3章

3-1話【三姉妹】



 フェル・ヤンはとある貧しい国の貧しい一家の娘としては比較的裕福な生活をしていたが、そもそもの話としてフェルは望まれた子では無かった。ある意味では望まれたといっても良いだろうが、幸せを享受する権利は無いに等しかった。

 フェル・ヤンが産まれた国では致命的なまでに少子化が問題視されており、国はその対策として『出産支援金制度』を作り出した。子供を産む際の出産費用を国が全て負担し、また育児費用として国から家庭へと支援金が降りるというもの。国とは民が居なくては成り立たない、民無くして国は成らず。その後の増税も無かったのだから、国家としては極めて良い政策を行ったと言えよう。

 しかしそれは全ての国民を破滅的な思想へと変えてしまうキッカケになってしまった。国家は、自らの国民達の財布の中身と、自らの国民性を理解していなかったのだ。


 始まったのは支援金を目当てとした不必要な妊娠、出産と人身売買の繰り返しだった。


 子供を産み、支援金を得たその後は『お肉屋さん』にその子を売る。警察から怪しまれると支援金が降りなくなる可能性がある為、行方不明届と捜索願は出しておくものの、売られた子供が帰ってくる事は決してない。よしんば帰ってきた所で、親は「もう一度売れる」という事に喜ぶような有様だった。何せ奇形で三本足の鶏を見て「一本多くてお得」と心底から喜ぶような国民性なのだから、国は国民にまともな常識と発展など期待すべきでは無かったのだろう。

 フェル・ヤンもその予定であった。フェルの両親は支援金目当てでフェルを産んだが、フェルの性別が女だと知ると『お肉屋さん』へ売り払う事を止めた。それは決して命を惜しんで、フェルを慈しんでの事では無かった。

 ただフェルを使えばもっと稼げると思っての事でしか無かったのだ。

 むしろ他に理由なんて何があるのかという程にフェルの親は清々しいぐらい倫理観が欠如していたが、この親も生まれながらにして悪だった訳ではない。ただ運が悪かっただけなのだ。

 ただ運が悪く、クソみたいな国に生まれてしまっただけの話である。

 

 最初は父に抱かれた。何歳の頃だったかはもう思い出せないが、決して乱暴な抱き方では無かった。

 しかし愛は感じられなかった。久々に抱いた締りの良い初物はつものを愉しみながらも、男を悦ばせる為のテクニックをひたすら教え込まれた。喘ぎ方、イキ方、腰の振り方、舐め方。自らの胸をまさぐりながらそれらを語る男の姿に、父の面影はどこにも無かった。

 まだ幼かったフェルはそれが普通だと思った。それが違うと知ったのは、都合何人目かも分からない男に抱かれた時の事だったろうか。

「あんたも大変だね。こんな事しなくちゃならないなんてさ」

 派手に失禁して腰の痙攣が止まらなくなっているにも関わらず、そんなフェルに対して口で綺麗にしろと命じた男は、フェルの頭を手で乱暴に動かしながらそう呟いた。

 こんな事…………その言葉を聞いたフェルは頭が真っ白になってしまった。

 何かを考えようとするが何も考えられず、考える理由を考えているかのような感覚に陥った。出すぞと叫んだ男に力任せに頭を抑え付けられて酸欠になっていたのもあったかもしれない。


 フェル・ヤンはその日以降、絶頂出来なくなった。何をされても性感を覚える事が出来ず、何をされても不快感しか感じられなくなった。客の一人が渡してくれた法外な媚薬に手を出しても、眼球の奥がやたらと熱くなっただけで性的興奮は何一つとして覚えられなかった。後々フェルは自身の神経の一部があの時焼き切れてしまい、後天的な不感症になった事を自覚した。

 だが淫売ウリは止められなかった。神経が焼き切れている状態では快感が得られないので当然ながら脳内麻薬も出て来ず、それ故に依存症になってやめられなくなっているという訳では無かった。

 フェルが行為に及ぶ理由はただ一つ。体を売らねば扶持ぶちが稼げず、家を追い出されてしまうからである。止められる訳が無かった。生きる為には犯されるしか無かったのだ。

 当然ながら家から出るという選択肢も考えたが、しかしそれはすぐに自己否定された。路地裏で男に尻を向けるフェルの目線の先に、名も知らぬ男性の生首が転がっていたからだ。浮浪者か、或いは自分と同じような境遇の者か。頭だけ切り落とされた男性は恐らく『お肉屋さん』に殺され、戦利品・・・以外に使い道の無い頭が捨てられたのだろうが、それが転がっているのは路地裏だけではない。公共のゴミ箱辺りを探せば老若男女様々な死体の切れっ端が幾らでも転がっている、そんな酷い国の酷い地域で、女一人が家を飛び出すなんて暴挙には出られるはずが無かった。

 フェルは女だった。だからこそ名も知らぬ男の欲望の捌け口のなって稼いでいる。もしも家を出るなんて手段を選べば、その日の夜にでも寝込みを襲われて『お肉屋さん』に売られてしまうだろう事は分かり切っていたのだ。

 ………『お肉屋さん』は特定の一店舗を指す単語では無い。様々な『肉』を扱う店を指すその単語は、性的慰安行為を目的とした人身売買から労働力としての奴隷だけでなく、物理的に食肉加工する所も存在する。そういった手合の連中からすれば、フェルのような若い女は様々な使い道がある。性的奴隷として売っても良し、自分が使って動画撮影しても良し、飽きたら肉として売っても良し、その解体風景を撮影してスナッフビデオ殺人動画として売っても良し。頭から足の先まで余す所無く使い道があるという意味では、フェルのような女はまさしく豚とさして変わらなかった。


 親愛なるバッド夫妻へ

 1894年、ジョン・デイヴィス船長の蒸気船に、私の友人が水夫として搭乗していた。

 サンフランシスコから中国の香港へ向けて出港した。香港に到着した彼は他の二人と陸に上がって酒を飲んだ。

 彼らが戻った時には、もう船は消えていた。

 その頃、中国では飢饉が続いていた。どんな肉でも一ポンド、一ドルから三ドルだった。

 人々は貧困に喘ぎ、飢えから逃れる為に十二歳以下の子供は全て肉屋に売られ、切り刻まれて食力として売られた。少年少女にとって街に安全な場所は無かった。

 何処の店に行ってもステーキやシチューの肉を頼む事が出来た。それは裸の少年少女を連れてきて、欲しい部位を切り分けられたから。

 便宜上、仔牛のカツレツとして売られている最も美味しいとされる少年少女のお尻の肉は、最も高い値段で取引された。

 ジョンはそこに長く滞在して、人肉の味を覚えた。

 ニューヨークに戻ると、7歳と11歳の二人の少年を誘拐した。自分の家に連れ去り、裸にしてクローゼットに縛り付け、着ていたものを全て燃やした。

 毎日、毎晩、何度も折檻し、肉を美味しく柔らかくする為に拷問した。最初に11歳の少年を殺したのは、彼のお尻が一番大きかったからで、もちろん肉も一番多かった。

 頭以外の全ての部位が調理され、食べられた。

 オーブンで焼いたり、茹でたり、揚げたり、煮たりした。次に小さな男の子も、似たように食べられた。

 当時、私はリアライトサイドに住んでいました。彼は人肉の美味しさを良く話してくれたので、私はそれを味わってみる事にしたのです。

 1928年6月3日の日曜日、貴女のもとを私は訪ねた。イチゴとチーズを持参し、私たちはランチを食べました。グレースは私の膝の上で、私にキスをしました。

 私は食べる決心をし、パーティへと誘ったのです。

 貴女は「行っても良いよ」と許可を出しましたね。

 彼女をウェストチェスターの空き家に連れて行きました。

 そこに着くと、私は彼女に外に居るように言ったのです。彼女は野の花を摘んでいました。

 私は二階に上がり、自分の服を全て脱ぎました。そうしないと彼女の血が付いてしまうからです。

 支度を終え、私は窓辺から彼女を呼びました。そして彼女が部屋に来るまで、クローゼットに身を潜めたのです。

 裸の私を見た彼女は、泣き出して階段を駆け下りようとしました。私が彼女を掴むと、彼女は「ママに言う」と言いました。

 罵られたり、噛まれたり、引っ掻かれたりしました。

私はそんな彼女の首を絞め、息の根を止めました。

自分の部屋に彼女を運び、調理しやすいように彼女を細かく切り刻みました。

 オーブンで焼かれた彼女の小さなお尻は、どれほど甘くて柔らかかった事か。彼女の全身を食べ終えるまで九日掛かりました。

 しようと思えば犯す事も出来ましたが、私は彼女を犯していません。

 彼女は処女のまま天に召されたのです。



「何故、自分がここに居るのか分からない」


 曰く、アルバート・フィッシュ


 その日は団体客を受けた日の帰りだった。

 団体客とは言っても五人を同時に相手取るだけであり、それは数日前から予約が入っていた。市販の浣腸薬を使って腸内を洗浄したフェルが、五人全てを同時に果てさせるという偉業を成し遂げた日の事だった。

 五人の団体客はフェルに対して注射器を手渡した。以前に使用したが大した効果も無かった媚薬に改良型が出たから、それをフェルで試したいのだと言った。

 フェルは内心で嘆息した。どうせ御大層な効果は無い、むしろ派手な嘘喘ぎをしなくてはならない面倒臭さに嫌気が差す。

 とはいえここで拒否した所で何にも繋がらない。フェルは相手が料金を倍近く上乗せする事を条件にそれを使用したが、やはりと言うべきか結果としてその媚薬はフェルの焼き切れた快楽神経には何も影響を与えなかった。致死量ギリギリまで投与しても、目の奥と鼻の奥が焼けるように痛むだけだった。

 その日の帰り、売上から少しだけ金を使ったフェルは病院に行った。性病検査と妊娠検査を行う為である。

 既にフェルは子供を産める年齢になっていたし、体もその準備が出来ている事を毎月勝手に教えてくれるが、フェルはどれだけ支援金が出るとしても子供を産む気は無かった。

 産みたくなかった。男が生まれれば躊躇い無く『お肉屋さん』行きであり、女が産まれれば第二の自分となる事は確定している。

 そんな悲しい事はすべきではない。恵まれない、望まれない子であっても、せめて人として正しい死に方をさせてやらねば気が済まない。「こんな事」をしている自分でも、それぐらいの良心は持っている。

 そんなフェルの良心は、医師の言葉によって打ち砕かれた。

「落ち着いてよく聞いてください。フェルさん、貴女は死産しました」

 医者が何を言っているのか、フェルは何も理解出来なかった。それは「あの時」と全く同じで、フェルの頭は医者の言葉を殆ど理解出来なかった。


 フェルの腹の中には子供が居た。数は一人、性別は不明。妊娠中の過剰な薬物使用が原因での胎内死だった。

 望まぬ子供を産まぬ為に、フェルは避妊にはかなり気を使っていた。だからこそフェルはその辺によく居るウリ・・の女よりも遥かに多くの顧客を取っていたのだが、それが仇となったのかそんなもの関係無かったのか、結果としてフェル・ヤンが妊娠していた事に変わりは無かった。

 自身の股間に乱暴に差し込まれた細長いティースプーンのような匙で子宮を掻き回されながら、フェル・ヤンは思い出していた。あれはどこで聞いた言葉だったか。「コンドームを着けていても妊娠する事はある」とか「コンドームの避妊効果は百パーセントでは無い」とか。


