2-5話【人は何の為にセックスをするのか】



 因果応報とは良く言ったものだとメルヴィナは思う。大抵は悪い事をすると必ずバチが当たるというような意味で使われるその言葉は、実際には良い行いに対して舞い降りた幸運に対しても使われる言葉である事を殆どの人は理解していない。

 そういうような事を言うと因果応報の意味は早い話がバタフライ効果なのだと思われがちだが、仮にバタフライ効果がどういう意味を持つものであったとしても、メルヴィナ・ハル・マリアムネはそんな理屈めいた呼称は好きではなく因果応報という呼び方の方が断然好きだった。

 だってそうではないか。我々がこの世で行き死に起こる全てには必ず原『因』がある。そして結『果』が起こり、それに『応』じた『むくい』いがある。それが『因果応報』なのだから、なんたら効果だなんて呼び方をするよりもよっぽど美しいではないか。


 自身が得た法度ルールに関する調査がしたいと騒ぎ立てた元弟子は昔と何も変わっていなくて、呆れ返りながらも少しだけ安心したような気持ちが胸を温める。

 興味を示した事柄にはただ一直線であり、興味が湧いたものの探求の為なら万物に対して興味が無くなるその弟子は、目的の為なら元師匠が建てた診療所を容易に半壊させるし、何なら自らの法度ルールを使用して他者を殺めようとする事さえ躊躇わなかった。

 騒ぎを聞き付けたサンスベロニア帝国の兵士達の尽力によって、あわや瓦礫となり掛けていたハル診療所はすぐに補修、修理、改築が施された。おかげで翌日からも通常通りに営業出来るのだから、彼らの尽力には頭が下がる。

「…………………」

 この世界に生きる生物が潜在的に得られる可能性を持つ法度ルールという概念。『極めて強い意思を抱く事で発現する可能性がある』というそれは必ずしも自身が望んだ理想の効果を適応させれる訳ではないが、しかし発現の条件から必ず自身の深層心理に影響される。

 そして法度ルールは、法度ルールを得た者がそれを自覚した瞬間にその内容と適応時の効果が分かるようになっているようで、逆に法度ルールを得ている事を自覚出来ていない内はその効果や適応条件等も理解出来ず自覚出来ない。これがどうしてなのかは未だ研究中であるが、基本的に法度ルールというものは適応させる為に『想いを口にする』必要があり、また『持続時間』や『適応範囲』等といったものに様々な制約があるというのがそれまでの共通見解だった。

 しかしメルヴィナ・ハル・マリアムネが得た法度ルールはそれまでとは異なるタイプの法度ルールであり、それはさながら『常時適応型』とでも呼ぶべき内容だった。

 その効果は若返りではない。条件を満たしている間、その効果を適応するというもの。

「───ずっと、」

 メルヴィナ・ハル・マリアムネがロレンスを愛する限り適応され続けるそれは、若返りというより不老不死に近い。

「───ずっと、貴方と共に───」

 その想いの先に定める法度ルールは『条件を満たしている限り、自身の身体状況をロレンスの身体状況とリンクさせる』というような効果。

 愛が続く限りロレンスと同年齢になり、愛が続く限りロレンスと同じ健康状態になり、愛が続く限りロレンスと同じように心臓が動き続けるというその法度ルールは、ロレンスへの愛が続く限りメルヴィナへ事実上の不老不死を適応させる。メルヴィナがロレンスを愛する限り、メルヴィナの体はロレンスの身体状況をコピーし続ける『常時適応型』の法度ルールだった。

 この法度ルールは『想いを口にする』という条件を満たす必要が無い上に物理法則を完全に無視する。仮に脳髄が弾け飛んでも即座に再生するし、その再生は細胞分裂でも過去回帰タイムトラベルでも無く『そうなる』というどんな理屈も通用しない力押しのような効果だが、どんな物でも表があれば裏があるもの。

 不老不死の対価となり得る『裏』が何なのかなど、想像に難くないだろう。

「………………わたしは」

 ロレンスへの愛が途絶えた時点で、メルヴィナは死ぬ。未だ誰にも口にしていないそのデメリットは、法度ルールを得た者だけが分かるものだった。

 あの日あの時の朝の時点で既にそれは分かっていたが、あの日あの時の朝はそんなデメリット無いに等しいとタカをくくっていた。

「………………わたしは……っ」

 ベッドに横たわるメルヴィナは両手で顔を覆いながら自問した。そして少女の慟哭を思い出す。

「違う……違う…………好きよロレンス……大好きです……愛しています………」

 自らの気持ちを口にしながら右手を左胸に押し当てると、皮膚の下に詰め込まれた脂肪の奥からドクンドクンと脈動を感じられる。


 わたしの心臓は動いている。まだ動いている。今も動いている。こうして動いている。

 わたしの愛は続いている。まだ続いている。今も続いている。こうして続いている。


「─────わたしは、貴女とは違う」

 同類ではない。決してそんな事は無い。一夜限りの仮初の愛に踊り狂う女ではない。力任せに抓り上げられて悦んだ訳ではない。あれは生物的な危機回避が理由であり、それが気持ち良かったはずなど無い。過敏な粘膜に爪を立てられながら『ぶっトんだ』訳では無い。

「─────わたしは、………わたしは」

 呟きながらベッドから起き上がったメルヴィナは慣れた動きでスリッパへと足を伸ばし、それを履いて立ち上がった。

 無表情とは程遠いが、幽鬼のようとも言い難い顔をしたメルヴィナは、そのままフラフラと覚束おぼつかない足取りで部屋を後にする。


 メルヴィナが向かう先は決して遠い場所ではない。むしろ本当にすぐ近く、自らの部屋を出てからたったの数歩で辿り着ける。

 元々は別の部屋だったが、成長と自身の老化に伴い何かあった時の為に隣同士の部屋にしたのだ。

「────ロレンス。ロレンス、ああ、ロレンス」

 部屋は暗かったが、泣きそうな声で呼び続けるメルヴィナにロレンスはすぐ「……先生?」と返事を返して体を起こした。寝付いてすぐの瞳は完全に闇に慣れており、ロレンスはメルヴィナが自身の部屋に入ってきた事をその影からすぐに察する事が出来た。

 上半身だけ起こしたままのロレンスに駆け寄って倒れ掛かったメルヴィナは、そのまま押し倒すように抱き着いた。

 寝付いた瞬間に叩き起こされた事に対する苛立ちこそ無いものの、多少怪訝な顔をしたロレンスが「どうしたんですか先生」と問い掛けるが、しかしメルヴィナは変わらず泣きそうな声のままロレンスの名を呼ぶばかり。

 それを受けて「さては悪い夢でも見ましたか」と微笑むロレンスに、メルヴィナはようやく「夢……そう、夢なのよ……悪い……夢……」と呟くように言葉を返した。

 悪い夢を見て、怖い夢を見て、居ても立ってもいられなくなり、泣きそうな声で自分を呼び続けていたのかと考えると、ロレンスは体がじんわりと暖かくなる思いだった。

 もしかしたら俺が死ぬ夢でも見たのだろうかと思ったロレンスは、抱き着いて離れない想い人の頭を撫でながら「先生、メルヴィナ先生」とその名を呼ぶ。

「自分ならここに居ますよ。ずっと居ます。ずっと。死ぬまで一緒に、死んでも一緒に。もしも貴女が望むなら、来世でも貴女のそばに向かいます」

 法度ルールによる若返りで艶を感じられる長い髪は、しかし法度ルールによって若返る前と何も変わらないふわふわとした感触を手指に伝えつつ、絡まる事もなくさらりと指の間を通って流れていく。涙こそ流している様子はないが泣きじゃくるような声色で慟哭していたメルヴィナは、優しげに頭を撫でるロレンスのことばを聞くとビクリと震えるように口を閉ざした。しかしそれもほんの数秒の事で、跪くようにロレンスへと抱き着いていたメルヴィナはロレンスを見上げながら「ほんとうに……?」と口を開いた。

 ………ああ全く。この女性ひとは昔から変わらない。恋心を抱いたあの頃からずっとそうだ。医学、文学、心理学……何か一つでも『学』が付けば途端に周りの言葉に耳も貸さなくる割に、そうでない時は子供のように無邪気に笑う。いつだったか中庭で小さな花見をした時なんかは「ロレンス、ちょうちょですよちょうちょ。デッカいですね、あっ小さなちょうちょもいますよロレンス」と大人しい口調ながらも瞳をキラキラと輝かせながらずっとはしゃいでいた。あの時は老体だった事も相まって駆け回るような事はしなかったが………。

「そうだ、先生。今度またお花見に行きましょう。中庭の桜ではありません。ほら、国を出て少しの所にある花畑。あそこに行きましょう」

 そこは薬草や、多くの花の蜜が取れる結構広めの花畑。何一つ人の手が加えられていないにも関わらず、数多の風雨を乗り越えて力強く咲き誇る花々の楽園が、サンスベロニア帝国を出て半刻程の所にある。馬に乗らないとかなり遠い上、森の中にある獣道を通らないと行けない事から馬車も使えないのだが、法度ルールが適応されて元気になった今の先生であれば苦も無く行けるだろう。

 まだロレンスが二十代になる前には先生に付き添って良く行ったが、最近はもっぱらロレンス一人で蜜を集めに向かうようになっていた。集め倒した蜜は鍋で加熱殺菌を施した後に糖衣錠やドリンクタイプの薬品の甘味剤として使っているのだが、思い返せばそろそろ在庫が乏しくなっていた頃だった。

 小さな思い出の振り返りがてら、元気になった先生と一緒に行くのも悪くないだろう。もしかしたら幼子のように蝶と追いかけっこをするかもしれないが、そんな姿も見てみたい。

「ロレンス」

 しかしメルヴィナはその提案には何も答えず、抱き着いていた体を起こすとロレンスの肩へと手を伸ばす。その手にくっと力が込められれば、ロレンスはそれまでしていたのと同じように布団へぽすんと倒れ込んだ。

