5-3話【シスターと脱臼と導く話】



 この世界では銅が産出されない。

 過去に呼び出された勇者や愚者の中には異世界知識で一攫千金を狙おうとするものが極めて多いが、しかしそれらは須らく『銅が手に入らない』という事実を目の当たりにして意気消沈してしまう。

 それだけならまだしも、である。この世界に存在する鉄や金、銀に見える鉱物も彼らの知るものとは別物なのだ。外観や性質こそそれらに似通っているが、原子レベルまで拡大すれば全くの別物質であり、少なくとも石油を原材料としたプラスチック製品は軒並み夢の産物になってしまっていた。

 電化製品に関しては『それっぽいもの』を製造する事は出来たが、しかし銅が無いという関係からエネルギー効率が悪く、一攫千金を狙った異世界からの来訪者は皆エネルギー保存則を呪いながら落ちぶれて死んでいく事となった。

「…………スキルっすか、なるほどっすね」

 アルコールランプにくべられたガラス製のサイフォンの中、淡い桃色の液体がこぽこぽと音を立てる。その様子を見たベルナルディーノ・ヴェンティセイがアルコールランプの首に取り付けられたツマミを回して火力を弱めると、こぽこぽと鳴らしていた桃色の液体がふつふつと静かに沸騰し始めた。

「異世界人はこの世界で生前の異能力とか使わない方が良いっすよ」

 黒い体毛に覆われた獣の腕をひらひらと振りながら「何せロクな事にならねっすから」と言うベルナルディーノに、アンリエッタ・ヴァルハラガールが「……それはどうしてだ?」と問い掛けると、ベルナルディーノは『Work 働 き theたく F××kねえ 』と書かれたエプロンを脱ぎながら「合わないんすよ」と答えれば、アンリエッタは「合わない?」とオウム返しした。

「質が合わないんす。少なくとも『勇者』だなんて呼ばれるような人にはまず合わないっすね」

 乱雑な四つ折りにしたエプロンを椅子の背もたれに掛けたベルナルディーノが「よっこいしょ」と呟きながらその椅子に座り、カウンターテーブルに肘を置きながら「不公平な事に、愚者は大体が使えるんすけどね」と鼻で笑った。

 ……勇者や愚者としてこの世界に呼び出されるものは、各々全く別の世界から呼び出されている。同じ世界から二人以上呼び出される事は決して無く、必ず別々の世界線から呼び出されるようになっている。アンリエッタ・ヴァルハラガールは剣も魔法も存在するし、自らの意思で自らが扱う『スキル』を作成出来る世界から呼び出された。しかし『魔法店よどみハウス』の店内に並べられた様々な品々を眺めるウィリアム・バートンは魔導具こそ存在すれど魔法自体は存在しない世界からやって来ている。アンリエッタの隣で不機嫌そうに眉間を寄せているニカ・ヤーチカに至っては剣も魔法も存在しない世界からの来訪者である。

 平行世界理論………まさしくパラレルワールドのような『似ているけれど少し違う世界』から呼び出された異世界人たちの中には魔法の存在する世界からやって来たものも多く、その中には当然のように魔法を使って一攫千金を狙おうとするものだって存在する。

 しかし彼らはそれを実行に移したその日の内に、死ぬか人間を辞めるかの二択を迫られる事になる。

 訝しむような表情をしたアンリエッタにベルナルディーノが「魔法の知識はどれほどっすか?」と問い掛ける。アンリエッタが即座に「皆無だ」と答えればベルナルディーノは気安い声色で「おけっす」と背筋を反らせ「んじゃ自分が基礎を一通り説明するっすね。途中での質問は受け付けないっす。何をどこまで喋ってたか忘れちゃうっすから、話し終わってから聞いてくださいっす」と忠告する。

「魔法って聞いて人々各々色々思い浮かべると思うんすけど、極限まで掘り下げれば全ての魔法は三種類に分けられるんすよ」

 鋭い爪を三つ立てたベルナルディーノが逆向きに生えた蝙蝠の翼をぱたぱたと揺らしながら語り出せば、アンリエッタとニカは真面目な顔をしながら黙って聞き入った。


 不思議な力で、不思議な事を成り立たせる。言葉で説明出来ない現象を起こすのが魔法。そういった認識は何ら間違っていないが、その『不思議な力』の根源は主に三つ存在する。


 一つ。自らの体にある魔力を使用するパターン。

 二つ。空気中に溢れる魔力を使用するパターン。

 三つ。他者の生産した魔力を使用するパターン。


 魔法と呼ばれる不思議な力は、基本的にこの三つの内のどれかを経て奇跡を成り立たせている。

「まず大前提として、この世界の魔力は濁り切ってるっす。カッケぇ言い方するなら『破滅色の魔力』で、ダッセぇ言い方するなら『工業排水ダダ漏れ級の魔力』とかが適当っすかね」

 その上で、考える。

 一つ目は最初の方こそ問題無く魔力を使用し奇跡を起こせるだろう。しかし魔力は無から生み出されている訳では無く、栄養素のように食べたものや吸った空気から精製され体に貯蓄される。それが『工業排水ダダ漏れ級の魔力』が含まれた空気を吸って得たものであれば、徐々に徐々に体は軋みを上げ始め、いずれ破滅へ辿り着く。

 二つ目も全く同じだが、こちらは最初から『破滅色の魔力』を使用する為一つ目よりも破滅に至るまでが圧倒的に早い。二回三回目まで保つ事はレアケースであり、大体が初回使用の時点で破滅に至る。

 では三つ目。これは言葉だけ聞くと「他の人から魔力を奪う」というように受け取れるかもしれないが、そういう訳では無く『妖精や精霊お隣さんたちから何かを対価に魔力を貰う』というパターンである。

 しかしこれも二つ目と結果は全く同じ。シガテラ毒が如く生物濃縮された魔力を受け取るだけなら大した事は起こらないが、それを使用した瞬間体が耐えられずに破滅してしまうのだ。

「極まれに居る「魔力は大量に持ってるけど魔法の扱いがクソ下手」みたいな人が「魔力を余分に支払い、代わりにお隣さんに奇跡を起こして貰う」って事例も存在するんすけど、その場合は普通に魔法が発現するっす」

 要は「この世界が関わっている魔力を使わなければ良い」という話であり、この世界に溢れる『破滅色の魔力』を得る事だけなら何ら問題無い。

「じゃあ異世界人なのに魔法使える奴はなんじゃらほいって話に移るっす」

 玉藻御前と呼ばれた大妖怪や首様と呼ばれる神は愚者として呼び出されていながらも、魔法が関係する奇跡を何ら問題無く起こす事が出来ている。そうは見えずとも幽霊猫であるラムネ・ザ・スプーキーキャットも、亡霊として存在を成り立たせる為に少なからずこの世界の魔力を使用しているが、それでも破滅とは縁遠い生活をしている。

 それは何故なのか。

「そういう連中は大体が「存在そのものが悪」って感じで………何つーか、波長が合うんすかね。この世界の魔力に適性があるっつーか……言葉にし辛いっすね〜」

 目元を完全に隠したベルナルディーノが困ったようにその前髪を揺らすと「毒蛇が自分の毒で死なないのと同じようなものか?」とアンリエッタが口を開く。それを聞いたベルナルディーノが「感覚的には似たようなもんっすけど、蛇は自分の毒で死ぬっすよ」と訂正を入れれば、ニカが「そうなんですか?」と驚きを見せる。

「経口摂取では死なないっすけど、自分の尻尾に自分で噛み付いて毒が入ったら大体そのまま死ぬっすよ。大体の蛇毒は血液か神経に作用する毒が多いっすから、あの例えは口に入るだけじゃ効果が無いってだけっす。実際ハブ毒なんかは人間が舐めても特に何も起こらないっすからね」

 ベルナルディーノの豆知識に二人して「「へえ……」」と感嘆すれば、数々の商品が陳列されている棚を見ていたウィリアム・バートンが背中を向けたまま「人が精製した科学毒がポイズン、毒腺で生成するのがベノム、毒性を持った他の生物を食って体内に蓄える生物毒がトキシンだから、誤用には気を付ける事ね」と更に雑学を披露する。

「……という事は、蛇の毒はベノムなんですね」

「ニカちゃんは理解が早いわね。ゲームなんかじゃ爬虫類系の敵がポイズンファングとかって名前の技使うのよくあるけど、あたし的には違和感しか無いわ」

「何を見聞きしても『毒』で統一すれば誤用は有り得ないな」

「アンリエッタさん……それは流石に頭悪いよ……」

「そう考えると人が作った社会で人が言いたい事言えないってのをPOISONって表現してるんだから、反町◯史って凄いわよね。まさしく言い得て妙だわ」

「ウィリーさんが何を言いたいのか分かんないよ……」

 呆れた声色で嘆息するニカにベルナルディーノが苦笑しながら「まあ、要するにっすよ」と話の腰を戻す。

「生粋の悪人……もしくは天地万物を知り尽くしたとかってレベルの魔法使いさんでも無い限り、異世界人がこの世界で異能力を使おうとすると体が耐えられなくなるんすよ」

 そう話を締め括ったベルナルディーノにアンリエッタが神妙な面持ちで目を伏せる。

 自身の使用するスキルは決して魔法では無い。しかし考えてみれば『スキル』という能力を無から生み出せる訳も無いのは聞くまでも無い話だった。

 恐らくアンリエッタが生前住んでいた世界では多くのものが無意識的に魔力を使用し、スキルを組んでいたのだろう。だからこそ勇者としてサンスベロニア帝国に呼び出されたアンリエッタはスキルを使用する度、胸の奥に小さな痛みを感じていた。

