5章
5-1話【どんな服より青ジャージが似合う女】
鬱蒼とした森の中。微風が吹く度にかさかさと葉擦れの音が鳴るその森は、真上を見上げても入り組んだ枝葉に邪魔されて空の青は殆ど見えない。しかしそれでも三人の勇者と一人のサンスベロニア人は何の迷いも無くその森を歩き進無事が出来ていた。
「……………これ真っ直ぐね」
サンスベロニア帝国の現地部隊に支給されるコンパスを見たウィリアム・バートンがそう呟くと、アンリエッタ・ヴァルハラガールは無意味にしたり顔をしながら「うむ」と返した。
それは『恋人石』と呼ばれる薄桃色の魔石を二つに割り、その片割れを加工して作ったもの。割れた恋人石は互いが互いを求め合うかのように魔力を放ち互いの方向を示し合うという性質を利用した、擬似的なナビゲーションのようなもの。
二つに割れば平行に向き合い、三つに割れば内向きの放射状に向き合おうとする。方位磁針を使用したサバイバル技術に関してはある程度専門知識を求められるのに対し、恋人石は目で見てそれだけで方向が分かる直感的な使い勝手が長所だろうか。
しかし使い勝手が良いからと三つ以上に割ってしまうと、今度は片割れとの方向が平行では無くなってしまうデメリットも孕んでしまう。ある程度までの距離ならば平行位置を示してくれるが、片割れ同士の距離が離れれば離れる程に正確な方向を示さなくなってしまう。
故に恋人石。二つの関係に余計な濁りを入れず、相思相愛でこそ互いを導き合える石。その片割れをサンスベロニア帝国の保管庫に置いておく事で、現場で動き回る兵たちは擬似的に自身の位置を理解する事が出来る。どれ程の艱難辛苦に惑わされども、恋人の導きに従えば祖国に骨を埋める事が出来る。基本的にはまともに回収されず、
恋人石は発掘された直後、無傷の状態か恋人同士が揃っている状態で初めてその価値が上がる。片割れだけでは意味を持たず、三つに割れば更に役目を見失う。場合によっては殉職兵の遺体を探す役目を持ったサンスベロニア帝国の探索隊に恋人石の片割れから居場所がバレてしまい、持っているだけで『兵の安否確認を阻害した』として国家反逆罪に問われる事すらあるのだから、ドッグタグよりもよっぽど信用出来るその風習は帝国内で強く浸透している。
「……ちょ、みんな進むの早─────────あわっ!?」
そんな恋人石に導かれながら進む三人の中、木の根に足を取られたニカ・ヤーチカが素っ頓狂な悲鳴を上げると、スティンク・マゴットが「チッ」と舌打ちしながら二の腕サイズの小さな杖を軽く振るう。
「わっ……あぉっ……おぉぅふ。……………ありがと、スティンク。ごめんね」
完全に尻からずっこけたはずのニカの体は、スティンクの振るった杖から醸し出された赤紫色にぼんやりと輝く煙のようなものに包まれ、そのまま宙に浮かんで静止していた。
「…………これで何度目だよクソが。役に立たない所か足すら引っ張るなら帰れよお前、要らねえよ」
肉厚な顔を不機嫌そうに歪めたスティンクが吐き捨てるようにそう言うのに合わせて赤紫色の煙は霧散する。すると地面に降り立ったニカは不機嫌を隠しもしないスティンクと同じぐらい眉間に皺を寄せながら「……だって───」と言葉を濁して俯いた。
「……………やっぱりウィリーさんがおんぶしてよ。ただでさえまともに前見えないのに……舗装もされてない森の中なんてわたし無理だよ………」
不機嫌極まりないように思える表情に反して心底から悲しがっているニカの言葉にウィリアムが「えぇ〜?」と歩みを止めて振り返ると、その隣を進んでいたアンリエッタが掠れるような声で「……凄い顔だ」と呟いた。
「嫌よあたし腰痛持ちだもの。ニカちゃん背負って山中行軍とか腰爆発しちゃうわ」
「………腰痛持ちだったの? その割には軽快に進んでるように見えたけど………またいつもの嘘?」
訝しむ声ニカに「あら失礼ね」と返したウィリアムは「短期的なもんだけど今回は本当よ」と老人のように腰を擦る。
「
女性が相手だというにも関わらず臆面無く「素直に角オナにしとくべきだったわ」だなんて事を言うウィリアムに、ニカは呆れ果てて言葉が出なかった。行為そのものに対してでは無く、こんな有様になっても尚面倒臭がって逃げようとするウィリアム・バートンというお
「スティンクが持ってってあければ良いじゃない。あんた国内でも指折りなんでしょ? 洗剤のCMみたいにチョチョイのジ◯イやで! って言って指の骨ぐらい折ってやりなさいよ」
「ふざけるなクソが。俺の魔力は時間経過でしか貯められないんだ、ヒール履いて登山したがる類いの馬鹿女如きに無駄遣いしてられるか」
「……わたしスニーカーなんだけど。靴なんてこれしか持ってないし」
「比喩でしょ。アイゼン無しで磯辺歩いて股ぐら濡らすアホとか、裸足でクロ◯クス履いたまま車運転する物を知らないバカみてぇだって言いたいのよこいつは」
鼻を鳴らしながら嘆息するウィリアムにアンリエッタが「クロ◯クスとは何だ?」と問うと、ウィリアムは「汗でエグい滑るサンダル。あたしが居た世界じゃあ、車両の運転時にサンダルは道交法違反だったのよ」と説明する。
「というかそもそも何でニカちゃんまで付いて来たのよ。お城で待ってれば良いじゃない、どう考えても危ないし不向きって分かるでしょうに」
批難するような声色でウィリアムがニカを見やると、ニカは不貞腐れたように「ウィリーさんの側じゃないと不安なんだもん」と答えた。
「あたしいつの間にニカちゃんの好感度上げたのかしらね。記憶に無いんだけど」
「だってジェヴォーダンどこ行ったか分かんないんでしょ? ウィリーさんの近くじゃないとやだよ。怖いもん」
「………あーね」
今にも泣きそうな声色で俯くニカに、ウィリアムが納得する。隣に居るアンリエッタだけでなく、スティンクでさえも「それでか……」とニカの心中を汲み取ったようだった。
「ジェヴォーダンは勇者として呼ばれた一枠なのだろう? とすればあ奴は何らかの理由で名を馳せた存在という事になる訳だが、ニカ殿やウィリー殿の居た世界で奴の名を聞いた事はあるか?」
恋人石が指し示した方向に向かって歩き出したアンリエッタが二人に問い掛ける。その歩幅が先程までのそれより小さいのは、アンリエッタなりの荒れ地に慣れていないニカに対する配慮だろうか。ウィリアムも眉間に指をやり「聞いた事あるけどロクすっぽ覚え無いわねぇ」と呟くが、反対の手をニカの手元に添える優しさを見せていた。
「使えねえクソオネエだな。呼び出されてからの初陣で負けてるんだから、ケツばっか掘って無いで少しは役に立てよ」
「言うじゃないチビデブ、そう言うあんたは何か拾ってんでしょうね。何も無いとか言ったらその辺の石ころ突っ込んで赤頭巾の狼にしてやるわ」
スティンクの悪態にウィリアムが棘のある答えを返すと、スティンクはバ「……大した情報は無い」とバツが悪そうに答えた。
「影の中に入り込める力があるのと、それとは別で
「それを聞いて何をどうしろってんのよ。…………ほら、さっさとケツ出しなさい。まさしくクソみたいな情報の代わりに石ころ突っ込んでやるわ」
苛立たしげに悪態を付き合う二人にニカが身を竦めると、添えている手元から緊張が伝わって来たのかウィリアムは少しだけ慌てた様子で「ジェヴォの情報ねぇ……」と呟く。
「あれでしょ? 何か……どこだっけ、イタリアじゃなくて……フランス? パリだか何かどっかの獣害事件でしょ?」
ウィリアムの言葉にスティンクが「……獣害?」と眉根を寄せる。
「あいつ獣人系なのか? そういう話は回って来て無いぞ。腕を大型化させたって話は聞いたが、魔族だったらそれぐらいは誰でも出来る。獣って根拠は何だよ」
「あたしが知る訳無いじゃない。そもそも史実関係は詳しくないのよ。……あたしの成績表、歴史だけ全年通して一よ一。長期休みは毎年補習で呼び出されてたわ。全部サボったけど」
「ウィリー殿が馬鹿なのは何となく察しが付いていたから置いておくとして、獣害事件となるとケルベロスかコカトリス辺りか? ワイバーン等であれば獣害では無く竜害事件になるだろうから、自ずと候補は絞られるはずだろう」