「先生?」

 声を掛けるが返事は無い。何も語らず無言のまま、メルヴィナはロレンスに掛かっていた毛布を捲ると腰の辺りに跨った。

「ロレンス……ロレンス……ねえ、ロレンス」

 うわ事のようにその名を呼び続けるメルヴィナは服越しに互いの腰を重ね合わせていたが、やがて物足りなくなったのか手慣れた動作でロレンスの衣服を脱がしていく。もはやパブロフの犬のように腰を浮かせてズボンを脱がしてもらったロレンスは、しかし直後にそれを後悔した。

「先生……? …………先生っ、メルヴィナ先生っ!」

 ネグリジェの裾から下着をズラした彼女は、何一つの前戯も準備も無いにも関わらず滝のように涎を垂らすそこへと、まだ勃ってすらいないロレンスのものを一心不乱に押し込もうとし始めた。

 ………ある日いきなりメルヴィナが若返ったのは一週間程度前の事だが、若かりし頃の想い人……初恋の相手があの日あの時の見た目で眼前に現れたら、大抵の男は情欲を我慢出来ないだろう。実際ロレンスは自身の気持ちを抑える事が出来ず、つい昨日の朝だって薄く透けたネグリジェを着たメルヴィナの、ぽやぽやと呆けた寝起き姿に我慢が出来なくなった程だった。

 ロレンスから求める事は以前からあったが、若返って気持ちが抑えられなくなったのはメルヴィナも同じだったようで、若返った事で体力的に出来なかった行為が出来るようになったメルヴィナが逆にロレンスを押し倒す事も結構な回数あった。

「先生っ! 先生っ、どうしたんですか! 一体なにが────」


 だが、様子が、おかしい。


 暗がりの中故、その表情こそ見えないのだが、自らの上で狂ったように腰を叩き付けるその姿は、少なくとも未だかつて見た事が無かった。

 プレイと称してそういう風な動きを求めた事はあったが、あの時はかなり派手に喘いで乱れていた。しかし今ロレンスの上で腰を振るうメルヴィナはひたすら荒く呼吸するばかりで声を発してはいない。我慢しているのかとも思ったが、たった十数回腰を打ち付けるだけでぎゅっと締め付けぶるると身体を震わせ、かと思えば全身の痙攣が止まるよりも早く再び腰をうごかし始めるその乱れようからは『我慢』なんて言葉はどこにも感じ取れなかった。

 そんな有様のメルヴィナに文字通り犯されているロレンスは、しかし性的な感情を掻き消しすぐにそれを理解した。


 何かあった。なにがしかがメルヴィナの身に起こって、メルヴィナが壊れ掛けている。

 心が。精神が。壊れる寸前まで進んでしまっている。


 事に及ぶべきではない。彼女にこのまま腰を振らせるべきではない。そう思ったロレンスが身体を起こしてそれを抜こうとした瞬間、それまでロレンスの胸元に押し当てられていたメルヴィナの両手が素早く動いた。

「───ぐ────げ、ァ───」

 メルヴィナの両手がロレンスの首に絡み付き、女性のそれとは思えぬ尋常では無い力で食い込んできた。両の親指が喉仏を左右から押し潰し、他の指が頸動脈へと食い込んで血流を阻害する。

「ロレンス、ああロレンス。ねえロレンスお願い答えて」

 両手の爪を立てながらロレンスの首を絞めるメルヴィナは、乱れた呼吸の合間から唾液を垂らしながら腰を振って問い掛ける。

「教えてロレンス。答えてロレンス。お願い、お願いよ。お願いだからわたしに教えて」

 声も出なければ呼吸も出来なくなったロレンスの鼓膜にみぢみぢという音が聞こえる。それは食い込んだメルヴィナの爪が皮膚を裂き、遂には筋繊維の合間を突き進む音だったが、舌を突き出しながら白目を剥くロレンスには到底理解なんて出来なかった。

「ロレンス、貴方はわたしを愛してる? わたしは貴方を愛してる? 教えてロレンス分からないの。わたし達は愛し合っているわよね。決して都合の良い男と女じゃないはずよね」

「────け───か────げ────」

 宙を掻くように彷徨っていたロレンスの手がメルヴィナの胸元に触れると、防衛本能からその指が力任せに両胸を握り締めた。かつて無い程に太く長く尖った粘膜の突起に食い込んだロレンスの爪が皮膚より薄いそこへと突き刺さるようにしてめり込むが、ナイフのように自らの粘膜を切り裂くその刺激に、しかしメルヴィナは耐え難い程の快楽を感じていた。

 子を育むための器官。赤子に栄養を与える為の器官を、まるで掻き毟るかのように切り裂かれたメルヴィナが痛みに口角を上げながら痙攣すると、両手の指へ込めていた力が更に増す。

「────────────」

 もはや声すら出せない程に首を絞められていたロレンスの体が酸素を求めて暴れ回るが、メルヴィナはそれを見てむしろ悦んでいた。

「ああロレンス、いつもより太くて大きいわ。愛してくれているのね。嬉しいわロレンス。わたしも愛しているわ。好きよロレンス。好き。大好きよ。ずっと一緒よロレンス。死ぬまで一緒、死んでも一緒。もしもロレンスが望むなら、来世でも貴方の元へと向かうわ。だから、だから───────」

 人間という生物の男性は死を悟った時、子孫繁栄の為に勃起するという。それは生存本能を通り越し、生き残る事を諦めた脳が行う最期の抵抗であり、本人の意思や感情は何一つ関係無い起こる生物的なただの現象。

 生き物の本懐は『種の繁栄』であるが、生きながらにしてそれが不可能だと悟ると、脳は生殖器を急速に動かし、『せめて死ぬ前に』その本懐を果たそうとするのだという。

 それは医療を学ぶ過程で生物学に触れたメルヴィナも当然知っていた事だったのだが、今この瞬間のメルヴィナはそれを知っていたとしても『分かって』いない。

「──────わたしを殺して。お願いロレンス、わたしを殺してちょうだい。そうすればわかるの。そうすればわたしの愛が本物かどうかわかるのよ。だから、どうかお願い。わたしを殺して」

 ビクビクと痙攣を続けるロレンスがどうして痙攣しているのかを、メルヴィナは全く分かっていない。自身の中に叩きつけるように吐き出される種がどういう理由から出ているのかも、メルヴィナの脳は理解出来ない。

 今のメルヴィナの頭にあるのは、痙攣を通り越し陸に打ち上げられた魚の如く跳ね暴れるロレンスの腰が、自身の中にある部屋の入り口に幾度となく突き立てられる事で得た快楽の事だけ。


 メルヴィナ・ハル・マリアムネの得た法度ルールは条件付きの不老不死。愛する限り。愛が続く限り。ロレンスの状態とリンクする。

 しかし力任せに首を絞めながら性を貪り、己が欲求を一方的にぶつけ続けるその行為の中には、愛などとうに存在していなかった。

 そしてそれ故、メルヴィナの両手から伝わる音。何かが折れるようなぼきゅっという振動。それが何を意味するのかを、メルヴィナは最期まで理解出来ないまま霧のように消滅した。



 ───────



 その日の昼下がりは清々しく晴れた素晴らしい日だったが、その日の昼下がりは誰もが暗く沈んだ表情をしていた酷い日でもあった。

 住む人の居なくなった建物の中庭。その中央に太い根を張り巡らせ、長い年月を掛けて立派に育った桜の木の根本には、それまで存在しなかった石の板が地面から生えるように建てられていた。サンスベロニア帝国で使用されている文字は僕が生前住んでいた星で使われているどの言語とも異なっている為、その石に彫られた文字がどういう意味や言葉なのかは全く分からなかった。

 けれどピリオドのような小さな点で区切られた三つの文字から、それが誰かに対しての平穏を思う『 R.I.P安らかに眠れ』という単語に相当する言葉である事は、この世界の言葉が読めない僕であってもすぐに察する事が出来た。

「……………………」

 集まった群衆の中に立つ僕は、これがどういう意味を持つ行為なのか分かっていないラムネの頭を優しく撫でながら、黙ってその石版を見詰めていた。

 撫でられたラムネの体から抜けた空色の毛が、雲一つない青空へと飛んでいく。二つの空色は混ざり合うように重なり、すぐに一つの空色に変わって見えなくなる。


 ────ねじ切るぐらいの力で首を折られたんだって。

 ────セックス中に殺されたらしいわよ。

 ────ハル先生の姿が昨日から見えないんだが。

 ────首から先生の指紋が出たって聞いたぞ。


「……………………」

 黙祷中にも関わらずこそこそと喋る不謹慎な声が聞こえるが、僕は当然ながら、僕の横に立っているペール博士も黙ったままで何も言わなかった。

 そう、ずっと黙ったままだった。やがて群衆が居なくなり、真上に登っていた太陽が傾き始め、この星の裏側にある家へと帰ろうとしても、僕とペール博士は黙ったままだった。

「げぼく。かえろう? おうちかえろう? おれおなかへった」

 もうすぐ夜へと切り替わる夕焼けの空。或いは一生このままなのでは無いかと思える程の沈黙に耐え兼ねたラムネが、僕に撫でられながら遂に口を開いた。それに「そうだね」と返した僕は、自分でもびっくりする程酷く掠れたか細い声が出た事で、自分がどれだけここに居たのかを理解し始めた。

「博士。もう…………もう戻りましょう」

 横で立ったままのペール博士に声を掛けるも、彼女は依然として黙ったままで何も応答しない。

 いっそ手を引くべきなのか、それとも黙って待ってあげるべきなのか悩んだ僕だったが、数秒考えて「先に、宿に戻ってますから」と伝えて踵を返した。

「付いてきたまえ」

「え?」

 踵を返した僕が再び踵を返し返して向き直ろうとすると、それとすれ違うように博士の白衣が視界を横切る。余りに唐突な言葉に意味を理解出来ていない僕が白衣を目で追うと、彼女は院内に繋がるドアのノブに手を掛け、その中に入っていった。

