2-4話【ひとそれぞれ】



「……………………わぁお」

 ハル診療所に着いた松川里奈まつかわりなが最初に見たものは正直言って意味不明極まりない光景であり、それは巻き起こされた突風により吹き飛んでしまったスポーツキャップを拾いに行く事すら忘れてしまう程だった。

 通い慣れたはずの病院に着いた松川里奈が目にしたのは凶悪な面をした有り得ないサイズの猫が駆け回っている姿。そしてその猫に乗った顔色の良くない男の人は死に物狂いで猫にしがみついていて、メルヴィナ先生はひたすらおろおろしているし、その片隅にはぶっ倒れて微動だにしないロレンスおじさんがいるし、良く見れば羽根のないドラゴンみたいな大きなトカゲもいる。

 勇者としてサンスベロニア帝国に呼び出され、異世界での生活や稼ぎ方・・・も分かってきた里奈ではあったものの、それでも今の脳の体積はただの女児と同じなのだから、目の前で起こる惨劇一歩手前な大騒ぎを見た所で脳がそれを理解出来ないのは当然なのかもしれない。

 しかしそれはある意味で運が良かった。騒ぎにより巻き起こされた強風で吹き飛んでしまったスポーツキャップを素人が呑気に取りに行けば、目の前で行われている大立ち回りによって吹き飛んだ瓦礫や石片が飛んできたり、場合によっては戦っている両者がこちらに移動してきたりする事も有り得るのだから、ある程度距離が開いており、かつ比較的物陰に立っている松川里奈が棒立ちしてしまっているのは偶然とはいえ僥倖だったのかもしれない。

「─────あらっ? …………あらあらあらリナちゃんっ!?」

「………あ、せんせー」

 偶然とは重なるもの。いち早く松川里奈の存在に気付いたメルヴィナ・ハル・マリアムネが足早に駆け寄ってきたのもただの偶然なのだが、その最中さなかに流れ弾が如くとばっちりが来なかったのもまた偶然である。

「どうしたのリナちゃん、どうしてここに? しばらく診療所がお休みなのはリナちゃんも知ってるでしょう?」

 些か早口でそう言うメルヴィナにバツが悪くなった松川里奈は「えー、あー」と言葉を濁したが、商売相手のパパ・・お兄ちゃん・・・・・には幾らでも吐ける嘘もメルヴィナが相手となると強い抵抗があり、しばらく悩んだ末自白でもするかのように「その……」と口を開いた。

「えっと……ピルと、コンドーム無くなっちゃったから……その、メルヴィナせんせーに貰いに……あの、んと……お休みなのは知ってたけど、診察無しでモノ貰うだけだし……いっかなって」

 どことなく居心地の悪さを感じつつも両手の指をちょんちょんと合わせながらしどろもどろに口を開き、チラチラとメルヴィナの方を見てはすぐ目を逸らしつつ言葉を紡げば、やがてお叱りモードに切り替わったのかメルヴィナは「もう使い切っちゃったの?」と眉根を寄せていく。

 ますます居心地が悪くなっていく感覚がしていく松川里奈がいっそ走って逃げ出そうかと思い始めた瞬間、メルヴィナは「そんなに頻繁に飲んだら駄目じゃないの! めっ!」と言いながら松川里奈の口元に人差し指をあてがった。………幾ら相手が幼子とはいえ、今日日そんな叱り方をする奴なんて居るのかと思った松川里奈だが、実際目の前に居るのだからどうしようもなく。

 そんな事をしている間も診療所の方では戦闘が繰り広げられ、アニメやゲームでしか聞いた事のないようなドカンバコンという爆音が、アニメやゲームと違って全身に伝わる強い振動と共に鳴り響く。カラコロと音を鳴らしながら転がってくる瓦礫の欠片や、金属製の医療器具がぶっ飛んでくるのをチラリと見たメルヴィナは、依然バツの悪そうな表情のままだった松川里奈の手を引いてその場から離れる。しかしメルヴィナの叱責は止まる事無く続いた。

「お金なら陛下から貰ってるでしょう? 何でそんなに悪い事するの」

「だって………だってお小遣い少ないんだもん。おかし買ったり洋服買ったり、他にも色々使ってたらすぐ無くなっちゃうもん」

「駄目っ、ちゃんと我慢しなさいっ」

「で、でもっ」

「駄目なものは駄目っ。…………リナちゃんがしている事はね、本当は好きな人としかしちゃいけないのよ?」

「わたしパパやお兄ちゃんの事好きだもん! ……時々イヤな人も居るけど、他はみんな好きだもん。お小遣いくれるし、おかしくれる時もあるもん」

 松川里奈のその発言に、メルヴィナは唇を引き結んで悩んでしまった。

 ………メルヴィナ・ハル・マリアムネは絶対に諦めない強い意思を持つ医師として名を馳せているが、実際どんな難病であっても難しい手術であっても絶対に諦めず見放さない。例え症状が完全に慢性化していて根治が不可能だと思っても、それでも治療の糸口を模索し続ける。仮にそれが無駄な抵抗だったとしても、患者が心から「もう良い」と諦めるその時までメルヴィナは絶対に諦めず、だからこそハル診療所はサンスベロニア帝国の国民に信頼され帝国お抱えの軍医となるまで登り詰めたのだ。

 しかしその意思も、目の前で不貞腐れたような表情をしている少女を前にすると、どうした事か毎回必ず揺らいでしまう。

 何せこの娘の歪み具合は尋常では無い。

 十二人の勇者のその一人。異世界からやってきたこの少女の親にもし会えるのだとしたら、平手を打って怒鳴りたい衝動に駆られる。何故こんなになるまで放っておいたのかと、自分の手が真っ赤に腫れるまで平手を打って問い詰めたい。

 しかし聡明なメルヴィナには、その『何故』の理由は何となく察しが付いていた。

 この娘が住んでいた世界では、恐らく誰もまともに性教育を施さないのだろう。マツカワ・リナとはもうそこそこの付き合いになるが、話を聞いている限り周りの友達等からその行いを批判されるような事は無かったというから、この娘だけでなくその周囲の教育環境はすぐに察せる。

 また親から服だのアクセサリーだのを頻繁に買い与えられていたというから、少なくとも物理的ないし性的虐待を受けていたという訳では無さそうだった。

 けれど育児放棄はしていただろう。

 育児とは、子育てとは、ただ衣食住を提供し続け、成人するまで餌を与え続ける事を指す言葉ではない。子を育てるという事は、子が大人になってから見ず知らずの第三者に自慢出来るような生き方をさせれるようにする事を指すのだとメルヴィナは思っている。

 間違ってもその辺の男を『パパ』や『お兄ちゃん』と呼んでしまうような娘にする事を育児とは言わないし、未成年であるにも関わらず金銭を目当てとした性的交渉を躊躇い一つ無く行ってしまうまで放っておく事も子育てとは呼ばない。

 どうして誰も止めなかったのか。どうして誰も正さなかったのか。どうして誰も救わなかったのか。

「─────────っ」

 目頭が熱くなり、鼻の奥がツンとする。眉間に深い皺が寄っているのが分かる。何せへの字に曲がった自分の唇のその裏で耐え難い悲しみに食い縛られた歯の軋む音が、自身の顎を通して鼓膜に響いて聞こえるのだから。

 しかしそんなメルヴィナを見た松川里奈は何かイタズラでも思い付いたかのように「そういえばそうじゃん」と笑いながらメルヴィナに擦り寄ってきた。

「…………ねえねえメルヴィナせんせー。里奈、知ってるんだよ?」

 抱き着くかのように擦り寄ってきた松川里奈がメルヴィナの腹部に手を伸ばす。内心で静止の意味を籠めて松川里奈の手に自身の手を重ねるが、直前の不貞腐れたようなものとは打って変わり、まるで小悪魔のような表情をした少女は「んふふ〜」と笑いながらメルヴィナの腹を撫でるばかりでその手を退けようとはしない。

 やがて耐え兼ねたメルヴィナが「…………何を、知ってるのかしら……」と問えば、それまでメルヴィナのへその辺りを撫で回していた指はメルヴィナの手をスルリと抜け、一気に真下へ下がっていく。

「せんせーだっていっぱいヤッてんじゃん」

「──────ッ!」

 心臓を鷲掴まれたような感覚がした。猛々しかった盗人が散々吠えた末に証拠を突き付けられた時のような、自らのしている事を目の当たりにさせられたかのような感覚に体と思考が硬直してしまったメルヴィナは、自身の手を抜けた少女の手指を追い掛けるのが遅れてしまった。

 止める間もなく一気に下がっていった少女の指がメルヴィナの股間へと向かい、しかし撫でるような事はせず服越しに強い力で指を押し込まれる。デルタゾーンだなんて呼ばれるその隙間に入り込んでしまった指は衣服越しにも関わらず力任せに握り締めるようメルヴィナを掴んだ。

「ヒィ──ッぎ」

 子供ならでは、無邪気故の残虐性か。成人しているロレンスであれば間違ってもしないような力でそこを掴まれたメルヴィナは反射的に腰を曲げて逃げようとする。けれど松川里奈はそれより早く反対の手を使いメルヴィナの胸元を力任せに掴んで引き寄せな。

 粘膜保護の為の液体が分泌されている訳でもなければローションすら塗布していない部位を、布越しに引っ張られたメルヴィナは「ぃギ──ィッ」と呻きながら膝を折り前のめりに倒れ掛かってしまう。

 幼い故に何一つ手加減の無い扱いをされたメルヴィナが少女にもたれ掛り、脊髄反射で動いた両手が抱き締めるようにその肩首に回されると、胸と脇の合間から頭を伸ばした松川里奈はメルヴィナの耳元で「ほら、ね?」と囁き掛ける。

「里奈知ってるんだよ? せんせー、ロレンスおじさんと毎日シてるよね。おばあちゃんだった時も、法度ルールでお姉さんになってからも。ずぅーっと欠かさずシてるよね。里奈全部知ってるよ」

