2-3話【親の心子知らず、この心親知らず】
寂れた道路に面したその診療所は、横開きの引き戸をガラガラと鳴らしながら開けると、すぐ真横に下手な本棚よりも大きい靴箱がある。そしてその中には一セットずつ沢山のスリッパが入っていて、整然と並べ揃えられたその光景はどことなく小学校の下駄箱を彷彿とさせた。
ハル診療所に備え付けられているその靴箱には扉のようなものは無く開け閉めの概念が無いタイプだが、そこで履物を履き替えると、車椅子や杖を持った人、或いは上手く足を上げる事が出来なくなっている人の為にと張られた小さなスロープを超えて、その先にある待合室へと進む事が許される。
玄関口を抜けた先にある待合室は広間のような空間になっていて、そこには沢山の長椅子と、その対面に受付のような区画と一般人の開け閉めが禁止された扉がある。扉の向こうには廊下があって、廊下には診察室や施術室、オペ室や薬剤室だの色々な目的地に繋がる扉があるが、その扉を全て無視して進んでいくと中庭に繋がる丸ノブタイプのドアへと突き当たる。
が、今回はそこまでは行かない。待合室の中にある長椅子に座っている僕は、座ったままで待合室の右隅辺りへと顔を向ける。そこにはそういうタイプのオブジェなのかと見まごうようなクソデカいトカゲが、じっと動かず鎮座していた。
「どうやって入ったんだ………」
よっこいしょと声を上げてにょろ吉くんの所へと近付くと、足元で丸くなっていたラムネが目を閉じたままでふよふよと浮かび上がって僕の体を追い掛けてくる。
数歩ほど歩いてにょろ吉くんに近付くと、にょろ吉くんは僕の方へ頭を向けてくるると喉を鳴らした。
生き物についての知識はそこそこあると思っていた方だったが、にょろ吉くんのような『鳴く爬虫類』という生き物に関しては生前も死後も聞いた事すら無かったので、見た目に反したくるくるという可愛い鳴き声を鳴らしながら僕の頭の匂いを嗅ぐトカゲが、一体どういう意図で鳴いているのかは分からなかった。
純真無垢にも思えるにょろ吉くんのその瞳にどういう思いが宿っているのか、どういう意志が込められているのか、瞳に反射して見える僕の姿が僕の姿通りの存在として脳で処理されているのかは、ラムネと違って人語を喋れない故に分からないまま。
……………純真無垢、という言葉に多くの人は過度な期待を抱きがちだ。純真無垢な幼子が、純真無垢故にカエルの尻穴に爆竹をねじ込み火を点ける事すらあるというのだから、もしかすればにょろ吉の純真無垢にな瞳に映る僕は、或いは骨付き肉の見た目をしているのかもしれない。
「…………………………」
何となく嫌な想像から目を逸らした僕は、きっと親愛の意図があるんだと勝手に思いながら顎下へと手を伸ばす。まるで死体でも触っているのかと思ってしまうぐらい冷たいその鱗は、上から下に撫でると一切の抵抗も無くつるつると指が滑っていくが、反面で逆撫でするように下がった手を上げようとすると即座に鱗は僕の指に引っ掛かって動かなくなる。しかしにょろ吉くんはそれに対して怒るような事もせず、ただコルルと喉を鳴らして僕の頭の匂いを嗅いでいた。
「ガキ…………その、さっきは済まなかった」
待合室の長椅子。それと対面するような位置にある受付のカウンターへ、腰を引っ掛けるようにしてもたれ掛かったイケメンは、腕を組んで俯きながらそう言った。僕の足元でにょろ吉くんの前足に鼻を近付けながら神妙な顔をしていたラムネが頭を上げてそっちを見るが、僕は変わらずにょろ吉くんの顎下を撫でながらイケメンの言葉を無視した。
「悪意があった訳じゃない。この世の中が悪意だらけだったから、俺はそれに呑まれまいと躍起になってしまってたんだ」
「………………」
「俺は………俺には、………先生しか居ないんだ。先生の元にしか居たくないんだ。だからその先生を守ろうとして、周りの事を何も考えていなかった。悪意が無い奴に対して、どうせこいつも悪意があるだろうと、勝手に決め付けてしまっていた」
「………………」
「少し、周りが見えなくなっていた。本当に済まなかった。悪気は無かったんだ」
神妙な声色でそう言う男だったが、僕は黙ったままでにょろ吉くんを撫で続けていた。
…………悪意が無ければ何をしても良い訳じゃない。セクシャルハラスメントは相手が「これはセクハラだ」と思った瞬間に成立するし、名誉毀損なんかは日本で最も逃げ辛いとして名を馳せているぐらいだ。
未成年の子供が某かやらかした時だってそうだ。親は口を揃えて「子供のやった事だから、悪気は無かっただろうから」と必死に言い訳をするが、悪意が無ければ───悪気が無ければ何をしても許されるという訳では無いのだ。少なくとも、
こっちがどれだけ「悪気は無かった」とか「ただのコミュニケーションのつもりだった」とか思っていても、相手がどう受け取るかにこっちの思いなんて何一つ関係無い。いっそこの世に言葉なんてものが生まれなければ良かったのにと思ってしまう程、ヒト科の生物が構築する
殺意が無くたって、結果として人を殺せば過失致死なのだ。
相手がどう思っていたかなんて関係無くて、自分がどう思っていたのかも関係無い。それが罪だとされたら有罪であり、それが罪ではないとされたら無罪放免。どれだけ反省していようが無期懲役を言い渡されたらブタ小屋の中であり、腹の中で次誰をどう殺すかを計画していたとしても刑期を終えたら解き放たれる。
そう考えると、罪とは一体何なのだろうかと思ってしまう。
『罪と罰』では無いけれど、そこに心が関係しないのであれば、誰が何をしても変わらないって事になってしまわないだろうか。
罪と罰とは何なのだろうか。人が人を裁くというのは何なのだろうか。
「………………………………」
ライブ中に観客の前で鼻からライムグリーンのビー玉を飛ばしたとしても
言った所で、言われた所で、聞いた所で、聞かせた所で、大した意味なんて無いのであれば、言葉は一体何の為にあるのだろうか。
「げぼく、かまれてる。いたくないの? あたまかまれて、げぼくいたくないのか?」
「……ん? ……ああ大丈夫。これは甘えてるだけだから。ラムネも時々やるだろ? 僕の指がみがみって噛んだりとかさ。あれと
思考が迷走していた僕の頭へいつの間にか噛み付いてきたにょろ吉くんの口元を撫でながら、僕は優しい声色でそう言った。
「本気か? 本気で言ってるのかよガキ。そのトカゲ……トカゲ? トカゲ……ドラゴン? …………その爬虫類、だいぶマジだぞ。目が」
謝罪と反省の言葉に片耳すら貸さなかった僕に、しかしイケメンは鼻からシアンカラーのビー玉を吹き出して怒り狂うような事もせず、ただ僕の身を案じた口調で言葉を投げ掛ける。
このイケメンは無視されてもそれを気にしなかった。嫌われてるからみんな嫌いと泣いて叫ぶような子供と違い、嫌われていても嫌わない。無視されていても無視しない、本当の大人の態度を見せてくるイケメンに、僕だってガキじゃないんだぞとでも言うかのように言葉を返した。
「馬鹿かお前。これは甘えてるんですね〜スキンシップなんですね〜おーしょしょしょしょしょしょ可愛いですね〜よしよししてあげますね〜よしよしよっ────────ほおォぉああああーっ!?」
「うわ馬鹿───ほら見ろやっぱり!」
「あーげぼくー!? げぼくたべられちゃう! だめ! げぼくたべちゃだめなのー!」
「食われてんじゃん! やっぱ食われてんじゃんっ! お前それ絶対食われてんじゃんッ! 甘えられてねーじゃん! だと思ったよ今そういう雰囲気じゃなかったもんよぉ!」
唐突に悲鳴を上げる僕だったが、それもそのはず。最初は頭の先を挟むようにしていたにょろ吉くんの顎は、気付けば僕の鎖骨の下辺りまで進んでいた。当然ながら僕の頭はにょろ吉くんの口の中に入っている訳であり、僕は「むわーっ! 生臭ェーっ! 超ぬるぬるするゥー!」と悲鳴を上げる。きっと外に居る連中にはくぐもった声に聞こえるのかもしれないが、結構広いにょろ吉くんの口内に居る僕の耳には反響した僕の絶叫が響きまくって頭がぐわんぐわんする。