「ごめん意味分かんないわ。……ケルベロス? アンリエッタあんたどんな世界に住んでたのよ。獣害って言ったら熊か狼の二択でしょ普通」
アンリエッタの発言に呆れるウィリアムに、それまで黙っていたニカが「……パリの狼?」と顔を上げた。足元から目を離した事で少しつんのめり掛けたニカがウィリアムの手を取りながら「もしかしてシャズの獣?」と口を開くと、三人は歩幅を緩めてニカへと目線を向けた。
「ジェヴォーダンは知らないけど、『シャズの獣』とか『シャストルの獣』って伝承は分かるよ。コミューンの方で起きた事件でしょ?」
「………ごめんねニカちゃん、あたしマジで歴史詳しくないからコミューンとか言われても「可愛い名前ね」としか思えなかったわ」
覚束ない足取りながらも懸命に進むニカの手を支えるウィリアムに「凄いおっきな狼の事件があるの」と返す。
ジェヴォーダンの獣は飽くまでも通称であり、厳密に『何による事件なのか』は未だ明確にされていない。何せ事が起こったのは十八世紀、1764年から1767年の事件なのだから情報が少なく、また馬鹿の一つ覚えのように囁かれる『陰謀説』や『宇宙人説』が情報を錯綜させている事もあり、現代ではもはや真偽の程は判別不可能とされている。どれぐらい情報が錯綜しているかといえば『討ち取った者が二人居る』ぐらいであり、「アントワーヌ・ド・ボーテルヌが討ち取った説」と「ジャン・シャストルが討ち取った説」との二つがある程。
基本的にはシャストルが討ち取った説は懐疑的な内容が多く、そこからの皮肉で『シャストルの獣』、または獣が討ち取られたアバイエ・ド・シャズから取った『シャズの獣』───もしくはフランスのジェヴォーダン地方に現れた事から『ジェヴォーダンの獣』と呼ばれるのが通例だろうか。
牛のように大きな体格の、狼に良く似た獣であるとされる事が多いが、当時のフランスでは狼による様々な被害が相次いでいた為『四つ足の獣だから狼だろう』と軽々しく結論付けられた可能性も高い。実際ジェヴォーダンの獣の特徴は『赤毛』『背中に黒い縞模様がある』『とても長い尻尾』『小さい耳』と、現存する狼とは似つかない要素がかなり多い。
中でも特に異質なのは『獲物の弱点を狙わない』『家畜をあまり襲わない』という点。
通常の肉食動物は主に脚や喉を狙う傾向が強い。本能的にその部位がどういう役割を担っているのかを理解する肉食動物は、獲物を即死させ得る喉や『狩りの失敗』を減らす為にと脚を狙う。
しかし不思議な事にジェヴォーダンの獣は哺乳類に共通するそれらの弱点を狙わず、何故か獲物の頭を狙う傾向にあり、襲撃に成功すると相手の頭部を食い千切るか踏み潰すかし、捕食するのは主に内臓ばかりだったという記録が残っているのだ。
そんな異質な獣はどういう事なのか家畜を狙おうとしなかった。主に農場に現れがちだったジェヴォーダンの獣は、農場に居る牛等の家畜では無くそれを見守る人間ばかりを捕食対象として選んでいた。一回や二回であれば「近くに居たから」と言えるかもしれないが、獣は幾度と無く人間を狙い続けた。
そんな異例中の異例のようなジェヴォーダンの獣が最も異質なのは『その割に女子供を狙う』という事。効率良く獲物を捕食する為であれば羊や子牛のような家畜を狙うべきだろうに、何故かジェヴォーダンの獣はそれらを狙わず、またその手足や喉笛も狙わなかった。頭蓋骨に守られて食べ難い頭部ばかりを優先して狙い、時には何の意味があるのか獣らしく踏み砕く事すらあり、それも相まって『◯◯の狼』では無く一貫して『◯◯の獣』と呼ばれるのだろう。
「………………ふぅん」
ニカ・ヤーチカから話を聞き終えたウィリアム・バートンが鼻を鳴らすと、スティンク・マゴットは「共通点が無い訳じゃないな」と目を細めた。
「被害に遭った国民や警邏の連中は大抵が頭を狙われてるし。………だが結論ありきで考えてるとロクな事にならねえ」
「そうね。少しパンチが足らないっていうか……そう、大きく似てる要素はあるんだけど数的には似てない要素が多いっていうのが素直な感想かしら。影に入り込むっていうのも共通点無いし、赤毛じゃないし、そもそもあのハイテンションが意味不明ね」
「俺はその伝承を知ってるクソ野郎が気取ってそれを名乗っているだけな気がするな。過去に呼び出した勇者の中にジャック・ザ・リッパーとかいう名を名乗った野郎の資料があったが、後々連続殺人犯の通り名だか何だかを勝手に名乗ってたクソ雑魚だったって裏取りがされてた」
スティンクとウィリアムの言葉にニカが「……そっか。役に立てなかったね、ごめん」と謝ると、アンリエッタが「何を言っているんだ」と割って入る。
「ほぼ全て一致じゃないか。結局弱点とかは分かっていないに等しいが、あれがどういった存在なのかは今ので殆ど確定したようなものだろう」
堂々とした声色ではきはきと言うアンリエッタにウィリアムは「……あんた今の話聞いてた? 似てない点が多いんだってば」と呆れ果てるが、すぐに真顔に戻ったかと思うと「………いや、待って」と真面目な声色で何事か呻く。
「………あんた妙に勘が良い所あるものね、どういった理由で確定だと思ったのか聞かせてちょうだい。今は多分ディベート形式は無意味よ、ディスカッション形式で進めて行く方が良いと思うわ」
ウィリアムがそう言うと、アンリエッタは嬉しそうに口元を歪め、鼻を鳴らしながら「うむ」と頷いた。
「およそ三年間解決出来なかった獣害事件なのだろう? であればその三年間、民は何度も獣の討伐に出向いているはずだ。にも関わらず牛レベルで大柄な体格の哺乳類が三年もの間逃げ
「………そう提示する理由はある?」
「根拠としては些か弱いが、奴がサンスベロニアに転生してから日が浅いのが理由だ。この世界で「そういう能力」を得る程、あいつは時間的余裕が無かったはずだ。あれだけ色んな連中にちょっかい掛けていながら更に魔法なり何なりの勉強を裏でしていました、というのは難しいだろう」
「…………………………続けてちょうだい。それで?」
「赤毛に関しては何の確証も無いのだが…………あれが帝国内から姿を消した日の目撃情報では、地下施設から脱出する際に多くの銃弾を浴びていたからかなり弱っているはずだとニェーレ殿は言っていた。であればあれが着ていた白いスーツは真っ赤になっていそうだなと、ふと思った」
「耳と尻尾、あと縦縞模様っていうのは?」
「尻尾は妙に長いんだろう? あいつも妙に背が高かった。何だその程度かとも思うが、幻想の生き物が人の形を取る際はそういった要素が散りばめられている事がとても多い。背が高く力持ちであれば
「………あのウザいハイテンションも何かから引っ張られた要素なのかしら」
口元に手を当てながらウィリアムが思案するように呟くと、アンリエッタは「決め手はそこだ」と力強く言い放った。
「決め手? ……あの無意味に早口でウザい喋り方が、獣害事件を起こしたその獣と決定的な共通点だっていうの?」
「ニカ殿は最初に「『シャズの獣』とか『シャストルの獣』って伝承はあるよ」と言っていたが、その言い方で確信したんだ。…………自分が生きていたのと近い年代に起こった事例であれば『事件』と呼びそうなものだろうが、ニカ殿は『伝承』という言葉を使った。それはつまり、何年前に起こった事柄なのかスッと出て来ないぐらい過去の事例だからではないかと思ったんだ。違っていたら恥ずかしいから帰って泣く」
「泣かないで良いからいつもみたいに堂々と居座ってなさい。………ニカちゃん、どう?」
「う、うん。具体的には流石に分かんないけど凄い前の話だった気がする。………確かルイ十五世の頃だったから、えーと………わたしの生きてた時代からは三百年ちょっとぐらい前の話」
「なるほど。………で、それがどうしてハイテンションに繋がるの?」
「エンターテイナーだろう」
