6-3話【鷹は舞い降りた】



 宇宙と呼ばれる漆黒の闇。その中に瞬く星々を、人は陽光を反射しキラキラと銀色に瞬く河に見立てて銀河と呼んだ。

 その銀河の中の一つである太陽系、そしてそこに存在する地球。

 人々が住む宇宙地球地球宇宙号であるその惑星は、あくまでも無数にある惑星の内の一つとして区別する為に地球と呼ばれているだけであり、間違ってもこの世界そのものを指し示す言葉では無い。

 この世界は地球という名では無い。この世界は銀河という名では無い。宇宙すらも、この世界の名前では無い。


 宇宙は世界の名前では無い。

 だって人は宇宙の外を未だ見た事が無いから。


 定説では、宇宙はビッグバンと呼ばれる次元を歪める程の巨大な爆発により発生し、今も尚膨張し続けているという。

 ここで僕はいつも思ってしまう。ビッグバン説が本当なのだとすれば、僕は毎回思ってしまう。

 爆弾が爆発する瞬間をスローモーション再生した動画を観てみると、きっと僕と同じ気持ちになれるはずだと思う。「これが宇宙だ」と。

 爆発が起こった時、黄色っぽい色の火炎が一気に広がる。そしてそれは大きく膨らみどんどん拡大、やがて赤い炎に変わりながら真っ黒な煙と数多の塵を周囲に拡げ───そして一気に収縮する。

 ビッグバンは巨大な爆発だという。そしてそれは未だ膨張を続けているという。

 黄色っぽい火炎が宇宙であり、焼かれた大気中の塵たちが星々であり、赤い炎と共に真っ黒な宇宙は膨張を続ける。

 爆発が終わり、泣き喚く間も無く全てが収縮し消え失せるその日まで、宇宙は膨張を続ける。


 宇宙は世界の名前では無い。

 だって人は宇宙の外を未だ見た事が無いから。


 何かが爆発する為には三つの要素が必要不可欠だと聞いた事がある。

 物と、熱と、そして酸素。

 発火の三原則。どれか一つでも欠けていれば物体は発火せず、発火が無ければ爆発出来ず膨張出来ない。

 だから宇宙はこの世界の名前では無い。仮にビッグバン説が事実であると仮定するならば、膨張を続ける宇宙の外には必ず何かが存在する。少なくとも、物と、酸素が存在し、尚且なおかつ発熱が可能な環境が存在するという事に他ならないのでは無いだろうか。

 だからこそ宇宙は世界の名前では無い。

 宇宙は僕らの住んでいた星々を包む、その空間の呼び名でしか無いのだ。


 この世界に名前は無い。

 どの世界にも名前なんて無い。

 わざわざ世界に名前を付けるものが居る訳も無い。

 地域や、区域や、国や、星や、空間に名前を付ける事はある。

 しかし世界に名前を付ける事は有り得ない。

 名前を付けられるのは神だけだ。

 神でも無い存在が世界そのものに対して名を付けるだなんて、余りにもおこがましい。


 通常の出産も、人口受精であっても、人は必ず母の体の中で暖められ、産道膣内を通って産み落とされる。

 初めて光を浴びた子は一体何を思ってあんなに泣いているのかと考えた時、僕は辛く苦しく苛烈な世界に不安で仕方が無く泣いてしまったのでは無いかと、そんなロマンチックな事を考えた。

 今にして思えば我ながら詩人も良い所だった。しかしきっと本当の詩人が僕を見たら「お前なんて詩人の風上にもおけない、厨二病が精々だ」と笑うかもしれない。


 この世界は余りにも過酷だった。


 幸せは目に見えないレアメタルであり、安寧は重役出勤した直後に定時退社。掴んだはずの栄光は瞬く間に手のひらをすり抜け、気が付いたら泥水の上澄みを水面の羽虫ごと必死に啜りながら、いずれは「昔はブイブイ言わせてたもんだ」とワンカップの日本酒を片手にひたすら繰り返すのだろう。

 昔読んだ漫画では、異世界に呼び出された主人公はどういう事か視力が回復して、それまで着けていた眼鏡が要らなくなっていた。それ所か金属製の喋るけん玉を豪快に振り回し、ただの学生だった奴とは思えないぐらい派手に立ち回る。強敵と切り結んでも全然息が切れないそいつは、幼かった僕の目にはとても眩しく格好良く映ったものだ。

 しかしフィクションは結局フィクションでしか無かった。夢幻は夢幻でしか無く、目が覚めてしまえば即座に現実に引き戻されるその感覚は、例えるなら「本気で主人公に感情移入して心からギャルゲーを楽しんでいたら唐突に真っ暗なロード画面が現れた自分の顔が反射し無理矢理現実に引き戻された」というのが最も近い。蚊の鳴くよりも小さな声で「やっぱ現実リアルはクソだ」と呟いてしまうような、見たくもないものを目の当たりにさせられるような感覚。叶うのならばこのままゲームを終了して布団に潜って泣きながら眠りに落ちてしまいたい。


 身体能力が向上するような事は無かった。

 僕は死んでも僕を超えられなかった。

 僕は僕であり、僕以上になる事なんて物理的に有り得なかった。

 チート能力だって貰えなかった。この世界に存在する代表のような異能力である法度ルールは『如何なる事態にあっても生涯通して変わらぬ程に強い思い』が無ければ発現しない。それを聞いた時は思わず「なるほど、意志の弱い僕には到底無理だ」とすぐに諦めてしまった。

 そしてそんな法度ルールも、僕が思い描いていたチート能力とは程遠かったのだから、仮に得たとしても役に立つかどうか分かったもんじゃない。


 みんな強いのに、僕だけ弱い。

 みんな上手くやれるのに、僕だけ上手く出来ない。

 みんな前を向いて進んでいるのに、僕だけ泣きながらしゃがみ込んでいる。


 気分は世界で最も不幸な人間ヒト

 そんな事を呟いてみれば、世間の雀は「お前より不幸な奴なんて幾らでも居る」と揃いも揃って鳴き喚く。

 口を揃えて「自分が世界の中心だと思うな」と延々さえずる。


 不思議な話だ。

 自分の世界は自分が最も不幸だというのに、

 自分の世界は自分を中心に太陽が動いているというのに、

 誰も自分を特別扱いしたがらない。

 だけど特別扱いなんて出来る訳が無い。そんな事をすれば殺されてしまう。

 飛び出た杭は打たれ、高く伸びた木々は輪切りにされる。

 そして誰かの住む養分として使われるのだ。

 

 であればどうして・・・・? 

 どうして・・・・世界は、細く短く根本まで沈んでしまっている僕を、わざわざ引き抜こうとするのだろうか。


 考えて、考えて、考え抜いて、考え尽くして、

 それでも理由なんて一つしか浮かばなかった。


 僕が一番弱くて、僕が一番手頃だから。

 僕が一番、世界から居なくなっても困らない存在だから。


 けれどそんな僕を、周りは懸命に守ってくれる。

 だからこそ僕は牙を剥き始めた。

 周りが僕の代わりに噛み付いてくれるから、

 僕が周りの代わりに牙を剥く。

 Modo coit 代わりのconfertque.

