4-8話【どうしてと問う小鳥】
「ふひっ、ふ……っ、ひいっへぁっ……。………死ぬっ、喉っ、違うっ! じゃないっ! 肺っ、肺が死ぬっ! はいっ、はい肺が死にますっ! ゔぇっへっ! ゔぇほっ!」
身長三メートルを超えるトリカトリ・アラムがまさしく絶え絶えな息遣いでドズンと膝を付くと、ヴィクトリアン様式の丈長なロングスカートが地面に触れて汚れてしまう。けれど今のトリカトリにそんな些事を気にする余裕なんて何一つ無く、ゔぇひゔぇひと変な咳き込み方で天を仰ぐので精一杯である。
………トリカトリは普段の仕事から遅筋が鍛えられているが、反面で速筋は殆ど鍛えられていない。つい数分前、怒りを顕わにした魔王チェルシー・チェシャーから逃げる為にと全力疾走したは良いものの、速筋が鍛えられていない上、体格故の必要酸素量の多さも相まってしまったトリカトリは少し本気で走ったたけなのに、今にも死にそうな顔で満身創痍となってしまっていた。
「………………あァクッソ首痛ェ……。このクソボケが……アタシ掴んだまま頭空っぽで振り回しやがってクソカスがよォ…………」
三連続の『クソ』の末「
しかしジズは「だってじゃねェわハナクソ」と幾度めかも分からない『クソ』を繰り返す。
「掴んで握ってはまだ許せっけどそのままぶん回すのは流石に半ギレするっつゥの。その無意味にデケェ胸に挟むなりしろっつゥのよォ……お
「だってっ、だってトリカ必死だったんですもん……っ! 陛下怒ってるしジズ様頭も下げず啖呵切り続けるし……トリカどうすれば良いか分かんなくなっちゃって……うぅ……絶対おしっこ漏れる、絶対おしっこ漏れてる……」
今にも泣きそうな声色で必死に弁明したトリカトリが自身のスカートの中へと手を伸ばす。股間の辺りをもそもそと弄ったトリカトリがその手をスカートから抜き、おどおどしながら指先の匂いを嗅ぐ。
「……………やっぱり漏れてた……おしっこの匂いが致します……」
種族柄四本しか無い指先の匂いを嗅ぎ終えたトリカトリが「良い歳なのに、良い歳なのにトリカちょっとお漏らししちゃった……ひっひぃ〜ん」と泣き出せば「マジ良い歳こいて馬みてェな泣き方するわねェ」と他人事のようにジズが呟く。
そんなジズの言葉など耳にも入らず、ペタンと地面に座り込んで泣き出すトリカトリ。スカートだけで無くソックスすらも汚れる事を厭わず「陛下怒ってたぁ〜。超怖かったぁ〜んひぃ〜ん」と涙を流す。それを見たジズは慰めるでも宥めるでも無く、意外そうに少しだけ目を開いて「……あれェ?」と小首を傾げた。
「…………トリカって陛下との付き合い長くなかったっけェ? 陛下ァ別に怒ってないわよォ?」
「嘘ですぅ〜、あれどう見ても怒ってますぅ〜。空気震えてトリカも震えてぇあはぁ〜ん、あはんあはん」
天を仰ぎながら遂に「あっはぁ〜」と本気泣きを始めたトリカトリにジズが「いやいやァ」と首を振る。
「陛下ァマジで怒って無ェってばァ。あれァどうせアタシがどンだけ本気で言ってンのか試しただけでしょォ? マジでキレてたらもう死んでるってェのよォ」
………ルーナティア国現魔王チェルシー・チェシャーは
どんな事柄にも『才能』という単語が当てはまるのと同じく、チェルシー・チェシャーというサキュバス《淫魔》は
その個体差として平均値を上回っていたというだけであり、だからこそ力が全てを統べるルーナティア国において、血筋も家名も謀略の才能すら無い彼女が力一つで成り上がれたのだろう。
「いやでもぶっちゃけ死ぬ覚悟はしてたけどねェ。そンぐらいの心意気ってェよりは……うん。その場で殺し合いになっても別にまァいっかァ、ぐらいの気持ちだったわねェ。…………何でかしらァ」
首に手を当てて調子を確かめながら「つか陛下も丸くなったわねェ。………いや逆かしらァ?」と呟くジズに、トリカトリは少しだけ泣くのを止めて「もう何でも良いですよぉ〜」と眉尻を下げた。
「うぅ……実家帰りたぁい……。………実家帰って畑仕事しながら牛愛でたぁい………もうお城戻りたくなぁい………んひぃぃぃ……」
「帰りたきゃ帰れば良いんじゃねェ? トリカが抜けた分急場で四人ぐらい買い出し要員に割かれる事になっから陛下マジ切れするだろうけどねェ」
「ひっひぃ〜っ! そんなぁ〜っ!」
「辞めるなら丸一ヶ月前に申告すんのは当たり前でしょォ? ………タクトとかヒカルか居たニホンって国じゃァ、どんな企業にも病欠なり退職なりで急な人員不足が発生しても会社側が負担出来るようにしないといけないィ、みてェな義務だかがあるらしいけどさァ」
「………………そんな義務があるんですか……?」
「ルーナティアにァ無ェけどニホンだかっつゥ国にはあるらしいわよォ? ………なんつったかしらねェ。病気だの何だのでの当欠だとかァ、事故だのバックレだので欠員が発生しても企業側は即座に穴埋め出来るように人員的余裕を持っていなければいけないィ……だったかァ? 何かそんな感じの責任が会社にはあるんだァってタクトだかヒカルだかが言ってたわァ」
「超絶ホワイトじゃないですかぁ……トリカも異世界転生したいなぁ………ニホン行ってみたいなぁ、バイク乗れるかなぁ……」
「でも守ってる企業なんか万に一つも無いっつーけどねェ。比喩でも何でも無く国は死人が出るまでまともに取り締まらねェっつーしィ、そもそも国民や企業側がその義務だか責任だか何だかを知らねェっつーしィ。仮に知っててドヤっても入社時の契約書だかで責任取らせれるようサインさせるっつーしさァ」
「超絶ブラックじゃないですかぁ! …………トリカやっぱりニホン行きたくないです、行くとしてもヒモになりたいです」
夢のような世界に思いを馳せていたトリカトリが一転して半泣きになると、ジズは「奴隷商と見て見ぬフリで成り立ってるような国だっつってたしなァ」とけらけら笑う。それを見たトリカトリが「……奴隷商? 奴隷制がまかり通っているのですか?」と再び首を傾げれば、ジズは「いやァ?」とそれを否定する。
「事実上の奴隷商ってだけの比喩表現らしいわよォ。仕事に就くのがイコール会社の奴隷になるのと同義だとかでェ、会社側は社員が逃げれねェよう徹底して人格破壊だとか尊厳潰しだとかァするっつってたわァ。逃げ出さねェようにクソミソに躾けたりィ、逃げても国ィ動かせるようサインさせまくったりするんだってェ」
ジズの言葉にトリカトリが「あっ、それなら聞いた事があります!」と目を開く。
「カイヘイタイ式っていうのがあるって聞きました。物凄いボロクソに社員を罵倒するっていうやつですよね」
気付けば恐怖を忘れたトリカトリの言葉に、ジズは「あーァそれヒカルが言ってたやつでしょォ?」と頷いた。
「生きる価値も無ェゴミみてェなお前らでもここで働けば
「………何で誰も反旗を翻さないんでしょうね。それだけの事がまかり通ってしまうって事は、国家が国家として破綻している証拠でしょう。革命運動の一つでも起こって然るべきでは?」
「さァねェ………。………アタシらン所みたく徹底したレジスタンス潰しが行われてンのかァ、革命思想が宗教扱いされてンのかァ……或いは革命家が生まれねェ、ないし生まれても誰も同調しねェぐらい腑抜けちまってるのかァ、って所じゃないかしらねェ」
「………それって、国が民の事を民として見ていないっていう事になりませんか? 高々一企業が奴隷商と
「だから奴隷商と見て見ぬフリで成り立ってるっつーんでしょォねェ」
「民
「ンな事アタシに言われても知らねェっつーのォ。みんな諦めちゃってるんでしょォ? ……………じゃなきゃただのパンピーでしかねェ