「───わっ、私がしてるのは……ァぐっ! ……ロレンスとっ、はっ、あぅっ! ちゃんと愛し合っているからで────ッ!」

「里奈だってパパやお兄ちゃんの事、大好きだよ? メルヴィナせんせーは良くて、何で里奈はダメなの? ねえ。ほら。教えてよ。答えてよ────────ねえっ!」

「─────────────ッ。──────────────が」

 それはつい昨日の夜に経験した感覚。その時は服を脱いでいたからそこまで違和感は感じなかったが今は違う。下着に染み込んだそれはじわりと全体に広がり下半身を物理的に温かくするが、しかしその熱が止まる事は無く、やがて尻まで広がると内ももを通りながらびちゃびちゃと音を鳴らして地面へとあふこぼれていく。決壊したかのように漏れ続けるそれはメルヴィナの長い長い溜息と重なるようにじょぼじょぼと落ち続けていく。

 けれどそれはあの時とは違い、純然たる痛みによって決壊してしまったもの。痛みに耐え兼ねた体がする、ただの防衛本能。

「か───は………ぁっ」

 やがて長い吐息が落ち着きを見せる頃、力強く抱き締めるように回していたメルヴィナの腕が緩むと同時、メルヴィナは膝から崩れ落ちる───、


「──────なぁに勝手にイッてんだよババア」

「──────ギ」


 ───事は許されなかった。

 心臓よりもデリケートなメルヴィナの急所を、まるで拳でも作らんばかりの力で握り潰した松川里奈は今にも崩れ落ちんとするメルヴィナを強制的に持ち上げた。

 やがて少女に抱き着いたまま横に倒したL字のように腰を後方に突き出したメルヴィナは、女豹のように腰が反り上がっていくのを自力では止められなくなっていった。

「───っあ?」

 と、そこで少女の指が離れる。その時は何か起こったか理解出来なかったメルヴィナの脳だったが、脳がそれを理解してようやく終わったのかと思った次の瞬間、少女の指はメルヴィナの臍の下からスカートのウエストバンドを通り抜け、そのすぐ真裏へと乱雑に入り込んできた。

 それと同時、抱き寄せるように肉薄していた松川里奈がメルヴィナの耳に噛み付いてくる。犬歯を立てながらかなりの力で引っ張り、舐め、耳穴へと舌が入り込んでくる。その痛みに某か文句を言おうと口を開けば、下着の中に入り込んできた少女の手指は生い茂った毛を掻き分けながら、メルヴィナの体内へ物理的に入り込んできてしまっていた。

「あんたみたいなオバサン崩れに言われなくても里奈はちゃんと知ってんの。今の自分がガキって呼ばれるような年齢って事、里奈は全部知ってんだよババア」

 噛んでいた耳から歯を離し、しかし耳穴に唇を押し付けるようにしたまま少女が喋ると、その声や呼吸の全てが直に鼓膜を震わせる。何本入り込んできているのか分からない程力任せに掻き回されるその指にもはやまともに超えを上げる事すら出来なくなったメルヴィナだが、しかし突き飛ばして逃げるような力も気力も沸き起こらない。

 もはやメルヴィナは呼吸をするだけで精一杯であり、何とか立っているように見えるその足も実際はフックのように松川里奈の指が引っ掛けられているせいで崩れるに崩れられないというだけだった。

「あんたに説教する権利なんかねえよ。あんたは里奈と同類なんだからさ」

「───────」

 その言葉に流されるまま飛び掛けていたメルヴィナの意識が戻る。

 その言葉が、その批難が、メルヴィナには少女の悲鳴のように感じられたからだ。

 しかし我に返ったのも束の間。ねじ込んだ指で掻き回すだけだった少女が手首を反らしたかと思えば、手のひらをぺったりと押し付けるように密着させ、良く磨かれた爪を立てながら力任せに引っ掻き始めた。

「……っぐ………ぎィィ──────ァ」

 耐え難い激痛が走る。感覚神経が集中している、女性の中でも特に大切な部分に押し当てられた少女の手。相手の気持ちを何を考えていない、もはや愛撫と呼ぶ事すらおこがましいようなその動き。女性にとってそれはただの拷問であるが、しかし少女が怒りと嫌悪を理由にそれを行っている事を考えるとメルヴィナは素直に屈する訳にはいかなかった。

「何が好きな人とどうのこうのだガバマンが。好きな人だろうが何だろうが、本来は繁殖以外の目的で股開くってのがおかしいんだよ」

「─────────────」

「里奈はそれ知ってるもんね~、里奈はちゃあんとそれ知ってるもんね~─────でもテメエは何も知らねえんだよなクソババア。好き合ってりゃ繁殖行為に繁殖以外の付加価値付けて愉しんでも良いんだよな」

「ちが────ちが」

「ガタガタ言って無えでさっさと死ねよ。正しいセックスすら知らねえ無知蒙昧が他人様の床事情に口出す権利なんざ無えんだよサゲマン」

 耐える。メルヴィナは耐え続ける。靴越しに地面を掘らんばかりに両足の指を曲げ、歯を剥きながら食い縛ったその口元からは唾液のあぶくを垂らしながらも、メルヴィナは耐え続けた。抱き着かれている少女の背中に爪を立てる事も厭わず、力いっぱい目を閉じて、その激痛に耐え続けた。


 ──────いつ終わるの? この行為はいつ終わるの? いつまで耐えればいいの? リナちゃんの気が済むまで? それはいつ? あとどれぐらいで?


 メルヴィナ・ハル・マリアムネの意思が溶けていく。絶対に諦めない強い意思を持つ医師の心が、何かにジワジワと侵食され始めていくのを感じる。それまで十割の痛みだった少女の手の動きの中に、鎌首をもたげるかのように不穏な割合が湧き出て来る。

 瞳を閉じようと力を入れていたメルヴィナの瞼が意思とは反対に薄く開く。瞼の裏で正面を向いていたその瞳がゆっくりと上に上がっていくと共に、八割の激痛と二割の快感が共存し始める。気付けば呼吸をする余裕すら無くなっていたメルヴィナの脳が酸欠で焼かれていくのを感じるが、それでもメルヴィナは耐え続けた。


 ここで折れてはならない。ここで屈してはならない。ここで負けてはならない。


 ここで達したら、もう二度と戻れない。松川里奈は二度と正しい道へと戻れない。


 この娘の歪んだ倫理観は、二度と治療出来ない。


「───里奈がビッチなら………里奈がヤリ◯ンなら………お前だって同類おんなじなんだよ」

「────────」

 少女の指がズルリと体の中から出ていくのを感じる。押し付けられ擦り上げていた少女の手根部が糸を引きながら離れていくのが服越しにも理解出来た。

 その次の瞬間だった。

「──────さっさとぶットべマ◯カスババア」

 離れたように思えたその手。這い出たかのように感じたその指。人差し指と、中指と、薬指が、爪を立てながらそれの根本まで差し込まれ、親指の爪が蓋をするように抓り上げたかと思うと、少女は肘を一気に曲げて物理的に千切り取らんと力尽くで引っ張り上げた。

「────────ギャ」

 脳に電撃が走る。脳内の神経細胞ニューロンが危機回避の電気信号を流し、それはゼロコンマを容易に超した毎秒百二十メートルの速度でメルヴィナの全身を走り抜け、今に挫けて折れそうになっていたその膝をバネ仕掛けの玩具おもちゃのように伸ばした。

 それにより何とか割礼されずに済んだものの、スキーン腺から一際多く分泌液が噴出されると共に、メルヴィナは生まれて初めて、松川里奈が言う所の『 Squirtingぶっトび』を経験した。

「……………………………ふん」

 首を絞める程の力で巻かれていたメルヴィナの両腕から力が抜けるのを理解した松川里奈が、自身の心から湧き上がる強い怒りWrathに任せて本気でぶっ千切るつもりで引っ張り上げていたその指を離すと、完全に支えを失ったメルヴィナの体がズルズルと崩れ落ちていく。

 横を向いた状態でドサリと音を鳴らして倒れ込んだメルヴィナの顔を覗き込めば、口から垂れて伸び切った舌は地面に触れており、しかし完全に白目を剥いている事から、この女は自分が地面とピクニックキスをしている事すら気付いていないだろう。

 あれだけの事をしておきながらどこか罪悪感を覚えた松川里奈が右足の爪先を使って未だ痙攣を続けるメルヴィナをひっくり返すが、その有様は酷いものだった。しかしパパ・・お兄ちゃん・・・・・と遊んだ後の自分も大体こんなような体制をしている事が多い為、自分と違って全裸では無い分、やはりメルヴィナの方が幸福なはずだと思った。

「…………んー」

 さてここからどうしようかと、松川里奈は頭を巡らせる。とりあえずロレンスおじさんと鉢合わせすると非常に面倒な事になる。場合によっては今後ピルやコンドームを一切売ってくれなくなるかもしれない。メルヴィナせんせーだけなら恐らく大丈夫、きっとこの人は自身の身に何が起きたかを頑なに語らない。

 そう考え至った松川里奈は完全な無意識でぐずぐずに濡れそぼった自身の手の匂いを嗅いだ。

 そのスえた香りの中には、生前も死後も散々嗅いだ臭いが混ざっている。出されたり、掛けられたり、飲まされたり。時には出せと煽ったり、掛けてと叫んだり、何も言わずに飲んだり。

「────────やっぱりあんたも同類じゃん」

 アニメやゲームでキャラクターがするような発音での舌打ちではない本気の舌打ちが口から漏れるのと同時、言葉で言い表せない苛立ちが胸の奥から湧いてくる。

「────やっぱりお前に里奈の事を叱る権利なんて無かったじゃんッ!」

 振り上げた右足を感情に任せ叩き付けるように降ろすと、意識を失っているメルヴィナが打ち上げられた魚のようにビクンと痙攣する。

 喉が擦れるようなフヴフヴという荒い呼吸をしながら、怒りWrathに任せてメルヴィナの下腹を踏み付ける。松川里奈の履いている靴の底が、倒れて動かなくなったはずのメルヴィナの下腹部にめり込む度、その体がエビのようにビクンビクンと飛び跳ね狂う。しかし松川里奈はその動きに何一つ罪悪感や可哀想だなんて気持ちを覚えなかった。

