、そう思って止まないのでした。



 ───────



 そもそもの話として、ルーナティア国はクソが付く程に広い。西地区の端から東地区の端まで歩いて行こうものなら、きっとその人はとき◯きメモ◯アルのヒロインよりも簡単に足に爆弾を抱えてしまうだろう。それでも諦めず歩き続ければ、無意味に感情的で鬱陶しい野球部員の友人眼鏡野郎に「終わってしまったでヤンス……」とか言われ、僕の両足サクセスモードは終了する。

 そんな兎にも角にも広過ぎて嫌になるようなルーナティア国だが、力が全てを統べる物理的実力社会である関係から国民の総数はそこまで多くない。住みやすい国かと問われれば「野宿するよりは百倍マシ」という良いんだか悪いんだか極端過ぎる意見で溢れるルーナティア国は、現時点では新築の家を建てる為に開墾を行う必要が無いぐらいにスペースが余っている区画がかなり多い。

 そういう場は得てして不良や社会不適合者が集まり易いものだが、現在のルーナティア国を統治する魔王であるチェルシー・チェシャーの政治手腕により、その手のねじ曲がった連中は軒並み挽肉にされるか力尽くで真っ直ぐに矯正されたのだから、あの女性は何だかんだ人の上に立つ才能があったんだろう。

 そんなこんなで余った土地は子供たちの格好の遊び場になっていて、毎日誰かしらは金切り声を発しながら元気に走り回るのが日常となっていた。

 力が全てを丸め込み、力が無いものは上に従うしか無い。そんな「野良犬かよ」と思ってしまうような物理的縦社会にあっても、それでも子供たちに手を上げる大人は決して多くない。

 子供は怪獣、子供は宇宙人。言っても聞かないし丁寧に説明しても飽きて駆け回るような宇宙人も居るのだから、痛みで学ばせるものが居るのも納得は出来る。けれどそれは子供がいつか子供を殺さぬようにと教えているだけであり、突き抜けて虐待まで行くような事は決して無い。痛みとは何なのか、何をすると痛みに泣かされてしまうのかを教わり、学んだ子供はやがて大人になった時に同じように子供を育て成長を見守るようになるのだ。

 そんな未開発区の広い空き地に集まる子供たちは遊びに飢えて日々金切り声を上げているが、今日この日に関しては総じて静かにルーナティア国の一角を呆然と眺めるばかりだった。

「…………おっ、まただ」

 集まった子の中、誰かが小さく呟いた。

 広い広いルーナティア国の中、その中央区に陣取るとても大きなルーナティア城の屋根が吹き飛び、数多の屋根瓦と瓦礫を撒き散らしながら灰色の煙をもうもうと立ち昇らせる。それを目視で視認してから一瞬遅れで強い衝撃が子供たちの体を震わせ、遠くから響くボゴーンという冗談にしか思えない音がぼんやりと鼓膜を震わせる。

 これで都合三回目。最初の一回は恐らくルーナティア城の壁か何かが吹き飛ばされた音であり、二回目は屋根が吹き飛んだ音。そしてこの三回目は、ぽっかりと開いた屋根の穴を更に拡大させるかのような爆発だった。

「…………………この国やべーな」

 子供たちの中、特に小賢しいガキ大将が何とも無く呟く。それはきっとどこの世界のどこの国の国民もが一度は自国に向けて言う言葉であり、その言葉はまさしく至言だった。



 ───────



「無様な姿ですね、銀陽ぎんよう

 氷のように冷ややかな目をしたルーナティア国の女軍人である金陽きんようさんが斜めに被った軍帽の位置を整えながら呟くと、ペール博士の適応した法度ルールに首から下を丸呑みされている状態の銀陽さんは「こういうのもアリだと思いますよ」と落ち着いた声色で返した。

 広い広いルーナティア国の中央付近、そこにデカデカと建てられたルーナティア城の中でも最も広い場所である大広間。ルーナティア城の正面にある門を抜けた先にいきなり広がるその空間は、身長三メートルを超えるクソデカメイドことトリカトリ・アラムが体型そのまま子供還りして無邪気に走り回ったとしても余裕がある程に広い。

「無様この上ありません、恥晒しも良い所です。………ああ銀陽、今の貴方は何の為に息をしているのでしょうかね。いっそ舌でも噛んでくれれば、私は誇らしく胸を張れるというのに」

 そんな大広間の奥にある階段。ゲームなんかでデカい屋敷に入ると大体ある『左右に階段が伸びてて二階に向かえるアレ』の踊り場の手すりに腰を掛け、不機嫌そうに足を組みながら僕らを見下ろす金陽さんに「そう言わないで貰いたいですね金陽、私とてこんな結果になるとは思いもよらなかったんですから」と自嘲気味に微笑んだ。

 それを聞いた金陽さんが即座に「ほう?」と小首を傾げる。

「貴方程の戦士が自らの負けを考えなかったと? 貴方は自らの力に驕り高ぶり、命乞いをする数多の敵を踏み潰しておきながら、今際の際に「何で俺が死ぬんだ」と喚き散らすような輩だったと?」

 あくまでも無表情の金陽さんが凛とした透き通るような声色でそう問い掛ける。しかしその声は鈴の音のような細く儚げなものではなく、どちらかといえばフルートやピッコロのような金管楽器の音色に似た力強く脳髄に響くようなもの。

 銀陽さんの言葉を聞き逃さんと、斜めに被った軍帽からはみ出た金色の猫耳を向ける金陽さんに「ああいえ、そういう意味ではありません」と銀陽さんが訂正する。

 その言葉に金陽さんは何も返さず、組んでいた足の向きを変えながら腕を組む。傾げたままの小首をそのまま、軍帽からはみ出た金色の猫耳と同じ金色の尻尾をかなりの速度でゆらゆらと揺らす金陽さんは恐らく相当機嫌が悪い。場所が場所であれば床に尻尾をぺっすんぺっすんと叩き付けていただろうが、生憎今の金陽さんが座っているのは手すりの縁。