まるでお手上げとでも言わんばかりの身振り手振りに、トリカトリが「そういえば」と呟き腰を上げる。スカートや膝に付いた砂埃を軽く払ったトリカトリが「タクト様はどうすれば良いのでしょうね……」とジズに向き直ると、ジズは「どうすればってェ?」と首を傾げた。
「放っておく訳には行かないでしょう。ルーナティアとしても愚者を潰すメリットなんて何もありませんし、……………
悲しげに唇を噛んだトリカトリが俯きながら小さく呟く。身長三メートルを超えるトリカトリが俯けば、身長百センチ程度のジズは意図せずともその顔と目線が合う。………ジズの目に映るトリカトリの顔は、さながらいじめられっ子の蛮行に耐える少年のような顔をしていて、それを見たジズは「……ふゥん?」と鼻を鳴らした。
「ならトリカがタクトの所に行ってくりゃァ良いじゃないのォ」
「……行って、どうするんですか」
「そのクソデケェ胸でも使ってパイズリしてやりゃァ良いんじゃねェのォ? もしくはショタチンしゃぶるみてェにサイズ差フ◯ラの一つ二つしてやるとかさァ」
「……………それで────それで、タクト様は元通りになってくれるんですか。トリカが股を開く如きで、前みたいに笑ってくださるんですか。であればトリカ、幾らでも腰を振って差し上げますよ。股を開いた如きで何が減るでも無し、体で解決するなら安いものです」
「……あらァ? 意外と殊勝なのねェ。いつの間にそンな好感度ォ上がってたのかしらァ? 割と素っ気無ェようにしか見えなかったんだけどォ」
茶化すような声色でジズが首を傾げると、トリカはゆるゆると首を振ってそれを否定する。
「彼の事を愛しているとか、お付き合いしたいとかではありませんよ。そういう気持ちは………ええ、少なくとも今の時点ではありません。まさしく男友達のような、ですからね。一緒に居るだけで楽しい友達って、そういう壁を踏み越える気なんてトリカにはありません。住居侵入罪になってしまいますから」
「だったら国の為? 国の為───戦争の為に、あの子を立ち上がらせると? こっちの都合で勝手に捕まえた奴隷………今にもぶっ壊れそうな奴隷に対して、見て見ぬフリしながら鞭を打つって?」
気付けばジズの声色が変わっていた。いつものような気怠げに間延びした喋り方では無くなったジズが見上げるようにしてトリカトリを見詰める。
まるで睨み付けるかのようなジズの瞳はいつもと変わらない気怠げな半目だが、その双眸の奥には某かの強い感情が
先程魔王と向き合っていた時よりも強く強い、燃えるような怒りが含まれているようにも見える。
しかし同時に、氷よりも冷たい感情も感じられる。
ジズが
「じゃあど
まるで子供のように「どうして」と繰り返すジズに、トリカトリは直前の「どうして」に何となく察しが付いた。
…………さっき一瞬だけ頭に浮かんだ「どうして」。
恐らくジズは知りたがっているんだろう。トリカトリ・アラムという女が、敵なのか味方なのかを判別したがっている。頼れる仲間なのか、それとも仲間に害を
要は自分を試しているんだろう。問い掛けに対する返答だけでは無い。瞳の動きや答えるまでに掛かった時間、どんな答え方をするかを見て試しているのだ。
そしてジズは、自分が試しているという事を言葉にせずトリカトリに伝えている。でなければいつも通りに「トリカ」と呼んでいるはずだ。わざわざご丁寧に「お前」だなんて呼び方をするという事は、自分は今お前を試しているぞと、そう言いたいのだろう。
トリカトリ・アラムは知っている。ジズベット・フラムベル・クランベリーという悪魔の少女は、周りが思うよりも遥かに臆病で小心者だという事を、決して短くない付き合いの中から既に知っている。
睨み付けるかのような気怠げな半目と、不機嫌なのかと思ってしまうような間延びした喋り方。ルーナティア城のメイドたちは、その二つの特徴からジズの事を恐れているものが非常に多い。
しかしジズは周りが思っているようなものでは決して無い。むしろかなりのビビりで、臆病者で、小心者。
「………心臓に毛が生えた、なんて表現が許されるなら、ジズ様はツルツルパイパ◯ハートって所でしょうね」
危うい時にこそ周りを試す。石橋があれば叩いて、真偽に悩めば飛んで渡る。思い付く限りの損失やミスを天秤に掛けて、それでも自分の勝ちに傾いて初めてジズは動く気になる。警戒心が強いというよりは、失敗する事を極度に恐れた結果、何もする気にならなくなってしまっているという方が適当だろうか。
「まさしく無毛の
幼毛無さなんて微塵も感じられない攻撃的な笑みを浮かべたジズが問うと、トリカトリは穏やかに微笑んで「好きですよ」と答えた。
「ジズ様だけではありません。みんなの事が好きだからこそ、股の一つも開いて良いと言え────」
「パチこいてんな。殺すぞテメェ」
「────────」
自身の言葉を遮って犬歯を見せるジズに、トリカトリは反射的に言葉を飲み込んだ。一切の感情が感じられないその瞳と目線が合うと、トリカトリは思わず顔を背けて「……あー」だなんて呻いてしまった。
…………嘘がバレている。社交辞令が、お茶濁しがバレている。この悪魔はこういう所で妙に鋭い………自分の事となると鈍い癖に、他者の事となると妙に鋭いのだ。
………嗚呼、言いたくない。けれど言わなくてはならない。建前では無く、無意味に照れ臭い本心を口にしなくてはならない。
このダウナー系非モテ悪魔は、生まれて初めての恋を実らせる事に命を懸けていやがるから、こっちが振り回されてやらなくてはならない。
これはメイドの仕事では無いというのに、嗚呼全く。
「………………はぁ、
先端が三叉に分かれた特徴的なジズの尻尾。それがバネのように縮められている事から察するに、恐らく彼女は返答次第ではトリカトリをこの場で排除する事すら厭わないだろう。
トリカトリにこれがとっての二度目の「どうして」である。
………考えていたって埒はあいてくれやしない。トリカトリは大きく溜息を吐いてから「………気に入っているからですよ、単に」と言葉を紡いだ。
「『いつものメンツ』の下品な会話、それを気に入っているというだけですよ。下卑た話題が好きという訳ではありません、言ってしまえば会話の内容なんてどうだって良いのです。ただ、こんなに騒いだのって殆ど初めてのようなものでしたからね。田舎に居た時は家族と牛だけでしたし、お城に勤めてからは───みんなトリカのおっきな体を怖がりますから」
「……………………」
ぽつりぽつりと呟く吐露に、ジズは相槌すらせず口を噤んで睨み付けたまま。
「そんな中、あのお三方は何も気にしませんでしたね。怯えや恐怖所か「体大きいね」とすら言いませんでした。むしろ体のおっきなトリカに無言で気を遣ってくださる事すらあった……………トリカが怒って暴れちゃった時も、怯えるような様子を見せず、それ以降距離を取るような事すらありませんでした。あの空間には、差別の目が無い」
「……………………そうねェ」
思い当たる節はある。トリカトリにではなく、ジズ自身にも。彼はネタ以外で他人の容姿や外見、体格に殆ど触れようとしない。そのネタの時ですら、その人が先に自虐して初めて彼はそのネタに乗る。間違っても自分から誰かの見た目に何か言うような事は無かった。
まあ………まともに誰かと向き合おうとしていないのだから、それも当然なのかもしれないが。
だからこそジズは彼に興味を惹かれた。誰とも向き合おうとしない───見ているはずなのに
だからこそジズはトリカトリを疑っている。彼はトリカトリ・アラムという存在を見ていない。特別視されていない事が分かっているはずなのに、どうして体を許せるだなんて言えるのかが分からなかったからだ。