 きっと一回の魔力消費量は極々僅かで微々たるものだから体が破滅せずに済んでいたのだろう。しかし使用回数の総数が増えていけばいずれ体は破滅する。


 となればもう、スキルの使用は控えるしか無い。


 けれどアンリエッタが悲しげに俯いたのはそれが理由では無かった。

 戦争を勝ちに導く為に呼び出されたにも関わらず掛けられた戦術的ハンディキャップ…………確かにそれもネガティブになる理由の一つではあるが、アンリエッタの脳裏に浮かんでいるのは幼い魔法少女の最期の姿だった。

「…………レナは────私は、レナを救えたのだろうか」

 破滅色の魔力。悪徳企業が垂れ流した汚染水が如く穢れた魔力を使おうとした魔法少女は、その性質に体が耐えられずに暴走した。もはや自分で自分を止める事すら出来ず、彼女は終わりの時まで痛い痛いと泣き叫んでいた。

 何も知らないまま破滅に沈んだ幼い少女。手の施しようが無くなったレニメアの首を斬り落としたアンリエッタは、今でも何かある度に彼女の遠慮がちな微笑みが脳裏に浮かぶ。

「大丈夫よ」

 悲しげに、悔しげに、力無く俯くアンリエッタの頭にウィリアムが手を置く。

 優しくは無い。どちらかと言えば乱雑な置き方をしたウィリアムがぐしぐしと金色の髪を撫で回すと、それに釣られてアンリエッタの頭部も小さく左右に揺れた。

「あんたはあの娘を救えてるわ。あのままダラダラ放置して苦しませ続けるぐらいなら一思いに楽にして貰った方が幸せだもの、あんたを恨むような事は有り得ないわ」

「そう………だと、良いんだがな」

「心配ならイタコ呼んで来ても良いわよ」

「…………イタコ? イタコとは何だ? デビルフィッシュの仲間か?」

「ニホンのアオモリ原産、要は降霊術師ネクロマンサーよ。降霊は時間制で料金増えるから、呼ぶならさっさと話済ませて笑顔でさよならしなさいよ」

「………なるほどな。……………大丈夫だ。心配させて済まない」

 猫が頭を撫でられるのを嫌がる時のように首を振ったアンリエッタにウィリアムは「あらそう」とその手を退ける。それを見たベルナルディーノが逆向きに生えた蝙蝠の翼をゆらゆらと揺らしながら「ふと思ったんすけど」と口を挟む。

「そういえば風俗も基本的に時間制で料金増えるっすよね。イタコと違って増え方エグいっすけど」

「なんか「ハードSM◎」って書かれてる嬢の首絞めたら即出禁になったの思い出したわ」

「いやそれは当たり前っすよ、下手したらイタコにその嬢降霊して貰いながら裁判する事になるっすから。せめてプレイ前に嬢に聞くべきっすよ」

「……風俗もアオモリとやらが原産なのか?」

「………言われてみたら確かに似てる点は多いわね。……ハッ! ……もしかしたらあたしたち、とんでも無い事に気付いちゃったかもしれないわ」

「え、消されるっすか? 自分らグラサン黒スーツの人に連れられて地下帝国に連れてかれちゃうっすか? ちんちん遊びなら自信あるっすけどチンチロ遊びは自信無いっすよ?」

「姉ちゃんその話はやめてくれ、まだちょっとトラウマ気味なんだ」

「むしろ風俗嬢の首絞めたあたしが消されてたかもしれないわね命拾いしたわ。危うく地下帝国の偉いジジイのちんちん舐める事になってたかも。どうせ舐めるならワインが良いわ。あたしもワインえろえろ舐めたい」

「それはマジでそうっすね。いやワインえろえろじゃなくて出禁の話。それどう考えても出禁で済んだの命拾いっすからね」

「命を、拾う………………やはり風俗はアオモリとやらが原産なのではないか? 共通点が余りにも多過ぎるだろう」

「いや別に共通点とか何も無いし絶対違うし、そもそも『原産』って言うのやめようよ何か嫌」

 馬鹿話が広がり始めていた三人に耐えられなくなったニカが不機嫌を顕にしながらそう言うと、ウィリアムは溜息混じりで「ニカちゃんは細かいわねえ」と呟きながら商品棚の方へと戻って行った。

 するとまるでタイミングを見合わせたかのようにカウンターの奥の暖簾が揺れ、スティンク・マゴットとグァルネリ・オットーが顔を出した。

「こっちの用は済んだ。そっちは?」

 三組の小さな恋人石をカバンに仕舞いながらスティンクが言うと、ベルナルディーノが鼻で笑いながら「お代受け取ってないっすけど〜?」と声を掛ける。

「料金は後払いだ、後々持って来させる」

「オットー」

「証文は受け取った。スティンクの捺印もある」

 流れるような手書きの文字が羅列された紙をペラペラと揺らすグァルネリ・オットーに「担保無しは気分悪いっすね〜」と苦笑すると、商品棚から目線を外したウィリアムが「何の用だったの?」とスティンクを見る。

「囮用の恋人石を数個買っただけだ」

「……囮用?」

 スティンクの言葉にニカが首を曲げると、ほぼ同時にウィリアムが「あーね」と納得。ニカは「どういう事?」と更に首を傾げた。



 …………勇者を呼び出す前のサンスベロニア帝国は平和そのものだった。独裁国家故に多少の貧富の差はあったが、それでもスラム街のような区画は無かったし、兵士が市民の家に食料品を盗みに入るような事なんてまず有り得なかった。

 けれど十二人の勇者が呼び出せれてから、サンスベロニア帝国は謎の異変に悩まされる事になった。


 子供……特に少年が行方不明になる事例が多発したのだ。


 当初は軽視されたが被害届の提出は一切止まらず、次第に戦災孤児バスタードのような身寄りの無い子供も失踪するようになり始めた。

 神隠しか、或いは勇者として笛吹き男でも呼び出してしまったのか。市民の中で不安がる声が膨らみ始める頃、事態を重く見たサンスベロニア帝国は国家そのものを動かして行方不明になった子供たちを探し始めた。

 勇者として呼び出されたものの一人であるウィリアム・バートンは、その捜査の役割を担っていた。軍丸々が動くとなれば事態はどうしたって大事になり、犯人に対して警戒されてしまう。かといって個人が動こうにも、帝国内に有能な暇人なんてまず居ない。

 そんな中、余りにも好き勝手に動きたがる勇者たちの中でも比較的従順だったウィリアム・バートンに白羽の矢が立ち、ニェーレ・シュテルン・イェーガーから「暇潰し程度で構いません。気が向いた時だけで良いので、犯人探しを行ってください」と頼まれたウィリアムはハーメルン探しを行っていたのだ。


 そんな折、ウィリアムは偶然にも犯人と思しき存在の足取りを掴む事に成功した。


 それは気紛れで教会に祈りを捧げに来た時の事だった。

 サンスベロニア帝国には一か所だけキリスト教の教会が存在する。しかしそこに参拝に来る国民は一人として居ない。独裁国家であるサンスベロニア帝国では総帥以外の存在を崇める事が違法であり、市民は参拝に来ている所を衛兵や秘密警察に見られた瞬間そのまま独房まで連れて行かれてしまうからだ。

 しかしそれでも教会は存在する。サンスベロニア帝国に住みながら、しかし市民とは呼べず、また帝国で定められている法律に背いてもある程度までなら許されるような存在───異世界人が祈りを捧げる為に教会は建てられている。

「あ、うぃ、ウィリーさん。……お、お、お、おはようご、ございます」

 人の子一人居ない静かな礼拝堂の中央。膝を突いて祈りを捧げていたルーニャレット・ルーナロッカが驚いた様子で挨拶をすると同時、それまで開け放たれていた礼拝堂の大扉が軋みを上げ、ひとりでに閉ざされる。薄暗くなった礼拝堂の中央、ステンドグラスから射し込むキラキラとした輝きに言い様のない荘厳さを醸し出したルーニャレットが「よ、ようこそ」とウィリアムを見る。

 まるで覗き魔に流し目を送る痴女が如く背後の大扉に意識を向けたウィリアムは、しかしすぐに何も無い事を察し「おはよルーニャ。結構朝早いのね」と少しだけ眠そうに返事をした。

「………神父かシスターは居ないの? 礼拝堂を開放するのは分かるけど、幾ら何でも人の目無しは危ないでしょうに。誰かしら関係者を置くべきだと思うわ。個人的には人の心が読めちゃう気弱な金髪神父を置いて欲しいわね。最終的に落とした百万を一生拾い続けて欲しいわ」

