4-7話【心の底】
「にぃぃぃぃぃえぁぁぁああああ─────ッ!」
ぽっきりと途中から折れた両刃の大剣をガリガリと引き摺ったトトが、喉を掠れさせる程の力強い雄叫びと共にクレッド・ハロンに向かって猛進する。直立させればトト自身の背丈を超えるだろう巨大な大剣を、どこか気の抜けたような雄叫びと共に引き摺るトトは、しかし驚く程に速かった。
「………っく! ディフェンシブッ!」
近接武器が相手であり、自身との距離も開いている。だから────と、慢心していたクレッドが慌てて
「─────ぁぁぁああああああうッ!」
それを見たトトは一気に地面を踏み抜き、慣性の法則を利用して引き摺っていた大剣を輝く板に向けて力任せに振り下ろす。
その瞬間、板は輝く事を止めて鈍色の金属板へと変化する。スタイルチェンジを終えたクレッドが肩を使ってその板を支えれば、トトが振り下ろした大剣がその板へと無遠慮に叩き付けられた。
「…………うおわっ!?」
ガコォンッという大きな金属音が鳴り、クレッドはその衝撃に思わず呻き声を上げた。
自身の背よりも圧倒的に大きな長方形の鉄板、その裏側にある盾のグリップのような部分を握ったクレッドが板を持ち上げようとするが、
「にええええぇぇぇぇぇぁぁぁあああああああうッ!」
まるで盾のような長方形の金属板などお構い無しに、トトが大剣をぶんぶんと振り回し続けた。
がづんがづんと鈍い金属音が鳴り、板がどんどん斜めに傾いていく。裏面のグリップを握るクレッドは板に押し潰されないよう、そのグリップを背負い込むようにして踏ん張るが、
「痛いっ! 痛いっ! 振動がっ! 痛いっ! 衝撃がっ! 重いっ! 力っ! 強いっひィッ!」
人では無い故の怪力に加え、そもそも重量のある大剣を乱打されているのだ。緩衝材など何にも無いただの板越しでは、衝撃は全てクレッドの背中に伝わって来る。トトの振り回す大剣がガギョンガギョンと派手な音を鳴らす度に、クレッドは情けない悲鳴を上げて涙目になる。
──────と、
「………ぁぇぇ……おてて痺れるのよ……おてて痒いのよ……」
一体いつまで続くのかと思い始める頃、トトはようやく大剣を振り回すのを止めてへにょけた声を出す。
折れた大剣の柄を肩で支えたトトが両手をぐっぱっぐっぱと開いては閉じる…………激しい衝撃の振動により血行が促進されたその手のムズムズ感に微妙な顔をすると、それを好機と見たクレッドは───、
「………ぅぁぁ……俺も背中痺れる感じする……なんか痒いような感じ……」
───トトと同じように血行促進による弊害に苦しんでいた。
しかしクレッドはすぐに「……じゃないっ!」と呟き、長方形の大きな板を地面から引き抜き、ぐるりと回転しながら一気に距離を離す。
まるで大俵を背負う力士のような姿をしながらトトと向かい合うクレッド。長方形の金属板のような武器は四辺が鋭く研磨されている板剣であり、クレッドはその上端側に付いているグリップを握り、反対の手で板剣の下辺を支えるように背負っていた。
「なんかその構え見た事あるのよ。てんちま◯うの構えってやつに近い気がするのよ。バ◯ン様がやってたポーズなのよ」
膝を曲げ、やや前傾姿勢になったクレッドはトトの言葉に「ご、ごめん。俺それ知らない……」と申し訳無さそうに謝るが、すぐに「じゃなくてっ」と
「俺はっ…………………俺は、この戦いは無用なものだと思うんだ。意味の無い争いだと、誰も得しないものだと思うんだ」
中腰で板剣を背負ったクレッドが悲しげに呻く。苦虫を噛み潰したような苦しげな顔でゆるゆると頭を振るクレッドは「投降してくれ。どうか、頼む………戦いたくない、お願いだよ」とトトを見詰める。
しかしトトは「お前アホなのよ」とそれを一蹴する。
「誰も得しないとかどうでも良いのよ。昨日お肉を食べた時に何回噛んだかぐらいどうでも良いのよ。得しよーがしなかろーがどうでも良いのよ」
「じゃあ、何で───っ」
「損するのよ。損してるのよ。今この瞬間もにいみたいな一般ぴーぽーが、おめめの下まっくろにして苦しんでるのよ。トトが戦っても誰も得しないけど、それでもトトが戦うのをやめたら沢山の人が損するのよ。お前顔はカッコイイけど底抜けの甘ったれなのよ、トトのタイプじゃ無いのよ」
「っ」
トトの言葉にクレッドが言葉を失う。ぐっと歯を食い縛って、それでも何とかして争いを止めようと頭を回す。
しかしトトは「そもそもなのよ」とクレッドの言葉を待たない。
「何で剣を構えた相手を前に、トトだけ剣を収めてやんなきゃいけないのよ。二人で銃を向け合って「俺は構えたままで居るけどお前だけ銃捨ててくんね」って言われて「オッケー任せな。銃危ないもんな」って言ってポイする馬鹿居ないのよ。トト死にたがりじゃないのよ」
その言葉にクレッドが体の力を抜きそうになる。しかしスタイルチェンジを解除する直前に、それを躊躇った。
「………じゃあ、俺が剣を仕舞ったら、戦うのをやめてくれるか?」
「お前と戦うのはやめるのよ。トト嘘は絶対に吐かないのよ。けどお前うっちゃらかしたら、トトはダッシュでにいの
板剣を背負う腕に力が戻る。当たり前の話し過ぎる。何の為の時間なのか、クレッド自身にも良く分かっていない。
しかしそれでもクレッドは戦う事への踏ん切りが付かなかった。トトの外観に躊躇しているという事もあったが、それ以上にクレッドはいつまで経っても殺す事に対しての抵抗感を捨てられない優しい男だったのが理由だろうか。
「くっ」
けれどいつまでも躊躇っては居られない。もしもこの獣人の子との戦いをさっさと終わらせる事が出来れば、一切躊躇わずに斬り殺す事が出来れば、その分だけ早く仲間の元へと向かう事が出来る。
逆にここでいつまでもモタモタしていれば、周りで戦う仲間の窮地に手を回せなくなる可能性もある。
どちらも当たり前の話。敵を捨てるか仲間を捨てるか、選ぶまでも無い当然の話。
選びたくない。どちらも選びたくない。どちらも選ばなくて済む、第三の選択肢が無いのかといつまでも悩んでしまう。
『己の問題で他人を煩わせるのは、それが本物の問題だとしても正しい事ではない。しかしながら、問題を抱えたまま歩くのは、火のついた爆弾を抱えているようなものだ。───チャールズ・ホイットマン 大量殺人鬼より』
その言葉が本当にホイットマンの語った言葉かどうかは分からないが、めしその言葉が真実だとするならば───、
「……だったら、戦うよ。君を───こ、殺すよ。……………俺の仲間を守る為に」
うっすらと潤んだ目元でクレッドが睨めば、トトは「最初からそうしろなのよ」と呆れたように肩を竦める。
背負った板剣のグリップを握り直したクレッドは、目を閉じてゆっくりと深呼吸する。
…………………相手を殺すつもりで戦うのなんて、一体何年ぶりだろうか。
「──────ッ!」
瞳を開けるのと同時、板剣を背負い込むように身を低くしながらクレッドが駆け出す。
足裏で地面を滑るように進んだクレッドは両足を大きく開きながら膝を曲げ、
「うるァあッ!」
背負った板剣、その上端にあるグリップを中心にぐるんと板剣を横回転させる。下段辺りから迫り来る金属板をトトは「にぁっ!」と叫んで軽々と飛び越えるが、クレッドは「ぬぇああッ!」と巨大な板剣をぐるんぐるんと回転させ続ける。
背中に背負った板剣を、クレッドは腰を深く曲げながら振り回す。右回転したと思えば即座に手を離してグリップを持ち直し左回転、かと思えばまたすぐに右回転に戻る。それを不規則なタイミングで繰り返すクレッドは、板剣の下から見え隠れするトトの足だけを頼りに少しずつ距離を詰めていく。
けれどその戦い方は、当然トトには効かない。
「とうっ────なーのよっ!」
横向きの振り子のように回転する板剣の中央。裏面にグリップがある支点の部分にトトが飛び乗ると、クレッドはその重さに「うっ」と小さく呻く。
…………通常の人間であれば非常に面倒臭い戦い方だとされる下段寄りの中段攻め。クレッド・ハロンのディフェンシブスタイルは、背負った板剣を『背負ったままの状態で振り回す』事で、自らの身を守りつつ相手の腰から下へと攻撃を行う戦い方をするのが特徴だった。
しかし小柄な体格であるトトにしてみれば下段も中段も関係無い。争う事を嫌がり
「───退いてくれっ!」
背中に背負った板剣以外の重みに耐え兼ねたクレッドがぐうっと体を起こすと、板剣と地面の隙間からトトが地面に着地するのが見える。
「ああもう────退いてくれよォッ!」
それへ向けてシールドバッシュのように突進する。前に倒した板剣へ肩を押し当てながら地面を蹴れば、トトの持つ歪に折れた大剣とぶつかるガヅンという金属音が衝撃と共に鳴り響く。
バッシュの為に向けていた板剣に押し潰されるような体勢になりながら足元を覗けば、トトはかなり離れた位置に着地していた。
「にぃぃぇぇえええあああああああ────っ!」