 閉められずに開けっ放しだったドアへと慌てて向かった僕が「どこに行くんですか?」と問い掛けるが、ペール博士は「黙って付いてきたまえ」と言うばかりで真意を教えようとはしない。

 主を失った診療所の中は灯りの一つ無くて非常に薄暗く、段差なんて何も無い板張りの廊下にも関わらず、気を抜けば爪先を引っ掛けてつんのめってしまいそうになるぐらいだったのだが、ペール博士の足取りは何も迷いがなく真っ暗な建物の中をすいすいと軽快に歩き進んでいった。

 やがて辿り着いたのは扉の前。ペール博士がその扉を開けると、その扉は他の扉とは違ってギギィと重い軋みを鳴らした。真っ暗過ぎてそこが何の部屋なのか分からなかった僕は、その古めかしい音に「倉庫ですか?」と呟いた。

 しかし中に入ったペール博士に「脱ぎたまえ」と言われた僕は、そこが倉庫じゃないだけは理解した。

「は?」

「脱ぎたまえと言ったんだよ。ほら。早く脱ぎたまえ」

 部屋と呼ぶには小さ過ぎるその場所は通ってきた廊下よりも遥かに薄暗かったが、しかしすぐ真横に壁がある事からとても狭い部屋だという事は分かった。

 トイレよりかは広く、しかし誰かの個室というには狭過ぎるその部屋に入った僕がペール博士の言葉を無視して周囲をキョロキョロと見渡そうとするが、それは真横にいたペール博士がいきなり脱ぎ始めた事ですぐに中断させられた。

「いや、ちょ、なに────はぁ?」

 あっという間に全裸になったペール博士が、薄暗い小部屋の中で僕の手を掴む。何をされるのかと本気で警戒した僕が身をすくませるが、ペール博士はそれを意にも介さないで僕の手を持ち上げた。

 そして狭い部屋の木張りの壁へと僕の手を押し当てた。

 高さにして僕のへそ辺り。壁に押し当てられた僕の手へとペール博士の指が絡み付き、その僕の人差し指と中指が木張りの壁に押し付けられる。

「……ん…………なんか、ある。傷? 引っ掻き傷みたいなのがあります」

 僕がそう言うと博士は絡めていた指をするりと解く。しかし僕の手が壁から離れる事はなく、僕は指先から伝わる何かの痕を二本の指で撫で続けていた。

 それが何なのかはまるで見当も付かないが、けれど何かの傷跡。ザラザラとした無数の横傷だという事だけは分かった。

 けれどそれが何なのかをペール博士は教えてくれず、相変わらず感情のこもっていない口調で「付いてきたまえ。脱いでからな。間違っても服なんて着てくるんじゃないぞ」と言い、壁だと思っていた何かを横に引けばガラガラと古めかしい引き戸の音を鳴らしてそこは開き、ペール博士はペタペタと裸足の足音を鳴らしながらその先へと進んでいった。

 何が起こっているのかも何が起ころうとしているのかも理解出来ない僕だったが、それでもここで棒立ちしていた所で何も起こらない事だけは分かったので「えぇ……?」とボヤきながらも言われるままに全裸になりながら博士の後を追うと、そこはそれまでの板張りとは違い、石畳のような質感の部屋だという事が分かった。

 部屋に入ると、ペール博士がまるでそういう行為を求めるかのように腰をこちらに突き出していた。相変わらず部屋は暗いままだったが、いい加減薄暗い視界にも目が慣れていた僕は無意識に両目をかっぴらき、その桃の割れ目を凝視してしまう。

 その瞬間、ペール博士の頭の方から先程と同じようなガラガラという引き戸を開ける音が聞こえ、そこから少し暗いオレンジ色の光が一気に射し込んでくる。それと同時、逆光となった僕の視界の先は完全に影が指してしまい、僕が無意識に見ようとしていた彼女の大事な部分は影に包まれた。何となくもしゃもしゃとしている事ぐらいしか分からなくなってしまった事に少し落胆しながら顔を上げると、オレンジ色の光は窓から入り込んでいる事が分かり、よくやくこの部屋が何の部屋なのかを理解した。

「風呂?」

 僕がそう呟くと、窓を開け終わったペール博士は曲げていた腰を伸ばしながら「そうだ」と返事をする。そしてその縁へと手を掛けながら「よっ」と片足を上げて入っていく。

 湯も張られていない浴槽に入ったペール博士は、その縁に手を置きながらしゃがんで「キミも入りたまえ」と僕を呼ぶ。余り広くない風呂場の中にある、更に小さい浴槽に誘われた僕は言われるまま同じように浴槽の縁に手を掛け、転ばないようにしながら片足ずつ入っていく。

 お湯の張られていない浴槽に入った僕は、浴槽に入ったにも関わらず足裏がひんやりとしている事にかなりの違和感を覚えた。加えて広くない浴槽に二人で入っているという事もあって、自分が今何をしているのか完全に分からなくなり脳が処理落ちを始めてしまった。

「何をしているんだい。フ◯ラなんてしてあげるつもりはないよ」

 不満げにそう言ったペール博士に股間My Sonにデコピンを受ければ、呆然としていた僕は「ほぁっ」と悲鳴を上げながら慌ててその場にしゃがみ込む。するとペール博士は「おわっ」と驚いたような声を出した。

「いきなり膝を曲げるんじゃない。危うく顎を膝で割られる所だったじゃないか」

「あ、す、すいません………。………いやすいませんじゃない。違う、違うよなんだこれは。どういう状況だ。ありのまま今起こっている事を話せ」

 湯の張られていない浴槽に入ってしゃがみこんだ僕が尻から伝わってくるひんやりとした感覚に悶えながらテンパるが、ペール博士は何も返事をせず「ふう」と溜息を吐きながらくつろぐように天を仰いだ。

 目の前にしゃがんでいたペール博士はいつの間にか足を伸ばし、浴槽の縁に背中を預けて座っていた。その完全にダレたおっさんのような格好に何だか腹が立った僕は、自分だけ未だ膝を抱えてしゃがんだままである事が馬鹿らしくなって、同じように足を伸ばして寛いだ。

 僕が身体を動かすのに合わせて聞こえるギュッギュッという肉の擦れる音が鳴り止むと、途端にその場を静寂が包み込む。小さな風呂場の、小さな浴槽の中。聞こえてくるのはお互いの呼吸の音だけ。

 そういえばラムネはどこにと周りを見渡せば、恐らく脱衣所だろう場所と風呂とを繋ぐ引き戸の合間で仏頂面をしながら座っていた。湯が張られていないしシャワーだって出ていないにも関わらず、風呂というだけで入るのを嫌がっているのが分かるラムネの顔は、窓から射し込む橙色に照らされながら不機嫌そうなしかめっ面をしていた。

 それを見た僕がラムネの居る方向とは反対側を見る。少し顎を上げて天井を見るようにそこに目を向ければ、オレンジの輝きが斜めの線を描くように射し込んでいて、その光線の先を追えばペール博士の胸元が橙色に照らされているのが見える。

 別に大きくは無いが、かといって小さいとも言えない表現しにくい大きさの膨らみの頂点にある棗のような突起は、しかしペンキでも落としたかのようなオレンジ色に染まっていて何色なのかは全く分からなかった。相変わらず上を向いたままのペール博士を良い事にそこを凝視していた僕だったが、ついぞその色は判別出来なかった。

 心底からの落胆を込めた溜息を吐きつつ諦めて下を向いた僕は、次の瞬間両目を全力で開いてそこを凝視した。

 当たり前の話だが足を伸ばして座っていたら、当然そこはおっぴろげになる訳で。もしゃもしゃとしたそこは僕自身のものとは違って全くちぢれてはおらず、すっと縦に伸びたストレートヘアーだった。

 生の女性の裸体はいつぞやの混浴で見た事があったが、あの時はしっかりお湯が張られていたのでそこがどうなっているのかは分からなかったし、その手の動画や画像もキツめのモザイクが掛けられているものばかりだったので実物がどうなっているかは未だかつて見た事が無かった。

 いや嘘です、ウ◯キペデ◯アで検索した事あります。でもあの時見たそれはかなり黒ずんでいて、中から宇宙人が「ピギィーッ!」とか叫びながら飛び出てきそうなものだったから正直エロいとは思えなかった。

 それこそキモいとすら思ったものだが、僕のような男性だけでなく女性も同様に僕らのちんちんを見てグロテスクだと思いがちなのだというから、結局男も女も考える事は似たり寄ったりなのかもしれない。女は自身の股間を見た所でキモいとかは思わないだろうし、同様に男は自分のちんちんを見ても「キモい? 可愛いの間違いだろうが! 勃ってない時とかホラこんなにキュートでチャーミング!」とか叫ぶだろう。僕なら叫ぶ。

 だが、と思う。男性は頭を下げればすぐに全貌が見えるが、女性は鏡を使わない限りは自身の股間がどうなっているかなんて見えやしない。エロ本やエロゲなんかでは主人公とのエロシーンで「私のあそこ、変じゃないかな」とか言っている事が良くあるが、実際そう聞いてしまいたくなるのも無理は無いのかもしれない。肛門から一センチも離れていない場所から既に割れ目が始まっているのだから、鏡を使うか、それこそろくろ首のようにうにょーんと首が伸びでもしない限り普通は見えないものなのだ。僕らのように指で持ち上げれば金玉の裏が見えるようには出来ていない。

 だから僕はペール博士のそこを凝視した。影が射し込んでいて極めて見辛くぶっちゃけ殆ど見えていないに等しかったが、それでも僕は目を血走らせながら全力で凝視した。いつかペール博士がエロ本やエロゲのヒロインみたく「私のあそこ、変じゃないかな」とか言ってきても声高らかに「大丈夫さステキだよ!」とか言ってあげれるよう、そこの形状だけでも脳に焼き付け────、