………なんかそういう拷問無かったっけ、頭に金属製のフルフェイスヘルメットみたいなのを被せてさ、それの上から金属バットみたいなので何度も叩き続けるってやつ。あれ確か繰り返される反響と轟音で傷一つ無いのに三半規管がぶっ壊れて、頭のそれを外す頃にはゲロまみれになってるようなヤバいやつだった気がする。
「馬鹿言ってんじゃありませんよークソイケメンがよぉー! 食べられてませんねーこれねー! コミュニケーションの一環なんですねーあくまでもねー! でもちょっとねー! ────ぺっ! 唾液がねー! めっちゃぬるぬるしますねーこれねー!」
トカゲや蛇という生き物は基本的に餌を丸呑みにする。一部エメラルドツリースネークのような殺意しか無い種も居るには居るが、犬歯や臼歯を持つ生物と違ってこの手の爬虫類は大きな牙を持たずに対象を丸呑みする捕食スタイルを取る事が多い。その際に飲み込みやすいよう、蛇やトカゲの唾液は人のそれより遥かにぬるぬると滑る。
因みに蛇が生やしている二本の牙はなんじゃらほいと問われれば、あれは普段内側に折り畳まれてしまい込まれているのだ。捕食の際に飛び跳ねるようにして起き上がった牙は、獲物に致命傷を負わせたり獲物に引っ掛かって逃げ辛くしたり、或いは歯の中を通る毒腺から毒を注入したりする為に使われるのだ。ヤマカガシみたいな奥歯に毒牙を持っている種に関しては知らん専門家に聞け。
「唾液めっちゃ出てんなら飲み込む気満々って事じゃねーか! おいやめろ嚥下すんな頭振んな!」
空に向けるように持ち上げた僕の体を上下に小さく振りながら少しずつ飲み込もうとし始めたにょろ吉くんに、流石にちょっと焦りが生まれてきた僕は慌てて手足をバタ付かせる。しかしそもそもにょろ吉くんと僕とでは体格差が洒落にならず、両足を大きく開いても頬肉に足が引っ掛からず、何かもう無理なんじゃないかという気持ちが湧いてきた。
「んわぁーげぼくぅー! だめなのー! ラムネのげぼくなのー! たべちゃだめなのー!」
「おい猫お前喋れるんだから
「……………………しぬ? しぬってなんだ? しぬっておいしい? げぼくおいしい? げぼくしぬしたらおいしい?」
「いやおい急に「スン……」ってなるな! ……あぁもうこれだから畜生は嫌なんだ!」
それまで僕のズボンの裾を噛んで引っ張っていてくれていた力が急に無くなり、同時にラムネの声も聞こえなくなる。
すると半身を飲み込まれている僕にも聞こえるぐらい大きな足音が口内に響きながら聞こえてきた。その振動はどんどん大きくなり、やがてバタンと何かを開くような大きな音へと変わる。
「ロレェンス! ロレンス助けてロレェンス! ペロちゃんがいじわるするのよぉー!」
「あぁ先生良い所に来た! 元弟子を呼んできてください! あいつのペットが………って先生何でそんな光ってるんですかっ!? 何されたらそんな状態になるんですかっ!?」
「ペロちゃんがいじわるするのォーっ!」
「うお眩しっ! ………それ感情の起伏に合わせて光度も増加するとかそういう──────違うッ! 今はそういうの良いんです先生ッ!」
「………あら? あらやだっ、あらあらあらあらあらあらどういう状態なのこれ。……ええ? 食べられてる? これ食べられてる?」
「しぬってなんだ? げぼくしぬしたらラムネしぬしない? ラムネしぬしたら、げぼくしぬしない?」
「誰かァー! 誰か助けてェー! ム◯ゴ◯ウさんみたく指持ってかれる所じゃ済みそうになァーいっ! 多分全身持っていかれるゥー! 持ってくならせめて左足にしろォー! 返せよォー! たった一人の弟なんだよォーって言ってみたァーいッ!」
「多いッ! 情報量が多いッ! 頭が混乱するッ! 取り敢えずメルヴィナ先生もこいつ引っ張り出すの手伝ってくださいっ!」
「そっそうね任せて! 今の私なら少しは力もあるものね! 役に立てるわっ! 行くわよぉー! せぇーのぉーっ!」
「うお眩しっ!」
───────
「良かったわね、助かって。一時はどうなる事かと思ったわ。どうなる事じゃなくてそもそもどうなっていたのかも良く分からなかったけれど、でも助かって良かったわ」
柔和な微笑みをたたえた虹色のメルヴィナ・ハル・マリアムネさんがぬるぬるしたままの僕の頭を「よしよし。もう怖くないわよー」と言いながら撫でてくる。無意識に撫でやすいよう頭を下げてしまった僕が、慌てて照れ隠しのように「大丈夫です。ありがとうございました」と言ってその手を逸らすと、メルヴィナさんはぬるぬるが移った事を何も気にせず、その手を頬に当てながら「あらあら。もうお兄さんなのね、子供扱いしちゃってごめんなさいね」とにこやかに笑う。
するとメルヴィナさんが放っていた虹色の輝きはぎゅわっと音を立てるように一気に眩しくなり、僕とイケメンは揃って「「うお眩しっ!」」と目を逸らした。
マ◯オで言うならスター状態だが、あれと違って時間制限が無い辺り、どちらかといえばスター状態というよりゲーミングメルヴィナモードと名付けたくなるぐらい目に悪い色でぎゅわぎゅわと色を変える女医。
ヤンキーが車の至る所にLEDライトを付けたがるのはまだ分かる。ヤンキー達は基本的に暗い夜でこそ車を乗り回したくなるから「乗る時に車体に靴ぶつけられっとマジで嫌だしな。あとかっけえ」みたいな理屈でビカビカにしたがるのは良く分かる。わざわざ車のバッテリーに負担を掛けながらも、その上で乗降口の下部にLEDをあしらいがる気持ちも良く分かるし、単純にかっけえなっていうのも良く分かるさ。
ルームランプが灯っていたとしても、あれは車内の人の目に負担を掛けないようLEDではない普通の蛍光電球を使用しているか、或いは光度が低く設定されている。だから間違っても外から乗降口の縁がしっかり見える程には照らしてくれない場合が多いし、それの対処をしつつ単純にオシャレにもなるのだから、僕はヤン車がビカビカ光っている事に対しては何も思わない。
けれど僕はゲーミングライトについてだけは批判的な気持ちを覚えてしまう。あれ何の意味があるんだ? 確かに僕もあれはちょっとカッコ良いなって思う事もあるけれど、そこで素直にカッコ良いからと言ってくれればまだ良いものを、ゲーミンググッズを好んで使う者達は口を揃えて「明るくて場所が分かりやすいから」と言い張り続ける。
いやお前手元のマウスやキーボードすらどこにあるか良く分からないような暗い部屋でパソコンなんか弄るなって話だ。テレビを見る時は部屋を明るくして画面から離れて見ましょう。そこのお前だって同じだぞ、待っててやるから部屋の電気点けてこい全く。
「あらあら照れちゃって。ふふふ、ロレンスにもこんな時期があったわね、懐かしいわ。うふふ」
「「うお眩しっ」」
ピカ◯スのとばっちりで二度と公の場に出れなくなったどこかの電脳戦士を彷彿とさせるぐらい、強くビカビカと明滅するゲーミングメルヴィナさん。とりあえず何かに付けてゲーミング化するのは好きにすればいいし、それを使う事も別に構わない。ただライトのオンオフや光度の強弱を変更出来るようなスイッチをどこかに付けていてくれれば、僕は何も文句なんて無いのだ。今のメルヴィナさんのように電源入れたら一生光りっぱなしという謎仕様じゃなければ文句なんて無いのだ。
眩い輝きに負けて半目になった僕は、全く同じようなしかめっ面をしているイケメンに向けて「おいイケメン」と声を掛けた。
「どうしたフツメン。何かあったか」
「多分右の乳首がスイッチになってる」
「はぁ? フラッシュライトにやられて頭もやられたか」
「右の乳首を押せば光度が下がる。逆に左の乳首を押すと光度が上がる。お前、自分以外がメルヴィナさんに触るの嫌なんだろ。僕に真偽を判別させたくないなら、代わりにお前がやれ」
「マジでか。マジで言ってんのか。違ったらどうすんだ」
「喘ぎ声が聞こえるだけで何がどうなる訳でもねーだろ。良いからさっさと光度下げろ、ホラーゲームに画面の点滅は要らねえ。
僕がそう言うと、相変わらず眉間に皺を寄せるようなしかめっ面をしたイケメンは「チっ、どういう事だか」と呟くと、ゲーミングメルヴィナさんの右胸に向かって、ぎゅんむと人差し指を押し付けた。
「あらっ? あらあらあらあらあらもうやだロレンスどうしたのこんな所でもういやねロレンスったら」