「踏まれるっ─── たんびにっ───イッてんじゃっ───ねえよっ───」

 …………生前に動画で観た事がある。それは釣ったイカを即座に絞める動画だったが、地面に打ち上げられた名も知らぬそのイカは沢山の脚を一定間隔で動かしながら、その口からブシュブシュと海水を噴いて必死に逃げようとしていた。

 意識が無いとはいえ、寄りにも寄ってこのアバズレは下っ腹を踏み付けられる度にイッてやがる。

 …………過去に自分も似たような経験をした事がある。お小遣いを五倍にするからお腹を殴らせて欲しいと言ってきたパパが居た。玩具をねじ込まれたまま幾度と無く殴られたり、或いはこっちの許可も取らない内から勝手に尻にローションを流し込んで、お腹の痛みに苦悶の表情を作っているガキを相手に無遠慮に殴り続けて強制排泄させるゴミ同然のパパだった。

 あの時はフェイクレザータイプの手錠で両手足を拘束されていたが、無様にもぴょんぴょんと飛び跳ねながら本気で叫んで逃げ回っている内に通り掛かった一般人に助けて貰う事に成功し、そのクソデブをクソデブが住むに相応しいブタ箱へとぶち込む事が出来た。その時は酷い目にあったと多少後悔もしたが、その時助けてくれたお兄ちゃんを揺さぶったらいっぱいお小遣いをくれたので結果オーライだったか。

 あの時の自分はただ痛みと違和感しか無かったが、そんな自分に説教を垂れたこの女が自分よりも遥か上をイッていてる事に、松川里奈は耐え難い程の怒りを覚えた。いつか読んだ漫画では女性のお腹だけは殴っちゃいけないって登場人物が言っていたが、自身の靴底が子宮を強打する度に絶頂しているこいつはもはや松川里奈の価値観では、自分と同じ女とは思えなくなっていた。

「─────と、やば。殺しちゃうかも」

 しかし松川里奈も勇者の一人。大成して死んだ者の一人である松川里奈は感情に脳が支配され尽くして事はそうそう無い。どんな相手でも、どんな状況に陥っても、どんな状態になっていたとしても必ず逃げおおせる事が出来たさかしいガキだったから、いずれ来るだろうロレンスおじさんやデカい猫に乗っていた人、或いはそのデカい猫と喰らい合っていた白衣の医者みたいな人と鉢合わせする前にここから去る準備を始めた。

「あー………ピルとゴムどうしよ。結局貰えてないなぁ」

 濡れそぼった手を倒れたまま動かないメルヴィナの服で拭き取った松川里奈だったが「まあ明日また来ればいっか」と呟きながらその場から小走りで離れていく。その最中さなか、松川里奈の頭に浮かんでいた事は大人の尊厳を物理的に踏み潰した事でも無ければ、避妊が出来ない間お小遣いを稼ぎ難い事でも無い。

 女性相手のコツを掴んだ少女は、しばらくの休業期間を耐えればそれ以降顧客の幅が広まるという事に胸を膨らませていた。



 ───────



 サンスベロニア帝国に於ける国王であり現総帥であるペルチェ・シェパードは謁見の間にしつらえられた玉座に座って無言を貫きながら眉間に深いシワを寄せていたが、如何な大総統とはいえまだ就任してから浅い上、そもそも年齢的にも達観出来るような歳ではないペルチェなのだから、わざわざ謁見の間を使って勝手に開かれてる大騒ぎから目を逸らしたくなるのも無理はない話なのかもしれない。

 まさしく一瞬でも気を許してしまえば眉間のシワの深さに比例した大きな大きな溜息が吹き出そうで、そういう意味で、ペルチェは一切気を許せかった。

 代々シェパード家が王族として就任する完全な王政であるサンスベロニア帝国は所謂独裁国家と全く相違無いスタイルだが、しかし数多ある歴史に残された独裁者おろかものか潰してきた国々の遺した歴史から深く学んだ近代のシェパード家は、偶然なのか必然なのか土地的にも恵まれた事で未だかつてまともな例の無い共産主義国家としてはかなり成功している部類だった。

 惑星を平面に図化した世界地図の上では南側に位置するサンスベロニア帝国は、ある一定の民主制を取りながらも王族の権威を確固たるものとして今も存続している。

 基本的に共産主義は民からの不平不満を生みやすく、それらに対する確実な対策が粛清以外に存在しない事が殆ど場合を占めるものだが、サンスベロニア帝国の憲法内には『王の言葉は絶対である』というような旨の記述がしっかり書かれているが、その王の下に三つの党を意図的に作っておく事で何をしたって蝿のようにどこからともなく湧き出す国民の不満を、王ではなくその党へと逸らす事に成功した。具体的には選挙制で党員を決めた複数の党が基本的な政策に深く関与し、それらが提示した政策の最終決定権を国王及び総統が行うというやり方である。

 国家としては所謂『先軍思想』が根底にあり、基本的には何を於いてもまず軍事に関しての強化及び発展が最優先、民の暮らしに関わる事柄はその次としている。

 通常であればこのような先軍政治を行う国家は国内に流通する万物の価格で派手なインフレーションやデフレーションを引き起こし、貧富の差が激しくなるだけではなく時には大量の餓死者を生み出す要因となり得る。かといって軍事強化を少しでも怠れば、地球で1989年度に起こったルーマニア革命の二の舞いになる。

 あの時は暴政を強いた独裁政権に対して民が全国規模で暴動を起こし、それの鎮圧を命じられたルーマニア軍隊すら民側へと寝返ってしまい、結果として当時の独裁者だったチャウシェスクは処刑されるに至った。

 勘違いする者も多いが、軍人は国家の奴隷ではない。軍事とて民の一人、軍事職に就いているだけの国民なのである。

 サンスベロニア帝国及びシェパード家がこの事例を参考にした訳ではないが、いつの時代、どこの世界であっても『軍が民に付けば全てが破綻する』という言葉は揺るがぬ事実であり、代々サンスベロニア帝国を統べるシェパード家の跡継ぎであるペルチェ・シェパードは特に国軍に関しての掌握に力を入れ、その甲斐あってか国王を継いで今こうして玉座に座るようになってからも王権制度は揺るがぬものとなっている。

 とはいえそれはシェパード家やその末裔であるペルチェがどうこうという話では無かった。

 サンスベロニア帝国の領土面積はかなり狭いものの、しかし国家の根幹に関わる重要施設を地下に作り出す事で、先軍思想が根強いにも関わらず、どこぞの黒電話のような髪型をした独裁者が統治する北の国家と違って民が貧困に苦しむような事態を避ける事が出来た。

 しかし、である。誰が言った言葉だろうか。偉人かく語りき、曰く『形あるものはいずれ滅びる』。

 名言であり至言であり、森羅万象に通ずる揺るがぬ事実であるそれは、過程や時間こそ異なるが、どんなものであってもいずれどこかで必ず破綻してしまう事を指していた。

 ペルチェ・シェパードは国王及び総統に就いたその日の内に、土地開発の為に切り拓き続けていた森林伐採を一旦停止するという国営方針の宣言と共に、声高らかに隣国へ向けて宣戦布告を行った。

 サンスベロニア帝国と同様に王権でありながら、サンスベロニア帝国とは違って民主制にかなり傾いている置いている国家であるルーナティア国に向けて民を導いて啖呵を切った訳である。

 そして勝利への可能性を少しでも高める為に、異世界から『大成して死んだ者』である勇者を呼び出し、それらの力を借りて、いずれきたる滅びへのカウントダウンを一秒でも長くしようと立ち上がった。

 領土拡大、及び向後こうごの憂いを払う為に呼び出した勇者に対して、それを知ったルーナティア国はすぐに愚者を呼び出して対抗した。

 勝率を高める為に開こうとした戦力差が即座に埋められた事はまだ良かった。ルーナティア国は魔法に通じた者が多く存在し、またその国王である女豹も用心深く慎重でありながら集団の長が持っていなくてはならない『即断即決』が出来る女であったから、シーソーゲームとまでは行かずとも必ず拮抗以上の状態にしたがるだろう事は大総統を名乗る前から予測していた。

 …………いや。例えあの女豹が学生服を着たまま駅前で『立ちん坊』を行うタイプの馬鹿女であったとしても、サンスベロニア帝国と同じように異世界から実力のある者を呼び出す事ぐらいはしていただろう。

 戦争というものは得てして物量差が全てであるとされるが、例外として極端に強い特定の一個人が居れば物量差による均衡の一つや二つぐらい容易に覆しかねない事は、ボルトアクション小銃を扱った『白い死神、銃殺王シムナ』のように様々な実例が残っているからだ。仮に呼び出した勇者でハズレを引いた所で、最悪敗戦にさえならなければ、いつかどこかでアタリを引いて勝ちに導く事も出来よう。例えそれが当代では叶わずとも。

「はあ……………全く。………はあ」

 玉座という栄光と権力の極地のような場に座りながらも、眉間に深々とシワを寄せて止まないペルチェ・シェパードの真横。子供と見まごう程の小さな背丈であるニェーレ・シュテルン・イェーガーは掛けていた眼鏡の位置を中指で整えながら、まるで王の思いを代弁するかのように短いながらも大きく深い溜息を吐き出した。