アンリエッタの宣言に三人が「「「は?」」」と口を開ける。それまで真面目に聞き入っていたスティンクでさえも呆然と口を半開きにしていたが、滅多に見れないスティンクのそんな姿にすら気が付かない程にウィリアムとニカは唖然としてしまっていた。
「およそ三百年もの間語り継がれるような事を、その獣は起こしたんだろう? ただの一般人であるニカ殿でも名前を知っているぐらい広く知れ渡るような事でありながら、もはや未解決事件として面白おかしく語る以外に出来る事が無い程過去の事件。…………不謹慎にも数多の人物が面白コンテンツとして扱うような
「──────────」
「どれだけ凄惨な内容であったとして、しかし三百年もの時が経てば人は必ずその悲しみを忘れてしまう。伝言ゲームで紡ぎ合えるのは言葉だけで、感情は絶対に伝えられないからな。後世に残る者たちは揃って「忘れてはならない」だなんて
「…………………………まさか────」
スティンクが呟く。
「反吐が出るような陰惨な事例を起こしながらも、いけしゃあしゃあと長期間逃げ果せたような大量殺人鬼の如き獣が、やがては吟遊詩人に唄われ喧伝されるような存在になった。………これを『大成して死んだもの』と言わずして何と呼ぶのか」
アンリエッタの言葉に、ウィリアムとニカ────ウィリアム・バートンとニカ・ヤーチカは黙るしか出来なかった。
その中を、スティンク・マゴットは「……クソが」と悪態を付くぐらいしか出来なかった。
母国が犯した過ちに、
「人間目線では害悪以外の何でも無いだろうが、しかし獣目線でものを見れば大英雄だ。勇者として異世界に呼び出されるには十分じゃないか」
余りにも幅の広い不特定多数を呼び出す不完全な召喚魔法に。それに頼ったものたちに、苛立つ事ぐらいしか出来なかった。
──────
「…………なるほどな。ウゼえ奴だとは思ってたが、ウゼえなりに理由があった訳か」
自作の加熱式タバコを吸うアダン・グラッドの言葉にルーニャレット・ルーナロッカが頷くと、椅子に座ったニェーレ・シュテルン・イェーガーが「ふむ」と鼻を鳴らす。身長百センチ程度の小柄な背丈故、金属製の床に届かなくなった両足をぷらぷらと揺らしていたニェーレが「牛、ですか……」と呟くと、アダンも紫煙を吐きながら「牛、ねえ」と繰り返す。
「は、は、は、はい。そ、その、し、史実、というか、本とかインターネットとかでは、じ、じ、ジェヴォーダンの獣は牛、牛に対して苦手意識があるのではって推察されていました」
「それは恐らく最初の襲撃が理由だろうな。一番初めに人間を襲おうとした時、農場の牛に追い払われたっつってたろ。推察も何もそれ以外に候補が無え」
肉が焼ける時のようなジュゥゥゥ、という音を鳴らしながら加熱式タバコを吸うアダンの言葉に、ニェーレも「十中八九そうでしょうね」と同意する。
「狼なのか何なのかは知らねえが、基本的に生物は大型化に伴って知能も増す傾向にある。脳自体がデカくなる訳だからマルチタスクや思考処理が早くなって、その分空いたリソースで色んな事を考えられるようになるって話だな。だからこそ最初の襲撃で自分を追っ払った牛を狙わず、慌てふためくだけだった人間を狙うようになった訳だ」
「女子供を狙う理由も同じでしょう。男衆は農場では力仕事を任されがちですからね。何かしらの農具を持っている事が多い男を狙うよりは、仮に農具を持っていたとしても力強く振り回せない女子供を狙った方が狩りの成功率は高まるはずです」
「基本的に農場じゃあ野郎連中は複数人で纏まって作業するはずだ。重機に頼る場合を含めても、それでも刈り取った草だの何だのを運ぶのには手数が要るからな。対して農場に居る女……カウガールってのは大体が暇を持て余した奴等が多い。力仕事は得意じゃないが家事炊事も年食った母親がやってくれてる、みてぇな立場に置かれた女が「じゃあ放牧してる家畜でも見てるか」っつって現場に出るんだ。オレの実家じゃそうだった」
「博士のご実家で無くとも大体がそうでしょう。一階の農産区でもそういった事例は当たり前にありますから」
「脚を狙わねえってのは体格故な気がするな。自分の目の前にゴキブリだのムカデだのがわーっと出て来たとして、わざわざそれの脚だけ的確に狙う奴は居ねえだろ。真上から叩き潰して終わりだ」
「でしょうね。首を狙わず頭を狙うという点もその辺りが理由でしょう。牛程の大きさになった肉食性の哺乳類が、人間の……それも女子供の首を正確に狙えるとは思えません。最初の内こそ騒ぎ立てる人間の首を狙おうとしたはずですが、恐らく何処かで『首を噛もうとして頭を噛み砕いた』という事があったのではないかと思われます」
「それを大型化故の高知能で記憶して、って感じだな。頭狙っても普通に死ぬじゃんこいつらっつって。食い千切られてたって時は単純に食われて、潰されてたって時は黙らせる為に首ごと頭潰したって所か?」
「内臓を好んで食した、という点に関しては不可解ですね………単にそういう食性だったというぐらいしか思い浮かびませんが、そも「内臓を好んで食した」というのは「内臓以外は全部残した」なのでしょうか」
「あー……確かにそれはオレも疑問だな」
「ええ。手足を放置したまま内臓を好んで食したのか、それとも内臓だけ綺麗さっぱり食べ尽くしたのか。…………アシダカグモのように「腹は減っていないが、行動範囲内に獲物が居るから取り敢えず襲っていただけ」という可能性も無くはありません」
「──────────」
冷静に分析を行う二人の姿に、ルーニャレットはぽかんとしたまま黙っている事しか出来なかった。
史実にある『ジェヴォーダンの獣』について、ルーニャレットは細部まで話した訳では無い。そもそもルーニャレット自身、その話はネット上で多少聞き齧った程度の知識しか持っていないのだ。考察を行った本があるとかその程度の情報しか無いにも関わらず、アダン博士とニェーレはそれだけを頼りにどんどん推察を進めている。
ちょっと目を離せば
方や総帥の話を振ればもじもじと内股を擦りながら「ペルチェ様の何が愛おしいって精をお出しになった直後の蕩けそうなお顔と、寝相がちょっと悪い所だと思うんですよ。可愛らしいですよあれ」と延々想い人への想いを語り続けるような宰相。………最近では失血死したスパイと服ごと千切り取られた陰茎が彼女の執務室にすっ転がっていたというような話まであり、ルーニャレットの中にある『ニェーレ像』とでも言うような印象はもうしっちゃかめっちゃかである。
けれども二人は決して阿呆では無い。それだけは絶対的な確信と共に理解していたつもりだった。
ニェーレは異常なまでに高いIQ値を誇っており、またアダンも同様に機械工学を専門とする男。本当に阿呆であれば軍の一兵卒から総帥の横に立つまでに死んでいるだろうし、ほぼ一人で三機の
それはまさしく紙一重。一般人には理解の追い付かぬ思考回路をしているのは頭の回転が早いからこそなのだろう。
「となると、現状出来るのはルーニャレット女史に牛柄ビキニ着せるぐらいだな。マイクロで行こうぜマイクロ。乳輪ハミ出るぐらいのちっせえやつ」
だとするとこの発言には何の意味があるのだろうか。
「────へぇぁッ!? な、な、な、なん、何でそんなはな、話になってるんですかっ!?」
物思いに耽っている内に意味不明な結論を出されていたルーニャレットが声を荒らげると、左側に居たニェーレが体を伸ばして「ルーニャレットさん、よだれよだれ」と左の口元をハンカチで拭いた。この流れにも慣れたもので、ルーニャレットは「ぁわっ──ん、ありがとうございます………じゃなくてぇっ!」と発作を起こさず再び声を荒げた。
「何でわたっ私がまっまぃぃ……ビキニなんて着るんですかぁっ!」
「いやだってアイツは牛が苦手なんだろ? だからっつって畜産の所からべこ
「まっ末期思考ですよォっ! 終末的な考え方は良くありませんっ!」
「ルーニャレットさん、よだれよだれ」
「ぁゎ………ごめんなさ───違いますっ! 騙されませんっ! 誤魔化されませんよっ! ルーニャはちゃんと学ぶ子ですよっ! 絶対博士の私利私欲ですっ!」
