5-2話【弦楽の二人】



 それがいつの事かは分からない。

 いつ、どこで、どうして………それは誰にも分からない。強いて何か言えるとしたら「気付いたらそうなっていた」だけであり、他に言える事なんて何一つ無いだろうと満場一致で答えられるだろう。

 過去に呼び出された異世界人、愚者の生き残りが大妖怪として名を馳せながらも理想通りに事を運べずしくじって死んだ玉藻御前たまものまえ………白面金毛九尾の狐であるにも関わらず、新たに呼び出された愚者の一人である橘光から「金玉」という不名誉極まりないあだ名を付けられたその女妖怪は、ルーナティア国からの使者の言葉に同調の意を示しルーナティア国と同盟を組む運びとなった。

 サンスベロニア帝国はそれを阻止、或いは玉藻御前含む獣人族の民をルーナティア国よりも先に引き込もうと画策したが、愚者によって迎撃、それに失敗した。

 しかし、そもそもサンスベロニア帝国は最初から成功に期待なんてしていなかった。

 愚者の生き残りが玉藻御前であるならば、では勇者の生き残りはいるのか? 過去に幾度と無く行われた異世界人の召喚で、今も生き残っているのは妖怪である玉藻御前だけなのか?

 答えは当然、否である。

 勇者にしても愚者にしても、基本的に呼び出されるものの種族は問われない。人間ヒトが呼び出される事もあれば、妖怪が呼び出される事もあるし、ただの猫が呼び出される事すらある。神として明確な形を持たない想像の産物であるはずのニャルラトホテプが『大成して死んだもの』として勇者に選ばれるぐらいなのだから、何かしらの強い力を持った勇者が今も尚生き永らえているという事は大いに有り得る話だろう。

 …………戦争で勝つ為に勇者を呼び出したサンスベロニア帝国と、それに拮抗させる為の戦力として愚者を呼び出したルーナティア国。ウィリアム・バートン、アンリエッタ・ヴァルハラガール、ニカ・ヤーチカは過去に呼び出された勇者の生き残りと手を結ぶ為の使者としてサンスベロニア人であるスティンク・マゴットと共に森を歩いていた。


 ────はずだった。


 いつからだったろうか。鬱蒼とした深緑色の森の中を歩き続けていたはずの勇者一行は、ふと周りを見渡せば視界から緑が欠落していた。

 緑だけでは無い。木々の一本すらも存在しない、赤味がかった桃色の世界をひたすら歩き続けていた。一本踏み締める度に鳴っていた土の擦れる音は、気付けばにちにちという湿った音に変わっていて、基本的に空気を読めないアンリエッタや敢えて空気を読まないウィリアムすらもが、その異質過ぎる変貌を前に無言になってしまっていた。

 皮膚を剥ぎ取った肉塊が木々のように立ち並ぶそれは文字通りの肉々しい森であり、一歩一歩と歩みを進める度に滲み出た液体と肉とがにちにちという音を立てる。

 一行が歩いている場所…………それはまさしく、触手の森だった。

「きゃぁぁぁあああああ───ッ! 助けてェッ! ヤダァッ! いやァァアアア────ッ!」

 そんな中に木霊する甲高い悲鳴に、アンリエッタが「くっ、……待ってろすぐ助けるッ!」と声を荒らげれば、ずるずると音を鳴らして蠢く数多の触手は一層動きを激しくして絡み付く────、


 ───ウィリアム・バートンの尻穴を目指して。


「ちが───違うでしょォッ!? あたしじゃないでしょおッ!? この手の触手陵辱っつったらキャワイイ女の子がされて然るべき────あーダメダメおかしいおかしいバカじゃないのあんたそっちじゃないでしょア◯ルじゃないでしょ孕ませるなら普通マ◯コぶち抜くべきでしょぉ───ッ!」

「落ち着けウィリー殿ッ! 貴殿にマ◯コなんか無いんだから後ろの穴に入りたがるのは必然だろうッ!」

「バカ言ってんじゃないわよバカリエッタあたしにもケツマ◯コってもんがぁぁぁぁああああっはァァァ不味ゥゥゥいマジで挿入はいっちゃうゥゥゥゥゥウウウウウッ! ───上等だお前ナメんじゃねぇぞ挿入はいってみろヘボ触手てめえキツキツのケツマ◯コ締め付けて輪切りみたいにしてやるんだからァァァァアアアアア─────ッ!」

「無理だよウィリーさんっ! わたしでもそれは流石に無理だと思うよッ!」

 何をどうトチ狂ったらそうなるのか。まさかの『女騎士と普通の女の子そっちのけでイケメンオネエが触手陵辱される』というシチュエーションに我を忘れたウィリアム・バートンの甲高い悲鳴に、ニカ・ヤーチカが声を荒げてツッコミを入れるが、しかしウィリアムは落ち着く様子なんて見せず「ヌルヌルするゥッ! めっちゃヌルヌルするゥッ! 生あったけぇ──ッ!」と発狂スレスレの絶叫を続ける。


 方や、である。


「クソが……ァッ! ………クソがァァァァアアアアアッ! ドクソがァァァァァァアアアアアアッ! 何で俺までェェェェエエエエエエエッ! 何でだァァアアアアアアッ! クソがァァァァァァアアアアアア────ッ!」

 イケメンオネエなのに触手に捕らわれ、エロトラップダンジョンよろしく今まさに陵辱されんとしているウィリアム・バートンの対面で、チビでデブで豚っ鼻かつ性格の悪いスティンク・マゴットもまた、ウィリアムと全く同じように触手に絡め取られクソがクソがとキレ散らかしていた。

 ウィリアムの甲高い悲鳴がソプラノであるとすれば、スティンクの「誰得だよクソがアアアアアア───ッ!」という絶叫はアルトだろうか。まさしく狂騒曲と言える二人の悲鳴に「いやホント誰が得する展開なんだろうね……」とコメントしつつも「……わたしじゃなくて良かった」と自己主張の強い胸を撫で下ろすニカ。

「待ってろ二人共っ! ───くっ……こいつらっ、妙に───っ!」

 どちらかと聞かれれば触手に捕らわれたヒロインを救う側だろうウィリアムとスティンクが逆に触手に陵辱され、どちらかと聞かれれば触手に捕まってくっころ展開になって然るべき女騎士であるアンリエッタが「──こいつら妙にっ、攻撃的だなっ!」と苛烈を極める攻撃を仕掛けてくる触手と戦っている。

 まあそれはさておき、二度目の方や、になるのだが。


「────あわっ!?」


 攻撃もされなければ捕縛行動すらされていない平和そのものであるニカが滲み出る血漿に足を滑らせてよろければ、即座にニカの体へ触手が絡み付く。


「「────ッ!? キタァァァアアアアア───ッ!」」


 同じ年代を囲った中ではかなり豊満な体付きをしているニカに触手が絡み付くのを見たウィリアムとスティンクが、待ってましたとばかりに声を揃えて歓喜の雄叫びを上げる。その様子に「ニカ殿ッ!? ……不味いッ!」とアンリエッタが苦渋に顔を歪めるが────、