ビカー ぎゅわぎゅわぎゅわ
「うお眩しっ! ────違うじゃねえかクソガキ! もっと光度上げてどうすんだこの馬鹿っ!」
「ちィッ反対側だったかっ! くそっ! スイッチ付けるならON/OFFの表記も付けろってんだ! メイドインチ◯イナでもそのぐらいは付いてるぞ! まああの国の安い電化製品は大体配線間違っててオン押すとオフになる事が多いけどさっ!」
「何言ってんだか分かんねえが…………反対だったのか!? 反対側の、左乳首を押せばいいのかっ!?」
「そうだ! 押せ! 左のっ、乳首をっ! 愛と勇気と
「任せろ! とぅっ!」
ぎゅんむ ぐりぐりぐり
「あらあらあらあらあらあらあらあらあらやだもうロレンス馬鹿ねもう見られてるわよ彼に見られてるわ見せたいのかしらやあねロレンスいやらしい子だわでもそんなロレンスにいやらしい事をされたいわたしもいちゃったりしちゃったりあらあらあらあらあらあらあら」
びかー ぎゅんわぎゅんわ ぎゅるぎゅるぎゅる ぎゅいーんばばばばしゅーん ぴろぴろぴろぴろー
「「ぐお眩しッ!」」
捻るように指をぐりぐりと押し込んだ瞬間、ゲーミング化したメルヴィナさんは『押せッ!』と言われるままに真ん中のボタンを押したパチスロ台の如く更に強く輝き出した。そのままうぃーんがちょーんと
それをゼロ距離で見てしまったイケメンはどこかの大佐のように「うぐァーッ! 目がァッ! 目がァーッ!」と割とマジな声色で悶絶していた。
因みに僕は予め目を閉じていたので完全に無事。確信犯? バレなきゃ罪にはならないのさ。
「……………あら?」
と、有り得ないぐらいの光度で虹色の光を発する女医に反応したにょろ吉くんが一切の足音を立てずにのしのしといった仕草でラッシュタイムメルヴィナさんに近付いていく。ほんの一瞬僕と同じ目に遭うのではないかと思った僕だったが、しかしにょろ吉くんはラッシュタイム中のメルヴィナさんに近付くと、半身を向けながら心地良さそうに目を閉じていった。
「…………バスキングライトぐらいの光量はあるって事なんだな」
それを見て冷静に分析している僕の真横で「まぶしい。おめめつかれる」と言って目を閉じているラムネは、上限設定が無いかのように光度を上げる女医の方を向いたまま、両手を器用に持ち上げて自身の目元を隠した。可愛い。
そしてそんな女医の隣には、左右のビーチクを押す為に正面から向き合っていた故、その眩い閃光を真正面から受けてしまったイケメンが、ム◯カ大佐の三倍ぐらい酷い苦しみ方で転がり回っていた。可愛くない。
「………………何をしているんだいキミたちは」
待合室と廊下とを繋ぐ扉を開けたペール博士の声が聞こえるが、その言葉はイケメンとメルヴィナさんの耳には入らず、しっかり聞き取ったのは恐らく僕だけだった。
「………………………………」
眩しげに、もしくは呆れているのか半目をしたペール博士は黙って周辺を見渡している。
目を抑えて絶叫しながら縦回転するバグったイケメン。虹色に輝きながら頬に両手を当て爆速でくねくねする女医。その真横で心地良さそうに目を閉じて落ち着くクソデカいトカゲ。上半身をぬるぬるの粘液にまみれさせている僕。その隣でおめめにおててを当てる空飛ぶ猫。
「…………これは……あー、これは一体どういう状況だい。理解に苦しむ」
それはこっちの台詞だった。
───────
ナイトクラブの天井で回転するミラーボールの如くレインボーに輝いていたメルヴィナさんの放つ光に隠れて良く分からなかったが、僕らの元へやってきたペール博士は自身の身長よりも大きな注射器を小脇に抱えて持っていた。それを見たメルヴィナさんが悲鳴と光度を上げつつバグったネットゲームのキャラクターのように縦回転するイケメンの背後へと飛び
ミラーボールの光が当たらない位置でいざ行為に及ぼうとしているチャラい男女のようにも見えるメルヴィナさんは、包帯で目元をぐるぐる巻きにされ「前が見えねえ。物理的に」とボヤくイケメンの背後に隠れながらペール博士から距離を取る。その姿はクラブで行為に及ぼうとしている男女というより、クラブで
「ほら早くこっちに来たまえ。まだ終わっていないだろう」
それこそコ◯コ◯コミ◯クのギャグ漫画に登場しそうなサイズの注射器を腕に抱きながら、反対の手をくいくいと引いて手招きするペール博士の言葉に、メルヴィナさんは「いやよぉ! ペロちゃん酷い事するもの!」と強く拒否を示した。マジで岩戸に隠れたアマテラスが説得されているようなシーンに見えるが、仮に釣られて出てしまえば恐らくあの注射器をぶっ刺される事になるのだろう。
「そんなおっきいの入れたらいやよ! 壊れちゃうわ! ペロちゃんのそれおっき過ぎるもの! わたしダメになっちゃうわ!」
「先生? 先生……え? 何? 何の話です? エロい話ですよね? 絶対エロい話してますよね。先生これ取って良いですか? 混ざりたいです。俺も混ざりたい、混ぜて下さい」
目元を包帯でぐるぐる巻きにされても尚イケメンと分かるイケメンは、落ち着きを無くした様子でそう言いながら包帯を取ろうと腕を上げる。しかしその手はすぐにメルヴィナさんに抑え付けられ下がっていった。
「ロレンスはそれ取っちゃだめよ。その軟膏、光に当てちゃダメなの知ってるでしょう」
………今よりほんの数分前。ペール博士が待合室へやってくる事で多少は冷静さを取り戻したメルヴィナさんは、手慣れた動作で羽織っていた白衣のポケットから良く分からない軟膏を取り出し、ム◯カのように苦しみ続けるイケメンの目元へそれをぐりぐりと塗り付けると、小さく巻かれた包帯をポケットから取り出し急いで目元を隠した。
それらの包帯と軟膏が、さながら財布に入れておくコンドーム的な「ほら、あるかもしれないじゃん? だからほら、一応さ」という緊急用のものだという事は何となく分かったが、目元に塗ったそれがどういう軟膏なのか分からなかった。それに「なんすかそれ」と問い掛ければ、それは魔法を使った万能軟膏なのだそうだ。
打撲や痒みから裂傷、果ては抉られたような傷にまで効くというそれは妖精の鱗粉が混ぜられた軟膏だという。軟膏自体が何かするという訳では無く、塗布された部位から皮膚を通って細胞に染み込み、体自体が持っている自浄能力と治癒能力を異常なレベルで高める効果があるという。
代わりに効き目自体はかなり薄く完治まではそこそこ掛かるし、誰かに見られる事を嫌う妖精の鱗粉を使っている事もあってか光に当たるとどんどん効力を失うし………仮にしっかり管理したとしても、塗布した部位は細胞が異常活性する関係から新陳代謝が劇的に早まり垢だらけになるのだという。
因みに今回は直接目に入らないように塗っていたが、代わりに瞼に塗ったくった関係から使用後は睫毛は全て生え変わってしまうというから、きっと「頭ぶつけた」と言ってきた患者のたんこぶに塗ってしまえば十円ハゲでは済まないのだろう。
そんな訳でイケメンは目元に包帯を巻き付けられているのだが、そのお陰が目の前で仁王立ちをするマッドサイエンティストの姿を拝まずにいられている。ただ「男が近付いた」というだけであれだけイキり散らすような男なのだから、そのマッドサイエンティストが横っ腹に冗談みたいな大きさの注射器を抱えて想い人に迫っている様を目の当たりにすれば、きっと縦回転では済まない。確実にポリゴンが崩れて、どこかの三国志ゲームの結婚ムービーみたいな顔面になってしまう事は火を見るよりも明らかだったし、そうなってしまえばテストプレイを怠った事がバレてしまうだろうから、こいつが視界を奪われているのは非常に好都合だった。
「とりあえずこの虹色に光ってんの何とかしてくださいよ博士。これいい加減鬱陶しいです」
「それには同意だね。いや私もこんなに光るとは思っていなかったんだけれど、いやはやこの世は何が起こるか分からない」
そう言ったペール博士は手◯ンでもするかのような嫌な手の動かし方でメルヴィナさんを呼ぶのを止め、白衣のポケットから小さな小瓶を取り出す。それを僕の方へ向けると「先生に飲ませたまえ」と言ってくる。