 愚者とは何なのか。何の為に呼び出されたのかをルーナティア国の魔王を名乗る女性から聞いた時、フェル・ヤンは何も感じられなかった。

 事実上の第二の人生。夢にも語られる異世界転生。

 しかしフェル・ヤンはこの世界で何をどうしろというのか、呼び出した者に問い詰めたい気分だった。何せ自分はただの売春婦だったのだ、荒事が出来る訳でも無ければ知謀のものでも無い自分に他国との戦争で勝つ為何が出来るのかと頭を抱えてしまった。


 いっそ軍人の慰安でもしてやるか。


 一瞬チラリと脳裏を過ぎった。だがすぐさま頭を振って否定した。

 割り当てられた部屋の布団。未だかつて触れた事すらないようなふかふかと柔らかい布団に潜って、久々に泣きながら夜を明かした。

 一瞬でも。チラリとでも。頭に浮かんだ自分が嫌で仕方が無かった。喉の奥に強い酸味を感じ、鉄錆てつさびのような味が大量の唾液と共に口内一杯に広がっていく。フェルはそれを何度も嚥下えんげしながら、無限に続くかのように感じらる嘔吐感に耐えながら夜が明けるのを待ち続けた。


「「お母さんっ!」」


 都合何時間寝れたかも分からないフェルを起こしたのは、ルーナティア城のメイド達では無く『男女二つの声が重なって聞こえる』という不思議な声だった。

 当初フェルは自らが呼ばれているとは思えず、布団の中に潜ったままで目を強く閉じていた。しかしそれは乱暴に引き剥がされ、フェルは瞳を開けながら苛立ちの混ざった目線をそれに向けた。

「「朝だよ! 起きなきゃ! お母さんはやく!」」

 白と黒で左右にくっきり分かれた特徴的な髪色をしたツインテールの子は、自身の上に跨って無遠慮に胸へと手を置いてくる。

「…………おかあさん?」

 自身に跨るその子は見た目通りとても軽く、胸元に押し当てられた両手も、フェルの片手で簡単に退けられた。

 服越しにブラジャーを摘んでズレを直しながらそう言うと、その子は邪気など欠片も存在しない屈託無い笑顔で「「うん!」」と答えた。

「……どういう事なのよ」

 至極当然の疑問。未だ覚醒しない目元を乱雑に擦れば、目の下がヒリヒリとした感覚を示し、そこを涙が通った跡だという事が分かったが、その痛みのおかげでフェルは少しは状況を理解する事が出来た。

「………………お母さんのお部屋はここじゃないわ。どこか別の部屋よ」

 一緒に探してやれば気が済むだろう。そう考えたフェルが未だ跨ったままの子を退かそうと手をやるが、その子は「「ううん」」とその手をやんわりと掴む。

「退いてくれないと一緒に探してあげられないわ。それとも一人で探せるの?」

 子供の扱いなど生まれて初めてだったフェルが苛立ちを隠しもせずにそう言えば、しかしその子は泣き出すような事も無くフェルの手をフェルの下腹部へと持っていく。

 臍の下。陰部の上。陰毛が生える場所として恥の丘だなんて呼び名をされるその場所の上辺り。

「「ここだよ、ここが僕の部屋。お母さんがくれた、私の部屋」」

 その子はそこへフェルの手を当て、その上から左右の手を重ねて言った。

「「僕が居て良いのはここだけ。私の居場所はここだけ」」

「───────は?」

 怪訝な声色でそう呻くフェルだったが、しかしその子はそう言いながらフェルを真っ直ぐ見詰めてくる。

 その瞳を見たフェルは返す言葉が出なかったが…………人の子宮に手を当てながら何を言っているんだと思った矢先、フェルは「まさか」とその考えに思い至った。

 冷静になってみれば、自分が今居る場所は何だったか。学歴なんて小学校すら出ていないが、ルーナティアなんて国名は聞いた事が無かった。少なくとも自分が死んだあの国の周辺にそんな横文字の地名は無い。

 魔王を名乗った女性はまだコスプレとでも言えば通用する、その手のオプションを付けたがる客も居たからだ。

 だがこの部屋まで案内してくれたメイドは、到底コスプレとは思えない。天井まで届きかねない程の大きな背丈と、今まで見たどの肉棒より太くて長い四本の指。通りすがったグレーのパーカーを着ていた女の子にも尻尾が生えていたように見えた。


 ここは異世界なのだ。私の知る常識は通用しない。


 人というものは孤独であればあるほど、考える事を放棄する傾向にある。意見を言い合う相手が居なければ、思考はどんどん末期的になり、終末思想に囚われる。

 そう考え至ってしまえば、もうそうとしか思えない。


「「お母さん」」


 私は死んだ。にも関わらず不思議な力で今ここで生きている。

 私の子も死んだ。にも関わらず不思議な力で今ここで生きている。


 考える気なんて浮かばなかった。いつの間にか二人に増えた自らの子達に、フェルはパイヘイという名を与えた。

 パイ・ヤンと、ヘイ・ヤン。

 フェル・ヤンの子供。

 魂だけになりながらも母の子宮にしがみつき、次元を超えてまで逢いに来た我が子。

 精霊やら魔法やらという胡散臭い力を借りながらも、それでも居場所を求めた我が子。男か女かも分からぬまま死産になったはずの子が、二つの性別を持った一人の双子として、今ここに居る。

 片足だけフェルの腰を跨っているような体勢の双子に向けて両手を広げれば言葉を交わさずとも想いが通じ合う。小さな体をしたサイドテール・・・・・・少年少女・・・・を抱き寄せると、既に泣き腫らした瞳の下を再び熱い涙が通っていく。

 しかし今度はヒリヒリとした感覚ではなく、じんわりと染み渡るような優しい痛みだった。



 ───────



「カテゴリとしては魔法生物だと思います。精霊達が何かしたのでしょうね」

 フェルが事情を説明すると、体の大きなメイドさんはそう答えてくれた。パイとヘイの二人は真面目な話なんて興味も何も無いのか、自らが話題の中心であるにも関わらず体の大きなメイドさんにしがみつき、よじよじと『メイド登り』を楽しんでいる。

「…………ぅあだだだだ。髪は引っ張っちゃいけませんよ。痛いです、普通に痛いです。トリカ禿げちゃいます」

 登る途中で髪を巻き込んだのか、大きなメイドさんが苦痛に顔をしかめてそう言う。一瞬チラリと覗いたその口内、ギザギザとした鋭い歯にヒヤリとするが、それを見てハッとしたフェルは慌てて「こら何をしてるの!」と声を荒らげる。しかし大きなメイドさんは太く大きな四本指の一本をフェルに向けて立ててそれを制止した。

 子供のする事だから許してくれるのだろうかと思ったフェルが制止に従いメイドさんを見ていると、そのメイドさんは髪を巻き込んだまま不思議そうな顔をしているパイの方へと頭を向けて口を開いた。

「パイくん、髪は引っ張ってはいけません。男女問わず誰のであろうと、誰かの髪を引っ張ってはいけません。絶対です」

 薄く開かれた口からはもう鋭い犬歯は覗いていない。どころかむしろ鋭さとは程遠い、優しく柔らかな口調でメイド登りの途中で呆然としているパイを諭していく。

「どうして? なんでダメなの?」

 しかしパイはそれを理解しない。それを見越しているかのように、大きなメイドさんは大きな指でパイの髪の毛を抓み、グッグッと結構な力で引っ張った。すると髪を引っ張られたパイは頭を逸らしながら「痛いよっ! 何するのやめてよっ!」と苦しげな顔で叫んだ。

 メイドさんは一瞬だけしたり顔をしたが、すぐに穏やかな表情へと戻って涙目をしたパイを見る。

「痛かったですか?」

「痛いよ! いきなり何するんだよっ!」

わたくしも痛かったんですよ。パイくんが私に登る時、私の髪の毛巻き込んで引っ張っていましたから」

「…………え、引っ張ってた? ………………ごめんなさい」

 涙目のまま、パイが素直に謝罪する。しかし大きなメイドさんはそのまま許さず、言葉を繋いでいく。

「素直にごめんなさいが出来るのは偉いですね。ですが、まずは謝らないようにしましょう。謝ってからでは遅いんですよ」

「────────」

 フェルは思わず息を呑んだ。まるで自分が怒られているかのような気持ちが胸の中でぐるぐると巡る。

「なんで遅いの?」

「私は髪の毛を引っ張られましたね? パイくんはそれに気が付きませんでした。気付かぬ内に、髪の毛を引っ張ってしまっていました。もしもその時、私が怒ってパイくんを殴ったり蹴ったりしていたら、パイくんはどうしますか?」

「……………殴られたり蹴られたりしたら僕怒るよ」

「ですね。そうなると、私とパイくんは喧嘩になってしまいます。喧嘩になってからでは遅いのです」

 ぎゅっと胸が締め付けられる。胸元に手をやりながら左胸に手を当てるが、締め付けられるような痛みは消えない。


 ───この痛みは、なんだろう。なんでこんなに痛いんだろう。


「仲直りすればいいんじゃないの? 僕ヘイと喧嘩したら、いつもすぐ仲直りするよ」

「いいえ、仲直り出来るとは限りません。むしろ仲直り出来ない事の方が多いんですよ。パイくんとヘイちゃんがいつも仲直り出来るのは、二人が仲良しさんだからなんですよ」

 腰の辺りにしがみついたままだったパイのお尻へと大きな手をあてがい、反対の手で肩の辺りに居るヘイの腰とお尻を掴むように抱き寄せ、大きなメイドさんは自身の肩へと二人を乗せた。

「まずは謝らないように気を付けましょう。誰かに登るとしても、髪の毛を掴まないように気を付けて登るんです」

 一体何メートルあるのだろうか。廊下の天井に頭が付きそうなぐらい高いその背丈で二人を肩車するような体勢になったメイドさんは、優しげに微笑む。

「世の中、自分が絶対だと信じて譲らない人ばかりなんです。世の中、そういう人達ばかりなんです。こんな私の言葉を聞いても「自分は違う」と信じて譲らない人ばかりなんです。だから喧嘩になってからでは遅いのです、喧嘩にならないようにするのが大事なんですよ」

 ゆっくりゆっくり子供達に諭していくそのメイドさんは、まるで世界の核心を突いているかのような事を子供達に説いていた。それを聞いたパイとヘイは分かったような顔をしながらグッと力強く頷いていた。

「…………………………」

 その姿を見て、フェルは何も言えなかった。お礼も、謝罪も、何も言えなかった。

 フェルの胸中にあったのは、自身が今ここに居る理由。メイドさんがこの国はもう手遅れだと遠回しに言っているように思えて、フェルは言い様の無い気持ちで胸がいっぱいになった。

 そんな事を思っている場合ではないのに。我が子を諭してくれた事に感謝すべきなのに。自分では到底出来ない二人肩車に喜ぶ我が子に、微笑みの一つでも向けてやるべきなのに。


 だから国家間の戦争が絶えないのか、だなんて事を考えると、考えが纏まらなくなって頭が真っ白になるような思いだった。



 ──────



 言うなれば、それはまるで真白なキャンパスのようなもの。立て掛けられたイーゼルに乗った白いキャンパス。まだどんな筆も触れた事の無い、純白の紙。

 だがキャンパスは絵を描く為に存在する。放っておけばいずれ白はカラフルに彩られる。人によっては美しく、人によっては汚らしく、描き手の思うがままに色を塗られる。

 だからそこから離した。絵の具の傍らにあるから手癖で使われてしまうのだと自分に言い聞かせながら、イーゼルごと真白なキャンパスを外に出した。

 それがキャンパスをけがれから守ると共に、キャンパスを孤独にさせる行為だと分かっていながらも、守る為にはそれしかないと信じてキャンパスをひとりぼっちにしたのだ。

 孤独になった者がどういう風に歪んでいくか。周りが行う良い事も悪い事も見れなくなった者が、褒める者も諌める者も居なくなったひとりぼっちの子供が、その後どういう歪み方をしていき歯止めが効かなくなるかなんて、それを強要するは何一つとして興味が無い。