紙一重の馬鹿に流されそうになってしまったルーニャレットが毅然として言い放つと、すぐ横に居たニェーレが極々小さな声で「……めげませんねぇ」と呟く。その声を聞き逃したルーニャレットが「え?」と向き直れば、タイミングを合わせたように変態おじさんことアダン・グラッド六十七歳が「おいおい待て待て、早合点すんな」と
「ルーニャレット女史はオレに対する見識を改めるべきだ。オレは何も好き好んで牛柄ビキニ着ろとか言ってる訳じゃねえ。オレがそんな変態な訳無えだろうが」
真面目な声色で嘆息するアダン。お手上げだぜと言わんばかりの仕草見せ付けられたルーニャレットが「……え?」と驚くと、アダンは「牛柄マイクロビキニにはちゃんと意味がある」と断言した。その姿に紙一重の天才を見たルーニャレットが「……それは?」と問い掛ける。
「そもそもオレはビキニ系の水着は好きじゃねえ。かといってスク水系も好きじゃねえ。公序良俗に配慮し過ぎた学び舎でもねえのにヘソが見えねえとかやる気あんのかって感じだ」
「…………………」
直後、ルーニャレット・ルーナロッカは激しく後悔した。自分の見識の甘さに、惚れ込んだ変態おじさんに対しての自分のチョロさに、酷い嫌悪感と恥ずかしさを感じた。
「オレが好きなのはチューブトップやパレオ系だが、どっちも牛柄は似合わねえ。あの辺は無地……柄無しでこそやたら美しく見えるもんだからな。………だからこそ大して好みでも無いビキニを選んでいる訳だ。本当に私利私欲で言ってたらその服ひん剥いてフリルパレオ着せてるっつーの。因みにパレオの丈は短めが好き」
何食わぬ顔でそんな事を言うアダンに、ルーニャレットは小さな頭痛を覚えてしまった。
………アダン・グラッドは馬鹿である。決して天才では無く、自身の様々な行動にしっかりと理由を付けられる類いの、誇り高き馬鹿である。
アダンはただ突き詰めただけなのだ。猫の一念、馬鹿のド根性………彼は馬鹿を貫き通した結果、努力だけでは辿り着けない高みにまで登り詰めた。そうして「サンスベロニアの変人代表」「枯れて欲しいのに枯れない雄しべ」だなんて呼ばれるようになったアダンだが、本人至極真面目に物を言っているつもりである。
むしろ彼はギャグやネタで何かを語る事は殆ど無く、基本的にアダンは思った事と思っている事しか口にしない。
冗談めかした言葉でも本心からのものであり、それは即ち「アダンが言わない事はつまり思ってもいない事」である。だからこそルーニャレット・ルーナロッカは、自身の人生が潰れるに至った顔の左半分に対して何も言わないアダンの事が好きになっているのだ。
「……因みにマイクロビキニである理由は? 博士の事ですから、通常のビキニでは無くわざわざマイクロを指したのには何か理由があるのでしょう?」
僅かに呆れが窺える無表情のままでニェーレが問い掛けると、アダンは堂々と「あたぼうよ」と答える。
「何でマイクロって………そりゃあお前マイクロの方がエロいからだろ。ハミ乳輪もハミマ◯もシコいからな。………どっちにしろルーニャレット女史は恥ずかしい思いに股ぐらしっとり濡らしちゃう訳だろ? どうせ股間ぬるぬるになるんだったらオレが喜んでる方がその後楽しめて良いだろ」
「………………………」
「オレの幸せはルーニャレット女史にとっても幸せなはずだ。結局下っ腹きゅんきゅんさせてその後ハメ撮りっつーならオレの股間の
シワの多い顔。無表情の時は高圧的にも思える威圧感を放っているその顔は笑うととても無邪気で子供のように見える。
無邪気な子供。その子供はまさしく邪気が無く、自分がとんでもない事を言っている自覚なんて何処にも無いのだろう。
「…………………ど、ど、ど、どうしても、水、水着、着る、着なくちゃ、いけないなら…………」
そんなアダンに振り回されてしまう度、自分は一体どれ程までに都合の良い女なのだろうかと思い始める。心も体も彼の色に染められて、服を着ていれば好き勝手な事を言われ、服を脱げば好き勝手な事をされ────それでも尚、彼が笑うと自分も嬉しくなってしまうから、自分は都合の良い女を辞められない。
「じ、条件付きで、き、き、き、着て、あげます………え、え、えっちな、水、着……」
歯の浮くような台詞に対して同調を示したルーニャレットに「おおマジかよ流石はルーニャレット女史だぜっ! 話せば分かるぅヒョッホォイッ!」と小躍りし始めるアダン。自身のすぐ隣から聞こえる小さく鼻を鳴らす音に目線を動かせば、ニェーレが呆れながらも小さく微笑んでいた。
語らずとも言葉が伝わる。馬鹿な奴だと笑っているのだろう。
「に、に、ニェーレさんもっ、い、いい、一緒に着てください。それ、それなら、え、えっちな水着ぐらい、幾らでもき、着てあげます………」
ニェーレの言葉に「「え?」」と二人が声を重ねる。呆れていたはずのニェーレは完全に不意を突かれて驚いており、アダンに至ってはそもそもルーニャレットがどうしてニェーレにも水着を着せようとしているのか分かっていないといった具合だろう。
………アダン・グラッドと出逢って学んだ事は『自分一人で良い子ちゃんを気取っていても、何一つとして面白くない』という事。
自分一人で恥を晒して堪るものか。一人で笑われたとしても自分は笑えない。けれど誰かと一緒なら、笑われている事をその人と共に笑える事もある。
誰かと笑い合えるなら、例えそれが嘲笑から成るものだとしても構わない。どっちにしたって自分が笑われるのは揺るがず、一人で笑われる事を面白いと思えるタイプでも無い。
「た、旅は道、道連れ、です。ニェーレさんがわた、私に、な、な、情けを掛けてくださるなら……か、か、か、考えます」
であれば誰かの足を引いている方がよっぽど良い。悪事に加担させる訳でも無ければドブに沈める訳でも無い。一人で馬鹿にされるぐらいなら二人で馬鹿騒ぎしている方がよっぽど幸せだ。
そんなルーニャレットの意図をすぐに汲み取ったニェーレは「……ふむ」と鼻を鳴らして思案するが、すぐに「まあ、私は構いませんが」とそれを承諾した。
「……は? 良いのかよ。お前の事だから、オレぁてっきり断るもんだと思ってたが」
「何か問題がある訳ではありませんし、別に構わないでしょう。その後陛下に可愛がって頂きに行けると考えれば、私としてもなかなかどうして美味しい話ですし」
「い、い、い、い、良いんですか? ほ、本当に、そ、その、ご、ご迷惑だったら、やめ、や、やめますが……」
「構いませんよ。避妊具の用意をしておく必要はありますが、そんなもの大した手間ではありません。………思えば水着なんて何年も着ていませんからね、たまにはちょっとしたおめかし気分に浸るのも悪く無いでしょう」
「マジかよ。自分の歳考えて無い感じだなお前」
「貴方に言われたくありません。貴方の方がよっぽど良い歳でしょうに、さっさと枯れ落ちて腐りなさい。それが世界の為です」
「オレがインポになるのが世界平和に繋がるってか? 凄えな、オレの股間は世界を敵に回していたのか。文字通り世界を股に掛けるオレ………………。ぶっかけプレイで世界を破滅に導くオレ………良いじゃねえか、悪くねえ」
「馬鹿でしょう貴方。…………馬鹿でしたね、貴方」
ニェーレに向けて礼を言おうとしていたルーニャレットが二人の言葉に思わず言葉を飲み込んだ。股間云々では無く、一瞬だけ出た年齢の話だ。
「………そういえば、わた、わたし、ニェーレさんのお歳、し、知らなかったです。お、お、お幾つなんですか?」
と、ルーニャレットは口を開いてから少しだけ後悔した。自分と二人きりだったら良かったかもしれないが、ここにはアダンも居る。男性の耳に触れる状況で年齢を答えたがる女性はそう多くない。
しかしニェーレはアダンなんて何も気にしていないかのように「私の年齢ですか?」と小首を傾げる。
「私は三十八ですよ。言いませんでしたっけ」
「────さっ、さんじゅうはちっ!? ………………さんじゅうはちぃっ!?」