「初めて出来た、本当のお友達のような感じがしたんですよ。互いを褒め合う嘘臭い友達では無い、互いに貶し合い笑い合う、本当のお友達。…………語らう内容なんて何でも良いのです。下品も上品も関係ありません、友達とする会話の内容を選んでいる方がよっぽど品が無い。楽しく笑っていられる事が、朝が来る度に「今日はどんな馬鹿騒ぎをするんだろう」って思える事が、今のトリカにとっては一番のお気に入りなのです」
「……………………」
「彼を守りたい理由は、その中心に必ず彼が居る事に気付いたからです。どこででも変わりません。皆様の会話の中には、必ず彼の声が混ざっています。………時には周りを諌めようとしていたり、時には周りを置き去りに最前列で馬鹿騒ぎしていたりしながら、周りは口を開けて笑っています。…………けれど今は誰も笑っていません」
「……………………」
「だから……まあ。………その、何ですか? ぶっちゃけて言ってしまえば彼の事自体はどうだって構わないのですよ。例え彼が壊れて、それでもいつもの馬鹿騒ぎが続くのであれば、私は彼の事なんて気にも掛けないと思います」
「クソ自己中ね」
聞きに徹していたジズがようやく口を開いて出た言葉。その罵倒を聞いたトリカトリは「そうですね」と自嘲気味に微笑み「でも良いじゃないですか」と続けた。
「常に気を遣うのがメイドさんなんですから、オフ同然のタイミングぐらいエゴイストで居ても許されると思います。彼が立ち直る事でお気に入りの空間が守れるのであれば肉便器にぐらいなって差し上げますし、その結果いつも通りの馬鹿騒ぎが戻って来るのであれば、パイズリだのフ◯ラだの幾らでもしてやりますとも。城下の公衆トイレに設置されて快楽落ちする事に比べれば、処女の一つ二つぐらい安いものでしょう?」
「だったら何で動かないのかしら」
「ヒカル様が動いていないのと同じです、分からないからですよ。本当に立ち直ってくれるのかが分からない。疑心暗鬼になっている今のタクト様を前に文字通り一肌脱いだとして……下手をすれば壊れる決め手にすら成り得る。だから私は「どうすれば良いのでしょうね」と貴女にお聞きしたのですよ─────タクト様に、最も好かれている貴女に」
問い詰められていたはずのトリカトリが一転して批難するような目付きでジズを見詰めると、ジズはバツが悪そうに目線を反らす。そのまま無言になるジズに「行かないんですか?」と問い掛ければ、ジズはまるで溜息を吐くように「……アタシが行って良いのかしらねェ」と疑問を口にする。
「むしろジズ様が行かないで誰が行くんですか」
「いやァ……他に良い女幾らでも居るでしょォ。ヒカルとかァ、博士とかさァ。アタシじゃねェって。だってヤッたんでしょォ? 二人共さァ。もっかいそいつら行かせてイカせ合えば良いじゃなァい」
「博士もヒカル様もほぼ無理矢理、状況を利用して言いくるめたも同然って仰ってましたよ。結局その後お猿のようにハメ狂ったそうですが、タクト様はかなり躊躇う素振りを見せていたそうじゃないですか」
「それァ、ほらァ………何だァ? 何つーかァ…………ねェ? 傷心中の女と乳繰り合うと大体ロクな事にならねェからさァ……そういうの嫌がっただけでしょォ? あの子そういう所で頭回っからさァ」
「いや普段の態度とかでジズ様の事大好きなの秒で分かるじゃないですか。好きな人が居る状態で、かつその好きな人が妙に貞操観念カッチリしてる人であれば別の女に
「躊躇ってねェでバチっと断れよォ。誰彼構わずズコバコ抜き挿ししてんじゃねェよ主人公と銘打った竿役かってェのお前ェよォ」
「文句があるなら押しに弱いタクト様を押して弱らせた二人に言ってくださいまし。トリカに言われても知らないです、だってトリカ彼とズコバコ抜き挿ししてませんし。というか仮に彼と抜き挿ししてもトリカの体格的にズコバコって感じにはならないと思います。せいぜいがちゅぽちゅぽ程度でしょう、人間サイズじゃイケるか分かんないです」
「それこそ知らねェってのお前もう大根でも突っ込んでろよォ。アタシからすりゃ乳児以外は全部デカチンに見えるっつーのォ、ゴム人間じゃねェんだからイクより先に腹ボコして皮膚裂けるっつーのォ」
先程までの睨み合いなんてどこへやら。ウジウジおどおどしながら話を反らしたり言い訳を探したりするジズに若干苛立ってきたトリカトリは「とにかく! 一番好かれている貴女以外に一番槍は無理なんですよ!」と声を荒げ、ジズの顔を両手で挟んだ。
特徴的な四本指。人間と比べて本数が足りない代わりに一本一本がとても太く大きいトリカトリの手が、ジズの小さな顔をぶんにゅと挟んで向き直らせると────トリカトリは思わず言葉を失ってしまった。
「………………だってェ」
予定では「さっさと行きなさい」とかそんなような事を言って追い立てるつもりだったトリカトリは、頬を挟まれて拗たように見えるジズを見て自分が何を言おうとしていたのかを完全に忘れてしまった。
初めて見るその表情。決して短くない付き合いの中で初めて見たジズの表情は、しかし何処かで見たような感じがする。トリカトリから目線を反らしでもでもだってと言い訳を探し続けるジズを尻目に何だっけな何処だっけなと頭を巡らせたトリカトリだったが、すぐにそのデジャヴの元に辿り着く。
「だ、だってさァ……そのォ、た、タクトがアタシ好きになる理由無ェじゃんさァ……。いや確かにちょっと優しくしたけどさァ……何か捨てられたわんにゃー見てるみてェで放っとけなくてちゅーしたけどさァ………。これで元気になったら良いなァって思ってしたちゅーが恋心元気にさせちゃうとか思わねェでしょォがァ……。つーかアタシだってタクトの事好きなのかまだ良く分かんねェしィ? ………まァ嫌いじゃ無ェのは確かだけどォ、好きな人とか出来た事無ェから分かんねェしィ………」
トリカトリ・アラムは理解した。ジズがしていたその表情。初めて見たはずなのに何か見覚えのあるその表情が何なのかを、トリカトリは理解した。
「………女性向けの漫画に良くある何故か自己評価クソ低くてウゼえタイプの女主人公みたいですわね。どう見ても美人に描かれているのに「私ブスだから」とか言っちゃうタイプ。「は? 叩き割った鏡の破片でマジのブスにしてやろうかお前」って言いたくなるような女主人公。………何かトリカ腹立って来ました。こんなのにメンチ切られてちょっとビビってたんですかトリカは。アラム家末代までの恥です」
「な──テメ……っ! ………だって仕方無ェだろうがっ! 知らねェんだもんっ! アタシ良く分かんねェんだもこういうのよォっ!」
「因みにアラム家末代までの恥と言いましたがトリカは一人っ子な上に今の所結婚する気も無いのでアラム家はトリカで末代を迎えます。田舎のお父様とお母様が歳を考えずハッスルしてればアラム家の存続も有り得ますけどね、どうせならトリカ妹が欲しいです」
「その話の方がよっぽど知らねェわっ! つかむしろ要らねェわタコっ!」
調子を取り戻したトリカトリの言葉にキャンキャンと吠え出すジズ。その両頬をむにっと押し潰すように寄せればジズは「────んにゅォ」と唇を尖らせる。
「タコさんみたいなお口の貴女に、タコ呼ばわりされたトリカが面白い事を教えて差し上げます。これを聞いたらタコジズ様もトリカに感謝しながらイカ臭いお汁を絞りに行けると思いますよ。多分」
「…………………タコ口でフ◯ラでもしろってかァ? 陛下のサラミでガバガバになった博士イカせてンだぞアイツ………イカ汁出る前に顎裂けて血が出るっつーのォ」