「……………………あぇ?」

 ニカの体に絡み付いた数本の触手はそのままニカを支えるだけで何もせず、ニカが体勢を整えればその腕を優しく取って肘置きのような形に曲がりくねる。

「………あぁ、ど、どうも。…………あ、ありがとう? で、いいのかな………? ………うん、ありがとう」

 ニカの周囲にある触手の一本がその先端をくいくいと動かして指し示せば、そこには椅子のように形を変えた触手が待機している。肘置きのようになった触手にそっと手を当ててニカが腰を下ろすと、周りの触手たちは特に何もせずニカの周りでうねうねと蠢くだけで何もしない。


「「─────ッざけんじゃねェェエエエエエエエエッ!」」


 その様子に野郎二人が吼え猛る。

「おかしいでしょぉぉぉッ! どう考えてもおかしいでしょォォォッ! 何で手頃の極みみたいなニカちゃんに優しくてあたしらに厳しいのよォォォオオオオッ! ご都合主義で生えた針から変な液体注入されたニカちゃんの噴乳シーン見せなさいよこのボケがァァァァァァァアアア─────ッ!」

「俺の乳首こね回してる暇があったらその足手まといの乳首こね回せよクソがァァァァッ! それを期待して肉の森までそいつ介護してやったのにこの仕打ちは納得出来るかクソボケェェエエエエッ! 金玉付いてんのかてめェらァァァァアアアアア────ッ!」

 喉よ裂けろとばかりに絶叫するスティンクにニカが「え……二人ともそんな事考えてたの? 酷い……」と表情を曇らせながら胸元を隠せば、ビュオンビュオンと風を切りながら唸る触手の乱打を懸命に避け続けていたアンリエッタが「というかッ!」と割って入る。

「何でッ! 何でッ! こいつらはッ! 私にだけ普通に攻撃してくるんだッ! 女騎士だぞッ! 私はッ! 女騎士だぞッ! 触手といえば女騎士ッ! 女騎士といえば触手だろうッ! なのになん……くっ! ───何で私にだけ普通に攻撃してくるんだッ! ちょっと期待してたのにッ! エッチなぬるぬる展開になるのかなって───ちょっと期待してたのにッ!」

 寸での所を通り過ぎる鞭のような触手に冷や汗を流すアンリエッタの言葉にニカが「えぇ……?」と困惑するが、アンリエッタは自身に建てられるはずだったフラグを完全にへし折った触手に向けて「何故だァッ!」と乱雑に剣を振り回す。

 …………アンリエッタ・ヴァルハラガールという女騎士という女は基本的にはとても堅実な立ち回りをしたがる傾向にある。

 自身が考えたスキルを、自身が設定したスキルポイントを使用して付け外しを行い、その時装備中のスキルのみ使用出来るというまさしくゲームのような能力を持っているアンリエッタだが、生前のアンリエッタはかなりの厨二病でありパーティメンバーに恵まれなかった。だからこそ孤高の女騎士として名を馳せ『一人旅であるにも関わらず大成して死んだ』として勇者に選ばれたのだろうが、ゲームと違い一人旅での「戦闘に敗北する」という事は即ち「絶対の死」を意味する。

 ルーナティア国が保有している蘇生機のような存在も確かにあるが、それらは人一人の命を蘇生する為に人一人よりも圧倒的に重い対価を支払ってしまっている。ルーナティア国の蘇生機であれば必要な魔力を用意する為に尋常では無い費用が必要になるし、蘇生魔法も大体が対価として二人以上の人命を要する事が多く『寝れば全回復するMPを雑に支払う』だけでは済まない場合ばかりである。

 だからこそ命は重く、だからこそアンリエッタという女は命を大事に・・・・・する為に戦っている。

「ちょっとッ! ちょっと楽しみにしてたのにッ! どうなるかなってッ! どんな感じなのかなってェッ! 気になってたのにィッ!」

「……………うわぁ」

 一切の遠慮無しに唸る触手を乱雑に盾で弾いたアンリエッタが喉を枯れさせながら剣を振るうと、ロクな手応えも無く滑るように切り裂かれた触手が真っ赤な鮮血を撒き散らしながら吹き飛んでいく。

 そんな様子を目の当たりにしたニカ・ヤーチカが口元に手を当てながらボヤくが、そこでニカは「………あれ?」と小首を傾げる。

「…………………もしかして、だけど」

 どういう理由があるのかは分からない。しかしこの触手たちは、何故か自分にだけ攻撃をして来ない。自分にだけは何故か甘い。男性が好むゲームややらしい本であるという触手プレイ、何だったら東の国ではエドの時代から『タコと女の人』が絡み合うエロ絵が存在したというが、まるでフラグをへし折るが如く、この触手たちは抵抗の術を持たない自分に対して敢えて攻撃を仕掛けて来ない。

 風の噂で聞いた、というよりは学生時代に教師が言っていたような気がする話。


 ───あれはローマ帝国だったっけ?


 スパルタだか何だかの名前があった気がする。『盾に生きた猫を縛り付ける』事で、敵国の兵士に攻撃を躊躇わせるという非人道の極地のような戦法を、ニカはふと思い出していた。

 あの話では本当に攻撃を躊躇ってしまい、結果として大成功を成し遂げたというが………もしかしたら、である。

「────アンリエッタさん!」

 張り上げた声にアンリエッタが目線を流す。

 自分がアンリエッタの前に立てば、アンリエッタは多少戦い難くなるが触手は殆ど攻撃出来なくなるのではないか、と。一切危害を加えて来ない触手椅子から腰を上げたニカだったが、しかしアンリエッタは即座に「馬鹿者ッ!」と怒号を飛ばす。

「───ッ!? ………ちが、違うよアンリエッタさんっ!」

 自己犠牲の精神に芽生えたとでも思われたのだろうか。聞いた事も無いような切迫した大声で怒鳴られたニカは一瞬だけ怯んでしまったが、すぐに「わたしが盾になれば攻撃されないかもしれないって───」と手の内を明かす。

 その言葉に触手に絡め取られているウィリアム・バートンが「──おほ……んっ……。イイ……ぃんっ、案ね……ほお──んっ」と妙に野太い喘ぎ声を交えながら賛同する。


 しかし───、


「ふざけるなッ!! そんな事をしたら本当に触手プレイの可能性が無くなってしまうではないかッ! 人生で一回ぐらいは触手に絡め取られてみたいだろうッ! R-T◯PEみたいな人体実験だってロマンあるだろうッ! 一度ぐらいそういう展開があっても良いだろうに私は結局死ぬまでスケベ展開にならなかったんだぞッ!」