思わず叫んだルーニャレットに「何ですかその反応は。何で二回も言ったんですか」とニェーレが眉根を寄せる。歳を聞かれる事自体はどうでも良いが、その後の反応が気に食わなかったのだろう。しかしそれを見たアダンが「普通はそういう反応になる。むしろ二回で済んだだけ僥倖だ」と鼻を鳴らす。
「………………………………………………さんじゅうはち」
「ほら見ろ三回目が出た。リールが揃ってビンゴって所か? 目押しが要らねえ確定演出ってのは良いもんだな、ジジイのお目々にゃあ優しいぜ」
「………四回目が出たら台パンですかね。あんまり言うと怒りますよ。具体的にはもうルーニャレットさんがよだれ垂らしても拭いてあげません。よどまみれにおなりなさい」
「……い、いや、だってぇ……………。……………えぇ?」
「何なんですかもう。私が三十八だったら何か不都合でもあるんですか。見た目通りに二十代とか鯖読んでいれば良かったんですか」
「あ、い、い、い、いえ………、そ、その、外、外見通りなら八か九………なっ、何でもないですっ、ごめっ、ごめなさっ、いたっ、痛いですっ、うっ、ゆるっ、ゆるしてっ」
パッと見だと一桁台の外観をしてると口を滑らせてしまったルーニャレットに向け、体を伸ばしたニェーレが無言でボディブローを繰り返す。どぅむどぅむと良い音がする度に「ウゲェっ、ウグゥっ」と涙目で呻くルーニャレットだったが、女性に年齢を聞くよりよっぽど酷い失礼をしてしまった自覚があるのか、必死に耐え続けるだけで逃げ出すような事はしなかった。
対岸の火事を眺めるかのようにアダンが「まあそうなるわな」だなんて呟けば、ニェーレはボディブローを止めて、仕舞い場所を失った矛先をアダンに向ける。
「………何がどうそうなるんですかね。是非ともご教授頂きたい所存ですが」
「いやお前の見てくれじゃあ三十八も二十も無理あるし、パッと見で年齢を想像するなら十代前って言われても仕方無えよなっていうダブルミーニン───グゥッ! ウグゥッ! 超痛いッ! 超痛いッ! さっきとッ! 違うゥッ! ガチで痛いッ!」
椅子から降りたニェーレが腰を使った見事なボディブローを繰り返す。ぼぐっぼぐっと鈍く重い音が響く度にアダンが冷や汗を垂らして苦悶の様相に顔を歪める。
…………小さな外見に釣られて忘れがちだが、ニェーレ・シュテルン・イェーガーという女はサンスベロニア帝国の空挺軍を出ている。その空挺軍も空挺とは言うが、戦闘機を駆る航空軍隊とは違い、その実態は海兵隊や陸軍のそれと殆ど同じである。戦車に乗るか、戦艦に乗るか、飛空艇に乗るかの違いしか無く、
そこに四年間勤め続け、また百件をゆうに超える強姦未遂を全て乗り切ったのがニェーレという女なのだ。
「凄い痛いッ! 凄い痛いッ! 泣くッ! 泣いちゃうッ! おじさんッ! 泣いちゃうッ! サンバディッ! サンバディッ! ヘゥプミッ!」
特徴的な
それでもニェーレが現総帥、ペルチェ・シェパードに処女を捧げるに至ったのであれば、つまりはそういう事である。
「………………………」
ジンジンと痛む脇腹を撫で
「…………ああ、いけません。忘れていました」
鍛え難い腹筋では無く、身体構造上どうしても筋肉の付き難い横っ腹と肋骨の間を執拗に狙い続けていたニェーレが「何の為にここに来てたのか忘れる所でした」とその手を止めると、一生続くのではないかと思えるボディブローの乱打にガチ泣き寸前だったアダンが「泣いちゃう……男泣きしちゃう………ひっひぃ〜」とルーニャレットに擦り寄って行く。
「加減、加減しねえんだもんあいつ……バク速でベルト掴んで離さねえし………やり返したら小娘みてえな外見もあって後々ボロクソ叩かれるし………女尊男卑クソ食らえ…………」
高身長でガタイの良いアダンに抱き着かれたルーニャレットは、しかしもはや慣れたもので。大柄な異性に抱き着かれても戸惑うような事も無く「よ、よしよし……もう、もう大丈夫ですよ」とその頭を撫で付ける。
「………いっひぃぃん赤ちゃんプレイも悪くねぇぇぇ何これ癖になりそぉぉぉ………」
「よしよし………。………い、良い子でちゅね………大丈夫でちゅよぉ……」
「ばぶぅぅぅぅ」
「……………………何をしてるんですか貴方たちは」
シバかれ過ぎて幼児退行し始めたアダンをあやすルーニャレットにニェーレが嘆息する。腰を曲げてルーニャレットに抱き着くアダンの尻をぺしぺしと叩きながら「貴方に用があったんですよ。ほら」と急かすが、アダンはひんひんと泣いたままで振り返ろうとしない。
それを撫でるルーニャレットが「な、な、何かごよ、ご用だったんですか?」と問い掛ければ、ニェーレは尻を叩く手を止めて「ええ」と返事をする。
「博士に以前お渡しした書類ですが、あれの進捗を伺いに来たんですよ。元々急いで仕上げて貰いたいものでしたが、魔力導炉の手前まで侵入を許してしまいましたからね」
「し、仕上げるって事は、かい、開発書みたいなものだったんですか? ………は、は、博士、読むって言ってましたけど、ど、ど、ど、どうだろう……」
ゴワゴワとした白髪だらけの髪を撫でながら懐疑的な目をするルーニャレットに「おらジジイ! 進捗どうなってんだ! ちったぁ進んでんだろうな!?」と声を荒げたニェーレがアダンの尻を叩くと、タイミングを合わせたかのようにアダンがブッと屁を鳴らす。
「今のが返事」
「「……………………」」
これが飲み会や騒ぎの席であれば小粋なジョークで済んだかもしれない。しかし今は仕事に関わるタイミングであり、ニェーレだけでなくルーニャレットすらもがアダンの『おちゃめ』に言葉を失い思わず真顔になってしまった。
しかしそれも一瞬の事。「───ふんっ!」と唸ったニェーレがアダンの股間をガッシと握ればアダンが「ポゥッ!?」と奇声を上げ………。
「────ふぬぅぅぅぅぅぅううううっ!」
「ばぉぉぉぉぉぉおおおおッ!? ───あちょ玉っ! 玉グリってる玉グリってるッ! 玉はやめろ玉はお腹ぐるぐるしちゃうからお腹───あーぐるぐるぐるぐるぐるッ!」
ビクンビクンと痙攣しながら悶えるアダンの言葉が届いたのか、ニェーレが「チッ」と舌打ちしながらその手を離して股間を殴る。ボグっという音と共に「あひっ」とアダンが渋い声で喘ぐが、しかしルーニャレットは「じ、自業自得ですね……」とそれを止めもしなかった。「ぐぅぅ……下っ腹が……腹がぐるぐるする……」と涙目になったアダンが姿勢を戻してニェーレを睨み付ければ、ルーニャレットの服の裾で手を拭いている所だったニェーレが我関せずといった顔で「………で?」と素知らぬ顔を向ける。
「進捗はどうなってるんですか。完成とまでは求めませんが、他に急を要する案件が無い中でまともに進んでいないとか言ったらお腹ぐるぐるじゃ済みませんよ」
そんなニェーレの言葉に恨みがましい表情をしながら「……ああクッソ」と悪態を付いたアダンがチンポジならぬ玉ポジを直し「ほぼ完成してるよ……ちくしょうが……」と返せば、ニェーレは「へえ」と驚いた顔になる。
「どこまで完成しますか? 割合と未完部分の詳細を教えてください、必要なものがあれば今日の内に届けます」
「九割九分九厘だ。パーセンテージなら九九パーって所か、後は名前を付けるだけで稼動可能だ。……必要なもんがあるとすればインスピレーションだな。良い名前が浮かばねえ」
「名前? ………いつもみたいに花の名前にすれば良いではありませんか」
………サンスベロニア帝国の『奇人』『変人』として名を馳せるアダン・グラッドは御歳六十七歳になる筋骨隆々な機械好きおじさんだが、『自らの作品に花の名前を付ける』という開発者ならではの強い拘りがある。
この手の拘りというものは決してアダンに限った話では無く、例を挙げれば『ロボには自爆スイッチを付けたがる』があるだろう。それと同じようにアダンも『必ず花の名前を付けたがる』という拘りがあるのだが………、
「どれもしっくり来ねえんだ。今の所は