「んぶぇぅ」

 ───ようとしたら、いつの間にか伸びていたペール博士の右足が僕の頬と口の間ぐらいに押し付けられ、下がっていた僕の頭がぐいっと持ち上げられる。

「こら」

 お湯の張られていない浴槽の床に体温を吸われたのかひんやりとした足裏の隙間から、ちょっと怒ったような表情をした博士が僕を睨み付けていた。

「……………あうれ?」

 そこでふと思い出す。ペール博士は滅多に風呂に入らない。時にはソーセージみたいなヤバいスメルを漂わせているような女の足裏が直で口元に押し付けられているにも関わらず、しかし全く臭いがしなかった。

「博士、足臭くないですよ」

「売られた喧嘩は買う主義でね」

 何も考えずに思った事を口にした僕だったが、すぐに後悔した。それまで押し当てるだけだった博士の足は「それはさておき、なんだって? え? 上手く聞こえなかったな」という言葉と共にぐんぬぐんぬと動かされる。漫画やアニメで見た事のあるそれは普通に痛く、思わず泣きそうになった僕が「ほえんあはいごめんなさいふぃいあぇんえふぃあすみませんでした」と謝れば、ペール博士はすぐに足裏から力を抜いてくれた。

「昨日はちゃんと風呂に入ったんだよ」

 溜息を吐き出すように呟いたペール博士に「へえ珍しい」と答えれば、博士は小さく消え入りそうなか細い声で「先生に言われたからね」と答えた。

 その言葉に僕は思わず息を飲み、しくじった、と後悔した。

 黙ってしまった僕の心情が伝わったのか、博士は押し当てていた足を下げると「そこの脱衣所にさ」と言葉を紡いだ。

「傷、あったろう」

「ありましたね。ザラザラした感じの傷」

「あれな、身長を測ったものなんだ」

「…………………そう、なんですか」

 誰のとは聞かなかった。聞かずとも分かっていたから何も聞かなかったし、そうでなくとも聞く勇気なんてどこにも無かった。

「凄い短い期間だったけれどね。脱衣所で服を脱ぐと、決まって身体測定が始まるんだ。あらあら何センチ伸びたわよって、あの人は毎回のように言ってね」

 ペール博士はそれきり何も言わず、浴槽の縁に掛けていたままの手を動かして立ち上がると、足を上げて湯の無い風呂から上がっていった。そして壁際に寄せて置かれていた小さな木製の風呂椅子を手繰り寄せて座ると、腰を曲げながら手を伸ばして蛇口をひねる。

 上部に引っ掛けられていたシャワーの頭からしょろしょろと水が流れ出すが、その勢いはとても弱い。

 ………この世界にはガスによる加熱の概念が無い分、蛇口をひねるのに反応して魔力を使った炎熱炉が稼働する仕組みになっている。だから僕が生前使って来た風呂のシャワーと同じように、しょろしょろと流れ落ちていた水はやがてお湯になり白い湯気を放ち始めるのだ。

 その速度はガス火のそれより遅く少し待つ必要があるけれど、ペール博士は斜めに傾いて俯くようにしながら、それをじっと待った。

 やがて湯気が浴室を満たし始め、僕の頭の上辺り。開けられていた窓から白い煙が逃げ出し始める頃になると、ペール博士は再び腰を曲げて蛇口をひねる。すると今度は力強くシャワーヘッドからじょうろのように水が吹き出した。

 けれどペール博士はそれを頭から浴びたまま動かない。項垂れるように俯いたペール博士はずっとお湯を浴び続けたままで、そこから何もしようとしなかった。

 それを見た僕は少しだけ考えた末、同じように浴槽の縁に手を伸ばして引っ張るように力を入れながら立ち上がる。足を上げて浴槽から出た僕はペール博士の背後に膝を立ててしゃがみ込み、その小さな背中越し、複数のボトルが並んでいるラックへ向けて手を伸ばす。

 ………確かシャンプーとリンスは目が見えていなくても区別出来るようボトルの側面に点字のような印が付けられていたと思ったが……点字があるのがシャンプー? それとも点字があるのがリンスだっけか。いやボディソープに点字があるんだっけ? というかそもそも異世界にその概念があるのだろうかと悩んでいると、じゃばじゃばとお湯を浴び続けていたペール博士は俯き加減のまま僕の方へと顔を向ける。

「………………キミは。………キミは」

「……ん、………はい」

「キミは、私を、感情の無い狂気Madnessだと思うかい」

「いいえ」

 掠れ切った声でそう聞く彼女に、僕は一も二も無く即答した。

 だって考えるまでも無い事だと思ったからだ。本当に感情の無い女は、自分が感情の無い女かだなんて誰かに聞きやしないだろうから。少なくとも今この時のペール・ローニーという女には、しっかりとした感情があるはずだ。

「……………そうかい」

「はい。……………てかシャンプーどれです? 洗ってあげます。さっきの眼福のお礼です。こんなん滅多に無いんですからね、感謝してください」

 伸ばした手の先、人差し指でボトルの頭を一つずつぺちぺちと叩きながら僕はそう言ったが、ペール博士は「良いよ、自分で洗える」と申し出を断った。

「今はもう、あの頃のペロちゃんとは違うからね。一人で、洗える。大丈夫だよ」

「………そうですか」

 手を引こうとした僕の腕を、ペール博士がゆっくり掴む。

「ああ……ただ、一つ。一つ、お願いがあるんだ」

「はい」


「………抱いてくれ」


「は?」

「キミの好きにしていいから。中に出しても構わないから。飲めと言えば全部飲むから。抱いてくれ。お願いだ」

「…………………」

「忘れたいんだよ。今の気持ちを。この気持ちを。師の死に貧した私の気持ちを、何でも良いから塗り替えて欲しい。こんな気持ちで居たくない。こんなの私じゃない。─────────────こんなの知りたくない」

 その声は震えていて、シャワーヘッドから流れ落ちるお湯の中に涙が混ざっている事を示していた。

 ………本当は抱きたくなかった。こんな形で誰かを抱きたくなんてなかった。感情を上書きする為に誰かと肌を重ねるなんて事を、この女性にして欲しくなかった。

 けれど今の彼女は、僕が知っている傍若無人なマッドサイエンティストとは程遠くて。

「今回だけですよ」

 脇の下を通してゆっくり手を回せば、表現しにくい大きさの胸が指先に触れる。胸なんてどこかのパツキン馬鹿女のもので触り慣れていると思ったが、ペール博士の胸は橘光の胸とは異なり押し返すような強い弾力があった。両手のひらで覆い隠すように胸を包むと、その手のひらの中央に硬いような柔らかいような不思議な突起の感触がする。そのまま僕が数秒待つと、ペール博士は嗚咽混じりの声で小さく「うん」と返事をしながら、自らの胸へとあてがわれた僕の手に自身の指を絡めていった。

「ありがとう」

 どういたしましてだなんて、僕は言わなかった。



 ───────



「…………………………ほけぇ」

 月明かりの下。ハル診療所の中庭に根を広げる大きな桜の木と、その前に建てられた墓石を傍らに、僕は近くに備え付けられた金属製のベンチに座って月を眺めながら涎を垂らしていた。その足元では、いつものようにラムネが僕の靴の爪先に両手を置いてスフィンクスのように横たわったラムネが、夜の中庭をきょろきょろと見渡していた。

「…………………………ほげぇ」

 まんまるおつきさま。まんまる。ちょっときいろ。ばなな。

 クリームを混ぜたような黄色い月は綺麗な真円で、深く暗い闇夜の中で燦然と輝いていた。

 その輝きが僕の濡れた髪に吸い込まれるよう降り注ぐと、僕は思わず今の気持ちを口に出してしまった。

「…………………………あへぇ」

 今の気持ちである。素直な、純然たる、今の気持ちを表す僕の言葉は「あへぇ」である。何か文句あっか。

 生まれてから死ぬまでに経験出来ず、不思議な事に死んでから経験する事となった僕の初体験は、思い出すなという方が難しい程に強くはっきりくっきりと脳に焼き付き離れなかった。何せ童貞だったのだから、それはもう人生に一度きりの衝撃的な体験となった。

 入り口の辺りはとろとろしてて、少し入ると嫌がるように押し返してきて、根本まで入れるとキスでもするように先端に吸い付く感じがあったが、それらは全て経験した事の無い幸せな感覚だった。初めての相手がダウナーなあの娘じゃない事に幾らか胸がチリつくが、その行為がこんなにも幸せいっぱいなものだとは思いも寄らなかった。

 しかし意外だったのは胸の愛撫に関する事。漫画やゲームであるように指でつまんで捏ねるように弄るのを、彼女はかなり嫌がった。

 力が強過ぎるのかとも思ったのだが、聞けば乳頭に集まる快楽を司る神経というものは、ほんの少しの力が加わるだけでもすぐに壊れてしまうぐらい脆く繊細らしく、力加減を何一つミスらなければ快感一色だが、僕のような童貞が画面の向こうの知識だけで弄り倒せば壊れてしまった快楽神経は少なくともその日一日は戻らないのだという。実際撫でたり突いたり弾いたりしている時の彼女は小さく呻きこそすれ悦んでいるようには到底見えず、僕は自分のテク不足を目の当たりにする事となった。

 しかし彼女は言ってきた。手のひらを当てて、指と指の隙間で撫でるように転がしてくれと。

 言われるままに手のひらをあてがい上下に動かせば、彼女のそれはぷるぷると跳ね回るように僕の指の間を転がり続け、途端に嗚咽を噛むような甲高い嬌声を上げて悶え始めたのだから、やはりAVから得るような知識はクソを拭く紙にすら劣るような役に立たない理想の想像なのだと再認識せざるを得なかった。