………借りてきた猫だなんて表現があるが、どちらかといえば動物病院に連れてこられた猫がキャリーバッグの隅で丸くなっている時のように威嚇するメルヴィナさんの代わりに、僕はペール博士の元へ歩いてその小瓶を受け取った。
しげしげと眺め、天井に透かすように持ち上げながらくるくると揺らしてみたり、蓋が閉まっているのが分かっていながら匂いを嗅いでみたりと弄びながら、それをメルヴィナさんの元へと持っていく。そして全力で目を細めて明るさに耐えながらそれを手渡しすると、彼女はそれの蓋を器用に片手でポンっと開き、中の液体を何の躊躇いもなく飲み込んだ。ゴビゴビと喉を鳴らしてそれを飲むと、確定演出中、或いはゲーミング、ともすればスーパースター状態だったメルヴィナさんの体は、ゴッギュゴッギュと野太く喉仏が上下する度に光が弱まっていく。
やがて初対面の時と全く同じ姿形へと戻ったメルヴィナさんは、
「だめよペロちゃん、そんなぶっといの刺すだなんてわたしは許しませんからね。………ほらボク、元あった所に返してきなさい。ウチは病院ですからね、こんな不潔な生き物飼えませんからね」
と、僕に向かって身も蓋も無い事を言ってのけた。
けれだ正直、僕はその言葉に何も言い返す事が出来なかった。
「まあ、うん。さもありなんっていうか、是非も無しっていうか」
本当にどうでも良い話なのだが『さもありなん』って言葉を聞くと、僕はどうしても『サモ・ハン・キンポー』の笑顔が脳裏をチラつく。……帰ったら光辺りに話を振ってみよう、きっと食い付いて乗ってくれる。何となく「ちんぽ?」とか失礼な事を言うような気すらしてくる。ジズは多分固有名詞は流石に分からないだろうし……いや、分かっててもおかしくないぞ。だってジズはゴ◯ラの事を知っていたぐらいなんだし。
そう考えるとあいつは本当にルーナティア人なのだろうかと思い始めてくる。実は密かに呼び出されていた十三番目の愚者という可能性もあるし、或いは愚者ではなく勇者の一人だという説すら浮かんでくる。実際ジズはルーナティア城内ではかなり浮いた存在だし、キリストでのユダ的ポジションであっても違和感は無い。実際どこかの人造人間なんだか決戦兵器なんだかもう分からない紫色の人型ロボットを主人公が乗りこなす作品では、十三番目の使徒は物語の核心を突くようなポジションだったし、最後の最後でジズが立ち塞がって「ファファファ、しねい!」とか言ってくるような展開も有り得そうだ。
脳内で楽しげな想像をした僕は、そこでふと考える。もしそんな絵空事が仮に事実だったら、僕はどうするんだろうか。
仮にジズが十三番目の愚者または勇者だったとして、いやそうで無かったとしても。もしジズが裏切って敵に回ったとしたら、その時僕はどうするんだろうか。戦うか? ジズと? こんなクソの役にも立ちやしない僕が?
脳裏に想い人の姿がチラリと浮かぶ。僕の頭の中に映った彼女は、気怠げな表情をしながら煙草を吸っていた。
…………考えるだけ無駄か。仮にジズが敵に回ったとして、その時僕がどうするかなんて事は、その時になってから考えれば良い。そうでなくとも、その時が来るまで僕が生き残っている保証なんて無いのだ。何かの拍子にプチュっと殺されても違和感は無い。
「………じゃなくて」
ぷるぷると頭を振ってからペール博士に向き直る。
「流石にそんなごんぶとはやめましょうよ。ジョークなんだかマジなんだか判別出来ないけど、マジだとしたら死人が出かねない」
思考の沼から足を抜いた僕が博士に向き直ると、ペール博士はメルヴィナさんから目線を外して僕を見詰めた。
その表情は変わらずの無表情。………口元は笑っているように見えるが、僕は無表情だと思ってしまった。それぐらい、僕を見るペール博士の表情には感情が篭っていなかった。
「へえ─────────邪魔する気かい? この私の事を、キミが」
ペール博士はそう言いながら両手を下げ、足を肩幅程に開く。それは手足をフリーにしている状態であり、何かからの攻撃に備えるか、或いは何かへいつでも攻撃出来るようにしている姿。
小脇に抱えられていたバカデカい注射器が腕による支えを失ってガチャンと床に落ちる。
余りにも唐突過ぎるその変化に背筋が震えた。腰と背中の間ぐらいに何かが這い寄るような感覚を覚え、首の周りから冷や汗が吹き出るのを感じ取る。
直前までギャグみたいな風景だったのに急反転したかのように冷え切っている周りの空気は、それこそ修学旅行か何かで「好きな人居るんだろ? 言えよお前」とか言い合っていたら突然その友人が「居ないよッ!」とブチ切れてしまった時のような嫌な雰囲気だったが………でも思い返せば、こんな展開になってもおかしくは無かった。
何せペール博士は感情で動く女。理屈や理論では無く、その時の感情に全て任せてしまう女なのだから、自分がしたいと思っている事を僕みたいな小僧に阻まれてしまったらどうなるか…………そんな事、僕に予測出来る訳が無いだろうが。
「私はメルヴィナ先生の
ペール博士は淡々と語る。
「そしてキミはメルヴィナ先生の側に付こうとしている。ならば、キミは私にとって邪魔な存在という事になるね。邪魔、損、不利益。つまりキミは、私にとっては敵という立場に立つ訳で、」
余りにも唐突な状況の変化に何が起きようとしているのかを理解出来なかった僕が呆然としていると、ペール博士は吐息を漏らすかのように『想いを口にした』。
「───どうか私に、教えておくれ───」
瞬きをした。一瞬。一瞬だけ、瞬きをしたんだ。
渇いた喉に唾を流し込み、乾いた唇を舌で舐めながら、たった一回だけ瞬きををした。
「……………………っ」
瞬きを終えたペール博士の背後には、ただの口があった。唇を持たない口が、アメリカ人の前歯だなんて揶揄されるデンタルガムのような白い歯が並んだ口が六つ。二つつは僕の方へと向いて閉じたまま笑っており、二つは斜め下を向いて半開きで、残る二つはそれぞれ天井と床へ伸ばされながらフンフンと嗅ぎ回るように上下に揺れていた。
一瞬も無かった。ゼロコンマを下回る程の時間しか無かったのに、ペール博士の背後に口が現れた。彼女、ペール・ローニーの
しかし唇すらない、本当に口だけの何かが鼻を鳴らすような仕草をしながら周辺を嗅ぎ回っている事から、その口が何を求めて開かれるのかは想像に難くない。
ペール博士の言っていた言葉。その後適応されて現れた口。
「まっ待ってくれよッ!」
彼女が何かを口にするよりも早く、彼女が開戦を宣言するより早く、僕は大きな声で叫んでいた。
「待って待ってよ、待ってくれよ。そもそも僕は何でここに連れて来られたのかすら知らないんだぞ。どっちに付くとかは後回しにして…………まずはペール博士の目的を教えてくださいよっ!」
メルヴィナ・ハル・マリアムネは元々ただのサンスベロニア人だったが、想い人との深く長い繋がり合いによって
齢七十に達するメルヴィナ・ハル・マリアムネは老い先短い自身の体の状況を理解し、それと同時に先立つ事……ロレンスを残して死ぬ事に強い嫌悪を覚えた。死にたくないとは思わなかったが、今後彼の身に降り掛かる様々な苦しみを、彼一人で背負って生きていかなければならないという事に耐え難い苦しみを覚えた。
背負ってあげたかった。自分だけではない。彼と一緒に。彼を一緒に。
艱難辛苦を共に背負い合い、時には迷い、時には悩みながら死んであげたかった。
道に迷った時には二人して右か左かと悩み
故、彼女は
基本的にはロレンスの体の多くを模倣するが、毛髪の状況や歯の状況。栄養状態や空腹感、便意や尿意までは模倣されない。また、つい先程の検査によって薬効成分や魔法によって体が虹色に輝いたとしても戻らず、模倣されるのは飽くまでも生死に直結する事柄ばかりだと判明した。しかしそれらに関しては極めて
順当に行けばメルヴィナとロレンスは同時に死ぬ事となる。それ以外には有り得ないという『有り得ない』効果のその
不老不死にではない。物理法則すら捻じ曲げ、時にはアインシュタインが舌を仕舞って口を閉じ真顔で首を傾げてしまうだろう事象でも当たり前に起こせるようになる