 それが僕の生きる価値、今の僕の心の支え。



 ───────



 例えばルカ=ポルカ。

 ルーナティア国に呼び出された愚者の一人であるポルカは、自身の戦闘能力は皆無に等しく、タクトと腕相撲をした際には「ふぬう……くぬぬぬっ!」と顔を真っ赤にしながらも「中々強いな……でもごめんな、流石に負けてられないんだ」と穏やかに微笑む僕に負けてしまうような身体能力。生前はアイドルの経験があったようで、ダンスパフォーマンスに関しては驚く程のテクニックを見せるが他はただのか弱い女の子でしか無い。

 普段はそんな様子なんて露程も見せないが、ルーナティアに呼び出された際に何かエラーがあったのかルカ=ポルカという女の子は両性具有………要するに男性器も女性器も持ち合わせている『ふたなり』になってしまった。本人は「ぼくが産む予定だった子が男の子だったのかもねえ」と言っていたが、実際の所はどうなのかは誰にも分かりやしない。

 本当にただの女の子だったポルカは、目が覚めたら突然生えていた股間のポークビッツに驚き、そして朝立ちや暇立ちといった男性にしか理解出来ない面倒な生理現象に困惑、今でこそだいぶマシになったが、それでも未だ自身の股間に生えた「タコさんウィンナーに使われる赤くて小さめなソーセージ」の存在を認め切れず、結構頻繁に悩んでいるという。

 そんなポルカは法度ルール持ちの一人であり、『自信に対して害意が向けられた場合』のみ『その対象の動きを強制的に自分の動きと模倣トレースさせる』という法度ルールを持つ。この法度ルールには射程や意識無意識の壁は無く、ルカ=ポルカが本心から「敵」として認識すれば如何なる存在であってもそれを強制する範囲型の法度ルール

 それはいわゆるチート能力と呼ぶにはかなりおざなりであり、まずポルカが敵を認識しないといけない。そして敵から害意を向けられた上で『自身の思いを世界に向けて宣言』しないといけない。

 極め付けは「法度ルールを適応中、自分はほぼ丸腰で無防備」であるという点。荒事の絶えないこの世界の、更には戦争の抑止力として呼び出された僕ら愚者に適した戦闘向けの法度ルールに思えながら、よくよく考えると戦局が多勢に無勢になった瞬間一気に使いものにならなくなってしまう扱いの難しさがある。


 そんなポルカの脆弱性を、前回はパルヴェルト・パーヴァンシーが完全に補った。

 貴族の血筋ではあるものの才能と実力に恵まれなかった彼は、それでも諦めずひたむきにひたすらに努力を積み重ねた結果、しかし最後の最後で報われず、想い人を守れなかった心因性ショックにより昏睡。植物状態となってそのまま生涯を終えた。

 それに伴い、パルヴェルトは『一定範囲内に居る、自身が最も強いと思う存在より一枚上手になる』とかいう初見さんが「は? 強過ぎだろ草枯れる」と思ってしまうような法度ルールを得た。

 しかしその法度ルールは実にピーキーなものであり、過去には幾度と無くパルヴェルトを期待させては振り回した。いっそ法度ルールを得ていなければ、きっとパルヴェルトは戦場に立つ事を素直に諦め後方支援に徹して居られただろうに、なまじ戦闘特化の法度ルールを得てしまったが為にパルヴェルトは死後にまで挫折の痛みを味わう事となってしまった。

 けれどパルヴェルトの法度ルールは時間制限が無い。それまでは戦闘相手のステータスをコピーしてプラス一したものの技術面や精神面で負けてしまっていたパルヴェルトだったが、橘光が『一日三回、一回三分という条件の元、自身の体を、自身の脳のリミッターを外した際に発生する身体的反動を受けないレベルまで強化する』という法度を得た事で面目躍如。可能性の獣が産声を上げ始めた。

 それはまさしく発想の転換。敵より一枚上手になる事が目的の能力にしか思えなかったそれを、敢えて味方を参照して適応するという考え。

 当初橘光の法度は『自身が脳のリミッターを外した際に起こる身体的反動を一切受けなくなる』というものだと思われていたし、光もそうだと本気で思っていた。けれど実際はそうでは無く、事後報告でこの話を聞いたペール博士ことペール・ローニーは、

「素晴らしいよッ! ヒカルくんキミはとても素晴らしい法度ルールを得たッ! これまで常識を覆すとても素晴らしい法度ルールだッ! ………知りたいね、知りたいよ……ああ知りたくて堪らないッ! ちょっと食い殺しても良いかいッ!? 良いよねッ!? ああ───どうか私に教えておくれ───!」

 等と意味不明な供述をしながら大歓喜。その場でいきなり自身の思いを世界に向けて宣言し、まるで『チーズ フリー素材 画像』と検索した時に出てくるイラスト画像のように研究室の壁や床を穴だらけにし、何故か僕まで湯気子に説教されるに至った。

 それまでの定説では、法度ルールを得たものはその性能と使い方、制約やペナルティの内容を本能的に理解するとされていた。

 しかし橘光が得た法度ルールは橘光が思っていたものとはほんの僅かながらも非常に大きな違いがあった。法度ルールに限らず様々な事柄──自分が気になった事のみ──に精通しているペール博士が未だ見聞きした事の無いイレギュラーのようなその現象は、睡眠不足を極め過ぎて濁り切ったペール博士の瞳をキラキラと輝かせるに足る程の事実だった。あれは写真に撮りたくなる程に可愛かった。

 橘光が得たこの例外のような法度ルールを知ったペール博士は、空飛ぶ幽霊猫であるラムネ・ザ・スプーキーキャットのような『どう足掻いても人では無い存在』が得た法度ルールに関しても「もしかするとラムネくんも言葉足らずなだけで可能性の獣かもしれない。…………気になるゥッ!」と小躍りしながら身体検査を繰り返し、過度に構われ過ぎてイライラしたラムネに引っ掻かれまくる結果となっていたのだが、

「ふふふ……私は猫好きだから気にしないんだよラムネくん。大衆は肉球が一番だとのたまうが、個人的に猫で一番可愛い部位はふかふかの手の甲と口元のちょっと毛が薄くて桃色な部分だと思っている。だから噛まれるのも引っ掻かれるのも何も気にならない、むしろ愛らしいまである」

 と本人は大して気にしていなかった。

 実際、ラムネの法度ルールに関しては解明し切れて居ない部分が多いのだという。効果としては『一定範囲内に居る存在から生きる力を奪い自らのものにする』というエナジードレインなんだかライフドレインなんだかパワードレインなんだか正直ごっちゃになってしまうようなのものだが、それはあくまでもペール博士が検証した結果から導かれたもの。

「んーとな……えーと………。…………おれつよくなってな、おなかふくれる!」

 仮に「法度ルールを得たものはその性能と使い方、制約やペナルティの内容を本能的に理解する」というそれまでの定説通りであったとして、その本能的に理解したそれを第三者にしっかり説明出来るかどうかは全く別の話。上手く言葉に出来るかも分からないし、そもそも本能的に理解して感覚で扱っているものをしっかり言葉で説明しろというのは難しい。例えるなら「心臓ってどうやったら動かせますか?」と聞かれた時や、「パスタの茹で方」で調べて出てきたサイトに「まずパスタを手に入れてください。その次に水源を探して水を入手しましょう」と書かれていたのを目の当たりにした時ぐらい「まずそっからかー、うん冷静に考えたら大事な事だけどなー僕が知りたい事とは違うんだよなー」という話なのである。

 一応『ラムネの法度は割合で相手の生きる力を奪う』というぐらいまでは分かっている。周りに居るのが僕だけだったとすれば僕から百パーセントを奪うが、周りに居るのが僕と光だった場合は五十パーセントずつの累計百パーセントを奪う。小数点以下が端数切り上げなのか切り捨てなのかは分かっていないが、奪える対象が『その時点でラムネが認識している存在』から奪うという事までは、検証を繰り返した結果どうにか分かった。