 サンスベロニア帝国の失態、ペルチェ・シェパードの唯一の誤算は、呼び出された勇者馬鹿共が余りにも好き勝手に動き回って手に負えないという事だった。

 当初こそある程度以上の期待をしていた東洋の鎧を纏った武士は、『サムライは忠義の民』と書かれた文献を癇癪と共に破り捨ててしまいたくなる程ペルチェの言う事を全く聞かず、あろう事か独断で国境を越えてルーナティア領土である村に住む村民を無為に虐殺しやがったというから、その報告をニェーレから聞いた時はさしものペルチェとて動揺を隠せなかった。仮にそこで愚者の一人でも狩れていればまだ許せたものの、あわや即時開戦ともなりかねない国際問題級の無断越境を起こしたあのボンクラは、放っていた間諜によれば傷の一つ付けるどころか抵抗する間もなく数秒で踏み潰されたというのだから、頭痛を通り越して吐き気の一つ二つも生まれるというものだった。

 唐突に現れた魔法少女を名乗る小娘に関しても同様だった。捕らえた魔法少女に対し取り調べと称して軍部の阿呆共が何をしていたかはおおよそ見当が付いていたが、まさか勇者が捕らえていた魔法少女を脱獄させ、あまつさえ暴走を許して殺処分にまで至ったという。そしてやはり愚者を狩る事は出来なかったのだから、ペルチェが腹に抱えたストレスもそろそろ爆発したっておかしくないだろう。

 そして今。余りにも勝手に行動し過ぎる勇者と思しき愚か者に対して注意喚起をしようとペルチェが彼らを謁見の間に集めたものの、何人か来なかった所か残る十一人居る勇者の内のたった三人しか集まらなかったというから、眉間のシワが取れる日は遠い。

 決権の間に呼び出された勇者共はその場で責任の押し付け合いや言い争いを始め、あまつさえ国王の許可もなく国王前での御前試合を敢行したのだからペルチェ・シェパードの眉間はシワの一つや二つ付くぐらいでは済まず、いっその事どこかのシワシワ電気鼠のような顔をしながら何もかもかなぐり捨てて自室のベッドへと三世ダイブしたい衝動に駆られてしまう。

「─────シッ! つぇあっ! ぃいやっ!」

 どこかのボインなファビュラス姉妹ですら躊躇うだろうレベルの豪奢過ぎる金髪縦ロールを振り乱した貴族の女が、極端にグリップの長い長剣を振り回す。刃こぼれや湾曲なんて何一つ気にしていない力任せな剣戟ではあるが、高潔な貴族を名乗っていただけあり、その立ち回りは優麗なもので。

 まるでフィギュアスケートのようにくるくると回りながら振るわれる長剣は一見すると舞踊のようにも見えるが、極端に長いグリップの柄頭ポンメルに手を添えた縦ロールの女貴族が振るう長剣は、遠心力が乗っている事もあり一撃一撃は極めて重く鋭かった。

「───────」

 しかしそれと相対する青年は縦ロールの貴族が舞うように放つ斬撃を、何という事か、ただの包丁一つで全て正確かつ的確に流していた。

 様々な媒体でナイフと混同されがちな包丁の刀身は、ナイフとは異なり使用者の安全性を考慮して刃先に向かうにつれて峰が丸みを帯びていく構造になっている。また包丁というものはすべからく剣戟等を行える程の強度は無く、成人男性ぐらいの腕力があれば素手でも根本からへし折る事が可能であり、その刃に至ってはまな板に数回ぶつかる程度で簡単に刃こぼれしてしまう程である。

「………………何でそんなに怒ってるんだよキャス」

 けれも病的なストレスが見て取れる程にくたびれた顔をした青年は、そんな一般家庭に普及するような包丁の丸みを帯びた刃先と峰とを駆使しながら、一撃一撃を確実にいなし続けていた。同じような剣を扱っているならまだしも、男が振り回しているのはつばなど無いただの調理用包丁。ただの少しでも刃先がブレれば流れた長剣がいとも容易くを握る指を斬り飛ばすだろうから、その器用にも洗練された技術は勇者として呼ばれるだけはあると素直に称賛出来るものだった。

 ステップを踏むように右に左に回転方向を変えながら回転斬りを繰り出している女貴族は、しかし馬鹿のようにただぐるぐると回っている訳ではない。通常のロングソードとは全く異なる極端に長いグリップの柄頭ポンメルにあてがわれた手は、遠心力だけでは無くテコの原理が乗っている事も相まって一撃一撃が非常に重い。それに加え、縦ロールの女貴族は左右だけでなく斜めからも頻繁に斬り付け斬り上げ、また右から左に薙いだ瞬間左から右へと反転する事もあり、ただ独楽のように頭を空っぽにしてぐるぐる回っているのとは訳が違った。

 慣れていない者であれば剣先がぶつかった瞬間、予想よりも遥かに重い衝撃が手首を襲うが、病的な表情をした男はそれら全てをただの調理包丁で全ていなしていた。

「ちぃっ! 小癪な真似を致しますこと! 相変わらず気に食わない男ですわね!」

 縦ロールの女貴族は過去を遡ってもそうは多くないだろうという程に苛立っていたが、それは勝てない事に対して苛立っている訳では無い。腐っても勇者として選ばれるだけはあり、子供のように勝てない勝てないとヒステリックを起こすような人間では無かったからだ。仮に勝てない事に苛立ったとしても、それは未熟な自分に対して苛立つだけであり、今のように相手に対して苛立ちをぶつけるような事は非常に稀である。

 それでも縦ロールの女貴族が機嫌を損ねている理由は、ただの家庭用包丁の切っ先で自らの攻撃を全て流され続ける事に対して苛立っている訳ではなく、病的な表情をしたその男が一切攻め手に回って来ない事に対してであった。

 避け、弾き、いなし、流し、しかしその後こちらに対して何故か反撃をしてこない。それはまるで「隙など突かずとも、いつだって殺せる」と言われているような気がして、縦ロールの女貴族にとっては自らの未熟さを過度に見せ付けられているような気がして苛立ってやまない。

「────────どうしてだよ。何でそんなに怒るんだ? 何故そんなに怒っているのか、俺には分からないよ」

 しかし縦ロールの女貴族のヒステリックな叫びに、病的な表情をした男は悲しげな口調で疑問を返した。久々に声を出したかのような掠れ切ったその声には悲観的な感情が含まれていたが、それを感じ取る程繊細な人間は恐らくこの場には居ないだろう。

「くっ……この───ナメないで下さいましッ!」

 それまでの踊るような戦法から急転。靴底を滑らせながら急接近した縦ロールの女貴族は、しゃがみながらダッキングでもするかのように相手へと急接近しつつ長剣を逆手に持つ。かと思えば膝を伸ばし、病的な表情をした男の喉を狙って柄頭ポンメルを勢い良く伸ばした。

「────────ほら」

「───っ! ……………っく」

 しかし女貴族の膝が伸び切る事はなく、突き出した柄頭ポンメルが男の甲状軟骨喉仏を叩き潰すような事も無かった。下から肉薄するように入り込んできた女貴族の伸ばしたグリップに調理包丁の峰を当てて射線を逸したかと思えば、そのまま体を傾けて入り込みながら逆の手を伸ばすと、男の人差し指と中指は自然と女貴族の左眼の下睫毛したまつげに触れる程の距離まで迫っていた。

 荒事に関しては素人同然であるペルチェからしてみれば何が起きたのかすら理解が追い付かないままに決着となっていた訳であり、双方の立ち回りも見世物としてはペルチェ的には終始退屈だった。

「………………どうして、攻めなかったんですの」

 包丁を握る男の手が引いていくのに合わせ、伸ばし掛けていた膝を折ってへたり込んだ女貴族が呟くが、病的な表情をした男は何も答えずに怪訝な顔を一つしてから背を向け、謁見の間から去っていった。


 謁見の間と廊下とを隔てる両開きの扉がバタンと閉まる音にまるで合わせたかのように、ペルチェが座っている玉座の真正面にある中央広間へと繋がる扉がガチャリと開く音がした。

 謁見の間に集まっていた者がそちらへと目を向ければ、そこには純白のスーツを着た長身の男が異質な程に口角を上げながら笑っており、その傍らには深めの茶色に染められた髪をポニーテールにしている小さな少女が居た。

 白いスーツの男は両開きの大きな扉を両手で押し開いたままのポーズで芝居が掛かったような仕草で悠々と謁見の間へと歩いてくるが、その後ろを追従するポニーテールの少女はとてもオドオドとしており、キョロキョロと周囲を見渡しながら進む様かは本当に入って良いのか躊躇っている感じが出ていた。

 そんな少女には意にも介さず白いスーツを着た男は大きな声で笑い出した。

「Ahhh Hahahahaha!! Thank you, Thank you! You're all to kind!! これはどうもご丁寧に!」

 唐突にそう叫んだ白いスーツの男に、後ろを追っていた茶髪の少女がビクリと肩を跳ねさせる。それまで刷り込み学習インプリンティングでもされたかのように後を追っていた少女は、その場に似つかわしくないハイテンションで喋り始めた白スーツの男からそそくさと離れ、いつでも逃げれるように謁見の間と廊下とを繋ぐ扉の方へと足早に駆けていった。

 そんな茶髪の少女を目だけで追っていた白スーツの男だったが、瞬きを一つすると目線は金髪縦ロールの女貴族へと向き直っていた。

「いやぁ全く素晴らしい催し物だったねぇ! 娯楽としては欠伸が止まらない程の駄作になるだろうがトイレ中か或いは風呂が湧くまでの暇潰しとして見れば最高の催し物だったよ! Oh当然催し物とは言ってもそっちの催しでは無いよ勘違いしないようにね!」

 異様なまでの早口で捲し立てるように喋りながら歩みを進めていた白スーツの男は、へたり込むようにしゃがんだままの女貴族へと白い手袋が着けられたその手を伸ばす。

 しかし縦ロールの女貴族はその手を取らず、ふんと鼻を鳴らすと一人で立ち上がって裾に付いた埃を払った。差し伸べた手を無視された白いスーツの男は、伸ばした腕の肘を曲げ手を上げながら「オォウ……」と呻く。