「我々が呼び出した愚者たちは、我々が思う以上に躊躇わなかったという話ですよ」

「…………銀陽、申し訳ありませんが私には貴方が何を言いたいのか分かりかねます。今の時点では負け犬の言い訳にしか感じられません。ノミが居なければ勝てた、瓜実うりざねが居なければ勝てた、と。そう言い訳する見簿みすぼらしい老犬にしか見えません。ですが私の知る銀陽は、そんな事は言わないはずです」

 表情は冷徹無比、その声はつめたくえた金管楽器を鳴らした直後のような冷血れいけつさが篭っている。しかし彼女の心が今にも弾けんばかりに強く燃え盛っているのはその尻尾からすぐに察する事が出来る。大して親しくも何ともない僕ですらそれが分かるのだから、当然ながら親しいを通り越してメイドたちから「デキてる」という疑惑を掛けられる程の関係である銀陽さんがそれを察せないはずは無い。

 けれど銀陽さんはまるで対になるような銀色の犬耳をぴこぴこと跳ねさせながら「それは貴女の勝手な妄想ですよ」と彼女の言葉を一蹴する。

「というか言い訳にしか聞こえないも何も、実際言い訳ですよ? 自他共に認めざるを得ない程、見事に一本取られて負けましたから。「何で俺が死ぬんだ」という貴女の言葉に合わせるならば、金陽。私が言いたいのは「何でこいつらはこんなに躊躇しないんだ」という感じでしょうかね」

「………………躊躇」

「ええ。………負けた直後こそクソみたいな勝ち方をしやがってと思いましたが、今では違います。ある程度冷静になってみれば、恥も外聞も無いながらも最も効率良く事を進める最善手、それを断腸の痛みに負けず選び抜いた彼には頭が下がる思いです。最も選びたくない選択肢が最も正しい選択肢、とは良く言いますが………ええ、清々しい気分ですよ」

 その言葉に金陽さんの尻尾が動きを止める。銀陽さんの言葉を聞き逃さないよう真正面に向けられていた耳が力無く項垂れ「…………そんな言葉、聞きたくありませんでしたよ」と切れ長の凛々しい目尻を下げる。

「………………そんな弱々しい事を言う銀陽なんて見たくありませんでした」

「おや、随分と身勝手な言い分ですね。……金陽、私は一体いつ見聞きしてくれと頼みましたか? 見聞き出来る場所に居座って勝手に見聞きしておいて「見たくなかった」「聞きたくなかった」は通りません。見聞き出来る状況にしたのは私ですが、私の言葉を遮らず、瞳を開いて見据えたのは金陽、他ならぬ貴女本人の意思です。「出来る」と「させられた」の違いですね」

「…………………好きだったんですよ、銀陽。私は貴方の事が大好きだったんですよ。…………なのに、大好きな人から────大好きな貴方から、そんな酷い事を言われるだなんて思わなかった」

 余りにも唐突に始まるラブ展開。氷のような表情と声の裏、力強区燃え盛っていた瞳を今にも泣きそうな程に弱々しく細めた金陽さんの思いの丈を受け止めた銀陽さんは「そうですか……」と小さく答えながらも、すぐに金陽さんに向き直り───、


「私は金陽の事、大嫌いですけどね」


 ────無慈悲極まりない「ごめんなさい」を突き付けた。

 そんな意味不明過ぎる急展開に口を開いて唖然とする僕らだったが、間抜け面になっている僕らを他所に「そもそも貴女みたいな勝手な女は私の好みでは無いんですよ、ヤりてえなと思いこそすれ付き合いたいとは死んでも思わない」と銀陽さんは更に追い打ちを掛け続ける。

「良いですか金陽、私が無様に恥を晒す事で貴女が哀しみ離れてくれるというなら、私は全裸で泥鰌どじょう掬いを踊る事すら厭わない。何なら壁を相手にア◯ルパール相撲を取り「中々強いですね……好敵手として認めましょう」とかアホみたいな事すら言って差し上げましょう。…………分かりますか? 私はそれぐらい貴女の事が嫌いなんですよ」

「………酷い、酷いですよ銀陽。どうしてそんな事言えるんですか。私は、私は本当に貴方の事が好きなのに………どうして受け止めてくれないんですか………?」

「嫌いだからですよ。何で嫌いな奴の思いを受け止めてあげなければならないのか、何で嫌いな奴から思いを受け止めろと言われて従わなければならないのか、そもそもそこからですよ金陽。振られたんですからさっさと割り切ってどこかに行ってください」


「…………あんなに激しくしてくれたのに、嘘だったんですか? 銀陽、私が駄目って言っても「愛してるから」って言いながら中に出した癖に………あれは嘘だったんですか? ………私を騙したんですか?」


「どう考えても口から出任せの嘘でしょうが。良いですか金陽、そもそも私はインポテンツになってもう何百年経つか分かりません。私はもう良い歳です、金陽に中出しなんて物理的に不可能です。つまり貴女の嘘ですよそれ、愚者の皆様を騙そうとしてはいけません」

「…………あんなに好きって言ってくれてたのに。イキ過ぎて動けなくなった私を優しく撫でながら「可愛いですよ金陽」って言ってくれたのに………」

「起きたら何時でした?」

「確か昼過ぎぐらいでした………」

「さぞかし良い夢が見れたようで何よりです。自慰のし過ぎには気を付けるんですよ金陽、皮膚刺激による色素沈着で真っ黒になるそうじゃないですか。男性が言う「脱いだらガッカリ」の多くは色沈しきちんからのグロ◯ンというデスコンボが理由だと聞いています。真偽はどうあれ、程々になさい」

 そして始まり出した馬鹿トーク。凛々しくも猛々しい金髪の女軍人と、穏やかな雰囲気ながらも隠し切れぬ格好良さのある初老の銀髪執事がしている会話とは思えないそれに嫌な予感がし始める僕だったが、しかし今この二人の間に入るような気にはどうにもこうにもなれなくて。