 僕はこの検証結果を聞いて、まず真っ先に「扱いは簡単じゃ無さそうだな……」と思ってしまった。

 まず特定の範囲を参照するという点。言ってしまえばそれは「特定の範囲内に対象が居なければならない」という事であり、法度ルールの範囲内から放たれた遠距離攻撃等には何も手が打てない。

 それだけならまだ「味方から奪ってから戦地に赴け」と言えるかもしれないが、ラムネが法度ルールで奪った生きる力はラムネが法度ルールを解除するまで奪いっぱなしであり、生きる力を奪われたものはその間ずっと強い虚脱感と倦怠感に苛まれる。

 そして何よりも、ラムネは誰かに取り憑いていなければ存在が希薄化して消えてしまうという点がある。法度ルールを適応して他者から生きる力を奪ったラムネは一気に成長、完全な霊体から生命力を持った半霊体になりある程度行動範囲が広がるが、それでもそこまで大きくは広がらない。

 ……例えば光のような周りの被害を顧みない大振りな戦い方をするものであれば「生きる力を奪われても光は大して気にならないが、立ち回り的にお互いがお互いの邪魔になる」という結果になるし、僕のようなものであれば「自分に足りない自衛力を変わりに確保してくれるけど、戦場で僕自身がラムネから転がり落ちたら一気に不利になる」という点も課題としては大き過ぎる。法度の重ね掛けが可能であり、また上限も存在しないという長所は『法度を使用する度にラムネは生きる事で頭が一杯になり、生きるのに不必要な感情や記憶、理性がどんどん希薄化していく』という短所によって塗り潰されてしまっている。

 それでも唯一救いなのは『法度ルールを適応しているラムネは、自分が何を糧に今生きているのかを理解している』という点だろうか。元々ラムネは仲間思いの良い子だが、法度ルールを使用して生きる力を奪うと「そいつから力を奪ったおかげで自分は生きている」という思いが強くなり、自分が生き残る為に仲間を生かす事を優先してくれるようになる。僕なんかから力を奪った時は特に顕著で、重ね掛けの回数上限を知る為に博士の研究室で検証した際には、三回目の重ね掛けで完全に理性が欠落したラムネが研究室が半壊するまで暴れても尚、生きる力を奪われ過ぎて意識を失った僕だけは頑なに傷付けようとはせず、降り注ぐ瓦礫から守る素振りを見せていたという。

「良い子だね、ラムネ」

 空色の体毛に覆われたふかふかの頭を優しく撫でると、ラムネは「ん」と少しだけ嫌そうな顔をしながら僕の手に頭を押し付けてくる。

 まだ猫慣れしていなかった頃の僕はそんなラムネの仕草を見て「撫でられるの嫌なのかな」と思っていた。

 けれど実際にはそんな事は無い。ふわふわとした柔らかい手触りのラムネの頭を強めにぐしぐしと擦るように撫でれば、ラムネは「んーぃ、んーぃ……んーっ」と僕の手をグイグイと力強く押し返してくる。

 ラムネは撫でられるのが嫌なのではない。撫で方が優し過ぎて物足りないのだ。

 猫に詳しくない人でも割と知っているだろう初歩的な猫知識に「猫は顎の下を撫でられるのが好き」とかいう話があると思う。実際これは間違いではなく、顎の下を撫でられた猫はついつい撫でやすいように顎をクッと上に向けて上げてしまう事が多い。これに関して猫博士ことジズベット・フラムベル・クランベリーは「理由は知らェけどォ、多分自分で舐めて毛繕い出来ねェ部位だからじゃねェかなァってアタシは勝手に思ってるわァ」という見解を出している。

 ラムネもその例に漏れないが、顎の下というよりは喉のど真ん中や、喉と耳の付け根の間ぐらいをわっしわっしと掻くように撫でられるのを好む。

 ────が、

「ん………………」

 喉を撫でられている時のラムネは「何で?」と思うぐらいに目を見開いていて、どう考えても気持ち良くて喜んでいるようには見えないのだ。長々とわしわししてみても特に嬉しそうな声も出さないラムネを見て心配になった僕がジズにゃん博士に聞いてみた所、

「…………それはただの個体差じゃねェ? 男にも竿がイイってタイプと亀頭責めが好きってタイプが居るでしょォ? 女もクリイキ派と膣内ナカイキ派が居るしィ、それとおンなじようなもんよォ」

 ………等と、酷過ぎる割に凄い納得出来る見解をブチかましてくれた。

「………すぅ…………はぁ…………」

 可愛い猫耳の前にある毛が薄い部分───臭腺がある部分に顔を寄せて鼻を鳴らせば、毛繕いで染み付いたよだれ臭さの中に猫独特の香ばしい香りが感じられる。それが鼻腔一杯に広がり、何だか頭がボーッとする感覚と僅かな眠気を感じ始めると、ラムネは「んーっ! ……んぃっ! んー……んぃっ」と僕の鼻先に自身の頭をグイグイと押し付けるようになる。

 余りにも強くグイングイン押し付けられるそれに鼻の付け根辺りが少し痛むので「はいはい、なでなでするね」と顔を離して手で撫でれば、ラムネは途端にうっとりと目を閉じて「んー………ぃ」と眠たげな声で撫でられるようになる。

 何でもかんでも否定してドヤりたい諸兄等においては、きっと「人間の手に警戒して目を閉じてるだけだろ」と言いたがるだろうが………悪いな、生憎とラムネの撫でられ好きは筋金入りなんだ。頭を撫でるのに疲れた僕がその手を離した瞬間────、


「………んっ! おててっ! だめなのっ! なでろっ! にげるなっ、ばかっ!」


 ふかふか可愛い両前足を器用に使って僕の手首をがっしと固定。まるで抱っこちゃん人形が如く手首にしがみつき、何とかして僕の手が逃げないようにと体重を掛けて引き寄せようとする。

 ムッとした顔で可愛い催促をしてくるラムネに微笑みを投げながら「はいはい、ごめんね」となでなでを再開すれば、ラムネは「………むーん」と警戒したように僕を見詰めるが、大体三秒後ぐらいには目を細め始め、五秒か六秒経つ頃には再び「………んーぃぃぃ」と今にもこくりこくりと夢の旅に出そうな顔でんぃんぃと呻き始める。

 ………その姿を見て、僕は自分がどれだけ弱っていたのか、自分がどれだけ愚かだったのか、自分がどれだけ────軽薄な奴だったのかをひしひしと自覚する。

 ラムネは獣であり、獣はひたすらに正直だというのに僕はそれすら疑っていた。僕がラムネから離れない限りラムネは僕から離れないというのに、僕は一人で塞ぎ込み、何もかもが信じられなくなってラムネから離れてしまった。

「…………………………」

 ジズは言っていた。犬や猫は必ず人間ヒトより先に死ぬと。

 犬は何にもはばかる事無く雲の上を駆け回り、魚は大空を流麗に泳ぎ、爬虫類は雨の無い陽光と日陰のはざまで穏やかに日向ぼっこを続け、鳥は風となり天高く舞い上がる。


 そして猫は夏の扉を探しに行ってしまうのだ。


「……………………ラムネ、可愛いね」

 丹念な毛繕いによってふかふかになった空色の体毛を撫でる。人間ヒトに可愛がられた猫は人間ヒトによく懐き、撫でられ催促を繰り返す内に人間ヒトの手のひらの皮脂によって毛が艶々になる。犬猫に詳しいものや獣医なんかは、体毛を見ただけでその子がどれだけ可愛がられているか、飼い主がどれだけ心優しい人間ヒトなのかを即座に見抜けるという。