「後は名前だけって……それはもう完成しているって事でしょう? だったら早く動かして待機させてください」
「ざけんな。後付けだろうが先付けだろうが、物体は名前があって初めて意味を持つんだ。その辺に生えてる雑草だって一つ一つ名前があるし、棚の上のゴミ共だって『
「……………はぁ」
憮然とした声色でそう言い放つアダンにニェーレが大きな溜息を吐く。
………アダンのこういった『駄々』は今回に限った話では無い。歳のせいもあるのか、こうなったアダンは意地でも名前が決まるまで動こうとしない事をニェーレは良く知っていた。
かといってこちらが「◯◯はどうですか」といったような提案をしても、何かしらの理由を付けてそれを拒否するのだから本当に嫌になってしまう。
アダンもニェーレもサンスベロニア帝国においては最上位に位置する有権者だからまだ良いものの、これがサンスベロニア帝国から依頼を受ける下請け企業だったらと考えると冷や汗が止まらない。クライアントに頭を下げ続ける下働きであれば、幾ら図太い性格を自覚しているニェーレといえど帽子の下に円形脱毛の二つぐらいは出来てしまうだろう。
「…………ルーニャレットさんも名付けに協力してあげてください。貴女の言葉であれば博士も多少は聞く耳を持つでしょうし」
「………な、な、な、名前、ですか? なん、何の名前なんです?」
「侵入者を撃退する為の兵装の、ですよ」
戸惑った声色のルーニャレットの問い掛けに嘆息混じりでニェーレが答えると、ルーニャレットは「撃退用……?」と更に首を傾げた。
サンスベロニア帝国の地下施設。地下三階層まで掘り下げられたその区画はどれもサンスベロニアの存続に直結しかねない最重要施設であり、通常は国民にすらその存在が秘匿されている。地下施設の存在を知っているのは帝国内でも本当に一握りの人物と、異世界からの来訪者のみ。
通常であれば勇者や愚者にも秘匿すべきだろうが『地下三階に渡って広大な施設が建設されてて、』だなんて荒唐無稽な話を信じるものは決して多くなく、また仮に信じた所で地下施設への入り口は厳重に隠されており真偽を確かめる術はほぼ無いに等しい。そこに更に「異世界からやって来た野郎が言っている事」という前提まで付けば、もう誰もその言葉を信じやしないのだ。
そんな地下施設には兵器開発区画、農産区画、魔力導炉の三つが存在しており、前述の通りどれか一つでも機能停止に陥ればサンスベロニア帝国全体に大きな影響を及ぼすものばかり。
故に過剰過ぎるレベルの警備体制が敷かれているのだが、それらは共通して『入られないようにする為の警備』ばかりである事をニェーレ・シュテルン・イェーガーは指摘した。
とはいえ元より懸念はしていたし、それに関する警備兵装の開発書類も用意はされていた。しかし独裁国家であるサンスベロニア帝国の内政事情的には優先順位が低く、よくある「前向きに検討します」程度で進行は滞っている状態だったのだ。
そんな中、帝国に呼び出された勇者たちとの連携が取れるようになってきた事で後回しにしていた他の様々に対処出来る余裕が生まれた。その中に『侵入者迎撃用設備の開発、設置』に関する案件も含まれていたのだが、まるでタイミングを見合わせたかのように勇者の一枠であるジェヴォーダンが地下施設への無断侵入を果たし、魔力導炉のほんの一歩手前であるアダン研修所までの侵入を許してしまい、遂に「由々しき事態」と腰を上げるに至ったという話である。
「こないだの書類はそれだ」
「こ、この間の……書類………」
アダンの言葉にルーニャレットが思案すると、ぶっきらぼうな声色で「覚えてねえか? ルーニャレット女史が処女捨てた日の書類だよ」とアダンが答える。
「しょ────ひぃぃぃぃ……」
怯えるように顔を隠して赤くなるルーニャレットに「あん時の時点では優先度が低かったがな」とアダンが答えれば、ルーニャレットは両手の指の隙間から「な、な、なるほど……」とその言葉の意図を汲み取った。
アダンの言葉通り、あの日の時点では「早めの開発よろしく」程度ではあったが、受け渡しを行った直後の事例によって優先度は「最優先、マッハちょっぱやでよろしく」まで跳ね上がった。
そもこの世界には
「まさか
あわや滅亡の危機に瀕していたとは思えない程に軽い声色でそう語るニェーレに「軽率過ぎてゾッとしねえな」とアダンが返すと、その言葉の真意を察したニェーレが少しだけ眉間にシワを寄せて「不敬ですよアダン・グラッド」とそれを諌める。
けれどアダンは素知らぬ顔をしたまま何も返さない。
「………陛下のお考えに異を唱える事は許されませんし許しません。我々がすべきは陛下のお考えを成り立たせる事です」
………異世界からの来訪者を呼び出すという行為。特定の誰かを呼び出す訳では無く『大成して死んだもの』という余りにも不特定多数過ぎるものを呼び出すというその行為は、正直ニェーレの中でも選択肢に入れるべきでは無い愚行に含まれる。特定の偉人や、もっと細かい条件を満たしたもののみを呼び出すのであればまだしも、『大成して死んだもの』なんて雑なカテゴライズでは善悪を分ける事すら出来やしない。凡人が呼び出されるなら御の字、ともすれば大罪を犯して尚逃げ
「…………ん?」
───と、そこでアダンが眉根を寄せる。
呻くように鼻を鳴らしたアダンの目線が研究室の扉に向くのと同時、その扉がシュィィィムと滑るような音を鳴らしながら開いていく。
その音を聞いたニェーレとルーニャレットがアダンの目線を追えば────、
「……………やあ。お話し中を悪いんだけどさ、博士は居るかい?」
右足を引き摺るようなどこかぎこちない足取りをしながら、病的に痩せた顔をした男───ソラ・タマムシュッドが扉を超えて研究室へと入って来る姿が三人の視界に映った。
右の足首に三角錐のような形で三本の木片を縛り付けたソラは、青白く変色した足首をぷらぷらと揺らしながら見せ付けると「足取れちゃった」と無表情で語る。
「どうにでもなると思ったんだけど、意外と不便なんだ。これ治せたりしない? 義足とかでも良いんだけど」
僅かながら滴る血液など意にも介さずそう語るソラに「……なるほど」とニェーレが得心する。
「獣の道は失敗したんですね」
「うん。……ごめんね、上手く出来なかった」
「とすると肉の道が当たりという事になりそうですね。………死傷者は?」
「目立ってるのは俺の足が取れちゃったぐらいだよ。他は……キャスが少し荒れてるぐらいかな」
どこか物悲しそうな声色で答えるソラに「そうですか……」とニェーレが答えると、アダンが席を立ちながら「
「………何に妨害されました? 獣の民ですか? それとも愚者ですか? 或いは───」
───ジェヴォーダンか。
そう呟こうとしたニェーレに、
「ウィリーが言ってたメンツっぽいかな。猫の男も居たし、体の大きなメイドさんも森の近くで寝てたよ」
「寝てた……? どういう事ですか?」
「森の入り口に馬車が停まっててさ、その中で寝てた。メイドさんだし普段忙しいだろうから、疲れてたのかな……近付いても起きないぐらい爆睡してたんだけど、クレッドとキャスが不意打ちするのは嫌だって言うから何もしないで通り過ぎて中に向かって、その途中で例の連中とカチ合った」
「どう負けたんですか? ………ソラさんは勇者の中でも指折りの実力者なはずです。そう簡単に貴方が負けるとは思えないのですが」
懐疑的な声色で問い掛けるニェーレの言葉に、座高を測る為の器具に座ったソラが「ああ、それなんだけどさ」と首を向けて濁った瞳を向け「二つ、聞きたい事が出来たんだよ」と呟いた。
「ヒカル……えっと。………胸の大きな金髪が愚者側の主力級って予測してたけどさ、彼女が俺と戦ってる途中で
「…………放っている草の情報では、今までにその女性が
アダンやルーニャレットとは違い椅子に座ったままのニェーレにソラは「ああ違うよ。ごめんね、そうじゃなくて」と頭を振りながら割って入る。
「ヒカルが
「でしたら何でしょう」
「俺には必要無いと思って
「………仕組み?