「……えー。………………えぇ?」


 持ち上げた腰をゆるゆると下げたニカは眉間をシワだらけにしながら思案するが、しかし口から出る言葉は「……えぇ」以外に無く、助けを求めるように視線を彷徨わせる。

 しかしウィリアムは開き直ったのか「せめて……ぉふ。……怒◯領蜂かツ◯ンビーぐらっお──っほ、ぉん………やっべ今甘イキしちゃった……」と頬を染めており、スティンクはスティンクで新しい扉を開いてしまったのか「何か……段々良くなってきた……クソが……」とやはり頬を朱に染めながら緩やかに痙攣を繰り返すばかり。

 余りにも目を背けたくなる汚い光景にアンリエッタへと目線を戻せば「今の私は阿修羅をも凌駕する女騎士だッ!」と叫びながら、堅実さなんて欠片も見えない乱暴な立ち回りを繰り返しているだけ。

 ………しかし強気な発言や乱暴な立ち回りに反し、アンリエッタは少しずつ押し込まれるように攻撃の手が緩くなっていく。それに比例して無限に思える程に生え続ける触手の乱打は数を増し、数を増した事で更に攻めに回る余裕が無くなり、ニカが数回まばたきをする頃には既にアンリエッタは防御に徹さざるを得なくなってしまっていた。

「く……っ」

 肉々しい地面から染み出た血漿のせいか、それとも皮膚とは違う粘膜だからなのか。つるりとした触手は剣や槍を盾でいなすのとは全く勝手が異なり、冷静さを欠いている事もあってかアンリエッタはかなり追い込まれてきていた。


 ………アンリエッタ・ヴァルハラガールは法度ルールを持っていない。しかし生前に作り出したスキルを付け外しする事で、剣と盾を使う以外の戦い方をする事が出来る。一人旅の孤独な野営中、寝るまでの時間を使って考えた『次の被弾を「無かった事にし、避けたという事実」へと捻じ曲げるスライスアンドダイス』や『慣性の法則や相対性理論、大気摩擦による発熱を発生させずにただ加速するコンセントレイト』等といったスキル。それらを使用すれば相手が何であろうと、有利こそ取れずとも苦戦する事はそうそう無い。

 けれどアンリエッタは大量の触手を前に、何一つとしてスキルを使用していなかった。ともすれば縛りプレイか舐めプだとでも言われかねない行為だが、アンリエッタにその意志は無い。

 では、どうしてスキルを使用しないのか。それはまさしく雨の悪夢が如き状態に成り果てたレニメア雨夜の存在と、その直前に戦った愚者との戦闘に由来する。

 あの時のアンリエッタは自身の持つスキルを使う事に何一つとして躊躇いを持たなかったが、相手取った愚者の女との戦闘でスキルを使用する度、アンリエッタは心臓に僅かな痛みを感じていた。

 スキルを使用する度にチクリ、チクリと刺すような痛み。それは決して激痛では無く、気を張っていなければ気付きもしないような極めて小さな痛み。非戦闘時のアンリエッタであれば「胸毛でも生えてくるのだろうか……胸毛ボーボーになった私はカッコいいだろうか……」と間抜けた事を言っていたかもしれない。

 けれどアンリエッタはそうは言えなかった。


 ────きみは魔法の『魔』の字に、何で『鬼』という字が入っているかを忘れているよ。


 レニメアの近くを飛んでいた羊のような何か。本性を現した死神Messoremを名乗る存在が言っていた言葉を思い出す。アンリエッタのスキルは魔力を使用する力では無いが、しかしスキルを使用する度に感じていた心臓への違和感と、まさしく力が暴走したように暴れ狂うレニメアの事を鑑みると、決して楽観視出来るような事とは思えなかったのだ。


 あれは「世界が悪かった」と言っていた。


 その後日アンリエッタはスティンクの元へと向かった。

 小物感の強い外観やスティンク臭えマゴット蛆虫という名前に反し、スティンクはサンスベロニア帝国では指折りの魔法使いとして名を馳せている。生まれながら持った高い魔力適性だけでなく、その扱いに関しても天賦の才と言える程の実力者であるスティンクは、独裁国家である故に内輪での暗殺や蹴落とし調略が絶えないサンスベロニア帝国において、運動不足が目に余る小太りにも関わらず高い地位を維持し続けている。

 雨の悪夢から醒めたアンリエッタがスティンクの元へ向かったのは自身の心臓に感じた違和感だけでなく、何より『スティンクが指折りの魔法使い』という点に強い違和感を覚えたからだった。

 あの時のレニメアは完全に暴走していた。自分の身に何が起きているのかを把握出来ずに錯乱していた。

 あの時のレニメア魔法少女───暴走する直前のレニメア魔法少女は、某か叫んでいたはずだった。

 ドギツいレベルでの厨二病患者だったアンリエッタ的には「もっとこう、古の呪文を唱えるようにだな……」とイチャモンを付けたくなるような変身口上を、あの時のレニメア魔法少女叫ぼうとしていた。

 けれどレニメアは最後までそれを語る事が出来なかった。


 魔法少女が、魔法少女になる為には、一体何を使うのか。

 変身ステッキ? 折り畳み式の小さなコンパクト?


 それとも、強い想いと呪文と───魔力?


 アンリエッタ・ヴァルハラガールという女は馬鹿で阿呆だが、しかし決して間抜けJackassでは無い。大した鍛錬も無く洞察力と判断力だけで数多の死線を乗り越えたアンリエッタが真意に気付くのは、まさしく時間の問題だった。

「魔法少女は魔法を使おうとして暴走、やむなく私が殺すに至った」

 ウィリアム・バートンと共にサンスベロニア帝国に帰ったアンリエッタは、ほんの数人の兵士を連れて城門まで出向いていたスティンクに向けて「この国で一般的な埋葬方法を教えてくれ」と抱き抱えた生首を向けながら問い掛けた。それに対してスティンクは無表情のまま「……火葬だ」と答えると、ぶっきらぼうに「おい、お前」と連れていた兵士に声を掛ける。

「ニェーレに話を通して弔ってやれ。………………土葬でだ」

 部下だろう兵士へと顎をしゃくるスティンクの言葉にアンリエッタは目を見開いた。そして「おいスティンク、私は──」と怒りが混ざった声を向けるが、スティンクはそれを「焼き殺せってか」と静かに遮った。

「俺はこの世界に来るまでのこいつを知らねえ。……この世界に来てからどんな目に遭ったかは知ってるが、報告じゃあ地下牢にぶち込まれてもずっと救う救うと喚いていたらしいじゃねえか。年端も行かねえメスガキの癖に、小便しょんべん臭えエテ公の癖に、何倍年上かも分からねえような大人から小便ぶっ掛けられながらも救う救うっつってたらしいじゃねえか。それを別の世界でも繰り返してたんだろ? 懸命過ぎて頭が下がるな」

「……………スティンク……? お前は何を───」

「それがようやく休めるようになったんだ。…………わざわざ篝火かがりび焚いて起こすな、素直に寝かせてやれ」

 もはや口も閉じれなくなったレニメアの形相に目線を落としたスティンクの声は普段と変わらないような不満げなものだったが、その言葉の端々には不満ではなく悔しさのような何かが見え隠れしていた。