 親は何かを押し付けた時点で満足絶頂しているのだから、押し付けられた子供が何を思ってどう育つかなんて興味が無い。振るだけ腰を振って出すもの出したら背中を向けて煙草を吸い始める中年のように、ティッシュで拭かれる事も「可愛かったよ」と囁かれるような事も無いまま放置される女がどう考えているかなんて興味が無いのだ。

 だからこそ、子供は親や周囲の者の背中を見て学び育つという当たり前過ぎる事すら忘れてしまう。

 自らに性癖を押し付けるような行いをした親の背中を見た子供が、一体何を思って育つかなんて思いも寄らないのだろう。

「「これ!? これがチルティのおやつ!?」」

「ぬふふ〜。首様がチルにくれたおやつの中では一番お気に入りなのですよ〜」

「「ほぉ〜」」

 パイとヘイが目を輝かせながら黄色い菓子折りを見詰めると、トリカトリ・アラムがチルティ・ザ・ドッグへ「開けても宜しいですか?」と聞くと、チルティは「ビリビリなのですよ!」と答えになっていない答えを返す。

「これは……文字なのは分かりますが……なんと書いてあるかは読めませんね。この世界の言語では無いかもしれません」

 大きな四本の指で菓子折りを持ったトリカトリは、菓子折りの表面を見ながらそう呟く。黄色い菓子折りの包装に書かれている文字は三文字で、フェルの国の言語では無かったので読む事は出来なかったが、恐らく日本語だろう事は分かった。

 四本の指で器用に包装を開くと、中には透明なビニール包装された黄色いカステラのようなお菓子が入っている。

「「「ほぁぁぁあああ〜」」」

 パイとヘイ、それにチルティが瞳を輝かせて声を漏らす。

 いつの間にかパイとヘイは二人に分離していたが、その上でチルティ・ザ・ドッグと声が重なるぐらい二人は中のお菓子に魅了されていた。

「とりあえず二つずつは食べれそうですね。…………はい、どうぞ」

 その大きな指で、小さな黄色いお菓子を抓んでパイとヘイ、チルティに二つずつ渡すと子供達は受け取る毎に「ありがとう!」と大きな声で喜んでいた。

 そこで、ふとトリカトリは「ん?」と声を発しながら振り返った。見ている方向はついさっきまで皆で集まっていた宝物殿を兼ねた本宅の方。

 背が高い故、普段は余り見る事の出来ないトリカトリの瞳。その瞳孔を猫のような細い縦長に伸ばしながら壁の一点を見詰める。

 目線の先で何かあったのだろうか。壁を注視したままのトリカトリは、いつにも増して神妙な面持ちをしていた。

「気にしなくて良いのですよ」

 それを見やったチルティ・ザ・ドッグが何事でも無いとでも言うかのように呟く。いつもと変わらないような口調でありながら、いつもと違う事が起きているのを示唆しているような言葉だったが、それを聞いたトリカトリは「なるほど」とそれに答える。

「でしたら私達はお菓子を楽しむとしましょう」

 トリカトリはそう言うと、開けられた菓子折りの中から黄色いお菓子を二つ取り出し、片手に一つずつ持つ。そしてその片方を、立ち尽くして死んだ目をしている…………居ても居なくても変わらないフェル・ヤンへと差し出した。

「大人組は一個ずつです」

 いっそ無視してくれたらどれだけ楽だったか。しかし子供に優しいトリカトリは、代わりとばかりに大人に厳しいようで。

「………………そう、ですね」

 フェルはそう答えながら黄色いお菓子を受け取るしか無かった。



 ───────



 気付けば意識を失っていたパルヴェルト・パーヴァンシーが目を覚ますと、そこでは既に殺し合いが始まっていた。比喩的表現ではない。明確な殺意を含んだ純然たる殺し合い。如何にして相手の息の根を止めるか。お互いそれ以外の何もかもを思考から排除し、手癖と直感で攻撃を避けながら熟考の末に首を取りに行く本当の殺し合い。

「……………意味が分からないなあ。何がどうなったらそうなるっていうんだい。ボクが寝ている間に何が起きたのさ」

 横倒れになっていた体を起こしたパルヴェルトな大きく溜息を吐く。幸運な事に、返り血で汚れたゴシックドレスを纏う女性達は総じて目前の狂戦士バーサーカー三人の相手をするので精一杯なようで、パルヴェルトの方へと飛び火してくるような事は無かった。

「………………はあ」

 だからこそ少し悩んだ。何の役にも立てない自分に嫌気が差してきて、それを払拭する為に誰かの方へと乱入すべきか悩んだが、すぐにかぶりを振って「ハハハ。無いね、無い無い」と笑う。そしてそのまま「よいしょ」と呟き縁側に腰を降ろした。

 ゴシックドレスを纏った三人の女は、直視すればゴリゴリと正気を削り落とされるような程に異質な存在ではある。この世界に居てはならないかのような雰囲気をしていて、それと関われば否応無しに消滅しかねないような感覚さえあった。

「……あーあ、また役立たずだよ。…………全く。ボクは何の為に生きてるんだろうね」

 ふ、と。地球上では一秒に何人が死んでいるんだっけかと考える。

 宝くじの一等当選確率は何パーセントだろうか。自分が乗っている飛行機が墜落する確率は。家から出た瞬間雷に打たれる確率は。自分の脳天目掛けて隕石が降ってくる確率は。


 死んだ後、異世界に転生する確率は、何パーセントあるのだろうか。


 奇跡のような───いや、奇跡と言うにも到底足りない程に少ない確率。コンマの先に一体幾つのゼロが並ぶのか想像も出来ないぐらい低い確率。

 女性の膣内で弾けるように泳ぎ出した精子が、二億から三億もの競争相手をただの努力のみで追い抜いていく。そしてその先で卵子と巡り合いようやく結ばれたかと思えば、反吐が出るような不幸に見舞われて『しくじった奴』だなんてレッテルを貼られ手生き返る。

 それはきっと途方も無いぐらいの確率なのに、そんな奇跡が起きる奇跡の果てで、自分は殺し合いをする女の子を縁側で眺めているぐらいしか出来ない。

 あの場に向かった所で足手まといにしかならない。

 カッコ付ける気にもなりゃあしない。

「何の為に生まれて、何の為に生きるのか」

 気でも触れたかのように嗤う彼女達の間に、割って入る勇気なんて無かった。

 だがどうした事だろうか。不思議と前みたく卑屈な気分にはならず、むしろ「ふふ」だなんて変な笑い声が漏れた。気が触れた彼女達に当てられでもしたのだろうか。



 ──────



「………………しゃるうィだァんす、シェケナベイベーShake it now baby

 首様が聞いたら「ナウなヤングにバカウケじゃな!」と喜びそうな、クラブハウスで振られている葉っぱの外袋パケに埋もれていそうなカビの生えた言葉で開戦を宣言したジズベット・フラムベル・クランベリーが、グレーのパーカーを目深に被ったまま急接近する。

 ジズは先手必勝に同意を示すタイプでは無いが、それでも相手の戦法や得意なレンジ射程を知る為には先手さきてを拾うのが最も賢明だと思っている。不意を討つなりして急襲を仕掛け、相手が咄嗟に取った防御や反撃によって「どういう戦い方をするのか」にざっくりとした予測を立てるのだ。

 初手を相手に譲るという事は、つまり相手がやりたい事を先にやらせるという事であり、そのやりたい事の内容如何によっては、下手をすればそのまま防戦一方になりかねない。

 とはいえ神風特攻が遺すのは後味の悪い死に様だけ。歴史の教科書に名を遺すとしても、実際歴史の教科書に載るのは個人の名前では無く特攻死した部隊名ばかりである事を知っていたジズは、猪突猛進に思わせながらも自身を追い掛けるように後ろから付いてくる尻尾に意識を傾け、いつだって方向転換が出来るように警戒していた。先手を取ったジズが求めているものは、両手をだらりと下げたゴシックドレスの女の攻撃手段の把握であり、先手を取った流れのままそのままゲームエンドに持ち込むようなオ◯ニー同然の戦いでは無いのだ。そんな安い勝ち方が出来る程、命を賭けた殺し合いは甘く無い。

 そんなジズのカマ掛けのような動きに対して、まるで隠すかのように口元を包帯で覆ったゴシックドレスの女性は下げていた両手を万歳でもするかのように一気に真上へ振り上げた。

 途端、ジズとゴシックドレスの女の間。玉砂利の敷かれた地面から針のように細い幾本もの槍がズァッと伸びる。

「─────────おっ?」

 先端が三叉に分かれたトライデントのような特徴的な尻尾を使い、地面を掴むようにして飛び上がりながら避けるジズ。空中で半回転しつつ目をやればゴシックドレスの女の影はジズの方へと伸びており、ジズはちょうど逆光になるような立ち位置に居た事が分かる。

「おっほォそういう事ォ。……………っはは、あっぶねェ」

 じゃりりと玉砂利を鳴らして横滑りするように着地したジズは、ズレたフードの位置を指で直しながら笑った。

 上げていた両手を元のように下げた女は、曇り切った双眸でジズを見たまま動かない。

 どこか焦点の合わない瞳に生物的な嫌悪感を覚えたジズが再び玉砂利を蹴って疾駆すると、やはりと言うべきか、女とジズの間に伸びていたその影がぬるりと浮かび上がり、ジズを貫こうと針のように伸びてくる。

「────ィよっ……とォ」

 それを見越して、ジズは自身の尻尾を力強く斜めに振るう。自身の尻に慣性が乗るのを感じるのに合わせて爪先で玉砂利を蹴ると、ジズの体は影で出来た棘の脇をスルリと抜けて浮かび上がる。

「────────ッ!?」

 が、ジズの背中に悪寒が走る。体が浮いた瞬間に気怠げな瞳を強く開き、そのまま両腕を真上に上げるようにして振り上げる事で力いっぱい腰を後ろに反らせる。

 直後、ゴシックドレスの女の黒い瞳がどろりと形を変えて溶け出した。そして涙のように溢れ出た黒目が、足元でから伸びてきた影と同じような細い針へと変わる。

「────────ッぶねェッ!」

 両目から飛び出た二本の黒い針。それを背筋を反り返らせるようにして何とか回避したジズはその勢いのまま背中で玉砂利の上を滑ると、すぐに特徴的な三叉の尻尾を地面に刺して体勢を戻す。

 三叉に分かれた尻尾の先端をカメラを固定する三脚のように地面に突き刺したジズは少しの間その尻尾を支えに浮きながら追撃を警戒していたが、しかしジズの想定とは異なり両目から黒い針を飛び出させた女はそこから何も仕掛けては来なかった。

 それを見てジズが地面に足を付けると、ゴシックドレスの女は針のように細く伸ばしていた黒目をゆるゆると縮めて元に戻す。

「…………なにそれキッモォ」

 前を見ているようで見ていない。目線が合っているようで合っておらず、絶妙に焦点が合わないその両目を見ながらジズは素直な感想を口にした。

 ……さっきは影が形を持って針のような棘になり、それを使ってジズの攻撃にカウンターを掛けようとした。だから影が真下に来ないよう相手の斜め上から攻め、それでも確実に来るであろう反撃を適当にやり過ごしながら相手の横辺りに着地するつもりだった。現在位置から見て、相手の右か左に位置取れれば、影の位置は右か左のどちらかになる。そうなれば右辺か左辺は好きにされるが、代わりに反対方向を回避先として自由に使える。