 さてそろそろ足が痛いなどうしたものかと思う頃、悲しそうな声色の中に僅かな力強さを秘め始めた金陽さんが「………思えばそんな気はしていましたよ」と何かを振り返るようにゆるゆると頭を振る。腕を組んだ事で下着が少しズレたのか、自身の胸元を上着ごと指で抓んで位置を調整する金陽さんが生首同然とかいうジョークみたいな姿になっている銀陽さんをぼんやりと見詰める。

「私が、妊娠したよ、赤ちゃん出来たよ、って言った時も………私は次の日銀陽に殴られましたからね。ああ………貴方は酷い人でした」

「ええ、ペール様から「金陽が誤反応で陽性を出した検査器を貰いに来た」という言質げんちが取れましたからね。喜びの余り、居ても立っても居られずつい貴女を殴ってしまいました。けれど正しい選択だったと思っています」

「ただ私が本を読んでいただけだった時も、銀陽は私の事を殴りました。グーで」

「読んでいる本のページが「想像妊娠について」で無ければパーで頭を撫でながら褒めていたかもしれません。今にしてみればチョキで目潰しするチャンスだったというのに、全く惜しい事をしましたね」

「どうして、どうして銀陽は想像でも貴方の赤ちゃんを孕もうとしている健気な私を褒めてくれないんですか。子供が作れない体になっている貴方でも、せめて授乳プレイが出来るようになろうとしているのに………」

「頼んでもいないし思ってすらいないからですよ。あと私は授乳プレイで受け身になるのは好みではありません、どうせヤるならガツガツ突き倒したいタイプです。もはや今昔こんじゃく、ですがね」

「私は銀陽になら何をされたって構わないのに─────どうして付き合ってすらくれないんですか? ものは試しで付き合って、ものは試しで孕ませても私は恨んだり怒ったりしませんよ? 認知さえ要らない………私は貴方に抱き締められるだけでイケるのに………」

「金陽って犬派ですか? 猫派ですか?」

「……………………………………………ぃ────」

「信頼って大事ですよね。愛を築くにはまず信頼で踏み固める事が肝要だと思います」

「猫派です」

「奇遇ですね、私は犬派です。別れましょうか」

 犬耳の執事の言葉に、猫耳の女軍人が項垂れる。

 その姿はまさしく犬と猫。好き勝手に生きる猫に振り回され、二匹の猫の喧嘩を止めようとすれば二匹の猫に「邪魔するな」と引っ掻かれてしまうような苦労してる犬の姿そのもの。

 余りに一方通行、余りに平行線なそのやり取りにいっそ「もう付き合っちまえよ面倒臭え」と言ってしまおうか本気で悩み始める頃─────僕が当初感じた嫌な予感が蕾を付け始めた。

「…………それでも、私は銀陽が好きですよ」

「………めげませんね、金陽。貴女は猫であって蛇では無いでしょうに」

「思う事は自由です。銀陽が私の思いに対してどうするか自由であるのと同じように、私が銀陽に対してどういった思いを抱こうともそれは私の自由です。例え銀陽に緊縛放置プレイをされていたとしても、体を縛っても私の意思は縛れません」

「実害さえ無ければ私は構わないんですがね。現実としてメイドの皆様から「デキてる」とか言われているんですよ。実害出てるんですよ」

 或いはここで銀陽さんが強気に突っねていれば蕾は枯れて崩れていたかもしれなかったが、少しだけ似たような立場である僕が強気に突き放す事の出来ないタイプである事を鑑みると、僕は何も言えなくなってしまう。

「銀陽、私が助け出してみせましょう。もし助け出す事に成功したら結婚を前提にお付き合いしてください」

 突き放した時に転んで怪我をしてしまったらとか、

「やめなさい金陽、当初の目的を忘れてはいけません。冷静になりなさい」

 突き放されたものがどれだけ辛く苦しいだろうかとか、

「冷静ですよ銀陽、私は冷静です。自らの実力を過信する事も無ければ、貴方を獲ったものたちの実力を侮る事さえありません」

 自分が突き放された時の事も考えると、

「そういう話ではありません金陽、私が人質になっている事を思い出しなさい。お前巻き込むでしょうが。当初の目的というのはそういう事ですよ、私ごと皆様を打ち倒してお前は何と結婚を前提にお付き合いするつもりですか」

 どうして突き放せるのだろうかと逆に問い掛けたくなってしまうのだから、僕は黙って見守る事しか出来やしない。

「銀陽と結婚を前提にお付き合いするつもりです。その為なら金陽を殺して私も死んでみせましょう」

「冷静さなんて欠片も無いではありませんかこのクソ金陽。そういう所ですよ、お前本当にそういう所ですよ。そういう所治す所か自覚すら無いから私はお前が大嫌いなんですよ」

 太陽は月を追い掛け、月は太陽の輝きを頑なに弾き続ける。

 太陽は月を追い掛け、月は太陽から頑なに逃げ続ける。

 月は逃げ続ける。いつか日に蝕まれてしまうその時が来ないよう懸命に逃げ続ける。


「─────────────灼いて妬いて差し上げましょう」


 それでも太陽は追い掛け続ける。


「─────────────だから好きになれないんですよ」


 嫌気の差した月が、少しずつ太陽から離れているとも知らずに。



 ───────



 僕の知っている魔法と言えば「何かフィーンって魔法陣出てミュイーンってチャージしてボカーン」というぐらいなものだったが、この世界に来てからはその見識を改めさせられた。


 魔術と魔法は違う。

 魔導と魔道は違う。


 その定義は『何を媒介としてその現象を起こしているか』であり、頻繁に混同されてしまいがち。とはいえ混同した所で何がどうこうなるという訳でも無く、違いが分かっていても酒の席でドヤ顔出来るぐらいしかメリットは無いだろう。

 例えば僕が不思議な力で目の前に居る誰かを焼き殺したとして、何らかの理由で得た魔力を『僕が熱へと変換した』のならばそれは魔術。自らの中にあるエネルギーを変換する際に効率良く変換する為だったり、或いは先人の知恵を借りて身の丈に合わない奇跡を起こすのに詠唱やら何やらで魔法陣が出たり、というパターンは全てこれに含まれる。