 スティンクが何か喋る度に皮肉を投げ掛けているウィリアムが「……ふん」と鼻を鳴らすと、スティンクは優しい手付きでアンリエッタの腕からレニメアの生首を受け取り「ニェーレが何か言ってきたら俺の名前を出しとけ。何も言われなきゃ出すな」とそれを兵士に渡す。

「……………なあ、スティンク」

 レニメアの生首を受け取った兵士が走り去っていく背中を眺めながらアンリエッタがその名を呼ぶと、スティンクは何も言わない無言のままでアンリエッタへと向き直る。

「……………………魔法って、何なんだ」

「…………………………」

 不機嫌そうに歪んでいるスティンクを見詰めながら問うアンリエッタに、スティンクは何も言わない。

 ぼんやりとした表情のアンリエッタと見詰め合ったスティンク。そのまま十数秒が経つかという頃、やがてスティンクは躊躇いがちに「……答えられるが、答えてやれない」と矛盾した答えを返した。

「魔法が何なのか自体は幾らでも答えてやれるが、それは多分お前が求めてるものじゃない。お前が求めてるものに関して、俺は詳しく無いんだ」

「嘘を吐くな。スティンクは名の知れた魔法使いだと言っていた、そして私が求めているのは魔法に関しての話だろう。…………レナは、魔法を使おうとして暴走したんだ。だから私は───」

「それはさっき聞いた。………そういう話じゃねえんだ。『何で魔法を使おうとして暴走したのか』が知りてえんだろうが、それは魔法そのもの・・・・・・とは別で理由がある」

「魔法そのもの……? ………それはどういう意味だ」

「それはさっき言った。俺はそれに関して詳しくねえんだ」

「ならば誰に聞けば良いのか教えてくれ」

 噛み付くような様子のアンリエッタだったが、スティンクは何も答えずに黙り込む。

「私の戦闘力に関わる可能性があるんだ。場合によっては、私を勇者として数えられなくなるかもしれない」

 その言葉にピクリと眉を動かしたスティンクは、まさしく絞り出すような声色で「……その内分かる」と呟いた。アンリエッタが「どういう意味だ」と問い掛けると、スティンクはゆるゆると頭を振りながら「言葉通りだ」と返した。

「戦争は始まった。急な事だったから今すぐドンパチって事にはならねえだろうが、それでも戦争は始まってんだ」

「スティンク、私は焦らされるのが嫌いだ。勿体振らないで本題に入ってくれ」

「サンスベロニアとルーナティア、この世界にこの二つしか国が無い訳じゃねえ。その内必ず他の国や部族、他勢力を味方に引き込む為に動く時が来る」

「スティンク」

「その中に、お前が求めてる事柄に関しての専門家みてえな奴が居る。そいつの所に向かう時、そのついでに聞けば良い」

「今聞く事は出来ないのか。………兵は出さなくて良い。馬車も詳しい道順だって要らない。地図上での一直線で良いから道を教えてくれれば、私一人ででもそこへ向かう。手間は取らせない」

 切望するアンリエッタに「そういう訳にはいかない」とスティンクが首を振ると、アンリエッタは苛立ち混じりで「何故だ!」とスティンクを睨み付けた。

 腐っても歴戦の猛者であり、孤独な一人旅にありながらも老衰で死ぬまで戦い続けた孤高の女騎士に睨まれたスティンクだったが、しかし何一つ動じる事無く「理由は二つある」と冷静に答える。

「………その専門家みてえな奴は澱様よどみさまって呼ばれてんだが、そいつは事実上個人同然にも関わらず一国家として扱われてる」

「それがどうし───」

「早るな。……個人にも関わらず国家レベルの扱われ方って事は、それだけの実力者って事だ。そうある事じゃあ無いだろうが、下手すりゃこの国が地図から消えるぐらいの存在だ。国家と同じ扱い──国に並ぶ実力者って事はそういう事だ。そんな奴の所にお前一人で行かせる訳にはいかない」

「……………私の身を案じている訳では無さそうだな」

 不貞腐れたようなアンリエッタに、スティンクは「チッ」と舌打ちをしながら顔を逸らす。その様子を見たアンリエッタが「構わない。使い捨ての駒の一つなのは理解している」と返すと、スティンクは慌てた様子で「ちが──」と顔を向け直すが即座に「──クソが」と俯くように吐き捨てた。

「………今はその辺りに興味が無い。その化物級の何とか様に会えない────会いに行ってはいけない、その理由は何だ。………何とか様と『呼ばれてる』という事は存在が秘匿されている訳では無いんだろう? なら私を納得させろ。でなければ私は情報を集めて一人で向かう」

 まだ何も納得出来ていない、と頑として譲る姿勢を見せないアンリエッタ。しかしその様子を見たスティンクは「……はぁ。全く……クソが」と、まるで逆に毒気を抜かれたように頭を振った。

「……お前一人で向かった所で澱様は何も語らねえよ。あれ自体はともかく、その横でヘラってる奴がクソみてえに疑り深い。あれを動かすなら国が証文作って動く必要がある」

「だからそれまで待てと? ………いつまで待てば良い。国が動くのはいつだ、私はいつまで焦らされれば良い」

 食い入るように「スティンクの言葉を真似る訳じゃないが、私は焦らされるのが嫌いだと言ったはずだ」とアンリエッタが言い放てば、スティンクは蔑むように「間抜けかクソが」と吐き捨てる。

「てめえはてめえが今何をしてここに居るのか分かってねえのか」

「…………何だと? スティンク、それはどういう意味だ」

 スティンクの言葉にアンリエッタが怒りを顕にすると、スティンクはまるで対抗するかのように不機嫌を顕にしながら「言葉通りだクソ間抜け」と吐き捨てる。

 かと思えば唐突に背筋を伸ばし「問うぞ、勇者アンリエッタ・ヴァルハラガール」と真面目な声色に変わって向き直った。


「お前はさっきまで何をしていた」


「何を…………スティンク、それはどういう───」


「お前は、どの国の、何を連れ出して、それに何をして、ノコノコ帰って来やがった。答えろ間抜け、てめえがどの面下げて帰って来たのか答えられたら、今後一切この国はてめえを縛らねえと約束してやる」


「─────────」


 言葉を失った。言葉を返せる訳が無かった。

 自分が何をしたかなんて考えるまでも無い。自分はサンスベロニア帝国に捕らえられた国際級の重要人物を、サンスベロニア帝国の許可無く連れ出して、あまつさえその人物を殺しておきながら「やむなく私が殺すに至った」だなんて宣っているのだ。

 スティンクが言う「今後一切縛らない」という言葉は、端的に意訳するなら「もう仲間として見なくなる」という事だろう。唐突に呼び出されて「国の為に戦え」と言われている身であり何もしがらみなんて無いアンリエッタからすれば、それ自体に思う所は無い。