 いやしかし、である。

 可愛かった。超可愛かった。普段はそれこそロボットかホムンクルス人造生物なんじゃねーかと思うほど無感情で冷静な口調で喋る彼女が、夢にも見た事の無いような高い声で喘ぎ震えるその姿は尋常ではない程可愛くて、そんな声で喘がれながら「待ってくれ」とか「もうイッてるから」とか「今はダメ」とか言われようものならもはや嗜虐心をとめる術なんて出し切る他には存在しなかった。

「…………………………超気持ち良かった」

「それは良かった」

 満月に向けてアホ面を晒しながら呟いた僕は、唐突に背後から相槌を打たれて「パァオッ」と意味不明な奇声を発しながら飛び跳ねてしまった。

 両耳から脳髄を吹き出しつつ縦回転したくなる衝動をぐっと抑えながら顔を向ければ、そこにはほこほこと湯気を立てた湯上がりのペール博士が、二つのコップを片手に持って立っていた。「汗をかいたろう、飲むと良い」と言いながら片手に持った二つのコップを二つとも差し出すペール博士に「ど、どうも」と答えた僕はコップの一つを受け取る。

 するとペール博士は指を器用に動かして僕が抓んでいる方のコップだけ自由にし、残った方のコップを握り直して手を引いていった。

 その後ペール博士は反対の手に握っていた何かを手のひらに取り出し、片手のままでそれを揺さぶりながら器用に指で抓んでいく。と思えばすぐにそれを口元まで持っていくと、指で潰すようにぷちっと音を鳴らす。

「………錠剤? 何かの薬ですか。眠剤とか?」

 水の入ったコップを口を当てながら僕がそう聞くと、ペール博士は薬のような何かを口に含んだままコップの中の水をこくりと飲む。僕もそれに倣うようにコップの水を口に含んだが、

「ピルだよ。キミ出し過ぎ。何人産ませるつもりだい」

「────ぶフッ」

 水を飲み終えたペール博士から爆弾みたいな発言をされたせいで、僕はコップの水を上手く飲み込む事が出来ず吹き出すようにむせ込んでしまった。

 ベンチの背もたれ越しに、カラになったコップをコトンと置いたペール博士は首に巻いていた白いタオルを両手で持ち直し、わしゃわしゃと掻き乱すように髪を拭き直し始めた。同時に足元でスフィンクス座りをしていたラムネがむくりと身体を起こし、ふよふよと浮かびながら「おみず? おみずのむ。おれものむ。よこせ」と僕にせっついてくる。

 どこかの最強生物のようにエフッエフッとむせ込んだままの僕が、しかし何とか腕を上げてコップを斜めに傾けると、その丸い縁に鼻先を突っ込んだラムネがちゃくちゃくと舌を出し入れしながら水面を舐めるように飲み始めた。

 するとそれまでタオルで髪をわしわしと拭いていたペール博士は不意にその手を止め、僕のその様子をじっと見詰める。まだ少しだけ肺に違和感を覚えている僕が無表情のまま見詰めてくるペール博士に「なんすか」と問うと、ペール博士は見た事も無いような穏やかな微笑みを見せながら口を開いた。

「いやなに。キミは良いお父さんになれるんじゃないかと思ってね」

「…………は? …………いきなり何ですか」

「人の言葉を喋るとはいえ、キミは動物に対してでも気を遣えるんだ。家畜にするよう地面に置いて飲ませるでもなく、わざわざ手を上げたまま満足するまで付き合ってあげているんだよ? 子供が出来れば、きっと良い父親になれる」

「…………そりゃどうも」

「産んであげようか?」

「────グフッ」

 僕が公国製の緑じゃない青いモ◯ルスーツの名前を口にしながら咳き込むと、反射的に腕が跳ねてラムネの顔面にコップの縁が突っ込まれる。鼻先スレスレの距離で水を舐めていたラムネは唐突な僕の動きに対処なんて出来るはずも無く顔面を突っ込み「んぶふっ──────むぁっぷぇっ! このばかげぼく!」と怒り始めた。

 鼻と口周りを水で濡らしたラムネが「もういらない!」と怒りを顕にしながらコップから離れると、空中で猫座りをしながら右手をつかってぐりぐりと顔の毛繕いを始めた。慌てて「ごめっ、エフッ、ごめんラムネ」と謝りながら手を伸ばすが、ラムネはぐしぐしと毛繕いをしていた方の手を使って、伸ばされた僕を猫パンチで払い飛ばした。完全にご機嫌を損ねてしまったようで、僕はかなりヘコんだ。

「アハハハハっ! 良いねえ良いよ、良い反応だよ。そういう反応が見たかったんだ。ハハハハハっ!」

 途端、無邪気な笑い声が夜空に木霊する。それを見た僕は未だ肺の奥に刺すような痛みを感じつつ強気に睨み付けるが、ペール博士はそんなものには意も介さずけらけらと笑い続けている。

 それを見て「この人笑うとこんなに可愛いんだな」なんて事を思った僕だが、しかしそれを口にはしなかった。恥ずかしいのもあったのだが、何となく口にした所ですぐ言い返されてまた僕がむせる事になりそうだったから、僕はそっぽを向きながら「もうあんたとはヤらない」と吐き捨てた。

「おや、それは困るね。キミの事は気に入った。いや元々気に入っていたけれどね、キミは私が知らなかった事を教えてくれた。一方的では無い、求め合う・・事の素晴らしさを教え込まれたんだ、これは癖になる」

「でもヤらねえ。もう頼まれてもヤッてあげない。今回だけって言ってたし」

「セックスには様々なバリエーションがある。四十八手って聞いた事あるかい?」

「………理非知りひしらず」

「またマニアックなものを持ってくるね、あれ手を縛る奴じゃなかったか?」

「………後櫓うしろやぐら

「ただの立ちバックだよ」

「………寄り添い」

「寝るな。挿れろ」

「………二つ巴に謝れ」

「口にしてから少し申し訳無いと思ったよ」

 そこまで言った彼女は備え付けられたベンチを避けながら僕の元へと歩み寄り、乾き掛けてしっとりとした髪を揺らしながら僕の肩へと頭を乗せた。まだ何か続くのかと少しだけ警戒した僕だが、ペール博士は「………オキシトシンは凄いね」と何やら納得したように呟いてからすぐに頭を離す。

 それに少しの名残惜しさを感じた僕が口を開き掛けた時、ペール博士は桜の木へと体を向け、その前に建てられている墓石に向かって言い放った。

「───どうか私に、教えておくれ───」

 途端、ペール博士の背後から口が伸びる。虚空に現れた唇の無いその口の中、整列するように並んだその歯が糸を引きながら開かれたかと思えば、それは寒気を感じるぞるりという音を鳴らしながら地面を抉り墓石を丸呑みにした。

 咀嚼も無く唐突にそれを呑み込んだその口は、無い鼻を嗅ぎ鳴らすよう上下に揺れる。

「付いてきたまえ」

 くるっと踵を返したペール博士が院内に繋がるドアへと歩き始めるが、今回はそのドアを開ける事すら無かった。直前に行われたそれと同じく伸びた口がじょるっと削り取るような音を響かせれば、ドアを失ったそこには丸くぽっかりと廊下へ続く道が伸びる。

 何の迷いも無い足取りでそこを突き進んだペール博士は、廊下の先にあるドアすらも再び喰らう。

 やがて僕らは診療所の入り口から外に出る。そこには診療所に着いてからずっと『待て』に従い続けていたユキオオトカゲのにょろ吉くんが居り、ようやく帰宅出来るのかと待ち侘びたようにコルルっと喉を鳴らしながら主の方へと首を向けた。

 しかしペール博士はそれを無視して歩き続ける。ちらりとにょろ吉くんに目をやった僕は、すぐにペール博士へと向き直ってその後を追う。

 どこまで行くのかと少し心配しつつ付いていけば、彼女は診療所の前にある道を隔てた路肩の前で立ち止まり、その地面へ口を伸ばし、路肩に沿って敷かれている縁石ごとその地面をじょるんと削って呑をみ込んだ。

「………………ここが何か? 何か分かったのか?」

 しかし彼女は答えない。

 無表情のまま目を閉じたペール博士は、やがて「そうか」と呟くと、首に回していたタオルを掴んで空へ向かって放り投げる。そしてそれは地面に落ちるより早く、虚空から現れた数え切れない程の口によって八つ裂きにされるかのように貪られていった。

「…………キミに一つ聞きたい」

「なんすか」

 僕に背を向けたペール博士は小さな声で問い掛ける。

「復讐は何も産まないとはよく言うが、キミは復讐についてどう思う」

「復讐?」

「屈託無い意見が欲しいね。もし私の理想の答えを挙げれたら、ご褒美としてお口でしてあげよう。ああ当然、私のお口でだよ」

 背を向けたままそう言う彼女に僕は「ふむ」と唸って考えるフリをする。フリ。そう、フリだ。フ◯ラのお誘いがどうとかは関係無く、そもそも何かに対する復讐というものに関しては既に僕の中では答えが決まっていた。

「復讐しても、大事な人は帰ってこない」

「そうだね」

「復讐しなくても、大事な人は帰ってこない」

「そうだね」

「どっちにしろ帰ってこないなら、ブチ殺した方がスカッとするってキ◯ヌ・リ◯ブスが言ってた」

「乱暴な発想だな」

「ハズレ?」

 そう聞くと博士は向き直り、僕の頬へと両手を伸ばす。何が待ち受けているのか察しが付いていた僕は、抵抗なんてせず目を閉じる。

「───アタリ」

 ちゅっと音がして、唇に吸い付くような感触がした。それはすぐに離れていき、僕が目を開けるとペール博士は照れたように笑いながら手を引き下がっていった。

「正解出来たご褒美だ。私のファーストだよ、受け取っておくといい」

「………………………」

「さ、行くよ。仇討ちだ。敬愛すべき我が師の命、償って貰わなくてはならない」

「………………………待ってくれ」

 感情の消えた声で僕が呟くと、ペール博士は「ん?」と小首を傾げる。

「どうしたんだい。何か忘れ物かい? ……………それとも、やっぱりキミは反対か?」

「………………………ご褒美は?」

「……は? 今しただろう。…………私はキスに慣れていないんだ、ディープなキスはいつかの日までお預けだよ」

「………………………お口の、ご褒美」

「うん。だからしてあげたろう。それとも物足りなかったのかい? ………仕方の無い子だな。ではもう一回だけしてあげよう。余りモタモタしていたくはないんだけれど───」