 それとは異なり、魔力を周囲の妖精や精霊、神々といった幻想の存在に支払い『代わりに奇跡を起こして貰う』のであれば魔法になる。また『魔力以外の何かを支払って奇跡を起して貰った』のも魔法に含まれる。

 言ってしまえば自力で全て賄うのが魔術であり、自分以外の力を借りるのが魔法。モバイルバッテリーが一つあったとして、それにUSBライトを接続するなら魔法。「あ俺のバッテリー空だわ、ちょっとお前の貸してくれ」と他者からモバイルバッテリーを借りるのも魔法。

 そもそもライト付きの一体型モバイルバッテリーを使用して周りを照らすのであれば魔術、という事である。因みにこれらはほぼ全てジズからの請け売りである。

 そして金陽さんは魔術師。普段の生活を通して蓄積した膨大な魔力を糧に、まともな予備動作も無く自身の周囲を焼き払う理不尽系魔術師だった。

「──────あぢゅッ!? …………にゅわあああこのくしょげぼくうううッ! ぢゅっていったッ! おりぇのひげぢゅっていったッ! あぢゅいこのぶぁかッ!」

 強いて挙げるなら「そっちに意識向けたかな?」程度しか無い予備動作の直後放たれる豪炎に、太さだけで僕の指を超えるヒゲの先端をチリチリにカールさせたラムネが苛立ちを顕にする。

 それに「大丈夫ッ! 可愛いから大丈夫だよッ! ビューティフォーッ!」とか適当なご機嫌取りをしてみれば、野生動物ならではの直感から僕の感情を読み取り「びゅーちほーじゃないばかッ!」とそれしか日本語の悪口を知らない語彙の貧弱なベトナム人のように馬鹿馬鹿とばかり連呼する。

「騒がしい猫畜生ですね、静かなる銀陽を見習いなさい」

 呟きながら目線をこちらに向ける金陽さんに法度ルールを適応したジズが「お前ェもネコ科でしょォ?」と急接近、まるでスコップのような盾へと両手を『作り替えた』ジズがそれをパカリと開けば、二つのそれは爪のように割れて金陽さんを切り裂かんと振るわれる。

「……煩わしい」

 けれど当然ジズの手は届かない。金陽の意識が向けられた瞬間、危機を察知したジズが鋭い爪のようになった両手を即座に閉じると、直後音も無くジズの前方がぼんやりと赤くなる。

「───────ッ!? クッソがッ、お前ェの方が───────」

 淡い赤は瞬時に黄色くなり、黄色い先行は灰色の煙を伴いながらブオッと鳴らして防御状態のジズをそのまま吹き飛ばした。

 ………火というものは化学反応の一つであり『火』という物体や物質は存在しない、というような話は割と有名な部類だが、それを具体的に説明出来るものは決して多くないと思う。

 そもそもの大前提として過半数の物体は熱を持つと赤く発光し始め、温度の上昇に伴ってそれは赤、黄色、白へと色を変えていくらしい。マッチを擦って発火させたとして、マッチの先端に塗布されているリンは高摩擦を要因として発火状態になる。燃えている状態のリンは周囲に熱を伝播させ、マッチという熱源から影響を受けた空気中の様々な塵が発熱発光する事で『』という現象が目に見えるようになるのだそうだ。

「…………どうせっちゅんこれ。───────このクソぅるぁッ!」

 ボヤきながらも大広間の床を靴底で抉った光が長ドスを片手に突貫して行くが、ジズと同じようにぼんやりと赤く輝き始めた周囲に危機を感じ真横へと回避する。

「全部見えてますよ」

 咄嗟に方向転換をした光を、まるで連なった地雷除去用の爆導索のように連鎖した爆発が追い掛け始める。ボボボボボッという空気が動く音と共に背後を取られる光が「───マズッたかもぉッ!」と叫ぶがもう遅い。

「さあおいで。─────私が灼いて妬いて差し上げますよ」

 自身の体を追い掛ける発火現象を逃げる光が徐々に誘導されていくのは、もはや炎の塊のようになりながら陽炎を作る金陽さん。

 聖母のように慈悲深く微笑む金陽さんが両手を広げれば、即座に「マイハニーッ!」と叫んだパルヴェルトが百パーセント中の百パーセントを駆使して爆炎に猛進。

「てんきゅーパル─────」

「──────── あっヅゥイッ! ハァー死ぬゥーッ!」

「──────ぅおわぁッ!?」

 がむしゃらに光の足首を掴んだパルヴェルトが、次の瞬間錐揉み回転しながら光を天井に向けて放り投げる。事故って倒れたスターマインのような連炎に誘導されていた光は何とかそれから離れる事が出来たが、代わりにパルヴェルトが「オギャアーンッ!」という産声に似た奇声と共に城門があった場所までゴロゴロと転がっていく。それを見て意識が逸れている僕が「ラムネッ!」と叫べば、ラムネは言われる前から「んゅッ!」と可愛く唸りドリフの爆発ヘアー寸前で転がるパルヴェルトを回収しに行く。

 と、そんな僕らを無視して、大広間の天井に向かって浮かび上がった光を金陽さんが睨み付けた。氷のように冷ややかなその鋭い瞳が光の目線とぶつかり合うが、宙に浮かび上がっているが故に光は回避行動に移れない。


「─────失明なさい」


 今の光に出来る事は、紫外線に水晶体を焼かれるのが分かっていながら、それでも太陽を睨み付けるだけ。


「─────さっせませんよォッ!」


 だが当然そんな事を僕ら『いつものメンツ』が許す訳が無く、ルーナティアが誇るパワー型クソデカメイドことトリカトリ・アラムが金陽さん目掛けて噛み付かんばかりの勢いで急接近。それの迎撃を行う為に金陽さんが光から目線を外せば、先端が三叉の指のように分かれた特徴的な尻尾を振って急加速したジズが光の足首を掴み────、

