4-4話【当たり前なのが普通、普通なのが当たり前】



 竹取の翁や桃太郎では無いが、例に漏れずその娘も子に恵まれない夫婦の元で大切に育てられた。

 時には怒り、時には愛し、時にはその娘の聡明かつ理知的な立ち居振る舞いを見て、既に成人していたはずの夫婦が成長する事さえあった。それぐらい娘は、全てにおいて優秀だったのだろう。

 やがて美しく成長した娘は十八歳の時に宮中に仕える事となるが、そこでも類稀なる才能を発揮した。

 娘は特に知識面で優れており、暇さえあれば読書に耽り知識を吸収。宮中でも指折りの博識者として名を馳せるようになり、トントン拍子で鳥羽上皇に仕える女官にまで登り詰めた。

 鳥羽上皇に仕えてからも娘は慢心するような事はせず、その博識さと美貌を遺憾無く発揮し鳥羽上から寵愛されるようになり、また娘も鳥羽上皇を心から愛していた。

 しかしその頃から鳥羽上皇は度々病に伏せるようになっていった。最初の内こそ起き上がって歩ていたものの、すぐに寝たきり。一人では起き上がる事もままならなくなってしまった。

 やがて朝廷から何人も医師がやって来るも、しかし誰一人として原因を究明する事は出来ず、であれば周りがまじないの類に期待を寄せるのも無理は無かったのかもしれない。

 当時高名だった陰陽師である安倍泰成は宮中に呼ばれてすぐに、鳥羽上皇の病の原因を見抜いた。それは病などでも何でも無く、とある女官の術による毒だと。

 幼い頃には藻女みくずめと呼ばれ、子に恵まれない夫婦の元で大切に育てられた娘。思えばその娘は出自が不明であり、夫婦の元に生まれたというような記述は歴史の中には殆ど無い。

 その娘こそ玉藻前たまものまえ。鳥羽上皇からの寵愛を受けてからは玉藻御前たまものまえとして王の横に立ち並ぶ存在となった大妖怪。

 白を切る玉藻前に対して安倍泰成が真言を唱えると、人に化けていた玉藻前は大妖狐の姿を顕にし、異変を察知した武官や文官を薙ぎ倒しながら宮中から逃走、そのまま行方を眩ませた。

 やがて容態の安定した鳥羽上皇に宮中は胸を撫で下ろしたが、しかし栃木県那須郡、当時の那須野にて婦女子が神隠しに遭う事例が多発。話を耳にした鳥羽上皇は那須野領主からの要請に応じ、安倍泰成を筆頭軍師とした討伐隊を結成。一大軍勢で那須野に進軍した。

 しかし大妖狐玉藻前の討伐は失敗に終わった。那須野に到着した軍勢は既に九尾の狐へと姿を変えた玉藻前を発見、即座に攻撃を仕掛けるものの相手は大妖怪。

 妖狐の尻尾は千年毎に一本増えるという話がある。千年毎に尾の先端が分かれていき、その本数に応じて妖狐、仙狐、天狐、空狐と名前を変え、また保有する力も強まっていくのだとか。

 であれば討伐隊が敗走するのも当然の話。軍師を任された安倍泰成こそ妖怪退治に慣れていたものの、それ以外の全てはただの素人。少なくとも九千年は生きている大妖怪を相手に、木の棒に金属片を付けただけのものを弓として扱うような者たちが向かって行っても九千年の時と共に研ぎ澄まされた妖術によって蹂躙されるだけなのは火を見るよりも明らかだろう。

 辛酸を舐めながらも生き長らえた討伐隊は、犬の尾を狐に見立てた犬追物と呼ばれる馬上弓術の鍛錬を積み、また安倍泰成も対妖狐の術法を学び、共に研鑽を繰り返した。

 鍛錬を終えた討伐隊は再び那須野にて玉藻前と対峙、徹底した対策を取った討伐隊が少しずつながらも玉藻前を追い詰める中、玉藻前は那須野領主の夢の中に娘の姿となって現れ許しを乞うが、領主はこれを玉藻前が弱っているのだと読み取り討伐隊に最後の猛攻を命じる。

 やがて大妖狐玉藻前は首筋と脇腹を矢で射抜かれ、弱り切った所を長刀で斬り付けられ絶命。大妖狐は討ち取られるに至った。

 しかし玉藻前は死後、巨大な毒の石に姿を変えた。近付くだけで動植物の命を削り死へと至らしめるその大石は近隣の村々から『殺生石』と呼ばれる。鳥羽上皇の死後もその場に留まり続け、怒り狂う玉藻前の魂を鎮める為にと訪れた高僧ですら帰って来れない程だったという。

 やがて唯一毒気に耐えられる強き者として現れた玄翁和尚が経文を唱え殺生石を破壊するが、その際に殺生石は各地へ飛散してしまったという。


「妾のしくじり・・・・とやらが何であるかの真偽は分からぬが……そうよの。いては事を仕損じるとでも言うべきか………もう少し緩やかに鳥羽のをるべきじゃったかの」

 馬鹿でも妊婦である事が分かる大きなお腹を隠しもしない、全裸に薄い襦袢だけを羽織った獣耳の女性───玉藻さんは、薄紅の塗られた口元を指で撫でながら淫靡に微笑む。

「もしくはさっさと那須野から離れておるべきじゃったか……いや───」

 誰にともなく呟いた玉藻さんはそこで言葉を切り、目元を細め乾いた声で「カハハッ」と笑う。

「───或いは、生まれた事こそがしくじり・・・・だったのやもしれんな」

「………………」

 その言葉に、僕は掛ける言葉を失った。

 皮肉めいた形に歪む切れ長の目尻には何処か哀愁のようなものが見え隠れしているように感じられるが、けれどそれは本当にすぐに消えて行く。見えたと思った事こそ幻だったのでは無いかと思える程に儚いそれはすぐに強い意志を持ったの瞳へと変わった。

今昔こんじゃく問わず妾の思いは変わらぬが、今の妾は一人の母にならんとする身………終わったと思っていたはずが、新たな命を始めようとしているのじゃ。何とかいう国の為に戦ってやる気なんぞ無い」

 大きく膨れた自らのお腹に手を当てた玉藻さんは愛おしげにその腹を撫でる。ぽっこりと出っ張ったおへそを白魚のように滑らかな指先でくるくると弄ぶと、すぐに子を守る母の気丈な面持ちへと変わり「そもそも」と鼻で笑う。

「傾国と呼ばれるような女が何故なにゆえ国を守る為に戦ってやらねばならんのだ。国崩しこそすれ防人さきもりなんぞ死んでも御免ぞ」

 真正面から僕を見据えるその眼光。見られているだけなのに心臓を射抜かれでもしたかのように尖った鋭い目線に、ずい、と割って入ってくる姿。それは茶色の体毛で全身を覆い、ぎらぎらと怪しく輝く瞳で僕を睨み付ける獣人の村長むらおさだった。

「過去のお玉が何をどうしたか。そんな事はおいの知った事では無い。おいは今のお玉に惚れておるのだ」

 それまでのおちゃらけた姿とは似ても似つかない雄々しく気高い獣の長は、両腕を悠然と開きながら軽く膝を折り、いつでも僕に飛び掛かれるよう構えていた。

おいが持つのは小さな森と家内の忘れ形見だけぞ。だというにお玉はおいの側でおいを支えてくれちょった。野心の一つもあると言うならサンスベロニアにでも行って国い傾けてくりゃあ良いものを、ただの村長にかまけよったのだ。トトの名を継ぐものとして、想いに報いねば先祖に顔向け出来ん」

 杭よりも太く鋭い犬歯を剥き出しにする獣人族の村長は、玉藻さんと同じかそれ以上に鋭く貫くような眼光で僕を睨みながらも、しかし僕の傍らに居る空色の小さな幽霊猫にもチラチラと目をやっている。

 それもそのはず、僕は誰がどう見てもただの凡人。そんな奴が無防備にも獣人族の村までやって来て、怒りに牙を剥く村長を前に白々しいまでの平常心を見せているのだ。その傍らに小さな空色の子猫が浮かんでいたのであれば、それが切り札だと踏むのは当然の話だろう。

 けれど。村長には悪いが、僕やラムネを睨み付けた所で全て手遅れ。睨んだ所で何の意味も無いのだ。

「────光」

「やーはー」

 僕の小さな呼び声に、橘光が金髪を揺らしながら長ドスを抜く。……生前に剣道の達人がする本気の抜刀を見た事があるが、それと比にならない程の速度で左手の長ドスを抜いた光は───真横に居た玉藻さんの首元にその切っ先を突き付けた。

「──────────ッ!?」

「………ほう?」

 ひぃんっという奇麗な鈴鳴の音を聞いた村長が息を飲み、刃を突き付けられた玉藻さんが顎を上げながら感嘆に口を開く。

「ぼくも居るよお」

「うなぁ───っ!?」

 その動きを突いてポルカが獣人族の子の肩を手で叩く。その動きに獣人族の子は驚くが、すぐに体の動きをぴたりと止めて警戒に移った。

 ………これで村長は都合三つの相手に警戒しなくてはならなくなった。

 一つは眼前のラムネ。何をしてくるかが分からない幽霊猫。

 もう一つは後方の光。突き付けた刃を握る手元がいつ滑らんとも限らぬ事に気を緩めれない。

 そしてポルカ。彼女もまた僕らと共に獣人族の村にやって来た一人であり、ラムネと同様実力の底が知れない存在。うきうきしながら魔王さんに「ぼくも行くう!」と意見具申していたポルカを見た時は何の役に立つのかと思っていた僕だったが、ポルカがこの場に居る事により、玉藻さんと光を獣人族の子に任せて村長が僕を仕留めるという事は途端に難しくなった。ここに僕自らを挙げられないのは不甲斐無いが……まあ物事は得手不得手というものがあるのだ。光やポルカに言われた言葉に甘えておくとしよう。