「んぃ…………んー……………んーぃ……」

 出会った当初は色味が薄く感じたラムネの体毛。哺乳類では異例中の異例である青の色素を持ったラムネの体毛。僕より先に死ぬ事の無い、既に死んでいるラムネの体毛。

 僕と出会い、僕と触れ合い、僕と共に過ごしてきたラムネの艶々な体毛………気が付けば綺麗な濃い空色になったような気がするラムネの毛が、一撫でする毎に舞い上がる。

「………んぃ、げぼく、ぐるぐるなおった?」

「…………ぐるぐる? 何の話だ?」

 薄っすらと瞳を開いたラムネが僕を見詰める。頭とうなじの間辺りを撫でていた横に手をずらし、親指で頬肉の下辺りを撫でるようにしてみれば、ラムネは口元───ペール博士が最も可愛いと思っている部分の一つである「口元のちょっと毛が薄くて桃色な部分」を僕に見せ付けるようにしながら「んぃゅ……げぼくぐるぐるだった」と蕩けそうな声色で答えた。

「………タクトが壊れて消えちゃいそうな時にねェ? アタシがラムネに聞いたのよォ。タクトの心の中ァ、今どうなってるか分かるゥ? ってさァ」

 僕の隣、まるで走り回る子を見守る母親のような微笑みでラムネを眺めるジズが言う。

 ジズベット・フラムベル・クランベリー。出会った頃は何にも興味が無いかのような気怠げな半目をしていて、まるでセピア色の世界を鼻で嘲笑うかのような軽薄な態度をしていた悪魔の女。しっかりと目を開く事を面倒臭がり、しっかりと声を出す事も面倒臭がり、毎日服に袖を通す事すら面倒臭がったその小さな背丈の悪魔は、上下黒ビキニにグレーのパーカーを羽織った頭おかしい着こなしを「……これ私服よォ? そんな変かしらねェ」とか言ってしまうような怠惰Slothを究めた女の子。その癖、荒事が始まれば誰よりもそれを愉しむ女の子────僕が愛して止まない、小さな悪魔の女の子。

 ジズは変わったと思う。今もジズは気怠げで眠たげな半目をしているが、瞼に隠れた瞳の奥には、広い庭を走り回る犬と我が子を眺める母親のような温もりが感じられる。

「したらラムネが元気な声で「ぐるぐるっ!」って言ってさァ。ヒカルもパルもトリカも、タクトを壊す最後の決め手になっちまうンじゃねェかってビビって立ち止まってるしィ、トトは何が何だか分かんねェって面しててさァ。…………だからアタシが行ったのよォ」

「…………自分が僕を壊す決め手になるかも、とかは思わなかったのか?」

 純粋な疑問を口にすればジズはすぐに「んふふ」と鼻を鳴らして微笑んだ。


「気になってる男の子ォ自分の手でぶっ壊せるってなァ………それはそれでロマンチックだと思わない?」


「刹那的だな。主人公殺したがるヤンデレの香りがする」

「アタシの手でタクト終わらせンのも別に悪かァ無ェしィ、アタシの手ェ借りてタクトが立ち直れりゃァそれはそれで好感度ギャン上がりでしょォ? どっちに転んでも美味しい二分の一のギャンブルだったら反る理由なんざ無いわよォ」

「即物的だな。合コンで医大生引っ掛けたがる性病女の香りがする」

「ちゃんと可愛がるから大丈夫よォ? 面の皮と革財布の中身にしか興味無ェ馬鹿女じゃ無いつもりだからねェ。疲れて帰ってくりゃァ膝枕で撫で撫でするしィ、仕事行く時ァちゃんと行ってらっしゃいのちゅーするわよォ」

「母性的だな。週末になる度合コン行くような馬鹿女はマジで見習って欲しい、お小遣いと称した援助金でブランドバッグ揃える暇があったら泌尿器科か産婦人科行って性病検診して欲しい」

「女性にも自覚症状ある性病は結構レアリティ高いからねェ。辛い思いするのは大体男の子なのに、アタシらァいつも男の子ォ虐げたがるので必死なのよねェ」

「それは別に良いんじゃないか? 女性は女性でクソ男のテクニシャン気取りの乱暴なセックスに苦しんでる事も多いし、酒飲んで客の頭カチ割るのは過半数が男だ。僕は上手く釣り合い取れてると思うけど」

「もっと幸せな事で釣り合い取れりゃァ、もっと幸せなのにねェ。知的生命体はいっつも馬鹿だから、ちょっとした口論の途中で言っちゃいけない皮肉を言って全部ぶっ壊すのよォ。「そんなに言うならこっちも言わせて貰うけど」とかっつってねェ」

「でも知的生命体は馬鹿だから、誰の皮肉が理由で全て壊れたのか理解しようともせず「自分は悪くない」って非を認められない。いずれ唯一の友すら見放しても「あんな奴こっちから願い下げだ」って必死に自我を保とうと言い訳するんだ」

「テメェが下らねェ皮肉言わなきゃ丸く収まってたろうしィ、テメェの不満なんざ一眠りすりゃァどっか行ってェ、またみんなでどっか行って遊んで笑えるはずなのにねェ」

「皮肉なもんだな。……………と、要らない皮肉がテーマの話っぽかったから最後も皮肉で締めてみました。如何でしょう」

「アタシは好きよォ?」

「………アタシ、ですね。つまり大衆受けしないゴミネタだったと。はーいありがとうございましたー。みんなお仕事お疲れち◯ぽ、この後打ち上げ行こうぜ。そして飲み過ぎてフラフラになったみんなで階段から足滑らせて一緒に死のう」

「クソ卑屈ねェ」

 言いながらもジズは柔和に口元を歪ませ、目尻を下げつつ僕を流し見た。出会って間も無い頃のジズだったらこんな表情を僕に向けるような事は無かったはずだ。この世界に呼び出されて大して経っていない頃、この世界の辛く苦しく苛烈な現実を直視させられ心に小さな傷を負った僕に、良く眠れるおまじないのような優しいキスをしてくれた時だってこんな表情はしていなかった。

 魔法少女を名乗る幼い女の子が破滅し墜ちていく姿を目の当たりにした僕に、ジズは優しいキスをしてくれた。思うにあの時の口付けは本当に良く眠れるおまじない感覚、ともすれば犬や猫と鼻ちゅーするぐらいの感覚だったのだろう。

 きっかけはいつだってほんの些細な事なのだ。現実は現実、夢は夢、妄想は所詮妄想の域を出ない。御大層な理由を期待するのは、現実と虚構の区別が付かなくなり始めている兆候なのかもしれない。


 笑える事の幸せさを噛み締めよう。

 笑える事の幸せさを思い出させよう。

 自分が得た幸せは誰かと共に分かち合おう。


 貴方は今、幸せですか?