「ジズの手ぇ切れてる玉子焼きみたいや────────にゃああああッ!?」

 グインと力任せに振り下ろし地面へ向かって投げ付ける。地面に叩き付けられる直前空いた手を使って「───ッぶなぁっ!」と転がる光。その直後有り得ない程の爆音と共に大広間の天井が吹き飛び、青い空が僕らの瞳を優しく照らす。

「二発までですよぉッ! トリカパーンチッ!」

 荒事に際して苛立ちに理性を飛ばされないよう意図的にテンションを上げたトリカトリが、吹き飛んだ屋根なんてどうでも良いと言わんばかりにその大きな四本指の手を握り締める。

「チッ」

 金陽さんがそれを迎撃しようと周囲の温度を上げるが、トリカトリは何一つ構わず拳を振り抜く。視覚で認識出来るまでに赤熱化した空気ごと金陽さんに殴り掛かれば、振り回された拳によって生まれた気流で炎が掻き消える。

「お代わりパーンチッ!」

 陽炎と共に揺らめく金陽さん目掛けて反対の拳で殴り掛かるトリカトリに、金陽さんが「く……っ」と呻きながらも再び爆破。寸での所で拳を回避した金陽さんに「おてて熱いッ! もう無理ッ!」とトリカトリが後ろ飛びで一気に後退。

 ………炎の魔法、なんて言ってみれば格好良いものだが、それは決して最強という訳では無い。

 炎を起こす魔法というものは、要は奇跡の力で『空気を動かし』『超振動による超摩擦により発熱させる』という魔法なのだ。特定範囲または特定箇所の空気を操作して超振動させ、それによって発生した摩擦熱で発火現象を起こし物体を焼くのが炎の魔法。

 それは対策を知らない相手に対しては猛威を奮い、時として「扱い難いから」という理由でアブド◯ルが即死させられてしまうぐらいには暴れる事が出来るものの、意外と最強とは言い難い。

 奇跡の起こし方にもよるが、例えば「いきなりその場を焼いた事に出来る」というようなタイプであればもう無理だろう、アブド◯ルが如く殺されるのを待つしか道は無い。

 けれど金陽さんのような、そういったタイプでは無いしっかりと化学反応を経由してしまう炎の魔法に関してであれば「空気の動きに余りにも弱い」という弱点が存在する。

 物理法則の一つとして「温度は周りの温度と混ざり合い平均を取りたがる」という事実が存在する。熱いお茶は周りの空気と平均が取れるよう、周囲の空気を温めながらどんどん冷えていく。それと同じく炎の魔法も超振動による摩擦の間も、物理法則には逆らえず周囲の空気を温めていく。それによって発火を起こすのが炎の魔法なのだが、空気を温めている途中で空気が掻き乱されてしまうと温度は分散、発火と呼ばれる現象が起こるまでの時間が著しく遅れてしまう。場合によっては発火まで至らずただの発熱で止まってしまう事も多い。

 では何故金陽さんはそんな弱点の存在する方を選んだのか。どちらにせよ奇跡を起こすのであれば、どうして理不尽極まりない「いきなり燃やす」を選ばなかったのか。

「失せなさいトリカ」

「─────ッぢゃぢゃぢゃぢゃ熱い熱いですこのクソがッ!」

 理由は一つ。そっちの方が仕組みが単純だから。奇跡を起こし、願いが叶うまでの過程が単純である故に『詠唱も魔法陣も何も要らない』からに他ならない。

 魔法使いだの魔術師だのが出す魔法陣や詠唱は『使用者の実力をサポート』する為に存在している。

 例えば氷の魔法でその場をいきなり凍結させるとして、どうしたってそれに至るまでの過程は無視出来ない。場所を指定して、空気中の水分を一ヶ所に寄せ、魔力を使って急激に温度を下げ、そこでようやく凍結に至る事が出来る。

 その操作を使用者は戦闘中に全て行わなければならない。それが余りにも難しいが故、「凍らせ方を書いたレシピ」として魔法陣を浮かび上がらせるのである。そうなれば使用者が行うのは「魔力を使ってレシピを展開するだけ」になり、後は魔法陣レシピが勝手に動いてくれる。

 しかしそれは「魔法陣が展開する」という露骨過ぎる予備動作によって動きが読まれる要因になりやすく、相手の力量によっては回避だけでは無く反撃すらされかねない。

 金陽さんはそれを嫌がった。元より炎の魔法は「空間を指定」して「そこの中にある空気を超振動させる」というたった二つの手順で奇跡を叶える事が出来るのだ。わざわざド派手な魔法陣レシピを用意する程のものでは無い。

 故に金陽さんは詠唱すらしない。単純過ぎる内容の奇跡なのだからレシピを口頭で語る必要だって無い。

 そも、詠唱を行う事は魔法や魔術においては致命的なデメリットも存在する。

 詠唱とは、早い話がその魔法に名前を付けるという事。一度名前を付けてしまえば、その魔法はもうその名前を超える事が出来なくなってしまうのだ。

 例えば僕が「地獄の業火に焼かれて貰うぜぇーッ!」とか叫びながら炎の魔法を発動したとして、それは名前を付けた事に由来して僕が扱える度量を遥かに超えた地獄の業火をその場に創り出してくれる。僕自身には到底扱えない魔法であったとしても、レシピを起こせるだけの魔力さえ足りていれば問答無用でその場を地獄に変えてくれるだろう。

 その代わり、僕が唱えた地獄の業火は何がどうあっても絶対に地獄の業火を超える事が出来ないという制約に縛られる。火力の調節は当然不可能であり、間違っても聖火のようなものに切り替わる事は有り得ない。地獄の業火………闇の炎というレッテル《名前》が貼られたものに聖なる属性を付加する事は出来ないのだ。

 イオナ◯ンと唱えて発動するのはイオナ◯ンであり、イ◯ラやイオグラ◯デの威力には成り得ない。魔法に名前を付けるという事は「MPさえ足りていれば誰でも使える」という長所があるのに対し「それ以上にも以下にも出来なくなる」という短所もあるのだ。