 そう思っていた。その予定だった。

 相手もそれが分かっているはずだから、確実になにがしかのアクションを見せてくるのは分かっていた。それを見てから、相手の嫌がる動きが何かを模索していくつもりだった。

 だがまさか黒目が溶け出て伸びてくるだなんて思いもしなかった。

「……………あァ……黒けりゃ何でも良いのかしらねェ」

 女なら何でもいい。顔が気に食わなければ後背位で適当に突くし、体型が気に食わなきゃ部屋を暗くする。多少愛想が悪くても学生だったら金出してでもヤりたがる遅れ汁野郎のように、ゴシックドレスの女は黒けりゃ何でも攻撃手段に変えれるのだろうか。

「もしかして真っ黒ビラビラなグロ◯ンがお好きなのかしらァ? とするとアンタ割と年上好みでしょォ。おねェさんを屈服させたいみてェなナルシズムは直した方がモテるわよォ」

 そんな風に軽口を叩くジズだったが、ゴシックドレスの女はだらりと両手を下げたままで微動だにしない。その様子を見たジズは舌を吸うように「チッ」と舌打ちして「つまンねェ女……何か言えやクソが……」と吐き捨てながら頭を切り替えていく。

 ………ジズの接近に対してこの女は反撃をして来たが、その後は追撃に移らず棒立ちに戻った。それを見たジズは、当初この女は反撃特化型───所謂カウンタースタイルなのではと予測を立てていた。

 だが違う。確かに今の所はカウンタースタイルにも見えるが、恐らくこの女は反撃型ではない。どちらかと言えば特定のタイミングや状況で猛攻を仕掛け、それ以外では適当にしのいで時間を稼ぐタイプ。

 まだ情報が足りない故確信には至っていないものの、恐らくこの女は『自身の持つ黒い何か』に形を持たせる力がある。地面に伸びた影だけでは無く、自身の黒目だけでも無く、もしかするとその服にあしらわれた大量のフリルの隙間に出来た数多の影も武器として形を持たせる事が出来る。その可能性が高い。

「……………………今ァ……何時だったかしらねェ」


 ─────日が沈んだら終わる。


 フードの端を指で抓み上げれば、グレーのパーカーフードに隠れていた太陽がジズの視界に入る。それに思わず目を細めるが、やはりと言うべきかゴシックドレスの女は隙だらけのジズに対して一切のアクションを起こさない。確かにわざとらしい隙ではあったが、それでも肉を切らせるだけで骨を断つには程遠いような命賭けとも言えるような誘い方だったのだから、慣れた相手であれば様子見感覚で仕掛けるぐらいは出来そうな隙を作ってみせたつもりだったのだが。

「…………………………どーォすっかねェ…………クソが」

 やはり、だった。口元を包帯で覆い隠したその女はピクリともせず、ジズの向こう側を見透かすような目線をしたまま何も仕掛けて来ない。

 結論ありきで思考を進める事がロクな結果を生まないのはジズも分かっていたが、こうまで待ち・・に徹されると些かやり辛い。

「…………ガン待ちガイルは嫌われるわよォ?」

 緩やかに揺らしていた尻尾を力任せに振り払い、その勢いに乗って地面を蹴る。三度目の接近。

 ゴシックドレスの女はゆらりと両手をゾンビのように前に上げたかと思えば、その袖口の奥から触手のような黒い影が三本ずつ伸びてくる。

「─────────うるァッ」

 ジズの左手がその影の一つへと振り下ろされる。べちゅっという気色悪い感触を脳が処理するのと同じタイミングで、ジズは抉るように左手を地面に向けて振り抜いた。下方向へ勢いが乗った反動で右肩が上がり、それに合わせて右腕を真後ろへグンと振る。

 ぐるんと錐揉みするような体勢になったジズの後ろから、勢いに引っ張られた尻尾が唸りを上げて振り上がる。三叉に分かれた特徴的な尻尾は、指のようなその先端を拳のように握って、ゴシックドレスの女へ向かって振り下ろされていく。

「───────────」

 女が後方へ飛び、ジズの顔面に迫っていた触手のような黒い影が後退したゴシックドレスの女に引っ張られるようにして下がっていく。しかし何本かは間に合わずグーの形に握られたジズの尻尾に殴られ、バチュンという音と共に飛沫を上げて弾け飛ぶ。

 ジズの尻尾が地面に叩き付けられ、ゴジャンッという玉砂利の擦れる音が鳴るの同時───、

「ッだらァッ!」

 ───上がり掛けていたジズの右腕。その脇を締めて肘を曲げながら即座に腕を折り畳んだジズは、グーの形のまま地面にめり込んでいた尻尾の先端を指のように広げて地面を掴み、引っ張るようにしながら右腕を斜め上へと伸ばして接近しながらアッパーを狙いに行くが、

「………………………」

 当然のようにゴシックドレスの女の黒目が再び溶け落ちる。今度はそれだけでは無く、大量のフリルの影が細く鋭く飛び出し、ゴシックドレスの女がまるで剣山のようになった。

 ………予想が確信に変わった瞬間であった。

「………うっぜェなァそれェ」

 けれどジズは即座に尻尾を使い、三叉に分かれたその先端で地面を押し出すように急後退していた。

 靴底で玉砂利を擦りながら飛び退ったジズに、相変わらずゴシックドレスの女は何も追撃などしてこない。

 ここまで行けばどう考えても確定だろう。追撃なんてする必要が無いのだから、その動きも当然なのかもしれない。夜が来ずとも、夕暮れまで適当にあしらっていれば太陽の傾きに伴って影は大きく伸びていく。

 そうなってしまえば、恐らく蜂の巣では済まないだろう。

「チッ」

 舌を吸うような二度目の舌打ち。弾け飛んだ黒い影の飛沫が玉砂利に染み込んで消えていく。

 あの黒い針みたいな影の耐久度がさして高くない事は分かったが、予想していた通り服とフリルの隙間にある影すら攻撃に使えるとなると、それは事実上全身が武器に成り得るという事で。そんな相手に拳を振るうのは針を立てて威嚇する豪猪ヤマアラシを素手で殴るのとほぼ同義。拳が穴だらけになるだけで済めばまだマシで、その拳を貫いた針が形を変えて好き勝手に暴れ回れば、下手をしたら拳が細切れにされかねない。

「つーかさァ………まずアタシ自分から攻めンの得意じゃないのよねェ………」

 そもそもの話として、ジズベット・フラムベル・クランベリーという女は自らが先に仕掛けるのが非常に苦手である。先手を許す事がどれだけ愚かしい事か理屈では分かっているものの、それでも昔から今に至るまで荒事で先手を取るのが何となく気持ち悪く、どうしても生理的な嫌悪感が湧きがちだった。

 自身に向かって攻め込んできた相手の攻撃を掻い潜り、その攻撃の後隙あとすきを突く。それに対して防衛行動を取った相手の、その隙を更に突く。それをひたすら繰り返し、相手の防御と自身の攻撃とでの持久戦を始めるのがジズという女の理想の戦い方だった。

 しかし眼前に立つゴシックドレスの女に対しては自ら進んで攻めに行くしか無い。相手も自分もカウンタースタイルを取りたがるが、どう考えても相手は時間が経つ程有利になる。

 つまり早い段階で必死を掛けねばならない。夜の帳が降りてくる前に、どうにかして仕掛けねばならない。


 ……武器が欲しい。それも硬質の。金属ぐらいの硬さがある武器があれば、針のような影の上から両断出来る。


 無いなら造る。無から有を造れないなら、有を別のものへと造り代える。今ある体を、理想の体に。

 薄い唇を開き、囁くように想いを告げて、望み通りの体へと造り代えれば良い。

「───もっと素敵な私に」

 理想通りのアタシに、アタシはなれる。


 その瞬間だった。

 自身の法度ルールを適応しようとしたジズに向けてゴシックドレスの女の瞳が動く。それまで虚空を見詰めていたその双眸がジズを睨んだかと思えば、女はお辞儀でもするかのように腰を曲げて両腕を真横に振り広げた。

「なり───。────────ごぶ」

 想いを告げ切る直前、ジズは喉の奥が焼けるような痛みに思わず咳き込んでしまった。

 口の中一杯に鉄錆のような味が広がり、激しい嘔吐感と強い目眩に襲われる。自身の口から吹き出た液体に目線を下げれば、自らの足元には赤黒い液体が流れ落ちていくのが見えた。

「───────がハッ」

 まるでナイフで喉を掻き切られでもしたかのような感覚に無意識で喉へと手をやるが、しかしジズの細い喉は口から垂れ落ちた血でぬめるだけで切り傷などはどこにも無い。

この女がなにがしかのアクションを起こしたのは見えた。だが何をしたのかが見えなかった。


 何が起きた。何を起こされた。何をされた。


「──────────っ。──────っ?」

 何しやがった。そう問い掛けようとジズが口を動かすが、ジズは問い掛ける事が出来なかった。

 声が出ない。赤黒い吐血に彩られたジズの口がパクパクと開閉するだけで、肝心の声が全く出ない。


 追撃は無い。呼吸は出来る。何かされた。じゃあ何をされた?


 通常であればそうそう経験などする事が無いだろう、喉奥の粘膜を剥がされたかのような激痛。それまで落ち着いていた心臓が痛みに跳ね始め、心拍数を測定するかのようにズクンズクンと喉が膨らむような感覚は、重めの頭痛に見舞われている時と少しだけ似ていた。

 乱れた呼吸を戻そうと深く息を吸えば、喉の奥に刺すような冷たさを感じる。

「………。………………。………………………。」

 物の試しに口を開いて罵ってみたが、声が出ない所かそもそも声帯が震える感覚がしない。

「………チッ」

 舌を吸って舌打ちすれば当然のように湿った音が鳴り響いた。

 殺意と苛立ちを隠しもせずゴシックドレスの女を睨み付けると、その口元を覆い隠すように巻かれた汚い包帯が目に留まった。


 ………口を、隠す、包帯。


 あーはいはいなるほど、だなんて悠長に考えてみる。


 声を持っていかれた。


 法度ルールが使えねェ。


 どうしよっかしらァ。



 ───────



「─────ぅおるぁっ!」

 ゴシックドレスの女へと踏み込んだ橘光たちばなひかるは巻舌で吠えながら、逆手に長ドスを握ったその拳で包帯ぐるぐる巻きなその顔面へと殴り掛かった。

 しかし音も無く首を九十度近く真後ろに倒しながら光のがんパンを回避した女は、そのままエクソシストのように背中を反らしたかと思うと、光の顎を狙って射抜くような膝蹴りを行ってきた。

「─────っだぁキモいねんお前ぇっ!」

 脳内のリミッターを感覚で調節しながら同じように背中を反らして地面を蹴れば、青白い膝が顎先を擦る感覚。

「くぬっ」

 慌ててリミッター上げながら右に全身を捻って錐揉みすると、ほんの寸前まで自身の頭があった場所を黒いパンプスが風を切りながら通り抜けていった。

 顎を狙った膝蹴りからの蹴り上げ。その連撃をギリギリの所で避けた光が、まるで水切り石のように小さくトントンと飛びながら後退すれば、誰に見せる用の勝負下着なのかとツッコミたくなる程に派手な透け透け下着を履いた女の足が緩やかに降りていく所だった。