「痛みに泣きながらタコ墨みたいにお漏らしすれば帳尻合いますね」
「……………でェ? 面白い事って何よォ。つまンなかったら土手っ腹ァ殴って墨みてェにクソ
無表情から怒り顔、怒り顔から照れ顔に、かと思えば拗ね始める悪魔の少女は、やはり周りが思うような女では無い。気怠げに喋りながりもコロコロと表情を変える忙しい女に向けて、トリカトリはしたり顔をしながら「ふふん」と鼻を鳴らして微笑んだ。
「ジズ様、タクト様に下着をあげたでしょう? おブラジャーではありませんよ、おパンティの方です」
「…………何で知ってンのか後々問い詰めっから覚えてろよォ。…………………それがどうしたテメェ」
「あの下着、タクト様は一回も使っていないご様子ですよ。確証はありませんが、洗濯物には当然混ざっておりませんし、水場の警備兵も顔を洗う以外でタクト様がいらっしゃった所は見掛けておりません」
「───────っ。…………………や、やっぱり……要らなかったかしらね………」
トリカトリの言葉にジズがきゅっと顔をしかめる。悲しそうな、苦しそうな、今にも泣き出してしまいそうな、けれども小さな苛立ちの混ざった表現し難い表情をするジズを見て、トリカトリは殊更嬉しそうな顔になる。しかしそんなトリカトリにはもはや気付く事すら出来ず、ジズは「そう、よねェ………」と切ない声色で呟いた。
「要らねェかァ………アタシのじゃ抜けねェもんなァ………………あ、アタシ、エロく無ェもんなァ」
「早合点にございますよジズ様。貴女がエロいかどうかはさておくとして、そもトリカはまだ話し終えておりません」
にへにへと笑うトリカトリに「ぇ」と顔を上げるジズは思わず小さな期待を抱いたが、しかし慌てたように胸元へ手をやったジズがぎゅっと手を握りながら絞り出すように「………何よ」と急かす。
「使った痕跡も無ければ洗った姿も見られておらず、タンスや机の引き出しに仕舞われた形跡もございません。街に放たれている警邏や草も、タクト様及びそれらしき人物が黒い布を捨てたという報告はしていません。トリカの担当は『いつもの』皆様ですから、皆様に関する話題は何から何まで事細かに報告するよう指示しております。だから忙しいんでしょうね」
「……………………。………………分かんねェ、それが何なのよォ」
少し思案してから考える事を諦めたジズに「んふふ」と笑ったトリカトリは「これはトリカの憶測ですけれど」と注釈を入れ、
「もしかすると、タクト様はあの下着……ずっと持ち歩いていらっしゃるのではありませんか?」
もしも誰かから脱ぎたて下着を貰ったとして、オカズとして使用したのであれば大なり小なり汚れが付く。二〜三回使ったら返せとは言ったものの、恥ずかしさから返せない可能性は大いにある。であれば自分で洗いに行くはずだが、しかしその姿は報告されていない。
とすると汚していない───使っていない説が浮上するのは当然の流れだろう。
当然ながら使わずタンスや机の引き出しに仕舞ったという事も無い。タクトに限らず愚者の部屋は、基本的には離心や買収のリスクが高いという点からメイドたちが何から何まで全てチェックしている。余りにもプライバシーに直結する問題に限っては報告を省かれるが、それ以外の事柄は白紙の紙一枚増えたとしても報告を義務付けられているのだ。
それが無いのであればその辺に捨てた説が残るが、当然これも無い。警邏は当然ながら街中放たれている警邏は尋常では無い程の数になる。そうでなくともタクトの性格を考えれば、ご機嫌になった異性から貰った脱ぎたて下着を外にポイ捨てするような事はしないだろう。
「順当に行けば「どうせだから使っとくか」とか言って数回嗅ぎシコ、その後包んで
「………………………………」
言葉を失った。上手く回らない頭を必死に回して粗を探したジズは、やがて「…………それってさァ」と小さく呟く。
「クッソ変態じゃねェ? 頭おかしいでしょォ」
「いつどこで何が理由でかは存じません。けれど好きになっちゃったのでしょう? そんなとんでもないクソ変態に」
「………………………………………惚れたもン負けかァ。何であの子の事好きになっちゃんたんだろうなァ、意味分かんねェ」
「まだそういう性癖と決まった訳ではありませんが、にしてもとんでもない方に心を奪われてしまったものですね。………浣腸プレイとか本当に勘弁してくださいよ? どうせ片付けるのトリカかトリカの部下なんですから。私部下のお小言聞くの嫌いなんですよ」
「……………ア◯ルに大根ぶち込まれるとかなったらどうしよォ」
「腸は水分吸収に特化していますからね。長時間挿入していれば、その大根は挿入されている部分だけ
「………………………アタシのア◯ルで作ったたくわん、トリカ食べてくれるゥ?」
当初あった疑いの感情は最早何処にも無くなっていた。疑心暗鬼になって塞ぎ込んでしまった少年と同じように周りを試していたジズの軽口に、トリカトリは「ふふふ」と穏やかに微笑んだ。
「死んでも御免です。トリカお漬物嫌いですから」
───────
ルーナティア城は幾つかの区画に分けられている。厳密には分けて造っている訳では無かったが、増改築の際に利便性を重視していった結果そうなったという話である。
そんな区画、その一つ目は執務関連の区画。魔王チェルシー・チェシャーを含む様々な文官は日々ここで仕事を行うが、書き終えた報告書の提出やそれに関する意見交換などを行う武官もここに頻繁に立ち入る事になる。
二つ目は兵士棟と呼ばれる区画。城内だけでなく街中に放たれている警備兵たちが拠点として利用する区画であり、寝泊まりが可能な兵舎だけでなく食堂や事務室などもこの辺りに存在している。
三つ目はメイド棟と呼ばれる従者たちの生活区画。メイドとは呼ばれているものの実際には執事も多く、兵役に直結しないものたち………トリカトリ・アラム含むルーナティア城で勤める全てのメイドや執事は住み込みで働くが、それらの使用する部屋や食堂がここに存在しているのだ。基本的には二段ベッド式の四人部屋であり、三年以上の勤務期間を経ると風呂やトイレ、台所付きの個室へと部屋替え申請が可能になる。
四つ目は生活棟と呼ばれる衣食に関わる様々な要素がまとめられた区画。兵士棟やメイド棟のようなルーナティア城内で提供される食事の下ごしらえを行ったり、同じように衣類の洗濯や物干しを行う場所もここにある。また兵士棟もメイド棟も個室であれば風呂があるが、そうでない相部屋には風呂が無いので生活棟にある大風呂を使用する事になり、夜が近付くと様々な種族のメイドや兵士たちの出入りで賑わう区画となる。
そして最後に賓客棟と呼ばれる空き区画。そこそこの広さを誇る風呂と台所付きの個室が幾つも並んでおり、ルーナティア国に招待された何らかの権力者が一時的に寝泊まりを行う為の目的として造られた。
しかし現在は、主に愚者が寝泊まりを行う場所として認識されるようになってきている。
………今期の愚者が呼び出されるより遥か前、まだチェルシー・チェシャーが魔王の座を奪うよりもずっと昔の賓客棟は、メイドや兵士たちから影で慰安棟と呼ばれて冷ややかな目で見られていた場所の一つである。何しろ前魔王が賄賂や集金パーティと称して性娯楽施設として使用していた場所であり、清掃を担当するメイドたちは『汚物組』、慰安を行わされるメイドたちは『便器組』だなんて揶揄され蔑まれていた。
「…………………平和になったもんよねェ」