 それはもう成長しなくなり、応用が効かなくなるという事に他ならない訳だ。


「ほらほら焼けますよトリカ、命懸けで逃げねば死にますよ」

 ただ意識を向けるだけ。その意識も一瞬で良い。わざわざ詠唱なんてせず、魔法陣なんて起こさずとも、たったそれだけの事で願いが叶えられるのが炎の魔法の最も優秀な点。

「御免ですッ! 焼き鳥みたいな焼きトリカだなんて死んでも御免ですッ! 私はリョナではイケませんし私のリョナでは誰もイケませんッ!」

 横に広げられた見えない爆竹が爆ぜ狂うようなバババババッという甲高い連音に追い掛けられるトリカトリ。それがもしイオグラ◯デやメラガ◯アーであればこんな誘導は不可能であり、ましてメ◯やイ◯であれば連発こそ可能だろうが指先一つで弾かれかねない。

「そうでしょうね。少なくとも私は銀陽以外ではマグロでしょうから、トリカの焼死体ではイケません」

 こと炎の魔法に関して、わざわざ詠唱して魔法陣を展開するのは実力不足であると喧伝しているのと同義だと金陽は考えている。名を与えずとも自分であれば大火力はいつでも用意出来るし、むしろ固定火力のレシピ魔法陣を作ったとしても利便性や応用力に欠けるそれは自身の雇用主契約者の怒りを買う結果を引き起こしかねない。

 炎の魔法に関して必要なものは火力では無いのだ。炎の魔法という時点で既に火力が高いのだから、そこに更に火力を足しても過剰にしかならない。

 求められるのは応用力と利便性に富んだ柔軟さ。

 炎の魔法というものは非物理範囲型魔法の一つであり、イオグラ◯デと唱えるだけで都合良く敵だけを吹き飛ばしてくれるような魔法では無いのだ。火力を上げた所で味方を消し炭にする可能性も高まるし、尋常では無い威力によって巻き上げられた土煙の中から「詠唱を聞いて即座にガードした敵」がいきなり突っ込んでくる事だってあるし、何ならそもそも大火力で吹き飛ばした際に巻き起こされた礫や砂埃で自らの目をやられる可能性だって有り得る。

 自らの度量を超えられなくなってでも、扱いやすさと柔軟性の高さによる翻弄性を求めてこそ、炎の魔法は眩く輝くのだろう。


「それじゃァ打点が足りないわよォ?」


「──────ほう?」

 スコップのような両手を構えたジズが駆け抜ける。それまでトリカトリを追い続けていた金陽さんが即座に向き直り、幾らか速度の低下した連爆によってトリカトリを追い掛けながらもジズに向けて迎撃態勢を取る。

「─────ッぐぬゥァッ!」

 しかしジズはそれを何一つ避けず、ぴったりと閉じられ完全な盾になった両手を構えたまま前進を止めない。それに危機を感じた金陽さんが飛び退るように下がりながらバォンバォンと空気を揺るがせれば、ジズは尻尾を振って更に加速。距離を離されないよう食らい付いていく。

「くっ………貴様ッ!」

 久々に感じる恐怖。なまじ二階に上がる階段の縁に陣取ってしまっていたが故背後までの距離が短い金陽さんは、これ以上下がると壁に背中をぶつけてしまう。


「─────────宜しい」


 だからこそ詠唱し、魔法陣を展開する。

 扱えないのでは無い。扱わないだけ。最高時速300km/hに到達する事の出来るF-1車が常にその速度を出し続けるような事は決して無い。カーブやピットイン時をテクニックで乗り切り、最も速度が乗る最後の直線でこそ最高速に頼る。

 実力を超えた超火力はそういう場合にのみ使うべきなのだ。


 「“焼けKa ψτε μεχρι死ねθανaτου”」


 イカロスの翼を焼くのにだらだらと長い詠唱は要らない。ただ一言、目的が明確に分かるその言葉だけで良い。

 単純明快でこそ意味がある。余計な付加効果なんて何一つ付けられずとも構わない。求めている事がただ一つであるのなら、求められている事がただ一つであると分かるようにしてあげるだけの話。それでこそ成り立つまでの時間が短縮され、レシピに惑わされる事も無くなる。


 そう、間違っても、


「ウルトラスーパーデラックスアルティメイタムギャラクティックロケンロー──────」

「みんな大好きウチこと光ちゃんがバレンタインで手作り本命チョコあげる時みたいな─────」

「──────パルヴェルトラァーンスッ!」

「──────甘酸っぱい一撃ぃあッ!」


 彼らのように、長ドスやレイピアを投げ終えてもまだ終わらない詠唱を早口で長々と叫ぶ必要なんて無いのである。

 でなければそもそもの目的やどういう意味が篭められているのかが分かり辛く、それが魔法や魔術であれば明確な行き場を見失った魔力により、老人が運転する車両のように中央車線を踏みながら蛇行してしまう。

 そして何より、

「……………………クソダサいんだけどお。他にマシな口上無かったのお?」

 だなんて事を外野に言われてしまう。

 けれど別に構わない。光もパルヴェルトも投擲したその武器には大した意味なんて求めていない。傍聴席に座るものが中央車線を踏んだ際のブィィィィという警告音が耳に入らないような老人であっても構わない。

 たった一つの目的が叶えられれば、蛇行し過ぎて縁石に乗り上げ空を飛ぼうとも構わないのだ。

「────────────ぐ」

 いっそ二人とも百パーセントであれば無傷で済んだかもしれない。たった二つの棒を投げられた所で片方を避ければもう片方も避けられるだろうから。

 けれど光の法度ルールはとうに時間制限を超過していて、パルヴェルトが百パーセントで投げたレイピアを寸での所で弾いた金陽さんは、既に法度ルールの効果時間が切れた光が七十パーセントで投げた長ドスへの対処が遅れてしまった。