途端、肉球をてふてふと鳴らしたトトが折れた大剣を引き摺って駆け出す。気の抜けた掛け声に反して猛進するトトは異様に素早く、板剣を持ち上げて距離を取ろうとしていたクレッドの元まで二秒足らずで接近すると、
「でぃぃやあああッ!」
再びクレッドの背負う板剣に向け、力任せに大剣を振り下ろした。
…………途中で折れているとはいえ、そもそもがトトより大きな金属の塊。それが獣人族の筋力によって振り下ろされるだけでなく、駆け抜けたトトの速度も合わされば、
「───ぐぅぅッ!?」
ギュシィッという歪な金属音と共にクレッドが苦しげに呻くのは当然の結果だった。
板剣に打ち付けられたトトの大剣から小さな金属粉が飛び散るが、トトはそんな刃こぼれ何て気にもせずひたすら大剣を使って板剣を乱打する。
「邪魔っ! 邪魔っ! 邪魔あっ! 邪魔なのよおっ! お前があっ! 退くのよおっ! 甘ったれえっ! なのよおっ!」
獣特有の太く鋭い犬歯を剥いて吠えるトトは、都合何キログラムあるのか想像も付かない分厚く巨大な大剣を、まるで帰宅途中の少年が持つ木の棒の如く軽々と振り回し続ける。板剣と大剣がぶつかり合う度に大剣は暴れるように大きく跳ねるが、トトは大剣を斜めに振り回し、八の字を描くように乱打を繰り返していた。衝撃によって手が痺れてきても大剣の柄を取り落とす事無く、食い縛った歯の隙間から唸るように息を吐きながら重撃を繰り返し続ける。
今のトトには
「───ぐうゥゥ………ッ!」
武器の負担など何一つ考えない力任せ過ぎる攻撃の繰り返しにクレッドが呻く。裏面のグリップを握る手と板剣を支える肩に、まるでハンマーを叩き付けられているかのような重い一撃が繰り返される。
…………最初こそトトとの相性が良くないと思ったクレッドだったが、今にしてみればこれで良かったと思える。防御に振った板剣だからこそ力尽くの一撃に耐えられる事が出来ているのだ。これがキャサリンのであれば即座に回転を止められ一撃で長剣をへし折られているだろうし、ソラが相手であれば今頃トトは死んでいるはずだ。
そこまで考えて、いや、と無駄な思考を振り払う。相性の良し悪しは関係無い。問題なのは最初に日和ってディフェンシブを選んだ自分自身にあるのだから、言い訳をする権利なんて無いだろう。
…………雌伏の時とはこの事を言うのだろうか。今は亀の如く板剣を背負いながら耐えるしか出来ない。恨むなら臆病風に吹かれた自分を恨むしか無い。
───いっそ賭けに出るべきか?
永遠に続くのかと思える程に繰り返されるトトの乱打にクレッドの脳が諦め始める。大剣がぶつかった瞬間にディフェンシブを解除し、
しかしクレッドがそんなような事を考えるのに合わせたかのようにトトの叫びが大きくなり、
「にゅぅぅぅぅぅぇぁぁぁぁあああアアアアアアアアア──────ッ!」
「─────────ッ!」
トトが繰り返す乱打…………その一撃の重さと速度が倍近くまで増していく。それを受けて、もはや歯を食い縛る事だけで必死なクレッドは自らの考えの甘さを激しく悔やんだ。
体を動かして攻撃し続けるトトと、身を縮めながら防御に徹するクレッドとでは脳内から分泌される様々な物質に大きな差がある。トトは多量のそれらにより疲労感が麻痺し、戦闘高揚によって攻撃性が増しているのだ。
筋力、速度、動体視力、判断力。脳内麻薬により全てが昂り始めた今のトトを相手に、賭けなんて通用するべくも無い。アドレナリンの過剰分泌によってスタイルを切り替えたクレッドの動きはまるでスロー再生のように読み取られ、肉を切らせて骨を断とうとした所を武器ごと刈り取られかねない。或いは切り傷の一つぐらい付けられるやもしれないが、対価として骨を折られれば本末転倒だろう。
「───ぐっ! ……くっ、うぐっ、ぐうぅ……っ!」
生前は世界を救った本当の勇者として数多の戦闘を乗り越えたクレッドだが、しかしそれは仲間たちの手助けがあっての事………クレッド単騎で旅を終えた訳では無い。頼れる仲間たちと連携を取り、様々な戦略と戦術を駆使して生き延びてきたのだ。
先ず以て、
───耐えろ。耐えろ。耐えるしか無い。
勝機はいずれ来る。脳内麻薬の分泌。戦闘高揚による大幅なパンプアップにも上限があり、またそれは時間制限が存在する。トト自体の
どれ程かは分からないが、とにかく耐え続ける。耐えて耐えて耐え続けて、トトの攻め手が鈍った瞬間に刃を返す。心は痛むし数週間は悪夢に苛まれるだろうが、それでも仲間を殺されて一生泣き続けるぐらいなら───、
───俺は、悪になる事すら躊躇わない。
歯を食い縛って耐え続けるクレッドの決意は、しかし遠くから聞こえて来た品の無い言葉に雲散霧消してしまった。
───────
「………何ちゅーかさぁ、ほんま甘いよなー」
病的に痩せこけた金髪の男と向かい合った
「甘ったれもええとこやろ。お前もそうは思わんか?」
抜き身の長ドスを首の後ろに担いだ光がそう呟く。刃が剥き出しであるにも関わらず素手で長ドスを支える光に対し、病的に痩せた男は小さく眉根を寄せながら「何が?」と問い返す。
「ウチの大将や。敵味方
不満げな声色と表情をした光が長い金髪を揺らしながらそう言うと、病的に痩せた男は無感情な声色で「そうだね」と答える。
「三対三で乱闘にした方が、少なくとも負けるリスクは減るよね。一対一だと実力差があった時に負けるしか無くなるけど、三対三なら味方のフォローや連携が期待出来る」
「ポンコツが
困った顔をして天を仰ぐ光が溜息を吐くと、痩せた男は「エンターテイナー気質なんじゃないかな」と呟いて右手を振るう。
すると右手の先に青白い燐光がシュォンと小さな風音を鳴らして現れ、それはすぐに小さな包丁へと形を変えた。
「彼の乗ってる猫みたいな生き物、見た感じ戦闘は苦手そうだからね。引っ掻くか噛み付くかぐらいしか出来ないだろ。三対三だと自分が目立てないから、相手の注目が少なくとも一人分は向く一対一を選んだ……………とかって可能性はあると思うよ。劇場型犯罪気質って言えば良いかな」
「あーそれはありそうやな。犯行声明とか予告とかはせえへんやろけど、現場に必ず足取り掴めるヒント的なもんは残したがる気ぃするわ。ゾディアックよりはカジンスキー寄りやろけど───────どうせお前もそのクチやろ?」
声色はそのままに目線を細めた光が痩せた男を見やると、男は少しだけ驚いたような表情をして「どうしてそう思うんだ?」と小首を傾げる。
首の後ろで担いでいた長ドスを下ろした光が「んー」と唸り、左手で長ドスを軽く振るいながら「強いて言うなら多数派の意見を参考にしたって所やな」と答える。
「多数派?」
「せや。世界は右利きが多数派やねん」
そう言って痩せた男の右手に握られる包丁を長ドスで指し示す。
「荒事にナイフの包丁のって持ち出す時ぁ利き手に持ったらあかんねん。利き手は動かしたい通りに動かせてまうから、その手に刃物握っとったら瞬間的な殺意で相手ぶち殺して豚箱入りやすいねんよ。
指し示していた長ドスを下ろした光が「そうでなくともな」と目を細める。
「お前何か妙に慣れとる感じするねん。わざわざ魔法チックな力ぁ使ってまで出すもんがただの包丁って時点でだいぶゾワつくわ。─────何人
「やっぱりそういうのって分かるもんなんだね。………………ごめんね、何人殺ったかは答えられない。覚えてないんだ」
悲しげに謝罪する男は挑発のつもりでそう言っているようには見えない。本心から覚えておらず、本心から申し訳無いと思っているその男に、橘光は奇妙な違和感を覚えた。
表現し難い違和感………いや、表現なんて出来る訳が無い。そも経験した事が無い類いの違和感であり、
だがそれでも、無理矢理にでも何か表現するのだとしたら────、
「………………お前、名前なんや? ウチ光っていうねん。橘光。よろしゅうな。……お前は?」
「ソラだよ。ソラ・タマムシュッド。よろしくね、ヒカルさん」
自己紹介に応じるソラにぶっきらぼうな口調で「さん付け要らん。呼び捨てでええ」と言う光は、どことなくその違和感の正体に気付き始めていた。
まだ確信は無いけれど…………この感覚は
「なあソラ。お前おっぱい嫌いか?」
この男は自分のコンプレックスである体型にちらりとも目を向けていなかったのだから、
唐突過ぎる光の問い掛けに対して、しかしソラは眉一つ動かさないまま「あんまり好きじゃないな」と答える。
「何でやお前ボヨンボヨンのたゆんたゆんやで。ブラ外して仰向けなったらえっらい離れ乳なるけど、こんだけのデカさあったらパイズリかてお手のもんやで。…………えと、何つったか………パイ射やっけ? 完全に埋もれさせたまんまで出すやつ。やった事無いけどウチのサイズならそれも余裕で出来ると思うで? 腹立つ話やけど重力に負けとるし、身長差によっちゃあパイズリしながらちゅー出来るでよ」
訝しむ声色でそう言う光に、ソラは悩むような表情をしながら小さく「昔は人並みぐらいには興味あったと思うんだけどね」と答える。それに光が「何やあったんか。おっぱいに親でも殺されたか。死因おっぱいビンタか」と返すと、ソラは笑いながら「それは無いけどさ」と答える。