 けれどそれは言い換えると「それだけの事をしておきながら、しかし今はまだアンリエッタを仲間として認めている」という事。アンリエッタがここで開き直るようであれば「もはや」と見捨てるだろうが、そうでは無いという事は、

「スティンク…………まさかお前」

 怒りも不満も何一つ感じられないその言葉にスティンクは「クソがよ」と吐き捨てた。

「始末書書く身にもなれよクソ間抜け、ここまでの規模になるとペラ紙一枚二枚じゃ済まねえんだぞクソが。てめえは俺を作家にでもするつもりか」

「…………………………………すまなかった、スティンク」

 一転してしゅんと萎むように頭を下げるその姿にスティンクが「ふん」と鼻を鳴らす。

「ほっときゃその内勝手に澱様の所に行けって言われんだ。アレはルーナティアに押さえられるとダルい、確実にこっちが拾っておきたい。…………お前みてえな間抜けが好き勝手しまくるせいでこの国は人手不足なんだ。中には勝手に国境まで突っ込んで勝手に死んだチンカスすら居る始末………二~三人呼び出した内の一人が捏ねる駄々なら聞いてやったかもしれないが、十二人も釣り上げた内の、しかも勝手やらかして信頼消し飛ばしたクソ間抜けの言葉なんて聞きたくても聞いてやれねえ」

「……………………すまない。私が悪かった」

 冷静さを取り戻したアンリエッタに頭を下げられたスティンクが「チッ、クソが」と悪態をつくと、まるでもう過ぎた事とでも言わんばかりに「それはそうと」とアンリエッタはいつものような声色でむんと頭を上げて向き直る。

 その姿に一瞬だけ頭痛を覚えたスティンクが「……何だよ」と問えば、アンリエッタは「二つ目は何だ?」と小首を傾げた。

「私が魔法の事───いや結果的には魔法の事じゃなかったのかもしれないが、その事を詳しく知りたいと聞いた時、スティンクは「理由は二つある」と言ったろう」

「あ? ………ああ、言ったな」

「一つ目はその何とか様が個人相手には動かないからという事だろう? 私一人が出向いた所で、動かない所か場合によっては私が悪意ある存在だと疑われて殺されかねない、だからといって国をうごかしてやる事は出来ないからと。そういう事だろう?」

 口元に指を当てて推理するように語るアンリエッタにスティンクが「ああ」と相槌を打てば、それまでずっと聞きに徹して黙っていたウィリアムが「それだけで三つ理由がある気がするけどね」と鼻で笑いながら小声で呟く。それを無視したアンリエッタが「であれば二つ目は何だ」とスティンクを見詰めれば、スティンクは「あー」と唸ってから、


「忘れた」


 だなんて答えを返した。

「何だと? おいスティンクお前───」

「どっかの間抜けな騎士に睨まれたら忘れた。この後俺が書かなきゃいけない一冊の始末書の事考えたら忘れた。…………あーそうだ、共用墓地の使用申請書も書かなきゃいけねえんだった。マジ多忙の身で吐きそうだクソが」

「おいスティンク! お前ふざけて───」

「アンリエッタ・ヴァルハラガール、お前に事情聴取を受けて貰う。拒否権はあるが拒否した時点で手配書が出回るから………ああ、拒否権なんて事実上無えな。処罰に関しちゃほぼ無いように取り計らうが、代わりに起きた出来事は包み隠さず話せ。……愚者とやり合ったんだろ? 少なくともそいつらの情報は洗いざらい吐いとけよ、そうすりゃ罰は更に減る」

「いやそれは分かってるしちゃんと説明するっ! そうじゃないだろうスティンクっ! 私は───」

 今にも掴み掛からんばかりに声を荒らげるアンリエッタの言葉に、スティンクが一際大きな声で「それと!」と遮る。かと思えばスティンクはアンリエッタの顔───殴られてから時間が経過した事により、大きく腫れ上がり始めていた左頬を指差した。

「さっさとメルヴィナ先生ん所行って、湿布の一つでも貰って来いクソ間抜け。………顔面ぶん殴られたのか? 俺は前時代的な考え方をするタイプじゃあねえが、それでも顔面に痣が残ったら後々ダルいだろ」

「……………それが済んだら二つ目の理由を教えてくれるんだろうな」

「忘れたって言ったろうが。俺はもう忘れたんだ、お前もさっさと忘れろ」

 憮然とした態度でそう言うスティンクは「つかお前も聴取あるからな」とウィリアムに吐き捨てると、そのままくるりと背を向けて歩き始める。軍隊が移動する時に使われる大きな城門のすぐ近く、個人向けの出入り用扉を開けてサンスベロニア帝国の城下へと向かってずんずんと進んでいくスティンクの背中を「何なんだ……全く……」とボヤきながら追い掛けるアンリエッタにウィリアムが「ホントに忘れたんでしょ。ま、覚えてたとして言える訳無いと思うけどね」と返せば、アンリエッタは「意味が分からん……」と更に不満げな顔になった。



「…………ぐぅ───っ」

 視界に入っている触手は八本。新たに生えようとしている触手は三つ。背後から斜め後方から聞こえるズルズルという音は……恐らく二つ。真後ろにニカ・ヤーチカを抱えているお陰で完全に囲まれている訳では無いが、しかし背後に下がれば非戦闘員であるニカを巻き込み兼ねない。

 これがもしも生前───勇者として呼び出される前の現役時代の事であったら、まさしく四面楚歌が如きこの状況でも惜しみ無くスキルを使用して完全打開していたはずだった。


 それが出来るようにスキルを組んでいたはずだった。


「────っ!? アンリエッタさんっ!」

 悲鳴のようなニカの声を聞き、反射的に死角になっていた右後方に体をひねって盾を向ければ、どんぴしゃりというタイミングで肉々しい触手が盾の面に叩き付けられる。バチンという乾いた音に反するように飛沫を撒き散らして盾を濡らした触手は、しかし端から見ているよりも圧倒的に重く鋭い一撃を繰り出し続ける。

「───、っぐ……クソが……っ!」

 受け止め切れずに流されていく盾に合わせて体を反らしたアンリエッタが悪態をつく。

 その瞬間、アンリエッタの集中力は完全に途切れた。何か予期せぬ出来事が起きた訳では無いし、疲れがピークに達した訳でも無い。

 にも関わらず、悪態をついた瞬間アンリエッタの頭の中は真っ白になってしまった。


 ─────今の、スティンクの口癖みたいだったな。


 戦場では気を抜いたものから先に死ぬ、なんて言葉は古今東西至る所で聞く言葉だが、実際『気を抜く』とは何なのかを具体的に説明出来るものは決して多くない。

「─────は」

 蜜月の時の吐息のような声が漏れる。完全に気迫を失ったアンリエッタの口から熱い息が溢れ出す。

 アンリエッタは知っている。

 戦場では、溜息を吐いたものから死んでいく。

 敵を殺して。危機を脱して。目の前で味方が死んで。

 吐息のような、呻きのような、腹の奥に溜め込み熱し続けた思いが漏れ出した奴から死んでいく。

 流れる時間がスローモーションのように感じる。スキルを使用していないとはいえアンリエッタは終わり無き孤高の旅路を老衰まで生き抜いた歴戦の猛者に他ならない。

 そんなアンリエッタの猛攻を凌ぎ続けたこの触手たちが、目前めまえの敵が曝け出したブラフでも何でも無い完全な隙を見逃す道理は無かった。

「────あ」

 呆けた声が出る。我ながら何と間抜けた声を出すものだ、なんて考えられるぐらい流れる時間が遅くなり……いや、流れる時間は変わっていないはずだ。ジャネの法則によって変わるのは体感時間だけであり、この手の窮地に際して世界がスローモーションのように感じるのはノルアドレナリンの過剰分泌によるものだったはずだ。………ノルエピネフリンだったか? いや、もはや何もかもが関係無い。