「んぐ………ッ」

 視認し辛い長ドスの先端。小さな銀色の点が迫り来るようにしか見えないそれは、今自分と点との距離がどれだけ離れているかが目視で把握し難い。

 その切っ先が金陽さんの腹部に突き刺さり、ほんの一瞬だけビィッという布を裂く音が聞こえる。直後何も音を立てずに自身の体を突き抜けていった長ドスが背後の壁に突き刺さりビィィィン……と振動するが、


いてみろやアアアアァァァァァァ───────ッ!」


 金陽さんの脳がその音を認識するよりも早く、スコップのような形にぴったりと閉じた両手を向けて肉薄。あわやぶつかる、というその刹那、ジズは自分の両手に意識を集中する。

「ッグ───ガ………ァッ」

 現れたそれはまさしく剣山。大きなスコップのように作り替えられたジズの手の甲が針の山のように『作り替え』られ、迎撃は元より避ける余裕すら無いまま金陽さんの体は文字通り蜂の巣のように穴だらけになる。

 ……………それはジズなりのやり返し。金陽にされた訳では無かったが、同じような攻撃を過去に一度やられていたジズが、ただでさえ避け難かったあれを更に避け難くしてみるという自分なりのやり返し。────いつかゴシックドレスの女にやられた事のやり返し。

 それでも唯一救いだったのは、あの時のゴシックドレスと違ってジズが小さな体格をした女の子だったという事だろうか。これが金陽さんと同じような背丈であったなら、当然作り替えられたその手も体格に合わせた大きさだったはずだが、ジズが作り替えた両手はジズの体格にとっての大きなもの。剣山のように突き出した大量の棘は金陽さんの胴体こそ穴だらけにしたが、幸か不幸か頭部には全く届かなかった。

「────ッだオラァッ!」

 上半身に突き刺さる無数の棘で視界がチラ付くと、魔力の供給が不安定になり展開されていた魔法陣が溶けるように崩れていく。閉じてた両手を乱暴に開き、力任せに棘を引き抜いたジズがヤケクソ気味に叫びながら金陽さんの腹部を蹴って後ろに飛び退くと、既に駆け出していた光がその小さな体を両手で抱き留める。

 ………物事の結末というものは余りに一瞬で、ターン制RPGに慣れているようなものからすれば何が起こってどうなったのか、理解する間も無く事が終わるその事実を受け止められないものも多いだろう。

 けれどそれが当たり前。それが自然。体力ゲージが一ドットしか無いのに、数値化すればとうに一桁しか自身の体力が残っていないのに、にも関わらず誰かにターンが回って悠長に行動選択を選べるなんて不自然は有り得ない。

 娯楽と現実は異なる。自分の命の時間体力ゲージが一分後には消え失せていると分かったものが幾度と無く見せたような技を呑気に繰り返すような事は有り得ない。一息、たった一息でも吐き出した次の瞬間には殺される事が分かっているのなら、相手にターンなんて返すはずが無い。

 殺せる時に殺し続ける。殺されないように殺し続ける。

 そういった本当の命のやり取りは、画面の向こうで好き勝手に喚く連中からすれば余りにも一瞬の出来事に見えるのかもしれない。

 殺すのは一瞬、殺されるのも一瞬。煽って舐めプなんかしようものなら、一瞬の隙を突かれて一瞬で殺されてしまうのだから。

「…………本命チョコォ?」

「時みたいな、やから義理や」

「アタシらの百合展開は無さそうねェ」

「そんなん誰得やねん」

 余裕を取り戻した二人の軽口。

 当然ながら金陽さんにそれを聞き取るだけの余裕は無く、何とか受け身を取ろうと床に手を付けば、上半身に存在するありとあらゆる肉を傷付けられた痛みに「くぅッ」と呻きながら倒れてしまう。

 それでも何度か起き上がろうと懸命に藻掻くが、やがて無理だと悟ったのか金陽さんは大の字に仰向けになったままで動かなくなった。

「………………………ペール様」

 それを見た銀陽さんが小さく名前を呼ぶと、意図を汲んだのか「下手を打てば殺すよ。手は幾つか残っている」とだけ返しながら生首状態だった銀陽さんを解放した。

 …………実際の所、僕が考えた作戦はもう何も残っていない。獣人の森からの親善大使であるトトを人質に銀陽さんを同じように人質化、その後は銀陽さんを更に人質にしつつ、トトが荒事に巻き込まれて本当に内乱になってしまわないよう金陽さんを無力化するというのが僕の考えた作戦だった。

 前者は何とか成功したが後者は失敗した。どちらも「失敗したらもう無策、正面衝突以外に浮かばなかった」とあらかじめ仲間たちに宣言していた僕に残された手は、それこそ親善大使であるトトをどこかの軍のように盾に縛り付けて金陽さんに突貫するぐらいしか残っていなかった。

 それがバレると困るかもしれないからと、ペール博士は「手は幾つか残っている」と嘘を吐いたのだろう。

 しかしきっと銀陽さんは何もしない。何となくそんな気がしていた僕は、警戒する事無く執事服を着た銀色の犬の背中を眺めた。

「…………………ぎ、ぎんよ────ぎんよう………ゲホッ───ぐっ、く───グぅ……ッ」

 ペール博士の法度ルールを応用した拘束、そこから抜け出た銀陽さんはコツコツと小気味良い靴音を鳴らし、起き上がる余裕すら無くなった金陽さんへと無言で歩み寄る。

 胃痙攣によって逆流してきた胃液や傷から滲み出た血液に咳き込めば、それだけで耐え難い激痛が全身を突き抜けていく。倒れた衝撃か、それとも呻いた時の動きで床と擦れたのか。金色の髪をした頭から落ちた軍帽の鍔を指で抓んで持ち上げた銀陽さんが何も言わずに墜ちた太陽を見下ろし続ければ、金陽さんは自身を見下ろす銀の月に「ごめんなさ………ごめんなさい………」と必死に謝った。