 ほぼ直角に近い真後ろへと倒れていた女の首がぬるりと起き上がって元に戻るのに合わせて、橘光は逆手に持っていた長ドスを通常通りに握り直す。

「…………変形合体させるロボの頭部みたいやん、きっしょよ終わらせろやクソが」

 まるで覆い隠すように、目元だけを包帯でぐるぐるに巻きまくったその顔が光の方を向くが、目元が包帯で覆われているので当然ながら目線は読めない。


 そう。その『目線が読めない』という事実が、橘光という狂戦士バーサーカーに対して苦戦を強いていた。


 通常の格闘のような肉弾戦であれば、基本的に相手は攻撃を行う直前に『狙っている場所』を一瞬だけチラリと見てしまう。顎先、鼻っ面、ボディ、膝。攻撃をする寸前、攻撃をしようとしている場所の状況と位置を把握する為にそこを見てしまいがちである。

 そしてそういった無意識の行動を知っている者であれば、殊更嘘臭い目線の固定や逸らしをしてしまいがち。

 橘光はそういった目線を読み取り『どこを見ているかを見る』事で相手が何をしたいかを「んー……なんとなく?」ぐらいのレベルで把握する。

 そして持ち前の才能、その怪力を使って無理矢理攻撃を避けながら無理矢理攻撃をし続ける……それこそクロスカウンターを狙うように見せ掛けて理不尽に自分だけ避けるような戦い方が好みであり、そしてそれは自身のリミッターカットを使えば実現出来る事だと信じて止まなかった。

 隙の無い動きなんて物理的に存在しない。攻めも守りもどうやったって『動く』という隙を伴うというのが光の持論であり、その隙を突いて自身の隙を誤魔化し連撃を続ける事で、相手から後隙を狩る余裕を奪いながら、しかし自身だけが一方的に攻撃を続けていく。それが橘光という女の理想の動きだった。

 だがこの女にはそれが上手く機能しない。

 白を基調に黒で彩られたゴシックドレス。それに合わせるかのような黒いリップが塗られた厚ぼったい唇は、先程から派手に動き回っているにも関わらず固く閉ざされたままで開かれていない。それが呼吸一つ乱していない事を物理的に証明しているかのようで、何だか妙に苛立ってくる。

 掃いて捨てる程居るメカクレ系キャラクターのように目元だけ包帯で巻かれたこの女は、目元が隠れているせいでどこを見ているかが見えやしない。

 目線を頼りに動きを決める光からすれば、その相性の悪さは最高に最悪だった。

「おるぁッ!」

 通算何度目か分からない突進を仕掛けた光が肩と腰を使い、腕ごとぶん回すよう左手の長ドスで横薙ぎにする。しかしゴシックドレスの女は膝を曲げながら自身の腰を百六十度近く真後ろへと折り曲げ長ドスを避ける───、

「───────分かっとるがぁっ!」

 ───が、何らかのキモい避け方で回避される事を予想していた光は振り抜いた腕にグッと力を入れて、横向きに燕返しでもするかのようにその手を反転。上を向いていた指先を即座に下へと向けて長ドスを斜め下に叩き付ける勢いで振り払った。

 だがゴシックドレスの女は背中を折ったまま、ぬるりと腰を捻じ曲げながらそれを避ける……と思えば、まるでドライバーで回されるネジが如く腰を捻り続け、振り払われる長ドスを追い掛けるかのように振り回した腕で光の顎をカチ上げに来た。

「─────っぐぃッ」

 生前の事故によって外れた脳のリミッター。思い出すだけでその場で嘔吐してしまう程に辛いリハビリを乗り越えて得たその力をフルに動かした光は、その場でバク転する思いで腰を反らしてアッパーを避ける。外したリミッターの反動か、鼻の奥がじわりと熱くなると共に、自身の目と頬の間ぐらいから毛細血管の千切れるぷちぷちという音が聞こえた気がした。

「ぉ─────ぐ」

 しかし避けれたのは初撃のアッパーのみであり、その直後にやってきた反対の腕による裏拳は避け切れない。

 歯を食い縛って腹に力を入れるが湧き上がる嘔吐感に視界がチラつく。土手っ腹にめり込んだ女の裏拳は撫でるようにスルリと抜けていき、一周して再来した反対の拳が光の腹を直撃した。

 腹の真ん中をぶち抜かれてごろごろと転がっていく光だが、握っていた長ドスを何とか地面に突き刺して回転を止めると、殺し切れなかった勢いに引っ張られた光の体は長ドスを支点に少しだけ浮かび上がった。

「──────── …………ってえなあサゲマンがよぉ……」

 吹き飛び掛かった光の勢いに負けて斜めに向いた長ドスを杖代わりに体を起こし、殴られた腹に右手を当てて様子を確かめる。

 ………言葉通りに反吐を撒き散らしそうなぐらいの嘔吐感はあるが、幸いにも皮膚は裂けていないし内臓破裂も起きていなさそうだった。

 痛みによろめきながらも長ドスを抜き、くっと浮かばせるようにしてそれを通常通りに持ち直す。腹部の痛みに苛立ちながらも前を見据えれば、そこには玩具のように上半身を回転させながら元の状態へと戻っていく女が居た。

「…………………………きっしょ。ダル◯ムでもそんな動きせえへんやろ、どんだけヨガきわめよったらそんなん出来るようなるねん。火ぃ吹くだけで満足しとけや」

 無茶・・をしたリバウンドで垂れてくる鼻血を右手で拭き取った光は、両の鼻を指で軽く抓んで塞ぎ、そのまま力強く空気を吹き出す。プンッという小気味良い音と共に指が押し退けられ、飛沫のような鼻血が吹き出した。

 鼻血か鼻水か。垂れてきたそれを手の甲で拭き取りながら、橘光は舌を吸うように「チッ」と舌打ちした。

 元の通り、パッと見は元の人型へと戻った女は様子を窺うかのように光へと顔を向けるが、相変わらずその目線は包帯で隠されて一切読めない。

「……………………どうすっけえなぁ」

 速攻で終わらせる予定だった。手足かどっかを適当にぶっ千切って、雑に頭を踏み潰して終わらせる予定だった。

 しかしそうは問屋が降ろさなかった。

 ゴシックドレスの着たこの女は光が思う以上に力が強く、文字通りの怪力を誇る光がその腕を引き抜く気持ちで引っ張ったとしても、意にも解さぬかのように平然と抵抗してくる。それに前述している通り眼球の動きで相手の動きを読む光とも根本的な相性が悪い。

 それだけでなく、まるで関節の概念が無いかのようなぐねぐねとした動きで光の攻めを避けていくこの女は、未だかつて経験した事の無い類いの相手であり、どう対処するのが適解なのか全く読み取る事が出来なかった。


 ……いっそリミッタ全部取っ払って───いやあかんミスったらリバウンド死ぬか。


 事故によって頭を強く打ち、それによって外れた脳のリミッター。それを任意で好きな段階まで付け外し出来るのが橘光という女の特技だが、それは決して便利なチート能力とは言い難い。

 人間の脳が何故リミッターを掛けているのか。それは単に『体が保たないから』というだけの話。体感で五割から六割ぐらいまでリミッターを外しただけで鼻血が止まらなくなり目と頬の間を通る毛細血管がぷちぷちと千切れるのだから、明日の朝は確実に筋肉痛で泣きを見るだろう。

 そうでなくとも、しばらく前に気取った胡散臭い鎧武者を瞬殺しゅんコロする為にリミッターを多めに外している。そう大した間も置かずにポコスコ外していたら、その内脳の血管が千切れて意識を失いかねない。

なぁにが悲しゅうて同じような理由で二度も死ななかんねんダボが」

 怪力乱神かいりょくらんしん。人によっては羨むその力を発端に、橘光は死んでいる。死後に拾った二度目の人生、そこでも同じような理由で死にたいとは到底思わない。

 加えて橘光にはこの世界で成し遂げたいと思っている事があった。慢心して秒殺された何処ぞの SAMURAIサムライでは無いが、せっかく訪れた第二の人生なのだ。やりたいと思った事が叶うまで死んでやるつもりは毛程も無かった。

 才能。凡人ただひとには真似すら出来ない、狙っても得られないような才能が自分にはあるのだ。


 そう。ある。

 あるはず。

 いや迷うな。ある。


 ───本当に? 自分には本当に才能があるのか?


 才能とは何だ。天賦の才とは何だ。

 狙っても得られない力。求めても手に入らない力。

 期待する事すら馬鹿馬鹿しくなる可能性の果てに得られる偶然の産物。

 それが才能。自分の力。


 ───その才能とやら、百パーセントの性能を発揮出来た事なんか、ただの一度も無いだろう。


 全力でぶん回せば、そのままポクッと死ぬような力。

 それは果たして才能と呼べるのか。


「…………………じゃかあしクソが」

 頭の中で自分の声が響く。いや頭の中だけじゃない。確実に鼓膜が振動しているその声は、橘光にしか聴こえない幻聴。

 達観したような冷めた口調の自分の声は鼓膜を通して頭蓋の中へ入り込み、木の槌をち込まれた寺の鐘のようにわんわんと響きながら問い掛けてくる。

 その声に思考を乱されるような感覚がして、最高にイライラする。殴られた腹部の鈍痛が無ければ、今頃更年期の人妻のようにヒステリックにブチ切れながら夫の浮気を加速させていた事だろう。

 その鈍い痛みに誘われ、光は空いている右手で腹を撫でた。

 その瞬間だった。

 乱れ始めていた心拍数を整えようと息を吸った橘光に向けて、ゴシックドレスの女はお辞儀でもするかのように腰を曲げながら両腕を真横に振り広げた。

「………あ?」

 左右に手を開きながらこうべを垂れる女の頭頂部が、光の視界に─────入らなかった。

「────────」

 癇癪玉を叩き付けた時のような、パァンと何かが爆ぜる乾いた音が聞こえ、直後に光の視界は闇に包まれた。

 赤熱を通り越して黄色い輝きを放つまで熱せられた鉄の棒。それを両目にねじ込まれたような耐え難い痛みが両目を通して脳髄に伝わる。

 それは文字通り耐え難く、光の脳は自我の破壊を防ぐ為、受けた電気信号は痛みに変換されずそのまま処理。光の脳は即座に痛覚を遮断した。

「………んあ? なんねこれ……前ぇ見えん」

 一切の痛みが無くなるに合わせ、いつもと変わらぬ調子に戻った腹部から手を離した光が目元に手をやると、そこは少しぬめるような手触りの液体にまみれていた。

 閉じた瞼。その上から指で眼球を撫でようと様子を探るが、その指先からは感じた事の無い違和感が伝わる。

 寝起きに目を擦った時にある瞼越しの瞳の膨らみ。ちょっとゴリっとしていて、力を入れて押し込もうとすると舌の根本が気持ち悪くなるような感覚がするはずなのだが、指先に感じるのは未経験の感触。生まれて初めて触れる感覚。

 斜め後方辺りから頭パッパラが騒ぐ声が聞こえてくる。そないな言わんでも分かっとるわ。

 ぐりぐりと瞼を押し込んで再確認。

「──────あーはいはいなるほどな」


 目玉ぁ持っていかれちった。


 目線以前に体の動きすら見えんなってもた。


 どうすっけぇなぁ。



 ───────


「あっちは愉しそうじゃが、その流れで行くならわしはどこを持っていかれるんじゃろうなーとか言ってみるわし」

 もしも足を持っていかれたらお決まりの台詞を叫んでやる気満々だった首様が「はひー」と変な声と共に息を吐いて目前に居る女の方へと向き、片手を死に装束の袖口に突っ込む。

 ごそごそと何かを探るように袖の中を動き回ったその手は、やがて「お」という小さな声と共に止まり、それを握った首様の小さな手が袖口からしゅるりと出てくる。


「たーだーのーくーみーひーもー」


 妙に甲高い間延びした声で言いながら黒橡くろつるばみ色の紐を掲げた首様の指先は、何故か瞬間的に全て無くなり完全な球体になっていたのだが、悲しい事にそれに対してツッコミを入れられるものは今ここには居なかった。