戦争は未だ続いているし、まだまだ終わりの様相すら見せていない。現在は開戦宣言がされただけで諜報合戦のタイミングだが、実際には街中に散らばる数多の警邏が怪しい人物へ尋問を行い、既に何人もの間諜を捕縛、処理するに至っている。
それは決して今に始まった事では無い。どんな世界であっても国が二つあれば、それだけで探り合いが発生する。現にチェルシー・チェシャーが魔王になるよりも前の段階から、既に『草刈り』は幾度と無く行われ続けていた。
ジズベット・フラムベル・クランベリーが言う『平和』は賓客棟の話だ。
あの頃の賓客棟は扉を開けるだけで顔をしかめたくなるような酷い臭いに満ちていた。当時トリカトリ・アラムは賓客棟の総合警備担当として活躍しており、主に『調子に乗った』賓客をおシバきする立場に居た。賓客にはメイドたちへ性的では無い攻撃的な暴行を働くものも多かったが、中にはそのままメイドを殺してしまうものも少なく無かったからだ。
前魔王の時だけでなく、チェルシー・チェシャーが就任してからも賓客棟は性的慰安の場として何度か使われていた。そもチェルシーが
…………綺麗事だけで成り立つ事柄はこの世に存在しない。トリカトリ・アラムが勤めていたのはその頃の事だが、あの頃のトリカトリはメイド服に様々な臭いが染み付いてしまっており、近付くだけで
精液の臭い、愛液の臭い、糞尿の臭い、鉄錆の臭い、生肉の臭い。トリカトリ自身はその時に一切慰安行為を行なわない立場だったが、立場に胡座をかいて図に乗った有権者に言い寄られれば、ある程度は『ご奉仕』を行わなければならない事もある。
ご機嫌を損ねてチェルシーの負担を増やすぐらいだったら、豚同然の外観をした有権者の逸物を咥えている方がよっぽど良い。断った所でチェルシーは決して怒るような事はせず、また「図に乗られると癪だから断って頂戴ね」とも言っていたが、それでもそれは時と場合によってしまうだろう。
しかしそんな話がまるでデジャブのように思える程、チェルシーが魔王になってから…………今のルーナティア国は目に見えて平和になったものだった。
「…………………………………開いてる」
今は愚者棟と呼ばれるようになった賓客棟。その一室の扉を開けたジズが吐息のように小さな声で呟いた。
賓客棟に限らず、全ての個室や相部屋は防犯の観点から鍵を掛けられるようになっている。個室は当然部屋を使用するものに、相部屋であれば人数分の合鍵が作られ、それぞれに渡される。
とはいえ結局マスターキーで解錠されてしまうのは揺るがない。マスターキーの管理はかなり厳重なものではあるが、結局清掃担当のメイドが簡単に開けて入ってしまう。
だが実際に入った清掃担当が触れるのは床や布団、毛布やシーツ、籠に出されている洗濯物だけであり、机やタンスの中は一切弄らない。故に兵士たちやメイドたちからは殆ど苦情が無く、給料が良い関係から窃盗が行われるような事も殆ど無い。そんなリスクを孕んで盗むぐらいならひたすら貯まっていく自分の金で買えば良いのだ。
だが唯一、愚者が使用している部屋に関してはそうもいかなかった。異世界から呼び出されたという時点でルーナティア国に
とはいえ、である。そんな愚者の部屋とて鍵自体は掛ける事が出来る。ドアノブに備え付けられたカラーパネルにより現在その部屋に鍵が掛かっているのかだけで無く、外側から掛けられたのか内側から掛けられたのかも判別出来るようになっている。それぐらいの配慮はあったし、それぐらいの自由は許されていた。
だからこそジズは確信した。
この部屋に住むものは助けを求めて待っている。
口では一人になりたいと言いつつも、深層心理では孤独を恐れて助けを求めている。内側から鍵を掛ければその間はメイドが清掃に入れず、動向管理という名目での家探しも出来ない。
だから本当に一人になりたければ、さっさと鍵を掛けて泥のように眠ってしまえば良いのだ。
けれど部屋の中に居る彼は鍵を掛けていなかった。鍵の存在は知っているはずだし、鍵を開けていれば清掃担当のメイドが入室する可能性は当然ながら、様子を見に来た他の連中が入って来る事だってある。それぐらいは分かるはずだ。
「………………………タクトォ、起きてるゥ?」
でなければ、ジズが扉の隙間から顔を覗かせて声を掛けるような事は有り得なかったろう。
少しだけ声量を下げたジズが遠慮がちに問い掛けるが、当然部屋の中からは返事が無い。「……入るわねェ」とだけ告げたジズが中に入れば、カーテンは締め切られて殆ど真っ暗同然だった。ある程度までは夜目が効くジズではあるが、それは僅かであっても光源がある場合のみ。僅かな輝きを瞳孔内で反射、増幅させて闇夜の視界を確保するタイプの夜目であるジズが慎重に部屋の中へ足を踏み入れれば、奥に配置されているベッドの辺りから掠れ切った声色で「やめてくれ」と少年の声が聞こえてくる。
「…………頼むからやめてくれ……。もうやめてくれ…………もう何も分からないよ…………」
「……………………」
慟哭のようなその言葉に、ジズは返事を返さず後ろ手に扉を閉めた。可能な限り音が鳴らないようドアノブを回したままで扉を閉め、その後ゆっくりノブを戻していく。
「………………………お願いだから、一人にしてくれよ………」
今にも泣き出しそうな少年の言葉に、しかしジズは変わらず返事をしなかった。
元より少年を一人にする気なんて全く無かったジズではあったが、事ここに来てその意思は殊更強くなった。
一人になりたい。けれど独りにはなりたくない。
今の彼は誰の何を信じれば良いのか分からなくなっているだけで、決して孤独を望んでいる訳では無いのだろう。
ジズベット・フラムベル・クランベリーは知っている。本当に孤独を望んでいるものは、部屋の中に誰が入って来ても見向きもしない。声を掛けられても無視してそっと部屋から出て行く。間違っても今の少年のように、自分から言葉を発するような事はしない。
かつて自分がそうだったからこそ分かる話。
けれど誰も信用出来なくなってしまった。自分の中での自問に上手く自答出来なかった結果、この少年は何もかもが分からなくなってしまったのだろう。
「……………………」
廊下に立ち並んでいた燭台。扉を開けた時に僅かながら照らされた室内の残像を頼りに、ジズは羽織っていたグレーのパーカーを脱ぎ、近くの椅子に向けて放り投げる。
そのまま部屋の奥にあるベッドまで進み、靴を脱いでベッドに腰を掛ける。………呼び出された愚者の中には靴を履いたままベッドに上がるものや、そもそも部屋に入る時点で靴を脱ぎたがるものと様々居る。しかしルーナティア城内では後者に対して配慮している余裕が無く、基本的には履物を履いたままで室内に入り、それ以外は個々の好みに合わせて貰っている。
「…………少し詰めてェ。それじゃアタシが入れねェわァ」
タクトやヒカルが生前住んでいたニホンという世界では、室内所か家に入った時点で靴を脱ぐのが当たり前だという。ルーナティアに呼び出された当初は部屋の入り口付近に靴箱を置いて欲しいと言っていたような気がしたが、気付けば彼は部屋の中に靴で入る習慣が定着した。
けれどベッドの上だけは、ヒカルもタクトも共通して靴を脱ぐ。砂粒や埃がベッド内に入るのがそこまで嫌なのだろうかとも思うが、恐らくそういう話では無いのだろう。生まれた時から息をするようにしてきた習慣だから、それを破る事に無意識的な抵抗感があるのだろうとジズは思っていた。
「…………………タクトォ? ほら早く詰めてってばァ、パーカー脱いだらそこそこ寒いのよォ? 早く入れてちょうだい」