 周囲を見渡したウィリアムが批難するような声色でそれを指摘すれば「わ、わ、わたしも、そう、そ、そう思いました」と遠慮がちに返す。

「で、でも問題無いそうです。だから滅多に表に出なくても良いと………」

「懺悔室は?」

「きょ、教会に来るような方は、そ、その、すぐ直後に独房で懺悔させられるから要ら、要らないって……」

「上手い事言うじゃない。………はあ……駄目ね、あたし教会とか礼拝堂って聞くとどうしても乳首から毒ガスばら撒いて周囲をゾンビ化させるあいつが思い浮かんじゃうわ。美女だなんて本当に上手い事言うわよね」

「よ、良く、良く分かりませんが……ウィリーさんもお、お祈りですか?」

 ウィリアムの言葉を解せなかったルーニャレットが少し困ったように問い掛けると、ウィリアムは即座に「違うわ」と返した。

「ただの暇潰しよ。あたしナルシストだから神は好きになれないの。あたしは自分より格下相手に死ぬまでドヤってたいタイプだからね……神に限らず、あたしはあたしより優秀な存在を好きになれないのよ」

「そ、そうですか。………なん、何か、そ、そんなイメージあ、あり、ありました」

「それに対してルーニャは敬虔ね。まさかとは思うけど毎日お祈りしてるの?」

「あ、あ、朝起きたら、おい、お祈りだけはします。わ、わ、わ、わざわざ教会まで来る事はそ、そうありませんけど」

「わーおマジで言ってる? 凄いわね、あたし日記書けないタイプだから絶対無理だわ。だってそもそも日記買おうとすら思わないもの」

「す、凄くは無いと思います。…………朝起き、起きて、必ず髭を剃る男性は、それを凄い事だとは思いません。ま、周りの人だって、毎朝髭を剃る事を凄、凄いとは思いません。それと、それと同じで私がお祈りをす、するのも凄い事では無いと思います。こんなの、誰にでも出来る事だから───」

 伏目がちになりながらそう言うルーニャレットにウィリアムが「ルーニャ、それは違うわよ」と遮ると、ルーニャレットは「え?」と顔を上げ、即座に慌てて左手で顔を隠した。しかしウィリアムはそんな仕草には何も言わず「全然違うわ」と頭を振った。

「誰にでも出来る事とやらが本当に誰にでも出来たらリキュー・センノはスキンヘッドを辞めてうっすいポン酒でも呑んでるはずよ。………朝起きて髭を剃れるのは凄い事、だってあたし滅多に朝起きれないから夜風呂入った時に髭剃るわ。それと同じで、例え偶然だったとしても、滅多に早起き出来ないあたしが早起きしたら、それは凄い事だと思わない?」

「そ、それは…………」

「あたしからすれば朝起きてトイレ行って一番搾りを吐き出して、そのまま布団に戻らず顔を洗いに行けるって時点で十二分に凄い事よ。誰かに出来ない事が誰かは出来る。その誰かにとっては凄くないように思えても、出来ない誰かからすれば凄いのよ」

「………はい」

「あたしに出来ないような事が毎日出来るルーニャは凄い娘なのよ。誰も得しない謙遜してないで、もう少し自信持ちなさいな」

 眠たげな目元を擦りながら「以上、早起き出来て凄いあたしからの忠言でした。耳に逆らったら怒るわよ」と一方的に締め括ったウィリアムに、ルーニャレットは素直に「あり、ありがとうございます」と頭を下げた。

「っていうか、そもそもお祈りって何なのよ。毎日毎日何を祈ってる訳? 合格祈願とかそういうの? この間レ◯プした女が警察行ってませんようにとか?」

 寝起きで固まってる表情筋をほぐす為、自身の手のひらで両頬をむにむにと動かしながらウィリアムが問い掛けると、ルーニャレットは「ひ、人それぞれですね」と磔にされたキリスト像へ向き直りながら答えた。

「健康祈願とか、い、生きてる事に感謝するとか、悪い事をしたから今日、今日も償いますとか、人それぞれです」

「ニホンが年末年始に願掛けする、みたいな感じかしら。その癖チャペルで式を挙げて寺に埋もれるんでしょ? どいつもこいつも熱心だこと」

「も、もっと素朴です。そう、そ、そ、そういう人もいっぱい居ますけど、い、祈りを捧げに来る人の中には、おはようございますって祈るだけの人もい、居ますから」

「どう考えてもジジババでしょそれ。………ルーニャは?」

「はい?」

「ルーニャは毎日毎朝、何を祈ってるの?」

 問い直してから。ウィリアムはすぐに後悔した。しかし吐いた言葉は二度と戻らない。「わ、私は……」と呟きながら俯いたルーニャレットを見たウィリアムは少しだけ慌てながら「言いたくなきゃ言わなくても良いわ」と続けたが、ルーニャレットは「………いえ」と呟き左側の顔を指先で撫でる。

「わ、私は……少しでも、少し………本当に少しで良いから……悲しい事故が減りますように、って………毎日、祈ってます。死ぬ前からも、死んでからも、ずっと祈ってます」

 悲しげに言うルーニャレットに、ウィリアムは敢えて素っ気無い風を装いながら「そう」と答えるが、内心ではしょうもないミスをしたと歯噛みしたくて仕方が無かった。


 …………ルーニャレット・ルーナロッカは勇者では無い。本来であれば愚者として今日もルーナティア国で何やかんやと振り回されているだろうルーニャレットは、愚者たちの優しさに馴染めずルーティア国を逃亡。半ば亡命のような形でサンスベロニア帝国にやって来ている。

 世界に認められる愚か者として呼び出されたような存在が毎日神に何を祈るかなんて、聞くまでも無く分かるはずだった。


 そして思い出す。昔何処かで聞いた話。ニホンで良くある神社参拝では、願った事の内容を誰かに言ってはいけないと。自分が何を願ったかを他者に漏らしてしまえば、その願いは叶わなくなってしまうと。神様にしか言えないような話だからこそ神は手を貸し叶えようとしてくれるのであって、他の誰かに言えるならその人と共に叶えなさいと、神は願いを叶えなくなるのだという話をウィリアムは思い出した。

「………そのお願い、きっと叶うわよ」

 けれどウィリアムはそう答えた。自分の中に浮かび始める暗い感情を振り払うように「というかもう毎日叶ってるでしょ」と言うウィリアムにルーニャレットが「ま、毎日……?」と不思議そうな顔を向ければ「ええ、毎日」と続ける。

「毎日祈ってるからこそ、毎日少しだけ悲しい事故は減ってるはずよ。…………全部無くなる訳じゃ無いだろうし一気に減るような事だって無いだろうけど、それでも祈る人一人分は、きっと減ってるはずよ」

「………だと、良いですね」

 小さく呟くルーニャレットの言葉に皮肉めいたものは存在せず、ウィリアムは終わり良ければの精神でこの場は納得しておく事に決めた。

 ………やはり自分は朝が得意では無い。弱いとネガティブになる程では無いが、しかし決して強いとは言えない。

「………駄目ね、頭回らないわ。下手な娼婦よりよっぽど舌は動かせるのに、肝心の頭が回らないんじゃ『良く指名が入るだけの馬鹿女』と大差無いわ」

「ウィリーさん?」

「ごめんルーニャ、あたし一途な乙女キャラって設定あったの忘れてた。浮気相手探しはやめて本命の所に戻るとするわ。キャラ崩壊は良くないわ、釣られて作画まで崩壊したら手の施しようが無くなっちゃう」

「ほ、本命? い、一途って誰、誰に………」

「お布団よ。やっぱり朝の日差しに浮気なんてするべきじゃ無いわ」

 喋るだけ喋って満足したクソオタクのように言い残したウィリアムが「アデュー」と背中を向けて歩き出す姿に、唐突に語り始めたと思ったら「イベ走らなきゃ」とスマホを弄り無言になった陰キャに言葉を失った婦女子の如く呆気に取られ、そのまま声を掛けそびれてしまった。

「……………ウィリーさん、危ない事してないと良いんだけど」

 ウィリアム・バートンが呼び出された勇者の役割を全うしている事はルーニャレットも知っている。けれど礼拝堂の、ひとりでに閉じてしまった大扉を肩を使って押し開けながら「く……っ! 重っ、試しの門かよ……っ、………種付けプレスでピークになった相手からのしかかり受けた気分だわ……っ! マ◯ズのブニャ◯ト許さないわよ……っ! 麻痺がなんぼの……ぐぬぬぬっ」と必死に出ていくウィリアムからは、しかしギャグめいた言葉とは裏腹にどことなく嫌な予感がした。



「………………………けれど残念、あたしは麻痺治しより回復の薬派。拾った道具は飴すら売り飛ばすタイプだから金には困ってないのよね」

 誰にとも無く語るウィリアムが道すがら敷地内を見渡すが、当然ながらその双眸に怪しいものは映らない。あるとすれば柵で区切られた区画に月桂樹が植えられている事と、もはや使われる事も無くなった共用墓地ぐらい。

 海外では園芸樹として良く植えられている月桂樹からヒ素が抽出出来る事をウィリアムは知っていたが「そして得た金で何でも治しを買うのよ。でもきのみは売らないわ、値段も微妙だし何より実用性高いから。殿堂入りまでにきのみ食い漁りながら楽しい旅を続けるのがあたしの楽しみ方よ」とその月桂樹を無視する。