「おいおいマドモアゼルお嬢さん八つ当たりは良くないなあ。良いかい? 法に抵触しないように誰かを傷付ける手段は古今東西幾つもあるが中でも八つ当たりはその上位に位置するんだ実際私は酷く傷付いたよ正直ヘコむ」

 常日頃からドラッグをキメているタイプのメリケン人のようにオーバーな身振り手振りをしながら捲し立てる白スーツの男に「あら、それは失礼致しましたわね」と返すが、やはりドラッグがキマっているようなテンションで食い気味に「気にする事は無い!」と大きな声を上げた。

「ああマドモアゼルお嬢さん確かに君は無様だった! その負けっぷりと来たら日本ヤーパンと戦ったバルチック艦隊のそれより酷い有様だったがなぁに気にする事は無いんだよフェンタニルをキメ尽くして死んで行くフィラデルフィアのゴミ共と比べればマドモアゼルお嬢さん、君は遥かにマシなはずさ! 何せ彼らは高々十数ドルのヘロインの一袋すら買えない社会不適合者無能共なのさ言ってしまえばおもちゃ箱の底に沈む壊れたおもちゃの破片にも劣るようなまさしくゴミと比べれば君はさながら一輪の花だ! まあ花の一輪あった所で結局大した役には立たないんだがねハハハハハ!」

 聞いてもいない事を早口で語り出すウザいオタクナードよりも遥かにハイテンポな口調で喋り出した白スーツの男は、金髪縦ロールの女貴族が不機嫌に顔をしかめるより先にその肩を抱き寄せると反対の手を広げ、玉座に座るペルチェ・シェパードやニェーレ・シュテルン・イェーガーに向け、まるで喧伝でもするかのように喋り続けた。

「良いかいマドモアゼルお嬢さん確かに君は見苦しい負け方をしてしまった、自らが売った喧嘩なのにそれに負けるというアメリカに良く居る暇さえあれば入れ墨彫って俺カッコ良いとか思っているようなスキンヘッドの筋肉ダルマが如き負け方をしてしまっただがしかし! それは誰にでも出来るような事ではないんだ! どんな事柄であっても『出来ない人』というものが存在する以上誰かに出来ない事が出来るっていうのはつまり才能だという事だよ! 息が出来る前に進める朝起きて夜寝れる! どんな事であってもそれは立派な才能なんだ出来ない人が居る中で出来る君はもっと堂々とそれを誇るべきなんだよ! カスな喧嘩を売っておきながら無様に負けるだなんて醜態そうそう簡単に晒せるものじゃない! ああそうだよマドモアゼルお嬢さん君は『無様なアンダードッグ負け犬であれる』という才能を持っているん─────」

 放っておけば一生喋り続けるのではないかと思う程の流暢なトークを行っていた白スーツの男だったが、縦ロールの女貴族がその喉元に長剣の柄頭ポンメルを突き付けると、男は笑ったままで即座に動きを止めた。

「つまり、何が言いたいんですの?」

 白スーツの男の喉へと長剣の柄頭ポンメルを突き付けたまま、抱き寄せるように肩に回された白手袋をゆっくりと抓んで離しながら、金髪縦ロールの女貴族は白スーツの男へと聞いた。

 褒めているようで何一つ褒めていない所か侮辱だらけな白スーツの言葉だったが、意外な事に縦ロールの女貴族は特に機嫌を損ねてはいなかった。その顔は無表情ではあるが、かといって別段裏で苛立っているような雰囲気も出しておらず、むしろ冷たい程に冷静であった。

 しかしその時こそ冷静であり無感情だが、恐らく回答次第では容赦無く斬り掛かるだろうという事は、その場に居た誰もが簡単に予測出来たろう。


「もっと無様に泣き喚けという話だよマドモアゼル小娘。オーディエンスは人が泣く姿を見てこそ歓喜するというのにね、期待していたのにガッカリだ」


 にも関わらず白スーツの男は吊り上がった口角を更に吊り上げ、それまでとは打って変わったような低い声でそう答えた。

 しかし縦ロールの女貴族が怒り狂うような事は無く、突き付けていた長剣の柄頭ポンメルを喉元から離して鞘へと仕舞う。白スーツの男はそれを見ても変わらず口角を吊り上げたままゆらゆらと頭を動かすだけ。やがて長剣を鞘へと仕舞い終えた女貴族はニコニコと柔和に微笑みながら、まるでやり返すかのように大きく手を振り言った。

「失礼ながらムッシュお兄さん、申し訳無いのだけれどわたくし泣き喚いていられる程の暇人ではありせんの。百や千の失敗如きで泣き喚く暇があったらコーヒーとヴィエノワズリーでも楽しみながら次の成功に向けて研鑽している方が有意義ですものね。ああ当然コーヒーはブラックでお願いしますわよムッシュクソ野郎、余計な甘味はヴィエノワズリーの味を潰してしまいますもの」

 同じような早口で言い返した縦ロールの女貴族に機嫌を良くしたのか、白スーツの男は「Oh! それは済まなかったHahahaha!」と笑い返した。

 金髪縦ロールの女貴族はそれきり何も言わず、謁見の間と廊下とを繋ぐ扉へと優麗に歩いて行く。扉の前に立っていた茶髪の少女と目が合うと、縦ロールの女貴族は無言のまま握手でもするかのように手を伸ばして手首を曲げてその手を振った。言葉は無かったが「そこを退け」という意思が伝わった茶髪の少女が半ば怯えるように横へ動いてその場を譲ると、縦ロールの女貴族は伸ばした手を使ってノブを掴み扉を開ける。その後反対の手で少女の茶色い頭をぽむぽむと優しく叩くと、そのまま扉を潜って出て行った。


 文字通り一部始終を目の当たりにしていたペルチェ・シェパードは変わらず眉間に深いシワを寄せたままで黙っており、ペルチェが座る玉座の横に控えていたニェーレ・シュテルン・イェーガーも同様だったのだが、白いスーツの男は自身を呼び出した一国の王なんて気にも留めていない様子で周りを見渡す。顎先を上げるような動作で周囲を観察した白スーツの男だったが、やがて目線の先にグレーの服を着た少年を見付けると「Oh!」と再び口角を吊り上げて笑い出した。

「いやあアジェン代理人じゃないか君も居たのか居るなら居ると言っておくれよ連れないじゃないか! 確かに君の釣りも全く上手く行っていないようだがだからといって私にまでれなくするのは幾ら何でも酷過ぎるだろうアジェン代理人! それはさておき今の中々上手い言葉遊びが出来たと思うんだがアジェン代理人、君の意見を聞かせておくれよ!」

 前後左右に全身を動かしながら咽び泣くように手で顔を覆ったかと思えば、一転してニコニコと楽しそうに笑う白スーツの男だったが、グレーの服を着た少年は無表情で黙ったままだった。

 再び両手を広げた白スーツの男が縦ロールの女貴族にしたように肩を取りに両手を広げて歩み寄ると、少年が着ていたグレーの服の裾がもぞりと膨らむ。

 直後、少年の服の裾から服と同じ灰色の太い触手が三本飛び出た。かと思えばそれらの触手は唸るように風を切って白いスーツの男へと振られていく。

 一本は右から。一本は左から。残る一本は真上から、白いスーツの男を押し潰そうと勢い良く振るわれたが、しかし白スーツの男は「おっほぉうっ!」と叫びながら地面を蹴り、一回転して背後へと飛び退すさった。

 空を切った三本の触手が謁見の間の床に叩き付けられると、大理石で出来ていたその床はボゴンと低い音を鳴らしながら叩き割られる。

 唐突に攻撃された事で直立の姿勢から背後へとバク転した白スーツの男だったが、その行為に機嫌を損ねるでも疑問を浮かべるでも無く、むしろ狙い通りの展開だとでも言わんばかりに口角を吊り上げると、乱れた髪をさっと撫でて整えた。

「おいおい何をするんだいきなり酷いじゃないか。乱暴するなら私が君を乱暴強姦してからにしたまえよでなければ正当防衛は成り立たない。まあ仮に私が君に乱暴したとしても殺すのは良くないがな殺してしまえば過剰防衛になりかねん、せめて半殺しぐらいに留めておくんだな」

「お前に興味は無い。殺すぞジェヴォーダン」

 蚊の鳴くような小さな声で少年がそう呟くと、白いスーツを着た男は「殺す! ハハハ殺すだって!?」と叫んだかと思えば、顔に手を当てそれまでよりも遥かに大きな声で笑い出した。腹を折って笑っていた白いスーツの男だったが、やがて笑い終えると顔にあてがった手指の隙間から瞳を覗かせながら小さな声で呟き返した。

「────お前じゃ私は殺せない。少なくとも今の状態じゃあね。それは自分自身が最もよく理解しているはずだろう? なあアジェン代理人、せめて魔王Daemonを連れてこなけりゃ私は取れないよ」

「…………………」

 少年の服の裾から飛び出ている三本の触手は様子を伺うかのようにうねうねと動いていたが、白いスーツの男の言葉を聞くとしゅるりと衣擦れを鳴らしながら服の中へと戻っていく。やがて何事も無かったかのように少年の服が元通りになると、少年は何も言わないまま踵を返して謁見の間を後にする。

「ハッハッハッハ。全く気難しい奴だな」

 謁見の間と廊下との境にある扉が閉まると、白いスーツの男は困ったように笑いながらズボンのポケットへと片手を入れ、皆が通ったのと同じように扉へと歩いて向かい、そのまま謁見の間から出て行った。

 御前試合を通り越してひと騒ぎあった謁見の間だったが、中でも最も騒ぎ倒した白いスーツの男がそこを出ると、途端にその場はしんと静まるような静寂に包まれる。残されたペルチェ・シェパードが眉間にシワを寄せたまま目を閉じて溜息を吐くと、隣にいたニェーレ・シュテルン・イェーガーが中指で眼鏡の位置を整えながら「大変申し訳ございません陛下」と謝った。