「…………待たせたねタクト君。準備は出来ているかい?」

 いつもの東屋あずまや。見慣れた丸テーブルに備え付けられた椅子に座る僕とジズに、背後からペール博士が声を掛ける。「ん」と鼻を鳴らしながら振り返れば、そこには博士だけでなく魔王に挑まんとする愚か者が威風堂々と立ち並んでいた。

「……………錚々そうそうたる『メンツ』だな」

「ウチも思うわ。推奨レベル六十台のボスをカンスト級のウチらで引っ掻き回したるでよ」

「うーん………ぼくはカンストしてる感じしないなあ。ぼくなんかは精々レベル十六で「わーい進化したあ」って喜んでるぐらいじゃないかなあ」

「問題無いよポルカくん、魔王を相手に金策とレベリングと洒落込もう。白熱した魔王戦の直後に進化ムービーが入って気が削がれるまでがチュートリアルさ」

 おちゃらけた台詞ながらもキリッと決まっているパルヴェルトの言葉に思わず「あるあ───あるわ」と笑みが溢れる。

「チュートリアル長過ぎなのよ? そこまでだとトト疲れるのよ? 普通に遊んで普通に「面白かったのよ!」って言って笑いたいのよ?」

「トリカ的にはゲームしてる暇があったら寝たいですわね。疲れを癒やしてからゲームしよーって言いながら寝過ぎて休日終わって出勤日の朝にゲロ吐きたいです。わたくしはそういう日々で満足ですわ」

 頼り無い言葉に聞こえながらも安心出来る軽口の応酬が心地良い。ペール博士やジズも同じ意見だったのか、僕と同じように微笑んでいる。

 それがどうしようもなく嬉しくて、けれど言葉にするのは野暮だと思った僕が「よいしょ」と椅子から立ち上がれば、それまで膝に乗っていたラムネがふよふよと僕の肩周りを飛び回る。

「……………お前ら一応言っておくけど、別に僕らが魔王さんを倒す訳じゃ無いからな」

 僕の言葉に「倒した所で何の意味も無いからねェ」とジズが同意すれば、

「私の我儘に────犬も食わない痴話喧嘩に、手を貸してくれ」

 いつに無く真面目な顔をしたペール博士が僕らを見渡す。

 それにどんな言葉を返せば良いか分からなくて、

 僕の言葉では何を言っても安っぽいような気がして、

 だから僕は、いつだか光が言っていた言葉を流用させて貰った。


「任せえ」


 普段は全く使わない口調でその言葉を放った僕に、光が目を丸くした。そしてすぐに「……はっ」と笑いながら微笑み、僕らはそれきり何も語らずに歩き始める。



 今回の戦いはいわゆる内輪揉め。どれだけ小規模であっても戦争中の内輪揉めなんて何の得にもならないのだから、避けられないとあらば可能な限り損耗を減らしつつ最速で終わらせねばならない。どれだけ小さなものであっても、戦争中に内乱を起こした国家がどうなるかは考えたくもないからだ。

「スタートは光とトトで頼む」

 ルーナティア城の城門前にある大広間に向かう道すがら、法度ルールを適応させてスケアリー化したラムネに乗った僕がそう呟くと「………気が乗らないのよ」とトトは露骨に項垂れた。

「トトこんな役回りばっかりなのよ………もっと大活躍してサイン会開くぐらい目立ちたいのよ………」

「嫌がってもウチは躊躇わんで、今回はタクトの作戦に全面同意やし。……………にしてもだいぶクソな作戦やなぁとは思うけどな」

 僅かながら呆れの混ざった溜息を吐いた光にペール博士が「誰に入れ知恵されたのやら」と僕を見るが、僕は「入れ知恵とかは無い」と頭を振る。


「ただクソみたいな仲間たちから影響受けただけ」


「ようジズ、クソとか言われとるでお前。日頃の行い改める良い機会やな、悔い改めよー悔い改めよー」

「股ぐらにクソデカブーメラン刺さってるわよォ? ガバガバになっても知らないからねェ」

「トリカが抜いてあげましょうか? ズボーンッて」

「お、良いねトリカ嬢。今の「抜いてあげる」だけもう一回言ってくれないかい? ちょっと耳に焼き付けて今夜使うよ」

「パルくんってヒカルの事好きなんじゃなかったのお?」

「使うオカズと想い人への想いは別枠さ。因みにハニーの事は好きだよ、大好きさ。心底から愛していると断言しよう」

「ウチはそうでも無いで」

「ふむ…………手間を掛けて済まないんだけど誰かボクをリセットしてくれないか? 何かバグでハニーのルートに入れないんだ、多分リセットすれば直ると思うから誰かボクをリセットしてくれ。頼むよ。ボクは何とかしてハニーのルートに入りたい。そしてそのままハニーに挿れたい」

「………パル兄はめげないのよ、強い子なのよ。このクソ強メンタルだけは万人が見習うべきなのよ」

 ともすれば友が死にかねないような荒事を前にしたものの会話とは思えないような事を言い合いながら進む僕らが、やがて城の目の前にある大広間に辿り着く。

 ………ぶっちゃけた話をするならば、僕らが最初に集まっていた中庭はルーナティア城の中に存在する。だからこそ中庭であり、魔王さんの元へと一直線に向かうならいちいち城外に出る必要なんて全く無かったりする。

 けれど僕らは敢えて裏から出て、再び城の中を目指していた。それも僕が数秒で考えた酷い作戦の一つに含まれているからだ。

「…………うわマジで銀陽ぎんよう居るわねェ。タクトの勘も馬鹿に出来ないもんだわァ」

 恐らく謁見の間に待機していたと思しき彼。執事服を着こなした銀髪のお爺さんが、少し小さめな銀色の犬耳をピコピコと可愛らしく動かし僕らを見据えるように立っていた。

 ………僕が得た前情報では、銀陽さんはとんでもなく強いと聞いていた。それが具体的にどれぐらい強いのかは分からないが、それでもルーナティア軍を力で押さえ付ける金陽きんようさんと並ぶぐらいには強いのだという事だけはは分かっていた。

 それぐらい強いのであれば、恐らく僕みたいな常人では何も感じ取れない『気配』とやらを察知して僕らの動きが分かるのでは無いかという疑問が僕の中に浮かんだ。

 城の中庭に集まっていた僕らがそのまま謁見の間やその手前の広間に向かえば、恐らく金陽さんと銀陽さんと、場合によっては魔王さんをも含めた大乱戦になってしまう。こと今回に限ってそれだけは避けたいと判断した僕は、ここで敢えて一回城から出た。何も言わず、いつも通りの歩幅を装いながら城から出た。

 それにより警戒心の強い魔王さんは不審な行動を取る僕らに対して、様子見がてら銀陽さんを差し向けるのではないかと思ったのだ。これもやはり前情報での話だが、金陽さんが本当に魔法での広範囲無差別攻撃を得意とするのであれば、魔王さんは城から出た僕らに金陽さんを向かわせる事は出来ない────その場で荒事に発展したとして、無差別攻撃で城下に被害が出かねない金陽さんを動かす事は絶対に出来ないだろうと思ったのだ。そして僕らの動向を見て来いと言われた銀陽さんは、恐らく僕らの気配から進行方向を予測して城の前にある大広間で陣取りそうだと予想した。

 銀陽さんは大広間でボスっぽく仁王立ちしてくれそうな感じがした。それは単にイメージや印象というあやふやな根拠だけでは無い。銀陽さんは金陽さんから受けた要望通りに「対になるような戦い方をしてくれる」人だと聞いていたから、十中八九その手の演出に対して無意識に対応してしまうのでは無いかと考えた。

 …………けれど正直、賭けの域は出なかった。これが駄目だった時のサブプランは一応考えていたが、かなり厳しいものしか浮かばなかった。

 魔王さんが玉座に座ったままふんぞり返る可能性も大いにあった。実際これが僕ら『いつものメンツ』だけでの行動であれば、きっと魔王さんは何も動かず、淫魔サキュバスとしての能力を使い言葉だけ盗み聞いて終わりだったろう。