適応される効果の不完全さに対してでも無かった。首をねじ切っても瞬時に元に戻る強い再生力を得ている割に、薬物投与によって体から光を発してしまう不完全さ等に関しても、ペール・ローニーは興味を示さなかった。何しろ過去の研究から『その者が得られる
ペール・ローニーが興味を惹かれたのは、メルヴィナ・ハル・マリアムネの
通常、
一つ。パルヴェルト・パーヴァンシーやジズベット・フラムベル・クランベリーのように、何らかの条件を参照した後、自らに対して効果を適応させる『自己型』。
二つ。トリカトリ・アラムやラムネ・ザ・スプーキーキャットのような第三者に対して効果を適応させる『範囲型』。
三つ。ペール・ローニーの
四つ。それらに当て嵌まらない『例外型』。
勘違いしてはいけないのは、これらは飽くまでも研究者たちが見分け易くする為に簡易で作った指標であるという事であり、間違っても「◯◯型だから◯◯型に強い」とか「◯◯型だから弱い」というような効果の内容に関しての指標では無いという事。
そもそも
まず
そして発現した
そしていざ
まずは『自己型』は『結局その者に出来る枠を出られない』という欠陥がある。またそれはとは別枠で、細々とした制約やデメリットがあるものが多い。
次に『範囲型』。これはどんな理由があっても周囲に対して必ず適応するという強制力を持ち、仮に『
また自分以外の第三者に対して適応する
そして『具象型』。物理法則を無視した何かしらを突然そこに『出す』という効果を適応させれるそれは、他の
またこれはペール・ローニーの話にはなるが、彼女が
ペール・ローニーの想いである「知りたい」という知識欲を満たす為、喰らう事で『相手の過去と現在を知る』事が出来るという効果が、ペール・ローニーの
加えて『過去と現在を知る』事が出来たとして、ペール・ローニーという生物の脳がそれを処理、理解出来るかどうかは全くの別問題である。隕石を喰らった所で、知る事が出来るのは隕石やそれに含まれる成分、性質と飛来してきた方向ぐらいのもので、間違っても星や宇宙の始まりを知る事なんて出来やしない。
要するに『知識』と『知恵』は別物であり、『知識』が幾らあったとしても、それを『知恵』へ転換出来るのかどうかは、その人物の度量に委ねられるという話であり、そういう意味でも『一切応用が効かない』。
そして最後に『例外型』だが、これは前述した三つに当て嵌まらない効果を持った
では、それらを踏まえてメルヴィナ・ハル・マリアムネの
ペール・ローニーが興味を惹かれたのはその距離。メルヴィナ・ハル・マリアムネという
「………と、まあ。私はそれが知りたいだけなのさ」
外部からエネルギーを得ずとも某かの効果を適応させ続ける事に関しては、もはや『
擬似的な不老不死を適応させる事にも興味はあるが、それに関してはそこまで強い興味は抱かれなかった。
不老不死を得るだけの効果であれば死に直面した全ての生物が得そうなものだが、本当に死に直面した者ほど自分が死ぬという事を認知しにくい。また病や怪我によって死を予感したとしても、
要は「もし治ったら」と考えた瞬間、もう
「気になるんだよ。気になる。興味がある。知りたい。知りたくて仕方が無い。どうして。何で。私はそれが知りたくて堪らない」
ペール博士が呟いた。哀愁を感じさせるような声色のそれは、悪夢を見て泣きじゃくる子供を
「だから、だから。頼むよ。どうか、どうか───」
度重なる研究。寝る間も惜しみ、食事も惜しみ、風呂や排泄する時間すら惜しむ過程で濁り切ってしまったその瞳が僕を見据える。
「───どうか私に、教えておくれ───」
その瞳に向かって、僕は吠えた。
「───────ラムネェェェェェエエッッ!」
「───おなかへった───」
脳髄に甘く染み渡るようなペール・ローニーの切望に、僕は絶叫で返答した。喉の奥が切り裂けてしまうようなぐらい力を籠めて叫んだ僕に、僕の相棒はすぐさま応える。
思わずアヘ顔になってしまいそうな程に強い虚脱感が全身を襲う。全身の体毛をざわざわと鳴らしながら
唇すらないその口の中にある白い歯をぶっ叩いたラムネは、僕を咥えたまま頭を大きく斜め上に振り上げながら口を開く。そこまで強い力では無かったものの、結構大きなダスンという音を立てて天井にぶつけられた僕は「んぐっ」と呻きながら、すぐにその毛むくじゃらの背中に落下した。
状況を把握した僕はとりあえず両手の指を握り締めてラムネの毛を全力で掴み、体制を整えるのに合わせ首と肩の間ぐらいに手をやって掴み直す。
「ラムネッ! メルヴィナさんの安全が第一だっ!」
狂ったように高笑いをするペール博士から目線を逸らさないようにしながら僕が叫ぶ。するとラムネは
「じゃあこいつはいりゃないっ! あっちいってりょっ!」
目元に包帯を巻いているイケメンに目線を向ける。
「「「え?」」」
僕と、メルヴィナさんと、イケメンが、三人同時に声を上げる。ラムネは僕らがどういう意味だと問い掛ける間も無く、イケメンの胴体に向けて横向きに弾くような猫パンチをぶちかました。
「モルスァッ」
人が発したものとは思えないような悲鳴を上げたイケメンは、狙い澄ましたのかただの偶然なのか診療所の出入り口にある横開きの引き戸に向かって回転しながら吹き飛んでいく。バギョオッとかいう冗談みたいな効果音を奏でつつ見事な
「立ち塞がるんだろう? 抗うんだろう? 気になるよ、気になるね。キミがどこまで楯突いていられるか、その結果が一体どんなものか気になる。それはキミもそうだろう?」
狂気に呑まれ狂喜に嗤うペール博士が濁った瞳を爛々と光らせながらそう笑う。
「ロレンスッ!」
メ状況を理解したメルヴィナさん叫び、慌てながらもぶっ飛んでいったイケメンを追い掛けて診療所を飛び出していくが、しかしその足取りはかなりよろよろと覚束なかった。
それもそのはず。ラムネの
回数制限や強化の上限が無いラムネの
例えば一回の適応で百の力を奪うとする。それは周囲に居る者が僕だけだったとしたら僕から百を奪うが、僕の隣にもう一人誰か居た場合、僕ともう一人から五十ずつの累計百を奪う事になるのだ。僕を含めて三人居れば、四人居ればと人数が増えていくに連れて周りに与える影響は減退していく。
「ああ堪らないよ、楽しいねえ。こんなに楽しいのは久し振りだよ。先生の
ゆらゆらと浮かびながら白い歯を見せる六つの口だったが、ペール博士はそれら全てで攻撃してくる事は無く、むしろどれも攻めには使わずゆらゆらと動かしながら笑っている。
「ラムネっ!」
「んうぇあ」
僕は上手く力が入らない手足を芋虫のように動かしてラムネから飛び降りつつ、その名を呼びながら走ってメルヴィナさんを追い掛ける。気の抜けた返事を返したラムネだったが、それは僕の意図を察して自身の
咄嗟にラムネに
「げぼくよけろっ!」
しかしそれは甘ったれた考えだったのかもしれない。
半壊した出入り口へ向かって急いで駆け出した僕だったが、あと少しでそこに辿り着くという頃、大きな声で呼ばれた僕は即座に前進を中断、待合室の壁の方へと向かって横っ飛びに体を跳ねさせた。すると僕が通ろうとしていた場所を何かが通り過ぎていき、それはぞりゅんという物体を削り取るかのような異質な音を鳴らしながら診療所の出入り口を削り取っていった。
「───おなかへった───」
「あぁくっそ………こいつマジで殺す気かよ……」
僕より遥かに僕が見えているラムネが再び
木造建築の壁を派手に吹き飛ばしながら通り抜けたラムネは、少し走りながらさっきと同じように頭を振って僕を宙に放り投げる。斜め前方ぐらいに投げられた僕は、今度は天井なんかにはぶつからずそのままラムネの背中へと落下。僕は同じようその背中にしがみついた。
背筋を伸ばして背後を見やると、ぶち抜かれた壁からにょろ吉くんが駆け出して逃げてくるのが見える。いっそにょろ吉くんにも手伝って貰いたいぐらいだったが、そもそもにょろ吉くんとは意志の疎通が出来ないからそれは無理だろう。何ならさっき食われそうになったし。
急いで周囲を見渡せば、退避したメルヴィナさんがイケメンを路肩に寝かせている姿が見える。僕に頭突き合いで負けるぐらいなのだからイケメンには何の期待も出来ないが………だがメルヴィナさんは魔法医じゃなかったか?