「……………………ふぅむ」

 石造りの十字架が突き刺さった共用墓地を見回ったウィリアムが鼻を鳴らす。予想はしていたが特に何も見当たらない。

「掘り返された土がまだ乾いてない、とか期待してたのにねえ。あれ分かりやすくて良いもの」

 ウィリアム・バートンはそう呟きながら、誰とも分からない墓前の前にしゃがみ込み────落ちていた小さな木の葉を手に取った。

 スカウトやニンジャNINJAの教えの一つにある周辺観察。生物が移動すれば大なり小なり、どう足掻いたって必ず痕跡が残る。靴で掘り返された地面、踏み折られた小枝は素人でも取っ付き易く簡単に意識出来る。

 プロの犯罪者ともなればガムテープ等といった粘着性の強い物体にも気を配る。下手に触れれば皮脂は確実に残り、髪や衣服の繊維……場合によっては手垢やフケだってしっかりと貼り付いてしまい、そこからDNAを照会されるだけでは済まない。フケの大きさやシャンプー、リンスの残り具合からプロファイリングをされ、少なくとも確実に年代予測は付けられてしまう。酷い場合であれば簡単なモンタージュすら作製されてしまうのだから、罪を犯すものからすれば住みにくい世の中になったものだ。

「……………………ふぅん?」

 落ちていた木の葉を拾い上げたウィリアムは、先程と同じようながらも全く違う音で鼻を鳴らした。

 表を、裏を、その木の葉をしげしげと眺める。

 まだ青さの残る木の葉はつるりと滑らかで、汚れ一つ無い綺麗な葉だった。

 この世界では銅が産出されず、それに伴い石油をプラスティックやポリエステルといった別物質へと作り替える記述が存在しない。だからこの世界の存在は大多数が綿か麻、絹や革辺りで作られた衣服を身に纏う。これで木の葉に繊維が付着していれば、その繊維を鑑定班に頼んで異世界物質か現世界物質かを絞れたのだが、

「流石に何も付いてないわねぇ…………まあトーシロでもそんぐらいは警戒するか」

 大きく嘆息しながらウィリアムは言う。

 けれどその呆れはアテが外れた事に対しでも無ければ、馬鹿でも出来る予測を上回られた事に対してでも無い。

「……………………アホねぇ」

 手に取ったままの木の葉から目を離し、少し背を伸ばせば背骨からパキパキという音が鳴り「っあぁ〜……」と呻きが漏れる。

「…………今日はほぼ無風。昨日は完全に無風。一昨日は無風で雨。その前は忘れた。その更に前はもっと忘れた」

 木の葉を持つ手とは反対の手で腰に手をやったウィリアムが周辺を見渡す。周辺に植えられた幾らかの月桂樹と、かなり遠くに建ち並ぶ民家。そして自分の住処でもあるサンスベロニア城が視界に入る。


 周辺に木の葉を繁らせるような樹木なんて、全く見当たらなかった。


「………私は関与していない、秘書が勝手にやった事。であればどうしてその秘書はこの場に居ないのかしら」


「神隠しではありませんか? 仕事に疲れた方々が背負っているものを捨ててしまうのは良くある事です」


 誰にとも無くひとりごちたはずのウィリアムの背中に女性の声が答える。直前にルーニャレットと喋った事で些か油断していたというのはあるが、足音や息遣いすら聞こえない程完全に存在感を断たれ不意を取られたウィリアムは、すぐに開き直って「あらそれは無いわ」とのろのろ立ち上がる。

 警戒心や攻撃性を敢えて見せずに振り返ったウィリアムの目に、やたらと背の高いシスターが立っているのが映る。ウインプルで髪を隠している上、丈の長い修道服を着ている事から体型や年齢の予測は難しいが………不思議そうに小首を傾げるその女性からは、どうにも修道女らしからぬ妙な色香を感じられた。

「蒸発したなんて言わせないわ絶対に居る。例えどれだけの証拠を消したとしても、余程杜撰な企業でも無い限り入社時に使った履歴書か雇用履歴ぐらいは記録に残っていても良いはずよ」

「………? どうしてそう言い切れるのでしょうか。ニホンではヤクザ仕事の方々がドラム缶に人を詰めて海に棄てるという話もありますよ」

「コンクリ詰めにして海にポイって? それ何十年前の話よ。死体は時間の経過に伴って腐敗ガスが発生するから、捕食者の存在しないコンクリの中だったら絶対どっかで破裂して死体が上がる。だから余程の貧乏でも無い限り、大体はアスファルト合材と混ぜて骨まで溶かすわ」

「あら、そうだったのですか。でしたら私たちは多くの屍の上を毎日歩いて居たのかもしれませんね」

「ええ、間違ってもどっかに埋めるなんてもってのほかよ。人間サイズを微生物分解だけで処理し切るのにはかなり時間が掛かるし、それより先に腐敗臭で野生動物に掘り返されるわ。白骨死体になったとしても歯や骨の治療痕でどうにもアテは取れちゃうし、山やその辺に埋めるなんて愚の骨頂よ」

「何と……そうだったのですね」

「一番分かりやすいのは化学薬品扱ってる工場に札束積む事かしらね。金歯だの銀歯だのは残るかもしれないけど……まあ埋めるよりかはよっぽどお利口よ。誰のとも知れない歯が出て来た所で動くのはマスコミだけ、死に直結する何かが出て来ない限り警察は動かない。どうしても海に棄てるなり埋めるなりしか選択肢が無ければ、最低限内臓は取り出して腹を開けておく事ね。破裂までの時間が稼げるから、きっと少しは違うはずよ」

「なるほど。……これは面白いお話を聞きましたね。いつかその時が来てしまったら、参考にさせて頂きます」

 人によっては口元に手を当ててしまうような話に、しかし目前の修道女は穏やかに微笑むだけでけろりとしている。そういった手合いを気にしないタイプなのか、何らかの理由で慣れていて肝が据わっているのか。

 当然ウィリアムは後者だと踏んだ。

「お名前伺っても良いかしら? あたしはウィリアム。ウィリアム・バートン十七歳。ウィリーって呼んでね。ウィルって呼ぶのはやめて頂戴、その呼び方は恋人限定だから」

「ウィリーさんの事は存じておりますよ。確か二十七歳だったと記憶しておりますが」

「あたしは永遠の十七歳。「たまには外で遊ぶか」って言いながら近所の河原でザリガニ探しする永遠のセブンティーンよ」

「でしたらお酒と煙草はいけませんね。今後「永遠」に関わっては駄目ですよ、この国にも未成年飲酒喫煙禁止法は存在しますから。荷物を捨てて道を戻りこそすれ、道を踏み外してはいけません」

 ネタで言っているつもりだったし、相手もそれは分かっている。しかしその上で、やはり完全に論破されると幾ばくかの悔しさはあるもの。「……やっぱ頭回ってないわぁ。口も体も隙だらけだもの、その内レ◯プか盗撮されちゃうわ」と嘆息したウィリアムは「……で、」と修道女に向き直る。

「……………そろそろお名前を伺っても良いかしら?」

 いつもに増して少しだけ真面目な表情をしたウィリアムの言葉に、修道女は口元に手を当てながら「あら、これはいけません。失礼を」と目を丸くする。

「こちら、ニチェア・グランツェと申します。洗礼名はマールです。お好きな方で呼んで頂いて構いません」

「…………あたし人の名前や外観を揶揄するのは大嫌いなんだけどね、ニチェアってどうにも呼び難いわ。酒や煙草買う以外で家から出ないド陰キャの笑い方に何か似てる」

 困ったように笑うウィリアムにニチェアが「ふふふ、面白い例えをなさいますね」と笑う。

 その笑顔に邪気は一切感じられなかった。

「でしたら洗礼名の方で、マールと呼んで頂ければ。グランツェだと些か尊大ですから」

「あたし馬鹿だからマールって聞いてもボーロしか浮かばないわ。それにそもそも洗礼名って源氏名みたいなものでしょう? あたし水◯奈々は「奈々さん」って呼びたい派なの」

「でしたら諦めるしかありませんね。ニチャッと笑いながらニチェアとお呼びくださいませ」

「ふへへ、ニチェアたんマジ救済の女神……。ついでに股間の妖刀ムラマサもニチェアたんに救い出して欲しいな……フォカヌポォ」

「…………………ほ、本当に呼ぶとは思いませんでした………私の負けです。………あと「たん」って付けるのご遠慮して貰っても宜しいでしょうか。何か……こう……その、何か嫌です」

「試合にも勝負にも負けたけど最後はあたしの演技力が勝ったわ。最後の勝負で一万点方式だから一万対三であたしがコロンビア」

 両腕を上げて自信満々にドヤ顔するウィリアムに「………それまでに出演者がした努力とやる気を無為に帰す素敵なバラエティ番組ですね」とニチェアが苦笑いする。そしてすぐに「ぁ駄目これ肩凝るわ」と両腕を下げたウィリアムは「あたし帰るわ。部屋にデリヘル待たせてるの」と肩を回し始める。