貴様きさん─────」

 完全な膠着状態に苛立ち、村長がぎりりと歯噛みする音が僕の耳まで聞こえてくる。それを悠然と見詰めながら僕が口を開いていく。

「村長。まず勘違いしないで欲しいんだけど、僕らは別に敵意がある訳じゃない。貴方たちと牙の爪のを交える気は無い。ここに来たのはあくまでも今後の動きを聞く為で─────」


「お玉に手を上げといてどの口が言うかァッ!」


「先に牙を剥いたのがどの口だったか言ってみろ」


 野太く響く声色で激昂する村長にぴしゃりと僕が言い放つと、村長は「うぬ──っ!?」と呻いてその口を閉じた。

「こっちの言葉に早合点してコップをテーブルに叩き付け、僕の言葉を何も聞かずに牙を向いて吠え続け、ただのパンピーである僕に殺気を当て続けたのがどこの誰だったのか。………言い返せないなら黙って聞いてろよお前」

 ………脳汁が飛び出ているのが実感出来る。アドレナリンだかエンドルフィンだか分からないが、頭の中で何かが蠢くような感覚を確かに感じる。

 村長の咆哮、ずっとその瞬間を待っていた。言葉の内容自体はどうでも良かった。村長が光の抜刀を非難してくれれば何でも良かった。

 狙い澄ました事が成し遂げられる事がこんなにも心地良いものだとは思いもよらなかった。今この瞬間だけは、どっかの厨二病を拗らせた殺人犯の如くドヤ顔で「チェックメイトだ」とか言ってみたくもなる。

 しかしまだ安心してはいけない。

「村長、勘違いしないで貰いたい。忘れないで貰いたい。僕は愚者の生き残りの方が今後どうするかを聞いただけだ。けれど貴方は僕の言葉を待たずに早合点、僕に牙を剥いた。だから僕は彼女に刀を抜いて貰った。貴方が牙を剥かなければ、彼女は刀を抜かなかった」

「ぐぬ………っく」

 鋭い牙を食い縛り、両手を強く握りながら呻く村長の裏で「刀やなくてドスやドス、長ドスや。似て非なるもんやで」という軽口が聞こえるが、今はそんなものどうだって良い。長物ガチ勢が怒り狂おうが知った事か。

「……なあ光。僕がこの後何かしらで殺されたとして、なんだけどさ」

 話の腰を折って唐突にそんな事を言い出す僕に、橘光が「おん?」と不思議そうな目を向ける。

「僕が村長に瞬殺されたとして、ポルカとラムネを連れて、生きたまま即座にルーナティアに帰れる自信あるか?」

 意味不明過ぎる事を言い出した僕に懐疑的な目線を向ける面々だったが、光はほんの少しだけ言葉の真意を探るような細い目付きになったかと思うとすぐにいつものにこにことヘラついた表情になり「余裕のよっちゃん、あたりきしゃりきやな」と軽々しい言葉を返した。

 その言葉を聞いた僕は「……だそうですので」と村長に向き直る。そして光も、まるで口裏を合わせていたかのように突き付けていた長ドスを戻して白鞘に仕舞い込んだ。

「こちらは刃を納めます。貴方にしてみれば一方的に人質を解放したように思えるでしょうが、そもそも僕らは人質なんぞ取りに来た訳じゃない」

 ケツの穴にグッと力を込めて心拍数を押さえ込む。手の内を曝け出す所か、こっちだけ手の内を全て捨て去るかのようにも見える愚行。ともすれば熊のそれよりも鋭く鋭利な獣人の爪が、僕の喉笛を掻き斬らんとも限らない暴挙に、暴れようとする心臓を落ち着かせる。

「僕らは愚者の───玉藻さんの今後の動き方を知りに来ただけ。その目的も既に果たした。………だったら後は鏡の向こうの話でしょう。しっかり見聞きすると良い」

「…………………………」

 最後に少しだけキメてみた僕はそこで肩の力を抜き、僕の傍らに備えたまま勝手に法度ルールを使わずに静観し続けてくれていたラムネの頭を撫でる。しかしラムネは未だ警戒を解いていないのか、僕に頭を撫でられても瞳をまんまるにしたまま村長を見続けていた。

 …………まず有り得ないだろうが、もしこれで村長が僕に牙を剥けば僕の勝ちは確定する。僕の屍を踏み越えた光とポルカが即座に獣人族の森を離れてルーナティア国に戻り、そこから戦火が拡がってしまうだろう。事の顛末を聞いた魔王さんがその後どうするかは読み切れないが、ゴミに頭を撫でられた程度でキレ掛かったあの女性なら、手間を掛けて呼び出した愚者が獣人族に殺されたと知れば必ず何かしらの形で報復するだろう。僕如きの死に軍勢を率いるとは思えないから恐らくは経済制裁というやつだろうが。

 これで村長が牙を納めれば、やはり僕の勝ち…………というか予定通りの終わりだろう。愚者の生き残りと獣人族の今後の動きは既に知れているし、何なら同盟の話も聞けている。後々正式な書類を持った使者か魔王さん本人が出向いて書類にサインだの何だのを済ませれば大団円。何かで気が変わって書類を持った使者に村長が全然違う事を言ってのけたとしても、そこまで来ればもう僕は関係無い。光とポルカをアリバイに、僕がパチこき野郎では無い事を証明したら適当に昼寝でもしていれば良いのだ。

 ………一瞬賭けだとも思ったが、こんなもの賭けになっていなかった。どう転んでも僕らは大して痛くないのだ。ルーナティアからすれば小さな森を焼き払うぐらい訳無いし、僕としても既に一度終わっている身。少しばかり長い走馬灯でも見たようなものなのだから、仮に痛むとすれば冷静さを欠いた村長の暴挙によって振り回される獣人族の民だけだろう。

 何処か居心地の悪い沈黙と静寂が訪れる中、やがて村長が「……うむ」と小さく頷き曲げていた膝を伸ばす。

「…………まっこと、済まなんだ。おいの早とちりじゃった。申し訳無い」

 肩の力を下ろしていたつもりだったのに、その言葉を聞いた僕はどっと肩が重くなるような脱力感に襲われる。閉じていた唇を少しだけ震わせながら息を吐けば「……ぶっふぃぃぃぃ〜」という馬鹿丸出しの溜息が漏れて行く。

「………お玉、恥ずかしいところを見せたな。済まなんだ」

「全くじゃ。研鑽が足りん、すこぶるな。生まれ直してやり直せ恥晒しめ」

 大きなお腹に押されてぽっこりと飛び出たおへそをくるくると指先で撫でさすりながら言う玉藻さんに、村長は悲しそうな声色で「ぁぅぅ……」と呻いた。

 その様子に、僕は心底から安堵した。通り抜けられたと。魔王さんが提示した試練のようなものを、僕が乗り越えられた事に心底から安堵した。


 ───これはいつだか聞いた事。本で読んだか、何で知ったかは忘れたか、知って以来ずっと頭の片隅に置いてある言葉。


 この世のありとあらゆるは、必ず鏡の向こうにある。

 僕が鏡に向かって手を振れば、鏡の向こうの僕は同じように手を振ってくる。

 僕が鏡に向かって微笑めば、鏡の向こうの僕は不器用な微笑みを返してくる。

 僕が鏡に向かって罵声を投げれば、鏡の向こうの僕は耳に入れる事すら躊躇うような汚い言葉を吐き出し始める。

 僕が鏡に向かって拳を振るえば、鏡は割れて僕の拳に破片を突き刺す。

 平和は鏡の向こうにある。鏡の向こうに居るものは、僕が歩み寄らなければ微動だにしない。僕が平和を望む姿勢を見せなければ、鏡の向こうに居る相手も同調の意は示さない。それも生半可な平和の意では駄目だ。僕が相手を疑うのと同じように、相手も僕の笑顔の裏を読もうとしてくるもの。

 その為に、僕は身を捨てる覚悟で玉藻さんを解放した。本当に争う意志が無いのだと証明する為に、僕は自らの命を天秤に掛けた。

 だからこそ怒りに震えていた村長は冷静さを取り戻し、自らの過ちに気付く事が出来たのかもしれない。

「げぼくなかなかやるな。よくわかんないけど。おれのでばんなかったな。つぎはおれのでばんよこせな」

「ふへぁぁぁぁあああ〜! このにい中々カッコ良かったのよ〜! 人間にしてはなかなかカッコ良かったのよ〜! トト褒めてあげるのよ〜!」

「だねえ。タクトくんカッコ良かったねえ。最後なんかちょっとクサかった気もするけど基本的にはカッコ良かったねえ。ちんちん撫で撫でして褒めてあげないとねえ」

「どっどうだったっ!? 僕カッコ良かったっ!? 僕キマってたっ!? 臭かったっ!? 濡れたっ!? 濡れそうっ!? クサいの思い出してイケるっ!? 僕は思い出してもイケなさそうっ! むしろ萎えるっ! クッサっ! 厨二病かよっ!」

「自分で分かっとるならいちいち聞きなや。………特段良うは無かったやろけど、失敗しとらんし及第点やないの。撫でて欲しけりゃ後で撫でたるでよ」

 ラムネや光、ポルカだけでなく獣人の子にすら褒められて有頂天だった僕に、玉藻さんまでもが「伸び代はありそうじゃの」と言ってくる。脳内麻薬が切れ始めたのが原因か……ここに来て心臓が大きく暴れ出した僕は、すぐ近くで獣人族の子と村長がしている会話を完全に聞き流してしまっていた。