今の少年は殆ど何も考えられない。今の少年の頭にあるのは『何を信じれば良いか』と『信じるって何だっけ』ぐらいのものだろう。普段であれば「じゃあパーカー着れば?」と即答するだろう所、少年が何も言わない辺りからそれが察せる。
布団に潜り込み、背を向けたままで微動だにしない少年に「じゃァ良いわァ。でも風邪引いたらアンタが必死に看病しなさいよォ」と罪悪感をくすぐっていけば、やがて少年はもそもそと力無く動いて奥の壁に寄るようにベッド開けてくれる。それに「ありがと」と優しく礼をして、ジズは布団の中に体を差し込んで行った。
「………………はァ……
横向きに背を向けて寝転がる少年に合わせ、同じように横向きに寝転がったジズが少年の背中に手を当てながら呟くが、ここでもやはり「痩せ気味以前にそんな終わってる私服してんのが悪くね」というようなツッコミは無かった。
「…………タクト、こっち向いて」
まあ元よりそんなツッコミに期待はしていなかったが、いざ何も反応が無いとなれば僅かばかりの寂しさを感じる。ジズが「ほら、早く」とせっつけば、少年は躊躇いがちに体を回してジズと向かい合うような体勢に変わる。
…………間近に向き合った少年の顔。久し振りに見たようなその顔を見て───ジズは思わず「ぶふっ」と吹き出した。
「……………ひっでェ面ねェ。どンだけ泣いたらこんな面になるンだって話よォ」
カーテンの下から薄く射し込む月明かり。それを頼りに見詰めた顔は、泣き疲れたのなそれはそれは酷い顔になっていた。元より少年は寝付きが悪いようで酷い隈が特徴的だが、悲しげに泣き腫らしたその目元は言い様の無い程になってしまっていた。
そんな少年の目元を指で撫でてみると、僅かに擦れて引っ掛かるような感覚がある。…………直前まで泣いていたのだろう、指が擦れるのは、まだ涙が乾き切っていない証拠だった。
「……………………帰って来てからずっと泣いてたの?」
吐息を漏らすように小さく問い掛けると、少年は薄く唇を開いて「もうやめてくれ」と呟いた。
「もう……………もう、
涙の跡が残る目元に、新たな涙が溢れ出す。空気に触れたそれはすぐに冷たくなり、目元を通ってジズの指先に染み込んで行く。
それを指でかき混ぜるように弄んだジズは、背中を曲げて少年の顔に自身の顔を近付けていく。
けれど唇は触れ合わない。触れ合ったのは、互いの額と鼻先だけ。抱き寄せるように頭を撫でながら「そう」とだえ答えた。
「………………もう休む?」
「………休ませてくれ……もう、休ませてくれ………。………もう疲れた………もう、疲れたんだ……」
互いの吐息が混ざり合う。囁き合うように呟く二人に、少年はゆっくりと瞳を閉じていく。
「諦めるのと休むのは別物よ?」
────しかし、ジズの言葉に閉じられていった瞼が動きを止めた。そのまま嫌がるように目線を反らした少年に、ジズは「そのぐらいは分かってるでしょ?」と優しく問い掛けていく。
「…………全部投げ出して諦めるっていうなら、アタシが貴方を殺してあげる。一思いに、痛みを感じないよう、アタシが頭を吹き飛ばしてあげる。悪魔は人間の願いに応えるもンらしいから、タクトが本当に望むなら応えてあげる」
「………………………」
「腰を下ろして休んだら、何処かで必ず立ち上がらなきゃいけない。…………タクトは休ませてくれって言ってたけど………休んだ後、タクトはちゃんと立ち上がってくれる? ちゃんと立ち上がるよって約束してくれるなら、いっぱい休んで良いわ。一人で休むのは寂しいよっていうなら、アタシが寄り添ってあげる」
「………………………どうして僕なんだ」
子供に諭すようなジズの言葉に、少年の顔が歪んでいく。悲しみと苦しみ。苦悶の顔に歪んでいく。
「何で僕なんだ………。………他のやつで良いじゃないか。何で僕なんだ…………他に上手く出来るやつはいっぱい居るじゃないか……どうして───どうして上手く出来ない僕にやらせるんだ」
震え始める少年の体。その頭を優しく撫でながら、ジズは「……何でかしらねェ」と困ったように微笑んだ。
「色々予想は出来るけどォ、どれも確証は無いわねェ……。………………タクトは誰かに頼られるの、嫌い?」
「………そこに僕しか居ないなら、幾らでも頼られてやる……。…………けど、他に幾らでも居るじゃないか…………もっと上手くやれるやつが幾らでも居るじゃないか………」
「…………上手く出来なかったの? 失敗しちゃった?」
「………無駄手間を増やしただけだった。結局援軍なんて来なかったし、覆せない実力差を見せ付けられただけだった。………最初から乱戦に持ち込んでいれば窮地になんて陥らなかった。………………光の言う通りに引いてれば、もっと手早く済んだはずだ」
「…………でもどうにかなったって聞いてるわよォ? 最善は無理だったけど、って」
ジズの言葉に少年が一層顔を歪ませる。くしゃりと顔をしかめた少年は苦しげに「光が死んでたかもしれなかった……っ」と嗚咽混じりに呟いた。
「帰りっ、帰りの馬車でっ、光が言ってた……っ。死にそうになったけどっ、その時に
「………自分の立案した立ち回りで、死に目に逢わせてしまった?」
「生きてたから良かったけどっ、
「………………そっか」
ボロボロと涙を流しながら嗚咽を噛む少年に「……そっかァ」と繰り返す。
「辛かったね、辛かったのね。………………………………泣かないで、タクト」
ジズの言葉に少年が目線を戻す。ストレス性の入眠障害により深い隈の付いた目元が悪魔の少女と見詰め合う。「泣かれると困っちゃうわ。どうにかしたくてここ来てンのに、アタシまでどうすれば良いか分かんなくなっちゃう」と少年の頭を撫で
その様子を見て、ジズは本当にどうすれば良いのかが分からなくなってしまった。
元より臨床心理士の資格がある訳でも無い、ただの悪魔の少女なのだ。あるとすれば過去に塞ぎ込んだ経験があるというぐらいで、他人の命を背負う苦しみに喘ぐものにどんな
そうでなくとも、である。仮にこの場に臨床心理士、精神科医が居たとして「前世でしくじって死んだ少年が異世界で期待に
けれど少年は手を伸ばしているはずだと、それだけは確信出来ている。
当初は塞ぎ込んでいた少年。塞ぎ込んだつもりでいた少年。掠れた声で一人にしてくれと呻いていた少年が、気付けば心の奥底にある思いを吐露している。言葉として明確な形を持っていなくとも、少年が助けを求めている事は明らかだった。
今この少年を一人にしてはいけない。この少年は一人になるとネガティブに落ちてしまう。「もしかしたら」を「そんな事は無い」と振り払う事が出来ないこの少年を、今一人にする訳にはいかない。
一人にしてくれという頼みを素直に聞いたトトとラムネ。
自分も少年を追い詰める事に加担したようなものだと身を遠ざけた光。
悪化してしまうのではと行動に移せないトリカトリ。
自分には出来る事が無いと諦めてしまったパルヴェルト。
仲間たちは、何も悪意から少年を一人にした訳では無い。どれも少年を───タクトを思っているからこその行動。
だが結果的にそれは少年を苦しめるだけとなってしまっていた。少年の意思を汲んで一人にした結果、少年は一人で考え込み、答えが見付からずネガティブを振り払う事が出来なくなってしまった。
誰が悪い訳でも無いはずだ。トトやラムネは純粋であり、光は申し訳無さから遠慮しているだけ。トリカトリは『最悪の結果』になる事を避けているだけで、パルヴェルトは身の程を弁えようとしただけなのだ。
「…………………ねェ、タクト」
ならば自分はどうすれば良いのだろうか。同じような選択肢を選ぶ訳にはいかないのであれば、他にどんな選択肢を選べば良いのだろうか。