「うん。…………ヒカルは最初怒ってたんだ。不機嫌そうだった。けど途中で無気力みたいになって、って思ったら泣き出したんだ。理由が知りたかったから聞いたんだけど教えてくれなくて、ならもう要らないかなって思って殺そうとしたら
どことなく切なさを感じる声色で語るソラに「そういう事ですか」とニェーレが呟くと、ソラは「それと、なんだけど」と更に言葉を続けていく。
「恋について教えてくれないかな」
その言葉にニェーレは思わず「……はい?」と聞き直す。義足用の器具を準備していたアダンとルーニャレットもその手を止めてソラへと向き直り、呆然としたような顔で目を丸くしていた。
眉間に生まれたシワを揉みほぐしながら「……えーと」と呟いたニェーレが「……何についてですって?」と聞き直せば、ソラは何も気にしていない様子で「恋についてだよ」と答えた。
「あれ以来ヒカルの事が頭から離れないんだ。彼女の事をもっと知りたいんだ。………それをクレッドとキャスに言ったら、二人共「それは恋だ」って言うんだけど、そこから何も教えてくれないからさ」
ソラの言葉にニェーレが「………はぁぁぁ」と大きな溜息を吐けば、対岸の火事を煽るかのようにアダンが「ブフッ」と吹き出す。
その姿に鋭い目線を送ってやれば、アダンはスヒースヒーと音の出ていない口笛を吹きながらそそくさと義足の準備に戻り、ニェーレは思わず舌打ちをする。
「…………要するに、」
あの二人から面倒事を押し付けられたのだと、ニェーレは理解した。
───────
「………ソラに任せちゃって良かったのかなぁ」
サンスベロニア帝国の城下町。八割人間、二割人外といった面々が忙しなく歩き回る中で、クレッド・ハロンがチラチラと城に目線を向けながら呟いた。
「別に問題ありませんわよ。高々
呆れた声色で叱責するかのように答えるキャサリン・スムーズ・ペッパーランチが腹を撫でながら「あぁお腹痛ぇ……」と締め括るが、クレッドは変わらず「大丈夫、なのかな……」と心配そうな声色のまま。
しかしキャサリンはそれ以上言及するような事は無かった。勇者として呼び出されて初めて顔を合わせた二人は決して長くは無い付き合いだが、だからといって短い付き合いでも無い。
クレッドは根が心配性であり、こうなった時のクレッドに何を言っても暖簾に腕押し。むしろ、いつまでも不安な気持ちを拭えないでモヤモヤとし続けるクレッドに、段々キャサリンが苛立ってきてしまう程の心配性である。
「三人集まって同じような事を繰り返すぐらいなら、一人に全部押し付けて二人は気晴らしでもしている方がマシでしょう? ……ほら、さっさと行きますわよこのスットコドッコイ」
キャサリンのそんな言葉に不承不承ながらも頷くクレッド。
……二人は決して軽い付き合いでは無い。長くは無く、短くも無い微妙な期間しか顔を合わせていないが、それでも文字通り共に死線を乗り越えた仲である。キャサリンがクレッドの事を良く知っているのと同じように、クレッドもキャサリンの事を良く知っている…………無意味に尊大で口が悪いように思えて、実は心根の優しい女の子である事を、クレッドもまた良く知っているのだ。
だからこそクレッドはもう悩むような事はせず「……で?」と言葉を投げる。
「これから何か用事でもあるのか? 買い物とかの荷物持ちか?」
悩んでいた所で何が解決する訳でも無し。こういう時は素直にキャサリンに従っている方が丸く収まる事を、クレッド・ハロンも学んで来ていたのだ。
「………いつもなら、この辺りに居るんですけれど───」
キャサリンの背中を追いつつ辺りを見渡せば、そこは小さな公園。直前に買い物とかの荷物持ちだなんて言っていた自分に「視野狭窄かよ」と小さく自嘲しながらキャサリンの背中を見ていれば、やがてキャサリンは「………あっ!」と驚いたような声を上げて駆け出した。
向かった先には子供の集まり。………子供攫いの影響なのか男女比率に偏りが出ているものの、公園の中に植えられた草木を囲うようにして子供たちは集まって遊んでいた。
「入ーれーてーっ! でーすわっ!」
そこに満面の笑顔で突撃していく金髪縦ロールの女貴族。そも「まず遊んでいるのか」という疑問すら抱かずに「遊びに混ぜてくれ」と叫びながら走っていく辺り、もう遊ぶ気満々といった心理が透けて見える。
「………………やれやれ」
そんな姿にクレッドは溜息を漏らしながら、しかしゆっくりとした歩幅でそれを追い掛けて行く。
キャサリン・スムーズ・ペッパーランチは筋金入りの子供好きであり、同時に大の遊び好きでもある。賭け事だの男遊びだのでは無く、子供たちと肩を並べてする全ての遊びをこよなく愛する金髪縦ロールなのだ。
曰く、生前は立場の良い貴族であったが為に娯楽に意識を向ける機会なんてほぼ皆無だったようで、死後サンスベロニア帝国に勇者として呼び出されてからは貴族としての激務から開放された反動なのか、こうして頻繁に子供たちと関わり合いに行きたがる。買い物の途中であっても全てクレッドやソラに丸投げして「
そんなキャサリンだが遊ぶ内容自体は何も拘りが無いようで、駆け回るような遊びも好きだしおままごとだって役職に成り切って心の底から楽しもうとする。綺麗に磨かれ整えられた爪の隙間に泥が入る事など何も厭わず、砂場でトンネルを作り「はいタッチーっ! 未開拓だったアーナルトンネルが開通ですわーっ!」と無邪気に笑うのだから、クレッドはおろか共感能力が致命的に欠けるソラすらもが溜息混じりでそれを許してしまう。
クレッドがキャサリンの事を気遣うようになったのはそれが三回程繰り返された辺りからだっただろうか。城内の手洗い場でくたびれた顔をしながら「はしゃぎ過ぎましたわ……あーめんどくせ」と無心で手を洗い爪の隙間の砂粒を取ろうとしているキャサリンを見てから、クレッドはキャサリンに意識を向けるようになったのかもしれない。
或いは、何かプライドがあるのかスカート以外頑なに履こうとしないキャサリンが子供たちに混ざって木登りをする中、子供たち一人が股間を抑えてもじもじとしているのを見てしまった辺りから、だろうか。キャサリンを一人で放っておいてはパンチラを見てしまった少年たちの性癖がぶち壊される可能性を示唆してから、自ら率先してキャサリンに連れ添うようになったのかもしれない。
いや、もしかしたら弱点だらけの戦闘スタイルの割にセンス自体はずば抜けている為『だるまさんが転んだ』で無双してしまうのを防ぐ為なのかもしれない。足音と呼吸音を読み取り完全勝利を果たすキャサリンに子供たちが拗ねてしまわないよう見張る為だったかもしれない。
………だが、と目を閉じる。