 けれど、それも仕方の無い事なのかもしれない。この時の僕は一波越えるだけで精一杯だったのだから。



 その後、僕らは村長から部屋を幾つか借り獣人族の村で一晩を過ごす事になった。書類等は渡されていなかったので、細々とした話は後日ルーナティア国から遣わされる使者から受けるとして、であればもう用は無いだろうしさっさと帰ろうと思っていたのだが、対談を終えて村長の家から出れば木々の隙間から差し込む光は仄かにオレンジ色に輝き始めていた。

 そこそこ距離があるとはいえ一本道だった森を夕暮れ時に歩く事に対しての抵抗感は殆ど無かったものの、今からトリカトリの待つ馬車に戻った所で出発してから数分で馬車を止めて野営の準備を始める事になるのは明白。身長三メートルに達するトリカトリに加えて意外と寝相の悪い橘光と狭苦しい荷馬車の中ですし詰めになるのもあれだったし、そうでなくとも荷駄の中は床が硬い。そんなような事に小さな溜息を漏らせば、村長が「そいなら泊まってけ」と言い出してくれた。

 表情には出さなかったものの気を遣わせてしまったかと思ったのはほんの少しの間の事で、どう考えても皿の数が多い夕餉に小首を傾げれば、

おいは最初から泊まらせる気じゃったぞ。わざわざルーナティアから出向いて貰っといてただで返すのは気に食わん」

 村長はそんなような事を言っていた。

 既に皿には食事が盛られている事を鑑みるに、ここで遠慮して帰りますとか言い出せば、この大量の食事の半分以上は廃棄になりかねないし、作ってくれた方の労力も無駄になってしまう。少しばかり遠慮気味に「……でしたら」なんて言いながら椅子に座って舌鼓を鳴らす事にさせて頂いた。

 ……しかし、


「肉しか無え」


 食卓の上。大小様々な皿に盛られた料理には欠片も野菜が見当たらない。

 肉。肉。肉。過半数が茶色で埋め尽くされた肉料理を見渡すもマジで肉しか無い。強いて挙げればマスタードソースに含まれる粒が野菜に含めれなくも無いものの、挙げられるのはガチでそれだけ。この場に「ハンバーグ! ステーキ!」ってうるせえ男子中学生辺りをご招待すれば一週間は濁った瞳で黙らせれるような肉料理のオンパレードに、僕は食べる前から胸焼けの予兆を感じ取った。

「オスなら肉を食え! 強い子を孕ませれる強い精が付く! メスも肉を食え! 強い子を産む強い体が作れる!」

「ゴリラでももう少しマシなもん食うで? あいつら雑食やもん。バランス考えろやバランス、食物繊維が足りとらん。こないな肉ばっか食っても強い子なんか産まれるかい、ポロポロの松ぼっくりみたいなうんこが産まれるだけやで」

 戦時中の脳筋将校でも言わないだろうIQの低い事を言う村長に対して食前に出て欲しくない単語をポロポロ溢す橘光だったが、しかし僕は完全に同意しか無かった。マジで食物繊維が足りてない。キノコ寄越せキノコ。せめて中華チックにチンゲン菜とか入れろ。マスタードソースが掛けられた肉以外に癒やしが無いってどういう事だ。こいつが世界を救うとでも言うのか。お前だけが救いなのか。

「何を言うか! …………トトも何か言うてやれ! こ奴ら軟弱じゃ! これじゃから人間はいかん!」

「お肉美味しいのよ! にいも食うのよ! 食わないと軟弱になっちゃうのよ! 人間弱っちいからお肉食ってつよつよになるのよ!」

「……………お肉食べ過ぎた時って何飲むんだっけえ。ドモホ◯ンリンクルだっけえ」

「それ若作り用のやつやろ。つよつよやのうて、つやつやになりたいオバハン向けのやつやで。肉ん時はキ◯ベジンちゃうかったか。……あれぁ酒呑んだ時やったっけか。覚えとらんけど、どっちゃにしろそんなもんここにゃあ無いで」

 ほんわかふわふわないつもの笑顔をやつれさせたルカ=ポルカのボヤきに冷静なツッコミを入れる光だったが、その言い方は方々に喧嘩を売っているとしか思えないのでもう少し自重して欲しい。

 ………………と、そこでふと僕は気付く。

「良く見たら玉藻さん居ねえ。あいつ逃げたな」

 お腹の大きな妊婦さんは言葉通りの謝肉祭を悟ったのかこの場には居なかった。妊婦さんはお腹が膨らむ事で腸が圧迫される上、間違って子を産んでしまわないかという不安も相まって便秘になりやすいと聞く。そんな中、イベントのネタが切れたソシャゲの「肉フェス開催!」みたいな食事に参加するのは流石に問題があるだろう。そんなイベントを開催されても喜ぶのはキッズユーザが過半数であり、変に課金しちゃって後に引けなくなったユーザ以外のログインはまともに増えないというのに。

 とはいえ実際こんな食卓に玉藻さんが来ていたら、十中八九僕は食うのを控えさせていたような気がする………妊婦さんに偏った食事をさせたいとは思わないから。

 数多の女性は妊娠した際、色んな所から「◯◯食べると子供に良いよ」みたいな言葉を聞くと思う。そういう奴らに「どこ情報だよそれ」と問い掛ければ、大抵は「ネットで見た」とか「テレビで言ってた」とかいう情報操作のマーケティングに踊らされている事ばかり言うのだが、実際問題『お腹の子に悪い食事』にさえ気を遣っていれば、後はバランスの良い食生活で良くて、特にあれ食えこれ食えみたいなのは殆ど必要無いのだと産婦人科の人から聞いた事がある。

 人間が適切な成長をするのに必要なのは適切な栄養バランス。お腹の子も当然お腹の中で成長しているので、適切な栄養バランスを心掛けていれば基本的には適切な育ち方をしてくれるのだという。一時いっときヴィーガンが流行った時期に起こった悲しい事件の一つに、「親がヴィーガンだからと乳児にも蛋白質を控えさせたら栄養失調で亡くなってしまった」というような事例があったが、真に子供を思うなら信ずるべきは自分の信条でもネットの画面の向こうの情報でも無く、生物として体が求めている栄養素を与える事なのでは無いかと僕は強く思う。

「おにくっ! おにくげぼくっ! おにくっ! よこせっ! おにくよこせっ!」

 何が起こった訳でも無いはずなのに気付けば目が死に始めているルーナティア勢の中、唯一テンションが上がっているラムネが遂に我慢出来ずに騒ぎ始めた。そんな声に目を向けてみればラムネの瞳はまんまるに輝いており、その可愛い猫口をお行儀良くぴったりと閉じながら皿の上の肉を凝視している。

 …………友達の家でご飯をご馳走になった時の気持ち。お母さんが腕を奮っていっぱい作ってくれるんだけど正直もうお腹キツいんだよなーでもお母さんウッキウキだし断りにくいなーみたいな気持ち。こんなに沢山肉料理を出して貰っているのだ、割烹着を着たふくよかなオバちゃんにお残しは許しまへんでーとか言われるような事はしたくない。

 それにそもそもの話だが、ルーナティア国周辺では肉というものはそこまで安易に手に入るものでは無いのだ。

 僕が生前に居たような現代日本では、適当なスーパーに行けば確実に鳥豚牛のお肉三銃士を見掛ける事が出来る。店舗やチェーンによってはコンビニエンスストアですら豚バラ肉が置かれている事もあるし、完全にありふれた存在になっているだろう。

 けれどルーナティアではそこまでありふれた存在では無い。魔王さんやペール博士から聞いた話によればサンスベロニア帝国も養殖体制が整っているらしいのだが、ルーナティア国やその領内ではそうも行かないのだという。

 サンスベロニア帝国との関係は戦争が始まる前から良くなかったらしく輸入も難しい。となれば自国内で得られるものでしか賄えないのだが、しかしルーナティア国は食品の養殖技術が確立されていない。そうなるとルーナティア国内で肉を食べるには狩りを行うか、狩りを行ったものから買い取るかしか無く、ルーナティア国内での肉というものは値段が高くなりがちなのである。

 だからこそ、今僕の目の前にある肉料理を残すような真似はしたくない。獣人族のみんなが手間暇掛けて狩りを行った肉を使っているのはどう考えても明らかであり、それを沢山振る舞って貰ったのであれば、お残しを許したくない僕の気持ちも分かるだろう。

「……ラムネも食べる? 良いよ、たまにはお肉食べよっか。どれがいい?」

「いいのかっ! おにくいいのかっ! おにくっ! ほねのやつっ! ほねついてるおにくっ! ほねのがいいっ! ほねっ!」

 まんまるお目々をキラッキラに輝かせてせっつくラムネの言葉に、村長が「おう猫畜生の割には分かってるのうっ!」と豪快に笑う。そう言うお前だって犬畜生じゃねえのかと言いたくなったが、もはやそんな事を言う気力すら湧かなかった僕は何も言わずに皿の上のスペアリブを持ち上げた。

「お皿の上で食べてよ。他所様のお家の床汚しちゃ駄目だからね」

「…………………………………………………………おにく」

 持ち上げたスペアリブを少しだけラムネの方に寄せながらそう言うと、しかしラムネは肉には中々噛み付かない。ふすふすと鼻を鳴らして匂いを嗅ぎ、噛み付きたがっているのか顔を近付けるもすぐに離して、かと思えばまた近付けてと妙に慎重に立ち回る。

 その様子に何となく嫌な予感を覚えた僕は、指で抓んでいるスペアリブをガッチリと持ち直す。

「────あァグ」

 直後、僕の予感が功を奏する。指先だけで持ち直した次の瞬間、ラムネが細く鋭い牙を剥いて目にも止まらぬ速さでスペアリブに噛み付いた。一瞬の静止の後、ラムネは僕の指からスペアリブを奪い取ろうとかなりの力で顎を引く。