「だ、駄目でした…………自信、あったんですけど…………駄目でしたね…………」

「冷静になれと言ったでしょうに。何対一だと思ってるんですか」

「出来るかな、って………銀、銀陽、助けられるかなって…………」

「そもそも金陽、貴女の頭では三対一ぐらいが限界でしょう。それすら順当に枠内に収まっている連中が相手での話だ」

「みん、な……お強いですね…………あ、侮っていた訳では無いのですが……………ぐ、く……使い魔ファミリア如きでは、届きませんでしたね………」

「慣れない事をするからですよ」

 痛みから勝手に流れ出た涙を床に染み込ませながら笑う金陽さんが、彼の言葉に「慣れ……ない………?」と不思議そうな顔になる。それを見下ろしながら「ええ。金陽、貴女は慣れない事をしましたよ」と感情が感じられない静かな声色のまま繰り返す。

「あ、荒事は───グ……く、慣れ、慣れてるつもりでしたが…………っ」

「荒事ではありませんよ金陽、そういう話ではありません」

「ぎ、銀陽………私、馬鹿だから、ボカされると───ゲホッ、グッ、こっ困ってっ、しまいます………ッ」

 気管支に入り込んだ血や胃液の量が増えて来たのか。咳の音が大きくなる金陽さんの腹部に軍帽を放ると、ぽすんという軽い音が鳴る。しかし金陽さんはそれだけの衝撃ですら激痛が走るのか「い──ッ、痛いです銀陽……っ」と泣きそうな顔で呻いた。

「貴女は我儘で居れば良かった。自分の事しか考えられない傲慢な太陽であれば良かった。月の気持ちなんて何も考えず、嫌がる背中を追い回し続ければ良かったのです」

「ぎんよ───」

「月を救うだなんてのたまわず、月ごと全てを焼き払っていれば良かったんですよ。そうすれば黒い夜空に浮かぶ勝ち星を眺める事が出来たでしょうに。体中に黒点を開けられる事だって無かったでしょうに」

「しんじゃう、から………それだと───ぎんよ、しんじゃ、から」

 感情の歯止めが決壊しだしてきたのか、ぼろぼろと涙を流し始める金陽さんに「いっそ殺してくれれば良かった」と銀陽さんがしゃがみ込む。

「慣れない事はしないで下さい。いつも通りの金陽で居て下さい。好き勝手に振る舞い、私に迷惑ばかり掛け続ける金陽で居て下さい」

「ぎん────」


「────でなければ調子軌道が狂う」


「─────────ごめんなさい」


 やがて瞳を閉じていく金色の太陽。流れ出た血が服に付く事を厭わずその体を抱き寄せた銀陽さんが「ペール様」とその名を呼ぶ。

「医務室をお借りします。宜しいですかな」

「構わないよ。湯気子に話は通してあるから医薬品の準備は整っているはずだ。すぐに目覚める太陽に、再び振り回され三日月のように笑えば良い」

 太陽が眠るまでのピロートークに、しかし一切感情を動かさなかったペール博士が答えると、銀陽さんは「そのお慈悲とお心遣い、心より感謝致します」と返し、そのまま金陽さんをお姫様抱っこのように持ち上げながら立ち上がる。

「タクト様」

 しかしそのままその場を後にするような事はせず、何を思ったのか彼は僕の名前を呼びながら向き直る。

 少し前に戦った時とは違う温かい瞳をした銀陽さんの、しかし驚く程に真面目な表情で見詰められた僕が「は、はい?」と答えると、銀陽さんは「陛下に挑むのでしょう?」と僕に問い掛けてくる。

「他の方々であればいざ知らず、今のタクト様では付け入る隙なんてありません。ですがそれでも貴方様は挑むのでしょう?」

「………はい。付け入る隙とか関係無いですから」

「頼まれたから、受けたから、だから全力をすと」

「はい」

 相手がどうとか、僕がどうとか、僕にそんなものは関係無い。

 僕みたいな愚か者に、僕みたいな弱虫に、それでもペール博士は縋ってくれたんだ。他の誰かに頼る事だって幾らでも出来たはずなのに、光に頼む事も、ジズに頼む事も、誰に頼む事もせず博士は僕を選んでくれたんだ。

 であれば僕は応えたいと、僕は心からそう思う。

「でしたら一つ、心の持ち方を変えられるよう進言させて頂きたい」

 だからこそ銀陽さんは僕を見詰める。僕の想いがどういうものかを察しているからこそ、銀陽さんはそれではいけないと僕を諭す。

「貴方は自分が愚者であるという自覚を持っていらっしゃる。けれどそれではいけません、その考えは今ここで捨てていきなさい」

「愚者である………自覚……っていうのは」

 言葉の意図が分からず繰り返す僕に、銀陽さんは「悪のヒーローにでも例えれば宜しい」と穏やかな声色で答える。


「自らを「悪の組織」と謳う者は「自らの行いに正義を見出せていない者」であり「自らの正義を誇れない臆病者」であると言える。世論や一般論という「多数決の威圧」に流されてはいけません。タクト様、貴方はもっと誇りなさい。「自分は愚か者だから」なんて考えず、自らの正義生きる理由を誇りながら生きてみなさい。でなければ陛下悪魔に付け入る隙を与えるだけですよ」


「…………………………」

 その言葉に、僕は何も返せなかった。

 ぐうの音が出るとか出ないとかでは無く、そもそも何が言いたいのかが僕には良く分からなくて。どんな事を思えば良いのか、どんな言葉を返せば良いのか、それすらもが分からなくて黙り込んでしまう僕を他所に、銀陽さんは「ご健闘を祈っています。それでは」と向きを変え、ペール博士の研究室の方へと靴を鳴らしながら歩いて行ってしまった。

「………………………………」

 その背を眺めながら考える。

 銀色の犬は何が言いたかったのか。何を危惧しての言葉なのか。どういう意味があったのかを考えるが、戦闘直後だった事も相まり何も頭が回らない僕では、何を考えれば良いのかを考えるぐらいしか出来ず。


 そんな体たらくなのだから、

 当然、この後自分の身に何が起こるかなんて考え付くはずが無かった。

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