「お口でしてあげるってフ◯ラじゃねーのッ!?」

 好感度メーターが減少する音が聞こえた気がした。



 ───────



 真っ黒にも見える黒い夜空は、しかし実際には完全な漆黒では無い。良く目を凝らすと、黒の中に青が混ざっている事が分かる。異世界でも現世界でも、空気に包まれた星から見上げる空はどれも同じ色。限り無く限り無く、限界まで黒に近い青色………それが夜空である。

 その中には点々と星が煌めいている。小さなものから大きなものまで、明るいものから暗いものまで。明滅しているものや一定の輝きを維持するものもあるし、白ではなく赤味を帯びたものまで様々だ。そういう考え方で星々を見上げてみると、何だかノスタルジーに駆られて「まるで人みたいだな」とか思ってしまうのも仕方の無い事なのかもしれない。

 多分、数日前の僕だったらそんな事は思わなかったろうけど、気持ちに変化は無くとも色々あって一皮剥けた今の僕だからこそ、こういう事に気付けるようになったのかもしれない。

 そう、一皮剥けた。物理的に。一皮剥き剥きしてもらったのだから、心に余裕が生まれたんだろう。

 今の僕なら遊び半分で子供を孕ませるガキの気分も少しだけ分かる気がする。全肯定する気は「まさか」と思う程すら無いんだけれど、単純に行為そのもので得られる快楽や快感だけで無く、それと同時進行で脳内麻薬がドバドバ出ているとなれば、相乗効果的にセックス依存症になってしまうのも無理は無い話なのかもしれない。

 特に女性はそうだろう。アドレナリンとエンドルフィンに包まれて、粘膜が擦れる感覚に身を震わせながら……………更に金まで貰えてしまうのだから、そりゃあ売春防止法なんてクソの抑止力にもならねえなって思わざるを得ない。少なくとも、僕は今そう思って止まない。

「じゃあね。…………うん、パパも気を付けてね。うん、またね、ばいばい」

 暗い暗い夜の帳に包まれたサンスベロニア帝国の城下町。ネオンが起こす化学反応の光などただの一つも存在しない街の中に聞こえるのは、宵闇とは似ても似つかないような明るい声。変声期の『へ』の字も無いだろう幼毛あどけ無い口調で『パパ』を見送るその声は、腹の出た丸い体型の男が背を向けて歩き去っていく姿を見送っていた。

 やがて男の姿が目を凝らさなくては見えない程の距離まで離れると、それまで見送りに徹していた少女は服のポケットから握り締めるように何かを取り出すと、それを両手で持って指でペラペラとめくり始めた。

 それを見て、僕は止まっていた足を動かして少女へと歩き出した。

 僕が歩き始めたその瞬間、靴と地面が擦れる音を聞いた少女は瞬時に頭を上げてこっちを見ると、体を斜めに向けながら枚数でも数えていたんだろう紙束をぎゅっと握り潰してポケットへとねじ込む。

 その動作は完全に『見られたくないもの』を隠す動きであり、詰まる所『それが見られると困るもの』だという事。そこまで分かれば『その娘は、それが悪い事だと理解している』事である。

「やあ」

 斜めに向けた体、その肩口をこちらに向けた少女へと声を掛ける。完全に怪しい男だが、実際今の僕は怪しい男にならなくてはいけないので、動きとしてはこれで良い。

 そんな怪しい男に声を掛けられた少女は、しかし後退るような事はしないまま「誰? 里奈に何か用?」とこちらの様子を伺ってきた。

「遊べる?」

「………………今から? 明日じゃダメ? 里奈ちょっと疲れてるんだけど」

「ルーナティアから来ててさ。明日の朝には帰らなきゃいけないからさ、出来ればすぐシたい」

「えー。里奈お風呂入りたいのに……」

「とりあえず口でさん。そしたらホ有りそとなな。ああ口は飲まなくて良い、開けて見せてくれれば」

「んー……」

「じゃあ全部で十五。代わりにキス有り。……これ以上は流石に厳しい、これでダメなら他を当たる」

「………しょうがないなぁ。いーよ、十でいい。ちゅーもしてあげる」

「良いのか?」

「代わりに、また今度来た時も里奈のとこまで遊びに来てね。リピしてくれるならいーよ」

 茶髪の少女は元気に笑いながら、僕の誘いに了承した。

 ………しかし我ながらびっくりする程手慣れた誘い方だった気がする。その手のビジネストークが単語の頭文字と数字だけを使って『何を』『幾らで』というような事は示し合わせるのは知っていたが、当てずっぽうでも存外何とかなってしまうんだなと思わざるを得ない。或いは企業が絡んでいない民間商売だからこそなのかもしれないが………何にせよ今の交渉を誰かに見られたら絶対に言い逃れ出来ない。完全に常習犯のそれだろう。

「そういえば初顔だけど、あなたの事は何て呼べばいい? パパ? お兄ちゃん?」

 屈託のない笑顔と口調でそう聞いてくる少女に何となく胸が痛くなったが、僕は「んー、そうだね……」を考えながら目線を上げてそれを誤魔化した。

「お兄ちゃんでいいかな」

「わかった。…………じゃあお兄ちゃん、行こっ」

 無邪気にそう言う少女が抱き着くように僕の腕を取ると、真横にある扉へと入ろうとする。それを「ああ違う、ここじゃ無い。別の所で」と落ち着いた声色で止めた。

「ここじゃないの? どこ? 怖いところは里奈やだよ?」

 途端に不安がる少女。しかし僕は安心させるでも無く、いつも通りの口調を意識しながら「向こう」と言葉を返す。

「向こうの公園。外でシたいんだけど駄目か? そっちの方が好きでさ」

「お外でするの? いいよ、里奈もお外でするの好きなんだ。だってお漏らししちゃってもいいもんね。いっぱい気持ちよくなれるもん」


 ぎゅっと、胸が痛くなった。


 何をしているんだと、胸が痛くなった。


 この娘はどうしてそんな事を躊躇い一つ無く言えるんだ。どうしてそんな事をするのに躊躇いを持たないんだ。どうして、どうして─────どうして誰も止めなかったんだ。

 少女の親にもし会えるのだとしたら、顔面をぶん殴りながら怒鳴りたい衝動に駆られる。手の指が折れるまで殴りながら、何故こんなになるまで放っておいたのかと問い詰めたい。

 しかし僕は何となく、その『何故』の理由に察しが付いていた。

 誰も興味を持たなかったんだ。この娘に。この娘がどういう事をするかなんて、この娘がどういう道に進むかなんて、この娘がどういう大人になるかなんて、誰も興味を持たなかったんだ。

 

 結婚すれば働かなくて良い。家事は自分の事のついでに済ませて、旦那の性欲だけ発散させてやっていれば後は好きに遊び倒していても許される。

 金だけ渡していれば良い。ヤリたい時に力で押さえ付ければ諦めてしゃぶり始める肉穴。孕んだら「お前が避妊してないからだ」とでも怒鳴っておけば良い。仮に産んでも痛むのは財布だけ、自分の腹は痛まない。

 成績が悪くなければ良い。素行が悪くなければ良い。某かしていたとしても学校内で無ければ良い。上手くやれば自分も愉しめる。風俗よりも愛想が良いし、締まりなんかは比にならない。何なら脅せば奴隷に出来るし、仮に殴っても黒服が出てくる事だって無い。


 考えた。足りない頭で必死に考えた。

 どうすればこの娘を救えるだろうかと。どうすればこの娘を『普通』にしてあげられるだろうと。

 だが僕はすぐに自答した。考える間もなく答えが見えている事が、考えていたらすぐに分かった。

 無理だ。こいつはもう手遅れだ。この娘はもう、死ぬまでそれをやめないだろう。やめれる訳が無いだろう。

 だってもう覚えてしまった。味をしめてしまった。甘い汁を吸ってしまった。もう二度と戻れやしない。


 僕が生前住んでいた国は『平和の国』を名乗りながら、その実『詐欺の国』と言って差し支えないような国だった。戦国時代から既に多かった詐欺行為は、僕が死ぬ直前なんかは全人類が動画を投稿出来るような公共の場ですら一般広告として流れるぐらいで、さも善人であるかのように振る舞いながら「一日たった◯◯時間で毎月◯◯円稼げます!」と触れ渡っている程だったし、それを見る者だって殆どの人が「その『稼げます』は、一体誰が稼げるのか」について言及されていない事に疑問を持たない程だった。

 金銭目当ての強盗や殺人だって一度やってしまえば二度と戻れないに等しい。アメリカの強盗犯の再犯率なんて目も当てられない程だ。

 一度でも楽して稼いでしまえば、もう二度と真面目に働こうなんて思えない。思わない。思う訳が無い。思えという方が無茶な話だ。

 だからこそ犯罪という概念は消えないのだ。強盗。窃盗。強姦。恐喝。詐欺。売春。過程はどれも異なっているが、結果は全て同じである。通常通りのやり方をせず、通常以上の利益を得たのだ。

 異世界にやってきて、ルーナティアに呼び出されて、だからこそ生前のあの国がどれだけ酷い有様だったのかを、胸が痛くなる程に痛感する。アダルトグッズに関する技術ばかりが進歩して、性知識はむしろ衰退しているような国が、どの面下げて先進国を名乗っているのか。