「駄目。お皿の上で食べなさい。僕はラムネのお肉取らないから、ここで食べなさい」

「───────」

 牙を剥きながらスペアリブに噛み付いたラムネが目だけでちらりと僕を見る。普段のラムネなら頑として譲らず、フシュッと息を吐いたり唸ったりして落ち着ける場所まで肉を持って行こうとするのだが、生憎とここはマジで他所様のお家。木張りの床に肉の染みを付ける訳にはいかないので、僕は普段より真面目な目付きでラムネと見詰め合う。

「…………………」

 すると僕の鉄の意志が伝わったのか、ラムネは威嚇せずにその場でむちゃむちゃとスペアリブを食べ始めた。

 その姿に僕は思わず胸が熱くなる。普段ラムネが落ち着ける場所に食べ物を持って行こうとするのは、言い返せば僕の近くだと落ち着かないからに他ならない。

 世界に向けて宣言するラムネの法度ルールからも察せるように、ラムネの死因は餓死。僕に取られるかもしれない。大事なご飯を奪われるかもしれない。そう思うからこそ、今までのラムネは僕を信用出来ず、指先から食べ物を毟り取っていたのだ。

 それが今回は違う。恐らく渋々ではあるものの、それでも死因を超える程に信頼を寄せてくれてきているのだから、こんなに嬉しい事は無い。

「………うん、良い子だねラムネ」

 はぎはぎという不思議な咀嚼音を鳴らしながらスペアリブを食べていくラムネに、僕は不安を蘇らせないよう変に語り掛けず、指先を上手く使いながらスペアリブの向きを変えラムネが骨に齧り付かないよう調節していく。

 やがてスペアリブを食べ終えたラムネが舌を器用に使ってむにゃーむにゃーと口元を舐め出した。

 綺麗に骨だけになったスペアリブを皿に戻し、汚れていない反対の手でラムネの頭を撫でようとすれば───、

「んあぅっ!」

「─────」

 見事な猫パンチで僕の手ははたき落とされ僕は完全に言葉を失う。周囲から光とポルカが「「ぶふっ」」と吹き出す音が聞こえるが、それに反応を返す余裕は無かった。

 僕の手を引っぱたいたラムネは右手を舐めては頭をぐしぐしと毛繕い。どう考えても僕なんて眼中に無いその姿に、信頼は欠片も感じ取れなかった。やはりニャンカスさんは所詮ニャンカスさんのようだ。

「もうあげない。ラムネ嫌い」

「なぁっ!? なんでっ!? おにくよこせばかげぼくっ!」

「やだ。ラムネ意地悪だったからもうあげない。意地悪なラムネ嫌い」

「ばかげぼくっ! きらいっ!」

「うるさい馬鹿ラムネ! すきっ!」

「すきくないっ! おれもうげぼくきらいっ! ばかっ!」

「どうでもええけど何でタクトってラムネと喋る時いやに優しい口調になるんやろな」

「あれじゃなあい? ペットに対して「可愛いでちゅねえ〜」って言っちゃう感じのやつう。動物とか小さい子に話し掛ける時ってえ、その人の本質が出ちゃうって言うからさあ」

「あーなるア◯ルにガバガバま◯こやわ。納得したわ。タクト基本的に優しいもんな」

「優しさは先天性のものだからねえ。後天的に優しい人を演じる事は出来るけど、生まれた時から優しいっていうのは本当に立派な才能だと思うよお」

「ちゅーてホンマに赤ちゃん言葉になり出したらそれは『優しい』やのうて『親馬鹿』やと思うわ」

 外野から色々と言われるのを無視し、僕はスペアリブを黙々と食べ出す。ラムネに対してどんな言葉を掛けるにせよ、どうせこれ以上ラムネにあげるつもりは無かった。信頼がまやかしだった事に対しての当て付けではなく、人間向けの食べ物をラムネにあげる時は一回までと決めている。………この肉々しい料理が人間向けかは知らないが。

 そもラムネは既に死んでいる幽霊猫だから、ぶっちゃけ何を幾らあげたって栄養面には何も影響が無い。ラムネの死因が餓死である事を鑑みれば、死後呼び出された異世界でぐらいお腹いっぱい食べさせてやりたい気持ちはある。

 しかしラムネは排泄をしない幽霊猫の癖に何故かしっかり毛玉を吐く。そんな半端に思える幽霊猫だからこそ、もし栄養面で実は何か影響があったらと考えると怖くなる。かといって一切与えないとラムネは拗ねちょびんになってぶー垂れてしまうので、どんな量であっても一回だけはあげても良いと自分の中で決めているのだ。

 そんな感じで「ばかーっ!」と僕に対して怒るラムネを無視してスペアリブを食べる僕だったのだが………。

 …………これは生前からずっと思っていた事なのだが、どうしてスペアリブってこんなに食べにくいんだろうか。その割に通常の豚肉やブロック肉より割高なイメージがある。一頭の豚から特定の個数しか得られないからだろうか。骨にくっ付いた部分の食感が通常の豚肉よりも良い歯応えだからだろうか。

 それらを踏まえても食べ辛さが全てを帳消しにしている気がする。手で持って、口の端にちょびちょびと肉汁や垂れを付けながらマンガ肉のように引っ張って骨から剥がしながら食べるのは、個人的に面倒極まりない。

 そんなような事を思いながら骨だけになったスペアリブを更に乗せた僕に、それまで黙って肉料理をもりもり食っていた小さな獣人族の子が「にい」と僕を声を掛けて来た。

「……にい。……にい?」

 村長に対して強気な交渉を行い、何とか勝ちをもぎ取って以降、トトと呼ばれていた小さな獣人族の子は僕を『にい』と呼び妙に懐き始めた。

 肉料理を振る舞ってもらう少し前、暇を持て余した僕に、トトは「村をちょっとだけご案内するのよ!」と声を掛けてくれた。トトのそんな言葉は嘘偽りが無く、対談を行った村長の家から出るとすぐにトトは立ち止まる。そしてその場で「あれがご飯屋さんのトトが居るお家なのよ。そんであっちが果物屋さんのトトが居るのよ」と村の各地を指差しながら、本当にちょっとだけの村案内をしてくれた。因みに八百屋さんのトトは居なかった。野菜食え野菜。

 どこもかしこもトトが居るのよと言われた僕が「そう言えば村長もトトって名乗ってたな」と口にすれば、トトはこの村の…………トト族の伝統について教えてくれた。

 幼い獣人族の子であるトトの説明は中々難解ではあったものの、要約すれば『獣人族の中で、ある程度の功績を立てたものはトトを名乗れる』という襲名制度的な感じのものらしい。生前聞いたパラポネラ弾丸アリが大量に入った葉の入れ物に手を入れ耐えれる事が出来れば大人として認められる部族のようなもので、獣人族にも何かしらの偉業によってトトの名を得るのがみんなの憧れなのだという。

「………ん? どうしたトト。何かあったか」

「……んーとね、えっと……んんぅ………」

 明朗快活というか天真爛漫というか。元気印なわんこを二本足で走くり回らせたらこんな感じになるだろうなという獣人族のトトが、しかしどうした事か僕に声を掛けたものの、もじもじと落ち着き無く唸り出す。

 それに対して急かさずゆっくり答えを待っていれば、やがて意を決したように「あのね」と僕を見据えた。

「トトね、にいにあーんしてあげたいのよ」

「「「「は?」」」」

 何の脈絡も感じられないトトの発言に、ラムネを除くその場に居た全員が声をあげる。僕の声は普通に疑問だったが、ポルカと光と………む、村長の声がちょっと低めの、苛立ちが混ざってそうな声色だったのが……ちょっと、その。……僕、気になります!

 不穏な様相の声を聞いたトトは何かに気付いたようにハッとなり、黒っぽい肉球の付いた両手をわちゃわちゃと振りながら「ちがっ、違うのよ! 違うのよ!」と弁明を始める。

「にいお肉食べるの大変そうだったのよ! だからあーんしてあげたいなって思っただけなのよ! そしたらお肉美味しく食べれるのよ!」

 慌てながらそう言ったトトは焦げ茶色の体毛に覆われた小さな手を使い、自分の前にある小皿にスペアリブを乗せると、中々どうして器用にナイフとフォークを使い骨から肉を剥がしていく。

 獣の手なのに器用にナイフとフォークを使っている事に少しだけ驚けば、それを見たトトはにやりと口元を歪め「ん〜ふふ〜」と得意気に鼻を鳴らした。

「トトね、最近こういうの使えるようになったのよ。玉ねえにいっぱい教わったのよ」

 ………玉ねえ、というのは玉藻さんだろう。玉藻のお姉さんをもじっているのか。個人的に玉ねえと言われるとどうしてもW◯zardryみたいな番外作を出した恋愛ゲームが浮かんでしまう。もしくは語感的に主人公がジ◯ジョ立ちしていたイラストで賑わった某果実やら楽園やら迷宮やらでも可。

 少しだけぎこちないながらも、手首の近くから生えている五本目の親指を上手に引っ掛けて固定しながらナイフとフォークで肉を取り除いたトトは、ナイフを使ってその肉を一口大に切り分け、

「……………トトお皿持つの下手っぴなのよ。にい、こっち来るのよ。トトがあーんしてあげるのよ」

 小さく切り分けた肉をフォークで刺したトトが片手で小皿の端を押さえながら僕を呼ぶ。………言われてみれば、確かに人の指と違って長さも可動域も違う犬の手では、ナイフやフォークならまだしも皿を上手に持ち歩くのは大変そうだ。言ったら人間の手から親指だけ取り除いたようなのがトトの手なのだ。親指に当たる五本目の指も手首の辺りに小さく生えているだけだし可動域も狭いだろうから、かなり慣れないと平たい物を持つのは大変だろう。