「あの子オキニなんだけど、ちょっと離れるとすぐあたしに冷たくなっちゃうの。……やっぱ高いものプレゼントしてご機嫌取ってあげなくちゃいけないのかしらね」

「あら、それはさぞふかふかで抱き心地の良い素敵な方なのでしょうね。そういった方が近くにいらっしゃるのは素直に羨ましい限りです」

「でもあいつ最近風呂入ってないっていうから結構臭いわよ。具体的には臭い嗅いだらむせるぐらい臭い。加齢臭かしらね」

「それはいけません。帰ったらとは言いませんが、それでも近い内にお外で干してあげてください。今日はこの後も晴れるそうですから、お高い布団乾燥機なんてプレゼントする必要は無いでしょう」

「お日様の香りはダニの死骸の香りって? アホよね、暖かくて気持ちが良ければま◯こもアナルも変わんないってのに」

「それについては普通に良く分からないのでコメント致し兼ねます。何が言いたかったのでしょう」

「あら冷たいわ。今度来る時は布団乾燥機持って来るから心も体もぬっくぬくに温かくなって頂戴ね」

「ついでにお布施と免罪符のご購入があれば満面の笑みでハグくらい致しますよ。その程度では一緒に寝て差し上げる事は出来ませんが」

 穏やかに微笑みながら言うニチェアに「あらしたたか」と返したウィリアムは、そのまま彼女の横を通り過ぎ「んじゃまた来るわ。アデュー」と片手を振ってその場を後にすした。



「…………………………背後を取られて失点一つ。トークで負けて失点一つ。………隙が無くて失点一つ。演技で勝って得点一万」

 その帰り道、ウィリアム・バートンは服の胸元から一枚の木の葉を取り出しながら呟いた。

「これでアテが当たったら得点一つ………一万一点対三点ね」

 犬の振りをしていた獣に関する懸念は残る。ルーニャレットやニカが単独で行動している際、そこを狙われたらどうなるか分からない。

 自分一人であれば「逃ィィげるんのよォォォうっ!」とでも叫びながら即時撤退すれば良いだろうが、横にルーニャレットやニカが居たとなれば戦わねばならない。

 守る為。しかし彼女たちを守る為では無い。

 自分を守る為に、彼女たちを守らねばならない。

 彼女たちを見捨てて逃げ出す事には一切抵抗感が湧かないが、しかしそれを実行に移してしまえば仲間内からの認識が変わる。

 認識の変化は対応の変化に変わり、自分への対応が変われば自分の状況も変わる。面倒を負ってようやく取り入れそうな安住の地なのだから、高々イヌ科の獣や孤立した修道女如きに遅れを取る訳にはいかなかった。



「んで博士にその葉っぱ調べて貰ったら、ちょっと離れた所のナンタラカンタラって木の葉っぱって分かって、その近くに住んでた戦災孤児の子が最近姿を見せなくなった事も判明。足取り掴んで嬉しくなったあたしは取り敢えずその場で全裸に。そしてその葉っぱを股間に当てて「YATTA! YATTA!」って喜んだっつー話よ」

「ごめんウィリーさん、多分何かのネタなんだろうけどわたしさっぱり分かんなくてただウィリーさんが変態なのかなとしか思えない」

「因みにあたしの股間は余裕で葉っぱからハミ出たわ」

「ニカ殿は「変態かな」では無く「変態だーッ!!」と叫んでおく所だったな」

「ハミ出た股間が葉っぱと擦れて何かドキドキしちゃってちょっと勃ったのは内緒よ」

「「もっと変態だったーッ!!」」

「何でよ納得出来ないわ、どう考えても紳士じゃない。犯人の足取り掴んだのよ? 隣のワトソンくんだってケツ穴かっいて「素敵……抱いて……」って言うはずよ」

 ………厳密には足取りを掴んだ訳でも何でも無いのだが、調べた結果その教会周りにだけ余りにも情報が少なくアリバイも無い為、消去法で限り無くクロに近いとされた。

「当然ながら調べてない訳じゃあ無え。にも関わらずロクな証拠も出て来ないって事は、恐らくこれ以上俺らがどれだけクソ野郎を調べた所で絶対に尻尾は掴めねえはずだ」

 椅子に座りながらそう言ったスティンクが軽くカバンを揺する。

「だから囮捜査って訳だ。調べても捕まんねえってんなら、調べる以外の手段で捕まえりゃあ良いってだけの話だからな」

「でも銭◯警部はそれでも駄目だったわよ? それをスティンク巡査がどうにか出来るっての?」

「俺がどうのこうのする訳じゃ無えだろうが。イケメン、貧乏、気弱の三種類の恋人を用意して、それぞれ好き勝手に泳がせる。その間は常に恋人石を監視、教会方面に向かったら腕利きを放つ」

「待てスティンク。腕利きを放った所でただ教会にこの子を呼んだだけ、という言い訳をされたらどうするんだ。恋人石で得られるのは方角だけ、そこで何が起こったかというような物的証拠は一切得られない」

「俺は腕利きと言ったはずだ。限界まで潜伏させ、誘拐されたガキに何が起こるかの瀬戸際まで待機させる」

「………囮になった子供は見殺しか?」

「救えるようなら救う、そして後日軍を動かして焼き払う。救えないようならその場で撤退、お前ら勇者みたいな腰の軽い連中に先行して貰ってその日の内に救出、保護だ」

「んであたしらみたいなのがその場でわちゃわちゃしてる間に腰の重い連中の尻に鞭を入れるって話ね。………あれかしら、逮捕礼状作ってから逮捕に向かうパターンと、現行犯での緊急逮捕みたいなパターンかしらね。…………いや全然違うか」

「スティンク。その子供───」

「うるせえなクソが心配要らねえよ。当然ながら生きてる状態で救い出すし、意味不明な事に巻き込まれて出来ちまった心の傷だって限界まで浅く済ませる。出来るかどうかはやってみるまで分からねえが、それでもそういう風に動くし動かすつもりだ」

 不機嫌そうな声色と不機嫌そうな表情を合わせながら吐き捨てるように言うスティンクにアンリエッタが安堵する。

 どういう訳なのか自分は子供攫いの案件を一切振られていないが、理由は何となく分かる。………恐らく自分では目立ち過ぎるし、きっと子供攫いに出会ってしまえば周りを待たずに猪突してしまうからなのだろう。そしてそういう意味では周りをよく読めるウィリアムと、慎重な性格をしているスティンクがそれに加わっているのは納得の出来る采配だった。

 けれどウィリアムは何を考えているか分からない。どうにも本心が読めず、また正義の為に動いているような様子も見受けられなければ何か自分の中にあるこだわりの為に動いているようにも思えない。

 そしてスティンクも同じく何を考えているか分からない。自分の事を気に入っているからか妙に融通を効かせてはくれるが、他の事には冷徹にも思えるような事を頻繁に口にする。

 だからこそアンリエッタは安心した。スティンクは自分が思っていたような軽薄な人間では無かった事に、心の底から安心した。

「………本来ならこの手のお使いクエストなんざ下っ端の仕事なんだが、どっかのクソ間抜けの件があったからな。ついでに俺が出向いて済ませた。たまにはこういうのも悪くねえ」

「………おい待て、お前そんな時間あるのか? スティンクはかなり忙しい身だろう」

「どっかのクソ間抜けのせいで仕事を減らされてな、ここ最近は空き時間が多いんだ」

「…………………済まないスティンク。恩に着る」

 良い奴だった。つくづく思う、自分は恵まれていると。良い仲間に恵まれたと。

 そんな二人を見やったベルナルディーノが「シスターねえ……」と嫌悪感の混じった溜息を漏らす。

「……………やはり、何か思う所があるのか?」

 毛深い獣の手足と、逆向きに生えた蝙蝠の羽。軽薄そうな喋り方からは一切感じられないが、それでもベルナルディーノは修道服を身に纏っている。デカデカと『Work 働 き theたく F××kねえ 』だなんて書いてある終わったデザインのエプロンと違い、その修道服には汚れ一つ見当たらない。それはつまり汚れが付かないよう気を配っているからか、もしくは毎日しっかり丹念に洗っているかのどちらか。

 アンリエッタの問いに鼻息混じりで「まぁそっすね〜」と体を起こした。


「自分これでも超敬虔なスーパーシスターっすからね〜。一時期はグランドシスターだなんて呼ばれてちやほやされた身っすから、やっぱ同類が何かやらかしてるってなると思う所はあるっすよ〜」


「…………………」

 誰もが言葉を失った。何を言えば良いか分からなくなったアンリエッタがグァルネリに目線を向けてみれば彼は即座に目を逸らす。

「………あ、信用して無いっすね? 自分これでも超敬虔なシスターとして生涯神を信じ切って死ねたって理由で呼び出された勇者っすよ? まあ結局こっち来て闇落ちしちゃってるし、言ったらその闇落ちだってもう何年前の話か分かんねっすけど」

「………はあ、そうなのか」

「そっすよ〜? つか自分みたいなきゃるんきゃるんのシスターが闇落ちとか萌える展開じゃないっすか、何でシラけてんすか。しらけさせるなら修道服の黒い部分にブッ掛けて白けさせるべきっすよ。黒い服って白いのブッ掛けると映えるっすからね」

 妙にテンションが高いベルナルディーノが「でも修道女に種付けは有り得ないっすね、修道女は神と結婚してる設定っすから処女捨てたら破門っすよ」とうんちくを垂れ始めた頃、アンリエッタが「……む?」と小首を傾げながら小さく唸った。