 しかし謝罪如きでペルチェの機嫌が直る訳も無く、ペルチェは不機嫌を隠しもしない声で「ニェーレ」とその名を呼ぶ。自身の事を見もせずに名を呼ばれたニェーレは「はい」と答えるが、何故名を呼ばれたかはもう既に分かっていた。

「殴りながらヤりたい。今ここでだ。………良いか?」

「仰せのままに」

 何の躊躇いも無かった。





「ッたくクソゴミ共がッ! 揃いもッ! 揃ってッ! 使えねえッ!」

「──へひっ! へぁっ! もっ、申し訳っあっ! はぉっ!」

 事が済んだ謁見の間。衛兵の一人すら居なくなったその場所でペルチェ・シェパードが怒声を上げる度、ニェーレ・シュテルン・イェーガーは体格に似合わぬ大きな嬌声を上げていた。

 仮にそこに衛兵或いは武官や文官が訪れたとしても、サンスベロニア帝国に於ける軍部で事実上の最高指揮権を持つ小さき獣として名を馳せ、主に男性軍人から極めて恐れられているボール・潰しクラッシャーであるニェーレがその嬌声の発生源であるとは「まさか」とすら思わないだろう。よしんば悦びに打ち震える者がニェーレだと分かったとして、それは大総帥ペルチェ・シェパードによって無理矢理に弄ばれているのだと判断するかもしれない。ズレ落ち掛けているニェーレの眼鏡から覗く双眸が天を睨むように裏返り、その小さな胸元の頂点では銀色のニップルピアスが揺れ動き、赤い舌がはみ出た小さな口元から唾液がとめどなく溢れ出るその有様は、何も知らぬ者が見れば悦んでいるようにしか見えないのかもしれない。

 何せサンスベロニア帝国でのニェーレ・シュテルン・イェーガーという小さな女は彼氏彼女が居るような者だとは思われておらず、国内に於いては住人の全てが狂犬だと認識するような存在なのだから、誰かが今のこの光景を目の当たりにしても強制的に犯されているとしか思われないだろう。

 しかしニェーレ・シュテンルン・イェーガーは決して無理矢理に乱暴をされている訳ではなく、むしろ自ら望んでペルチェ・シェパードの性奴せいどになる事を選んでいた。それどころか、むしろその手の勘違いをされる事を極端に嫌っている程であった。

 愛故に軍部の肉達磨共を殴り倒し、愛故に法度ルールまで得て、愛故に想い人の捌け口となり、愛故ついにその隣に立つに至ったニェーレは、元々思想家という名のテロリストだった。


 IQ320に達する異次元レベルの天才であったニェーレは当然のように誰からも理解されず、また誰の考えも当然理解出来なかった。

 それ故ニェーレはサンスベロニア帝国の城下には住まず、国から少しだけ離れた所にある森の中に小さな小屋を建て、そこにたった一人で住んでいた。食べる物は狩りで得て、獲った獲物は皮から骨、果ては目玉や脳髄まで余す事無く使い切る。衣服も森に住み始めた当初に着ていた一着しか持っていなかった為、川で洗ってから乾くまでは全裸で過ごしてしまうような程に度し難い天才だった。

 そんなニェーレがテロ行為を考え始めたのは森に住んでから数年経った日の事。人の手が入っていない森で自給自足の暮らしを行うという事は決して容易な事では無く相当な基礎体力が必要とされる事を知っていたニェーレは、毎日森の中をマラソンするかのように走る事を日課としていた。激しい起伏のある森の中を毎回決まったルートで駆け抜けていたニェーレは、時にはわざと道に迷う為にいつもと違うルートを選んで走る事さえあった。

 その日はちょうどその時の事。普段とは違う道を選んで意図的に道に迷っていたニェーレは、大きく伸びる木々の隙間から見える太陽の位置を参考にしながら、自らの拠点である小さな小屋を目指して走っている時の事。

 いつものようにランニングを行っていたニェーレだったが、森の中走っていたにも関わらず大きく開けた場所へと躍り出た。小屋へと向かっていたニェーレはまさか森から出てしまったのかと思ったが、その考えは開けた場所の地面へと目を向けた瞬間に否定された。

 そこには数多の切り株が乱立し、何本もの細い木々が横に倒れていたのだ。それらが何らかの災害では無く人の手によって切り倒された樹木の残骸だという事は、木々の断面が綺麗に円を描いている事からすぐに分かった。

 自らが住む森。さながら故郷のように愛していた森を無残にも開拓したのはどう考えてもサンスベロニア帝国に住む者であり、それらに対してニェーレが強い殺意を抱くのはそれからすぐの事だった。

 しかしニェーレは自然保護の意を持っている訳ではない。山々がハゲ散らかすその時まで延々と木々を切り倒し続けたかと思えば、ある日突然植林を行い不自然な自然を生み出し自らを慰めたがる人間オナニストに対してニェーレが怒り狂ったのは、大自然がどうのこうのでは無く単に自らの住んでいる土地を荒らされているからに他ならない。御大層な理由の一つすら無い開拓によりニェーレがこうむったのは食事の為の野生動物の減少であり、繰り返される森林伐採により夜になる度に鳴いていた虫達の鳴き声が減っていくのを感じたニェーレは、その日の内に行動を決意するに至った。

 ………勘違いされやすいが、高いIQイコール何でも出来る天才という訳では無い。IQの高さというものは理解力や思考の展開速度の数値化である。知能指数の事をIQと呼ぶが、『知能とは何か』に関しては結局今も答えが出ていない。

 例えばイルカは高い知能指数を持つが因数分解が出来る訳ではない。それは知能指数に関係無く当たり前の話であり、人間が作り出した理論や定理を人間では無い生物に解かせようとした所で「解ける訳ねーだろ馬鹿かお前」という話なのである。実際、人間が宇宙人と接触したとしても宇宙人の理論や定理を人間が簡単に解くような事は無いだろう。

 何せ古代文明に関する事柄すら今尚解けていないものが多いのだ。人間が作った文明に関して人間が解き明かすのに苦労しているのだから、人間は人間が思う以上に愚鈍で馬鹿な生物なのである。

 そんな知的生命体を名乗るナルシスト種族である人間の中にも、時折稀有な個体が生まれる事がある。人間が作った理論や定理だけでなく、他の種が作り上げている文明や習性を、周りとの議論無しでいとも容易く解き明かす。基本的な頭の回転速度が早く、少ない情報から多数のパターンや法則性の仮定を見出し正解へと進んでいく。その速度を数値化したものがIQである。

 しかしIQが高いという事は必ずしも良いとは限らず、むしろ高過ぎるIQを持つ者は他者とは全く異なる思考回路を持つという事であり軋轢あつれきを生みやすい。だからこそニェーレ・シュテルン・イェーガーは俗世との関わりを断ち、小柄な女の身でありながらたった一人で森に住んで自給自足の生活を行っていた。

 故に、ニェーレの理論は恐らく過半数の人間には理解出来ないだろうし、ニェーレが爆発物を使った無差別テロリストと呼ばれ同調されないのは当たり前の事だった。

 木箱の蓋を開けようとすると、蓋に取り付けられた数本のマッチが擦れて発火するという仕組みの爆弾を使ってテロ行為を繰り返していたニェーレは、ある日予期せぬ同調者と出会った。

 ……………いや、厳密には会っておらず、ただその男の演説を傍から見ていただけなのだが、ニェーレにとっては孤独の中で出会った運命の出逢いに等しいものだった。

 男は王位を継承する際、開拓以外での国土拡張を行う事を宣言した。度重なる手洗い洗濯の末、いつの間にかボロ切れ同然となっていた衣服を纏ったニェーレは男の演説を聞いた瞬間、設置しようとしていた木箱型の爆弾を手から取り落とす程の衝撃と感銘を受けた。いつまで経っても根本的な解決に至らない自然破壊種族オナニストへのテロ行為に疲れ始めていたニェーレは、まさしくその瞬間その男に恋をした。

 想いの芽生えは一瞬だったが、ニェーレが行動に移るのはそれよりも更に早かった。門衛を張り倒して男の元まで出向いたニェーレは「あー……じゃあ取り敢えず航空隊にでも入ってきてくれないか。数年で良いからそこで下積みしてくれ」と若き日のペルチェに言われ、二つ返事でそれに同意した。

 その日の内に飛空艇を駆る航空隊へと入隊したニェーレを待っていたものは華々しい空の戦いではなく、誰かと穴兄弟になる事に何の躊躇いすら持たない下卑た男共の下心だった。陸海空を問わず高い身体能力を求められる軍部という組織は圧倒的に女性が少なく、上官が気に入った新入りにお気に入りの風俗店を教えるぐらいには男性が多い職場であり、そんな場所に小さな体躯の女であるニェーレが入り込めば、階級を問わず様々な男達が様々な手段を用いて和姦または強姦を行おうとするのは火を見るよりも明らかであった。

 世界規模の資産家かマフィアのボス、或いは戦国時代の当主はどんな時であっても刺客による暗殺に脅かされ心休まる瞬間は殆ど無かったというが、飛空艇部隊へと入隊したニェーレ・シュテルン・イェーガーも同じようなものであり、入隊してから四年の間、いつ如何なる瞬間であってもレ◯プという単語から離れられる日は無かった。

 しかしニェーレは一度足りともそういった行為をされた事は無く、最終的に自身の処女膜は初恋の相手であるペルチェ・シェパードへと捧げられた。

 飛空艇を駆る航空隊でのニェーレはボール・潰しクラッシャーの異名を持っていたが、それはニェーレを犯そうとした男が須らく陰嚢を噛み千切られ、露出した睾丸を奥歯で噛み潰された事に由来する。場合によっては陰茎を食い千切られた者も居た程だった。