「───────アンリエッタさんッ!」

 太い触手の細い先端が眼球に向けて近付いてくる。悪足掻きすらも通じない現実に全てを諦めたアンリエッタの鼓膜にニカの絶叫が響くが、もう既にアンリエッタの頭は空っぽも同然だった。

 奇しくも雨の悪夢と同じ死に様。あの時のレニメアは体内から突き出た触手に眼球を抉られていたが、触手によって目を潰された事に変わりは無いのだから今のアンリエッタも似たようなものだろう。


 しかし、


「…………………む」


 ナマケモノが如く考える事止めたアンリエッタに対し、今まさにその瞳を穿つらぬかんとしていた触手は動きを止めていた。

 それだけでは無い。アンリエッタと戦っていた他の触手たちも須らく動きを止めていた。何が起きたのかを理解していないアンリエッタが「………何故」と呻き、まさかと背後のニカへと振り返るがニカは変わらず触手に座らせられたまま。クレッドとウィリアムの方へと目を向ければ、しかし二人も変わらず場違いな太い喘ぎ声を断続的に繰り返すのに夢中でそれ所では無さそうだった。


「う〜ん………。正直微妙なトコっすね〜」


「─────っ!?」


 何が起きたのか分からないアンリエッタの耳に知らない声が響く。軽薄そうでありながら、いやに耳に残るその声の主を探して即座に辺りを見回せば「及第点には届かないっす。学校のテストだったらバッチリ赤点、長期休暇は補習で埋まるっすね」と語る女性が、自身に触手をまとわせながらこちらを見ていた。


「頭空っぽになっちゃダメっすよ。夢詰め込んだ所で現実は変わらないっすから、現実を変えられなきゃ夢は叶えられないっす」


 目元を髪で隠した短髪の修道女シスター。修道服の上に着ているエプロンはふくよかな胸元の辺りにデカデカと『Work 働 き theたく F××kねえ 』と書かれており、まるで画家や土木関係者が着ているニッカのようにカラフルな汚れが点々と付着していた。洗濯していないなんて事は無いだろうから、恐らくその汚れはもう洗っても落ちなくなってしまっているのだろう。

 何よりも特徴的なのは、背中から生えた逆向きの翼と、獣のように手足。通常のそれとは逆向きに生えた蝙蝠の翼も相まって悪鬼のように見えるその手足は、焦げ茶色の体毛に覆われ、黒い爪は猛禽類のように鋭く伸びていた。

「………あ、お助け料は一億万円っす。ローンも可っすけど、クーリングオフは受け付けて無いっす。死に物狂いで死ぬまで返し続けてそのまま死んでくださいっす」

 ヘラヘラと笑いながらそんな事を言う女性に、アンリエッタとニカは呆然としたまま何も言葉が出なかった。

 外観も口調も言葉も全てが修道女らしからぬその女性は、そのままアンリエッタとニカに背を向けて「メスイキしてるスティンクさんとホモ、イクイク言ってないでさっさと行くっすよ」と声を掛けると、二人は体を痙攣させながら「イッ──イッてえ……イッてなんか無え……クソが……」「アタシはイッたわね……でもホモじゃないわ、バイよ……」と虚ろな瞳でそう返す。

「バイとか言われても区別出来ねっす、ゲイと何が違うんすか。トランジェスターだか何だかって何でもかんでも新しい言葉作り過ぎっすよ、ポコスコ新しい言葉作って「把握していないのは配慮が足らない証拠」とかナメんなっす。クィア・クエスチョンとか言われてアジア人の何人が意味理解してるんすかねあれ」

 軽薄な修道女がそう言うと、スティンクとウィリアムを絡め取っていた触手が緩やかに拘束を解き二人を地面に降ろす。ズルリと音を立てて何処かから触手が抜けると二人は声を合わせて「「ほぉ──っ! おっ、おっほ……ほぉ……っ」」と野太い喘ぎ声を響かせた。

「………………何なんだ……どういう事なんだ……」

 怪訝な顔で呟くアンリエッタに、ニカも「わ、分かんない……」と眉間のシワを深くした。



 ───────



 銀色の金属で縁取られた木製のドア。その上端に付けられたベルが、壁と繋がった紐に引かれてちりんちりんと小気味良い音色を鳴らす。ちりんちりんと鳴ったベルはすぐに小さな音色へと変わるが、不機嫌そうな顔でドアを潜ったスティンク・マゴットが「ケツが落ち着かねえ……クソが」とボヤきながらドアをバタンと閉じるのに合わせて、一際大きくちりんと鳴った。

「………なあ、これはただベルを付けるだけでは駄目なのか? わざわざ紐で繋ぐのに、何か意味があるのか?」

 そのベルを見上げたアンリエッタ・ヴァルハラガールが疑問を口にすれば、『魔法店よどみハウス』の店主であるベルナルディーノ・ヴェンティセイはカウンターにうつ伏せるようにしながら何でも無いような声色で「あるっすよ」と返事をした。

 ………来訪者を告げる為にドアに付けられたそのベル、通常のそれは紐なんて結ばれていない。普通は扉を開けた際に発生する揺れを使ってベルが鳴るものであり、壁とベルとを紐で繋げる必要なんて無いはずなのだが、ベルナルディーノはわざと壁から紐を伸ばしてドアベルと繋げていた。

「どんだけデカいベルとか鈴とか付けてたって、ゆっくり開けたら鳴らないんすよ。初見ならいざ知らず、一度でも来店したお客はベルがある事に気付くっすからね。防犯の観点から見れば、紐なり何なりで繋いで『ドアが開くとどうしても鳴る』ようにした方が良いんすよ」

 ベルナルディーノが「『揺れると鳴る』じゃ『揺らさず開けりゃ良い』って事っすからね」と締めくくると、アンリエッタは「なるほど」と得心した。

「スティンクの言う通りだな、貴女はかなり用心深い」

「そんな事は無いと思うっすけどねぇ……。……てーかスティンクさん、自分の事そんな風に見てたんすか? 酷い人っすねえ心外っす」

 したり顔から不思議そうな顔になり、そこから不機嫌そうな表情へと変わったベルナルディーノ。目元を髪で完全に隠しているにも関わらず表情の変化が分かりやすいベルナルディーノに、スティンクは椅子に座りながら尻をもじもじと落ち着き無く動かし「心外だろうが事実は事実だろ」と答える。