「……ベルナルディーノ殿。もしかしなくとも貴女が勇者の生き残りか?」

「は? そっすよ。こんなぴちぴちぷるんなイケイケ、この世界じゃ野生で出現しないっす。チート使わないきゃ出会えないような存在っすからね」

「それは知らん。……だが、だとするとよどみ様とは一体誰の事なんだ? 恐らく貴女は澱様と呼ばれている存在では無いのだろう?」

 アンリエッタの疑問にベルナルディーノが「え」と口を開く。

「私はここに来れば澱様と会えて、私のスキルに関する知識を教えて貰えるとスティンクから聞いていた。そして貴女がそれを教えてくれたから、私は貴女が澱様なのだと思っていた。……だがこの空気からして何となく違う感じがしている。もう問題は解決したから良いが、実際の所、澱様とは誰だったんだ?」

 その言葉にウィリアムとニカも「「あー」」と口を開くが、聞いていたベルナルディーノは「ヘェイ、スティンクボーイ?」と批難するように彼を睨む。

 睨まれたスティンクが「………悪い、説明忘れてたわ」と謝るが、ベルナルディーノはそれを「いっすよもう呼びゃ良いっす」と遮る。

「呼ぶ……この場には居ないのか?」

「居るっすよ、その辺に居るっす。でも基本勝手に出て来ないよう自分が良く言って聞かせてるっす」

「出て来るとマズいのか?」

 アンリエッタの言葉にベルナルディーノは何も答えず、隣にいたグァルネリに「オットー、念の為警戒っす、呑まれたらすぐ釣り上げて。間に合わせる」と声を掛け、彼は「分かった」と即座に頷く。

 何やら重々しい空気にニカがゴクリと唾を飲み込む。

「………じゃあアンリエッタさんで良いっす、ちょっとそこ見るっす」

 ベルナルディーノが指を指す。魔法薬だろう商品たちが陳列されている棚の一角、偶然にもそこだけ良く売れたのか何も魔法薬が置かれていない区画があった。

 そこを指差すベルナルディーノに従い、アンリエッタがじっとその一角を見続けていると。

「──────ッ!?」


 やがてそこに、ぬるりとした黒い顔が浮かび上がった。


 顔のような形をした真っ黒なそれは影と言うには光が足らず、闇と言うには黒過ぎる。ただ見ているだけなのに遠近感が壊れていくような感覚に、アンリエッタは体が怯えるのを感じ取った。

「こ──────」

「喋るな。駄目」

「───────」

 真面目な口調になったベルナルディーノにアンリエッタが呼吸を止める感覚で口をつぐむと、顔のような形をしたそれがゆっくりと動き出す。ゆっくりと慎重にもにょもにょと形を変形させ、やがてその顔は見覚えのある顔へと変わっていく。

「…………ッ!?」

 完全に瓜二つ。形を成したその顔は、少し前に行方を断ったメルヴィナ・ハル・マリアムネにそっくりだった。

 思わず息を飲む。商品棚の一角から滲み出るようにして現れた、遠近感のおかしくなる本当の黒。その中央に、ぽっかりと浮かび上がるようにして現れたハル診療所の主であるメルヴィナ・ハル・マリアムネは、一切の表情も無く口をパクパクと開いては閉じてを繰り返す。

「澱様」

 その顔がベルナルディーノの方へと向く。

「この人たちは新しい顧客っす。敵じゃ無いんで、顔覚えてやって欲しいっす」

 澱様と呼ばれた真っ黒な澱み・・は何も言わずに向き直る。それがアンリエッタ顔にゆっくりと近付くとベルナルディーノの「動かないで、絶対。心配要らない」という小さな声が聞こえてくる。

「………………………」

 アンリエッタは言われるまま一切動かない。目線こそ澱様の顔………メルヴィナ先生の死に顔デスマスクを追い掛けてしまうものの、それでもアンリエッタは愚直である事には自信がある。

 ゼロ距離まで近付かれても一切微動だにしないアンリエッタに澱様が満足したのか距離を離す。

 その瞬間メルヴィナ先生の顔は歪にもにゅもにゅと形を崩し始め、まるで手捏ねの粘土細工のように乱雑に変形し、

 やがてアンリエッタの顔と瓜二つになった。

「私ッ!? ────ッ!?」

 思わず声が漏れる。そして直後に「しまった」と口元を手で抑えるが「もう大丈夫」というベルナルディーノの声にどっと汗が出る。

「そうそう、その顔っす。澱様はお上手っすね」

 アンリエッタの顔を真似た澱様は用が済んだのが分かったのか、そのままアンリエッタの顔を商品棚にめり込ませるかのようにして染み込ませて行く。その顔がずるりと商品棚に食い込むのに合わせ、周りを覆うようにしていた遠近感のおかしくなる本当の闇も一緒に吸い込まれ、そこでようやくベルナルディーノは「もう楽にして良いっすよ」と周りのみんなに声を掛けた。

「……………あれは、あれは何? …………一体何なのよ。つかこの世界ってあんなのが居るの?」

 額の冷や汗を拭ったウィリアムの言葉にベルナルディーノが「そうは居ないっす、最高レアっすね」と返す。

「あれは……何つーか……何っすかね? 要は魂の集まりっつーか………まあ言ったら「良くないもの」の極地があれなんすよ」

「………良くないもの?」とニカが聞く。

「ほら、何か事故現場とかにカラスがーとか黒猫がーとか言ったりするじゃないっすか。この辺は良くないものが居てーとか何とかって」

「………それはたまに聞くわね。ニホンの古びた神社とか、事故や事件で経営出来なくなってそのまま放置された廃墟とかがホラースポットになってるっていうやつでしょ?」

「そうそう、そういうやつっす。そういう所って実際少なからず「良くないもの」が居るんすよ。………まあカラスだの何だのが居る内は余裕のよっちゃんハナほじポイーなんすけど」

 軽薄そうにそう言うベルナルディーノからは、いつになく、どこか意識的にそんな声色で喋っているような感じがした。「澱様は極めて純粋な部類なんすけど」と釘を差してから、ベルナルディーノは「そういうのの一種なんすよ」と簡単に説明を始めた。


 日本を軸に多く伝わる「良くないもの」は一般的に怪異と呼ばれる事が多い。妖ほど力を持たず、神ほど形を持っていないものを、東洋では怪異と呼んでまとめる事が多い。

 凶兆の目印としてカラスが多い場所は良くないみたいな事もあるが、カラスが近くにいる限りは基本的にただの「良くないもの」で留まっている段階なので死のリスクはさほど高くない。

 問題になってくるのはカラスすら寄らなくなった辺りからで、そうなってくると付近で変死や神隠し等の行方不明が一気に増える。そこから更に時間が経つと一定の箇所に留まらず、生きるものを食らって得た足を使い周辺を徘徊するようになる。

 そんな怪異は基本的に見た目で中身がどんな質をしているか判別出来る事が多い。爪や牙のような部位が多ければ攻撃的であり、それらが頭部に近ければ更に危険度は高まる。基本的に爪や牙を多く得ている個体は足なり浮遊なりといった移動手段を得ているものが多く、大半は付近を徘徊して出会った対象を通り魔的に死へ追いやる。「巣」に該当する場所を持っている個体も多いが正しくは「その辺で生まれたからその辺に居る」という方が適切であり、また繁殖を行っているように見える個体も多いが菌類や細胞という概念が希薄なので、実際行っている事は繁殖ではなく分裂に近い。

 人形や小物の変異、壁に顔があるようなタイプは感情の残滓であり思念の残り香である事が多い。それでも怪異と呼ばれはするが、それ自体に強い力は殆ど無く、基本的に個別での確たる意思は持たない事が多い。出逢っても特に害はなく、不快である事を除けば無視していても問題無い事例がほぼ全てのケースを占める。人形型の怪異は危害を加えてくる場合が多いが、それらは誰かの意志の残り香で行動してるだけであり人形型怪異自身の意思では無い事が殆ど。尚力を付けた個体はこの限りではない。

 幽霊のようなタイプや無表情の白塗り系は物理接触は余りせず、相手の心を蝕んで精神汚染を引き起こすものが多いだろう。主に心を病んだ状態で死んだ人間がそうなり、見た目のあからさまな奇形化は心の歪みが体の歪みとして現れているのが理由だとされる。

 完全な人型を保っている個体は意外な事に悪意が無い場合が多く、信号無視や速度超過等で事故死し、それを反省しているからこそ同じような事をしようとしている者の手を引き止めようとする等、恐怖を煽る見た目の割に中身は人に近いままである事が割りかし多いものだ。