「…………………」

 椅子を引いて腰を上げてトトの方に体を向けた辺りで、頬がチリチリと焦げるような痛烈な苛立ちの籠った眼差しを感じる。何事かと顔を向けそうになったが即座にトトへと向き直り、あいつらとは目線を合わせないように心掛ける。

「にい、椅子も持ってくるのよ。トトの横に座るのよ。立ちながらだと食べにくいのよ」

「………………分かった」

 床を見ながら少し戻り、椅子を持ってトトの横に戻る。ガタゴトと鳴らして椅子を置いた僕がトトの前に向き直ると、トトは待ち侘びたような笑顔をしながら僕にお肉を差し出して来る。

「ほら、あーんなのよ」

 ヒリつく空気に纏われ冷や汗をかく僕に、間の抜けたようなほんわかとした表情でトトが言う。餌を待つ雛鳥のように「……あ、あー」と口を開けて顔を近付ければ、肉の刺さったフォークが僕の口にズボンヌと力強く押し込まれる。

「美味しい? にい、お肉美味しい?」

 むぐむぐと肉を咀嚼する。そう、咀嚼する。食べてない。噛んで、飲み込むだけ。味がしない。味覚障害か? 僕は結局聞き飽きた流行り病に罹患する前に死んだはずなのだが。おかしいな。舌が馬鹿になってら。頭は元から馬鹿だから僕気にしてないよ。

「………美味しいよ。凄い美味しい。ありがとう、トト」

 単調な作業のようなそれを終えた僕はそう言ってトトの頭を撫でる。見た感じはコワコワとした手触りがしそうなトトの体毛は、しかし触れてみると驚く程つやつやとしていて手触りが良い。体格の関係かラムネと比べると一本一本は太く、柔らかさで言うならラムネが勝る。しかしつやめきに関してはトトの方がすべらかであり、撫でていて落ち着く感じがする。

 僕に撫でられて目を細めるトトが「えへへぇ」とふにゃけたように微笑む。

「……お嫁さんみたいなのよ」

「「「チッ」」」

 純朴なトトの感想に、口を吸うような大きな舌打ちが重なる。思わず体を竦めるがトトはそれに気付かず「まだまだ食べるのよ。にいお肉いっぱい食べてムキムキマッチョメンになるのよ」と笑顔で二つ目三つ目と、僕に肉を差し出してくる。

 正直逃げ出したい。回避性パーソナリティ障害の人はこんな感じの気持ちなのだろうか。

 びっくりする程味がしないゴムのような何かを咀嚼していると、トトはハッとしたように皿に向き直り「トトも食べるのよ。トトお腹減ってるのよ」と言って、切り分けられた一口大の肉をむぐむぐと食べ直す。

「………………あっ」

 生きた心地がしない中で死んだ獣の肉を食らう僕を余所に、トトが何かに気付いたように小さく呻く。かと思えばフォークを皿に置き、両耳をぺたんと倒しながらふかふかの両手で口元を押さえる。何かやっちゃったのだろうかと思いながら「……どうした、トト」と僕が声を掛ければ、トトは口元を両手で隠しながら潤んだ瞳で僕を見上げると───、

「……………………………………間接ちゅーなのよ」

Shitクソが!!」

Damnふざけんな!!」

Fuck死ね youカス bitchゴミが!!」

 視界の外から口汚い野次が飛ぶ。いつもの僕だったら何でお前ら英語なんだとか冷静に突っ込めたかもしれないが、生憎と口汚い野次は全て僕に向いているのだ。触らぬ神に祟り無し。安易にやぶ蛇を叩き割ってエ◯スト◯オに爆誕されるのは御免だ。

 ………………………何とかして話を変えよう。この流れは良くない。多少無理矢理にでも話題を変更した方が良い。

「…………………なあトト。後々間違いがあると嫌だから今の内に一つ聞いておきたいんだけど、良いか」

 口元に手を当てながら照れ照れと乙女の顔付きをするトトに僕は小さく問い掛ける。

 …………そう、乙女の顔付きをするトトに。

 外観では分からない、ずっと気になっていた要素。人間ヒトであれば、ポルカのような例外を除けばすぐに気付ける要素だが、トトのような毛むくじゃらの獣人族だと判別し難いその要素。

「いや、分かってる。分かってるけど一応な。念の為な」

 機嫌を損ねられると困るからと念を押す僕に、照れ照れしていたトトが顔を上げて「どうしたのよ?」と僕を見詰める。

「その……性別なんだけどさ、トトの、………オス? メス? ……ラムネは超可愛いけどオス、だし、その」

 不貞腐れてぶー垂れているふかふか可愛いラムネ・ザ・スプーキーキャットの背をちらりと見ながら言った僕がトトに目線を戻すと、トトは息を吸うように「ハァ───」という声にならない声を発し、愕然としたような顔で僕を見詰めていた。ハブのように四角く口を開いて目を見開いたトトに、僕は自身のやらかしを自覚する。

 もう少し別の言い方があったか……? いやでも他に言い方なんてねーし……だからといって流石にラムネを引き合いに出すのは違うか。ラムネがオスだから何だよって話だわ。

「……………ショックなのよ」

 掠れそうな小さなトトの言葉に「ングっ」と呻く僕。頼れる仲間に救いを求めて周りを見渡すと、光とポルカ頼れる仲間は僕には見向きもせず肉料理を楽しんでいた。

「肉とマスタードの親和性って何やろな、やたら合うよなこいつら。もう付き合ってまえよ肉とマスタード」

「だよねえ。酸味が口の中をリフレッシュしてくれる感じが良いしい、つぶつぶの食感も悪くないねえ」

「ウチこのつぶつぶ嫌やけどな。気が削がれるっちゅーか……肉らしくない食感が混ざって、肉料理から意識が逸れる感じがすんねんな」

「ああ〜、それは分かる気がするう。でも今回みたいなお肉のオンパレードには意識が別に向くのは少し有り難い感じがするなあ」

 和気藹々と舌鼓を鳴らす二人に「お前らそんな仲良くなかったろ……っ」と歯噛みする僕は、恐る恐る村長の様子を伺っ───────ああ〜! 村長ったら満面の笑みで僕を見ていらっしゃる〜! 死んだ〜! これ死んだ〜! ちくしょうめ〜!

「ショックなのよ! トトすっごいショックなのよ! ショックショッカーショッケストなのよ! にい酷い子なのよ!」

 良く分からん三段活用に狼狽えながら「すま──いやごめ──」と口を開くが、当然ながらトトの怒りは治まらない。

「トトどう見ても女の子なのよっ! ちゃんとぱいぱいあるのよっ! 馬鹿にいトトのぱいぱいしっかり見るのよっ!」

 ぽヒーと頭から湯気でも出しかねない程にぶりぶりと怒るトトは、僕から目線を外すと自身のお腹の辺りの毛を掻き分け始める。すると茶色の体毛の根本辺り、肌に近い白い産毛の中から人間ヒトのそれとはだいぶ外観の異なる小さな薄桃色の乳首がちらりと見えた。

 ……いや分かんね〜。それ毛の上から全く見えね〜。わっさわさの体毛掻き分けてようやく見える超小さいビーチクビーを指しながらちゃんとぱいぱいあるとか言われても分かんね〜。そんなもんどうすりゃ気付けるっちゅーんじゃ。

「───────ハッ」

 側頭部辺りに突き刺さる目線を感じて声にならない声を吐き出す僕。ダラダラと溢れる冷や汗を拭い、ごくりを唾を飲みながら目線を向ければ、そこにはの◯太くんのお婆ちゃんのような穏やか過ぎる微笑みを浮かべる村長───トトにパパトトと呼ばれる、獣人族の長が居た。菩薩よりもよっぽど慈悲深いの◯太くんのお婆ちゃんような微笑みの村長が、そんな顔のまま何も言わずにテーブルに手を置く。

「…………………」

 それを見た僕がゆっくりと椅子から腰を上げると、全く同じようなゆっくりとした動きで村長も腰を上げる。

「…………………」

「…………………」

 の◯太くんのお婆ちゃんみたいな微笑みの村長から目を離さないようにしながら僕が一歩後退ると、村長は同じように足を一歩踏み出してにじり寄る。肉料理の並べられたテーブルを挟み、僕が距離を取れば村長は距離を詰めようと動く。

 その視界の端で、もりもりと肉料理を食っていた光が無音でガラスコップの位置をズラす。中身の殆ど無くなった光のコップを、まだ中身が半分以上残っているポルカの方へと寄せていく。

 それを見たポルカがナイフを持ち上げ、峰の部分をそのガラスコップの縁に近付けた。

「……………さあん、にい、いいち──────」

 唐突なカウントダウン。しかし僕には光とポルカの意図が汲み取れていた。垂れてきた冷や汗を拭いもせず、ごくりと唾を飲んだ僕は部屋の構造を脳裏に思い浮かべる。扉はあっち。道中に物などは無かった。

「──────ぜろお」


「───────────兎狩りィアッ!」

「───────────脱ァッ兎ッ!」


 ガラスコップの縁にナイフの背がぶつけられる。ちーんという甲高い音に合わせ、テーブル越しの村長が一気に駆け出し、そんな村長に合わせ僕も駆け出す。急に移動した僕に引っ張られて「むわーっ!」と悲鳴を上げるラムネには、申し訳無いが見向きもしていられない。

