2-6【トリックスター】



「…………………」

 サンスベロニア城の屋上よりも更に上。その屋根の上に座る幼い少年は、まんまるな満月から降り注ぐ緩やかな月光を浴びながら目下に広がる街並みの一角を眺めていた。

 常人であればそこに何があるか、そこが何であるかこそ分かっても、そこに居る人が何をしているかまでは判別出来ない程の距離だった。

 けれど少年は常人では無かった為、街から少し外れた広い公園で起こっている出来事を全て把握していた。

「死んだが、良かったのか─────ジェヴォーダン」

 茶髪の少女が圧死する様を眺めた少年は、その死体にたかるハエが眼球に卵を産み付けるのを眺めながら無感情な声で呟いた。

 すると少年の隣。空虚な空間しか無かった少年の隣から、獣の名で呼ばれた男がぬるりと闇からぶら下がってきた・・・・・・・・

「Ohhh! これはこれはびっくり仰天という奴だねアジェン代理人まさか君が私に向けて口を開くとは! その心遣いに思わず涙が零れ落ちそうだが今のように逆様さかさまにぶら下がっている時に流れた涙は果たして『落ちる』とすべきか『登る』とすべきか判断に困りそうなものだが君はどう思うねアジェン代理人

 白いスーツの男は上半身だけで空中からぶら下がったまま、表情をころころと変えながらまくし立てる。そのまま逆さ腹筋でもし始めそうな体勢をした白スーツの男の問い掛けに、しかしと言うべきかやはりと言うべきか少年は無言のままで何も返さなかった。

 それを見やった白スーツ男は額に手を当て「ああ全くこれだから君は」と落胆する。

「折角こうして吊られているんだから釣られておくれよアジェン代理人、君はどうしてそんなに連れない男なんだ。いや男かどうかは知らなかったな君は女なのかそれともそういう設定すら無かったりするのかい? だとしたらかなり投げやりなキャラデザインだと思わずには居られないが実際の所どうなんだいアジェン代理人

 額に当てた手を上げたり下げたり、オーバーリアクション気味な身振り手振りをしながら一方的に喋り続ける白スーツの男だが、相変わらず少年は無言を貫き通す。しかし白スーツの男は無視された所で何か気にする様子は何も無く、「というかそもそも」と勝手に話を進め続けていた。

「何で君はこの世界に呼び出されたんだいアジェン代理人。君に次元や時空を超えれる設定があるのは私ですら知っている事だが君は勇者として召喚されているんだろう? とすると君はどこかで死んでいなければならないはずだがアジェン代理人、君ほどの実力者強キャラが死ぬとは到底思えないし何なら今の君は僕でもれそうな程に弱々しいじゃないか一体何があったというんだい」

 その言葉に少年の眉がピクリと動く。

 少しの間考えるような素振りを見せた少年は、やがて押し黙っていたその口をようやく開いた。

「…………掃いて捨てる程ある筋書きシナリオの内の一つから引っ張られたんだろうな。僕が参加者探索者に打ち倒される筋書きシナリオは探せば幾らでもある。僕の力に制限が掛けられている理由は知らないが、それも筋書きシナリオの中にある設定の一つなんじゃないか」

 流れるようにそう言い切った少年に白スーツの男は大きく手を開きながら驚いた口調で「ワァオ人間相手に上位神が負けるだなんてクレイジーな筋書きシナリオがあるのかい?」と返す。

「だとすればその筋書きシナリオは相当傲慢な筋書きシナリオだと思わずには居られないね。何せ今の君はちょっと腕の立つものなら易々とれるぐらい弱々しいじゃないか。だからといって万全の状態で来られても主に私が困ってしまうが」

「……通常なら打ち倒された所ですぐ別の筋書きシナリオで元通り再登場するんだが、恐らく打ち倒された直後のステータスを参照して召喚されたんだろうな。僕と繋がりの強い娘たちか妻を呼ぶ事ぐらいなら出来るが、他に出来る事は殆ど無い。別のすがたに切り替えるのも一度が限界だろうし、その一度も長くは維持出来ない」

 幾ばくかの悲観が混ざった声色で語る少年は未だぶら下がったままの白スーツの男へと目線を向けると「りたければれば良い。そうなればすぐ次の筋書きシナリオに登場出来る」と呟くが、それを見た白スーツの男は笑いながら「何を言うやらアジェン代理人!」と大きな声で叫んだ。

「君が僕をどういう目で見ているのかは知らないがアジェン代理人僕が君をボコるような事は有り得ないよだってそうだろうそんな事をしてしまえば僕は数多の参加者探索者から総叩きだ! 瞬間的な利益獲得の手段としてなら炎上商法も悪くはないが年単位で見れば大した得にはならないんだ長期的に利益を得るならミルフィーユ商法に手を出してる方が百倍マシだよ! ああとはいえ心配は要らないよアジェン代理人僕はちゃんとダミーカンパニーを作っておくともミルフィーユ商法はすぐに名前が広まるからね! 本命本垢はしっかり用意しておくともだから何も問題無いさ!」

 少年の正体が分かっている風な白スーツの男だったが、しかしその言葉の何割が少年に通じているのかは定かでは無い。それこそ少年が様々な問いに対して黙ったままで、自らに関する問い掛けに歯科応じないのは白いスーツを着た男の話している内容の殆どが理解出来ないものだからなのかもしれない。

「それに僕如きが君を殺せば魔王Daemonがここへやってくるか可能性も無くはない。僕は坊やにはなりたくないよ、そんな筋書き《シナリオ》は御免被りたい」

 困った表情をしながらそう締め括る白スーツの男に、それまで黙ったきりだった少年は苦笑しながら「あれが来る事は無いだろうがな」と返すが、やはり少年が黙っているのは白スーツの男が喋り回している内容に付いていけないからなのだろう。とはいえ少年でなくとも、下手なオタククソナードを容易に上回る早口で喋り散らすこの男の会話に付いていける者なんて、古今東西を探し回ってもそうは居ないだろう。

 少年が「さて」と呟きながら立ち上がる。すっくと立った少年は、しかし吹き付ける風にも微動だにせず直立したままだった。

 それまで少年が座っていたのはサンスベロニア城の屋根の上。地上では無風でも、高所であり遮蔽物の無い城塞規模の建築物の屋上というものはかなり強い風が吹く。にも関わらず少年は微動だにしていない。

「あそうだアジェン代理人聞きたい事がある」

 白いスーツの男が口を開くと、少年は目線だけ横へと向ける。しかし瞬きを一つすると、その目線はすぐに城下の公園に戻っていた。

「いや聞きたい事があるというかそもそも今日ここで君に声を掛けたのは聞きたい事があったからなんだがまあそれは良いか置いておこう」

 少年は誰も居ない公園を見下ろす。さっきまで三人居たが気付けば二人になり、その二人もどこかへ行ったのか公園にはもう誰も居ない。少なくとも人の形をした生物は居なくなっている。にも関わらず少年はそこを見続けていた。

「君はどっちを狙う気だい? 正直どちらでも構わないんだが後々揉め事になるのも面倒だから一応聞いておきたかったんだよ」

 さっきまで一匹だった。しかし気付けばもう三匹になっている。まだ数分か、行っても十分程度しか経っていないはずなのに、虫の嗅覚というのもあながち馬鹿には出来ないもので、ちょっと誰かと話していただけで三匹の虫が肉塊に産卵管を押し当てていた。二日もすれば卵は孵化するだろうが、恐らくその前に人の目に付いて処理されるだろう。

「………なら僕は神にまとわり付く人間にする。他はお前の好きにしろ」

 少しの間思案した少年がそう口を開くと、白いスーツの男が「Haha! 好きにしろ! なるほどねえ! 見るからに詰まらなそうな女をわざわざ選ぶかいアジェン代理人君も数寄すき者だねえ!」と愉快そうに笑ったが「まあでも、」と首を傾げた。

「信仰心があるでも無し。にも関わらず好んで神の傍らに居たがるような人間は大体がロクでもない事を画策しているものだが僕の目にはそう見えない。その辺の有象無象に比べれば面白い観察対象探索者なのかもしれないが下手をすればアジェン代理人、君が死ぬだけに思えるがね」


 ─────何せ今の君はとても弱々しい。


 そう付け足したかった白いスーツの男だったが、その言葉が語られる事は無かった。

 まるで溶け出すように体が崩れた少年は、そのまま何も言わずにサンスベロニア城の屋根に染み込んでいく。音一つ立てず吸い込まれるようにして染み込み続けたそれは、やがて小さな円になり、小さな点になり、そのまま跡形も無く消えてしまった。

 それを見た白スーツの男は顎に指を当てて考える素振りを見せてから、誰に言うでもなく小さな声で呟いた。

「…………カッコ良いなそれ、オシャレな立ち去り方じゃないか。次は私も真似してみよう」

 半身だけぶら下がっていた白スーツの男は、そう言いながら呑み込まれるようにして全身を闇に溶け込ませていった。



 ───────



 微風が吹く神社。意図的に植えられたのか、それとも元から生えていたのか。敷地をぐるっと囲うような竹林は、時には人を焼き殺す事も厭わない太陽の輝きを遮って、社殿に涼しい風を届けてくれていた。

 たった一つ。たった一つの風が吹くだけで、数える事すら馬鹿馬鹿しくなってしまう数多の葉擦れの音が鳴る。

 宝物殿と本宅を兼ねた建物。その縁側に座る者達は、少しだけぬるくなってしまったお茶を飲みながら、視界の先ではしゃぐ子供達と、それに振り回されるデカ女を眺めていた。


 身長三メートルを超える巨大なメイドが茶色い犬耳を生やした和服の女の子の腕を掴むと、そのままライブ会場でタオルを回す時のように斜めにぐるんぐるんと振り回し始めた。すると振り回されている犬耳の女の子は「ほっほぉーっ」と歓喜の声を上げながら、まるで飼育員に遊んでもらっている時の警察犬のように振り回される事を心底から楽しんだ。

「あぁ………肩痛い……結構キますこれ……わたくし四十肩ではありませんのに……」

 身長三メートルを超えるメイド、トリカトリ・アラムが困ったような顔をしながら腕を下げると、チルティ・ザ・ドッグは茶色い尻尾をぶんぶんと振り回しながら「楽しいのですよ! これちょー楽しいのですよ!」と無邪気にトリカトリの周りを走り回った。

「「やる! 私もやる! 僕も遊んで! お姉ちゃん僕も! 私とも遊んで! 次は僕!」」

 真ん中で白と黒にくっきり別れたツインテールの子がそう叫ぶと、トリカトリは「ああはいはい。お任せください」とその子の体を抱き寄せた。

 それに白黒ツインテールの子が「「なにするの? なにするの?」」と少年と少女の声が重なって聞こえる奇妙な声で疑問を口にするが、しかきトリカトリ・アラムはそれには答えず、少し膝を曲げると大きな声で叫んだ。

「ぇぇぇおっ─────ごいせェ──ッ!」

「「おぉっほぁぁぁぁぁあああああッ!?」」

 お姫様抱っこでもするかのように少年少女を抱えていたトリカトリは、少し膝を曲げたかと思うとすぐにそれを伸ばし、ちょっとだけ飛び跳ねながら両手に抱いていた少年少女を真上へと放り投げた。ブゥオンっという風を切る音を奏でながら大空へとぶん投げられた少年少女は、白と黒のツインテールを振り乱し、ドップラー効果を残しながら目に見えないほど小さくなっていく。

「ほあああっ!? 大丈夫なのですよ!? あれ大丈夫なのですよ!? チルがされた時みたく落っこちてミンチにならないですよっ!?」

「……………ぃよっ」

 楽しそうな声から一転して不安を顕にするチルティ・ザ・ドッグの言葉に、しかしトリカトリは何も答えないでいた。やがて見えない程に高く遠くに投げられていた少年少女の姿が小さい黒点のように見え始めると、トリカトリは同じように膝を曲げて跳躍した。

 靴底に付いていた砂粒程の小さな玉砂利を巻き上げながら高く高くジャンプしたトリカトリは、空中から落下してくる少年少女を最初と同じようなお姫様抱っこのようにその腕へパシっと収め、少し脚を開いた体制でドズゥンと派手に着地した。着地までの最中さなか、完全にスカートが捲れ上がっていたが誰もそこにはツッコまなかった。

「「…………………」」

 遥か空中からの自由落下を楽しんだ少年少女は、しかしポカンと口を開いたままで呆然としていたが、やがて、

「「─────ちょー楽しかったぁ………ッ! 今のちょー楽しかったぁっ! もっかいっ! ねえもっかいやってっ!?」」

 花畑に光りを注ぐ太陽のような満面の笑みに変わった少年少女は、少年と少女の声が完全に同期して重なり合った不思議な声で大きく叫んだ。それを見たチルティ・ザ・ドッグも、それまでしていた不安そうな顔から不満げなものへと変えて「あっあっチルっ! チルもっ! チルも今のやって欲しいのですよっ!」と大きな声で騒ぎ始めた。

「………あぁ……これ結構ヒザにキますわ………ヒーロー着地が足腰に悪いというのは本当だったんですのね……」

 反してトリカトリ・アラムは苦しげな表情をしていた。幾ら人とは違う体格、筋力であるとしても、上空何メートルかも分からない程高い距離から垂直落下なんてすれば、少なくともその運動エネルギーの殆どは足の関節……主に膝にぶち込まれてしまう。

 いや、膝だけではない。足首や足裏の筋肉にも尋常ではない力が加わり、その負担は果てしないはずだった。

 しかし小さな子達にそんなものは関係無く、過去にトリカトリ本人から殴り殺された経験があるはずのチルティ・ザ・ドッグは、そんな事を忘れたかのように「チルも! ねえチルもやるのですよ! 見てるだけはやなのですよ!」とトリカトリをせっついた。それを聞いたトリカトリは掠れたような声でボソりと「ああ……しんど……」と呟くが、二人の声がダブって聞こえる一人の少年少女は「「じゃあ二人でやろっ! 僕とチルティで二人! 私と一緒に飛ぼうよ!」」とトリカトリの意思なんて関係無いかのようにきゃっきゃと騒ぐ。

「………足に負担を掛けるのは良くないよ。アキレス腱の断裂や負傷…………かかと周りの剥離骨折や足底腱膜炎になるリスクだって高い。正直、看過してあげたくはないね。他の遊び方にして貰った方が良いと思うよ」

 それを見たパルヴェルト・パーヴァンシーが、ベルトに付けているレイピアの柄を手で弄び、縁側から小さな声で呟いた。少し眉根を寄せた苦々しい表情でそう呟くパルヴェルトは、知識として知っているだけでそれを語っている訳では無さそうだった。

「えーっ! まだチルやってもらってないですよ! チルだけやってもらってないですよ!」

「じゃあもう一回だけやってあげましょう。今度は抱っこで、みんなで一緒に、ね? ……ほら、掴まってくださいまし」

 トリカトリが大きな体をしゃがませると、まずチルティがトリカトリの膝を踏み台にしてトリカトリの首元へと両手を回してしがみつく。それを見た少年少女も同じようにしてしがみついた。

 その過程でスカート越しにトリカトリの太ももが思い切り靴で踏まれたが、トリカトリは土でスカートが汚れた事などまるで気にするような様子は無く「はい良い子ですわね。しっかり捕まってるんですよ?」と優しく二人──三人かも知れない──と頬を合わせた。

 そしてまたバォンと鳴らして大空へと飛んでいく。

「はあ……後でマッサージでもしてあげた方が良いのかもね。腰と足は、イワせばそのまま全て終わってしまう」

 縁側に腰を下ろしていたパルヴェルトが溜息を吐くと、同じように腰を下ろしていた女性が「ごめんなさい、うちの子達が……」と申し訳無さそうに謝った。

「後でしっかり言っておきますので……どうかご容赦を……」

「構わないよ、構わない。トリカ嬢が自分の意志でしている事だ、本来ボクがとやかく言う事は出来ない。トリカ嬢がやろうとしてあげた事なんだから、ミス・フェルはそれに甘んじておけばいいのさ」

「………ですが。……スカートだって汚してしまっているでしょう。大変なご迷惑をお掛けしてしまって……」

 フェルと呼ばれた女性が俯きながらそう返すと、パルヴェルトは上唇と鼻の下を指で撫でながら「ふむ」と鼻を鳴らして考えた後、小さく笑いながら口を開いた。

「ボクの相棒ブラザーだったら、きっと言うよ。『気にしてないから、気にしなくて良い』ってね。遊び終わって帰る時、もしトリカ嬢が気にしていたのなら、次来る時に詫びの品でも持ってきてあげればいい。そうでないなら素直に好意に甘えたまま、笑顔で感謝しておけばいいと思うよ」

 今ここには居ない相棒憧れの男の言葉を真似たパルヴェルトがそう言うと、周りからも「あーマジで言いそうやなあ、タクトそういう言い回し好きそうやもん」「ぼんは言葉で遊ぶの好きじゃもんな」「ちげェわァ」という好き勝手な意見が飛び交う。


 と、そこでふと首様が「んむ?」と首を傾げた。軽く握った右手の親指で頬と顎先の間辺りを叩くような仕草を数回した後「そういや娘共」と言って、橘光たちばなひかるとジズの方へと顔を向けて口を開いた。

「そういえば、お主らぼんとはもうヤッたのか?」

「……は?」

 首様のその言葉に声を出したのはジズでも光でもなく、ましてパルヴェルトでもなく、無関係なはずのフェルだった。首様の口から放たれた疑問の意味を理解しかねているフェルをよそに二人は「ヤってへんよ? ジズは?」「アタシも別にィ? つかヤッたら多分言うだろうしィ……赤飯炊けェとかさァ」と互いに見合いながら声を交わす。

「一応聞いておくが、パルぼうはどうじゃ?」

「ボク? ボクは処女で童貞だよ。あ、いや童貞ではないかもしれない。この世界に呼び出された時点での年齢が正直分からないから何とも言えないけれど……死ぬ直前とかの状態で呼び出されているなら非童貞だね。まあどちらにせよ尻穴は未開通差」

「ふむ、そうか」

「とはいえブラザーがボクを求めてきたら、何だかんだ言いつつケツ穴を許してしまいそうではあるけどね。彼はボクの生き方を変えてくれた。彼がボクのア◯ルを求めるなら、ボクは両手で大臀筋を拡げて受け止める所存さ。ああもろちん中出しされても受け止めるよ、むしろどうせそんな事態になるならいっそ割り切って開き直る方が気持ち良くなれそうだ」

「中、アナ──……いや、あの。皆さんはいつもこのような会話を?」

 不快感を隠しもしない声色をしたフェルがそう尋ねると、それぞれはチラリと顔を見合わせてから口を開いた。

「んーや? 普段のウチらは清廉潔白、純真無垢やで? なあジズ」

「おゥよォ。どっかのクソパルがチンカ────馬鹿なだけでアタシらは純情可憐な乙女に決まってンじゃん」

「わしもそうじゃ。わしらはちっと秘密のある感じがきゅーとでちゃーみんぐな乙女じゃからの」

 息を合わせてしらばっくれる三人に、しかしパルヴェルトは抗った。

「違うよミス・フェル。騙されちゃあいけないよ、ああ全く騙されちゃあいけない。ボクだけドブに沈ませようったってそうはイカの塩辛さ」

「やっぱり、ですか。いや塩辛は知りませんけど」

「なぁに言っとんねんクソパルお前ウチらをコキ下ろすような真似して楽しいんかこんボケ」

「そうよォこのカスが。アタシらァ乙女に向かって騙すとかなンとか好き勝手ェ言っちゃってさァ」

「あ待てどうしよわしあんまし暴言の引き出し多くない……えぇと、えと……ぅぅん……この阿呆!」

 口汚い言葉を吐き掛ける橘光やジズと違ってもじもじと口元に手をやった首様が閃いたように声を上げたが、周りはそれを完全に無視した。それを受けてしょんぼりと「あ無視ヘコむ……」と呟いた首様だったが、しかしそれすらも無視された首様は完全に俯いて黙り込んでしまった。

「まあ……いいですけど。……うちの子達の前では、その……あ、アナ……んん………そういう事を言うのは控えてくださいね。ちょっと教育に悪いですから」

 しかし俯いていた首様はフェルのその言葉を聞いた瞬間、それまでの冗談めかした雰囲気を消し、ゆっくりと頭を上げていく。その顔は無表情だったが、普段は糸よりも細いその糸目がほんの少しだけ開かれていて、だが直前まで総スカンを受けていた首様のその表情に気付く者は、誰一人としていなかった。

「んー……教育に悪いかなぁ。ウチは別にそこまでちゃうなーって思うけど」

「アタシは知らねェ。そもそも人様の教育論にどうこう言える程ォ自分がしっかりした教育受けてきた訳じゃねェしィ?」

「ボクは多分慣れてしまったんだろうね。今更どうこうは思わないけれど……まあ悪い影響を与えこそすれ、良い影響を与えられるとは思わないかな」

 三人がそう言うと、フェルは「皆さんがどう思うかは知りませんが、」と食い気味に言った。

「あの子達……いえ、あの子達だけじゃありません。誰であっても、子どもの成長に良くない発言は控えてください。皆さんが思うよりも遥かに、子どもというものは純真なんです。私はあの子達を性犯罪者にはしたくありませんので」

 その言葉を聞いた三人は眉間に皺を寄せたが、しかし何も言い返さずに黙っていた。

 その中でただ一人「ふん」と鼻を鳴らす者が居た。

 沈黙の中、フェルの言葉に野次を飛ばすような仕草をした者の方へとその場の全員が目を向けると、俯き加減だった首様は誰がどう見ても苛立っている事が分かる表情をしていた。

 何しろその糸目が薄いながらも開かれているのだから、恐らく首様は相当機嫌が悪い。「今の会話のどこに地雷があった? 首様は何でキレた?」とその場の誰もが機嫌を損ねた理由を考える頃、首様はゆっくりと口を開いて言った。

「のう小娘。貴様の言い分はよぉく分かった。要するに貴様は、あの双子を、清く、正しく、育てきたと。そう言いたいんじゃろう?」

 薄く開かれた糸目の奥。吸い込まれてしまいそうな程に真っ黒な瞳でめ付けられたフェルが「え、ええ。その通りです」とどもりながらも気丈に言い返せば、次の瞬間、首様の首がごきゅりと音を鳴らして真横に折れる。

 と思えばそれは脳の重さに耐え兼ね、顎があったはずの位置に頭頂部が置かれ、顎の先はぐるんと半周しながら天へと向いた。

 白い死に装束を纏った小柄な女の首が、突然折れて回転する。異質極まりないその光景にフェルが「ひ──ッ!」と息を飲む。パルヴェルトはレイピアの柄に手をやり、光は乱雑に放られていたながドスへと指を伸ばし、ジズは背中に回されていたフードを指で抓んで深く被った。

「笑けるのう。笑けてしまうわ。のうメスガキ、笑けるじゃろう?」

 三日月のように伸びた首折れ様の口から低い笑い声が聞こえると、その振動が伝わって逆さまになった頭が小さく揺れる。首折れ様のその姿が臨戦態勢に入り掛けている状態だという事を知っているのは、この場に於いてはジズと光だけ。しかし首折れ様の余りにも異質過ぎるその姿と苛立ちを目の当たりにしたパルヴェルトは、いつでも自身の法度ルールを適応させてフェルをかかえ飛び退すされるよう、神経を研ぎ澄まし意識を集中させていた。ジズと光はフェルなど助ける気は無かったが、それでもパルヴェルトと同様、首折れ様がいつその姿を顕現させても対応出来るよう周囲をちらりと見回し、周辺環境を即座に把握していた。

「貴様があれを清く正しく育てたとのたまうなら……何故あ奴らから子種の臭いがするんじゃろうなぁ」

「……………こ、子種っ……? ………なんの話ですか」

 僅かばかりながらも冷静さを取り戻したフェルがそう聞けば、首折れ様は「クハッ」と咳でもするように嘲笑する。

 直前にしていた不機嫌そうな顔とは打って変わったご機嫌の極地のような顔で笑う首折れ様は、その笑い声を口から出す度、ねじ曲がった頭が振り子のように左右に揺れる。

「子種は子種じゃ、精子の香りじゃ。若いわっぱの濃ゆうい精液の香りが、あ奴らからはしておる。わしは嗅ぎ慣れておるでのう、間違ってるなんて事はありゃせんぞお」

「そっ───そんな事はありません! ……仮にそうだとしても、む、夢精とか、その……お、お……オ◯ニーをした時の残り香でしょう。あの子ぐらいの歳の子なら誰でもします」

「ほぉう?」

「というか、そもそも失礼です。そんな下品な事を言うなんて。私と首様の二人だけならまだしも、この場には他に何人も居ます。あなたは間違っていないと言いましたが、それがもし違っていたら、あなたはあの子達の尊厳を傷付け侮辱したという事になります。あの子達に謝ってください」

 恐怖は冷静さに変わり、冷静さを取り戻せばやがて怒りが浮かび上がる。激しく燃えるような激情が乗った言葉は、決して自分の為のものではなく二つの声を重ねて発する一人の子の事を思った言葉だった。

 それを見た首折れ様は、三日月のように吊り上がっていた口角を更に歪ませ言葉を発した。

「のうクソガキ。貴様は近親相姦についてどう思うかの?」

「は……? 近親相姦………? なんの話ですか」

 フェルがそう聞くと、首折れ様はぐんと肩を揺らし、慣性の法則を使って自身の頭の向きを通常通りのものへと戻した。元の状態になった首様が「んふふ」と笑うと、見計らっていたかのように少年と少女が駆け寄ってきた。

「お母さんお母さん! あのね、チルティがね、お菓子食べてもいーよって言ってくれたの! わたし食べてきていーい?」

「ぼくにもくれるんだって! トリカお姉ちゃんにも! 行ってきていーい!?」

 白いサイドテールの女の子と、黒いサイドテールの男の子がフェルの方を向いて笑顔でそう聞くと、しかし問われたフェルではなく首様が「おうおう行っておいで。じゃが食べ過ぎんようにな、晩御飯が入らんなってもばっちゃは知らんぞ」と返した。その表情は直前のそれなど影も形も無いような優しげなものであり、柔和な微笑みをたたえた首様は、誰がどう見ても小さなお婆ちゃんでしかなかった。

「ああ待て、行く前に一つだけばっちゃに教えとくれ」

「「なーに?」」

 サイドポニーを携えた二人の子が二人同時に答えると、首様はさも何でもない事のようにそれを聞いた。

「お主らここ最近、気持ち良い事をしなんだか? お股の所が気持ち良うなる事、ここ最近したろう? その時の事をな、ばっちゃに教えて欲しいんじゃ」

「──────────」

 首様のその発言にフェルが大きく息を呑む。しかし二人の子達はそれには気付かず「ばーちゃんに?」「お婆ちゃん知りたいの?」と小首を傾げると、耳の上辺りで結ばれた白と黒のサイドポニーがゆらりと揺れる。その言葉だけで既に周りの皆は少年と少女が何かをしたという事を確信していたが、首様は「おうおう、どんな事をしたんじゃ? どんなもんが出た? いっぱい出たろう、ばっちゃに教えとくれ」と会話を繋いだ。

「出たよ! 白いのいっぱい出た! ぼくおしっこ出ちゃいそうになったんだけど、動くの止められなかったんだ。そしたら白いのいっぱい出て、すっごい気持ちよかった!」

「わたしも気持ちよかった! 最初はね、痛かったの。でも最後は気持ちよかったの! ねえまたしよ!」

「うん! また今度やろ! 次はいつやろっか」

「おうおうええのう。今度やる時はばっちゃも混ぜておくれ。ばっちゃも気持ち良うなりたいからのう。いつやるか決まったら、またばっちゃん所に来て教えておくれよ」

「「おばーちゃんも!? いーよ! いっしょにやろ!」」

 聞きたい事が聞けた。或いは聞きたくない事を聞き終えると、首様は「ほれ、じゃあおやつ食べておいで。引き留めて悪かったのう」と二人に向けて片手を上げる。すると二人は肩を合わせ、ずるんと奇怪な音を鳴らしながら一人になった・・・・・・。頭の半分から白と黒に分かれたツインテールを振り回しながら走り去っていく二人を見届けた首様は、二人が離れていくと「のうクソガキ」とフェルへと目線を向けた。その顔は優しいお婆ちゃんのそれではなく、さながら契約を結ぼうと画策かくさくする悪魔のようなそれだった。

「どうやら貴様は、清く正しい教育を施した結果、汚らしく歪んだ子供を作り出してしまったようじゃのう」

「……………………」

 フェルの呼吸が乱れていく。ふうふうと荒く息をするフェルは、しかし脳が求める酸素量には到底追い付いていないのかどんどん息が荒くなっていく。大きく上下する胸元に手を押し当て何とか心拍数を抑えようとするが、全く効果は無かった。

「貴様がしとったのは教育でも何でもない。ただ見せなかっただけじゃ」

「……………………………………違う」

「臭いものには蓋を。教えなければならん事を、教えたくないから教えなかった。じゃろう?」

「………………うるさい」

「見たくないものを見せなかった結果、それより遥かに見たくないものを見せ付けられる事になってしもうたのう間抜けが」

「──────うるさいッ!!」

 歯を食いしばって耐えていたフェルが挑発するような口調であざける首様に向かって叫ぶと、それまで黙って見ていた橘光が鞘に入ったままの長ドスを板張りの縁側にバコンッと叩き付けながら「うるさいんはお前じゃろがこのハナクソ」と吐き捨てた。

「なんやお前、事実指摘されて顔真っ赤にして逆ギレするタイプか? 別に構へんけどヒスるなら余所よそでヒスれやボケが。じゃかあしいねんタコ」

「そうねェ、人の真横でキャンキャン喚かれンのっておェが思う以上に苛付くもんよォ。アタシ騒がしいのも賑やかなのも好きだけど五月蝿ェのは嫌いなのよねェ」

「ジズ君、ハニー。二人とも余り言ってあげるな。ミス・フェルは別に悪い事をした訳じゃあないはずだ。…………はず。はずだよね? 多分。そうだよ、うん。きっとそう。トラストミーボクを信じて

「仲裁に入ったんならもっと堂々とせんかパル坊。そんなんじゃから頭パッパラなんぞ言われよるんじゃないのか」

 ころころと鈴玉が鳴るように笑いながらそういう首様にはそれまでの威圧感なんてどこにもなく、そんな言葉を受けたパルヴェルトは少し照れたような表情をしながら「む……むむむ」と小さく唸った。

 冷や汗か、それとも脂汗か。乱れた呼吸をそのままに「わた、わたしは」と口を開き掛けたフェルだったが、しかしその先の言葉は喉が詰まったように出てこない。

「要するに教育間違えたんやろ? なんや妙に照れ臭いからって言わないでたらってえ話じゃろて」

「何だっけェ、ヒカルだっけェ? 『正しい知識を正しい場所で』ってェ良く言ってたの。あれ、タクトだっけェ? 覚えて無ェわァ」

「ウチウチ、それウチの信条」

「ミイラ取りがミイラっつーかさァ……性犯罪者を生みたくねェって思ってンなら尚更ガキの頃からカッチリ性教育しとけよって話なのにねェ。ンなの馬鹿でも分かる話じゃねェ?」

 気付けば目元に小さな涙を溜めたフェルに同情心が湧いたパルヴェルトは「まあ、うん。………追い打ちを掛けるような言い方にはなってしまうかもしれないけれどさ」と言葉を濁しながら口を開いた。

「塾とかそういうものと同じだよ。将来的に頭の良い子になって欲しいとするなら、幼い頃からしっかり勉強させなくてはならない。無理矢理では駄目だよ。何で、どうして。それをちゃんと子供に説明して、理解させてあげなくてはいけないんだ」

 レイピアの柄から手を離したパルヴェルトは、それこそ子供に諭すように、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

「何か悪い事をしてしまったとして、それについて怒られたとして、頭ごなしに怒るんじゃあ駄目だ。それでは怒られた側が記憶するのは『怒られた』っていう事だけであり、その後の反省は「怒られないようにしよう」にしかならないし、そうで無くともただ言われるだけでは誰も納得出来ない」

 軍隊では規律に反した行いをした際、当たり前のように上官から拳が振るわれる。規則、言葉遣い、日頃の態度、周りへの配慮。それらを間違えると、所によっては薄いタオルを巻いた金属バットで尻叩きの刑を受けるのだという。しかしそれで兵士達が反省するのは『規律を乱したから』ではなく『痛い思いをしたから』という理由であって、それ以降隊の規律を守ろうとするのは『怒られたくないから』であり、決して『それが悪い事だから』では無いのだという。

 子供とて同じ事……いや、むしろ子供の方がよっぽど難しい。何せ「子供は宇宙人、怪獣だ」なんて言われるぐらいには、まともに言葉が通じないし何をしでかすかだって予測が付かない。故に、それこそ異星人と会話でもするかのように、ゼロから十まで、懇切丁寧に『説明』してあげないといけないのだ。でなければ子供が覚えるのはただの不満であり、到底納得してくれない。

 大人同士ですらしっかり言葉を投げ合わなければキャッチボールが成立しないのだから、知識も経験も物理的に足りていない子供が相手であれば尚更という話である。

「子供に罪を犯して欲しくないのであれば、明確に、確実に、何でそれが罪なのか。罪を犯すとどうなるのか。その結果、みんながどう思って、自分がどうなるのかをしっかり教え込まなければいけないんだ。決して適当に済ませてはいけないし、間違っても『バチが当たる』だなんて言い方をしてはいけないんだよ」

 それは日本でも非常に多く使われるもの。

 例えば『勿体無いおばけが出るよ』とか『ご先祖様が連れて行っちゃうよ』とかいう表現での教育は日本でも頻繁に耳にする言葉かもしれないが、それは海外でもよくある事であり、むしろ海外の方が日本よりよっぽど多く使われている。よくあるのは『ブギーマンBoogiemanに食べられちゃう』とか『主は見ていらっしゃる』とかだろうか。所によっては『いつまでも泣いてるとバンシー泣き女に仲間だと思われるぞ』とかもあるだろう。

 幼い頃ならそれでも良いかもしれない。実際、そういう脅し文句を一つ出すだけで騒いでいた子供が大人しくなるのだから、天から降ってきた宇宙人を育てるぐらい困難かつ苦労の絶えない育児に疲れている親なんかは、ついついそんな言葉を使っていさめてしまうのも無理は無いのだ。

 しかし十年も経てばそんなものは存在しないと気付いてしまう。かつては子供だった者が大人になった時、それまで自分を縛っていた『脅し文句』が嘘八百である事を理解してしまった場合、以降脅し文句に怯える必要が無くなってしまう。それはつまり『何でそれが駄目なのか』が分からない状態になってしまうという事に他ならない。

 昨今では絶滅したらしい『勿体無いおばけ』はTS系異世界転生でもしたのか『勿体無いババア』へとジョブチェンジしたというが、夏場の田舎の田んぼ道に有り得ない程湧きまくる羽虫の如く日本に掃いて捨てる程居る勿体無いシリーズは、それこそ九割以上の日本人が一度は聞いた事のある言葉のはずだ。しかし、それにも関わらず日本から食べ残しの概念が消えないのは何故なのか。少し多く頼んでしまったからだなんて言い訳は通用しない、その程度であれば国家規模のエコ運動にまで発展する事は無いだろう。

 理由なんて明白である。どうして食品を食べ残してはいけないのかを潜在的な部分に教え込まれていないから、ただそれだけだろう。

 勿体無いシリーズが嘘八百の脅し文句だと分かってしまった人の中で、上っ面でそれが悪い事だと思いつつもしっかりと『何故』を理解している者は殆ど居ない。指摘されてから「ああそれはね」と言葉に出来る者はある程度居るだろうが、指摘されずとも無意識でそれを行える者がどれだけ居るかなんて考えたくもない。

 そしてそれは、性知識に関してはもっと重く重篤である。それこそ英語の授業で先生が「シックス」と口にする度にニヤニヤしながら振り返ってくる前の席に座るクラスメイトのように、性知識は多くの者から激しく忌避されがちな概念である。

 例えばおっぱいの話。おっぱいおっぱいと口にするだけでも照れ臭いその部位は、現代の日本ではかなり最近まで性対象として認識されていなかった。まだ男尊女卑が当たり前だった戦前の時代なんかは、農作業を行う若い女性は胸元がはだけて乳頭が丸見えになっていたとしても、誰もそれを気にしなかったのである。

 そう誰も。それを見る男ですら、まろび出ている両の乳首や乳房に対して性的興奮を覚えなかったのだ。

 何せ性的な対象として認知されていないのだから当然の話である。

 しかしいつからか女性の胸は性的な目で見られるようになり、時代が進んだ今では「ア◯ルは排泄器官であって生殖器官ではないからモザイクなんて必要無い」だなんて言葉も広まり、気付けば菊門に視覚的処理が施される事は無くなっていった。

 誰も、こんな事を、子供には説明しない。言わなくても良い事である訳は無い。知っておかねばならない事。自らの生まれた意味。自らが恋をする理由に直結する大事な大事な話なのだ。

 にも関わらず、多くの日本人は子供に正しい知識を教えない。

 言いたくないから。

 言わなくても良いと思うから。

 わざわざ言う必要なんて無いだろうから。


 だって恥ずかしいから。


 その結果、正しい知識を得られなかった者は正しい場所でそれを行えず、間違った知識を振りかざし間違った場所で行為に及ぶ。それが悪い事だと誰も教えなかった、或いは照れ臭さやセクシャルハラスメントで教職をクビになる事を恐れて専門用語を羅列し「一応教えはしたから私は悪くない」だなんてふんぞり返ってばかりいたのだろう。

 誰も正しい性知識を教えようとはしなかった。自らの血を継いだ、愛し合う行為の果て、腹を痛めて生まれてきた子に、照れ臭がって、正しい知識を授けない。

 だからこそ、

「もう手遅れじゃろうがな」

 呆れたような口調の首様がそう言うと、俯いて黙っていたフェルがビクンと肩を跳ねさせる。途端、落ち着き始めていたていた呼吸が乱れていき、フェルは恐怖に怯えるかのように小さくぶるぶると震え出した。

「………だろうね。少なくともボクには、あの子達を正すすべは思い付かない」

 それまでフェルを擁護するような立場に居たパルヴェルトまでもが嘆息すると、遂にフェルは誰の目にも明らかなぐらい狼狽し始めた。

 しかしパルヴェルトはそれに構わずゆっくりと口を開いていく。

「ボクは子供のまま死んだ。だからボクに子供は居ない」

 それはフェルに向けられた言葉なのか、それとも他の誰かに向けた言葉なのか。誰もそれを理解せぬまま、パルヴェルトは言葉を紡いでいく。

「子供なんて育てた事が無いから、きっとボクの言葉は知ったかぶりのようなものになるのかもしれない。けれど、だからこそボクは思うよ、子を育てる事に正解も不正解も無いとね。みんな違って、だなんて言うつもりは無いけど、子供は子供毎に何もかもが違う。勉学やスポーツと違って、命というものに誰かの語る公式は殆ど当て嵌まらないし、余りにもケースバイケースが過ぎるせいでロクな参考にもなりやしない。だから導き出される結果も、それに至る過程も、誰が何をどうやったって同じものには成り得ない。あの子達が間違った方向へと進んでいるなら、キミはそれを正せば良い。正せるかどうかは別として、正しに行かねばならない。間違っても叩いたり、怒鳴ったり、理屈を並べて叱り付けたりしてはいけないよ。子供でも分かる言葉でゆっくり説明して、何で、どうしてをほぐしてあげなければいけない。それが親というものだろうとボクは信じている」

 パルヴェルトの過去に何があったのかを知る者はここには居ない。しかしこの場に居る誰もが、パルヴェルト自らが生前にされた『子育て』と比べて語っているだろう事は想像出来た。

「…………………………」

 ただ一人、フェル・ヤン以外は。

 俯いてぶるぶると震え続けるフェルの耳には、誰がどう見てもパルヴェルトの言葉など一文字たりとも耳に入っていない事は明らかだった。

 自らの目の前で、自らの子が、未成年であるにも関わらず近親相姦に及んでいた。よしんば性欲の為であれば彼氏彼女とすれば良いだなんて安っぽい無責任な説教が出来たやもしれないが、二人で一人の子供は性欲ではなく無知故の好奇心で淫行に及んでいたのだ。

 そんな事実を目の当たりにすれば、フェルでなくとも大抵の人間がフェルのようになるだろう。

 俯いたままで震え続けるフェルに目をやったパルヴェルトが「ふう」と溜息を吐く。それは諦めの篭ったものであり、パルヴェルトは緩やかにかぶりを振ってフェルから目を逸らした。

「…………駄目だね。この様子じゃああの子達は戻ってこない。何せ親が諦め始めているんだ、あの子達に帰る場所なんて無いだろうね」

「あ奴らが忘れていなければ次はわしも呼ばれるじゃろう。その時に可能な限り軌道修正してやるつもりじゃが……まーあ無理じゃろうなあれは。わしが何を言った所で、あ奴らはセックスジャンキーから治らんじゃろ。どうやってもどこかでわっぱを孕んでお終いじゃろうな」

 フェルが親指の爪を噛む。ぶるぶると震え、俯いているにも関わらずフェルの胸元が大きく膨らむぐらいに荒く乱れた呼吸は、しかしフェルの脳はまともに酸素を供給していなかった。

 フェルの頭の中は完全に真っ白であり、もはや何も考えられなくなっていた。それこそ「何を考えれば良い」を考えるぐらいには、思考は乱れ狂っていた。

「いっそ手首ィ折れるぐらいぶん殴りゃァ、少なくともコトに及ぶ事は無くなるんじゃねェ?」

「つってん隠れて乳繰り合うようになるだけじゃろて。そんならハナから全部諦めて、せめてコンドームだけはするんやでーっちゅーてる方がよっぽど有意義とちゃうけ? したら少なくともデキ婚的な事にはならんやろ」

「そういう話ではないんじゃがなあ。…………どれ」

 俯いて震えるだけのフェルに首様が手を伸ばす。

 首様のその小さな手はフェルの前髪を鷲掴みにし、俯いて見えなかったその顔を力尽くで持ち上げた。

 周囲に晒されたフェルの顔は、それはもう見るに耐えないものだった。瞳の両端に溜まっていた涙の雫が、首様によって頭を持ち上げられた勢いで顔を伝って溢れ落ちる。挙動不審に瞳孔を動かしていたフェルは、脳髄に響くような首様の「おいクソガキ」という声にビクリと震えると、自身を真っ向から見詰めていた首様の黒い瞳と向かい合う。

 糸目を薄っすらと開いた首様の瞳は真っ黒だったが、しかしその瞳にはしっかりとした力強い輝きがあり、そこに悪意がこもっていない事を示していた。

「クソガキ…………………貴様、死因はなんじゃ」

「───────────────」

 フェルがビクンと震える。ただでさえ不安定だった情緒は更に乱れ、フェルはがちがちと歯を鳴らしながら怯え始めた。荒い呼吸は声帯を振動させながら甲高い悲鳴のような呻き声を作り出す。橘光とジズはその姿を見て全てを察し、パルヴェルトは唇を噛みながら目を逸らした。

「……………………………莫迦ばか娘が」

 ぐんと奥に放るように首様が手を離すと、背中が反れたフェルは条件反射で板張りの床に手を付く。

「おいクソガキ。貴様、生前にした過ちを、死後も繰り返すつもりかえ?」

「───……ちが……わた、わたし……そんな……」

 ぼろぼろと涙を流し出したフェルに毒気を抜かれたのか、首様は「ふん」と鼻を鳴らすと台所の方へと顎をしゃくりながら「はよう行ってこい」と苛立ち混じりにそう言った。

「生前しくじった間抜けな貴様に、誰ぞが第二の生を与えたもうた。じゃが貴様は間抜け故、第二の人生ですらしくじった。………………せめて笑って謳歌してこい。わしらの残り時間は決して多くはないんじゃ」

 そう言われたフェルは積を切ったようにぼろぼろと涙を零すが、しかし決して嗚咽は噛まなかった。泣き声を上げる事も無く、横隔膜を痙攣させる事すらせず涙だけで泣き出したフェルは、十数秒経ってからゆるゆると立ち上がった。

 文字通り幽霊のような茫然自失の表情をしながら、自らが腹を痛めながらも『産む事が出来なかった子達』の元へと歩いて行った。



 亡霊の如くゆらゆらと覚束無い足取りで台所へ向かうフェルを見送った四人はしばし黙っていたが、空気を読まない事に強い定評のある橘光が、やがてその口を開いた。

「そういや今更なんやけどさ。首様ぁさっきウチらにタクトとヤッたかって聞いたやん? あれ結局なんやったん」

「ボクのケツ穴の安否確認をそれとなくしてくれたって思ってたんだけど、違ったのかい?」

「ンな訳無ェだろ。マジでそうだったらお前ェの粗チン、アタシの鼻の穴でシゴいてやるわァ。当然根本まで挿れたげっから喜んで咽び泣けよォ」

「それどっちかっちゃあ咽び泣くのジズやと思うんけど、クッソ痛いやろ。つかマニアック過ぎひん? 鼻射とか、鼻の穴にちょっとぶにゅってするんは聞いた事あるけど、根本まで挿れんのは流石のウチも聞いた事あらへんわ。鼻からスイカ出す方がまだ楽じゃろそれ」

「どうせするなハニーにしたい」

「せんわタコ。真性直してから出直しいや」

 いつもの調子を取り戻した馬鹿が馬鹿みたいな話を始めると、首様は「ああそれなあ」と口を開く。

「いやなに。いつぞやぼんからちんちん借りる約束をしたんじゃが、あ奴一向にわしの所にちんちん貸しに来んでのう」

「「「は?」」」

「ともすればわしにちんちん貸すだなんて適当抜かして、その裏でぬしゃらとハメ狂っておるんじゃなかろうかと思っての」

「なんや色々言いたい事あるけど、それタクトのその場しのぎとちゃうんけ?」

「つーか何をどうすればちんぽ貸すって話が出ンのよォ」

「どうせ貸すならボクが良かったよ。………ああいや違うよ違う違う! 勘違いしないでくれたまえよ! ボクが言ったのはボクがブラザーからちんちんを借りたいなって話でね!」

「お前ェがホモのゲイのって話はどうでも良いわァ。するならしっかり浣腸しておきなさいよォ、あれ準備無しでやると酷ェらしいじゃない?」

「そうなのかい!? どうなるんだい? いざという時の為、具体的に知っておきたい、是非とも教えてくれないか!」

「ちょ……ウッザ何だコイツ……キメえんだよ寄ってくんな殴るぞお前ェ」

 言うや否や、先端がトライデントのように三叉に分かれた特徴的な尻尾をグーの形にしたジズは「殴るぞ」と言いながらその尻尾を振るい、パルヴェルトの顔面を横殴りにした。「べぇおっ」と不思議な悲鳴を上げながら縁側から玉砂利敷きの庭に吹き飛んだパルヴェルトは、そのままごろごろと転がっていく。

 パルヴェルトを殴ったその三つ指の尻尾を首様の白い和服の裾に押し付けこしこしと拭けば、首様は「うわばっちい! 何しよるんじゃ小娘!」と酷い対応をしていた。

「でも何かウチの勘だと、タクトぉ誰かに頼まれでもせん限りは誰ともヤらんと思うでよ」

「そういう光はどうなのよォ。アンタちょこちょこ好き好き言ってンじゃん? そんな言ってンならサクッと頼んでヤっちまやぁ良いじゃないのォ」

「ウチ? ウチはヤらんと思うで? ウチ片想い至上主義やもん」

 もはや誰かが横回転しながら吹き飛んでいく事なんて慣れ切った連中が、吹き飛んでいったパルヴェルトには目もくれずに語り合う。

 叩き付けたままの状態で放置していた長ドスを握り直した光の言葉に「なんじゃそれは」と首様が聞けば、橘光はケロッとした口調でそれに答えた。

「好きな人がおったとしてさ、その人と目が合ったり指が触れたりするとちょー幸せやん? 何ならそれ思い出してマス掻けるぐらい嬉しいやろ?」

「まァ……そう、ねェ……。実際その程度の記憶でマ◯コ掻けるかっつゥと怪しいけどォ…………まあ言いたい事は分かるわねェ」

「でもそれって片思い中だからこそのもんやん。恋が成就して両思いになったらさ、目が合うとか指が触れるとか当たり前になるやん? ウチその当たり前がクソほど嫌なんよ」

「あー、何となく分かる気がするのう」

 止める者の居なくなった乙女トークは歯止めを忘れて盛り上がっていく。

「恋の愛のに限らず『なる前』と『なった後』じゃあお互い絶対重なり合わん幸せがあるやんか。両思いなら、片思いの時には出来ない一日中ハメ倒しとかが出来るようになる訳やん。けどウチ『なる前』の幸せの方が何倍も魅力的に感じるねん。仮に一日中ハメ倒せるようなったとしても、その結果ちょっとしたときめきが無くなるならハメ倒せなくてもええわって思っちゃうんよな」

「………本当に何となくじゃが分かる気はするの。いや一日中ハメ倒しはお主らにはおすすめせんがな。仮に性欲が続いたとて、それだけま◯こ擦っておったらま◯肉腫れ上がって痛い痛いじゃぞ」

「そうなのォ? アタシまだシた事無ェからそれ初めて知ったわァ。いや多分シまくってても知らなかったと思うけどさァ。…………ハメ倒すとま◯肉腫れンのォ?」

「靴擦れを思い出さんか。あれは靴の生地と皮膚が過剰に擦れる事で起こるんじゃぞ。布地と擦れる訳じゃあないから水膨れまではいかんでも、それでも連チャンすればま◯肉かなり腫れ上がるぞい。………お主らはDIYで半日以上ドライバー握った事とか無いか? 手のひらに豆が出来るのは何故じゃ?」

「「あ〜」」

 シモネタを語る事にさしたる抵抗のない女が三人も集まれば、そこで行われるのは耳を塞ぎたくなるような淫語トーク。女三人寄れば姦しいとはよく言ったもので、ぶん殴られて吹き飛んだパルヴェルトが意識を取り戻さない限り、恐らくこの場は誰にも収拾を付けられないだろう。

「とりあえずウチは片思い実らせたくない派やねんから、今ん所何かでタクトとおセッセする事はあっても、多分付き合うまではいかんと思うでよ」

「ふーゥん………」

「せやからジズがタクトと付き合ったとしても何も思わんし、ヤンデレ化するような事もあらへんから安心して付き合ってハメ狂って赤ちゃん作りまくってええで」

「んー……まァそう言うなら安心しとく事にするわァ。つっても多分アタシもタクトと付き合うまでは行かねェだろうけどさァ。ちょっと気にはなってるしィ、アタシ甘えられんの好きだから甘えんぼ寄りのタクトは悪くねェなァって思ってっけどォ………なァンかそこまで行くにはァ、何つーかァ………」

「わしもじゃな。わしは腹減っとるだけじゃし、付き合うとか何とかそんな下らん与太に付き合ってやる気は無いのう。…………何にせよ、お主らと坊がヤってないなら何でも良いわ」

 そう言った首様は「よっこらせ」と言って立ち上がると、腰に手を当ててストレッチをするかのようにぐっぐっと体を左右に反らした。

 ぽきぽきと関節が鳴る音が聞こえる中、ジズは同じように腰を上げながら「もしタクトがアタシらン誰かとヤってたらどうするつもりだったのォ?」と問い掛けると、橘光もそれに習うよう立ち上がった。

「あー? そりゃわしにちんちん貸すとか言って貸さずに別の穴あ使っとったらブチコロ一択に決まっとるじゃろうが。よしんばブチコロせんでもま◯肉どころかちんちん擦り剥けてさきっちょから血い吹くぐらいにはハメ倒すわい」

「あーあれやな、赤玉ってやつ。なんやっけあれ、金玉の使い過ぎで出血するって都市伝説やったっけか」

 橘光の言葉に、ストレッチを終えた首様は「ああ違う違う、そうじゃのうての」と訂正を入れる。

「赤玉出ても止めぬ。亀頭の粘膜ズル剥けて血塗ちまみれになるまでハメ倒してやるわい」

「うわキッツゥ。マジで言ってンのォ?」

「えそれ死ぬんちゃう?」

「少なくとも不能にはなるわよねェ……。………まァタクトの事だしィ、そんな大した事も無く帰って来ンでしょォ。あの子ヘタレだもンねェ」

「せやなあ。相手もペール博士やし。性欲はあるっちゅーてたけど、タクト妙な所で照れ屋さんやからな。ラムネが見てる横でハメ狂うようなこたぁ無いじゃろて」


 そんな事を語らう三人は、話題の中心に居る男が遠出した先で童貞どころかファーストキスすら捨てている事を今はまだ知らない。

 それと同時に、話題の主である少年が自らの身に起こらんとしている悲劇を知る事も無く、またその悲劇とやらが自身のちんちんMy Sonに対して降り掛かろうとしているだなんて事も、当然知り得るはずは無い。

 言い合って笑いながら立ち上がった三人は、三者三様の表情をしながら玉砂利の敷かれた境内へと歩いていく。

 橘光が長ドスを白鞘から抜くと、木材と金属が擦れる特徴的な音が鳴る。それと同時、玉砂利に突っ伏すようにして倒れているパルヴェルトに近付いていた三つの黒い影のような円が、パルヴェルトからスッと離れて距離を取るような仕草を見せる。

「───────パル坊は世話が焼けるのう」

 そういった首様が右腕を振るように後ろへ回すと、その肩と肘からごぎゅっと低い音が鳴った。そのまま半身をサイドスローのようにして右腕を振るうと、紐のように伸びた首様の右腕はパルヴェルトの所まで伸びていき、彼の足をわっしと掴んでそのまま振り上げる。それを握ったまま、伸びていた首様の右腕はゴム紐のように縮んで元に戻った。

 足を掴まれて宙を舞ったパルヴェルトはその身に忍び寄っていた黒い影から離れ、首様の元まで引き寄せられると乱雑に地面に置かれた。しかし生前も死後も貴族のお坊ちゃまであるパルヴェルト・パーヴァンシーはジズに殴られた時点で完全に脳震盪を起こしてしまっているようで。半透明な桃色の鼻血を少しだけ流した彼は、首様に掴まれ放られすっ転がされてもピクリともせず動かぬままだった。

「ほーん、そんなおもろい事も出来るんやな。どっかのゴム人間みたいやん」

 いつもと大して変わらない口調で光がそう言うと、首様はハッとした表情で「むぁっ、確かにっ!」と声を荒げた。

「どうせじゃから「ゴムゴムのぉ」とか言っておけば良かったっ!」

「訴えられても知らないわよォ?」

「えーわし関節外して腕伸ばしただけじゃしー? 類似点はあるやもしれんがそれで盗作や盗用と言うには程遠いじゃろ。多分。きっと。トラストミーわしを信じて

 そんな事を語る首様を余所に、日向にも関わらず玉砂利の上に存在していた影は、まるで細胞分裂でもするかのように三つに分裂する。

 三つに分かれた影はそれぞれがそれぞれと距離を取り、橘光と、ジズと、首様との三人を個別に相手取ろうと誘っているかのように見えた。

「首様もやンのォ? 番犬呼んでくりゃァ良いじゃんさァ、あれァその為の犬っころでしょォ?」

 肩や首や腰や肘や膝や手や足の指やらと、全身のありとあらゆる関節をボキボキと鳴らしまくっていた首様にジズが問い掛けると、首様は「たまにはわしも運動せねばな。最近お腹ぷにってきた気がするんじゃ」と足首の関節を鳴らしながら答えた。その言葉を聞いたジズは「ふゥん」と鼻を鳴らしてから「プニッてる方が好まれるって聞いたけどねェ。イカ腹っつーンだっけェ」と呟く。

「それはさておき皆どれ行くゥ? 先決めて良いわよォ」

「ほんならウチ右利きやから右のぉ行くわ」

「じゃあわしはぎっちょ両利きじゃから真ん中にするかの」

「したら左はアタシねェ。いやアタシ右利きなンだけどォ………まいっかァ」

 三人のその声を聞いたかのように、三つの影から磁性流体のようにぬるりと人影が伸び出る。それは磁性流体とは違って光を吸収するかのようにも見える純粋な漆黒だったが、ぬるぬると地面を這うようにしてゆるやかに人型を形成する。

 現れた人影は白と黒のみで彩られたゴシック調のドレスを纏っており、顔にはそれぞれ包帯を巻いていた。

 ……いや。白と黒のみでとは言ったものの、姉妹のように似通った姿をしている三人が着ている衣服の色は、厳密には白と黒だけでは無かった。

 沢山のフリルがあしらわれた可愛げのあるゴシックドレス自体は白と黒の布地のみで織られているものの、その白地の部分にはまだら模様のように黒味掛かった錆茶色の斑点が幾つも塗られていた。

 大きなものから小さなものまで文字通り点々と付いた錆茶色のそれは、知識の無いものであればただの柄や模様の一種だと勘違いするかもしれない。しかしこの場にいる三人だけでなく意識を失って倒れているパルヴェルトでさえも、見ればそれが柄では無い事を確信するだろう。

 顔の一部に包帯を巻いた三姉妹が着ている服は、酸化して焦げ茶色になった大量の返り血が付着したままだった。


 ────これはまだタクトがサンスベロニア帝国に居る間。まだタクトが戻ってくる少し前のお話。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る