「………昔女性の胸を食べた時、物凄い胸焼けがしてさ。脂肪の塊っていうのは知ってたんだけど、食べてから何日もずっと気分が悪くて…………それ以来、女の人は胸だけ残すようになっちゃって」
どこか懐かしむような声色で「だから女性の胸には興味が湧かないんだ。ごめんね」と謝るソラに、光は「あぁ……お前
可能性はあったかもしれない。
けれどそれは成り立たなかった。剣と魔法が成り立つ異世界であっても、
「お前ん事は良く分かった」
「そっか。それは良かった」
夢見る
「さっさと終らそか」
その言葉にソラが某か応じるより早く、光は地面を蹴って駆け出した。
前傾姿勢で疾駆する光は、体を斜めに折るようにしながら左に担いだ長ドスを一気に振り下ろす。
常人であれば目で追うだけで体が動かないだろう速度を乗せた光の長ドスを、ソラは何も言わず容易に回避する。
「───知っとるわアホ」
しかし光は一切動じず、振り下ろした長ドスを返して力任せに切り上げる。
その動きを目だけで追ったソラが右手の調理包丁の腹を使っていなしに来る。
カキュィッという軽い金属音が鳴り響くのに合わせ、光が左肩に力を入れて包丁ごと切り上げ───、
「──────ッ!?」
───動かなかった。光が振るう長ドスが、ただの調理包丁に押さえ付けられたままで微動だにしなかった。
「………ぐっ!?」
頭に意識を向けてから再度腕に力を込める。四割だったから駄目だったのかと脳のリミッターを五割まで外した光だったが、しかしソラの持つ包丁は長ドスと触れ合ったままギリギリと軋むだけで一切動かない。
そう、一切動かない。包丁も、ソラの手元も。脳のリミッターが外れた橘光の怪力に押されながら、しかしピクリとも動かない。
震え一つ無く怪力を受け止めるソラに背筋が寒くなるような感じがした光は、急いで距離を取ろうと地面を蹴────、
「ごめんね」
「……………はぇ? ──────ぉぐッ」
まるで股割りか四股でもするかのように上げられたソラの足裏が、何も理解出来ていない光の腹を蹴り飛ばす。過去に経験した事が無い程に強い衝撃に吐瀉物を撒き散らしながら吹き飛んだ光は、その蹴りの強さに受け身すら取れずゴロゴロと鳴らして転がって行った。
────見えんかった。なんで?
「っぐ……なん────」
かろうじて長ドスだけは手放さなかった光が苛立ち混じりに顔を上げれば、そこには眼前まで迫るソラの包丁。脊髄反射で全身を捻った光が飛び退りながら包丁を蹴り飛ばそうと踵を振るうが、
「ごめん」
蹴られるより前に包丁を手放したソラは、空いた右手で光の足首を掴む。万力で締められているかと思う程の力で足を掴まれた光は、しかしそれを脳が認識するよりも早く一気に放り投げられる。
「───ぐっ………くッ」
つい先程までソラが立っていた場所まで力任せに投げられた光は、そのまま転がるように近くの木へと駆け出す。
眼前に迫る木と今まさにぶつかり合うという瞬間、光は木の根本に足を押し当て一気に膝を曲げてしゃがむ。そして押し当てた足を力任せに伸ばし、ソラの股下を抜ける為に肩でスライディングするかのように滑ると、
「あっぶ────
肩で地面を擦りながら滑る光の真上をソラの足が通り抜けていく。ベギョオッという冗談みたいな破砕音を鳴らしながら木に靴裏をめり込ませるソラの足元を滑りながら、光は悪態を突いて距離を取った。
そして今にも迫って来ているだろうソラに向けて振り向きざまに長ドスを横薙ぎにするが、しかし光の意に反してソラは光を追い掛けて来てはおらず…………光の振るった長ドスは空を斬るだけだった。
「………何でそんなに怒ってるんだよ」
太い生木にめり込んだ足裏をぽこっと抜いたソラが、悲しそうに首を傾げる。その背後では綺麗にくっきりと足型を付けられた木があって……………普通の蹴りではそうはならないだろうその足跡に、光は強い既視感を覚えていた。
「どうしてそんなに機嫌が悪いんだよヒカル。…………違う、ヒカルだけじゃない。キャスもそうだった。俺には分からないよ。みんな何でそんなに怒るんだ」
悲しげな声色で瞳を下げるソラが右手を振ると、右手の先に青白いような光がシュォンと小さな風音を鳴らして現れ、それは再び小さな包丁へと形を変えた。
「教えてくれないか、ヒカル。それまで待つから」
ゆらりと包丁を構えたソラが光を見詰める。「………何の話やねん」と呟いた光は光は、足を浮かせないように地面を擦って距離を取る。
「さっきヒカルは怒ってたじゃないか。一思いに殺してやろうとしたのに、どうしてヒカルはそんなに怒るんだ。キャスもそうだった。殺して欲しくない感じがしたから殺さないでいたのに、あの時のキャスは凄く怒ってた。何でなんだ。俺には分からないよ」
酷く悲しげな声色をしたソラが今にも泣き出さんばかりの表情をしながらゆるゆると頭を振る。冗談や煽り等では無く、本心から分からなくて悲しんでいるように見えた光は舌を吸うように「チッ」と大きく舌打ちをした。
「………キャスだかカスだか誰ぞか知らんが、ウチ以外の人の話はウチ以外の人に聞けやボケ。他所さんの話をウチに聞いたかて知らんとしか言えんわダボが」
「ならヒカルが怒ってる理由を教えてくれ。さっきだけじゃない、今も怒ってるだろ。それは
苛立ちを隠しもしない光に、ソラがますます悲しげに俯く。殺し合いの最中であるにも関わらず両手を下げて俯くソラに、しかし光は何も動く事が出来なかった。
…………橘光は空気を読まない女である。人の良いタクトに対して『いつものメンツ』が絡みたがる中、周りを優先して一歩引く
それ故、橘光はお約束を一切気にしない。相手が変身中だったとしても「戦闘中やんに長々変身すんなや死にたがり」と攻撃するし、必殺技を使おうとチャージなんて始めれば「敵の真ん前でアホかお前」と攻め立てる。
しかし目の前で両手を下げて悲しむソラ・タマムシュッドに対して、橘光は一切の攻撃を仕掛けなかった。それはソラの感情に移入しているからという訳では無い。橘光は感情で動かない。
「………………チッ」
口を吸って舌打ちをする光は、今の無防備なソラに対して攻撃を仕掛ける意味が無いと考えていた。
苛立たしげに体を起こし、口の周りの吐瀉物を手の甲で拭いた光は酸味と苦味の残る唾液を地面に吐き捨てる。
────そう、吐瀉物。踏み抜かれるようにしてソラに蹴られた体が、その衝撃に耐え兼ねて逆流した胃液の混ざる唾液。
…………橘光は生前に起きた事故により脳のリミッターを任意で付け外しが出来る。鍛え抜いた人間でも三十パーセントまでしか身体機能を活かせないとする中、光は五十パーセントをデフォルト値として立ち回っている。
それは決して攻撃だけでは無い。橘光は意識を向ける事が出来る部分の筋肉は全てリミッターを外す事が出来る。
そしてついさっきも腹筋に力を入れたはずだった。…………だが結果は吐瀉物混じりの唾液を吐き捨てている通りである。
ソラの蹴り一発でこれだけダメージを負った事に、光は心底から嫌なものを感じていた。
今のソラに仕掛けても意味が無い。或いは今のソラだけでは無く、そもそもソラに何を仕掛けても意味を成さない可能性が高い。
──────…………もしかすると、もしかするかもしれない。
「────────シッ」
通常五十パーセントのリミッターを六十パーセントまで引き上げた光が地面を蹴ると、自分が息を切った音が少しだけ遅れて聞こえる気がした。文字通り音を置き去りにしながら疾駆、体を右下に折り曲げるような形になった光が勢いを乗せた左手の長ドスで一気に横薙ぎにするが、
「そうじゃ無いんだ」
痩せて落ち窪んだ目元を悲しげに歪ませたソラは既に包丁を構えていた。
「ッおルァ───ッ!」
だがそれを視認した光は歯を食い縛ってリミッターを七十パーセントまで引き上げた。
足裏に力を込め、右下に傾けていた体を一気に起こす。すると光が振るっていた左手の長ドスは、光の肩が上がるに伴い斜め上に向かって軌道を変える。
常人であれば目で追えた所で体が動かない速度での方向変更に対し、しかしソラは右手の包丁でそれを容易に受け止める。まるで地面に向けて鉄パイプを叩き付けた時のようにめり込むような感覚が長ドスから伝わる頃には、気付けば間近に迫っていたソラの右手。
「ぉご─────が、おぁッ」
アッパー気味のボディブローが光の腹にめり込み、光はごろごろと転がりながら吹き飛んでいく。
受け身の一つも取らず、長ドスすらもを手放した光が吹き飛んだ先で仰向けに転がる。
「………………………」
腹筋から鈍い痛みを感じる。皮膚の痛みでは無く、筋肉周りの痛み。過剰なリミットブレイクにより顔周りの毛細血管が千切れたのか、触れられてもいない鼻からもどろりと温かい液体が垂れていくのを感じる。
しかし光はそれを拭いもせず、最早起き上がる事すらしなかった。
遥か上空、木の葉の隙間からうっすらと見える上空を見上げながら、光は大の字で荒く息をしていた。