 ニェーレは銃を突き付けられてもナイフを首筋にあてがわれても一切心拍数が上昇しない。常に反撃の隙を伺い、必ず『諦めて言いなりになった振り』をしながら男に対して奉仕するよう見せ掛ける。そうして自らのモノを咥えさせようとした男の局所を食い千切る事で、自らの身を守りながら出世街道を駆け上がっていった。

 上手くいかなかった事は無かったが、それでも屈辱を受けた事は少なくない。跪かせたニェーレに対してすぐにしゃぶらせようとする馬鹿は美味しい・・・・カモだったが、ある程度距離を取りながら尿を引っ掛けてくる者や、その場でニェーレに自慰を強要する者もいた。しかしニェーレは何も躊躇わず喜びに満ちた笑顔で尿を浴び、享楽に歪んだ顔で股ぐらを擦り続けた。そして隙を見せた瞬間、逸物へと牙を伸ばし千切り取る。

 股間を噛み取られた男達はどんな屈強な者であつても悶絶するが、その激痛に一瞬でも瞳孔を締めた瞬間、股下を通って背後へと回り込んだニェーレに背中から飛び付かれ、抱き着くように首を絞められる。

 背中から腕を回して首を絞めるチョークスリーパーと呼ばれる拘束はアニメや漫画だけでなくプロレスでもよく使われる技だろうが、実際には屈強な男が屈強な男へとそれを行う事は極めて難しい。力が強いとか技術がどうのとかは何も関係無く、お互いに鍛えているという事が原因…………鍛えて筋肉が付いた太い腕は、顎下を通り難いという話なのである。

 アメリカに多い入れ墨だらけのスキンヘッドのような無意味に鍛えられた太い腕が背後から回ってきた際、人は無意識に顎を下に動かして何が首元に回されたのかを『見よう』とする。その瞬間太い二の腕は顎先に触れ、触れた瞬間脊髄反射のように脳が首絞めを警戒して防衛行動を取ろうとするのだ。そうなると回された腕と首の間に手の指が入り込みやすく、少しでも指が入れば抜け出せる可能性はかなり高まる。

 しかしニェーレのような華奢な体格の者や、或いは全く鍛えていない女性のような細い腕であれば『見よう』と下を向いた際に顎先に二の腕が触れにくく、何が行われるのかを脳が予測する前に腕が回されてしまいやすい。そして一度腕が回してしまえば細い腕は食い込むように首筋へとフィットしてしまう。

 そこまで来たら後は反対の肘で手首を挟み込みながら両膝を曲げてぶら下がるだけ。背後から首を締められた人間は条件反射でうずくまるように背中を丸めやすく、まるで父親に後ろから抱き着く子供のようにぶら下がって膝を曲げれば、後は勝手に酸欠になってくれる。

 時にはそのまま首を折ってしまう事もあったが、頭から男性の尿を浴びたまま殺した男の服を掴んで上官の元へ歩いてきた半裸のニェーレが、血に塗れた口を開いて「犯されそうになったので殺しました」と言葉を発せば上官は黙る事しか出来ず、軍事法廷に出席するニェーレの正当防衛を疑う者なんて居るはずもなかった。

 入隊してから脱隊するまでの四年の間にそんな事を百件近く繰り返したニェーレは女性軍人WAC達から畏敬の眼差しで見られるようになり、それと共にボール・潰しクラッシャーの呼び名で数多の男性軍人から恐怖されるようになるのだった。

「へぇぁ──────ぁはあ」

 だからこそ、両腕を掴まれたニェーレが先端から吐き出される繁殖の証に背筋を逸らして悦びに打ち震えていたとしても、誰もが納得出来ず「無理矢理されているんだ」と思ってしまうのは当然なのかもしれない。

 少女のような小柄な体格のニェーレの二つ目の口が、その先にある小部屋に濁流のように種を注がれる事を心底から望んでいるとは到底思いも寄らないのかもしれない。

 だが、そもそもニェーレは遠慮をしない。幾ら強姦魔とはいえ未遂の時点で股間を食い千切ったり金玉を噛み潰したり、あまつさえ絞殺したり頚椎をへし折ったりしている時点で遠慮加減していないのは分かるのだが、それは自身よりも偉い立場の存在が相手であっても変わらない。

 事実として偉いとか偉くないとかそういった次元を通り越した国王及び第総統閣下が、ちょっとしたお茶目のような悪戯心でニェーレの眼鏡に人差し指をむぎゅっと押し当てた時なんかは、眼鏡に指紋が付いた事を理解したニェーレの躊躇いのない横フックによってペルチェは脳震盪で失神させられているし、意識を取り戻したペルチェがまず耳にしたのは「次は指を折りますので悪しからず」というニェーレの声だったという事例があったぐらいには、ニェーレ・シュテルン・イェーガーという女は遠慮が無い。

 そんな遠慮の『え』の字も無いような女が、勅命如きで慰安行為に付き従う訳がないのである。

 そもそもの話、ニェーレとの性的行為をペルチェは何度も断っている。かまけるなら政務であり、性務にかまけてる暇は無いというのがペルチェ・シェパードの返事だったのだが、ルーナティアという敵国への有効打になるとして呼び出した勇者がしでかすありとあらゆる行いで溜まったストレスを「効率の良いまつりごと、及び正しい決断の為に」というニェーレの言い分によって、最近特に肌を重ねる回数が増えて来ていた。

 当初は否定的だったペルチェも、一度でも一線を越えてしまえば二回目三回目の行為に躊躇いは無くなり、気付けば自らの意思でそれを求めるようになっていく。

「………………………ぁ、は」

 爪先立ちをするように震えながらじょろじょろと失禁し、やがてニェーレは膝から崩れ落ちた。

 荒い呼吸をしながらうつ伏せに倒れたニェーレを起こしたペルチェは、直前その背中に自身のものをぶっ掛けているにも関わらず、自らの胸をニェーレ背中に押し付けるように抱き締めた。

「済まないニェーレ…………こんな俺を許してくれるか」

 抱き寄せられたニェーレの耳元でペルチェが呟く。

「……………らい、らいょぶれふ……」

「……………………………………ありがとう」

 両腕を回したペルチェがぎゅっと力強く抱き締めながら呟くと、その気遣いにニェーレは再びビクンと痙攣した。抱き寄せた女が抱き寄せられただけでイッている事を察したペルチェが「本当に済まない、いつもありがとう」と答えると、ニェーレは喜びと悦びに満ちた心のまま、瞳孔を裏返して意識を失った。




 静寂に包まれる謁見の間。その玉座の上で、気をやったまま小さく寝息を立てる小柄なニェーレを膝に抱いたペルチェ・シェパードは、少女のような側近の頭を撫でながら後悔していた。

 ニェーレを抱いた事を後悔している訳では無い。彼女が自分の事を本心から想っている事は、王族という要素以外は只人ただひとである自分でも十分に理解出来ぐらいには伝わってきていた。

 確かに当初はその行為を拒否していたが、最終的に抱くと決めたのは自分であり、抱いているのも自分なのだから、それを後悔するだなんて真似は失礼極まりない所かもはや侮辱にすら値するだろう。

 ペルチェが後悔しているのはただ一つ。勇者を呼び出してしまった事だった。

 勇者という肩書に過度な期待を抱いていた事。

 聖人君子ばかりではないという事は分かっていたが、寝物語に出てくるような畏敬の念を抱ける存在が夢物語の住人であるとまでは予想出来なかった。十二人も呼び出したのだから、せめて一人ぐらいは戦力になる者が現れても良かったろうに、国を守らせるために呼び出した者の、そのことごとくが国を荒らすとは思いも寄らなかった。こんな連中、呼ばなければ良かった。

「……………………ふぅ」

 小さく溜息を吐く。

 分かっている。分かっているとも。もうどうしようもない。どれだけ浅はかな考えであったとして、どれだけ被害を被るとして、どれだけ無益な存在だったとして、呼んでしまった以上はどうしようもない。飢虎の勢いに乗ったまま、御するしかないのだ。

 振り落とされれば食い殺される。だからといって勇者として世界に認められたような存在を逆に狩る事も難しい。故に御するしかない。やるしかない。このまま、行ける所まで行くしかない。

「……………あの女豹なら、もっと上手くやるんだろうな」

 膝に女を抱きながらペルチェが思い浮かべるのは、全く別の女の姿。昔から要領が良かったあの女と最後に会ったのはいつだったか。相続の儀の時は呼ばなかったが、もしこの玉座に座っているのが彼女であったなら、きっともっと上手くやっているだろう。手に負えない勇者共よりも遥かに辛い境遇にあった愚者を呼び出し、しかもそれを抑え込んでいるのだから弱音の一つも出ようというものだった。

 だからといって諦めるつもりなんて無い。

 王権制度の国王ではあるが、ペルチェ・シェパードは国王である事に誇りを持ち、その権威の上に胡座をかくようなタイプの王ではない。背負っている国民のだけでなく、自分の事を慕い続け処女すら捧げた少女の為にも。敵対国の女王を見習い、それらを御してみせるつもりでいた。



 ───────



 一方その頃、である。

「じゃかぁしボケこのクソババア誰が垂れ乳やねんナメとんちゃうぞ老いぼれぇっ!」

「ッだとクソガキ女王に楯突いてんじゃないわよさっさと跪けこの駄肉がッ!」

 ルーナティア国の女王は、自らが呼び出した愚者と喧嘩になり、それはついに殴り合いにまで発展していた。互いが互いに胸倉を掴んで反対の手でボコスコと頬を殴り合うその様は、間違っても国を背負う女王のそれとは程遠く、また御しているとは言い難い。