「うーい、ただいまー」

「お、お邪魔します」

 再びドアベルが鳴り、ウィリアム・バートンと一緒に少し怯えたような表情をしたニカ・ヤーチカが店の中に入ってくると、ベルナルディーノは「らっしゃーせー。冷やかしならその辺の椅子使って座っててくださいっすー」と獣の腕をひらひらと振る。

 ウィリアムとニカが椅子に座るのに合わせてアンリエッタが椅子から立ち上がり、店内の棚に並べられた品々を興味深そうに眺め回る。

「扱いミスると危ないもんとかもあるっすから、気になったやつがあったら触る前に指差して聞いてくださいっす」

 逆向きに生えた蝙蝠の羽根をパタパタと揺らしながら言うベルナルディーノにアンリエッタが「分かった」と返事をすると、店の奥から低い声で「姉ちゃん」と声がした。

「姉ちゃん、茶が入ったぞ。………客人の分もある。ほらよ」

 まるでポニーテールのように髪を結んだ大きな男が、お盆に湯呑み乗せながらカウンターの奥にある暖簾を潜ってやって来た。そのまま「うーっす」と生返事をするベルナルディーノの横を通り、大男がテーブルに湯呑みを並べていく。『海狗』『海豚』『海象』『海豹』と書かれた渋い湯呑みを置いた大男が、まるで吐き捨てるかのように「紅茶だ。砂糖は一人一つずつ、追加は受け付けない」と言うと、ウィリアムが少し嬉しそうな声色で「あらイケメン」と呟いた。

「イイ男ね、弟さんかしら? ……貴方、首絞めア◯ルセックスに興味あったりしないかしら」

 初対面にも関わらず臆面も無くそんな事を言ってのけるウィリアムにニカが「えぇ……」と呆れるが、その大男は気にも留めずに「一昨日来な」と背を向けてカウンターの中へと戻っていく。

「………オットー、お姉ちゃんの分は無いんすか?」

「ある訳無いだろ。欲しけりゃ先に言えよ」

「言わずとも分かってくれるのが良い弟じゃ無いんすか? お姉ちゃんの分も淹れて欲しいっす」

 カウンターに胸を押し当てるような体制をしたベルナルディーノがそう言うと、オットーと呼ばれた大男は不機嫌そうな顔をしながら口を吸って「チッ」と舌打つ。そのまま何も言わずにベルナルディーノに背を向けてカウンター奥の暖簾を潜っていく大男に、ベルナルディーノは何も気にしていない軽薄そうな声色で「砂糖四つでお願いっすー」と獣の手を振った。

 そんな二人を見たウィリアムが「随分と利発そうね」と呟けば、ベルナルディーノは溜息混じりに「昔は可愛かったんすけどねえ」と答える。

「弟さん……なんですか?」

 紅茶が入った湯呑みを手にしたニカが問い掛けると、やはり軽薄そうな声色でベルナルディーノが「血は繋がって無いっすけどね」と返せば、ニカは複雑な関係に聞くべきじゃ無かったかと少し後悔した。

「いやマジで昔はホントに可愛かったんすけどねえ。気付いたらあんなんっすよ、反抗期っていつまで続くんすか? 早く戻って欲しいっす」

 呆れ果てながら大きく溜息を吐くベルナルディーノに話題を変える隙を見付けたニカが「そんなに可愛かったんですか?」と口を開けば、ウィリアムも「とてもそうは見えないけどね」と話題に乗る。

「マジ可愛かったんすよ〜。お姉ちゃんお姉ちゃーんって、ずーっと自分の後ろ付いて回ってたっす」

 カウンターに押し付けていた胸を上げたベルナルディーノが嬉しそうな声色でそう言うと、タイミング良く現れた大男が「いつの話をしてんだ」と暖簾を潜ってやって来た。そのまま「まだ出切って無い。少し待ってろ」とティーバッグの入った湯呑みをお盆ごとベルナルディーノの前に置いた大男。

「あの頃は超可愛かったのに、お姉ちゃんこんな弟に育てた覚えは無いっすよ」

「姉ちゃんに育てられた覚えなんかねーよ」

「はーぁ? オットーが布団に作った世界地図洗ったの何処の誰だと思ってるんすか。布団丸々手洗いすんのクソ大変だったんすよ」

「それこそいつの話をしてんだ。ガキの頃の、意識しても制御出来ないミスを持ち上げられても困る」

 ぶっきらぼうにそう言う大男が腕を組みながら壁にもたれ掛かって目を閉じる。それを見たニカが怖々と「オットーさん……っていうんですか?」と問い掛けると、本人に代わってベルナルディーノが「そっすよ」と答えた。

「出会った頃のこいつ名前持ってなかったっすから、自分の名前から拾ってグァルネリ・オットーって名付けてあげたっす。どっちで呼んでも良いっすよ」

「……………グァルネリ?」

 ニカが小首を傾げる。その名前には聞き覚えがあったからだった。ウィリアムも同じだったようで、湯呑みから口を離して「聞いた事あるわね」と呟いた。

「……バイオリンの名前だったかしら。ストラドと並ぶバイオリンのブランドだった気がするわね」

「いや全然違うっす。その認識は間違いっす」

 ウィリアムの言葉にベルナルディーノは「まあ間違えるのも分かるっすけどね」と続けながら大男へと目線を向けるが、大男は変わらず腕を組んだまま目を閉じている。

「グァルネリって名前自体は一族の名前っす。弦楽器を作る血筋で、ヴァイオリンをメインにチェロとかヴィオラも作ってるっす」

「へえ……」

「ムルシ族の着けてるお皿の事をムルシと呼ばないのと同じように、グァルネリの作ったヴァイオリンをグァルネリと呼ぶのは間違いっす」

「まあ……確かにそれはそうね」

 少し不満げながらも素直に頷くウィリアムにベルナルディーノが「まあ間違えるのも無理無いっすよ」と笑う。

「グァルネリ一族の、何つったかな……バルトロメオ・なんたら・かんたら・グァルネリって人が作ったヴァイオリンが、ストラディバリに次ぐやべー代物っつって広まってるんすよ。しかもそのヴァイオリンに『グァルネリ・デル・ジェス』って意味のあるロゴマークが付いてるんすよね」

 毛深い獣の腕をゆらゆらと振りながら「だからごっちゃになるのは無理無いっす」と軽薄そうに笑うベルナルディーノにニカが「頭こんがらがって来た……」と眉間のシワを深くすると、店内の棚を見たままのアンリエッタが「心配要らないぞニカ殿、私なんかそもそも理解する事を諦めている」と慰めになっていない慰めを投げ掛けた。