答えなんて見えている。
周りが彼を尊重したのであれば、
自分は彼を尊重しなければ良い。
周りがそれで『しくじった』のなら、
自分はそれで『上手くやる』だけ。
その結果彼が壊れてしまったとしても、
その結果彼が立ち直ったとしても、
どちらにせよ、自分は彼に寄り添うだけ。
どちらにせよ、自分は一生彼を支えてあげるだけ。
どうせ好きになった方が負けなのだ。
ならば好きに
「……………アタシのパンツ、使ってくれた?」
淫靡な声色でも無く、嘲るようなものでも無く、努めて普通の口調でジズが話を変えると、少年は「使ってない」と小さく頭を振って答えた。
「……………アタシのじゃヌけない? オカズにならない?」
「……………そんな事無い」
「だったらどうして使ってくれないの? ………一応使って欲しくてあげたつもりだったんだけど」
先程も利用したテクニック。相手の罪悪感を刺激出来るように言葉を紡げば、少年はゆるゆると腕を動かしてポケットから小さな布切れを取り出す。
「……………………………汚したくなかった。ジズから………ジズから初めて貰った贈りものだから」
手のひらに乗せられた小さな黒い布。見覚えのある所か毎日見ている布の一つ。少年に貸し与えたつもりの、一枚の布切れ。
「…………つってしわくちゃにしてりゃァ元も子も無くねって思うわねェ」
元は丁寧に折り畳まれていただろう自身の下着。それはハンカチとは違って薄手の布切れ故に、ポケットの中で少しずつ動かされる内にクシャクシャになってしまっていた。
「…………あァあァ怒って無ェから、ほら泣かない泣かない」
シワだらけにしてしまった事を批難されたとでも思ったのか、ジズの言葉に彼の表情が今にも泣き出してしまいそうなものへと変わっていく。それを呆れた声で慰めれば、少年は「……本当に、汚したくなかったんだ」と子供のように胸の内にある言葉を繰り返した。
どうせ黒地の布なのだ。白いシャツでもあるまいし、シワが付いた所でそこまで目立たない。
そうでなくとも渡した時点で想定していた通りの使い方をしていれば、シワでは済まないものを付着させていたはずだ。カピカピになった白い液体………酸化して黄ばみ始めているようなものを謝礼と共に返却される事に比べれば、高々シワ如きどうという事は無いだろう。少なくともジズはその程度、気にも留めない。
「…………許してくれ。………もう────もう、許してくれよ………」
けれど少年はそうでは無い。
いや、少年だけでは無いだろう。ジズにとっては高々シワ如きだとしても、数多ある生物の中にはそれを「高々」と言えないものも居る。数え切れない程に居る。
「もう休ませてくれ………」
苦しげに懇願する少年のその言葉。これがただの少年の言葉であれば、きっとジズだって「
彼は絵空事に描かれる勇者では無い。
世界そのものから
本当なら今頃、閻魔に浄玻璃の鏡でも向けられているだろうはずなのに、誰ぞ彼ぞの勝手な都合で墓を暴かれ異世界くんだりまで呼び出されてしまった少年なのだ。そんな少年の「許して」という言葉に詰まった想いを高々と嘲る事が出来る程、ジズは悪魔では無いつもりだった。
「……………………アタシかなりの猫好きなんだけどさァ」
苦しげに顔を歪め、音も無く涙を流し続ける少年にそんなような事を言えば、少年は不思議そうな目を向ける。そんな少年の視線が少しだけ面白くて、ジズは穏やかに微笑みながら少年の額に自分の額を優しく擦り付ける。
「実は猫だけじゃなくて犬とか鳥とかァ、爬虫類とか魚だって好きなのよォ。だからアホ共が良く言う「犬派か猫派か」みたいな質問マジで嫌いでさァ…………アレ何で「どっちも好き」って言ったらシラケるのかしらねェ」
「……………それがどうしたんだよ」
鼻先が触れ合い、吐息が絡み合う距離にありながらも唐突に語り始めたジズに向け、少年が当たり前過ぎる疑問を投げ掛ければ「んふふ」と悪魔は儚げに微笑む。
もうこの少年は塞ぎ込んでいない。自分の言葉に言葉を返している時点で、この少年は塞ぎ込んでいない。
それが嬉しくて嬉しくて、思わず微笑みが漏れてしまう。
「犬だろうが猫だろうが、アイツらアタシと死ぬまで一緒に居てくれ無いのよォ。必ず───絶対に、
それはジズが悪魔だから、という話では無い。仮にジズが人間であったとしても、犬や猫は飼い主よりも先に死ぬ。飼い始めた時期が遅いとか突然の事故や病での不幸だとかを除けば、「そういうもの」と世界が定めた寿命という謎の概念によって、犬や猫は飼い主よりも先に死ぬ。
そこに「どうして?」だなんて疑問は通じない。誰も彼もが「そういうものだから」としか答える事が出来ない。
「でも犬猫飼ってる奴って軒並み馬鹿だからさァ、先立たれて悲しい別れが待ってるって分かり切ってンのに、それでもまた馬鹿みてェにわんにゃー飼うのよねェ。…………アタシもその馬鹿の一人なんだけどさァ」
寂しさを埋める為か、それとも騒々しさの無くなった家の静けさを払う為か。
「犬や猫はアタシと一生一緒に居てくれない。アイツら揃いも揃って穏やかな
それでも再び出逢いを求めるのは
ジズはそれを知っている。
「けどアタシは、アイツらと一生一緒に居てあげられたわ」
だからこそ再び出逢いを求める。
「アタシにとっては一生一緒に居てくれなかったやつらでも、アイツらからしてみりゃアタシは「死ぬまで一緒に居てくれたやつ」な訳じゃんねェ」
だからこそ眠るように穏やかな顔をしながら死んでいくのだろうとジズは思う。少なくとも、これまでジズと共に過ごしてきた犬や猫は揃って穏やかな顔をして眠っていった。肺を患い産まれてすぐに死んでしまった子猫ですら、ヒューヒューと苦しげな呼吸をしながらもジズに抱かれて眠っていった。助ける事が出来ず、苦渋に歪んだ顔で泣き続けるジズに反して、あの子は少しずつ呼吸を弱め、口から舌を足らすような事も無くただ穏やかに召されていった。
寂しいからでは無い。静けさを払う為でも無い。
それでもジズが再び出逢いを求めるのは、一匹でも多くの子たちと一緒に居てあげたいと思うから。
「─────────アタシが一緒に居てあげる」
貴方が、孤独で、寂しそうで、悲しそうで、可哀想だから。
──────断じて否。そんな下らない同情は要らない。
誰かからの同情心。それがクソを拭く紙程の役にも立たない事をジズは知っている。
ジズが動物を愛して共に居ようとするのは、ジズが何となく居てあげたいと思っているからであり、そこに同情心なんてものは欠片一つたりとも存在しない。
誰かからの同情は古本屋で埃を被っている格安の哲学書と同価値だ。幾度と無く読み込まれて手垢の一つでも付いていればまだ良いものを、古物市の投げ売りよりも酷い価格設定で売られている哲学書は本当に何の価値も無い。
読んだ所で読後三十分の間だけ頭が良くなった気になるだけの代物。三十分後に昼寝をしなければ一時間程度はこの世を知った気になれるかもしれないが、得られるものは決して多くない。
安っぽい以前に金にすらならないような同情を得た所で、得られるものは三十分間の温もりだけ。その後泣き疲れて昼寝をすれば温もりは消し飛び、残るのは何一つとして変わらない絶望的な現実のみ。
けれど、
「一緒に居てあげる。アタシが、タクトと、一生一緒に居てあげる。────だから………だから、早く元気になってさァ……また、みんなで遊びましょ?」
空っぽだった自分が得たものは三十分で終わらない温もりに満ちた時間。
得ようと思ってもいない割にクソほど得られる同情と違い、得ようと思って藻掻き足掻いても得られなかったその空間。