雲が動く様子が見える。鳥は見えない。森の上の空なのだから一匹二匹は飛んでいるのかもしれないが、木々の隙間から見上げる小さな青空では飛んでいたって見えやしない。
鳥は見えない。飛ぶ鳥は一羽たりとも見えやしない。
誰も
この
「………………………はあ」
不思議な気分だった。何もやる気が起きない。こんな気持ちは、傷害致死で有罪判決を受けた時以来だった。
たった一撃。たったそれだけで、光は全てを察してしまったのだ。
─────自分はこいつに、絶対に勝てない。
技術面での勝ち筋はある。技術面でだけなら勝つ手段は腐る程に浮かぶ。それぐらいこの
だけど光はソラ・タマムシュッドに勝てない事を理解していた。小手先に限らず極め尽くした技術ですら、圧倒的な暴力の前には成す術が無い事を、誰あろう自分自身が日頃から証明していたからだ。
「………………………あーあ」
小さくも重い溜息を吐き出せば、ぶん殴られた腹筋が酷く痛む。その痛みに意識を向ければ、心臓が脈動するのに合わせてズクンズクンと痛むのが分かる。
「アホくさ」
口を突いて思わず悪態が飛び出てしまう。本当なら何やそれと言葉を繋げるつもりだったが、思いに反して喉が妙に動かなかった。
─────馬鹿じゃねーの。
苛立ちの一つすら湧きもしない。脳への多大な負荷───早い話が寿命を対価に筋力を七十パーセントまで引き上げたにも関わらず、長ドスでの一閃を受けたソラの包丁は微動だにしなかったのだから、もう嫌気所の話では無い。
金属製やコンクリート製の壁を殴った時とは違う、刀身がガコンと弾かれる事の無いその防御は、自分が長ドスを使ってするそれと酷似していて────。
「……………………お前さあ………。……………脳みそイカれてたりせえへんか…………?」
仰向けのままで疑問を投げる。思ったよりも声が掠れて小さくなったが、しっかりと聞き取ったソラは遠くから「どうしてそう思うんだ?」と聞き返す。
光はその言葉に何も言わなかった。言葉を発する気力すら無い。疲れた訳では無く、何もやる気にならなかった。
けれどソラは光の言葉を待ったまま黙り、無意味な沈黙に苛立った光は腹に力を入れて「……はあ」と喉慣らしをする。
「……………ウチは脳みそんタガぁ外せる。七十パー意識してドス振ったんに、お前の包丁ビクともせんかった。………ウチの七割よりお前の方が上ってどういうこっちゃビチグソが。お前もウチと同類の
嫌々言葉を紡いだ光がそう言うと、ソラは「何で七割なんだ?」と問い掛ける。求めていた答えでは無かった光が天を仰ぎながら「あぁ?」と呻くと、ソラは何でも無いような声色で「七割にした理由が分からないんだ」と問い直す。
「ヒカルは脳のリミッターを外せるんだろう? なら最初から百パーセントで行けば良いじゃないか。どうして七割だなんて半端な数値を選んだんだ」
「……………アホかお前、おつむのタガぁ百パーまで外して脳みそ無事で済む訳無いじゃろが。七十パーの時点で鼻周りの血管ぶっ千切れて鼻垂れとるんに、百パーなんぞ出したら脳みそ爆ぜるわダボが」
乱れていた呼吸が整って来た光が変わらず仰向けで横たわったまま応じると、ソラは納得したように「ああ、ヒカルはそうなんだね」と呟いた。
「俺はそういうの無いんだ。生まれつき筋力のリミッターが外れてるんだけど、ヒカルと違ってそういう反動みたいなのは何も無いんだ、そういう風に生まれたんだろうね。だから俺は最初からずっと百パーセントを出してるんだ、代わりにそれより下に出来ないんだけど」
何の気無くそう言ってのけるソラの言葉に、光は吐き捨てるように「………くっだら。何やそれ、どこの量産型俺ツエーやねん」と全身の力を抜いた。
…………全身の力を抜いて、何もかもを諦めた。
「そろそろ教えてくれないか。さっきは何で怒ってたんだ。さっきだけじゃない、今もだ。今もヒカルは怒ってるだろ。……どうして怒るんだ。教えてくれ。俺には───俺には本当に分からないんだ」
悲しげな声色で話を戻すソラだったが、光は吐息のような溜息を吐くだけで何も答えない。
────おもんな。馬鹿じゃねーの。
自身も大概なチート能力を持っていると思っていたが、それを容易に上回るクソチートを前に光はもう悪態を付く気力すら湧いて来なかった。
後天的に得た自身の才能。ヤの字の家系に生まれた橘光の、父を狙ったはずの爆発事故に巻き込まれて頭を強打した光が偶然得たその才能。
努力して得たものでは無いけれど、それは自分を形成するアイデンティティのようなものだった。
自我が崩れる感覚がする。正しいと思って進んでいた道が実は違っていた時のような感覚。周りと一緒に行動していたつもりが、ふと振り返れば誰も居なかった時のような感覚。
「教えてくれ、ヒカル。お願いだ。俺は知りたいんだ」
ソラの声が鼓膜を震わせるが、脳がそれを処理しない。
剣術に長けている訳では無い。便利な魔法が使える訳でも無い。自分の勝ち筋は筋力に任せたパワープレイによるゴリ押しだけだったのに、それが絶対に通じない相手が目の前に居る。
技術でどうにか出来るかも何て甘い考えは浮かばない。ちょこざいな技術は圧倒的な力の前には意味を成さない。誰あろう自分自身が、そういう戦い方で相手を蹴散らして来たのだから、今ここで多少の小細工を振り回した所で完封されるだけだろう。自分なら、そうだ。
バグを利用してイキっていたグリッチャーが本物のチーターにぶち当たった時のような、まさしくクソみたいな気持ち。「勝てて当然の戦い方で勝って何が面白えんだ」とブーメランを投げたくなるような気持ち。ネット上でイキっていたクソナードがぽっと出の馬の骨に完全論破された時のような気持ち。
生まれ持った才能の良し悪し。勇者として呼び出された男を前に、愚者として呼び出された自分の小ささを見せ付けられることの不快さ。
頭の中が真っ白になる。気分は最悪だった。
「ヒカル、お願いだよ」
ソラの足音が近付いて来る。声を聞くだけで反吐が出るその言葉に、しかし光はもう何もする気が起きなかった。何をしたって敵わないのだ。ナマケモノの如く全身の力を抜いて死を受け入れた方がよっぽどマシだろう。
────もう要らん。さっさと終わらせろや。
口を開いて言葉にしようとした光は、けれどその言葉を形に出来なかった。真っ白な頭の中で、しかし何かがライトの点滅のようにチカチカと
「───────────」
橘光の脳裏に浮かんだのは、誰でも無い少年の顔だった。ストレス性の睡眠不足で大きな隈を作ったか弱い少年の顔。
ぎこちない笑顔で微笑む顔。自分の下らない言葉に怒る顔。初めてであるにも関わらず、好きな人との行為にイキ狂う自分の頭を撫でた時の穏やかな顔。自分の中で果てた時の蕩けた顔。
「………何で泣いてるんだ、ヒカル。俺には分からないよ」
「…………………………」
ソラに言われて、光は今自分が泣いている事を理解した。
けれど当然、何かを語る余裕は無い。
光の頬を熱い涙が零れ落ちる。
謝りたくて仕方が無かった。
護れそうに無いと謝りたい。先に死ぬと謝りたい。
終わったはずの人生。夏の日の蜃気楼が見せる夢のような余生を、長生きさせてあげられなくてごめんねと謝りたい。彼の恋が実るまで生かしてあげられなくてごめんと、声を荒げて謝りたい。
けれどもうどうにもならない。物理的な実力差を小細工で覆せる事例もあるにはあるが、それはある程度までの話。「人間として常に百パーセントの筋力が出せる」なんて意味不明な野郎が相手では、
……………ここで自分が死ねば、きっとこの男はトトかタクトのどちらかに向かうだろう。トトも人よりも高い身体能力を持っているが、文字通り十全の力を発揮出来る男を含めた二対一で勝てる道理なんて無く、すぐに八つ裂きにされてタクトの方へ向かうだろう。そうなれば少年が計画した増援もきっと間に合わない。よしんば間に合ったとしても数多の死者が出る。その中には当然、少年の顔も混ざっているだろう。
「…………………………はあ」
横隔膜は痙攣していない。嗚咽も噛んでいない。鼻水だって出ていない。
けれど涙だけが止まらない。
ソラの足音が近付いて来る。自分の完全上位互換の足音が、ゆっくりと近付いて来る。
─────────悔しい。
生まれて初めての感情。こんなにも強い気持ちは生まれて初めてだった。
羨ましい。自分には無い力を持つ男が羨ましくて仕方が無い。もしその才能が自分にあったら、自分は夢にすらも見なかった小さな片思いを楽しんでいただろうに。避妊している振りでもして、想い人の子を孕む事も出来たかもしれないのに。
だけど叶える術が何処にも無い。自分の片思いは永遠に片思いのままで終わる。片恋至上主義を謳っていたはずなのに、
「………教えてくれないのか。なら殺すよ」
自分の顔をソラの影が覆う。「さようなら、ヒカル」と別れを告げる声が聞こえる。
その言葉を聞いた光は、自分の頭の中が真っ赤になるような感覚を覚えた。
─────「さようなら」やと?