 穴の開けられた黒い丸石。一本の紐の両端がその穴を通るようになっているそれを持った首様は、その場の空気に一切似つかわしくない「よいしょよいしょ」だなんて呟きを発しながらそれを首の後ろへと回す。

 輪のようになっているその紐を片手で持ち、もう片方の手で長い白髪しらがをまとめてその穴に通すと、紐の両端と石とを手で持ちしゅーっと鳴らしながら輪を閉じていく。

「イメチェンじゃっ!」

 ポニーテールとは程遠い、ただ首の後ろで髪をまとめただけの姿へなりながら死語に近い単語を呟いた首様は、下手な糸よりよっぽど細い糸目を柔和に曲げながら、両の手首を同時にコキコキと鳴らす。

「てれってれーれー、てれってれーれー、てれって、てれって、ってーてーれれ、ってー」

 ハロウィンのコスプレみたいな包帯の巻き方をした女を前に、余裕綽々よゆうしゃくしゃくといった表情でロ◯ク◯ンのステージ選択画面の曲を口ずさむ死に装束のロリババアが、そこに爆誕した。

 したり顔を隠しもしない首様は、ようやく満足したのかゴシックドレスの女へと向き直って構えるが、銃好きを自称する死に装束のロリババアは銃好きを自称しているにも関わらず、ゴシックドレスの女を相手に素手で挑もうとしていた。

 にやにやと笑いながら右肩を向けて構える首様は、数多ある格闘技の全てを漁っても見付けられないような独特な構えをしており、トントンと三回ほど足裏を浮かせてリズムを取ると、それきりベタ足で待ちに徹して動かなくなった。

 相手に向かって右肩を向けるような構えは格闘技にもよくあるものだが、それ以外がなかなか珍しい構えだった。

 左手をボクシングのファイティングポーズのように薄っぺらい胸の辺りで握り、右手の甲を左上に向けて腰の辺りに下げ、右肩が相手に向いているにも関わらず右足を前に伸ばし、左足は膝を軽く曲げながら左肩の真下に来るように置いてある。

 自ら銃火器を製作してしまう希有けうなロリババアなのだから何処ぞのスネークが扱うCQCでも見せ付けそうなものだったが、しかし首様はナイフすら持たず、独特な構えの右手をにぎにぎと動かしながら糸目を薄く開いて目前の女をめ付ける。

 首様の理屈っぽい性格を知る者であれば、きっとその構えにはどれも何かしらの意味があるのだろうと予測し警戒していたかもしれないが、少なくともゴシックドレスを着た女は首様とは初対面であり、その構えが持っている意味なんて読み取れる訳も無かった。

「…………………………………お?」

 だがゴシックドレスの女は何かを読み取り、その意思を汲んだのだろう。二人の姉妹とは異なり力強く確かな目線で首様を見た女は、澄んだ湖のような深さの瞳で首様を睨みながら、両手を強く握って自身の眉の辺りまで持ち上げる。

「………………ほほ〜」

 軽く右斜めに構えながら、右足の爪先を立てるその構えは、首様の独特な構えとは違い、格闘技に知識のある者なら即座に名前が浮かぶ構え方であった。

「何じゃお主ムエタイか。わしに合わせてくれるのか? ………意外と良い奴じゃのう」

「………………………」

 両手両足、両肘両膝。都合八つの部位を駆使して打撃戦を行うその構えは、格闘技の界隈では軽々しく扱われながらも由緒正しき歴史を持つ八肢はっしの構え。

 通常の両手両足に加えて更に四つの関節を使った鋭い一撃が特徴のそれは、主にボクシングの世界ではかなりポピュラーな格闘術なのだが、悲しい事にその世界では弱い部類に入れられてしまう。

 それは何故か? 理由は一つ。ボクシングの規則を守らなければ反則負けになりかねないからである。

 格闘技とは対戦相手と戦うだけの世界では無い。ストリートであれ公式戦であれ、そこには少なからず観客オーディエンスが居る。それらが納得出来る戦い方、勝ち方をしなければ勝っても勝ちにはなってくれない。

 ではそういった規則が無い場合のムエタイは強いのか?

「…………お主性格悪いのう」

 相手の腕を肘で折り、相手の顎を膝で割る。レフェリーの居ない土俵でのムエタイというものは、得てして対戦相手から嫌われる格闘術の一つである。

 しかしだからこそムエタイをきわめる事は極めて難しい。アウトローだなんて蔑称で呼ばれる事に優越感を感じてしまうような連中から好まれるムエタイは、ボクシングよりよっぽど多くの者が一度は学びたがる。それ故に、究めた気になって道場を開く者が後を絶たない。

 中途半端な究め方で知り尽くした気になる者が数多く居るムエタイ術は、空手のように決まった型が少なく喧嘩芸さながら個々人毎に立ち回りが大きく異なるのだ。

「だからこそ読み難いんじゃが─────────のぅっ!」

 左足で地面を蹴った首様が真白の死に装束を乱れさせて右足伸ばす。

 かなり開いていた距離を一瞬で詰めた首様は、上半身の構えはそのままに、地面に横倒れになりそうなぐらい体をねじって右足を伸ばす。一瞬だけ膝を曲げてひねるように振るわれたその爪先は、半円を描きながら女の顎を真横から叩いた。

 ペシンと乾いた音を鳴らしながら爪先を振り抜いた首様は、その足の動きのままに体を倒し、構えていた両手を地面に押し当ててうつ伏せになる。

 半回し蹴りの勢いを乗せた体に両肘が少し曲がり、その薄っぺらな胸元が地面に敷かれた玉砂利に触れるかというぐらい接近すると、首様は地面を上へと持ち上げるように腕を伸ばし、未だ半回し蹴りの勢いが乗ったままだった右足の膝をグンっと強く曲げる。

「─────────────」

 首様の右足、そのかかとがゴシックドレスの女の右足のくるぶしへと直撃する。首様はそのまま膝を曲げるようにして女の左足も払った。

「────────む」

 違和感を感じた首様は即座にアッパー気味に左腕を回し、ごろごろと転がりながら距離を取り、転がったままの姿勢でぼよんと飛び上がって向き直る。

 完全に顎にキマっていた首様の半回し蹴りだったが、後退した首様が起き上がるのと全く同じタイミングで足払いから起き上がった女の様子を見る限り、脳震盪など起こっているようには思えなかった。

 むしろ女の目線はより真っ直ぐ首様を見ているようにも思える。

 しかし首様のテンションは変わらず高いまま。脳天をシェイクしても効果が無い事を理解した首様は、より一層楽しそうに「うははっ」と笑う。

「ワンモアセーッ」

 妙な構えで妙な叫び声を上げて『もう一度One more set.』を要求した首様が再び地面を蹴る。

 その瞬間だった。

 急接近を仕掛けるて飛び掛かってくる首様に対して、ゴシックドレスの女はお辞儀でもするかのように腰を曲げながら両腕を真横に振り広げた。

「──────────お」

 ブシュッと何かが噴き出す音が聞こえた気がしたが、それはきっと気のせいだった。

 両耳の奥からどろりと流れ出すような感覚は、さながら中耳炎が悪化した時に化膿した膿が溢れ出てくる感覚に似ていたが、中耳炎になった事の無い首様的には「風呂上がりに耳に詰まった湯が出た時のあの熱さ」の方がよっぽどしっくり来る。


「─────────ゎあしに聴覚ちよぉかくなんぞ要らんゎ」


 両耳から流れ出た紅い血が首様の襟元に染み込んでいくが、黒目や白目どころか眼球すらもが仄暗い黒に変わった首様は、逆様になった三日月のように吊り上がった笑みを浮かべて答えを返す。

 自身の聴覚が完全に失われたせいで声の抑揚がしっちゃかめっちゃかになりながらも、その声色には愉しさのようなものが含まれていた。

「んははっ」

 真横に広げられた両腕の下へ見事なスウェーで入り込んだ首様は、俯くように下を向いていたゴシックドレスの女に向けて素早く右手を伸ばす。

「──────────」

 お辞儀でもするかのように頭を振り下げていたゴシックドレスの女に首様の手を避けるような余裕は無く、首様の右手の指は吸い込まれるように顔面に突き刺さっていった。

 中指と薬指は左目に刺さり、親指で左の頬肉を貫いた首様はそのまま握り込むように指を曲げる。親指の腹にゴシックドレスの女の奥歯が引っ掛かるのを感じた首様は、スウェーの為に曲げていた体を起こしながら力任せに右手を振り払った。

 メヂュッと肉の裂ける音の上に、ポキっという何かが外れる音が乗る。

 頭を千切り取られたゴシックドレスの女は狂喜に嗤う首様に跪くかのようにそのまま倒れ、距離が開いていれば気付かない程小さく小刻みに痙攣し始め、どくんどくんと心臓が動くのに合わせてその首から緩やかに血が流れ出ていく。

 千切り取った頭を持ち上げてみれば、指を突っ込まれなかった方の右目が体と同じように小刻みにぶるぶると痙攣していたが、四秒程度経つと一切動かなくなった。それと同時に首様が「お?」と小さく声を上げた。

「おー戻った戻った。破れた鼓膜を治すのは大変なんじゃ。どの辺に張れば良いか未だに分からんでのう」

 いつの間にか仄暗い双眸は糸目に戻っており、ご機嫌な様子をした首様は未だ指を突っ込んだままの生首をぷらぷらと揺らしながら「いやー良かったのう」と笑う。その動きに合わせ、傷こそ付かなかったものの完全に制御電気信号を失った右の眼球がぐるんぐるんと揺れ回るが、首様はそんな事には何一つ興味を示さず「して」と呟きながら縁側へと向き直る。

「愛しの君が目から血ぃ流しておるに、お主は助けに行かんのか?」

 ゴシックドレスの女の生首を持った首様が、その頭部をポイと投げ捨てながらそう言うと、虫編の漢字が大量に書かれた趣味の悪い湯呑みでお茶を飲んでいたパルヴェルトは、縁側に座ったまま「そういう貴女は耳から血が出ているけれど大丈夫なのかい」と答えるが、首様はそれには答えない。

「わしの知っとるパル坊なら後先考えずにあの場に突っ込んでおったがな。行けば良かろう、何故行かん。何故助けん」

 聴覚を奪われた際に耳から垂れ出た血で両肩を赤く濡らした首様は、首様にしては珍しく些か真面目な声色で問い掛け続ける。組紐で縛っていた髪を解くと、錆茶色に酸化し始めていたその肩が純白の白髪で隠れた。

 パルヴェルトはズズズと鳴らしてお茶を飲む。中身は甘みの強い緑茶だったが、もう残りは殆ど無い。粉末状に擦りおろされた深緑色の葉が、底の方にこどんで沈んでるのが見えてくる。

「…………世の中、甘くないのさ」

 紅茶を飲む時は可能な限り音を鳴らさないが、緑茶を飲む時は意図的にすする音を立てる。麦茶であれば豪快にごくごくと喉を鳴らすし、珈琲であればアホみたいな量の砂糖を入れ、飽和状態になって溶けれず沈んだ砂糖をスプーンで掬ってジャリジャリと食べる。礼儀作法では語れない『侘び寂び』を、パルヴェルトは良く理解していた。

「ボクがどれだけ「守りたい」と思った所で、ハニーはそんなに甘くない。守りたいと思ったぐらいで守らせてくれる程、ハニーは弱い女じゃないのを思い知ったよ」

 当時の日本ひのもとには茶道なんて物は存在しなかった。武家の者達が『茶の湯』と呼んで楽しんでいたものに礼儀作法なんてものは殆ど存在せず、彼らは純粋にお茶と歌を皆で楽しんでいたに過ぎない。