「メルヴィナさんっ! あんた魔法医師なんでしょっ!? 魔法でも何でも使ってあの馬鹿抑えんの手伝ってよッ!」
僕はそう叫ぶが、イケメンを批難させ終えたメルヴィナさんはぶんぶんと髪を振ってそれを否定した。
「魔法はそんなに便利なものじゃないのよおっ! そうでなくとも私は医者よっ! 誰かを傷付ける事に自分の力を使うなんて出来ないわっ!」
「……………………チッ、クソがよお」
その言葉に僕は思わず舌打ちしてしまった。
何を言っているんだこいつはと苛立った。自衛の為なら問題無いだろうし、それすら出来ないというのなら素直に諦めて言いなりにでもなれと思ってしまった。
抗う力がありながら、自らの意思でそれを行使しない。それは力を持たない事よりよっぽど
「───どこを見ているんだい? ッハハ! 私を見なくて良いのかね!?」
瓦礫の穴。ぽっかりと開いた穴の向こうから声が聞こえると同時に三つの口が土煙を裂いて迫ってくるが、ラムネはそれを宙に飛び上がるようにしてさらりと避ける。
「おりぇがみてりゅ。げぼくがみてないとこ、おりぇがみてりゅ」
「…………そうだね。僕が見てない所を、ラムネは見てる。ラムネが見てない所を、僕が見てる。視野の共有こそしてないけど、互いの補完は出来てる」
僕とラムネがそう返すと、ペール博士は「はっはっは、それは素晴らしい事だ」と笑い、ゆったりとした歩調で土煙の中から歩いてくる。
乾き切ってペタペタと張り付く唇を舐めて潤しながら、僕は自分に問い掛ける。
────で? 僕はこっからどうすんだ?
ラムネと僕とのコンビネーションを見せ付けるまでは良いものの、キメッキメでドヤった僕らに、はてさて一体ここから何が出来るのか。
意外かどうかは知らないが、ラムネ・ザ・スプーキーキャットはその巨大な体躯と凶悪に裂けた口とは裏腹に、直接的な戦闘能力はかなり低い部類に入る。周りが
脚力や腕力、咬筋力は異次元レベルと言って差し支えない程ではあるが、しかし結局猫である事に変わりは無い訳なのだから攻撃手段は非常に少ない。猫パンチと、引っ掻きと、噛み付きと。どれも超肉薄しない限りは到底当たらない攻撃のみで、その攻撃手段もスケアリー化したラムネを見たほぼ全ての相手は即座に予想し警戒してしまうので肉薄どころかまともな接近すら出来ない事が殆どである。
また猫であるという理由から持久力にも乏しい。例えばチーターというネコ科の動物は走る速度だけなら哺乳類では最速を誇るものの、最速時の移動は十二秒しか持続出来ない。いやそれでもすげーなって思うんだけど、ラムネも猫である関係から最高速度での移動は殆ど維持が出来ない。
しかし勘違いしないで貰いたいのは、ラムネは雑魚とも程遠いという事。あくまでもタイマンでのカチ合いが得意では無く、またフルパワーの維持が苦手というだけであり、その機動力は尋常では無い。ラムネに限らず猫という生き物は動いていない物体に対してはかなり鈍いものの、反面で動いている物体に対する動体視力は人間なんて月とスッポンと呼ぶ事すらおこがましいレベル。
それに加えて一切の濁りの無い『野生の勘』を持っている。
………まあこの手の情報はそれこそ調べれば本でもネットでも幾らでも出てくるだろうが、ほぼ全て人間と比較して◯◯倍だとか言われている。自動化という名の怠慢に溺れて狩りを行わなくなった元狩猟民族と、現在進行系で狩猟能力が受け継がれ続けている野生動物と比較して◯◯倍だなんて言う事に抵抗感のある僕からすれば、対になるような犬等と比べた方が良いのではないかと思う事も多い。犬は嗅覚に特化しているが聴覚は微妙で瞬発力に欠けるが持久力に長ける、猫は聴覚が尖っているが嗅覚はパッとせず持久力は微妙だが瞬発力はかなりのもの。みたいな。
まあ要するにラムネは相手からの攻撃を避け続ける事に長けているという話だ。スタミナの問題に関しても、放たれ続けるビーム攻撃やらを走り続けて避け続ける事は苦手だが一撃一撃を避けては息を入れ、避けては息を入れを断続的に繰り返す事によってある程度は解決させれる。
─────問題は、今この場では何をするにもラムネでは厳しいという事だった。
「ハッハッハッハッ! どうしたよ、どうしたね! 抗いたまえよ! もっと抵抗したまえよ! ……足りないよッ! そんなんじゃあイケないよッ! イカせておくれよッ!」
高笑いするペール博士は指先一つ動かさず、
ラムネは四つの口が迫り来る度、上下左右に斜めや前後を交えながら飛び回り、それら全てを避けている。その過程でペール博士に接近すると猫パンチを繰り出そうと野太い唸り声を上げるが、前述した二つの口により防御され、時に反撃までされていた。
これが馬や犬であればまだ良かった。馬や犬は背骨の可動域が狭い分、今のラムネのように激しく動き回ったとしても乗っている者が感じる揺れはそこまでではない。
しかし液体動物だなんて言われる程に全身の関節が柔軟に動く猫という生き物は、乗っているとマジでがくんがくんと派手に揺れる。その揺れは何かと比較出来るようなものではなく、乗っている僕の脳髄だけでなく下手をすれば内臓の位置すらシェイクされかねない。
そんな中で、それでも僕は考える。
どうすればいい。どうすればペール博士を止められる。
ここに来て『いつものメンツ』がどれ程までに心強い存在であったのかを実感する。今回ペール博士に同行してサンスベロニア帝国にやってきたのが僕じゃ無かったら、確実にこの場を丸く収めていただろう。あの
「ふふふ…………ふふふははははは! どうするね、どうするよっ! キミはどうやってこの場を打開するんだいっ!? 教えておくれよ───どうか私に、教えておくれよッ!」
そんな僕の思考を見透かしたかのように、ペール博士は口を伸ばす。その口は決して食らうだけではなく、時には歯を合わせるようにして閉じたまま叩き付けてくる事さえある。
しかし僕にはある算段が浮かんでいた。
その算段は気取られたって問題は無い。ペール博士にそれがバレてもバレなくても、結果的に事を丸く収める………事が出来るかは正直怪しいが、少なくとも
「げぼくっ! どうすりゅっ!? こりょしゅかっ!? ラムネがくうかっ!?」
防戦一方のラムネが焦れたようにそう叫ぶ。攻撃と攻撃の合間に休みを入れる隙はあるが、それは決して息を整える程の時間ではない。時間にして一秒か、行っても二秒程度の隙如きでは、間違っても心拍数なんて整えられない。
その一秒か二秒程度の時間。その瞬間のラムネはかなり荒くその背を動かして呼吸をしていた。
「殺さないよ食わないよっ! ………耐えてラムネっ! 多分もうすぐだからっ! もうすぐ来るからっ!」
何が来るのか。徐々に徐々に激しくなっていくペール博士の攻撃を耐え続ける事で、一体何が来るというのか。…………実はこっそり『いつものメンツ』が付いてきているとかそういうオチだったとか?
………そんな手抜きなオチだったらよっぽど楽だったろう。
「これは一体何の騒ぎだッ! 貴様らそこを動くなッ! 全員そこで止まれェッ!」
「……………む?」
割って来たのは誰とも知らない声。目を向ければそこには銀色の甲冑に見を包みどこかメカメカしい長い金属棒を持った、サンスベロニア帝国の警邏隊の人達がわらわらと集まっていた。その先頭、代表のような人が大きな声で僕らに静止を掛けると、ペール博士は「ああ、クソ」と小さく呻いた。
「…………忘れていたよ、こんな連中いたっけか」
呟いたペール博士は瞬時に口を消す。具象化した時と全く同じように、音一つ立てずに掻き消えるかのように消失した口を見た僕は、ラムネの背の上で唇を震わせながら「ぶッフルゥィィ」と大きく息を吐いた。唇を震わせる気なんて無かったけど、気が抜けたせいか上手く口元が動かなかったようで変な溜息になってしまった。
戦いの結果というものは決して勝ちか負けかの二択では無い。勝つか負けるかだけでなく、引き分けや、そもそも戦わないという選択だって肝要だ。戦いが始まってしまえば負けるリスクが付き纏う訳なのだから、必ずとまでは言わずとも敗北の可能性を背負うぐらいならいっそ戦わないという選択だって、とても大事である。
戦いに勝つ手段はそれこそ幾らでもあるが、勝つ為には負ける覚悟を負わねばならない。深淵を覗く時では無いけれど………まあそれと似たようなものかもしれない。
ここでも同じように、負けるリスクを引き込むぐらいなら勝ちを捨ててでも『それでも負けはしていない』という選択を選ぶのは賢明な判断だと僕は思う。負けというのがただ痛い思いをするだけならどうだって構わないが、平和ボケした僕の祖国でもあるまいし、剣や槍だけでなく魔法銃だの
僕は馬鹿だし阿呆だし、最近ちょっとスケベになった気もするとんだ
だが僕にそんな事出来る訳が無い。少なくとも、僕と同じような境遇に置かれている愚者には、死を顧みずそれでも走り出すような無鉄砲な行為が出来る奴はそうそう居ない。
僕には無理だ。出来る訳がない。
だってそうだろう?