なぁにがサキュバスじゃはええ話ヤリ◯ンやろがアバズレぇっ!」

「サキュバス舐めてんじゃねぇぞ舐めんならマ◯コ舐めろってんだク◯ニしろオラァッ!」

「上等じゃク◯ト◯ス食い千切ったるけえそこで部様に脱ぎ散らかせこんダボがぁっ!」

「おうよ派手に脱いでやるわしっかりイカせろよ小娘ほらさっさと吸い付けやァッ!」

 広く薄暗い謁見の間。ペルチェ・シェパードが尊敬し憧れを抱いたその女王は、呼び出した愚者を相手にボコボコと殴り合いながら聞くに耐えない酷い罵詈雑言を吐いていたかと思えば、まだ周囲に兵士やメイドが居るにも関わらずズルリとパンツを脱ぎ始め、腰をクッと前に突き出す。顔に手を当てながら天を仰いで現実逃避したくなるようなその姿は誰がどう見ても御しているとは程遠い有様だったが、ペルチェ・シェパードがそれを知る事は恐らく永劫無いだろうし………いや、むしろ見せない方が良いのかもしれない。




 ───────




 サンスベロニア帝国に呼び出されていた勇者達の一人であったクレッド・ハロンは国王からの招集に応じようと朝早くに部屋を出たものの、サンスベロニア城内で迷子になり予定の時刻に間に合わなかった。ウィリアム・バートンはそもそも招集に応じる気が無く、そろそろ飯でも食いに行こうかとブラブラ歩き回っていた所でガチ泣き寸前の表情で廊下を彷徨う迷子と出会でくわし、大きな溜息を吐きながら保護者として同伴する事にした。

 その道すがら、誰がどう見ても数分前までイビキをかいていただろう事が分かる酷い顔をしたアンリエッタと出会った。基本的に乙女の寝起きは酷い面をしているものではあるが、その時のアンリエッタはそれの比にならない程の面をしており、ウィリアム・バートンは「せめてヨダレぐらい拭きなさいよ……」と眉間にシワを寄せた。目やにが固まって張り付いたのか半目のままで「うん……うん……」と生返事をするアンリエッタはフラフラとした足取りのまま廊下の壁に肩をぶつけながら歩き、廊下の脇に飾られていたキラキラと輝く壺に幅広のスカートアーマーを引っ掛け倒しながら進むその姿は間違ってもヴァルハラに居るようなガールのそれとは思えず、ウィリアムはつい「どちらかといえばTOKYOに現れてビルを薙ぎ倒す怪獣ガッズィーラみたいね」と言葉を漏らしてしまったのだが、隣にいるクレッドも同様の事を思っていたようで「あははは……」と乾いた笑いを出すも否定は一つもしなかった。

「……と、とりあえず、まずは手洗い場に行こうか……」

 そう言ったクレッドが「ほらアンリエッタさん、こっちだよこっち。はい、あんよーがじょうずーあんよーがじょうずー」と手を引き進む。その背中を見たウィリアム・バートンは廊下の片隅に隠れていた小太りのチビへとへ「ほら、行くわよ」と声を掛けた。

 それを聞いたスティンク・マゴットは無言のまま姿を現し、特に何を言うでもなく何食わぬ顔をしながら三人に追従し始める。

 戦闘時はキリリとした表情で果敢に立ち回るアンリエッタが非戦闘時はポンコツ以下になる事を知っていたウィリアムは、同時にそんなポンコツ女をスティンク・マゴットが付け狙っている事も理解していた。そしてアンリエッタの事を密かに追い回すスティンクが、その傍らに杖のようなものを常に握っている事も把握していた。

 マグカップよりは大きいがペットボトルよりは小さいその木製の杖は足代わりにするには全く向かず、どこから見てもまじないかそれに準ずるものに使う儀式用のものだという事はすぐに分かったが、スティンク・マゴットは寝る時や風呂の時ですら頑なにそれを手放そうとしなかった。

 ウィリアムは決してその筋の知識がある訳ではなかったが、剣と魔法が存在する異世界で、見るからに根暗な男が呪術的な杖を持ちながら執拗に女性を付け狙うという行動から、すぐにスティンクの意図に察しが付いた。ジャパニーズ・エロアニメによくある催眠術かそれに近い事をしようとしているのだろうと踏んだウィリアムは、しかしそれが分かった上で敢えて咎めるような事も批難するような事もしなかった。



「あっ」

「む?」

「あら」

 廊下を歩く四人組の内、目の前から歩いてくる女性に気付いた三人が声を上げる。残る一人は向こうから歩いてくる女性には気付いてはいたが特に何も言わなかった。

「あれキャスかな、あのド派手な髪の毛はキャサリンさんぐらいしか居ないもんな。おーいキャスぅー」

 一人で自問し一人で自答したクレッド・ハロンは、爽やかな笑顔になったかと思えば向こうからやってくる金髪縦ロールの女性へ向け片手を振り上げながら歩みの速度を上げていく。

 しかし歩みを早めたのはクレッドだけで、隣を歩いていたウィリアム・バートンとアンリエッタ・ヴァルハラガールは変わらずのんびりと歩いたまま。そしてアンリエッタが歩行速度を変えないのであれば、当然スティンク・マゴットも歩みを早める訳が無い。

「相変わらずナンパな男ねぇ。息をするように女に近付くなんて、そうそう出来る事かしら。アタシには無理ね」

「だな。いっその事鼻の穴からビー玉でも飛ばしてくれれば笑いの一つも生まれるだろうが、それが無いなら笑いの種にもならない男という事になるな。今後から種無しと呼んでやろう」

「………………」

 表情を変えないまま酷い評価を下す二人の言葉を横で聞いていた低身長で小太りの男は何も言わず、豚のようにツンと上がった鼻を「ふん」と鳴らしたきり黙ったままだった。

 そんなチビでデブな豚男へチラリと目をやったウィリアム・バートンは「けど、」と言葉を紡ぐ。

「あんたみたいに卑屈にひがんでるのも考えものよ。スティンク、あんたもクレッドの身の振りぐらい学んだらどうかしら。そうすれば少しはまともに青春出来るんじゃないかしら」

「うるせえよ脱肛野郎。余計なお世話だクソが」

「口だけ達者なポークビッツね。薔薇ア◯ルローズが作れるぐらいモノが大きければ、狙いの娘だって振り向いてくれるかもしれないのに」

「だとしてお前となんて死んでも寝ねえ。その辺のハッテンでウホウホ言いながらサカってろよ」

「ご生憎さま、あたし童貞は趣味じゃないの。だからスティンクとは一生ヤれないと思うわ」

 遠回しに「生涯童貞野郎」と言われたスティンク・マゴットだったが、舌を吸うようにチッと舌打ちしたきり、そのまま黙り込んだ。そんなスティンク・マゴットを見やったウィリアム・バートンも、スティンクと似たような表情をしやがら「ふん」と鼻を鳴らし、それ以上言い続けるような事はしなかった。

 その間に居ながらも無表情のままだったアンリエッタ・ヴァルハラガールは、しかし敢えて黙っていた訳ではなく単に二人が言い合っている言葉の意味が殆ど理解出来ずに会話に入れなかっただけだった。

 そうこうしている内に小走りだったクレッド・ハロンが、優雅に金髪縦ロールを揺らすキャサリンの元へ近付き歩みを止めた。ほんの少しだけ息を乱したクレッドは優雅に微笑むレイチェルに向けて笑顔を返しながら「キャサリンさんも王様に呼ばれてたの?」と聞いた。

「俺、城の中で迷子になっちゃってさ。今から王様の所に向かおうと思ってるんだけど、さすがにもう間に合わないかな」

「……………」

 キャサリンは何も言わない。優雅な微笑みを絶やす事無く、クレッドと向き合って佇んでいる。その姿に違和感を覚えたクレッドが「キャス?」と口を開いた、その次の瞬間だった。


「──────ッだァこのクソがァッ!」


 金髪縦ロールを揺らした貴族の令嬢がそれまでとは打って変わって鬼のような形相をしながら叫ぶ。かと思えば、左上を向くかのように体を捻らせ、右手の拳をクレッドの脇腹へとぶち込んだ。

 唐突なボディーブローに「ウグゥっ」と呻いて蹲るクレッドには見向きもしないまま、キャサリンは怒り狂ったような形相をしたまま廊下の傍らにあった扉を開けて中へと入っていく。誰一人として気付かなかったが、どうやらそこはレイチェルに与えられた寝室だったようだった。

「…………」

「…………」

「…………」

 アンリエッタも、ウィリアムも、スティンクも、みな揃って何も言えなかった。クレッドに関しては横倒れになりながら「ウゲェ」と呻く事で必死であり、そもそも何かを語る余裕が無かった。

 閉じられた扉の向こうから聞こえてくるくぐもった怒声からレイチェルの身に何かがあった事は察せたが、だからといって間違っても扉を開けてそれを聞きにいく事なんて出来はしなかった。


「っざけやがってあのカス─────クソがァッ────んじゃねえぞ─────あって───ああああああああもおおおおおおおおおおッッ!」


 途切れ途切れに聞こえる声から分かったのは『王様の所で何かあった』『げきおこ』『キレ散らかしてる途中で手足か何かぶつけた』『それで更にムカ着火ファイア』という事ぐらいだった。

 怒声の中に混ざるドスンガチャンと何かが割れる音や叩き付けられる音が聞こえてくる状態に呆然としていた三人だったが、足元で苦しげに蹲っていたクレッドが「鳩尾痺れる……なんだこれ……」と呻きながら起き上がる事で我に帰った。と同時に国王の元に行く気が何となく失せた三人は何をと言わずに目線を合わせると、アイサインだけで今日はもう解散する事を理解し合った。

「なんで殴られたんだ………また俺なんかやっちゃったのかな……」

「鼻からビー玉出さなかったからよ。だからキャスの機嫌損ねたんでしょ。多分。知らないけど」

「ビー玉……? え……何の話……?」

「そうだな。クレッド殿が全面的に悪い。次はジャックポットばりに両鼻からビー玉を飛ばせるよう、きちんと練習しておくんだぞ」

「どういう事……? 意味不明なんだけど……」

「色のバリエーションには気を遣えよ。カラフルなビー玉じゃなきゃ減点対象だ」

「スティンクまで……? ………うう、マジで痛いし意味不明だし…………ああもう何なんだ……」

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