 茶道はみやこの白塗り達が自分の権威を主張する為に生まれたもの。自分の方が良い茶碗を使っている、自分の方が良い茶葉を持っている。自分の方が良い座り方をした。自分の方が良いて方をした。

 だから自分の方が上であると、公家の白塗りたちがマウントを取る為に生み出した、おごりに満ちた道なのだという。

「パル坊らしくないのう。お主は縄張りを荒らされた猿のように馬鹿みたいに騒いで、自らの縄張り含む周囲を乱している方が似合うぞ」

「酷い言われようだね……ボクはそんなに頭悪そうに見えるのかい……心外だね」

「何か思う所でもあったのか?」

 本来は皆でお茶を持ち合って、皆でうたを楽しんで。領土争いだの乱世だのという俗世を僅か一時で良いから忘れようというのが始まりだったのに、人という生き物はどんな所でも、自己の権威を主張しようとする。

 残り少ないお茶。するりと流れず、どろりとした濃いお茶を飲んだパルヴェルトは、吐息を漏らす。

 砂糖など入っていないのに強い甘みを感じる。渋みなんて何一つ感じられない辺り、きっとかなり良い茶葉なのだろう。

Believeビリーブという歌を知っているかい?」

 皆で集まって、美味しいお茶を飲む。碗の回し方とか、持ち方とか、飲んだ後の常套句だとか。そんなものは関係無い。

「たとえば君が傷付いて、挫けそうになった時は」

 美味しいお茶を飲んで「美味しいね」って言い合えれば、それが最も幸せだったのに。他人他人の幸せを壊してでも、自分一人が幸せになりたがる。

「必ずぼくが側にいて、支えてあげるよ、その肩を」

 透き通るような声色で歌うパルヴェルトを、興味深げに見詰める首様は「良い曲じゃな」と素直にその歌を褒めた。

 中身の無くなった湯呑み。冷え切って冷たくなった湯呑みを縁側に置いたパルヴェルトは、開いた両手を後ろに回して体を支えながら溜息を吐いた。

「助けてと言われたら助ける。助けてと言われなければ助けない」

 両目から血を流し、ひたすら殴られ続ける想い人を茫然と眺めるパルヴェルト。

「助けてと言われる前に割って入るのは、その人が『助けて』と言う余裕すら無いぐらい挫けそうになった時で良いんじゃないかなって、ボクが最も尊敬するブラザーの立ち居振る舞いを見て思うようになったんだ」

 相手の言葉を待たずに助けた所で、気持ち良くなれるのは助けた自分一人。助けてという思いすら無いのに助けられて喜ぶ者は決して多くない。

「心配っていうのはね、そいつじゃあ失敗するかもしれないと思っているから思うんだよ。そいつでは成し遂げられるか怪しい、そいつでは力が足りないかもしれない。だから心配するんだよ」

 口から血を吐きながらも、パルヴェルトや首様には目線の一つも寄越さない悪魔の少女の勇猛な背中を見ながら呟いたパルヴェルトは「ジズ君も、ハニーも、ブラザーも、ボクも」と、まるで吐息を吐くように呟く。

「その者を心底から信じているなら、心配なんてものを感じる事は無いはずなんだよ」

 世界中の希望乗せて、この地球は回ってる。

「……ふん。面白くないのう。もっと引っ掻き回しに行けば良いじゃろうが」

「首様には分からないだろうね。神を止めたら人に堕ちたら、またおいで」

 詰まらなそうな表情をする首様に、パルヴェルトは穏やかに微笑み掛ける。

 役に立てない。それは考え方によって変わる。

 自分が役に立てないのでは無く、自分が割って入る隙なんて無いぐらいその人が優秀なのだと思えばだいぶ気持ちは楽になる。いざという時、その時を見誤らないようにさえしておけば別に良いのではないだろうかと、そう考えるようにしてみたパルヴェルトは、死後にしてようやく未来の扉が開いたのかもしれない。

 と、そこで首様が悔しそうな声色で「……ミスったかのう」と小さく呟く。それを聞いたパルヴェルトが「何がだい?」と問い掛ければ、首様は「んむむ」と唸ってから「いやな」と口を開く。

「さっきわしやっこの顔面掴んだじゃろ?」

「そうだね。………それがどうかしたかい?」

「どうせならそこで『ゴォォォッド・フィンガァァァー!』とか叫んでおくべきじゃったなぁと今思い返してのう…………わし神様じゃし、うむぅ………超惜しい事をした」

「凄い下らない上に凄い場違いな後悔だね、ボク今凄いカッコ良い事言ってたのに……………正直相槌すら打ちたくないけれど、それでも敢えてコメントしてあげるとすれば、とりあえず貴女はダークネス側だという事ぐらいかな」

「はーぁ? パル坊は先見の明が無いのう、わしきっとその内覚醒してシャイニング・フィンガーぶちかますようになるぞい」

「逆だよ逆、シャイニングの次がゴッドだよ。もしかしてゲーム勢かい? 原作も触ろうね。……というか今の時点で既に貴女だけ尖ってる状態なのに更に覚醒する気かい? そうなったらもう全部貴女一人で良いじゃあないか」

「何を言うかバカタレ、わしの横には常に天馬が寄り添い共に戦うんじゃ。ラ◯ウはすぐに黒◯号から降りたがわしはそう簡単には降りんぞ、プリキ◯アは孤独の戦士では無いのじゃ」

「さっきのフィンガーで行くなら馬に乗ってたのはダークネスの方だし、やっぱり貴女は闇の側だよ。というか馬に乗るって、まさかチルティくんにおんぶされながら戦う気かい」

「わし頑張れば顔だけ残してグルグル出来そうな気がするが……チル犬には無理じゃろうなぁ。………あ奴はゲルマン忍者ポジションで行かせるか」

「もしかしなくとも忘れてるだろうから言っておくよ。今物凄いガチな戦闘中だからね? ボク直前に凄く切なげなシャレオツ発言してたのに貴女のガ◯ダムネタで全部台無しだよ」

「あの頃は熱血系のピークで色々インフレしていたからのう。Gは賛否両論あるが、SE◯Dやポケ戦といった他のナンバリングで強く描かれる戦争ドラマのドロドロに心が疲れた頃にGを観るとスカッとして楽しめるぞい。キ◯グゲ◯ナーやダ◯ミダラーに近い感覚だと思っておけば、放送当時大量に発生した「プリキ◯ア好きだからま◯マギ観たらメンタルぶっ壊された。もう何も信じられない」みたいな事態にならんで済む」

「貴女本当に神かい? 貴女本当にお婆ちゃんかい? 見識深過ぎる気がするよ、どんだけ世俗に近い神なんだい」



 ──────



「………………………」

 口の中いっぱいに広がる鉄錆の味。唾液と混ざって舌に絡み付く生臭い香りを楽しんだジズがそれをごくりと飲み込めば、粘膜を剥がされたように痛み続ける喉にそれが沁み込み、それに引っ張られるようにして出血部位から溢れた浸出液が胃袋へと流れ落ちていく。

 浸出液は傷口を保護する為に傷口から流れ出てくる。であれば口内に逆流してくる血液を飲み込むのは、皮膜のように傷口を守ろうとしている浸出液を流してしまうのでは無いかと思ったジズは、痰を吐き出す時のように口内の血を「ぺっ」と玉砂利敷きの地面へと吐き捨てた。


 さて、どうするか。


 なにがしかの手段を使って喉をかれて声を奪われた。その結果、法度ルールを適応する為の前提条件である『声を使って宣言しないといけない』を満たせなくなった。

 早い話、法度ルールに頼る事が出来ない状況になった訳だが、しかしジズはいつもと変わらない気怠げな表情のままだった。


 まァ…………この程度が相手ならどうにでも出来るかァ。


 確かに当初は焦ったが、それは決して声を奪われたからでは無い。ジズベット・フラムベル・クランベリーが動揺したのは、謎の動きの直後いきなり喉に激痛が走ったからであり、予測も予想も出来ずに攻撃されたから。

 その攻撃の結果起こったのが声の損失だったが、法度ルールの使用不可如きなら多少手段が減ったというだけでどうにでもなる。

 これが異世界からやってきた勇者や愚者であれば、新しく得た力である法度ルールに頼り切っている事が殆どだろうが、生憎とジズは法度ルールに頼らず何百年も生きてきているのだ。

「……………ぺっ」

 法度ルールが使えれば楽が出来る。法度ルールが使えなくなったから楽は出来ない。ただそれだけ。

「………………ふぅ」

 呼気を吐く。声帯を潰されて声は出ないが、呼吸器に問題は無い。

 ゴシックドレスの女は自身の『黒い部分』を武器に転用出来る。それは周囲の影等が自身の黒い部分と混ざる事で、周囲の影も『自身の黒の一つ』として認識される。だからこそ防衛に徹して、夜が来るのを待っているのだろう。


 ───お前如き、秒だっつーのォ。


 声が出せれば吐き捨てていたが、仮に言葉を発せたとしても十中八九この女には聞こえないだろう。よしんば聞こえていたとして、きっとその言葉の意味は理解出来ない。

「─────────シッ」

 尻尾を振って勢いを乗せながら飛び掛ると、ゴシックドレスの女は虚空を見詰めたままで、全身の至る所にある服とフリルの『黒い』影を針のように伸ばして防衛を図る。

「………………ッハ」

 それを見て尚、ジズは速度を緩めず体を右にねじる。左半身に鋭い棘のような影が突き刺さるが、ジズは一切速度を落とさずに尻尾を振るう。細く伸びた影がぷすぷすと音を鳴らし、内臓を目指しながら皮膚を貫き筋繊維を掻き分けていく。

 それでもジズは体をひねる。やがてゴシックドレスの女が伸ばした『黒』が内臓に触れるかという頃、ジズの後方、針よりも後ろにある特徴的な形の尻尾が唸るように空を切りながら女へと振り下ろされる。

「─────────」

 それを見たゴシックドレスの女が自身の黒目を針のように伸ばすが、ジズにとってその行動はもう何の意味も無かった。何せ尻尾の中に内臓器官なんて無いのだから、尻尾に何本の針が刺さろうとも関係無い。

 振り回されていた尻尾に数え切れない程の針が突き刺さるが、尻尾は速度を落とさずゴシックドレスの女の頭に叩き付けられる。

「──────────」

 頭蓋骨が潰れるゴジュッという破砕音の直後、ブポンッと気持ちの良い音を鳴らしながら両の眼球が飛び出す。

 眼窩がんかから飛び出した両目は、しかし血管や神経に引っ張られてしまい、無様に垂れたままで地面に落ちるような事は無かった。

 しかし完全に脳を潰したからだろう、ジズは声を取り戻していた。

「──────あー、あー。………うゥし」

 伸びていた『黒』がどろりと溶けていく。針のように突き刺さっていた体の中から、血液とは別で『黒』が流れ落ちる。

「パワープレイ厨のアタシとは相性が悪かったかしらねェ」

 仮に、の話だが。仮に声を奪った直後、平常心が乱れたジズに対しそのままの勢いで攻撃を続けていたら結果や過程は違ったかもしれない。相手の心拍数を乱し続け、一気呵成に攻め続ければ話は変わっていたかもしれない。

 ゴシックドレスの女の敗因は、ジズベット・フラムベル・クランベリーという女に攻撃した後に何もしなかった事。冷静さを失った相手に、冷静さを取り戻す余裕を与えた事。心拍数を取り戻すまでの間、何もせずに考える余裕を与えた事。