こういう事って、別に思い出す必要なんて無いのでは、とふと思う。
人は何にでも理由を付けたがるが、そういう感情に理由付けなんて野暮なのでは無いか、と。
…………ソラの心の変化に「それは恋じゃないかな」だなんて言っておいて、自分が恋に悩むとは思いもよらなかった。何てザマだと嘲笑してしまいたくなる反面、まさかこの歳になって再び恋の花を咲かせる事になるとはと驚嘆してしまう。
「何をしますの? 今日は何して遊びますの……………秘密基地作りっ!? ───来たァッ! 来ましタワーァッ! 最高ですわよ堪んねえッ! 私も入れて欲しいですわッ! 私も一緒に秘密基地作りたいですわッ! ………良いんですのッ!? ありがとーぅッ! ですわァッ!」
子供たちの中に混ざって子供たちよりも騒ぐ金髪縦ロールの背中を見ながら、クレッドがゆっくりとそれに近付き「……キャス」と声を掛ければ、キャサリンは「何ですの? 私今日はもう遊び倒すと決めましたからね」と不機嫌そうに振り返る。
恐らく「遊んでる暇なんて無いだろ」とでも言われると思っているのだろう。その姿は、まさしくクリスマスの夜にみんなでプレゼント交換を済ませた少年のよう。今すぐにでもそのプレゼントで遊びたいのに、母から「今日はもう遅いから寝なさい」と言われてしまった少年のよう。すぐに遊びたいのに、目の前に最高の娯楽が転がっているのに、それに触れる事を我慢せねばならない。素直に寝付ける訳も無いのに、見て見ぬフリをしながら布団に潜らなければならない子供と同じ顔をしていた。
「キャス、俺はみんなと一緒に待ってるから着替えてきなよ。………またアーマー汚すと手入れが大変だよ? 遊ぶ時用の服に着替えてきな」
不貞腐れた少年のようなキャサリンに「好きなだけ遊んでも良い」という事実を語れば、キャサリンは「──確かにィっ!」と切れ長の瞳をまんまるにしながら「着替えて参りますわッ! 私抜きで先遊んでちゃ駄目ですからねェ───ッ!」と叫び、ギャオンと効果音が付きそうな勢いで城へ向かって走り出す。
「…………やれやれ」
たった一秒もする頃には既に影すら無く姿を消したキャサリンに小さな溜息を送る。幾ばくかの土煙を残して消え去った金髪縦ロールを尻目に「さて」と向き直れば、集まっていた子供たち中の一人が「クレッド兄ちゃんも秘密基地作るの?」と小首を傾げる。
「ああ、俺も一緒に混ぜてくれ。………駄目か?」
キャサリンが子供たちと遊ぶ事に目が無いのも、そんなキャサリンに「やれやれ」と言い続けながら連れ添う内に子供たちから名前を覚えられた事も、何度聞いたか分からない「いいよ! クレッド兄ちゃん力持ちだから役に立ちそう!」だなんて言われる事も、それに対して「おいおい……随分上から目線だな。こき使う気満々じゃないか」なんて皮肉を言う事も。
生前の自分の役目は世界を救う事。死後の自分の役目は戦争を勝利に導き、束の間の平和を民に与える事。
だからといって四六時常にそればかりでいなければならない、という訳では無いはずだ。戦うべき時にしっかり戦っているのであれば、笑う時に心から笑う事も肝要だろうと思う。
「……じゃあみんなでキャスを待ってる間に、どこに秘密基地を作るか考えようか」
「────木の上ェェェッ! でっすわァァァアァッ!」
子供たちを見回したクレッドの提案に背後から聞き慣れた大声で答えが返ってくる。余りにも早いその回答に「……え」と振り返れば───、
「木の上ッ! 秘密基地といえば木の上か洞窟ですわっ! でも洞窟はちょっと危ないからツリーハウスと洒落込みたいですわっ!」
「…………………あぁ、そう」
誰がどこからどう見ても「芋い」と漏らしてしまうだろう「芋い」青ジャージに身を包んだキャサリンがぜひーぜひーと息を乱しながら立っていた。
堂々と木の上に何か建てられていたらそれはもう『秘密』では無いのでは? という素朴な疑問を口にしそうになったクレッドだったが、集まっている子供たちの中に居た女の子が「……わたしたかいとここわい」と俯きながら小さく呟いたのを見て「おっと……」とその疑問を飲み込んだ。
するとキャサリンは悲しげな表情になって「あらあら……」と女の子の側に寄っていく。
「でしたら木の上は止めておきましょうか。すーるーとー……イイ感じの木陰を探しましょう! 草場の影でしっとりねっぽり秘密基地作りと洒落込みましょう! それなら怖くありませんわよ!」
「…………ぽり? ぽりって何? なあキャス、ねっぽりのぽりって何?」
「だったらね! あっちにいいところがあるよ!」
「おっ! 良いですわねぇっ! でしたらまずはそこが第一候補ですわね! 他にもイイ感じの場所があるかもしれませんからね、みんなで探し回りましょう!」
「ねえキャス、ぽりって何? しっとりは分かるんだ、けど俺にはねっぽりのぽりが分かんない」
「探し回ってる間にイイ感じの木の棒とかも落ちてるかもしれませんからね、見付け次第拾っていきましょう!」
「………きのぼう? ねえキャスおねえちゃん、きのぼうひろってどうするの? 秘密基地につかうの?」
小首を傾げ続けるクレッドをガン無視したキャサリンが声高々に「そんなの当然、武器にするに決まってますわ!」と叫べば、子供たちは「ぶき!」と声を揃えて瞳をキラキラと輝かせる。
しかしそんな子供たちよりも遥かに目を輝かせたキャサリンが「秘密基地が出来たら防衛大臣が要りますもの! 剣を使ってみんなの秘密基地を守るんですわ!」と秘密基地作りの醍醐味を語れば、ワクワクを抑え切れなくなった子供たちは色めくように騒ぎ出す。
「ねえキャス、ぽりって───」
「うるせえクソクレッドッ! ねっぽりはねっぽりですわッ! ───フンッ!」
「───うグゥッ!」
いつまでも尾を引き続けたクレッドに渾身のアッパーブローを入れたキャサリンが「行きますわよ皆の衆っ!」と先陣を切ると、子供たちは「おーっ!」と拳を突き上げそれに追従していく。
下手なお嬢様ですらしないだろうド派手な金髪縦ロールの割に、びっくりする程似合っている芋い青ジャージの背中。子供たちを連れながらずんずんと進んでいくその背中を「うぅ……痺れる……なんだこれ……」と涙目になったクレッドがよろよろと追い掛ける。
……けど、悪くないのかもしれない。痺れるレバーを押さえながら、クレッド・ハロンはそんな事を思っていた。マゾヒズムの話では無い。的確なレバーブローは普通に辛い。
「………はぁ。………やれやれ」
悪くないのは、もう幾度目かも分からない………そんな言葉を呟くこの日々が、である。
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