僕はもう、死にたくない。
僕はもう既に死んだ身なのだ。知恵が湧かないとか勇気が足りていないとかは関係無い。僕は底抜けの
神だか仏だか誰様だかは知らないが、何様の気紛れで二度目の生涯を過ごす事になったというのに、何をどうすればもう一度自らの死を繰り返せるというのか。
遺伝子的に神風思想でも残っているだろう日本人なんかからすれば戦略的撤退だなんて言葉は果てしなくウケが悪いかもしれないが、それでも僕は逃げる事を躊躇わない。何処かの潜水艦に搭乗していた
騒ぎを聞き付けたか、或いは聞き付けた者から更に聞き付けたのか。気付けば廃墟スレスレになっていたハル診療所にやって来た何人かの衛兵さんの中から代表感を出しながら一人前に進んでくるのに合わせて、完全に興が冷めたペール博士はポッカリと円形のトンネルのように穴を開けられた診療所へと戻る。それと同時にラムネが
とはいえ別に派手な事をする訳ではない。ペール博士の方にも何人か向かっていたが、十中八九ペール博士は多くを語らない。興味を持った事柄の為なら誰かの尊厳や命すら意にも解さないようなイカレポンチであるからこそ、興味を持たない事柄に対しては
仕事に含まれていたとしても、そういう事に対して『批判的な興味』すら湧かないような女なのだから、衛兵から質問責めされたとしてもぞんざいな対応をして適当にあしらうだろう。加えて面白味に欠けるやり方での終戦となったのだから、ともすれば機嫌を損ねまくって衛兵に当たり散らす可能性すらあったが、そこは僕にはどうしようもない。
ペール博士が大した事を言わないとなれば残るは僕しかない。ぶっ倒れているイケメンは最初の内から包帯で視界を塞がれていたし、二人の衛兵に両肩を抱かれながら引きずられるメルヴィナさん──何故そんな事になっているのかは分からないが──に関しては多分口裏を合わせてくれるだろう。
そうなれば、後は僕が魔王さん──ひいてはルーナティア国になるべく迷惑が掛からないような言い訳を、口から出任せで好き放題ペラ回すだけ。
「────────……ちょっと、彼女と喧嘩しちゃいましてね」
「喧嘩、ねえ………痴話喧嘩にしては随分派手に見えるんだけど。理由は? 喧嘩の理由」
「え、っと……その……えー、あー」
言い淀んだ。心の中でマズいと思った。
急いで脳をフル回転させる。
何でも良い訳ではなくなった。何せ理由を聞かれた時、僕は言い淀んでしまった。だから言い淀むに足る理由を孕んだ言い訳でなくてはならない。
………そんなもんあんのか?
僕は「えー」とか「あー」とか唸ったが、遂に僕の頭はショートした。ともすればあたまのわるいひとのように「ばななぁ」とか言い出してしまいそうな表情をした僕は、それはそれはあたまのわるい言葉を口にした。
「なかにだしちゃったぁ」
「……なに? なんだって?」
「だめっていわれたのに、なかにいっぱいだしちゃったぁ。えへへえへへ」
「……………おい君。いや、まさか」
咄嗟に僕は冷静になる。焼き切れたか、或いは半田浮きでもしたかに思われた僕の脳は実際にはショートしていた訳では無かったようで、馬鹿みたいな酷い言葉を垂れ流してしまった事で逆に解決の糸口を見付ける。処理落ちしていた脳内に生まれた僅かばかりの空きメモリを頼りに、矢継ぎ早に言葉を繋げていく。
「あいや、すみません。ちょっと彼女と、……その、夜の揉め事をしてしまいまして。ダメダメって言われたんですけど……その、普段クールな女性から喘ぎ声混りでそんな事言われちゃうと、つい、ね……逆にいじめたくなるっていうか。危険日だって分かってたんですけど……前々から子供が欲しいなとは思ってましたし、だから、無責任なのは分かってたんですけど、その……つい、えっと、んと……………いっぱい出しちゃった」
僕の説明を聞いた衛兵さんは鎧を纏った手をガチャリと鳴らしながら額に手を当てると、頭を下げるようにして「はぁぁぁぁぁぁぁ〜」と大きな溜息を吐き出した。それを見た僕は照れ臭そうな表情をしながら「えへへ」と笑う。
「……………それで? なんでここで喧嘩していたんだい。いやもう大体予測は付くけどね、一応書面に残す必要があって、本人からの自供が要るんだよ。続けてくれないか」
溜息混じりの呆れ混じり。そう言ってくる代表さんに、僕はもうそれは好き勝手にペラ回した。「認知するかしないかで揉めて」とか「ピルを飲まなかったお前が悪い」とか「この猫ラムネっていうんです。可愛いですよね」とか、それはそれは好き勝手にペラ回した。可能な限りチャラ男を意識しながら嘲るようにヘラって喋る僕だったが、衛兵の代表として僕から事情聴取を行うこの人に僕が童貞である事がバレないよう嘘を吐き続けた。
急場の事だったから多少なりとも
「…………分かった、事情は分かった。時間を取らせて済まなかったね」
「いえそんな事は」
「何にせよ、ハル診療所……この病院には国が関わっているからね。とりあえずこの診療所はこの後すぐに修理が始められる。応急処置しか出来ないが、国営に近いからね。
「大変っすね」
「……修繕費に関してはまずメルヴィナ先生に請求される。その後メルヴィナ先生がどうするか……ああ、君に再請求するかどうかという話ね。それについてはこの後すぐにメルヴィナさんと話し合う事。……後日にはなるが、我々はちゃんと確認するからね。………あと無責任に中出しするのは君の勝手だけどね、君は公共の場で赤ちゃんプレイに興じてる訳じゃないんだろう? 幼児退行してる訳でも無い良い大人なら、迷惑を掛けた時責任の一つ二つはちゃんと取る事。良いね?」
「フヒヒ、サーセン。アザっす」
そんなような事を言い合うと、やがて代表さんは僕から離れていった。まだ居なくなった訳ではないが、その距離がかなり離れた頃、僕は足元で丸くなっていたラムネを両手で持ち上げて抱っこする。僕に抱えられたラムネは「んーぉ?」と呻くが特に抵抗はしなかった。
赤ちゃん抱っこでもするかのようにラムネを横抱きしながら、僕は丸く削り取られるようにして開けられた
「どういう話にしたんだい?」
既に冷静さを取り戻したペール博士が聞いてくる。周りに居たであろう衛兵さんはもう居なくなっており、ペール博士は溜息を混じらせながら「私から語る気は無い、彼から聞けと言って追い返したよ」と言っていた。
「僕がペール博士に種付けした事にしました」
「は?」
「危険日だからと嫌がる彼女に、僕は「ウェへへお前がママになるんだよォっ!」って言いながらちんちん奥まで突き立てた事にしました。いつもより沢山出た気がしましたよって」
「男の子はそういうの好きだな」
「んで妊娠したかもっつって検査に来て、陽性が出た僕がビビり出して認知しないって言い出して」
「ただのハナタレヘタレじゃないか。……それで
「あんだを殺すて
「……………キミも大概、あの馬鹿共から影響を受けているみたいだね。幾ら口から出任せとはいえ、咄嗟の状況でそんな酷い筋書きを組めるような奴はそうそう居ないと思うよ。………で、それを信じたのかい?」
「はい? 信じる?」
「衛兵だよ。キミのその戯言を、衛兵は素直に信じたと?」
「途中までは割と
「は? ピンク?」
「偉人かく語りきっつって。曰く『当たらなければどうということはない』って思って中出ししたらバッチリ当たっちゃったって。避妊って大事なんすねって。したら何かすっと信じてくれました」
僕がそう言うと、ペール博士は小さな声で「どいつもこいつも馬鹿ばっかりか」と呟きながら
そのままペール博士は黙り込んでいたが、やがて小さく「世話を焼かせたね」と呟いた。
「はい?」
僕が難聴系主人公のように聞き返すと、ペール博士は溜息を漏らしながら「いや」と俯き、しかしすぐに頭を上げて語り始めた。
「何かに対して興味をそそられた時、冷静さを欠くのは私の悪癖だがね。だが私は決して、自ら望んで冷静さを欠いている訳では無いんだ。どうにもこうにも我慢が出来なくなる」
「はあ」
何が言いたいのかが分からなかった僕は間の抜けた相槌を打った。それを見たペール博士は「済まなかった」と謝罪の言葉を口にする。
「彼女に……メルヴィナ先生に迷惑を掛けるつもりは無かったんだ。いや私が彼女の
「まだ調べるんですか?」