 けれど今の僕の横にはペール博士ことペール・ローニーが居る。魔王さんが魔王になろうと思ったキッカケであり、最も愛して止まないとする女を連れた『いつものメンツ』が、何を思ったのか全員揃って城から出ようとしているのであれば誰かしら向かわせるぐらいはするだろうと踏んだのだ。

「………………剣呑な大所帯の中、ペール様は何をしにどちらへ向かわれるのでしょうかね」

 少ししわがれた声。優しく穏やかでありながら、しかしどうにも有無を言わせない感じがする不思議な喋り方をする銀陽さんに「ただの痴話喧嘩さ」とペール博士は答える。

「もはや痴話喧嘩の域を出ているのでは御座いませんか? 陛下のお言葉とはいえ私めや金陽までもが出張るような事であれば、もう痴話喧嘩では済まされませんが」

「そうか。………で?」

「………で、とは?」

 一切表情を崩さないペール博士に銀陽さんの表情が少しだけ崩れる。呆れたような顔色の中に、小さな苛立ちが見え隠れしていた。

「痴話喧嘩で済まないからどうしたと聞いているんだ。済まされないならどうするんだ? どうしてくれるんだ? どうしてみるんだ?」

 しかしペール博士も一切物怖じしない。博士の法度ルールは博士を中心に追従し続ける具象型だが、今はまだそれを適応してすらいない。つまり仮にこの場で不意を突いて銀陽さんがペール・ローニーを粛清しようとでもすれば、ペール博士は何も抵抗出来ずないという事になる。博士の法度ルールは世界に向けた宣言文がそこそこあるから、銀陽さんの速度によっては全く間に合わない。

「……………………はぁ………慇懃無礼と言いますか。貴女はブレませんね、博士。下手をすれば軍が動くだけで済まないというのに……」

 にも関わらず、大きく溜息を吐く銀陽さんに「分かっているならさっさとそこを退け。殺すぞ」と博士は力強く吐き捨てる。当然ながら「それは出来ないのです、分かっておいででしょう?」と銀陽さんも譲らない。

 ………今の問答だけで、僕らがどれだけ博士に信頼されているのかが良く分かった。緊急時の自衛用としても使えるはずの法度ルールを、それでも敢えて見せもしないのはひとえに僕の言葉を信じているからに他ならない。

 だからこそ僕はそれに応える為「光、頼む」と作戦の決行を伝えた。

「………おや、まさかヒカル様とトト様が出張るのですか?」

 僕の言葉を聞いて前に出た光とトトに意外そうな顔をした銀陽さん。「何や文句でもあるんか?」と光が長ドスを引き抜けば、銀陽さんは「文句はありませんがね」と僕を流し見る。

「タクト様が作戦参謀のようなポジションに居ると思っていたので………私めのようなものにジョーカーを切るのは些か意外でした。てっきりペール様を投げるものだとばかり」

「せやろな。ウチもそんな感じになると思っとったわ。博士ぇぶん投げてりゃ魔王のババアは手ぇ出せんやろ、とか浅っちょろい事考えとったわ」

「でしたら何故ヒカル様とトト様なのでしょうかね。…………タクト様、差し支えなければ事が始まる前にお考えの程を教えて頂きたいのですが」

 そう言って僕を見据える銀陽さんの瞳に思わず背筋が震える。

 何て鋭く、何て冷たく、何て無慈悲な瞳をしているんだろうか。昔は強かったと聞いてはいたが、どうすればこんな目になるのだろうかと思う裏で、不思議と震えた背筋が熱くなっていく感覚がしてくる。

 きっと今までの僕だったら耐え切れずに震えて泣き出していただろう程の恐怖に、しかし今の僕はむしろ体が熱くなっていく。

「………銀陽さんの前にペール博士が立ちはだかった時、魔王さんは「どうしろ」って言ってました?」


「手足を切り落として連れて来い、と命じられておりましたよ。さえずる為の舌は私が引き抜くから、と」


 体の熱さが強くなっていく感覚がする。この熱さは、きっと僕が背負ったものの熱さ。それに向けられたエゴイズムに、背中の熱が首筋を伝って目の奥を焼き焦がさんばかりに熱していく。

 視界が赤くなる感覚がする。目の前に浮かぶ全てが、端からじわじわも真っ赤に飲まれていくような感覚がする。これが本当の怒りだと理解するのに、時間なんて必要無かった。

「でしょうね、そんな気はしていました」

「ほう? どうしてでしょうか、重ねて伺いたい」

「僕にとってペール博士は大体の事は何でも出来ちゃう凄い人ですが、そのペール博士が泣きながら僕みたいな愚か者を頼った」

 あの日の僕は魔王さんを憧れの上司のように感じた。無慈悲で、冷徹で、好き勝手にやっているように見せ掛けて信賞必罰を徹底出来るフリ◯ザ様のようなカッコイイ上司に見えて仕方が無かったんだ。

「僕みたいなゴミにも縋る………それはもうペール博士一人では手の施しようが無いぐらいになっているという事だと思った。窓から太陽と月に願い事をすれば、その場で灼かれるか狂わされるかしてしまうぐらいにはなってるんじゃないかなって」

 僕が魔王さんのご機嫌を損ねたあの日、魔王さんはどんな事を言っていただろうかと考えた時、まず浮かんできたのは到底シモネタにしか思えない下世話な言葉。


 ────当社は精液タンクをいつでも募集中よ。初心者歓迎、経験者優遇。アットホームな職場だけれど仕事中に喋ったら殺すわ。邪魔だもの。


 僕はあの言葉に嘘や偽りを感じなかった。

 煩わしいと思ったものは、邪魔だと思ったものは、躊躇いなく「殺すわ」だなんて言ってしまうような女性。それが本当だとすれば、愛したものが自分の意にそぐわない動きをして自らの前に立ち塞がるとしても、きっと魔王さんは力尽くで黙らせるのでは無いだろうかと僕は思ったのだ。

「………なるほど、賢明ですね。陛下の危惧した通り、貴方は妙に予測が出来ない。少なくとも先見の明はお有りのようだ」

 銀陽さんが深々と頷いて同意し「少し侮っていましたよ。ただの子供だと思っていました」と僕に向き直る。

「であれば殊更お聞きしたい。何故こんな序盤でヒカル様というカードを切るのでしょうか。………彼女の法度ルールに付いてはもうバレておりますよ、日間の時間制限だけでなく回数制限まであるのでしょう?」

 顎先に指を当てながら思案する素振りを見せる銀陽さんに「耳ぃ早いなぁ、流石はイヌ科や」と光が口を開けば、彼は「恐悦至極に御座います」と柔和に微笑み、しかし即座に鋭い目線で「まさかとは思いますが」と僕を強く睨み付けた。

法度ルールを適応せずに私を突破出来るとか、お考えですかな? 金陽との乱闘に持ち込み金陽の範囲攻撃で巻き込もう、なんて愚考に至らなかったのは賢明としか言い様がありませんが……………私めを含めた三連戦を、全て三分以内に終わらせる事が出来るとか────或いは法度ルール無しで陛下を黙らせる事が出来るとか、そんな甘ったれた考えでは御座いませんな?」

「違いますよ」

「ではここでパルヴェルト様が法度ルールを適応、そのままの流れで全て越える………とかですかな? ヒカル様がメインに見せ掛け、彼女をコピーしたパルヴェルト様が本命を張りながらトト様とお二人でそれを補佐………苦しくなったらペール様に出張って貰えば良いや、とか?」