「そのヴァイオリンのロゴマーク、『キリストのグァルネリ』って意味が篭められてるんすけど、ロゴマーク自体の呼び方は『ベルナルディーノのしるし』って言うんすよ」

 へらへらと笑いながらベルナルディーノがそう言うと、ニカとウィリアムは二人して「「……それで」」と納得した。逆向きに生えた蝙蝠の羽根をゆらゆらと揺らしながら「そっすよー」と笑うベルナルディーノは「昔はマジで可愛かったんすけどねー」と過ぎた話題を掘り返す。

「いやホントに可愛かったんすよ。なんつーか……ザ・ショタっ子! って感じの見た目してたんすけど、何するにも自分の近くをちょろちょろしてたんすよ」

 過去を懐かしむ声色でそう言うベルナルディーノに「いつまでその話するんだよ」とグァルネリ・オットーが不機嫌そうに口を開いた。その言葉にベルナルディーノも不機嫌そうな声色で「坊っちゃん刈りしてた癖に」と返すが、グァルネリは何も気にしていない様子で「今更言われても気にならねえよ」と返す。

「おねしょしまくってた癖に」

「もう治った。何年前の話してるんだよ」

「一人でお風呂入れなかった癖に」

「今じゃ一人じゃなきゃ落ち着かねえ」

「夜だけじゃなく朝だって一人でトイレ行けなかった癖に」

「縦穴汲み取り式トイレだったからな。穴の奥暗いし、落ちたら絶望だから大体の奴は怖がるわ」

「ずーっとお姉ちゃんの事追い掛けてた癖に」

「むしろ姉ちゃんの方が俺の事探し回ってただろうが」

「そんな事言いながらお姉ちゃんの事大好きな癖に」

「寝言は寝て言え、夢ならそのまま目覚めるな」

 矢継ぎ早に繰り返される言い争い。そろそろネタが無くなったのか「ぐぬぬ」と唸るベルナルディーノに、グァルネリがドヤ顔にも似たしたり顔をしながら「もう終わりか?」と問い掛ける。


「……………お姉ちゃんで童貞捨てた癖に」


 伝家の宝刀よろしく、とっておきのその言葉にグァルネリが「───フグゥッ!」と呻いてよろめいた。ウィリアムが「あらあら、お盛んね」と頬を緩めれば、グァルネリは「ぐ……っく」と苦しげに呻き続けた。

「…………………」

 そんなグァルネリを見たニカ・ヤーチカには、本来見えないものが見えていた。ニカの瞳に映るグァルネリは、マウスピースを噛みながら両手にボクシンググローブを着けているように見えていた。ナメて掛かったボクサーが予想外のパンチを食らってよろめいているようにしか見えなかったのだ。

 しかしウィリアムにはそう見えていないのか、ゴシップ好きのOLのような表情をしながら「おねしょだけじゃなくておねショタしちゃったの?」だなんて問い掛けると、ベルナルディーノは軽薄そうな声色で「しちゃったんすよねー」と答えた。

「最初はお姉ちゃんの布団に忍び込んでおっぱい触るだけだったんすよ。一生懸命ちゅっちゅしてたんすけど、ちょっと力強く揉み過ぎだったっすね。ゴム製品じゃねーんだから指埋もれるぐらい揉んだら普通に痛いっすよ」

「ぐむ……っ、っくぬ……」

 そんなカミングアウトにグァルネリが苦しげに呻く。

「まあ自分胸デカい方っすから触りたくなる気持ちは分かるんすけど………オットー馬鹿なんすよね、パイズリ決めて出すもん出したまま拭きもせずに自分の部屋に戻りやがるんすよ」

「そりゃアホだわね。使い終わってオナホ放置するのとは違うでしょうに」

「ぐぅっ……くっ、ぐぬっ」

「でもまあ、そういうお年頃っすから? しかたないにゃあって思いながら朝シャンするのが日課になってたんすけどね?」

「ふんふん、それで?」

「最終的にこいつ寝てる自分のま◯こにちんちん突っ込んで来やがったんすよ」

「がッ、く───ゥっ!」

 良いストレートが入った、ように見えたがグァルネリはヨロヨロと千鳥足ながらも懸命に耐える。その様子を見たニカが「………耐えた」と呟くが、ベルナルディーノとウィリアムはそんな事気にも掛けずに話を続けた。

「マジのおねショタじゃない。薄い本出たら買うから教えて」


「いやでも自分ロクに濡れて無かったんすよ。クッソ痛かったっす」

「マジで? 最悪じゃないそれ」


「フッグゥ────ッ!」


「………うわ、ボディ入った。モロだ」

「それでも自分、懸命に耐えたっすよ。自分はオットーの事凄い大事に思ってるっすからね、濡れてないま◯こにちんちん突っ込まれるぐらい耐えれるっすよ」

「まあ、ね……。ショタっていうぐらいの子だったら濡らすなんて事知らないでしょうし、仕方無いのかもしれないからね。成人してたら相当なバカだけどね」

「グ………ック……っ! ふッ……ふぅッ………」

「………耐えてる……凄い……頑張れ、負けるな……」


「まあ結局自分イケなかったんすけどね。自分の処女喪失はクソ痛いだけで終わったっす」


「─────────」


 どうっ、と派手な音を鳴らしながらグァルネリが倒れ付すと、ニカは「あ駄目だった……」と溜息を吐いた。もはや呻く事すら出来なくなったグァルネリはウィリアムの「ゴミ野郎じゃないそれ、最悪ね。使い物にならないちんちんならいっそ切ったら?」という言葉にすら反応出来ず痙攣を繰り返していた。

「……………ねえオットー」

 板張りの床に倒れたまま痙攣し続けるグァルネリを見下ろしながらその名を呼ぶ。しかしグァルネリは掠れ切った声で「ゆるして……ゆるして……」と呻き続ける事しか出来なかった。

「オットー、あの時気持ち良かったっすか? お姉ちゃんは痛かったっすけど、オットーはちゃんと気持ち良くなれてたっすか?」

「……ころせ……もうころしてくれ……」

「ねえオットー」

「………ひとおもいにやれ………ほねものこすな………」

「オットー」

「…………………………はい」

「お姉ちゃんの事、好きっすか?」

「……………………………………………………だいすきです」

 その言葉を聞いたベルナルディーノが勝ち誇った顔をしながら「いえーいお姉ちゃんの勝ちー、コロンビアー」と両腕を上げれば、それを見たウィリアムは「マジでお盛んね」と鼻で笑った。

「…………………」

 ニカには聞こえていた。ゴングの鳴る音が、試合終了を告げる音色が、ニカの耳には聞こえていた。

 試合が終われば、観客はもはやリングの上になんて目も向けない。応援を続ける事も無ければ健闘を称える事も無くなるもの。板張りの床に倒れ付すグァルネリから興味失ったニカは「まあでも、」と口を開く。

「………さすがにわたしも、イかせてくれない人は無理、かな」

「ゴフッ」

「「「あっ」」」

 ニカの無慈悲な言葉に、グァルネリはついに吐血しながらピクリとも動かなくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る