 しかし扉は僕が駆け出した瞬間勝手に開き、その向こうから「お主らまだ食い終わらんのかー?」と言いながら玉藻さんの声が聞こえる。─────いかん玉藻さんは妊婦さんだ、身重の女性とぶつかるなんてカス行為は出来やしない。

 ………虫の知らせとか火事場のクソ力とか言われるそれは、窮地に際して人間の脳がリミッターを外すのが理由で起こるとされる。事故でそのリミッターが壊れた橘光と同じように、の◯太くんのお婆ちゃんみたいな微笑みから一転して般若のような面持ちになった村長に首を狙われる僕は、力強い声で「───ナメるなッ!」と叫びながら即座にその場で急旋回。部屋の窓に向かって一直線に進むと、引き戸のようなそれを急いで開いて飛び出した。

 冷たく硬い地面に肩がぶつかる感触を感じた直後、僕の頭上でバぎョオッとかいうギャグみたいな爆音が鳴り、

「────ぐぬぁっ!」

 村長の呻き声が聞こえる。……その大きな体では僕のように華麗かつビューチホーな窓抜けは出来なかったという訳だ。

 勘違いしたメリケン人のように無意味に筋肉を増やすからだ。筋肉は増やせば良いってもんじゃないんだぜ? 筋肉の増加に伴って必要酸素量も増えるし体重も増加するし、当然小回りだって効かなくなる。本当に強い奴ってのは大体細マッチョなんだぜ。勘違いしたメリケン人のようなステロイドマッチョみたいになってる暇があったら、まず筋肉の使い方を学ぶんだな。

 とはいえ慢心は出来ない。増やした筋肉は単純に強い力を発揮出来る。ガタイの良過ぎるこの村長なら壁ごと窓枠をぶち壊しかねない。

 気の抜けた声色で「めーまわる。めーまわった。げーでそう。げーでる」と呻くラムネを余所に、急いで体を起こした僕は全力疾走。ピンと伸ばした両手の指先を交互に振って駆け出せば、激昂する村長の「待たんかァッ!」という声にラムネの「げーでそおおおっ!」という悲鳴が木霊する。

「その貧相な肉棒切り落として貴様きさんを雌にしてくれるわァッ! カラッと油で揚げたるぞォッ!」

「僕は素揚げは好みじゃないんでなッ! あーばよぉぉぅとっつぁぁぁんッ!」

 聞く所によれば人間のちんちん海綿体は加熱すると硬質化して食えたもんじゃ無くなるらしいじゃないか。どうせ食うなら圧力鍋ぐらい用意して欲しいもんだ。三時間ぐらいシュンシュン鳴らしてじっくりしっかり火を通し、口の中でほろほろ崩れる僕の亀頭に思わずほっぺた落としてくれよな。

 気付けば真っ暗になっていた獣人族の村。夜の森をお散歩するような死にたがりでは無い僕は、必然的に村の中にある色んな家の裏や影を走り抜ける事となった。時には屋根に登ったり、時にはそこから飛び降りたりとアクロバティックなスタントを繰り広げながら、村長が飽きるまで鬼ごっこに興じながら、ブチ切れる村長と次の日の筋肉痛に怯え続けた。



 ───────



「ラムネ、おいで。一緒にねんねんしよ」

「…………………ぷいっ!」

 背中を向けるようにしながら丸くなったラムネが可愛く不貞腐れながら僕の言葉を無視する。ぺっすんぺっすんと尻尾で毛布を叩くラムネはご機嫌斜めを隠しもせず、ベッドの足元辺りで一猫一人丸くなって眠ろうとしていた。

 ………まあ、仕方が無い事ではある。大量の肉料理を殆ど食べられなかった上、唐突な鬼ごっこに振り回されて目を回してしまったのだ。カリカ◯小梅みたいな小さなおつむの子猫なので明日には忘れるだろうけど、それでも今夜丸々はこんな調子のままだろう。

「………………………はあ」

 抱っこしてこっちまで寄せてやるか少し思案してから、僕は何もせずに布団を被る。両足を使って布団を四角く広げたら、爪先を少し動かしながら布団の端をラムネの背中に被せてやる。……半分だけ布団を被ったラムネは何も言わず何も動かない。ご機嫌斜めなお猫様は、今日はこのぐらいの距離感をご所望のようだった。

 ………基本的には、なのだが。熱帯夜だとか何だとかで余程暑くて寝苦しいような日でも無い限り、普段僕とラムネは一緒に布団で眠っている。夜になって、僕が布団に腰を下ろした時点でラムネは近くをふよふよと飛び回りながら「げぼくねんねんするか? おれもねんねんする」と僕をせっつく。その言葉を聞いた僕は、毎回ラムネの頭をぽふぽふと叩くように撫でてから右を向いて横になるのだ。体の下敷きになった右腕をスッと伸ばしながら寝る段になると、ラムネはトリュフを探す豚のように鼻先を使って布団の隙間から中に潜り込んでくる。

 ………が、大体の場合は腰から上だけ布団に入ってそこで停止する。中の様子を伺って安否確認しているのだろうが、正直布団の中から暖気がガンガン抜けて行ってクソ寒い。動かなくなったラムネの後ろ足をぎゅむぎゅむと押し、少しだけ足を突っ張って嫌がるラムネを無理矢理布団の中に押し込むと、ラムネは中で方向を変えて僕の方を向く。すると僕らのような人間ヒトと同じように、伸ばされた僕の右腕を枕の代わりにしてラムネはようやく寝る準備を整えるのだ。

 けれど今日はそれが無い。たまにはこんな日も良いかと思いながら久々に仰向けで横になると、腰と背中がしっかりと伸ばされパキパキと音が鳴る。

 ………関節を鳴らすのは余り体に良くなく、その中でも背骨が鳴るのは最も避けるべきとされる。背骨の中には様々な神経が通っており、関節を鳴らす時にその神経が傷付いてしまうとその瞬間ピシッと体から感覚が消え、以降半身不随となってしまう事もあるのだとか。

 けれれどそれが分かっていても尚、腰や背中の骨が鳴ると体が軽くなったような感覚と共に不思議な気持ち良さがある。鳴った際に快楽物質でも飛び出ているのだろうか、ポキポキと腰が鳴るといやに心地良い。体が温かくなって………安心感が湧くとでも言うべきだろうか。意図的に鳴らそうとはしないけれど、鳴ったら良いなと思いながら背中を反らしてしまう事はたまにある。


「………………タクト? もう寝てもた?」


 そんな心地良さの中で目を閉じた瞬間、部屋の扉が開かれ橘光の声が聞こえてくる。正直良い感じに眠かったので狸寝入りをしても良かったのだが、普段と違って少しだけ大人しい声色に違和感を覚えた僕は「まだ起きてる」と返事をして腰を起こした。

 変わらず背中を向けて微動だにしないラムネにもう少ししっかりと布団を掛け直してやりながら、僕は扉の方へと向き直る。

「………どうした。何か用か?」

「………………ん」

 鼻を鳴らすように頷いた光は後ろ手に扉を閉めると、そのまま僕の方へと向かって来る。ラムネの方をちらりと見た光はすぐに向き直り、僕の真横に腰を下ろした。

「タクト、朝んなったらトトに謝っときやね」

「ああ、その事か。………うん、ちゃんと謝るつもりだから大丈夫。トトには悪い事しちゃったからな」

 村長とのリアル鬼ごっこを死に物狂いで生き延びた僕は、明日の朝ちゃんとトトに謝る事を条件になんとか村長からお許しを得た。本当ならすぐにでも謝るべき案件ではあるのだが、トトはご飯を食べるとすぐに眠くなるタイプらしく、僕が命懸けで逃げ回っている間に風呂を済ませて寝入ってしまったのだという。夢見心地を叩き起して「性別勘違いしてごめりんこ♪」とか言うのはただの馬鹿野郎でしかないと思った僕は、明日の朝トトの眠気が覚めた頃にしっかりと謝罪する事にしたのだ。

「…………トト、泣いたりとかしてたか?」

「んーや、泣いちゃあおらんかったよ。けど大なり小なり気にはしとるはずやから、謝罪は手ぇ抜かんようカッチリな」

 その言葉に「分かった」と返すと、光はしなだれ掛かるように僕の肩に頭を預けて擦り寄って来た。

 しかし光は僕にもたれ掛かるだけで、それきり特に何もせず何も語らない。

「………………何だよ。どうしたんだお前。夜這いでもしに来たってか?」

 ラムネが唐突に甘えてくる時のようなガッツリとした擦り寄りでは無く、どこか慎重さを感じる様子で体重を掛けて来た光は、僕の言葉に「……んー」と呻く。そのまま何も言わない光は、黙ったままで僕の手を取り両手で撫で始めた。

「……………あんさあ、タクト。…………んー、一個聞いてもええか?」

 すべすべとした光の指先が僕の手の甲を撫でる。少しだけひんやりとした光の指先にくすぐったさと、言葉にし難い照れ臭さのような何かを感じつつ「おう」とぶっきらぼうに僕は答える。

 様子を窺うような躊躇うような、そんな慎重さ。僕の手を撫でながらんーんーと鼻を鳴らして唸り続けた光は、やがて意を決したのかその口を開く。

「………………………タクトさ、ウチの事……………嫌い?」

「……………………何でそう思うんだ」

 唐突過ぎる問い掛けに一瞬だけ目を開いた僕は、しかし敢えて答えを返さず質問に質問で返してみた。すると光は「んーやね」と僕の手を撫でるのを止め、僕の肩に預けた頭をすりすりと擦るように動かす。