「澱様はいわゆる怪異の中じゃ、めちゃくちゃ純粋無垢なんっす」

 何で死んだのか分からない。どうすれば良いのかも分からなければ、どうなるのかだって分からない。

 いつになれば成仏出来るのか何も分からない。どうすれば来世に行けるのかだって分からない。


 しかし知らない。迷える魂たちは知らない。

 自分たちはもう二度と天には昇れない。

 もはや自分たちに成仏の概念は存在しない。

 寺生まれのTさんが放つ謎の波動で起こるのは成仏では無く消滅だという事を、迷い子たちは知りもしないのだ。


「…………待ってくれ、成仏出来ないだと?」

 アンリエッタが口を挟む。ベルナルディーノが「はい?」と首を捻るが、ニカとウィリアムも何か言いたげにその顔を見詰めた。

「そういう迷える魂というものは、悩みがあるから迷うのだろう? そして悩みが解消されたら成仏するのでは無いのか」

「………はぁ? それ本気で言ってるっすか?」

「何………?」

 大きな溜息が聞こえる。獣の手で頭を抱えながら大きく「……チッ」と舌を吸うベルナルディーノを、慌てたような様子のグァルネリが「仕方無えよ姉ちゃん、みんなそう思うだろ」と諌める。それを聞いたベルナルディーノは「良いっすよオットー、怒ってないっす。呆れただけっす。オットーは良い子っすね」と獣の手で彼の頭をぺほぺほと撫でる。しかしグァルネリは変わらず不安そうな顔をしたままでベルナルディーノから離れない。

「…………………その様子だと違うようね。こりゃ宗教の倫理観がぶち壊れるかもしれないわ」

 冷やかしたような声色で言うウィリアムに「言葉の意味を何も理解してないっすねぇ〜」と体を起こす。

「迷い子が天に昇れるなんて思ってちゃ駄目っすよ。んな訳っす、だってそいつら一度成仏すんの拒否ってんすよ? てめえ勝手でしゅのお導き断ったのにてめえの都合でやっぱ逝きますとか赦される訳無っすよバカじゃねえんだから。揃いも揃って「神は貴方をゆるします」って良く言ってるっすけど赦すのは最初の一回だけっすよ? それでも一度は導きますって意味っすよ? 頭ん中どんだけご都合主義なんっすか甘ったれ。死後に成仏拒否ったら永劫そのまま迷い続けるだけなんすよ、だから迷い子っつってんすよ、だから自分らみたいなのが迷わず死ねるよう必死こいてやってんすよ。一度迷ったらもう二度と帰れないから、迷わないように自分らみたいな『胡散臭え奴』が汗水流しながら少しでも多く導けるようにしてるんすよ」

 呆れと怒りの中に僅かながら見え隠れする小さな苦渋を感じ取れたのは、きっとグァルネリだけだろう。少し慌てたグァルネリが「姉ちゃんっ」と声を荒げれば、ベルナルディーノは変わらず「いっすよ、良いっす。怒ってないっす」と緩やかにかぶりを振る。

「自分がして来たあれやこれ布教活動なんてクソの意味すら無かったんだなって、それを目の当たりにさせられてちょっとイラっとしただけっす」

「姉ちゃん、それを怒ってるって言うんだろ。誰かが悪い訳じゃないんだ、誰かに怒るのは筋違いだろ。怒っちゃ駄目だ、それは違う」

「分かってるっすよ、知ってるっす」

「姉ちゃん、だったら────」

「それでも悲しい事に代わりは無いっす」


 人の体には十三グラムの何かが入っている。

 人は死ぬと体重が十三グラム軽くなる。どこをどう計測してもその十三グラムがどこにあってどこに消えたのかは判別出来ず、計器の誤差と呼ぶには大き過ぎるそれを、人は「魂の重さ」と呼ぶようになった。

 生物は体に魂というものを持っていて、何から何までを乾いたスポンジの如く吸い込むそれは、体の中に入っているからこそ数多の穢れから守られている。

 しかし人は死ぬと魂が漏れ出る…………言い換えれば、人の魂は人が死ぬと穢れ始めてしまうようになるのだ。

 人が構築した不完全な人社会。そこで生きている時点で数え切れない悪意に晒され壊れてしまう魂も多いというのに、それが体という器から漏れ出て風の向くまま飛び回ってしまえばどうなるのかは想像に難くない。もって二日………三日も純然で居られたら奇跡のようなものだろう。


 澱様はその奇跡のような存在だった。


 ただの偶然だった。綺麗なままで居られた澱様は、忍び寄る様々な同類死者、悪意と混ざり合う。穢れ無き奇跡のような魂は悪意に穢れた魂と溶け合い、混ざり合い、二つはやがて一つになる。それを繰り返し、二つは三つに、三つは四つに、いつしかそれは数多を呑み込む澱みとなって周辺の生き死にを総て呑み続ける。


 ───はずだった。


「澱様は呑まれなかったんすよ。…………余りにも純粋過ぎて、悪意に染まった迷い子たちの『悪意』ってのを理解出来なかったんすかね」

 直射日光の下にありながらもまるでブラックホールの中心が存在するかのような本当の黒を引き摺りながら彷徨い歩く澱様は、幾多の迷い子をその身に引き摺り込みながらどんどんと肥大化していった。

 ベルナルディーノが澱様と出会ったのはその頃だった。

「自分みたいなスーパーシスターや神父だとかが勇者として呼び出される事はそこそこあるんすよ? 見えもせず聞こえもしない存在を本気で信じ続けてそのまま死ねるって中々難しいっすからね。………でも大体呼び出されてしばらくで野垂れ死ぬっす。愚者であるならいざ知らず、どんな宗教家が勇者として呼び出されてもサンスベロニアじゃ信徒が稼げないっすから。大体無理な勧誘して目障りになって、爪で弾かれそのまま死ぬっす。北センチネル島の彼はそれでも幸せだったんすかね。もしそうなら良いんすけど、もう誰にも知る術は無いっすね」

 もはや何年前の話かも分からない。あの日サンスベロニアに呼び出されたベルナルディーノは仲間の居ない孤独な異世界でただ一人………その孤独に耐えられず無理な勧誘を行い、そのまま野垂れて死にそうになっていた愚かな勇者の一人だった。

 もはやベルナルディーノには何も出来なかった。唯一の信徒であり、死ぬと分かっていながら付いてきたグァルネリ・オットーの「ねえちゃん、これもらってきた」と土で汚れた手で持つ土で汚れた野菜を見ながらも、しかし「……優しい人と出逢えましたね。オットーもそんな人を目指すんですよ」と言う事に何一つの抵抗が無くなっていた頃、ベルナルディーノ・ヴェンティセイとグァルネリ・オットーはそれと出遭ってしまった。

 もはや体なんて動かなかった。手足を動かす筋肉は総て燃焼し、腹部にすら脂肪が貯まらない程に痩せこけていた二人は怯える事すら出来なかった。

「………………………………ねえちゃん」

 どんな角度から見ても奥行きが分からない本当の闇を前に、まず呑み込まれたのはグァルネリだった。悲鳴の一つすら上げられない程に弱り切ったグァルネリの半身が闇に呑み込まれていくのを見て、ベルナルディーノは心の奥底から沸き立つ強い憤りを覚えた。


「………………………見捨てない。私は絶対見捨てない」


 歯を食い縛りながら吐き捨てる。骨と皮だけになった手足を必死で動かし、ベルナルディーノは何も考えずにその手を掴む。

 枯れた小枝のように、ともすれば容易く折れてしまいそうなグァルネリの細い手を力いっぱい掴む。


「…………………………信じた神に見捨てられた貴方を────私は絶対見捨てない」


 つるりという音が聞こえた気がした。それが自分たちの呑み込まれた音だという事に気が付けぬまま、ベルナルディーノは闇の中を彷徨った。

 意識すれば頭が割れそうになる程に反響する誰かの泣き声。何を言っているのかも聞こえない恨み節は数え切れず、幼かったグァルネリはすぐに壊れて呑まれてしまった。

「自分は…………自分は、何っすかね。何か耐えれたんすよ。スーパーシスターだからっすかね? 天才だからっすかね? いやぁ何か照れるっすね〜」

 上も無ければ下も無い。上下が無ければ左右の概念すら作れないような闇の中、ベルナルディーノは茫然としながら深く深く沈んで行った。

 ………水中で鼓膜が破れたものは上下感覚を失うという。息が苦しくなり上へ上へと向かっているつもりで、実は濃紺の底へと向かってしまっていても気が付けないのだという。

「その奥の方にね、澱様が居たんすよ。……そういうヤベー奴の本体っつーから、てっきり泣くか喚くかしてるもんだと思ってたんすけどね………澱様はぽけーっとしてたっすよ」

 上も無ければ下も無い。上下が無ければ左右の概念すら作れないような闇の中で、何も分からず道に迷ったままでいたのは澱様だった。

「だからお喋りしたっす。長かったっすね〜………吹っ飛んでったオットーの事なんて完全に忘れて、自分めっちゃお喋りしてたっすよ」

 その中で、ベルナルディーノは澱様と約束した。


 ──────私が貴女を導いてあげます。


 何処へと問われれば答えは一つ。

 地の底には謂れの無い罪に罰を与える石像ゴーレムが居る。

 天には死ぬまで信じても絶対に手を差し伸べない、見守るだけのサタンが居る。

 だから地の底では無い別の場所へ、天では無い別の場所へ。

 私が貴女を導いてあげます。

 地の底は怖いから。天の上は嘘ばかりだから。

 それ以外の、心安らげる幸せな場所へ。


 ──────だから私の弟を返してくれませんか。


「…………スティンクさんから自分らの事どう聞いてたっすか? 澱様の近くに何か居る、ぐらいは聞いてたっすよね?」

 ベルナルディーノの問い掛けにアンリエッタがちらりと見やる。スティンクはすぐに「構わねえ」と呟き、それを聞いたアンリエッタが「……うむ」と頷く。

「澱様と呼ばれている存在が魔法に詳しい。しかし澱様はともかく、………あー、その。何だ……その、澱様の横でヘラってる奴がクソみてえに疑り深い、と………スティンクは言っていた」