 僕は日本が好きだった。日本で生まれ、日本で育ち、そのまま日本で死んでいった。

 酷い人生だったし、酷い終わり方だった。第三者がどう思うかなんて知ったこっちゃ無いが、少なくとも僕自身は愚者が何で愚者と呼ばれているかを魔王さんから聞いた時「ああ、確かにしくじった。派手にしくじったもんな」と笑ってしまいそうになったぐらいの酷い死に方だったけれど、もしもしくじっていなかったらと考えると、きっと「この国は最高だ」と両手もろてを上げてマンセーと叫んでいた事だろう。

 だがしくじってしまった。それにより僕は祖国の汚い部分ばかり見えてしまう汚い瞳を持ってしまった。

 泣きそうになった。好きでいたかった。好きなままで死にたかった。何も知らないまま、いつものメンツとするように、馬鹿みたいに騒いでいたかった。


 ────僕は、


「……………お兄ちゃん……? ……どうしたの?」

 僕を呼ぶ声が聞こえた。はっとなって我に帰ると、僕の腕を抱いていた茶髪の少女が悲しそうな顔で僕を見ていた。

「……………泣いてるの?」

 慌てて服の裾をつまみ上げ、少し頭を下げながらぎゅっぎゅっと強く目元を拭った。

「痛いの? お腹痛い? ヤな事あった? 里奈聞くよ? お金とか取らないよ?」

 少女が足を止めて腕を引く。ズボンのポケットに手を入れた少女はそこからハンカチを取り出すと「しゃがんで。ほら」と僕の腕を強く引っ張る。どうしてか一人で勝手に挫けそうになっていた僕がよろめくように膝を付くと、少女は優しく僕の目元を拭い「はいチーンして。ほら。チーン」と僕の鼻をキュキュッとつまむ。

 そんな気遣いをしてくれる少女の手をそっと握りつつ「良いよ、大丈夫だいじょぶ。ありがとう」と言いながら僕は立ち上がった。

「…………何かあったの?」

「違うよ。嫌な事はあったけど、それが理由で泣いてたんじゃないんだ」

「じゃあ何で泣いちゃったの?」

「────………いっそクソみたいなバカ野郎で居られたら、もっと愚かもので居られたら幸せだったのかなって。そう考えたら、何か泣いちゃったんだ」

 僕がそう言うと少女は怪訝そうな顔をしながらも、しかしそれ以上は追求してこなかった。

 僕にこの娘は救えない。もう誰もこの娘を救えない。この娘を救う為には金が必要だ。それも大金が。この娘を買い取り、そのまま何不自由無く全てを買い与えられるだけの金が必要だ。この娘がもう金を稼ぐ必要が無いと思える程の大金が必要だ。

 或いは救われるチャンスはあったのかもしれない。この娘がメルヴィナさんに何をしたのかは知らないが、たった一度でもあの人と喋った事のあるものなら、この娘の事を、あの人が絶対に救おうとしたのだという事は容易に想像が出来るはずだ。

 しかしメルヴィナさんはもう居ない。直接的にではないだろうが、間接的に、この娘はメルヴィナさんを殺した。どうやったかは知らないが、何かしらの過程を経て、メルヴィナさんは死ぬしかなくなってしまったのだろう。

 それはつまり拒否したという事になる。この娘は自らを正そうとした人、自らを救おうとした者の手を、自らの意思で弾いたという事になる。金もあったし立場も良かった彼女なら、もしかすればこの娘を救えたのかもしれないのに、彼女は救われる事を拒否した。だからメルヴィナさんは死ぬに至り、だからこの娘は、僕の腕を抱きながら、僕に抱かれようとしているんだろう。

 こんなに優しい娘なのにどうしてだ……。そんな気持ちが頭をよぎったが、僕はかぶりを振って雑念を払い飛ばした。感情的になるな。情なんて捨てろ。どうせもう間に合わない。どうやったって手遅れだ。


 どうせこの娘は殺される。

 あの人はこの娘を殺す事如き、一切躊躇わない。

 彼女に、この娘を、ゆるす気なんて無い。


 そして僕も、それを止める気なんて無い。




「あそこの公園? あそこでするの?」

 やがて視界の先に見えてくるのは、サンスベロニア帝国が管理する公園。城下町からは少し外れた場所にあるそこは円形の垣根に囲まれたかなり広い区画であり、周囲には人の住む家屋が存在しない、子供達が大きな声で騒いで遊んでも騒音苦情が出ないような場所だった。

 いつの間にか雲が出ていて少し分かりづらいが、その公園は中央に丸い砂地の広場があり、そこをぐるっと囲うように芝生が生やされた区画があって、そこにブランコや滑り台等の様々な遊具が設置されている。かなり広い公園である関係からなのか、東西南北の全四ヶ所に公共トイレと水飲み場が配置されているそこは街の中にある公園というより、森林公園とかハイキングコースの中腹にある広間という方がよほど適当な表現だろうと思うのだが、しかしそれでもその地下には防火用水の貯水タンクと豪雨時の洪水対策用のタンクが埋められているというのだから、サンスベロニア帝国の繁栄具合はこれほどなのかと感嘆してしまう。

「そう。ここでりたい」

「いーよ、個々でヤろ。どうせもう夜遅いもんね、時間なんて気にせずいっぱいシてあげる。……どこでする? トイレ? 草の影? あっ、ジャングルジムの上でするのとか面白そう!」

「………………いや、真ん中で殺りたい」

 僕がそう言うと、少女は言葉の意味を理解していいないような声色で「まんなか? どこの?」と聞き返してきた。僕がそれに「公園の真ん中。ど真ん中」と返すと、少女は「あそこでするの!? 見られちゃうよ!?」と驚いたように足を止めた。

「うん。見られちゃうかもね。でもそこで殺りたいんだよ。……駄目か?」

 念を押すように繰り返せば、それまで驚嘆の表情をしていた少女は不意に小悪魔がするような悪戯っぽい顔に変わって「へぇ〜」と笑い掛けてくる。

「お兄ちゃん、そういうのでコーフンするの?」

「…………かもね」

「里奈みたいなちっちゃい娘とシてるの、みんなに見せたいんだ」

「…………かもね」

「お兄ちゃんってば悪い子なんだー。そういうのよくないんだって、メルヴィナせんせーも言ってたよ」

「────ッ……………かも、ね」

 心臓が飛び跳ねる。しかし僕は尻の穴にグッと力を入れて心拍数を抑え込む。急場の事だったが、さっきとは違い雲が月を隠していた事もあってか全く怪しまれずに済んだようで、少女は「えへへぇ、でもねぇ」と僕の腕を抱くのをやめ、くるくると踊るようにステップを踏みながら僕の正面に立つと、

「────────里奈も悪い子なんだ。だからおあいこ」

 さながらルサールカ水底の魔女が男をいざなう時のような表情をしながら、僕の股間へと腕を伸ばして逆手でそこを優しく撫でてきた。情を捨てる決意をして、かつ布越しの弱い刺激だったとはいえ、余りにも妖艶なその言葉に危うく股間を膨らませそうになった僕が再び尻穴に力を入れようと口をつぐめば、少女はすぐに僕の股間から手を離す。

 かと思えば即座に両手を伸ばして僕の頬を手で挟む。ぺたりと貼り付けられた両手を少し引かれ、つんのめるようにして頭を下げれば、爪先を立てて精一杯背伸びした少女は目を閉じて僕の唇へとキスをしてきた。

 ちゅっと触れるだけのキス。ほんの少し吸い付くだけのキス。

 小鳥と小鳥がするような、優しいキス。恋人同士がするような素敵なキス。ぺろりと舌を伸ばし唇を舐めれば、彼女の甘い香りが脳髄一杯に広がった僕は、


「里奈の事、いっぱいイかせてね」


 吃驚びっくりする程、何も感じなかった。


「ああ任せたまえ、心配なんて要らないよ。私がキミを逝かせて差し上げよう」

 視界の先。公園の中央。いつの間にか姿を表していた満月を背にしながら、僕の代わりに彼女は答えた。

 それまでしていた淫らな顔を瞬時に消した少女は、バッと勢い良く振り返る。そこには僕の代わりに僕を相棒に取り憑かれてくれていた女性が、威風堂々とした佇まいで悠然と立っていた。

「………あの人誰? ………女の人……三人でするの? 女同士じゃないとイケない人?」

「違うよ。彼女は、キミが壊した人の弟子だった人さ」

「………………壊した人? 里奈が? なんの話?」

「………………………」

 少女のその問い掛けに、しかしペール博士は黙ったままで何も言わない。堂々と仁王立ち状態で立っているペール博士は、だが月を背にしている事もあってその顔には影が落ちており、今どんな表情をしているかは想像すら出来ない。

「メルヴィナさん。知ってるよね、さっき名前出してたし」

「は? それが何?」

「彼女、死んだんだよね。昨日………いやもう一昨日になるかな」

「────────」

 少女が目を見開いた。しかしそれは本当に一瞬の事で、その瞳はすぐにさっきまでの少女同然のものへと戻った。だから僕は、

「えーっ!? メルヴィナせんせー死んじ────」

法度ルールを使って調べたんだって」

「──────────は?」

 彼女が『上手くやる』より先に言葉を被せた。

法度ルールを使って周辺の地面を調べた。そしたらメルヴィナさんの体液と一緒に君の皮脂と唾液が混ざっている事が分かった」

「何言っ───」

「場所は診療所の前にある道の向こうの路肩。地面からメルヴィナさんの尿と君の愛液が、メルヴィナさんのあそこからは君の皮脂が」

「───────」

「ロレンスさんの遺体からは検出されたメルヴィナさんの愛液からは、メルヴィナさんの心が第三者を要因として壊された過去が遺ってたんだって」

「…………あはは──────一体なんのはな」

法度ルールだよ、法度ルール。そういう事まで『知ってしまえる法度ルール』なんだってさ」

 僕にそう言われた少女は、途端に強張った表情へと変わる。その表情はやがてゆっくり怯えたものへと変わっていき、ギギギと軋みを上げるように、その背後へと振り返っていく。