「……………ジズから聞いてん。タクト、ペール博士とヤッたんやろ」

「─────ブフッ」

 藪から棒では無い。藪から槍な光の言葉に思わず吹き出した僕に、光は「中出ししまくったって聞いたで」だなんて追い打ちを仕掛けてくる。

 しかし光は僕を茶化すような事はしなかった。

「あのふたなり女ともヤりまくりだったんやろ? ハメ倒しちゃおらんけど、割と頻繁にヌいてやっとったんやろ?」

「………………………まあ、そうだな。ポルカのも博士のも、その時その人を助けられるのは僕しか居なかったから」

 別にそれを言い訳にするようなつもりは決して無い。けれど誰かに助けを求められたのなら、僕は絶対に手を差し伸べてあげたい。それを偽りたくは無い。

 それがどんな内容であっても関係は無いのだ。僕の手に余るようであれば、僕から僕の周りの誰かに対して更に助けを求めてあげたい。求められたのなら応えたいと、僕はそう思う。

 もし逆の立場だったら、結果助からなかったとしても、助けようと手を差し伸べてくれただけでも僕は十二分に嬉しいだろうから。だからこそ僕はどんな内容であっても頼まれ事は断りたく無いのだ。

 …………ペール博士に関しては敢えて多くを語らない。気持ちを整理する為にと博士を抱いたまではまだ納得出来るが、その後は覚えたてのガキが如く散々博士を求めてハメ倒した。けれどそれは口にすると何か面倒臭そうだから言わないでおく。

「……………ウチな、片恋至上主義やねん。変に実って付き合うよりもな、片想いは永劫片想いのまんまの方が一等幸せやと思う女やねん」

 話の腰を折った橘光に、僕はお手付き・・・・を追求されずに少しだけ安心した。

 けれど光の声色はいつものヘラヘラとしたものとは全く違っており、何だか聞いていると心配になりそうな声色だった。

「片想いの時にしか得られない幸せとな、両想いんなって得られる幸せって全然釣り合わんと思うねん。片想いの時の幸せは甘酸っぱくて素敵やのに、両想いになるとなんもかんも「付き合ってるんだからこのぐらい当たり前」っちゅーて片付けられよるねん」

 小さな声でぽつりぽつりと呟く光は、誰が何処からどう見ても女の子だった。外見とか年齢とか、まして享年なんて何も関係無い。僕の横で思いの丈を吐き出す光は─────人生を何も謳歌出来ずに終えてしまい、死後にまで愚者だなんて呼ばれる哀しい女の子でしか無かった。

「……………なあタクトぉ。………タクトはウチの事嫌い? ウチの事好きくない?」

「……僕は───」

 応えてあげたかった。想いに応えて、抱き寄せて、キスでもしながら共に溺れ死んでやりたかった。

 けれどそれは出来なかった。僕は既に恋をしている。すぐ隣に居る、今にも泣きだしてしまいそうなか弱い女の子とは違う、別の女性に恋をしている。本当ならペール博士の時だって、彼女を突き放すべきだったんだと強く思う。

 何せ僕は浮気を許せるタイプでは無い。そして光の言葉は「付き合って下さい」と何も変わらない。

 だから応えてあげる訳にはいかないのだ。どんな事であっても応えてあげたいはずなのに、これだけは応えてあげる訳にはいかないのだ。

 誰彼構わず簡単に恋に落ちるような、恋愛ゲームの主人公になる気は無い。少なくとも僕は、ジズに振られるまでは他の誰とも恋をしたくない。

「知っとるよ」

「─────っ」

 蚊の鳴くような呟きに心臓を鷲掴まれたような感覚がした。ビクンと跳ねた僕の体の動きは、その肩に頭を乗せている光に確実に伝わってしまっただろう。

「タクトがジズん事好きなんはとうに知っとるよ。せやからウチん気持ちに応えられん事ぐらい分かっとる。…………クソ女やったね、今最悪な事聞いたわウチ」

 肩に乗っていた光の頭が離れていく。と思えば光は僕をベッドの上に押し倒し、のしかかるようにしめ僕に覆い被さった。もけもけとパーマが掛かった長い金髪が、僕の頭の横を通ってベッドに垂れる。

 僕にのしかかり、僕に覆い被さった光の髪に遮られ─────今の僕は光の事しか見えなくなってしまった。

「遠慮しとったんがあかんかったんかなぁ…………ジズとかさぁ、他の連中に気い遣って遠慮しとったんが良くなかったんかなぁ。ウチ恋なんてした事無かったから、上手く出来ひんかったんかなぁ」

「ひか────んむ」

 視界に迫る光の顔。触れるだけの口付けは本当に触れるだけだったが、頬擦りをするように顔と顔とを押し当てながらしてくるキスに、僕は光の頬が涙に濡れている事を理解した。

 やがて離れていった光の唇は、薄く開かれたまま荒い呼吸を繰り返していた。何度もホックを壊したブラジャーに支えられた巨大な胸が、呼吸に合わせて小刻みにふるふると揺れる。

「う、ウチ、ウチな。普通の女の子になりたかってん。こんなこデカい肉の塊なんて要らん、良う分からん怪力なんて要らん。誰かと違うもんなんて何も要らんかってん。みんなと同じ普通が良かったんに、誰もウチに普通くれへんかってん」


 ───しかし神様すらもが、この女の子を普通にしようとはしなかった。


 僕の頬に温かい雫がぽたぽたと落ちてくる。ひっくひっくとしゃくり上げる光に合わせて、要らなかった・・・・・・巨乳がゆらゆらと揺れる。

「美人さんやのうてええねん。ぺちゃパイでええねん。小ケツでええねん。天パも要らんねん。下らん怪力なんぞその辺に捨てたいねん」

 光が顔を近付ける。再び口付けを求めるのかと思ったが、しかし光の唇は僕の横を通り耳元に顔を寄せてくる。

「ふ、普通が良かったんよ……。どこにでもあるようなカタギの家に生まれて、その辺にるような量産型の女になって、その辺に居るようなおもんない男の事好きになって、ありふれたような恋して、面白味の無い単調なセックスして、ギャン泣きしながらガキ産んで…………………ウチ、そんな普通の女の子になりたかったんよ」

 大きな胸をギュッと強く押し付けながら泣き出す光に、しかし僕は掛ける言葉も無く手も動きやしなかった。

「……………なあ光、教えて欲しい事があるんだが、答えてくれるか」

 一つ……いや二つ。分からない事がある。

 それが分かったら、その答え如何によって、僕が光に手を差し伸べるかどうかが変わる。僕が光を、今後どういう目で見るかどうかが変わる。

 何一つとして空気を読まない僕の言葉に、光はぐすぐすと泣き続けながらも「ん」と小さく頷いた。それを聞いて、僕は聞いた。

「何があったんだ。…………身勝手で、嫌な言い方になるかもしれないんだけど、今までの光だったら胸の内が決壊するような事は無かった気がするんだ。お前の言う片恋至上主義ってやつを、ずっと貫いてたと思うんだ。………何がお前をこうさせてるんだ。これから先に何があるにせよ、僕はまずそれが知りたいよ」

 当たり前過ぎるようなその疑問。何せ橘光という女は普段からヘラヘラと気の抜けたような笑顔で馬鹿みたいな下ネタばかり口にするような女なのだ。そんな女がどうしてこんな唐突に弱音を吐き出したのかが僕には良く分からないでいた。

 仮にこれが「そういう風に意識している」というのであればまだ感想は違っただろう。サーカスのピエロのように「顔で笑って心で泣いて」だったのならば、僕はもっとこいつに気を遣っていた。

 しかし橘光という女は思った事を口にするようにしているのだと言っていた。という事は、普段の光が今回のような弱音を吐かないのは『思ってもいない事だから』であって、今の弱音は『思ったから言っている』という事。

 であれば必ず、どこかにそう思うようになった理由が存在するはずなのだ。

 その理由が気になる。それを知らないからには、慰めの言葉を掛ける事すら躊躇われて仕方が無い。

 僕に聞かれた光はずびずびと鼻を啜ってから、涙で濡れた目元を僕の服の袖口・・・・・・で擦って拭く。………そう、橘光とはこういう女なのだ。こんな状況でも、どんな状況でも、変わらず自由でマイペース、人の服で涙を拭いちゃうような自由奔放な女。誰にも彼にも構いやしない。全身全霊で、心の底から心行くまで、いつでもどこでも思うがままに我が道を行く女。

「………ウチ普通じゃないねん。ウチ普通の女の子になれんかってん」

 だからこそ橘光はブレない。周りの意見に振り回されるような女では無いはずなのだ。

「口も悪いし態度も悪い。体型だって普通とちゃうし、グラドル雑誌の巻頭毎号掻っ攫えるぐらいのお美人さんやねん。頭も体も、外身も中身も普通と全然ちゃうねん」

 痙攣する横隔膜に声を引っ張られないよう、ゆっくり深呼吸をするように言葉を紡いでいく光。よくもまあそんな事を臆面も無く言えたもんだとも思いもするが………いや、そういう事を堂々と言えるからこそ、僕はきっと今も光の慟哭を聞き続けているのかもしれない。

 これがその辺に居るようなありきたりな馬鹿女だったとすれば、きっと僕は見向きもしていないだろう。

「………………けどな、何から何まで普通とちゃうかったウチにもな、一個だけ人並みなもんがあったんよ。ウチ自身、今日この日まで知りもしなかった『人並み』がな、一個だけあったんよ………っ」


 僕の耳元から顔を離した光が、両手を支えにして体を起こす。仰向けになった僕の腰の上に、まるで騎乗位か素股のようにのしかかった光は────、


「………ウチも…………ウチも、人並みに嫉妬ぐらいすんねんなぁ…………っ」


 ────太陽のように輝いていた笑顔を、涙と鼻水で濡らして泣いていた。


 橘光は僕にだけ態度が甘い。パルヴェルトのラブコールには冷徹なまでに素っ気無い態度を取るが、僕が相手となると壊れたブラジャーや解けたサラシを整える為にと、コンプレックスだという大きな胸に僕が触れる事すら何ら厭わない。