それはジズにとっては掛け替えの無いもの。それが再び手に入るのであれば他には何も要らない。
当初ジズは気になって仕方が無かった。こんな弱々しい人間が、心を病んで穏やかに寝付く事すら出来なくなっているか細い人間風情が、
目で追って、頭に浮かべて、声を思い出せば、いつしか残り香だけで彼の姿が目に浮かぶようになっていた。
けれど結局答えは出て来なかった。こんなにか弱い人間に、
「───────────
しかし今、その答えがようやく分かった気がする。……いや、もしかしたら分かっていないのかもしれない。分かった気になっているだかなのかもしれない。
良く聞く言葉。頭では無く、体では無く、心でそれを理解したというやつなのかもしれない。だから言葉に出来ないのかもしれない。
「……………………言わなきゃ駄目ェ?」
「駄目……じゃない。………けど、教えて欲しい。じゃなきゃ───信じられないよ……信じたくないよ、怖いよ………」
「………なら───それならァ、アタシが言ったら信じてくれるゥ? みんなじゃなくても良いわァ、アタシだけで良いからさァ。………タクトの疑問にアタシが答えを返したらァ、せめてアタシの言葉だけは絶対に信じるって約束してくれるゥ?」
ジズの言葉に少年が口をつぐむ。しかし数秒思案した後、蚊の鳴くよくな小さな声で「………約束する」と答えた。
それを聞き、ジズは小さく微笑んでから───、
「………きっと生まれて初めての恋だから、実らせたくて仕方が無いってだけだと思うのよねェ」
───一世一代の、愛の告白を行った。
思った程に緊張はしなかった。ぐっと唇を噛み、困った顔をしながら苦しげに目元を潤ませる想い人は、ともすれば拒否を示すようにも見えた。しかし不思議な事に、ジズがそれに怯えるような事も無かった。
実らせたくて仕方が無いだなんて嘘なんだろう。
もはや想いを口に出来ただけでも嬉しかったのだから、
気持ちが伝わっただけで幸せだった。
「…………し─────信じ、信……信じて、良いのか」
酸欠の魚のように苦しげに、しかし過呼吸のようにも呼吸を乱した少年の言葉に悪戯げな顔をしながら「約束破るのォ?」なんて返してみれば、彼は悪事がバレた子供のように唇を引き結んで黙り込む。それが妙に愛おしく感じたジズが柔和に微笑めば、少年は苦しげに目を閉じて「信じ、たくない……」と呻いた。
「あらァ?
「し、信じて……裏切られるぐらいなら………僕は最初から信じたくない………。………『信じなければ良かった』って落胆するぐらいなら、ぼ、僕は『信じなくて良かった』って、思っていたい……」
「大丈夫よォ。アタシを信じて……ね?」
「こ、怖いよ……もう怖いよ………裏切られるのは嫌だ……き、期待外れだって、言われたくない………」
「頑なねェ。イジメられっ子じゃ無ェんだから……」
「もう疲れたんだよ………もう休みたいんだよ………もう───一人にしてくれ───」
「────────」
閉じた瞳から涙を流す少年の慟哭に、ジズは一瞬だけ強い警戒心から目を見開いた。
しかし二秒後には穏やかに目を伏せて微笑んだ。少年のその言葉が今の本心であったとしても、それは『生涯続く程に強い思い』では無い。もしも今の「一人にしてくれ」という言葉が『世界に向けて宣言されたもの』だったら、もはやジズには何の手も打てなかったろう。ともすればこの場から存在ごと消し去られていたかもしれない。
だがそんなことは無かった。
今、自分は、ここに居る。
「………………嘘ねェ」
「………ジズ? ─────んむ」
悪魔の名前を呼ぶ為に薄く開かれた唇に、ジズは優しく吸い付いた。ちゅっと音が鳴るがそれは一瞬だけであり、ジズはすぐに唇を離す。
「……もっかいするわねェ。……ん、………ふん、む……ちゅ。…………もっかい、んむ………」
少年は決して一人になんてなりたくないのだろう。獣人族の森で何があったのか詳しくは知らないが、少年は橘光を失うかもしれなかったと言っていた。
きっと少年は自分と同じ事を考えている。誰かと共に騒ぐ素晴らしい日々が堪らなく幸せで、誰かを失う事で同時にそれが失われてしまうのを嫌がっているのだ。
失って悲しむぐらいなら、いっそ最初から持っていなければ良い。そうすれば失って悲しむ事なんて物理的に有り得ない。
「……ジ、ジズ……やめてくれよ。……こんなの嫌だ、やめ───」
「知らねェ馬ァ鹿。………もっかい」
繰り返す。小鳥がするような
………この少年は無駄に小賢しい。別の言い方をするなら『ちょろこい』この少年は、きっとジズが何を言ったって永遠に言い訳をし続けるだろう。地頭が良いのか、それとも単に頭の回転が速いだけなのか。少年はまさしく「ああ言えばこう言う」を繰り返し、一生逃げ続けるだろう。そして自分では逃げ続ける少年には追い付けない。
だからジズは諦めた。もうこの少年は誰が何を言っても助けられない。少なくとも、自分がどれだけ言った所で時間の無駄にしかならないだろう。
だからジズはキスをする。幾度と無く繰り返される口付けの、その一つ一つにジズは自身の想いを篭めた。
言って聞かないガキが相手なら、体に教え込んでやるしか方法なんて無いだろう。それを「虐待だ」とす言うのなら「じゃあこいつが何しでかして誰が死んでも文句言うなよ?」という話でしか無い。
「………………………ねェ、タクトォ」
やがて少年は何も言わなくなり、どちらとも無く開かれた唇から熱い吐息が漏れ出す頃。遂に少年は片腕を伸ばし恐る恐るジズの体を抱き寄せた。
「……………………………好きィ」
「……………………………僕も……す、好き、です」
「……………………………さっさと付き合えこのヘタレ」
「……………………………もう……もう、
泣き続ける事を止めた少年の言葉に「今更遅ェんだよポンコツ」と悪態をつけば、少年は怯えたような顔で「ご、ごめん………」と謝る。
「アタシじゃ無かったらとっくに置いてかれてるぐらい遅ェんだよ」
「………………まだ、間に合いますか……」
「…………………」
「ぼ、僕は……まだ間に合いますか」
「……………アタシがアタシである事に感謝なさい」
「………………………ありがとう」
「………ちゃんと信じ続けろよォ? アタシの事をさァ」
「……うん」
「アタシが「コイツは信じろ、信じても良い」って言ったら、ソイツの事も信じるのよォ?」
「うん………分かった」
「アタシが「この壺買え」って言ったらちゃんと買えよォ?」
「それは嫌だよ……」
「ンだよ信じろよお
「僕は………僕は、心から信じてる人が道を踏み外しそうになってたら、その人を止めるべきだと思うんだ……嫌われても、約束を破る事になっても………」
「…………………………」
ようやく前を向き始めた少年の言葉にジズが少しだけ言葉を失う。もはや弱々しく泣いていた少年はここには居らず、ここに居るのは普段の調子を取り戻した少年。
良かった。浮き沈みが激しい少年で逆に良かった。これが滅多に沈まないタイプであれば引き上げる事は容易では無かったろうが、沈み易い少年が浮き上がり易い少年で本当に助かった。
「信じてるからこそ、言いなりにはならない。………駄目、かな」
今ここに居るのは、無意味に口の回る、生粋の愚か者。
「…………及第点」
「………これから一生懸命、精進します」
どちらとも無く顔を近付け、どちらとも無く唇を合わせる。
そこに小鳥はもう居なかった。
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