「んっうん……ゲホっ………ぺっ」

 痰のように喉に絡む血を咳き込みながら吐き捨てると、それまで灼けるような痛みを感じていた喉が今ではもう治っているのが理解出来る。

「…………はーァ………ったくよォ………アタシこれでもビビりなのよォ? ビビりで、臆病で、小心者なのよォ」

 久々に声を出すと、何だか懐かしいような感覚に陥る。まるで引き篭もりが久々に声を発した時のような、何日かぶりに自分の声を聞いた時のような感覚。

「………アタシは勝てると踏んだ勝負にしか乗らないのよねェ。思い付く限りのミスを全て天秤に乗せて、それでも勝ちに傾いてようやくアタシは動く気になるのよォ」

 普段こそ光を相手に大立ち回りをしている事が多いが、ジズという女は基本的に荒事に混ざる事を嫌う。争いを好まない訳では無い、争いに負ける事を好んでいないだけ。

 負ける事が即ち死を意味し、死の先にあるもの栄光に魅力を感じていないジズは、一定以上の勝ち筋が見えている勝負にしか乗ろうとせず、一定以上のリスクを背負った勝負では慎重かつ謙虚に立ち回る。

 しかし勝ち筋が見えた時のジズは肉を切らせて骨を断つ事に何一つとして躊躇ためらいを持たない。例え針の山のような棘に全身を突き刺されようとも、その先で相手の脳天を叩き潰せるのなら躊躇ちゅうちょ無く剣山を抱き締めに行く。

「…………心臓に毛が生えた奴だなんて言葉に合わせるならァ、差し詰めアタシはツルツルのパイ◯ンハートって所でしょうねェ。幼気あどけ無いのはお嫌いかしらァ?」

 声を取り戻したジズが嗤う。

 ほんの数分に満たない間の事だったのに。

 下品な煽り文句すら、何だか久々に発したような気がした。



 ──────



 そんなジズから少し離れた場所、橘光たちばなひかるはゴシックドレスの女から一方的な暴力を受け続けていた。

 首様が耳を奪われ、ジズが声を奪われる中、残った光は目を奪われたが、殴り合いが行われる実戦において聴覚や声帯など持っていかれた所で大した影響は無い。味方とのコミュニケーションが重要なチーム戦であったのなら聴覚や声を奪われる事は連携を阻害される事になるだろうが、味方と連携を取ろうとせず個々人で突っ走りたがる愚者にとっては大した障害には成り得ない。

 しかし、である。しかし視覚を奪われるとなると話は全く変わる。個人戦だろうとチーム戦だろうと、目が見えないという事はかなり重たいハンディキャップになってしまう。これが生まれつきの視覚障害であればまだ見えない事に『慣れ』ているかもしれなかったが、視力に壁を持っていなかった光にとっては、まさしく見えない壁が目の前に立ちはだかるのと何も変わらなかった。

「……っぐ…………づっ、くっ……」

 世界が暗い。何も見えない真っ暗でつまらない世界で、前から横から後ろから、手なのか足なのか分からない打撃が無限に飛んでくる。身動きをする事こそ出来るが、攻撃に備える事なんて出来ないし、まして防御なんて以ての外。

 今の光に出来る事は、いずれ自分の体力が尽きるその時まで蹂躙され続ける事だけ。何も見えない暗闇の世界で、どこからどこに来るかも読めない理不尽な攻撃を受け続けるだけ。


 ────イライラする。クソが付く程、イライラする。


 少なくとも頭部と頚椎だけは守らねばならぬと両手で頭を抱えたまま殴られ続ければ、代わりに他の全身を好き勝手殴打される。良い所に入るからだろうか、時々ボディに入ったブローがそこを中心に痺れる事がある。いっそ痛みだけであればまだ良かったが、痛みとは別枠で響くその痺れが、光を殊更苛立たせていた。

「……んぐッ」

 ドムっという重い打撃が腹に入ると、再び痺れるような気色悪い感覚が腹を中心にじんわりと広がる。

 毎回ではない、何回かに一回。規定回数毎でもない、単に『良い所』に入ると痺れる。今の所は腹筋に力を入れ続ける事で耐えれているが、乱打されている間ずっと腹に力を入れ続けるような事は出来ない。呼吸のタイミングで鳩尾にいいモンが入ると痺れるのだろう。

 ………悠長にはしていられない。殴られ続けるだけでもたくたしていれば、ある一瞬を境に全身から痛みが無くなる。殴られた時の衝撃と体の揺れだけで何も痛みを感じなくなったら最後、それは遂に内蔵破裂が起きた証拠。そうなってしまえば内出血や破壊された臓器に合わせた身体不調が発生し、一時間か二時間程度で全身が痙攣を始めて自我すら保てなくなる。

「……づっ……くっ………どうせえっちゅーね─────んッぐ」

 だが抵抗出来ない。何せ何もかもが見えない。出来る事と言えば、学校に居るヤンキーから暴行されるいじめられっ子のように「覚えとけよ」と恨み言を考えながら殴られ続けるだけ。

 むしろそっちの方がマシかもしれない。一念発起さながら、近くの物を掴んで反撃に出るという選択肢があるだけ、いじめられっ子の方がよっぽどマシな状況かもしれない。今の橘光は、近くの物を掴む事すら出来やしない。どこに物があるかも見えていないのだから、ただ殺されるのを待つしか出来る事が無い。


 ───イライラする。クソ程イライラする。


 焦れる心を落ち着かせる。打撃による痛みのせいで心拍数は整えられないが、その中で心だけ分離させるイメージを浮かべる。

「ぐぅ……ぬっ……くっう……」

 自分の中に二つのスペースを作るイメージ。片側に痛みを置いて、もう片方に心を置く。自分を俯瞰ふかんで見下ろすようにしながら心だけ別枠に分ける。

「………ふ………っふ…………はぁ…………ふぅ」

 第三者の目線で自分を見る。ゲームでの三人称TPS視点のように自分を見下ろすイメージで、殴られ続ける中で思考だけ明瞭にしていく。

 そうして痛みを遮断して、他の全てを明瞭に研ぎ澄ましていく。

「…………………………………」

 やがて痛みが小さくなり始めたら成功。消えた訳では無い痛みは確かに邪魔だが、けれどそれはノイズとしては弱々しく、むしろ耳鳴り低減用のホワイトノイズのように、どこか心地良く脳が癒やされるような感覚をもたらしてくれる。

「……………………よっ」

 両耳を塞ぐように頭を抱えていた光は、左手をそのままに右手だけで裏拳を放つように振ると、手の甲にどむっという衝撃が伝わる。

 そしてそれを境に、それまで続いていた乱打の嵐が止んだ。しかしそれも一瞬の事で、すぐさま攻撃が再開される。

「…………どぅーい。んへへ」

 頭を防御していた反対の手を降ろして構え直した橘光は、ゴシックドレスの女の攻撃を、それまでとは異なり全て手のひらで止めていた。

 人によっては第三の目でも開眼したのかと思うかもしれないが、橘光は別に見えないものが見える心眼の心得を手に入れた訳ではない。

「うぇーはー。んひひひ」

 繰り返される意気揚々とはたき続ける橘光はただ感覚を研ぎ澄ましただけ。視覚に回せなくなった脳内のリソースを、肌の感覚神経に回しただけ。

 常人では到底出来ない事。命を賭けた殺し合いの中、命を奪われ殺されそうになっている極限の状態だからこそ対応出来るようになった事。誰しもが感じる事の出来る感覚を、誰しもより高い感度で受理、処理しているというだけのお話。

「目指せ感度ン千倍って感じやな」

 体を持つ限り、動けば必ず空気も動く。体を動かせば、呼吸をすれば、必ず空気が動く。

 橘光は乱打を繰り返すゴシックドレスの女の動きを、それに伴って動く周囲の空気の流れを頼りに読んでいた。


「────────── ガッチャGacha.。ババア見っけポーコペン」


 その辺に居る一般人や常人が「多分ここに居る」という曖昧な感覚を頼りに手を動かした所で、その勘が当たりこそすれ掴む事はまず間に合わないだろう。

 けれど橘光は、橘光だからこその常人離れした筋肉の動きに頼りそれを掴む事に成功した。腕か足かは分からないが、離れたがるように抵抗するその部位を胸元まで力任せに手繰り寄せると、橘光は反対の腕を回してそれを抱き締めた。

「んんんんぬぅぅぅぅるぁぁぁあああああッ!」

 抱き締めた女を、そのままひたすら抱き締め続ける。

 ……ベアハグという格闘術は通常、相手の背中の骨を折るようなイメージで腕を絞めていく。背中か或いは肩甲骨をズラしてしまうような感覚で相手を抱き締め続け、骨格へのダメージを狙うのがベアハグという技。

 しかし橘光という女は名前の由来になったBearよりも強い力を持っている。ミシミシと骨が軋む音が聞こえ、やがて橘光の大きな胸越しにボキボキと骨が折れる音が響いてくる。

「目ぇ取った如きでぇ──────ウチぃ止めれる訳ぇあらすけぇこんボケがぁ────ッ!」

 しかし止めない。骨が折れる音が聞こえる。折れた骨が内臓を突き刺し、皮膚を割いて飛び出すのが伝わる。しかしそれでも力を緩めない。水を吸ったスポンジを握り潰すように、濡れた雑巾を絞るように、力の限りその体を締め付け続ける。

 押し潰した相手の体を適当に掴み、更に折り畳んでいくかのように丸め込んでいく。それは旅行下手な女がホテルのチェックインやチェックアウトに遅れそうな時にする、ぎゅうぎゅうと服を丸め込んで取り敢えず鞄に詰め込む時のそれに良く似ており、右手左手とそれを繰り返せば次第に相手は手足の飛び出た肉団子のようになっていく。

 ぶちゅぶちゅという肉が裂け内臓が押し潰され血液が搾り出される音が聞こえる。ハミ出た臓腑が自身の服を濡らし、じわりと染み込んだ血は胸や腹を濡らしていく。


 あったかい。気持ち良い。

 美味しいものを食べるより、冬の寒い日に布団の中で惰眠を貪るより、好きな人を想って自慰に耽っている時よりも、


 殺したいと思った相手を殺せた時が、この世で一等気持ちが良い。

 

「────おっ?」

 やがてゴシックドレスの女がだった肉塊が橘光の視界に入る。目元だけ包帯で覆い隠したその女は、まさしく手足と頭が生えた肉団子のように押し潰されて微動だにしない。ベアハグに伴ってむぎゅりと押し潰れた自身の大きな乳房からも、その女の心音のような振動は伝わってこず、ゴシックドレスの女が息絶えた事は確実だった。

 そしてそれに伴い、奪われていた橘光の視力は元に戻った。

「目ん玉爆ぜたと思ってんけどな。殺しゃあ治るんやなこれ、どういう理屈なんやろか」

 腕から力を抜けばゴシックドレスの女はどさりと地面に落下して、ホテルの中にある冷蔵庫に入っていた缶ビールを寝る前に何本か飲んだ結果寝過ごしてチェックアウトに迫られている旅行下手な女が丸めた服のようになった体から、ひしゃげた手足がだらりと垂れる。

 ベアハグによってズレたブラジャーを服の上から戻した橘光は、そのまま服の襟元を抓んで引っ張り臭いを嗅ぐ。

「……………………生臭ッ」

 自身の汗の匂いの向こうから、濡れたような生臭い死臭が鼻を突いてやってくる。襟元をパタパタとはためかせて臭いを飛ばそうとするが、どれだけ効果があるかは分からない。

 シャツの肩口を抓んで目元を擦れば、乾き始めていた血が擦り付けられる。それは眼球を割られた際の出血の証拠だったが、弾け飛んだと思っていた眼球は、女の死と共に再生した。

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