耳鳴りが聞こえる。頭の中で真っ赤な何かが糸を引きながら蠢くのが見える。
自分の上位互換みたいな男が、今の自分では言いたくても言えない別れの言葉を口にしている事に激しく苛立つ。
何もかもがイライラする。全てが憎い。自分には出来ない事が出来る男が、自分には言えない事を言える男が、自分が持つ何から何までを全て掻っ攫っていくような言葉に胸の奥が熱くなる。
────お前に出来るなら、ウチにもやらせろ。
やりたい事をやりたいように出来ない自分に、やりたい事をやりたい放題している男が包丁を向ける。
気に食わない。納得出来ない。理解も出来ない。許す事なんて出来やしない。
お前にそれが出来るなら────、
「───全身全霊、心の底から心行くまで───」
────自分にだって楽しませろや穢多非人が。
心臓の奥の更に奥、まるで魂が燃え上がったように胸が熱くなった光が体を一気に捻る。仰向けだった状態にも関わらず目にも留まらぬ速度でうつ伏せになった光は、そのまま足を伸ばして力任せに振り払った。
「ッ!?」
完全に諦めた光に気を抜いてしまっていたソラはその動きに反応が出来ず、光の足払いを完全に受けてしまった。右の
直後、ソラの頭があった場所を光の足が音も無く通り過ぎていく。巻き起こされた風がソラの前髪を僅かに揺らすと、そこでようやく空を切る小さな音が聞こえる。
吹き飛ばされた時のように後方へと飛び退ったソラが目だけを動かせば、まるでカポエイラのように足を回していた光が自身に向けて駆け出す姿が見える。
「────くっ」
目で追う事ですら必死な程の速度で迫り来る光………にも関わらず、ソラの目にはまるでスローモーションのようにゆっくりと近付いて来るように感じられる。包丁を向けて応戦しようと右腕を動かすが、その腕すらも持ち上がるのに時間が掛かっていた。
しかし獣のように牙を剥いた光には、ソラのそんな事情なんて何も関係無い。先程とは違い長ドスを持っていない素手なはずなのに、その四つの犬歯は獣のそれと違って小さく頼り無いはずなのに──────迫り来る光の姿に、ソラは生まれて初めて恐怖という感情を抱いた。
殺される。………殺される? 誰が? 自分が?
自分は殺す側のはず。いつ殺される側に切り替わった?
「───────光ゥッ! トトォッ! ラムネェッ!」
遠く離れた位置から聞き覚えのある声が聞こえると、ソラはハッとなったように目を見開く。対して光はソラとは逆に目を細め、今にも噛み千切らんとしていた体を急反転させて後退する。
「─────乱パすんぞォッ! 集まれェッ!」
少し離れた場所から聞こえてきたのはそんな言葉。良くもまあそんな言葉を叫べたもんだと笑いたくなるようなその言葉だったが、それを聞いた光は声の方向に目を向けながら「っはは! ……言うようんなったやんあいつ」と口を開けて笑う。
何を思ったか殺すのを止めて距離を取った光を見て少しずつ後退するソラが、動く度に不規則に揺れ動いては激痛を発する右足に眉間を寄せる。痛みと冷や汗を歯を食い縛りながら耐えれば、ソラに向けて目線を流す。
────その視線にソラが
それを左手で掴み取った光は、もはやソラには見向きもせず声のした方向へと駆け出して行った。
「──────────今のは」
土埃で茶色く汚れた光の背中を見送る事になったソラは、体から力を抜いて仰向けに倒れた。
奇しくも先程の光と同じような体勢になったソラは、先程抱いた感情に付いて考えるぐらいしか、今はもう出来る事が無かった。
………
「………………分からないな」
呟きながら頭を巡らせるが、しかし解は出て来ない。
ただの豚だと侮っていた。生前に山程居た豚と同じ、自分にとって都合の良い鳴き声しか発さない豚の一匹だと思っていた。平和の歌を歌いながら肉を食らい、自然愛護を
自分が作った何の根拠も無い
「……………………」
ソラ・タマムシュッドには分からなかった。こんな経験今まで一度も無かったソラには、何で自分が屠殺される側に回ったのか何も分からなかった。
「……………………………ヒカル。タチバナ、ヒカル」
気になる。興味が湧く。彼女は自分の知らない事を沢山知っていた。
キャサリンと同じように
「…………ヒカル」
その名を改めて呼んでみると、まるで布団に包まった時のような温かみを感じる。十年来の付き合いのような郷愁が胸の中を巡り、彼女が最後にしていた微笑む横顔が脳裏に浮かぶ。
…………もしかすると彼女は豚の一匹では無いのかもしれない。数多居るゴミのような豚とは、絶対的に何かが違うのかもしれない。
彼女の事をもっと知りたい。自分が知らない事ばかり知っている彼女の事をもっと知りたい。彼女が知っている事を教えて貰いたい。
それが淡い恋心の始まりだなんて事は、しかし孤独なシリアルキラーには知る由も無かった。
───────
「………あっ、ヒカルっ!」
それはさながらストライド走法の如く。やたらと長い足を大きく開きながら駆け抜ける光の姿を見たトトは、パッと顔を綻ばせると文字通り力任せに振り回していた大剣の動きを止めてクレッド・ハロンから距離を取る。
一直線に走っていた光がトトの位置に向けて進行方向を微調整すると、光は何も言わずにトトまで接近し────、
「にいが呼ん──────ぐぅえ」
────トトの体を右腕で抱き
何とか大剣は落とさなかったものの、抱き寄せられた時の勢いと衝撃で腰の辺りをグネったトトが「ぅえあぁーっ!? さらっ攫われるのよーっ!」と苦しげな悲鳴を上げる。
「トト拉致られちゃうのよーっ! そして手錠と首輪を着けられて路地裏で売られるのよーっ! でも中々売れなくてその内格安で叩き売りになってエッチな事目当ての男の人に買われるけど意外と優しくされてトト惚れちゃうのよーっ!」
トトの猛攻を板剣で耐えていたクレッドが「いやに具体的だ……」と呟けば、遠くから「パパトトが持ってた本の通りになっちゃうのよぉーっ!」という言葉に「……良い趣味してるお父さんだ、多分仲良くなれる」と一人で納得する。
金属板越しにも関わらず無遠慮に乱打されていたクレッドが痛みと衝撃に軋む体を起こす。一瞬の間に小さくなった背後に目を向ければ、その服には見覚えがあった。
「………まさか、ソラ……? ソラが負けたのか……?」
冷や汗が垂れる。背筋がざわつき、嫌な予感が脳裏をよぎる。あの男が負けるとは思えないが、あの服の色は確かにソラが戦っていた女の人と同じ色。
「────ッ! キャスッ!」
そのソラと戦っていた相手が向かったのはキャサリンが居る方向。大きな猫っぽい怪物に乗った青年の居る方向。さっき聞こえた下品な雄叫びは彼の声。
それが意味する事が何なのか、方程式に合わせる必要すら無い。板剣のグリップを握り直したクレッドが「スピーディッ!」と叫ぶと、板剣は燐光のような輝きを放ちながら霧散していく。かと思えばそれはクレッドの両足にまとわり付く。
…………あの女の人と戦っていたソラがどうなったのかは気にならない。何らかの理由で戦闘不能になったのは分かるが、少なくともソラが殺されるような事は無いだろう。ソラと手合わせした時の理不尽な強さを思い出せば、どうにかして生き延びているはずだという強い確信を得られる。
だがソラが殺しを躊躇うとも思えない。ソラ・タマムシュッドという男は、クレッドが生前出会ったどんな悪人よりも純粋な悪………殺す事が悪い事だとすら思えない、本当の悪人なのだ。
そんなソラと殺し合って、それでもあの女性が生きているという事はつまり、あの女性はソラを上回ったという事になる。
「キャスゥッ!」
流線型の高速度形態へとスタイルチェンジしたクレッドは、まるで糸を引くような青白い輝きを後に残しながら地面を蹴って駆け出した。
───────
「く……っ! 品の無い小細工を致しますのねっ!」
誰の影響を受けたのか。死ぬ前の僕だったら死んでも言わないだろう下品な言葉を叫んでみると、一瞬でその言葉の意図を読み取ったキャサリンさんが歯噛みしながら僕を睨む。けれどその眼光は直前にしたそれと比べればだいぶ弱々しかった。
「秒も掛からず意味が分かる時点で、貴女もきっと同類だと思うよ」
言葉の意味か、それともその言葉に含まれた意味か。どちらだったとしても構いやしない。
視界の端に映るのは茶色いバッグを抱えて猛進して来る光。ゲームでは無い本当の殺し合いでは、敗北イコール即ち死を意味する…………だから品の無い小細工であっても構わない、勝てなければドブなのだ。どんな手であっても出す手を惜しむべきでは無いとしたのは、他でも無いキャサリンさん自身─────。
「………ん? 茶色いバッグ?」
待ってくれ。………あれ? バッグ? いやここに来る時の光は長ドス以外には何も持っていなかった気がするが……。見間違いの可能性を考慮して目線を戻して二度見すれば、光の右腕には絶望的な表情をしながらがくんがくんと体を揺らす
「おるるぁぁぁああ───ッ!」
野太い巻舌で吠えた光が乱雑にトトをぶん投げると、トトは「ほっ、ぎぃぇぁぁぁああああ──ッ!」と叫びながら高速回転。まるで命綱とでも言わんばかりに刀身の折れた歪な大剣を握り締めたトトが二人居るキャサリンさんの内の片方へとぶっ飛んで行く。
「ぁぁぁぁああああああああああ───ッ!」
「なちょ何─────ぉぐっあ」
身を守る為だろうか。まるで団子のように体を丸めたトトがドズんっ、という低い音を鳴らしてキャサリンさんの土手っ腹に激突する。二人纏めてゴロゴロと吹き飛ぶ中、猛進を止めない光がもう一人のキャサリンさん目掛けて一直線に向かって行く。
「────くっ」
珍しく両手で長ドスを持った光がそれを最上段に構える。矢のように疾走してくる光に向けて柄の長い長剣を構えて防御姿勢を取ったキャサリンさんだが、一切速度を緩めない光は長剣を斜めに構えたキャサリンを、
「────か、」
長剣ごと袈裟斬りにした。
ギョンッという何だか面白い金属音と共に長剣を叩き斬った光は、珍し区両手で持っていた長ドスをすぐに片手持ちへと切り替え、ゴミを払うかのような仕草で「退けァッ!」と吠え燕返しのように薙ぎ払う。
そんな一連の流れに長剣ごと袈裟斬りにされたキャサリンさんは目を見開いたまま何一つ反応出来ず、叩き斬られて宙を舞っていた長剣の断片と共に真横に斬り捨てられていく。
「───────」
都合三つの肉片へと変えられたキャサリンさんが声も無く崩れ落ちる。………斬られた瞬間は思った程血が出なかったものの、どちゃりと地面にばら撒かれると思い出したかのように断面から深紅の液体が流れ出し、持ち主と同じように三つに叩き割られた金属片がチャリンと甲高い音を奏でる。
「…………………」
………………橘光という女が異次元の強さを持っている事は知っていた。けれども今の光の動きは目で追う事すら出来ず、僕が視認出来たのは残像のようにぼやけた影の動きだけ。そんな事は過去に一度も無く、僕は目の前で何が起こったのかを理解出来なかった。
「「……………おえっ」」
と、そんな事を考えていると、死体とは別の方向から嘔吐く声が聞こえる。ハッとなって目を向ければ、回転し過ぎて酔ったトトが茶色掛かった黄色い胃液を嘔吐する姿。そしてその隣で土手っ腹にトトが激突して来た事で同じようにゲロを吐くキャサリンさん。
「…………なにが、」
何が起こったのか理解が追い付かない僕が呆然と呟くと、水が蒸発する時のようなじゅわじゅわという音と共に斬り捨てられた方のキャサリンさんが煙となって掻き消えて行き、それを見た光が「……あ?」と呻く。二対一での乱闘を強要されている内にどちらが本体なのか分からなくなっていたが、光が斬った方が分身の方だったのだろう。気付けば長剣と共に塵一つ残さず消えるように居なくなっていた分身を見やりながら、光が「……なるへそ?」と呟き、死体から目線を外す。
見やるはもう一人のキャサリン・スムーズ・ペッパーランチ。
「─────させないッ!」
僅かなドップラー効果を起こしながらやってきた男が異様なまでに速い速度でキャサリンさんを抱き抱え、すぐにその場から離れる。目で追う事すら危うい程の速度で現れたその男は、青白い残光を引きながらその場から跳躍。太い木の枝に飛び乗って光から距離を取った。
人であれば有り得ないような速度で跳躍したその男の動きにネコ科のラムネが少しだけ反応したが、僕は条件反射的に「ラムネ、駄目」とそれを止めた。
「………………」
ラムネに向けて言ったつもりだった僕の言葉を聞いた光が構えていた長ドスを下げると、濁った目をしたトトが千鳥足でこちらへと近付いて来る。
「……あぁう……。目ぇ回るのよ……目ぇ───ンッグ……っあぁ……。……吐きそうなのよ………げー吐きそうの────オェッ」
死屍累々とはまさしくこの事か。周りの雰囲気なんて気にしている余裕の無くなったトトが、
「………ほんで? どうすんねお前」
ぐったりとしたまま動かないキャサリンさんを担いだまま木の上から降りて来ない男に光が呼び掛けるが、男は神妙な面持ちで黙ったまま動かない。
「
呆れたような声色で煽る光だが、やはり男は何も言わずに動かない。それを見た光は溜息を吐き「悩めば悩むだけ、片足飛んで血ぃ吹いとる奴の失血死ぃ早まるで」と呟くと、男はビクリと体を震わせ眉根を寄せる。
「ゴミみてえな喧嘩でも売ったからにはカッチリ勝てっちゅーねん。勝てへん喧嘩売って後悔しとんならさっさとケツ捲って無様に逃げろチンカス」
肩に長ドスを担いだ光が口汚い言葉で締め括るが、しかし珍しく光はそのまま動かない。やろうと思えば木の上の男に向かって飛び掛かる事が出来るだろう光は、けれど光なりの慈悲なのか相手の判断を尊重するようだった。
だが男は悩んだまま動かない。僕たちのように援軍の可能性があるからか、それとも別の理由があるのか。時間だけが無為に過ぎ、やがて苛立って来た光が遂に足裏で地面をパタパタと叩き始めるようになる。
誰がどう見ても不機嫌になっている事が分かる様子を見せ始めた光が「ドブか生き恥か早よせえダボ」と声を荒らげ始めれば、目線を彷徨わせて悩んでいた男はようやく意思が固まったのか無言で木から飛び降り、キャサリンさんを抱えたまま一目散に駆け出していく。
青白い残光を引いた男は来た方向へと戻って行き、光は鼻から長く息を吐き出しながらそれを見送った。
「…………………ふぅ」
これで、多分戦闘終了。…………
青白い残光が点のように小さくなるのを見届けてから、僕も同じように溜息を漏らす。強張っていた全身から力を抜けば、肩周りがじんわりと暖かくなるような感覚がする。緊張して凝っていた筋肉が
命を賭けた殺し合いとて、終わる時はいつだって呆気無い。僕の死以外で終わらないのではとも思えるような攻防でも、光が混ざれば一瞬でカタが付いてしまう。そうして事が済んでみれば、思い浮かぶのは後悔ばかり。
コンビニ前でたむろしながら後の祭りを憂うタイプでは無いつもりだったが…………やはり向いていないと思わざるを得ない。荒事には当然ながら、司令官のような位置に居座る事は、僕にはてんで向いていない。
読みは外れて援軍は無かったし、そっちの方がやりやすいと思ったタイマン戦は実力不足や有利不利を覆す手段に乏しいデスゲーム同然だった。
こういうのは僕には向かない。失敗について考え込んでしまうようなタイプに、
自己顕示欲がある訳でも無ければ承認欲求も無し、であれば自分のお陰で勝ったのだと思っていたいやつにやらせてシコらせていれば良いじゃないか。
…………そうだ、そうだよ。何で僕にやらせるんだよ。
「………はーぁ。疲れてくたびれ疲びれた。さっさと帰るで」
「よだれしょっぱいのよ……喉の奥酸っぱいのよ………息臭い気がするのよ……乙女のピンチ────オエッ」
ボヤきながら千鳥足で歩き出すトトに「いつまで目ぇ回しとるんよ、シャンとしぃや」だなんて事を言う光だが、けれどぶん投げたのはお前じゃ無かったかというツッコミを入れる気分になれなかった。
念の為という意図なのかスケアリー化したままで歩き出すラムネの背に乗りながら、僕は何もかも投げ出したくて仕方が無くて勝利を祝えなかったんだ。
だって光が居なければ、トトが居なければ───ラムネが居なければ、僕はきっと屠殺される家畜の如く何も抵抗出来ずに死んでいただろうから。
そも、僕はどうしてルーナティアに呼び出されたのかすら良く分かっていないような凡人なのだ。文字通りの絵空事にある主人公のように、ある日唐突に荒事に巻き込まれながらも何故か戦闘センスが開花するようなご都合主義なんて存在しない。死体を見れば吐き気がするし、殺気を当てられれば怯えてしまう。
異世界に呼び出されようが何だろうが凡人は凡人でしか無いのだ。もしも生来から戦闘センスや指揮能力があったとすれば、ガキの頃に幾度と無く経験するだろう体育の授業で既に頭角を現して然るべきなんだから。
だけどそれが無いという事は才能なんて無いって事なのに、どうしてみんなこぞって僕に判断を仰ぐのだろうか。魔王さんも、光も、ポルカだってそうだ。獣人の村に入るまでの道中で、あの娘は僕の言葉に何一つ意見しなかった。
勝ったはずなのに、生き残ったはずなのに、どうしてこんなにも気分が沈むのだろうか。
アドレナリンかエンケファリンか。まさしく麻薬の高揚状態が切れてしまえば、後は落ちる事しか出来やしない。
落ちるだけならまだマシか。僕の前方を歩くトトと光に、僕は「まさか」と疑念を覚え始めてしまっていた。
………もしかして、もしかしてみんなは僕を潰そうとしているのではないか? 堂々と殺せば周囲の目に留まるから、責任を押し付ける事で勝手に圧死するのを待っているのでは?