 ………海外でどうだかは知らないが、少なくとも日本の警察という組織は異様なまでにメンツを気にする。冤罪や誤認逮捕といった失敗をすると、次の日の朝にはマスメディアによって全国津々浦々に見せしめの如く恥を広められてしまう。だからこそ警察は慎重に動く。時には「事が起きてからじゃ遅いんだぞ」とか「人が死ぬ前に動けよ」とか言われようとも、メンツが傷付く事を恐れて慎重に動く。

 だからこそ腰の重い警察が強気に出てきた時は、素直に諦めた方が良いのだという。

 何故ならそれは既に動かぬ証拠を握っているからであり、


「心当たり、あるでしょ?」


「───どうか私に、教えておくれ───」


 そいつが何を言おうとも、確実に動ける状態まで進んでいるからだ。

「………………………………………………やだ」

 絞り出すように喉から出たその声は完全に震え切っていたが、僕は片手を伸ばして彼女の背中をトンと軽く押した。

「諦めて殺されてこい───」

「……………………………やだよ」

「───君は『しくじった』んだ」

「……やだぁっ! やだっ! やだやだやだァッ!」

 少女が頭を振って泣き叫ぶ。その悲鳴は夜の公園に響き渡るが、騒ぎを聞き付けて誰かがやってくるような事は無かった。

 数秒泣き叫んだ少女は、やがですぐに僕の方へと振り返ったが、その顔は恐怖や絶望とは全く異なり、怒り狂った表情をしていた。

「里奈を騙して────」

「一応言っておくけど嘘は一つも言っていない。僕はここでしたいと言い、ここでやりたいと言い、悪い子だと言われた時だって『かもね』としか言っていない」

「……っぐ」

「僕はただ言わなかっただけだ。それを、彼女も望んでるって、言わなかっただけだよ」

「──────────────………………わかった」

「そうか。じゃさよな───」

 僕が別れを告げようとすると、彼女はに向かって飛び付くように抱き着いてきた。一瞬ナイフでも隠し持っていたのかと警戒した僕はマズったかと冷や汗をかいたが、怒り狂った顔をしていた彼女は、いつの間にか泣いたような笑ったような不思議な表情をしながら、

「シてあげるっ! お兄ちゃんっ! りっ里奈がいっぱいシてあげるよっ!」

 一心不乱に僕のズボンを降ろそうと手を動かしていた。

 何度も何度もベルトを解くのに失敗しながら、しかしそれに苛立ってヒステリーを起こすような事は無く。ガチャガチャと死に物狂いでズボンを脱がせた少女は僕の履いているトランクスに付いているボタンを外し、その中にあったまだ勃ってもいないそれを握り締め無我夢中で上下にしごいた。

「なかっ、なかで出していいよっ! 里奈っ、りっ里奈の中に出していいからっ! おしっお尻も使っていいよっ! 里奈のおっ、お尻っ! あげるからっ! 好きにしていいっ、殴っ殴ってもいいからっ!」

 我を忘れた少女が闇雲に手を上下させるが、それは全く固くはならずピクリともしない。

 僕は膝を曲げながらズリ落ちていたズボンを持ち上げ、それでも握り続ける少女の手をゆっくりと剥がしながらズボンを履き直す。

「…………………………………りなわるいことしてない」

 彼女はベルトを解くのに何秒も掛かっていたが、僕は二秒程度でベルトを締め直す。その後ふにゃりとまろび出ていたモノをトランクスの中へとしまってボタンを留めて、ジジジっとチャックを上げた。

「…………りなわるいことしてないもんッ! りなはわるくないもんッ! みんながわるいんだッ! いわなかったもんッ! わるいことだってッ! おしえてくれなかったもんッ! だれもおしえてくれなかったもんッ!」

「………………」

 やがて元の状態に戻った僕は、地面にぺたんとへたり込みながら喉を裂いて金切り声を上げる少女の頭へ右手を伸ばし、

「やだァッ! やだやだヤダヤダヤダァァッ! しにたくないしにたくないしにたくないしにたくないィッ!」

 その茶色の髪を鷲掴んで、待ち人の元へと引きっていった。

 絶叫しながら命を乞う彼女は我を忘れて手足をバタバタと暴れさせる。髪を掴むその手を引っ掻き僕のすねを蹴っていた。その両足は、地面を擦るように引き摺られていた事からズルリと脱げたズボンによって拘束され上手く動かせなくなり始めていたが、しかし少女はなり振り構わず藻掻き続けた。

 やがて待ち人の前へと辿り着いた僕は、足を止めつつ急停止の慣性を腕に乗せて少女を彼女の前に放り投げた。

「くちッくちでするッ! こんどはくちでするッ! するッ、なんでもするッ! りななんでもするからッ! いっいつでもするッあかちゃんもうむッ! なんッ、なんでもッ! させてくださいッ! おにいちゃんのあかちゃんうむからァッ! ゆるしてェェッ!」

 上手く動かせなくなった両足を置いて、這い回るように両手を使って僕へとしがみ付き直した少女は先程と同じように僕のベルトへ手を伸ばすが、僕はそれを無視して回り込みながら通り過ぎた。完全にパニックを起こしている少女は自らの横を通り過ぎる僕のズボンにすら手を掛ける事が出来ず、支えを失った少女は上半身をずべんと地面へぶつけてしまう。

「……………………………ぁ」

 砂粒が付いた肘を伸ばし、両手を地面に付きながら後ろを振り返る少女は、彼女と目が合い遂に騒ぐ事をやめた。静寂に包まれる夜の公園に響くのは、彼女の方から聞こえてくるじょぼぼという放水の音だけだつか、それはすぐに砂と水とを泥へと混ぜ合わせるしょぶぶぶという濁った音へと変わっていった。

 短期間なれど、短い付き合いなれど、それでも献身的に自らの世話を焼いてくれた恩師を殺された彼女は、その仇である幼い少女を前にしながら無言で黙り込んでいた。

 その表情は怒り狂ってるでもなく冷徹に冷え切っているでもなく、かといって哀れみに満ちているでもなくただの無表情であり、

「……………………………………」

 ペール・ローニーの法度ルールが整列するように並んだ真っ白な歯を向ける。綺麗な噛み合わせでピタリと閉じたその前歯は、


「──────────────────────ごめんなさい」


「もう遅い」


 少女に向けて開かれる事は無く、閉じたまま上から叩き付けられた。

 ぶぢゅると派手な音を鳴らしながら地面へめり込んだ口は、前歯を閉じたままでゆっくりと持ち上げられる。にちゃりと糸を引くように肉片をへばり付かせたそれは、数秒もしない内に音も無く消えていく。

 持ち上げられてた少女だったものは、ぺちゃっと軽い音を鳴らして地面に落ちた。

「……………………………」

 事が済み、法度ルールを解除して口を消したペール博士はしばらくの間その場で肉塊を眺めていた。

 霞のように雲散霧消して掻き消えたその口は、本来であればペール・ローニーという女の知識欲、探究心が形を持ったもの。しかしその口は、自らをリナと名乗った茶髪の少女を食らう事はせず、閉じたその歯で叩き潰すように少女を殺した。

 僕とやり合った時は周りのものも巻き込んで食らっている事が多かったから、恐らくは意識的に少女を食らおうとしなかったのではないかと僕は予想した。

 ペール博士の法度ルールは、その口で食らった物質の過去と現在を知れる。だからこそ、僕はもしかしたら、だなんて事を考えてしまう。

 ペール博士は、彼女の過去を知りたく無かったのではと思う。彼女の想いに応じて具象化したその口は、何かを食らえば必ずそれを『知ってしまう』のだから、もしかすれば少女の過去を知る事で殺した事を後悔するのを嫌がったのではとか、そんなような事を考えてしまう。

「彼女は最後、ごめんなさい、と、謝った」

 少女だった肉塊を見ながら、ペール博士が口を開く。

 数分前まで少女だった肉塊は、いずれ必ず腐敗する。それは『数分前まで少女だった肉塊』から『数時間前まで肉塊だった腐肉』へと代わり、ハエが集る頃にもなれば『腐肉だった腐乱死体』へと変わり、やがて『腐乱死体だった白骨死体』にでもなるのだろう。

 僕はそれが、何だか面白いなだなんて思った。明確に少女だったものは、途中で少女のレッテルを失い、しかし最終的には人間らしい形に戻る。そう考えると何だか面白く感じて、同時に目の前で死体を眺めながらこんな事を考えている自分に対して強い嫌悪感を抱く。

 同時に「だからこそ、僕は今ここに居るんだろうな」だなんて思ってしまった。

「少女は謝った。ごめんなさいと。死の直前にして、命乞いを止めて謝罪をした」

「そうですね」

 謝る。謝罪。それはつまり『自分が悪い』と認めているという事。昨今では軽率に誰かに謝罪を求める事が多くなったが、謝るというのは罪を認める事に他ならない。

 悪い事をしたから、自分が悪いから、それを反省しているから、或いは後悔しているから、だから謝る。

「同情なんてする気はな無い。許すつもりも無い。詫びが欲しくて殺した訳でも無い」

「そうですね」

 肉塊の周りを、いつの間にか一匹の虫が飛び回っていた。月明かりはあるが満月でも無い三日月の夜中では、その虫が何なのかは分からない。それを呆然と眺めながら、僕は彼女の言葉に適当な相槌を打っていた。

「…………だが、」

 ペール博士はそう呟いて、それきり何も語らなくなった。だから僕も何も語らず彼女の背中を追って、宿へと戻っていく。

 圧力により飛び出た眼球に虫が止まる。剥き出しの目玉にぺたぺたと産卵管を当てては離しを繰り返している。


 宿までの道中に会話なんてものは無かった。

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