 それは僕に好意的な感情を持ってくれているからこその行動。光とは逆のベクトルで自身の体にコンプレックスのあるジズにやって貰うのは絶対嫌がられるだろうけど、それでもトリカトリにやって貰う事はすぐに出来るはずだ。にも関わらず、橘光という女は高機動な戦闘スタイルの遠心力でブラのホックが歪んだ際、いつも誰に声を掛けていただろうか。

 橘光の言う『人並みの嫉妬』が何なのか。それは何となく心当たりがある。ジズに対しての想いは普段なるべく表に出さないようにしているからきっと違うだろう。

 光の嫉妬というやつは、恐らく両性具有になって困っているルカ=ポルカへの手助けと───今日あった、トトという獣人族の小さな女の子との一件だろうと予測出来る。

 普段から愛情を浴びていながら、しかし僕は光に冷たく当たる事が多い。だというのにポルカには甘く、初めて出会ったトトにすら僕は甘かった。

 それがどれだけ光を傷付けたのか、それがどれだけ光を傷付けていたのか、僕はようやく理解する事が出来た。

 今僕の目の前で泣いている女の子が誰に泣かされたのかを、僕はようやく理解する事が出来た。

「………………そっか」

 想いの吐露に、小さな返事を返しながら僕は右手を伸ばしてその頬に触れる。僕の指先が頬に触れると、光は怯えたようにびくりと体を竦ませた。

 しかし歯を食い縛るかのようにぎゅっと唇を結んだ光は、嫌がるようにかぶりを振った。

「ねっ寝る前になっ、思い出してんっ! タクトっ、ウチにはむっちゃ素っ気無いんに、ぽっポルカとトトにはベタ甘やったやんか……っ! 思い出したらむっムカついてなっ、ウチ文句言うたろ思てタクトん部屋来てんっ、けどなっ、けど、けどなっ!」

「………………うん」

「たっ、タクトの顔見たらなっ、ウチ怒る気飛んでってんっ! 暗い部屋なんにタクトん顔ぉはっきり見えてなっ! 眠そうな顔見たらなっ、胸の奥ぅあったかくなってんっ!」

「………うん」

「好きやねんっ! ウチ大好きやねんっ! 片想い止めて両想いになれたらなって思うぐらい大好きやねんっ! 今まで我慢出来た片想いの辛い所ぉっ、全然我慢出来んなるぐらいタクトん事好きやねんっ!」

「うん」


 ムードの無いプロポーズ。色気も無い告白。全く以て酷いシチュエーションだった。


 それが心の底から嬉しかった。


 ムードなんて要らない。色気なんて必要無い。シチュエーションに気を配ったラブコールなんざクソ食らえだと思える程に、強く熱烈な愛の詰まった想いの丈が、心の底から嬉しかった。

 こんなにも誰かから想いをぶつけられるのは生まれて初めてだったから、堪らなく嬉しくて仕方が無い。


 誰かに好きになって貰えるって、こんなにも幸せだったのか。


 鼻が詰まったからか懸命に口で呼吸する光は、横隔膜の痙攣によってしゃっくりでもしているかのように「はっ、あっう、うっく」と体を揺らす。心拍数を落ち着ける為にと深呼吸しようとするが、自分の意思では制御出来ない内臓器の痙攣にそれを邪魔され「はぁぁ──うっく、っぐんぬぅ」と苛立ち始める。

 しゃくり上げる度に揺れる大きな大きな二つ胸。その奥底にある、小さな小さな女心。


「………もう一つだけ聞きたい事があるんだ」


 そこに触れるかどうか、僕は最後に問い掛けた。


「どうして、僕の事を好きになってくれたんだ」


 傲慢かもしれない。けれど許してくれ。

 クソ男も良い所かもしれない。けれど許してくれ。

 試されてくれ。僕に試されてくれ。

 試させてくれ。僕に試させてくれ。

 でなければ僕は信じられない。

 僕が貴女に、心を許しても良いのかを。

 どうか教えて欲しい。


 僕の問い掛けに、光は強く鼻を啜って呼吸を落ち着かせていく。ゆっくり、ゆっくりと、深呼吸を繰り返して心拍数を落ち着かせた光は「……理由なんざ無いけどさ」と小さく口を開き始めた。

「ウチと初めて会った時、タクト全然ウチの事見んかってん。………覚えとる?」

 言われて目線を彷徨わせるが、光と出会った時は普通に光の事見ていたような気がする。「ごめん、良く分からん」と返事をすれば、光は涙にまみれた顔で「んへへ………別にええよ」と申し訳無さそうな笑顔を作る。

「タクトな、ウチの事ぉ見ながらウチ見て無かってんよ。目ぇから力抜いて、見とるもんのその向こう側ぁ見るみたいにさ。…………他の誰とも違ってん。みんなウチの体見るんに、タクトはウチの体ぁ何も見いひんかってんよ」

「…………ああ」

 言われてみれば心当たりはある。光に限った話では無いのだが、ルーナティアに…………この世界に呼び出されたばかりの頃の僕は思い出すと少し恥ずかしくなるぐらいスレていたというか、病んでいたというか……荒れているのとは少し違うけど、心がささくれ立っていたとでも言うべきか。だから光だけでなくジズやトリカトリ、パルヴェルトに対してもだいぶ達観したような棘だらけな感じで接していた記憶がある。

 何しろ愚者として呼び出された直後の僕は、僕の意識する時間軸で言うなら『死後直後』なのだ。僕だけでは無い、勇者も愚者も全員同じ。体感時間では死後直後、眠りから覚めた時のような感じでこの世界に呼び出される。


 だからあの時の僕は、線路に飛び出し自殺した直後そのままの精神状態だった訳だ。

 地下鉄の線路に身を投げた直後。『全身を強く打ち爆発四散》』のその直後だったのだから、光が言うような誰もまともに見ようとしないスレた状態だったのは確かだ。


 誰にも興味が湧かなかった。厨二病をこじらせたイキりキッズのような「俺、他人に興味湧かないんですよ」とかいう馬鹿丸出しのそれでは無い。ただ純粋に、誰かを正面から見詰めて興味を抱くだけの心の余裕が無かったのだ。僕でなくともそうだろう、自殺直後・・・・の精神状態であればきっと誰もがそんな感じになるはずだ。

 橘光と初めて出会った時、最初に声を掛けて来たのは光からだった。苛立ちを隠しもしない唸るような声色で「よぉそこの根暗ぁ。おめぇちっと足止めろや」だなんて声を掛けてきた光は、何を言うかと思えば自分の周りをちょろちょろするパルヴェルトをどっかにやって欲しいと僕に頼んで来た。

 当然ながら僕はその頼みを断った。その時の僕からすれば、人型をした灰色の何かが同じ日本語で語り掛けて来たかのように感じられたたのだ。性別も何も関係無い。人であるかどうかも定かでは無い何かから声を掛けられても、あの時の僕はマトモに聞いてやる気になれなかった。何と言ったかは思い出せないが、めちゃくちゃキツい言い方で断ったような気がしなくも無いが、どうだったっけか。

「………んふふ。あん時タクトに言われたん今も覚えとるよ。『お前を助けるぐらいなら、僕は僕を助ける』っちゅーてたね」

「………………………うわぁ」

 ………それは思い出したくなかったな。忘れたままで居たかったな。ああまさしく痛かったな。マジで痛かったなあクソガキも良い所じゃん。何かこの辺厨二臭くなぁい? 誰か右手疼いてんじゃねぇ? はっはっは右手所か全身が疼くよ誰か今すぐ僕を殺してくれ。

「ウチが意識し始めたんはそっから。んでちらちら目で追うようなって、仕草とか癖とか気にするようなって、声覚えて、匂い覚えて、足音覚えて………自力で知れる全部覚える頃には、タクトん事ぉ全部好きんなっとったよ」

「……………そっか」

 右手で光の頬を撫でると、光は嬉しそうな嫌そうな不思議な表情をしながら目を細める。

 布団にだらりと垂らしたままの左手を持ち上げた光がそのまま手を掴んで自身の唇へと持っていくと、僕の指先に光の熱い吐息が当たる。

 ───僕はその指を伸ばして、自ら光の唇に触れた。

 ぷにぷにとした手触り。柔らかいながらも少しだけ押し返すような小さな弾力のある唇に指で触れると、光は目を閉じて僕の指先に小さくキスをする。

「………付き合うてくれんでええよ。好きになってくれんでええよ。嫌いになっても構へんし、見向きもせんで別にええ。ウチはもう終わった身やもんな、そこまで欲の皮突っ張らせんのはアホやよ」

 目を閉じた光が僕の手を離すと、しかし僕の指先は布団に落ちる事は無かった。僕の指先は、僕の意思で、光の唇に触れたまま離れなかった。

「代わりに教えて。ウチに教えて。タクトん事、全部ウチに教えて。ウチもっと知りたい。もっともっと知って、もっともっと好きんなりたい。誰よりもタクトん事知って、誰よりもタクトん事好きになりたい」

 ゆっくりと瞳を開いた光が僕を見る。暗い部屋の中、窓から射し込んだ月明かりがその瞳に反射して輝く。怪しげでは無い、純粋な女の子の綺麗な瞳が僕を見下ろす。

 唇から離れた指先で光の頬を撫でると、光は緩やかに腰を曲げて僕へと近付いてくる。


「そういう事なら、仕方が無いな」


 触れ合った唇。焼けるように熱い唇。ぷるんとした感触の甘い唇。


 その隙間から差し込まれる光の舌は、とろけてしまいそうな程に柔らかかった。

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