だってそうじゃないか。光が全部やれば良いじゃないか。メンタルもフィジカルもセンスすらもを併せ持つんだから、わざわざ僕みたいな凡夫に判断を任せる必要なんて何処にも無いじゃないか。
魔王さんが全部やれば良いじゃないか。部下の面々に仕事を押し付けられるのであれば、そのまま城から出て自らが対談に向かえば良いじゃないか。
出来る人が居るなら出来る人がやれば良いじゃないか。出来る人が幾らでも居るのに、何でわざわざ出来ない人にやらせようとするんだ。
そんなの理由は一つだ。
笑いたいんだ。そうだ、無様に潰れた
ギリギリで何とか這い上がった僕を見て「下手なやつだ」と笑いたいんだ。自分の方がもっと上手くやれると悦に浸りたいんだ。
「…………………………」
吐き気がする。頭が痛い。どうしてだろう、気分が悪い。
横になりたい。今すぐ泥のように布団に潜り込み、そのまま沈むように死んでしまう事が出来ればどれだけ幸せだろうかと思った辺りで、僕は何か小さな音を聞いた気がした。
「………………ん?」
パキッという小さな破砕音。乾いた小枝を踏んだ時とそっくりなその音に、ともすれば伏兵かと思わず辺りを見渡すが、しかし当然何も無い。
聴覚に長けるネコ科のラムネが何も反応していないのだから、空耳か───或いは幻聴なのだろう。
だとしたらこの音は、きっと心が割れていく音だったのかもしれない。
───────
「…………まァそんな事になるんじゃねェかなァとは思ってたんだけどさァ…………もうちょっと何とかならなかったのかしらねェ」
私服が黒ビキニにパーカーを羽織っただけという出で立ちのジズベット・フラムベル・クランベリーが顎先を指で撫でながら呟く。気怠げな目線を右へ左へと彷徨わせるジズに「急襲されんの分かっとったんけ?」と光が聞くと、ジズは少しだけ鼻を鳴らしながら「そっちじゃ無ェ」と目線を戻す。
「あの子が強い子じゃ無ェって事ぐらい、まともに目ェ合わせりゃ一発で分かるだろうにさァ………」
「陛下の事です。十中八九、今の陛下はそれが分かった上で彼を弱らせているのでしょう」
首を振りながら諦めを示唆するトリカトリ・アラムの言葉にジズは大きく嘆息する。
「…………ブラザーは今どこに?」
「トトと一緒に部屋ぁ行ったで。にいの部屋ぁ覚えとくのよーっちゅーたトトの頭ぁ撫でる余裕はあってんけど、他はまともに喋らんかったな」
「…………………そうか。ありがとう、ハニー」
そう言って椅子に腰を下ろすパルヴェルト・パーヴァンシーに「行かんのけ?」と光が小首を傾げると、パルヴェルトは「行ける訳が無いね」と目元を伏せた。
「今のブラザーの元へボクが行った所で何の役にも立てやしない」
「側に居て差し上げるだけでも違うのではありませんか? 風邪を引いた時のように、ただ連れ添うだけでも孤独よりはよっぽどだと思いますわ」
「横に居て、一声掛けて、無視されて、「それじゃあもう行くね」って言いながら部屋を後にする事が孤独を紛らわせてくれるとは思えないな」
「ほんならポルカん時みたいに馬鹿騒ぎして誤魔化しゃええやん。黄色い熊が「ぼくのはてぃみとぅ〜」って言うみたいに「ボクのぶらだぁ〜」って言いながら添い寝したったりゃええんちゃうか」
「それはボクの役目じゃ無いね。何せ今のボクにはブラザーを笑わせてあげる事は出来ない。「笑って欲しい」と言いながら重荷になって苦しませる事にしかならないよ」
ゆるゆると頭を振りながら呟くパルヴェルトが小さく溜息を吐く。諦めでは無く、不甲斐無さから来る自嘲の吐息に、彼を除いた不完全な『いつものメンツ』は呆然と天を仰いだ。
「…………あっ、ヒカル居たのよっ! 探したのよっ!」
と、そこへトトが現れる。
足裏の肉球によって一切の足音を消したトトがてこてこと駆け寄って来るのを見た光が「おう」とにこやかな声色で向き直るが、その表情は即座に真面目なものへと切り替わる。
「……………………タクトが
「下手すりゃタクトが城の屋根から降って来るんちゃうか」
「やめてくれハニー。悪い冗談だ」
苦々しい面持ちになる皆に、トトへと憑依先を切り替えたラムネが悲しげな声色で「げぼくげんきない」と口を開き、その言葉を聞いた誰もが表情を曇らせる。
そんな中で、ジズは努めて明るい声色で「貴女がトトだっけェ?」と話題を切り替える。
「…………そっちはジズさんなのよ?」
「あらァ? ヒカルかトリカ辺りに聞いたのかしらァ? お耳が早いわねェ、自己紹介する楽しみが減っちゃったわァ」
「ピアスの人って聞いてるのよっ!」
その場の空気を振り払うかのように元気なトトの言葉に「ピアスゥ? ……あァ、これェ?」とジズが頭を揺らせば、ちゃりちゃりと鳴るそれを見たトトが「おぉ……」と感嘆に呻いた。
「トトもピアス着けたいなって思ってたのよ! それをね、ヒカルに言ったのよ! そしたら「ジズってのが
妙に上手い物真似に笑顔を取り戻し掛けたジズが光に目を向けると、光は「ウチの持論ブチかましたったで」と『いつも』のようにへらへらとした表情を返す。
「………トトもピアス開けんのォ?」
「んー……まだピアスおしゃれだなーって思ってる段階だったのよ。でもジズさんのピアス見てたら、いいなーって思い始めてきたのよ!」
くるくると表情を変える無邪気な獣人に「さんは要らねェ、ジズで良いわァ」と呼び捨てを促すと、トトは「じゃあジズねえなのよ!」と向日葵のような笑顔でそう答えた。
にこにこと元気に笑うトトに小さく「おいで」とジズが手招きすると、トトは躊躇い無くジズに近寄っていく。
「…………ふかふかねェ」
トトの頭を撫でたジズが穏やかにそう呟くと、トトはふにゃりと表情を崩して「えへへぇ」と笑う。毛色や種類こそ違うものの、ご主人様に撫でられたラブラドールかゴールデンのように口を開けて喜ぶトト。
「人間系だったら良いんだけどねェ、トトがピアス開けるっつーなら良く悩んだ方が良いわよォ」
ぴこぴこと動く耳元を指で挟むように撫でるジズに「どうしてなのよ?」とトトが問うと、ジズは「トトのお耳は薄いからねェ」と答えた。
「人間系なら拡張でもしない限りィ、何だかんだ塞がりはすっけどさァ。それァ人間の耳が肉厚だから塞がりやすいってだけなのよねェ」
「……トトのお耳薄っぺたなのよ?」
「だれ────」
トトの『薄っぺた』という単語に対して反射的に「誰の胸が」と言いそうになったジズがぐっと言葉を飲み込めば、その姿を見た他の三人が口元を抑えながら視線を逸らす。トトをぎゅっと抱き寄せるようにしたジズが、トトに見えない位置から三人をギっと睨むが当然誰とも目線は合わない。
「………トトのお耳だとピアス駄目なのよ?」
その様子にトトが心配そうな声色で問い掛けると、ジズはふかふかの頭をもふもふと撫でながら「駄目って事ァ無いわよォ?」と優しく訂正する。
「別にピアス如き開けたきゃ好きなだけ開けてりゃァ良いのよォ、遥か古代からあるファッションなんだからさァ、スプタンするよかよっぽど健全よねェ。……ただトトのお耳だと後戻り出来ねェからァ、変な位置に開けたり開け過ぎたりってしょうもねェ後悔しないようにねェってお話よォ」
頭ごなしに否定せず声を荒らげるような事も無ければ、強く推奨する事すら無いジズ。する事と言えば進みたがる道の先で起こり得る間違いの指摘だけというその姿勢は、種族の違いこそあれまるで母親のようであった。
「………分かったのよ! ありがとジズねえ!」
まさしく聖母の如き微笑みをたたえた悪魔の少女にトトが笑うと、ジズは「どういたしましてェ」と笑い返す。そしてトトから目線を外し、先端が三叉に分かれた特徴的な尻尾を揺らし「ラムネ」とその名を呼ぶと、やる事が無くてうとうとしていたラムネが「んお?」と唸って目をぱちくりとさせる。
「下僕ゥ、元気無かったんだっけェ?」
ジズの問い直しに「げんきなかった」と答えるラムネに、ジズは「どんな感じで元気無かったァ?」と問い掛ける。
「どんなかんじ?」
「今にも泣きそうだとかァ、イライラしてるだとかさァ。元気無いにも色々あっからさァ、もォちっとだけヒント欲しいのよねェ。………分かるゥ?」
……ルーナティアに呼び出される愚者は『最も幸せだった時』を参照して現界するが、ラムネは
そんな悲しい幽霊猫であるラムネ・ザ・スプーキーキャットは異世界に呼び出されてしまったが故に『未練との明確な繋がり』が無く、何かしらの生物に憑依していないと自身を保てなくなり消滅してしまう。