「それも無いです」

「いつぞや愚かな鬼と神の使徒を相手取った時のように、ヒカル様とトト様で私を抑えつつポルカ様の法度ルールで止めよう、とかでしょうかね。………ポルカ様の法度ルールは一人までしか拘束出来ませんが、私め如きに切るのでしょうか」

「発想が貧困ですね、ここはスラム街ですか?」

 矢継ぎ早に問い掛ける銀陽さんを一蹴し続けると、遂に銀陽さんは目線を下げて「ふむ……だとすると」と考え始めてしまった。光やトトが目の前に居るにも関わらずそんな余裕を見せるという事は、それぐらいには腕に自信があるのだろう。

 けれど僕はもう躊躇わない。

 どいつもこいつも躊躇わない。僕の周りに居る『いつものメンツ』は誰一人として躊躇わない。

 そんな中で僕だけウジウジ躊躇っていて溜まるか。


「僕らは無傷で貴方を越えます」


「───────は? …………歳ですかね、聞き逃してしまいました。もう一度宜しいですかな? …………今、何と?」


「光の法度ルールは全て温存、ポルカの法度ルールだっていつでも使える状態で貴方を突破する。誰一人、傷一つ無く、フリーハンドのままで、魔王さんの元まで辿り着きます」


「──────────────」

 銀陽さんの眉間にシワが寄る。口元が少しだけ歪み、苛立ちに歯を食い縛ったのがすぐに分かった。

 そりゃそうだ。これだけナメた事を言われているのだ。自分の腕に自信があればある程、苛立って仕方が無いだろう。

 けれど敢えて言わせて貰う。

「僕はもう躊躇わない。目的の為なら手段なんて選ばない」

 至って真面目な声色で真正面から銀陽さんを見据える僕に、銀陽さんは警戒したように膝を少しだけ曲げた。余りにも自信たっぷりな僕の言葉に、いつでも動けるようにしたのだろうか。

 だがもう遅い。貴方が一人でここに立ち、光とトトが並ぶのを許した時点で、もう僕らの勝ちは確定したようなものなのだ。

「光、頼む」

 僕の言葉を聞いた光が「やー」と呟きながら体を動かし─────、


 トトの首筋に長ドスを突き付けた。


 身動き一つ取る余裕も無く首を狙われたトトが「マジで酷い役回りなのよ……」と半泣きになれば、銀陽さんは「は?」と素っ頓狂な声を発したまま全く動けずに居た。

 余りにも意味不明過ぎて理解が追い付かないのだろうか。目をぱちくりとしばたかせる銀陽さんに「緊縛プレイはされるよりする方が好きなんです」とか言ってみれば、銀陽さんは少しだけ目を細めて僕の言葉の意味を解き明かそうとする。しかし生憎と、緊縛プレイ云々に関しては何も関係無いただの茶番────僕の気持ちの話でしか無いんだ。

「では銀陽さん、今からポルカがそちらに近付きますので、ポルカのおデコにチョップしてください。強めに」

「──────何を………は? 貴方は一体────」

「断ったらトトは死にます。光に殺して貰います。そういう手はずになっています」

「ほならバイバイやなトト、短い間やったけど結構楽しかったで。お前の事は忘れるまで忘れん」

「まだ死ぬとは限らないのよッ! トト死にたくないのよッ!」

「……………いや──────いやお待ち下さい、理解が追い付きません。これに何の意味が─────」


「貴方が僕の言葉を無視すれば、獣人族の親善大使はここで死にます。今の貴方は内乱の種です」


「───────────────」

 僕の言葉の意味を理解した銀陽さんが歯を食い縛る。怒り……も確かに混ざってはいるが、どちらかと言えば悔しさの強い目付きで銀陽さんが光を睨む。しかし「ウチは躊躇わんで、昔っから。自分の首を自分でへし折るんすら躊躇わんかったぐらいや」と光はトトの頭を抱き寄せるように固定しながら長ドスを揺らしてギラリとまたたかせる。まるで恐怖という感情が無いかのように、光は銀陽さんの鋭い眼光に対して何一つとして怯えや恐怖といったものを見せなかった。

「ここは城の外、当然ながら人の目があります。………今はあんまり人居ないけど、何の騒ぎなんだろうって誰かしらこっそり見ていると思います。それがどうしたと思うなら、ここでトトを見殺しにしてみれば良いでしょう。紆余曲折はあるだろうけど、最終的にこの国はサンスベロニアに蹂躙されて滅ぶと思います」

 例えばこの場で銀陽さんが攻撃して来た場合、光には本当に躊躇いなくトトを殺すよう頼んである。何らかの手段を用いて攻撃してきた銀陽さんに、最低限の防御か回避だけ取ってトトを殺してくれと言ってある。

 ではここで本当にトトが死んだらどうなるか。

 まずトトの死体───獣人族の死体がルーナティア城の前にある大広間に晒されてしまう。それを見た国民は、きっと様々な事を噂するだろう。

 噂はやがてトト族の村長むらおさの耳に入る。ルーナティア国現魔王直属の部下に自分の一人娘殺されたと分かれば、あの毛むくじゃらのおっさんは一も二も無くルーナティア国にカチコミを仕掛けるはずだ。トトの事は玉藻さんも可愛がっていたから、場合によっては傾国すら出向いてくるかもしれない。

 けれど魔王さんも絶対に黙って殺されるような事はしない。むしろ殴り込んで来た村長や玉藻さん、獣人族の民を皆殺しにするだろう。あの女性はそういうタイプだ。

 それで良い。そうなってくれなければ困る。

 そうで無ければ、僕の事を慕ってくれている獣人の女の子を天秤に掛ける意味が無くなってしまう。

「命を大事にって五月蝿い団体は、命を大事にしない奴らに対しては本当に徹底して叩きに来ますよ。人権団体って言うんですか? この世界にも居るでしょう、そういう人ら」

 ………たった一言だったが、あの村長は「家内の忘れ形見」と言っていた。大事な娘が、亡くなった想い人の産んだ自分の娘が殺された。それの復讐をしようとした獣人族までもが皆殺しになったとあれば、人権団体に限らず多くの民が黙っていない。明確に騒げる口実を見付けた彼らは口煩く魔王さんを叩き始め、その内レジスタンス反乱軍が結成され内輪揉めは本格的に内乱へと変わる。

 敵対している国家に内乱が起きたとして、それを見逃す程サンスベロニア帝国は腑抜けでは無いはずだ。一気呵成に攻め立てるかもしれないし、レジスタンスに魔導兵器を流して更に内輪揉めの火を大きくしようとするかもしれない。それを消そうと魔王さんが動けば、もう魔王さんは国民の支持を得られなくなる。幾ら力が全ての国家とはいえ、恐らく多くのルーナティア人がサンスベロニア帝国に流れてしまう。そこまでいったらもう魔王さんは独りぼっち、兵士は兵士という仕事に就いているだけの国民なのだから、孤独になった魔王がその後どうなるかは火を見るよりも明らかだろう。