 何一つ包み隠さないアンリエッタの言葉にスティンクが「おま──っ」と慌てるが、それは即座に「なはははははっ!」というベルナルディーノの笑い声に遮られた。

「ひっでえっ! 酷いっすねえスティンクさん、凄え言い草っすねっ! 後で覚えてるっすよーっ!? んはははははっ!」

 豪快ながらもどこか慈愛を感じる軽快な声色で笑うベルナルディーノにスティンクが大きく舌打ちする。それを見て「クソウケるぐブフッへへははは───っ!」と更に笑うベルナルディーノに代わり、グァルネリが「まあそんな訳でだ」と割って入って来た。

「澱様は躊躇い無く他者を呑み込む。だから姉ちゃんの言葉を躊躇い無く信じ、俺と姉ちゃんを躊躇い無く吐き出した。………純粋なんだよ。姉ちゃんが周りに対して疑り深いっつーなら、それは澱様が純粋な分の代わりだろうな。穢れないように、騙されないように、悪意ある誰かに言いように使われねえようにって、澱様の代わりに警戒してんだよ」

 どっかの独裁国家みてえな所にな、と付け加えたグァルネリにスティンクが苦々しい顔をしながら目を逸らす。

「魔法に関しては別に澱様自体が詳しい訳じゃ無い。澱様がそれまでに呑み込んだ数多くの穢れた迷い子の中に詳しい奴が幾らでも居るから、澱様経由でそいつらから世の中の大体の情報は得られるってだけの話だ」

「……とすると、先程ベルナルディーノ殿が私に魔法の仕組みを説明したのは、」

「わざわざ澱様を仲介せずとも既に知っていた話だからそのまま話した。…………そんな所だろ、姉ちゃん」

 心底から楽しそうに「んふ、んふふふ……そっすよ〜」と笑うベルナルディーノに毒気を抜かれたアンリエッタは「とすると最初の触手もベルナルディーノ殿の考えからか。なるほどな」と納得する。それにようやく笑い終えたベルナルディーノが「そっすね〜」と目元の涙を拭いた。

「国がスティンクさん連れて来るのは知ってたっすけど、何か知らない顔が三つもあったっすからね。内一人は悪意を感じなかったっすけど、他の二人は武器持ってたっすから念の為にお試しプレイっす」

「ああ……それでわたし、触手に何もされなかったんだ……」

「あたし腐女子の魂が乗り移った触手なのかもって本気で思ってたわ。執拗にケツ穴掘り起こしにくるんだもの」

 合点がいって頷くニカとウィリアムに「おい待て」とスティンクが声を荒らげる。

「だったら俺が敵意の悪意の無えのは分かってるだろうが。何でわざわざケツアクメさせやがったクソが」

「え? そんなんただの暇潰しっすよ。深い意味なんて無いっす」

「ざけんなクソがっ! 暇潰し如きでケツ穴ほじられる身に────」


「自分もちょっとした好奇心でオットーにケツ穴弄られた事あるっすから似たようなもんっすよ。ローション無しでズボォッてぶち込まれてブチギレそうになったっす。因みにア◯ルはぷちって切れたっす。括約筋って簡単に切れるんで、みんなは丹念にほぐしてから行為に及ぶんすよ」


「ようお前ら、このオットー様がちょっと一発芸見せてやる。肩のとこ見てろ……ほっ、……ほら見ろ、俺肩外せんだよ。痛くは無えし手ぇ離すとすぐ戻るんだがな……ほら戻った。面白えだろ、これ俺の一発芸」

「わ、現実逃避してる……凄い、こういうの初めて見た。いや脱臼じゃなくて本気の現実逃避の話なんだけど」

「救いようが無いな。私でもこれは諦める、救えない」

「問題なのはお姉ちゃんがどういう意図で蒸し返してるのかよね。単にイジリネタとしてなのか、それともマジで根に持ってるのかによっては現実逃避してる場合じゃないかもしれないわ」

 完全に流れを持っていかれ怒るタイミングを失ったスティンクが「チッ……クソが」と吐き捨てれば、ベルナルディーノは「それにしてもスティンクさんも酷いっすよねえ」と矛先を変える。それにスティンクが「あぁ?」と唸れば、何も動じていない様子のベルナルディーノが「だってそっすよ」と自身の豊かな胸をぼぬんぼぬんと揺らす。


「おむつ換えても泣き止まないスティンクさんの為に出もしないおっぱい吸わせてあげたっていうのに、自分の事『澱様の横でヘラってる奴』呼ばわりっすよ? 吸われるだけかと思えばめっちゃ甘噛みされてアヘったのアホみたいじゃないっすか」


「……………え? ………おいスティンク、どういう────」

「うるせえ聞くなクソが。……………こいつは────ベルおばさんは、百や二百じゃあ到底効かねえぐらい前から生きてんだ」

 唐突なカミングアウトにウィリアム、ニカ、アンリエッタが「「「え」」」と口を揃える。まるで気にもしていない声色で獣の手を振りながら「そっすよ〜。因みにその時は余りに必死にビーチク吸われるもんだからマジで頭イキながら呆然としてたっす。懐かしいっすね〜」とけたけた笑う。

「まあでもスティンクさんが毛嫌いするのも理解は出来るっすよ。色々ネタにして笑ったっすからね〜」

「………やめてくれ。今はそんな話してる時じゃあ無えだろ」

「で? そろそろちんちん剥けたっすか?」

「今はそんな話してる時じゃあ無えだろッ! やめてくれ頼むからッ!」

「いやだって。……あれってオットーとお風呂入った時だったっすか?」

「……あ? ………あー、うん。そうだな。スティンクがまだ桶に水溜めたぐらいで「ぷーるだあっ!」ってキャッキャしてた頃だったかな。………肩の骨外れるのはどうだ? もっと見たいか? 見せるぞ?」

「わあ、そのスティンク見てみたい。多分めっちゃ可愛いよ。でも肩の骨はもう見たくない。お腹いっぱい」

「その頃からもうお腹はぷにぷにだったっすけどね。スティンクさんは昔っから魔法の適性凄かったっすから、何でもかんでも魔法で解決しちゃってロクに動かなかったんっすよ」

「あれね、高校デビューしてイケイケになったはずのナリヤンが車の免許取った瞬間デブってモテなくなるみたいノリね。膝割らないように気を付けなさいよ」

「うるせえ余計なお世話だクソがッ! やめろッ! 良く覚えてねえ話題で俺を辱めるんじゃあねえクソがッ!」

「そのぐらいの頃だったかな。基本的には姉ちゃんと風呂に入ってたんだが、何かで俺と一緒に風呂入ったんだよ」

「やめろッ! やめてくれッ! 頼むからやめてくれッ!」

「ベルナルディーノ殿、スティンクを黙らせる事は出来ないか? 私は続きが聞きたい」

「任セロリっす」

 ベルナルディーノが逆向きに生えた蝙蝠の羽をゆらりと揺らす。途端、それまで板張りだったはずの地面がずるりと盛り上がってスティンクを絡め取る。

「アンリエッタッ!? 何でお前まで────んぐーッ! んーッ!」

「でな、その時のスティンクが俺の股間のズルムケビックダディを見て言ったんだ。「おれのとぜんぜんちがう……おれのちんちんかっこわるいな……」っつってな。俺は「気にするこたぁ無えだろ」って言ったんだが、その時のスティンクは何も聞き入れなくてな」

「わあ……男の子の悩みだあ、可愛いなあ……。………いいなあそういう悩み、なんか新鮮。みんな色々悩むんだなあって思うと少し肩が楽になる気がするな」

「うむ、女性が胸の大きさで悩むようなものだろうな……誰しも悩みはあるもの、という事だ」

「因みにオットーの実寸は十センチちょっとの仮性っす。こんなムキムキで皮膚パッツンパッツンなのに皮余らせてるって不思議っすよね」

「見てくれ肩外れる。凄いだろ。……よっ、ほら。凄いだろ」

「それは確かに不思議な話だ。体が大きい男性は逸物も大きいイメージがあったが……そんな事も無いんだな」

「あー……でもほら、わたし聞いた事ある。凄い太ってる人って、その……お、おち……ごほんっ……、なんか、それがお腹のお肉に圧迫されて埋もれちゃうって話あるらしいから、そういうのじゃないかな」

「見てほら肩の骨外れんだ。……ほらっ、ほら見ろほら、結構凄くね? マジで結構凄いだろこれ」

「凄いのは凄いけど、何度も見せられると「凄い」通り越して「良く見ると外れてる間の部分キモい」になんのよ。一発芸は一発だからウケんの、何発もやりたきゃ人妻と火遊びでもして焼け死になさい」

「もがーッ! むぉーッ! むんわーッ!」

 触手に絡め取られながらも苦渋の形相で呻くスティンクだったが、もはやこの場に彼を助けるものなんて一人も居なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る