それを本能的に理解しているのか、ラムネは「なんとなく、すき」という理由で常日頃からタクトに憑依ながら
森山拓人という青年の心を「なんとなくわかる」という程度で読み取れるようになったラムネは、今のタクトがどういう気分をしているのかも「なんとなく」程度で把握出来ている。それ故に、タクトが辛く苦しい現実に折れてしまいそうな事をすぐに察知して、有事の際にはタクトを懸命に守ろうとする。
通常の犬や猫では有り得ない事。ただでさえ身勝手な性質を持つネコ科のラムネが、しかし余りにもタクトを守ろうとする姿勢を見せ続ける事からペール博士が疑問を抱き調べ倒した結果分かった事である。
「………んー」
毛並みが横に向いて流れがちな『エクレア顔』と呼ばれるふかふかの顔をしたラムネが悩ましげに唸る。ラムネ・ザ・スプーキーキャットは他言語を解する事から勘違いされやすいが、基本的にただのイエネコ。憑依先との親和性が高まり保護本能が刺激されている関係からタクトを守ろうとしているだけで、それが無ければラムネは本当にただの猫でしかない。
「…………………んんんんー」
「何でも良いのよォ。「何かこんな感じィ」ぐらいのモヤっとしたのでも良いからさァ。………もし知れたら下僕の助けになれるかもしれないからさァ」
眉間にシワを寄せながらうんうんと唸るラムネにジズがゆっくりと諭すように促す。ラムネは猫故に他者の動きに敏感だが、しかし猫故にそれを言葉にする事が苦手である。少年の心情は分かっているが、どういう言葉を用いてそれを伝えれば良いのかが分からないラムネは、
「………ぐるぐる!」
まんまるな瞳をパッと開いてそんなような事を口にした。ジズが思わず「ぐるぐるゥ?」とオウム返しすればラムネは「ん!」と元気に頷く。
「げぼくあたまぐるぐる。……ぐるぐる? ぐちゃぐちゃ? ………んー? んー……………ぐるぐるっ!」
「──────………………………そっかァ」
気怠げな半目を細めて吐息のように答えたジズが「ラムネ、ありがとねェ」と礼を言うと、ラムネは「んい」と唸り、役目を終えたかのようにぐしぐしと毛繕いを始めた。
そんなラムネから目線を離したジズが周りを見渡せば、周りは三者三様に表情を曇らせていた。光は遠くを見詰め、パルヴェルトは悔しげに唇を噛み、トリカトリは悲しげに胸元へ手をやり、トトは泣きそうな顔で俯いている。
「………………まァ、どうする事も出来ねェならどうにもしねェのが一番って感じかしらねェ」
だからこそジズはいつも通りの表情を心掛けながら気の無い言葉でその場を締め括る。トトの頭をぽへぽへと撫でたジズは「ェっごいせェ」と老人のような掛け声と共に腰を上げると、トリカトリを見やりながら「陛下に報告行くんでしょォ? やれる事も無ェしアタシも行くわァ」とその場の解散を促した。
「……そうですわね。忘れておりました。………さっさと行きましょうか」
気の無い言葉。気遣いなんて何も無いかのように聞こえるその姿に、しかし光は当然ながらトトもパルヴェルトも何も言わない。
言えるはずが無い。事実そのものなのだから、黙って見送る他に出来る事なんて無かった。
「…………そう」
玉座に座ったチェルシー・チェシャーが穏やかに微笑む。起きた事柄を一つ一つ説明するトリカトリの
獣人族が調和寄りの同盟を示した事。玉藻前はほぼ戦線離脱と変わらない事。ルカ=ポルカが一時的にその場に残り、代わりとばかり村長の娘が親善大使としてやって来た事。その衣食住の生活に関してはルーナティア国が面倒を見ろという事。サンスベロニア帝国からの刺客と戦闘になった事。その戦闘に村長の娘が混ざった事。橘光が
愚者の少年が、疑心暗鬼と猜疑心に押し潰されてしまいそうな事。
「ありがとうトリカ。もう行っていいわよ」
それらを聞いて、しかしルーナティア国の魔王は殆ど何も語らなかった。
その姿に向けてぺこりと腰を曲げて礼をしたトリカトリが「では、失礼致します」と背を向けその場を後にする。
しかし────、
「…………ジズ、貴女も行っていいわよ」
頭をカクカクと左右に振るジズは、いつも通りの気怠げな顔をしたまま何も言わずに立ち尽くす。その様子にチェルシーが「ジズ」と呼び直せば、その場から去ろうとしていたトリカトリが異変を感じ取りジズへと向き直る。
それに合わせたかのようにジズは「重要な報告が一個残ってるわよォ」と口を開いた。
驚いたように瞳を開いたトリカトリが「えっ」と慌てれば、チェルシーは「あらあら」と諌めるようにトリカトリへ目線を向ける。
「えと………えっ、他に何かありましたか?」
「あるじゃなァい。この国の進退に関わるクソ重要な報告が一個さァ」
「あら。そんな事を言い忘れていたの?」
「もっ申し訳ございません………トリカには皆目検討が────」
「タクト潰したらアタシらこの国潰すぞアバズレって、言い忘れてんぞ」
慌てふためくトリカトリの声を遮ったジズがそう言うと、トリカトリは「……え? 『ら』? トリカも?」と目をぱちくりとさせながら呆然とするが───、
「出来るのかしら。お前如きに」
───直後チェルシーから放たれた脅威的な殺気にトリカトリは「ひっ」と息を呑んで身を竦ませる。
しかしそれも一瞬の事。慌ててジズに駆け寄り「もっ申し訳っ」と頭を下げさせようとしたトリカトリは───、
「
いつもとは全く違う、気怠げに間延びしていない喋り方のジズに強い違和感を覚えて体が動かなくなってしまった。
空気が揺れる程の強い殺意を放つチェルシーに睨まれながらも、ジズはカクカクと左右に頭を振りながら物怖じ一つしていない。
…………トリカトリ・アラムとジズベット・フラムベル・クランベリーはそこそこ長い付き合いである。だからこそ、頭を左右に揺らすジズのその癖が、心底から苛立って機嫌の悪い時にのみ起こるものだという事をトリカトリは良く知っていた。
だからこそ、どうしてジズがここまで苛立っているのかトリカトリは微妙に分からず、動くに動けなくなってしまった。
しかし体が上手く動かずとも時間は勝手に動き続ける。少しずつ増していく二人の苛立ちに、トリカトリは冷や汗が止まらなくなっていく。
「金陽と銀陽にも勝てないようなゴミが随分デカい口叩くじゃない。私を
「頭ン中マ◯カス詰まってンのか? 算段あった所で言う訳無ェだろ」
「あらあらお口が汚いこと。ちゃんと歯磨きしてる? 息臭いわよ」
「ヤニ臭ェ息とマ◯汁臭ェ息とで街頭アンケ取ろうぜェ。結果なンか見えてっけどな」
チェルシーが放つ脅威的な殺意とジズが放つ驚異的な威圧感。その二つに挟まれたトリカトリが二人の表情を交互に見やりながらオロオロとする。
罵詈雑言が飛び交い始める中を右往左往していたトリカトリだったが、よくよく見れば言い争う二人の口角が徐々に歪んで来ている事に気付いたトリカトリは、その場でグッと歯を食い縛り────、
「─────ごめんなさいッ!!」
「……あァ? ──────うォわッ!?」
淫魔の王と睨み合う小悪魔を片手で掴み、一気にその場から飛び退った。
謁見の間にある閉じた大扉をバキョォッと蹴破ったトリカトリは何も振り返らずに疾走する。片手に握ったジズには気にも掛けず両腕を振って走るトリカトリに、ガクンガクンと振り回されたジズが「首ッ───首ィッ! 揺れるゥッ! ムチウチィッ!」と悲鳴を上げるがトリカトリは「申し訳ェェエエエ───ッ!!」と叫ぶだけで一切速度を緩めず逃げて行く。
「………………………」
ぽかんとした顔でその背中を見送ったチェルシーは、しかしすぐにそれを理解して小さく微笑む。
先程の狂気に歪んだ三日月のような笑みでは無く、まるで母が生まれたばかりの子を見守るような穏やかな微笑み。
血の繋がりこそ無いものの、我が子同然に思っていた悪魔の少女。その少女が親に啖呵を切って来たのだと、チェルシーはすぐに理解した。
「………………なるほどねぇ」
かと思えば穏やかな微笑みはすぐに無邪気な笑顔へと変わっていく。友達とゲームに興じる少年がするような屈託の無い笑顔をしたチェルシーは「はぁー……」と大きく息を吐きながら頬に手を当て、
「恋って良いわねー」
悪戯げに、しかし優しさの見え隠れするその微笑みは、まさしく娘の成長を喜ぶ母のそれであった。
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