 そして何より、そうなればもう僕らはルーナティア国の愚者として振る舞わなくなる。


 銀陽さんの敗因が何だったのかと聞かれれば、きっと僕は「命懸けである自覚が無かったから」とかそんなような事を言うと思う。

 相手が何であれ、戦場に立っていればそれはもう戦士なのだ。化猫に乗ったクソザコでも、アイドル崩れの女の子でも、負けばかりの貴族でも、絶対に侮ってはいけないのだ。

 窮鼠猫を噛むとはまさしくこの事。銀陽さんは弱い相手だと侮り、自分なら負けないと慢心し、ここが殺し合いの場である事を忘れて悠長に会話を楽しんでしまった。

「敵の変身シーンを棒立ちで眺めるのはただの間抜け。銀陽さん、貴方はトトと光が前に出るより前、そもそも向き合った時点でさっさと仕掛けるべきだったんです」

 更に突っ込んだ事を言うのなら、そもそも魔王さんは「ペール博士が立ち塞がったら」では無く「博士以外を皆殺しにして来い」とでも言うべきだったんだ。僕らが戦争の道具だから、今後使い道があるからと壊す事を躊躇ったのが、多分決定的な要因だと僕は思う。


 殺るなら殺れ。

 ここまで来て何を半端に欲張っているんだ。

 落ちるなら落ちろ。地獄の底まで堕ち切れよ。

 半端に生きるな。生きるなら力強く生き続けろ。


 死ぬなら死ね。


 殺すなら殺せ。


「…………………………タクト様、貴方にプライドは無いのですか? 恥も外聞も無いような、こんな酷い────」

「緊縛はされるよりする方が好きなんです。プライドとか恥とか、そういう見えもしないものに縛られるのはもう止めました。………理解出来たんなら早くポルカの法度ルールで縛られてください」

「…………はぁぁぁぁぁぁ。……………………タクト様がラムネ様に乗っていらっしゃるから、てっきり荒事で解決してくると思っていたんですがね。……………まさかこんな酷い搦手で来るとは思いも寄りませんでしたよ。身勝手ながら、本当に少しだけガッカリしてしまいました」

「あんたの意見なんて知った事じゃ無い。僕は僕の為に生きて、僕の為に生きる奴の為に死ぬ。僕の為に片目すら向けてくれない奴の濁声だみごえなんてどうでも良い」


 ──── Welcomeようこそ、 fool愚か者. ルーナティアは貴方を歓迎するわ。貴方がルーナティアの為に生きる限り、ルーナティアは貴方の為に生きるでしょう。


「僕は、────────僕は、僕が苦しくて泣いている時に、指先一つすら差し伸べなかった奴の事なんて、もうどうでも良い」

 あの人は言ってくれていた。僕が国の為に生きていれば、国は僕の為に生きてくれると言ってくれていた。だからこそ僕は獣人族の村まで出向いて、慣れない交渉にギクシャクしながらも、それでも頑張って優位を取って話を丸く収めてきたんだ。

 それに対して魔王さんは何て言った?

 何も言っていない。何も言ってくれなかった。

 帰って来た僕に褒美の一つも、「良く出来た」の一言も、何一つ向けてくれていない。獣人族の村からの帰り際、僕がしくじって光を窮地に追い込んでしまった罪悪感から壊れ掛けても、魔王さんは何もしてくれなかった。

 あの人は見ていたはずだ。淫魔サキュバスとしての能力…………契約を優位に進める為の隙を窺う、遠耳のような能力を使って僕の動向を監視していたはずだ。

 仮に見ていなかったとしても、それはそれで不義理として腹が立つ。見る事が出来る力があるにも関わらず、意図的に見向きもしてなかったのであれば、やはり安く見られているのだと僕は判断する。

「僕が泣いている時、『いつものメンツ』だけでなくペール博士までもが僕を心配してくれた。………心配するだけじゃない、みんな僕を元気付ける為にわざわざ時間を割いてサプライズを用意してくれた。………馬鹿みたいな内容ばっかりだったけど、それは本当に嬉しかった」

 泣いてる僕の為に動いてくれた人が泣いているならば、僕はどんな手を使ってでも笑わせてあげたい。


 笑える事の幸せさを噛み締めさせてあげたい。

 笑える事の幸せさを思い出させてあげたい。

 自分が得た幸せを誰かと共に分かち合いたい。


 貴方を今から幸せにしてあげたい。


「───お前が踊れよ───」

 鼻で嘲笑うような声色をしたポルカの宣言に、銀陽さんの体がビクンと痙攣。即座に手足を伸ばしてポルカと同じ直立不動の姿勢になる。

「───どうか私に教えておくれ───」

 それを確認したペール博士が続け様に法度ルールを適応、博士の周囲に六つの口が現れる。その口の一つが銀陽さんの足元まで向かうと、ポルカが「よいしょ……よっ……」とぎこちなく体を動かしながら銀陽さんを口の中へと運び込んでいく。

 やがて首から下を全て口の中へ連れ込まれた銀陽さんが「………食べられませんよね、私」と不安そうに僕へと目線を向けてくる。…………法度ルールの持ち主であるペール博士では無く僕に問い掛けた辺り、恐らく銀陽さんは自身の命を誰が握っているのかを良く理解しているようだ。

 けれど僕はもう銀陽さんに何か語るような事はせず、ただ無言でペール博士に目線を送る。すると博士は「要らないね。興味が湧かない」と銀陽さんを咥える口に力を込めて逃げ難いよう固定する。

「…………それ逃げれるんとちゃうか? 太陽とり合っとる時とかババアと殴り合っとる時に逃げられたらウチら死ぬでよ」

「問題無いよ、この子たちは単純な命令ならオートで動いてくれる」

「間に合うんけ? この犬随分と動きぃ速そうやけど」

「命令の内容次第だな。「私を守れ」であれば見ていられない程に愚鈍だが「私に向かう飛翔物を弾け」であればかなり機敏になる。「飛翔物を下に叩き落とせ」とかまで絞れば、少なくとも私の目では追えない」

「今は何やの?」

「手足の筋肉に一定以上力が入った瞬間首を噛み千切れ、と思考を送っている。………銀陽、お前はもう怯えて体を竦ませただけで即死するような状況である事を覚えておくと良い」

「………………ペール様は、それだけ本気だと仰る?」

「気になるからね。チェルシーがチェチェに戻ってくれるのか気になる。………それを知る為なら、お前如きの命なんて道端を這いずる虫よりも価値が無い」

 余りにも無慈悲な言葉に銀陽さんが息を呑む音が聞こえた。ちらりと目をやればペール博士の瞳はいつもよりも遥かに冷たく、気を抜けばこっちが震えてしまいそうな程。それだけ彼女が本気だという事だろう。

 やがてポルカが銀陽さんに掛けていた法度ルールを解除し、トトも突き付けられた長ドスから解放される。そこから僕が不用意に背中を向けたり「ひでー目に遭ったのよ!」と憤慨するトトを撫でてみたりと隙を晒してみるが、もはや銀陽さんは口を開く事すらしなかった。

 生殺与奪の権利を奪われているから………とも思ったが、恐らく違うと思う。

 確信は無いけれど、きっと銀陽さんもペール博士と同意見なのではないかと思う。ペール博士程では無いにせよ、銀陽さんだって魔王さんと長い付き合いなのだ。あの女性が昔とは全く違う程に変わってしまった事ぐらい気が付いているはずだ。

 もしかしたら、銀陽さんも昔の魔王さんに────魔王になる前の魔王さんに戻って欲しいと思っているのかもしれない。

 そうだったら良いなと考えながら、僕は太陽を撃ち落とす算段をもう一度頭の中で考え直していく。

 月はもう食べ終えた。この銀月はもう月光を放てる位置には居ない。

 けれど慢心してはいけない。これで安心してはならない。

 月の輝きは太陽光の反射である。太陽を撃ち落とさない限り、やがて巡った月は銀色の陽光で人を狂わせるだろう。

「……………んじゃァ、行きますかァ」

 ジズの言葉に、みんなは黙って頷いた。

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