不満そうな声で僕がそう言うと「当たり前さ。まだ殆ど何も分かっていないに等しい」と、ペール博士は声を大きくして言い返した。しかしペール博士はすぐ気弱にも見える表情へと変わり、
「……それでも、明日は今日より少しだけ、落ち着いていられるよう意識するつもりだよ」
と、そんな事を呟いた。
その声からは罪悪感が伝わってきて、僕の尻穴に指を突っ込んでくぱぁと広げて摘便した人のそれとは思えなかった僕は「何でまた。らしくない」だなんて事を口にした。
「あの人は私の師範だった人だよ? そして私は弟子だった。立場を使って良い様に好き勝手していた自覚はある。だがそんな私を、彼女は私を追い出そうとしなかったんだ。家賃の一つも入れない上に、まともに言う事を聞かない昔の私を、彼女はそれでも追い出さずに手を焼き続けてくれたんだ。見捨てずに居てくれたという訳だ」
嘲笑うような口調でそう語るペール博士は、しかし決して恩師を嘲笑っている訳ではなく、むしろ過去の自分を嘲笑しているかのように見えた。
後悔しているのかもしれないと僕は思ったが、ペール博士は何も言わずに立っているだけの僕へ向かって言葉を続けた。
「迷惑を掛けるつもりは無かったんだよ。むしろそろそろ恩返しの一つでもしてやるべきだと思っていたぐらいだった。
「んじゃ菓子折りかなんか買ってったらどうですか。あんたの事だ、どうせ素直に詫びを入れるなんて出来んでしょうから………菓子折りか、タオルとかそういうの買っとけば、僕が代わりに渡しときますよ」
何となく言いたい事が伝わってきた僕の小粋な計らいに、しかしペール博士は「それは嫌だ。面倒臭い」と拒否を示した。それに思わず「じゃ何なんだよ何が言いてえんだよもう」と言い返せば、ペール博士は「……そうだな」と何か得心したような声を漏らす。
「いや、うん。やっぱり良い。やめよう、私らしくない」
「はあ?」
それまでのしおらしいような空気を吹き飛ばしたペール博士は、ぐぐっと背筋を大きく反らし、パキパキと腰の骨を鳴らした。
「私は私らしく行こうじゃないか。全く馬鹿馬鹿しい」
「は?」
何も居ない所でチョークスリーパーでもするように腕をグッグッと伸ばしてストレッチを始めた彼女に、僕は何がしたいのか全く理解出来なかった。
探求者というだけあって基本的な頭の回転が僕よりもずっと早い事はもう分かっていたが、IQの高い人はこんなにも周りを置いてけぼりにして物事を進めたがるものなのか。それともペール博士がそういう人というだけなのだろうか。
困惑する僕を見たペール博士は「ふふ」と小さく笑うと、僕の頭をぽんぽんと叩くように撫でた。
「お? なでなでか? げぼくなでなでされてるな。おれも! おれもなでろ! ずるい!」
完全に振り回されて何も理解出来ないままであるにも関わらず何故か母性を受けている僕を見たラムネが騒ぎ始めると、それを見たペール博士が「おお、ラムネくんも撫でてあげよう」と反対の手を使ってラムネを撫でようとする。………けれどその手はラムネの体をすり抜けていく。
「っと………そうだったね。今のラムネくんに触れられるのはキミだけだったか。では後でおやつを買ってあげよう」
「おやつ! おやつか! ジャーキーか!? ジャーキーだな! おにくのがいい! おやさいのやつじゃないのがいい!」
「ジャーキーかどうかは分からないが………ここに来てすぐの時に出店やらを見てきたろう。今はもう閉まっているだろうが、探せば夜店の幾つかぐらいはあるだろうさ。そこで何か買ってあげよう」
「よみせっ! よみせかっ! ………………………よみせってなんだ? おいしい? よみせたべれる?」
ハイテンションから一転、スンッと大人しくなったラムネに「美味しい物が売っているかもしれないお店だよ」と語り掛けるペール博士の目は、相変わらず過労と睡眠不足によって濁ってはいたものの、それでもその瞳の奥には慈愛のような感情が篭っているように見えて、それこそ何だか「らしくない」感じがした。
未だ僕の頭を撫で続けるその手を退けつつ「意味分からん」と呟けば、ペール博士は「ふふふ」と怪しげに笑った。
「私は明日もメルヴィナ先生の体を調べる。大なり小なり自制はするがね。キミは私が暴走しそうになったら、今日のように私を止めてくれれば良いってだけの事だ」
「はあ? またあんな大立ち回りしろってのか、もう許してくれよ」
不満を隠しもせず僕がそう言うと、ペール博士は退けられた手を再び僕の頭に乗せて撫でた。その撫で方は決して上手な撫で方とは言えずかなり下手くそなものだった。
「格好良かったよ? さっきのキミ。私を打ち倒すような事は出来なかったけれど、被害者を出さずしっかりと止める事に成功しているんだ。別に悪くなかったじゃないか。であればまた上手くやりたまえ、楽しみにしているよ」
それこそ彼氏彼女、まるで年上のお姉さんが年下の彼氏を諭すような口調でそういうペール博士に、僕はやはり同じような動きで頭に乗った手を退ける。
「では宿に向かうよ。今からでは御大層な宿は取れないが、これ以上遅くなってしまえば野宿になる。私は構わないが、キミは嫌だろう?」
「…………診療所は? 言えば空きベッドの一つ二つは貸してくれるだろ」
「ハル診療所は入院患者の受付を行っていない。ここにあるのは待合室の長椅子だけだが、私は椅子で寝るのは嫌いでね。腰が痛くなる」
そう言って診療所の出入り口──だった丸い穴──に向かったペール博士は、どこか軽やかにも思える歩調でそこを通って外に出る。
僕は「おやつ! おやつ!」とうるさく騒ぎ続けるラムネのその顔面を、鼻の穴を塞がないように気を遣いながら掴んで、そのまま頭をぶるぶると小刻みに揺さぶる。アイアンクローよろしくアイニャンクローをされたラムネは「むぉぁーっ」とくぐもった声で呻きながら両手を使い、僕の手を必死に払った。
「結局どういう事なんですか。まるで訳が分からんぞ」
ペール博士の後を追いながら僕がそう言うと、彼女は不意に立ち止まる。足早に追い掛けていた相手が急に立ち止まった事で、僕はその背にぶつかりそうになったが、寸での所で何とかつんのめるに留めた。
すると彼女は背中を反らし、背中越しに頭を僕の肩に乗せて耳打ちするような体勢になりながら語り掛けてくる。
「───種付けするんじゃないのかい? 私に。私の体に。びゅーって。これから宿に行くんだよ? 私と、キミとで、一つの部屋に」
「は? いきなりなんすか気色悪い」
それこそASMRのような声色で僕の耳に囁き出した彼女に対して少しゾクっとしたが、ペール博士は「そういう設定なんだろう?」とウィスパーボイスで語り続ける。
「いやなに、少し気分が良くてね。抱きたいとするなら抱かれてやっても良いかと思っていたんだが」
「抱かない。抱くかよ。なんだいきなり。脈絡無さ過ぎるぞ。これだから頭良い奴は頭悪くて嫌なんだ。主語と述語、5W1Hぐらい覚えろ」
良い加減耳元に囁き掛けられるのも嫌だった僕は、真横にあるペール博士の方へと少しだけ頭を向けると、ペール博士は「へえ? どうしてだい」と更に僕へ体重を掛けて寄り掛かる。
「都合の良い穴があるんだよ? その穴自ら好き放題ハメ倒して良いと言っているんだ。健全な青少年であるならおっ勃てて押し倒すものじゃないのかい?」
淫靡な声色でそう言うペール博士に、僕はそれっぽく「ふむ」とか返しつつ少しだけ考える。
まず意味が分からない。ペール博士に某か思う所があったとして、僕はそれを
そうでなくとも、何より大きな拒否の理由があったから、僕はそれを口にした。
「あんた臭い。風呂入れ」
僕がそう言うと、ペール博士は一瞬きょとんと目を丸くした後、すぐ跳ねるように頭を下げてけらけらと笑い出した。
「ああ全く。どうしてなんだろうねえ」
笑い過ぎて目元に溜まった涙を指で拭きながら彼女は言う。
「みんな同じ事を言うよ。先生も、キミも」
「当たり前でしょ。自分じゃ気付かないかもしれないけど、無茶苦茶臭うぞ。女として抱いて欲しいなら
ペール博士がステップを踏むように少しだけ前に躍り出ると「そうだねえ」と言いながら僕を見据えた。
「偶には恩師の指示ぐらい聞くべきかもしれないね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます