2章

2-1話【甘えと甘えと死んだ犬】



 正直な所を言うのなら「普通こんな感じじゃなくない?」というのが本音である。何から何まで思っていたのとは違っていたその現実に、僕は「異世界転生って普通こんなんじゃないでしょ」と思わざるを得なかった。

 ある日突然別の世界に、というような内容のコンテンツは古今東西に存在する。特に日本では平成を超えた辺りから創作コンテンツの題材として非常に良く使われ始め、いつからか異世界転生モノは軽視されがちになってしまったが、言ってしまえば不思議の国のアリスだって異世界転生モノなのだから、少なくともその歴史は決して軽視出来ない程に深いはずだと思う。

 しかし僕が経験しているそれは古今東西で語られるようなそれとは全く異なっていた。

 シモネタやたら言う系ヒロインに囲まれる事はまだ良いとする。一昔前であれば「それ何てエロゲ?」とか「抜きゲーかよ」とか言われて面白可笑しく茶化されていただろう事実に反して昨今では言葉狩りの良い的になるかもしれないが、まあ前衛的かつ挑戦的だと言われればギリギリ許せなくもない。

 だがまさか「前世ゴリラです」と言わんばかりのパワープレイ厨共に囲まれるとは流石に思いも寄らなかったし思いたくなかったし正直今でも「普通こんな感じじゃなくない?」と思って止まない。

 パイオツデカ過ぎ金髪ボインなチャンネーである所の橘光たちばなひかるは、生前の事故により脳のリミッターが外れたがそれを使いこなす事で完全に脳筋ゴリラと化しているし、ルーナティア人である悪魔の少女ジズベット・フラムベル・クランベリーはダウナーな見た目と口調の割に隙あらば「もう考えるの面倒臭ェわァ。とりあえずぶっ殺しゃァ良くねェ?」とか言っちゃうようなパワープレイ思考に染まって手に負えないし、ウザい見た目とウザい口調の割に意外と常識人ポジションだったパルヴェルト・パーヴァンシーも、元々不器用で力任せだった所に「ゴリラ御用達 半額引き」みたいな性能の法度ルールを得た事でパワープレイに磨きが掛かってしまったようだし、僕の相棒であるラムネ・ザ・スプーキーキャットも当初は希少で貴重な癒やし存在だったが、思い返せば当初から定期的に気性が荒くなる気紛れな猫でしかなかった。

 ……そう、ラムネは猫でしか無かった。人によっては「普段は温厚で可愛いけど、法度ルールを適応すると攻撃性が高まる」と思いがちだが別にそんな事は無い。確かに法度ルールを適応するとラムネはどんどん理性が希薄になるが、そもそもラムネはまだ一歳前後の年齢、遊びたい盛りなお年頃なのである。普段は毛繕いかうたた寝かの二択なのだが、興味を惹かれるようなものがあると頭がそれで一杯になってしまうやんちゃ坊主。

 それでも他のバカゴリラ共と違って唯一救いなのは、僕の身の安全を比較的優先してくれる事だが、それでもベースは猫畜生。ハイになると止まらない。

 そんな中に居るドジっ娘メイド的な雰囲気を醸し出しながらも「そんな事実は知りませんわ。秘書が勝手にドジッた事です」と淑女面している事の多い身長三メートルを超えるクソデカメイドであるトリカトリ・アラムが最も脳筋だとは、さしもの僕とて予想だにしなかった。

 トリカトリは基本的に良い子である。シモネタ好き……というよりは、彼女は振られた事柄に対して何かしら必ず応じようとしてくれているだけで、それがどんな内容でも微笑みをたたえながら反応してくれる心優しい系クソデカメイドなのである。

 荒事に巻き込まれてもメイドらしく遊撃と補佐に周り、最前線に行きたがるジズや光の援護をしつつ僕やパルヴェルトのフォローに入ってくれるような良い子なのである。

 だがトリカトリの良い子モードに時間制限が付いているだなんて知らなかった。

 荒事が長引けば長引くほど、その立ち回りがまるで思考にモヤが掛かったように雑になっていくなんて知りもしなかった。

 四本指の大きな手を地面にぶっ刺したかと思えばそのまま大地を掴み、ジズや光を容赦無く巻き込みながらアクションゲームの敵モンスターがやる岩投げさながら地面を掴んでぶん投げる事もあるし、その頃になれば僕やパルヴェルトなんかには見向きもしなくなって何一つフォローしてくれなくなる。市街戦ともなれば躊躇い無く周囲の家屋をぶち壊すし、崩れた瓦礫や折れた柱なんかをポイポイぶん投げるその立ち回りは誰がどう見てもルーナティア城に勤める現役メイドとは思えず、初めてそれを目の当たりにした時は「ラ◯ジャンかな? イージャン」とか言いながら現実逃避してしまった。

 確かに胸はデカいさ。光に負けない程にボインボインさ。お尻だってデカいさ。普段は丈の長いメイドスカートに隠れて分かりにくいがむっちむちさ。

 だけどそれはナイスバディとかそういう話ではなく「そもそものトリカトリ自体が身長三メートル超えるぐらいデカい」という話であって。もし僕がトリカトリとおセッセするとしても冷め切った目をした悪の女幹部が如く「貴方って小さい男ね」だなんて言われる事態になりかねない。かといって「僕が小さいんじゃねえ、お前がデケえんだガバマ◯ビッチが」だなんて口にしようものなら数秒後には「タクト肉 半額引き」みたいなシールを貼られる事になるだろう。


「チルに近接戦の鍛錬をさせたくての」

 雨上がりの昼下がり。上がったり下がったりと忙しいルーナティア領内に勝手に建てたという神社で首様くびさまが言ったその一言は、その従者であるチルティ・ザ・ドッグにとっては事実上の死刑宣告になってしまった。

 チルティ・ザ・ドッグは基本的に銃火器による戦闘を得意とする。首様が変な方向性のガンマニアであるという事もあるのだが、チルティには銃の扱いやその立ち回りに関するある種の才能があったようで、特に何を使えと指定が無くとも大体マスケット銃の形をした魔法銃での戦闘を行いたがる。

 しかし首様が言うには「魔法銃だろうが実弾銃だろうが、どっちにしろ所詮は直線兵器じゃからのう」とか何とかいう事で、要するに銃に依存し過ぎないようにさせたいらしかった。

 それは銃社会ではない日本では一般には殆ど知られていない事実だし、何だったらゲームでしか銃火器の知識を持っていない僕のような量産型クソナードですら知らない事実なのかもしれないのだが、銃というものは僕らが思うよりも遥かに威力があるらしい。もやし野郎がショットガンを撃とうとして反動リコイルで肩が外れたなんて話は割と有名だろうが、例えば映画なんかでよくある『車の後ろに隠れて銃撃戦をする』なんて行為は自殺行為に近いのだと首様は言う。

「防弾仕様だとか、よほど小口径の弾丸を使用しておるとかなら話は別じゃが、軽く蹴っただけでヘコむようなペラッペラの鉄板を使用した一般車両如き、銃は容易に蜂の巣にするぞい」

 よほど小口径……と、首様はそう言っていたが、実際最強の銃として名高いデザートイーグル等によく使用される四五口径の弾頭はかなり分厚い辞書クラスの本を十一冊貫通するという威力検証が行われている。アメリカとかで「ヤクのキメ過ぎで痛みすら感じなくなった奴」が暴れた際とかに、着弾時の強い衝撃によるストッピング性能が鎮圧に極めて有効的だとして四十五口径の弾頭も割りかし使われているのだというが、とはいえデザートイーグルに限らずそもそもの銃弾に貫通力がある関係から、イカれヤク中をぶち抜いた後の弾丸がそのままヤク中を貫通して周りの一般人に当たる可能性もあるらしく、批判は決して少なくないとか。だからといってダムダム弾は使用禁止とか聞いた事あるしな……。

 ………とまあ僕の意見はさておくとして、首様の気紛れで人の姿を得た『元その辺の野良犬』であるチルティは、主である首様に「武器無しの徒手空拳で頼むぞい」と言われて僕らを相手に素手で立ち回る事になった。要するに組手という訳だ。

 もっとラムネに乗った状態の戦闘に慣れておいた方が良いかなと思った僕がチルティの相手になろうと立ち上がろうとしたが、即座に首様から「猫パンチは素手に含まん」と言われてしまい、そのまま僕及びラムネ・ザ・スプーキーキャットは参加資格を失った。

 …………ああ、そうだ。言い忘れていたが、鼻に掛けるような口調がウザいパルヴェルト・パーヴァンシーは今回ここには来ていない。首様から呼び出しがあった僕らだが、彼だけ「少し一人で考えたい事があってね」と何やら神妙な顔付きで首様が居る神社まで遊びに来る事を拒否したのだ。

 いつになく真面目な表情だったからまたスランプでメンタルがやられているのかと心配したが、パルヴェルトは「ああなに、そういう話ではないよ」とすぐに否定した。

「とはいえ、場合によってはまたブラザーの力を借りる事になるかもしれない。その時は頼めるかい?」

 少し困ったような顔をしながらそんな事を言ってくるパルヴェルトだったが、僕が「断る理由が無いから断らないと思う」と返せば、パルヴェルトは笑いながら「そうか。ありがとうね」といつもの調子に戻った。

 そんな訳で今回はパルヴェルト抜きで首様の所へ遊びに来ている。人によっては「ハーレムじゃん!」とか言うかもしれないがラムネを忘れちゃいけない。勘違いしている奴の為にちゃんと言うが、ラムネはオス猫だ。お腹を向けてへそ天している時なんかにはしっかりちんちんとたまたまが見える。メスだったら良かったのになぁとか思う事は確かにあるが現実は変わらないし、オスでもラムネが可愛い事だって変わらない。ふかふかだし。

「して、誰が一番手を担うんじゃ? 誰でも良いぞ」

 玉砂利の敷かれた神社の境内で待つチルティを見た首様がそう言うと、宝物殿と本宅を兼ねた建物の縁側で足をブラブラさせながら座っていた橘光が、その足を振って飛ぶように縁側から降りた。

「ウチが全裸土下座させたるわ」

 基本的にはアホだが記憶力だけはやたらと良い橘光が、およそヒロインがして良い顔がどうのこうのを通り越し、そもそも女性がして良いとは思えない程の表情でメンチを切りながらチルティの元へと歩いていく。

 ………どうでも良いんだけど、どうしてヤンキー気質な奴らは若干シャクレ気味に顎を出しつつ頭を上下に揺らしながら睨むのだろうか。自分ではカッコイイと思っているのだろうか。傍から見ると普通にシュールなツラなんだが……陰キャが指抜きグローブを着けたがるのと同じような理屈かな。

「こっちのセリフですよこの臭マン」

 白髪はくはつ姫カットで糸目なロリババアである首様は基本的に温厚なちっちゃなお婆ちゃんなのだが、それに付き従うチルティは口も悪いし態度も悪いし言ってしまえば性格も悪い。何せ元々がその辺の野良犬であり、首様に付き従う理由も食事エサをくれるからという事と上下関係がはっきりしているからというだけ。僕らのような第三者に対しては通常の野犬同様の無遠慮な攻撃性を遺憾無く見せ付けてくれる。

 そんなチルティが酷過ぎる言葉を口にすると同時、まるで聖なる杯を奪い合う戦争の為に呼び出された狂戦士バーサーカーのような雄叫びを上げた光が、玉砂利の敷かれた地面に深い足跡を残しながら急接近する。「中の人変わった?」とか「あー声に合わせて専用の効果音SE当ててんのかな」とか思ってしまう程に低く野太い光の雄叫びが大気を震わせるのに合わせてチルティが身構えるが、完全に狂戦士バーサーカーとなっている光はそれより遥かに早く踏み込んでいた。

 しかし驚く事に、僕が「おいおいおい死んだわアイツ」と思うよりも先に勝敗は決まってしまった。


 ………まあそれは一旦さておくとして、みんなはもう忘れてるかもしれないからもう一度言っておく。

 僕らが今居るのは雨上がりの神社である。

 ここで質問だが、みんなは学校のグラウンドの隅とかで乾いたワカメのようなものを見た事があるだろうか。

 大多数の人は「なんで学校のグラウンドにワカメ生えてるんだろう」とか思った事があるかもしれない。実際まだピチピチプルンのクソ生意気なハナタレだった小学生時代の僕も、友人と一緒に「あのワカメなんだろうね」「いやあれはキクラゲだよ、知らねえの?」とか言い合っていた。

 そんな事を言い合う僕とその友人に向かって「あれは使用済みコンドームだから触っちゃだめだよ」とか言っていたあっくんが次の日には学級の全員からミスターコンドームとか呼ばれて総スカンされていた話はまたいつかするとして、晴れてる日は増える前のワカメの如く乾燥して散らばっているそれはワカメでもキクラゲでも無ければ当然使用済みコンドームでも無く、正しくはイシクラゲという名前の生物である。

 クラゲと名が付いているがキクラゲ同様に海にいるようなクラゲとは全く別物であり、厳密にはネンジュモ属の藍藻というバクテリアの一種である。基本は土中に隠れているものの、雨が降るとその水分を吸収して一気に膨張、地面を掻き分けて地表に露出するようになるのだ。

 乾燥に極めて強いものの乾燥自体は嫌うワガママ野郎なので、涼しげなグラウンドの隅で見掛ける事が多いだろうし、所によってはその辺のコンクリート舗装された道路脇でも見れるだろうが………最も良く発見されるのは人足が少なく手入れも殆どされていないような寂れ廃れた神社でよく見れる。

 気付けば「あっくん」から「あっ菌」とかいう呼び名に変わって主に女子生徒から尋常ではないレベルで毛嫌いされるようになった彼のフォローをする訳では無いが、イシクラゲは地面から直接生えているだけありイタチやタヌキ、野良犬や野良猫からマーキングで尿を掛けられている場合も結構多く、それこそ誰かが青姦した時に使った使用済みコンドームだと思って触らない方が良い場合が多い。

 しかし驚く事にイシクラゲは洒落にならない程に栄養価が高い。鉄分は葡萄ぶどうの三十倍であり、地面に直接生えるだけあり様々なミネラルも含んでいるのだが、特筆すべきはタンパク質の含有量二十パーセントとかいうイカれた数値。コンビニやスーパーで買えるようなプロテイン飲料なんかは軽く凌げる数値である。

 その食べられそうな見た目に反せず、実際日本では古くから食用にされる事も多かった。しかし特製スパイスとして野生動物の尿が引っ掛けられていたり、場合によっては隠し味としてあっ菌が付着したりしている可能性もかなり高いので、食べてみようと思った方はマジで念入りに洗う事を推奨する。

 そんなイシクラゲだが最大の特徴はそれではない。

 日陰によく生えており雨上がりに姿を現すイシクラゲは、


「────────おうっ!?」


 踏むと凄い滑る。


 仮にアイゼンやマリンシューズを履いていたとして、それでも尚めちゃくちゃ滑る程なのだから、ここみたいな玉砂利が多く敷かれている神社でただの靴を履いている女が力一杯踏もうものなら、それはもう見事なまでにズルリと滑る。

 仮に口があればきっとヘ◯ベルハ◯スのあいつみたいに「ハーイ」と手を挙げていただろうイシクラゲを全力で踏み抜いた光は、そのまま綺麗に顔面から地面に激突し「───ぶふっ」と呻いたきり動かなくなった。

「……………」

 地面にうつ伏せになったまま微動だにしない光に誰もが言葉を失って呆然としていたが、やがて状況を理解したチルティが光に歩み寄っていく。そのまま光を追い越したチルティだったが、大の字で倒れる光の両膝に手を掛けながらしゃがむと光の両膝を持ち上げる。逆エビ固めでもするのかと見ていたら……………チルティはいきなりかっいた光の股間に顔面を押し付け、深く深呼吸を始めた。

 唐突過ぎるそんなチルティを見て何をしているか脳が処理を出来ず「は?」とか思いながらそれを眺めていると、やがてチルティは顔を上げて光を引きずりながらこちらへ歩いて────、

「おーい人の股間嗅いでフレーメン反応すんなやめろそれ、流石にちょっと光が可哀想だわ」

 真顔で口を四角く開きながら歩いてくるチルティに僕はツッコミを入れざるを得なかった。それこそいつだかのように「くちゃっ!」とか言うのかなぁと思っていたのだが、何ならそれよりよっぽど酷い反応をしながら死体蹴りが如く勝ち煽りをするチルティだった。

 しかし実際の所そこまで煽りの意思は強くなかったのかハブのような口をしながら光をぽいっと放り出すとすぐにまた戻っていった。………犬だし純粋に臭いが気になったのだろうか。

「ったく……阿呆がよォ……」

 僕と同様、それまで黙って観覧していたジズベットなんたらベルなんたらベリーが「ェェえっごいせェっとくらァよォ」とおっさん臭い声を出しながら立ち上がると、左耳に大量に着いているピアスがチャリリと鳴った。

 掛け声こそねちっこい説教してくるタイプの老害のそれだったが、背中から放っていた雰囲気は至極真面目なものであり、恐らくその表情はいつぞやのように狂喜に満ちているのだろうと推測出来る。

「さァてェ? ちょっくら恥晒しの敵討ちと洒落込もうかしらねェ」

 そう言うジズは先端が三叉に分かれた特徴的な尻尾をブンブンと振り回し始めた。特徴的なジズの尻尾はまるでトライデントのように先端が三叉に分かれており、三本それぞれがまるで指のように動かせる。ブンブンと音が鳴る程力強く振り回されるその尻尾の先端は、まるで手のひらを握った時のようなグーの形になっていた。

 武器無しではあるものの、しかし尻尾の形は通常通りの三叉なので法度ルールは適応されていない。右手をフリーにしつつ、ジャージを履いてるヤンキーが良くやっているように左手の親指だけビキニパンツの腰に挟んだジズは、さながら槍の如く長い尻尾を力強く振り回す。

 やがて遠心力を得て重さを増した尻尾は、


「───ぶふっ」


 ミスって自分の後頭部を強打した。

 

 流れるような動作で尻尾を振り回し、流れるような動作で自身の頭をぶっ叩いたジズは、そのまま流れるようにぐらりと仰向けに倒れて微動だにしなくなった。恥晒しの敵討ちをしようとして恥を晒したジズは白目を剥きながら鼻血を吹き出してぶっ倒れていたが、やがて状況を理解したチルティが先程と同じように歩み寄り、まるでク◯ニリ◯グスでもするかのようにジズの股間に顔面を押し付けて深呼吸。再びフレーメン反応を示していた。

「おいチルティちょっとそこ代われ僕もジズ吸いしたい僕もジズのお股くんくんしたい」

ぼんや、本音が漏れておるぞ」

「───はっ!?」

 やはりハブの口のような形に自身の口を開いたチルティがジズをポイすると、僕の近くでそれを観覧していたトリカトリが「えぇ……アレの後に戦うのわたくしイヤなんですけど……」と呟きながら立ち上がった。

 身長三メートルに達するその巨体をのそりと上げたトリカトリが嫌々感をありありと放ちながらチルティの元へ向かうが、その表情は誰がどう見ても嫌そうだった。格闘ゲームの対戦画面のようにチルティと見合わせているトリカトリだったが、恥晒しと阿呆が醜態を晒した直後だっただけあり、やる気が出ないのも分かる気はする。

 そんなトリカトリとふと目が合った。

「……………」

 流石にモチベが上がらないトリカトリに対して、しかし『頑張れ』だなんて無責任な言葉を掛ける気にはならなかった僕だったが、だからといって他に良い言葉も浮かばなかったのでとりあえず無言で手を振っておいた。

 僕が右手をひらひらと振ってやると少しはやる気になったようで、それまで嫌気満々だったトリカトリは嬉しそうにニッと微笑んだかと思うと、すぐに口元を引き締めてフンスと鼻を鳴らしながらチルティへと構え直る。

 左の手足を前に置き、右の手足を後ろに下げた構えをしたトリカトリは、しかしジズや光の時と違ってそのまま全く動かない。直前に恥晒しと阿呆が無様をしでかしているのを見ていたからか、それともそういう戦法なのか、或いは性格からなのかそのまま不動を貫くトリカトリだったが、やがて焦れたチルティがその沈黙を破って駆け出した。

「────ぅんぬわーっ!」

 真面目なんだか不真面目なんだか分からない気の抜けた掛け声のチルティが急接近するが、チルティはトリカトリに肉薄する直前に「んぬぇあっ!」と叫び、回し蹴りをするかのように右回転しながら跳躍、回転カカト蹴りを放った。

「………………ふむ」

 横向きに回転したチルティのカカトがトリカトリの上半身に向けて迫るが、トリカトリはそれを避ける事も受け止める事も無く下げていた右腕を前に振るうと、迫ってきていたチルティのカカトに向けて拳を放った。

 相手の攻撃を避ける事も受ける事も、或いは合気道のように利用する事すらしない。回し蹴りを仕掛けるチルティを回し蹴りごと殴り飛ばそうとするトリカトリの戦い方は、相手の攻撃を自分の攻撃で上書きするという今までに見た事がないタイプの戦い方…………身長三メートルに達する超大柄な種族であるトリカトリ・アラムならではの独自の戦法だった。

 空中回転蹴りを仕掛けていたチルティはトリカトリの拳により「ぬわっ!?」と呻いて完全に吹き飛ばされるが、二回転もすると手で地面を叩くようにして体制を整え着地する。トリカトリもそれを眺めたまま何も追撃もせず再び元の体制へと戻るが、良く見るとジリジリとり足で距離を詰めている。僕ら愚者が呼び出されるまではしっかりと本職メイドだっただけあり、大胆かつ慎重な立ち回りだった。

「────ふんぬーぅっ!」

 再び駆け出したチルティはまた横回し蹴りを放つ。それを見たトリカトリが再び拳を引いたが、チルティはカカトが当たるより前に回していた側の膝を曲げた。かと思えば軸足を使って急に飛び上がる。

「ぅぃ──────」

 フィギュアスケートのように足を曲げて飛んだチルティは体を小さく畳んで斜めに高速回転しながら、

「──── っ!」

 通常のそれより遥かに勢いの乗ったカカト落としを放った。

「すっトロいです」

 しかしそれはトリカトリには命中しなかった。

 下げていた拳を開きながら前に出したトリカトリは、カカトごとチルティの足を四本指の大きな手で鷲掴みにし、そのまま大きく振り上げた。

 あわや玉砂利に叩き付けられるかと思いきや、チルティは掴まれている方とは反対の足のカカトを高速で振って抵抗する。足を掴まれて宙に持ち上げられたチルティがトリカトリの大きな手の甲をひたすら蹴り続けると、自らの手の甲をカカトで蹴られ続けているトリカトリは痛みに顔をしかめながら握っていた手に更に力を込めた。

「────っぐぬッ!?」

 ぼぎゅちゅっと粉砕音が聞こえたかと思えば、握られていたトリカトリの指の隙間から押し出された血が流れ出る。味方陣営での練習試合にも関わらず、目の前で起きたその状況に理解が追い付かなかった僕は思わず「は?」と声を漏らしてしまう。

 チルティの足を握り潰したトリカトリは、無言のまま下げていた右足を前に踏み出し勢いを付けて前方へ腕を振る。筋肉も骨も力任せに潰されたチルティの足は遠心力に耐えられず、血飛沫を撒き散らしながら太ももからブチッと千切れ、拘束を失ったチルティはそのまま投げ出されてごろごろと転がっていった。

「………は? ………え、あれ?」

 味方陣営同士で容赦の無い殺し合いに発展し掛けている二人に何一つ理解が出来ず置いてけぼりになる僕だったが、言葉を求めて顔を向けた先に居る首様は何も変わらず柔和な微笑みのまま糸目でそれを眺めている。

 慌てて視線を惨劇の場に戻せば、トリカトリは完全にひしゃげたチルティのポイっと足を放り捨てた所だった。かと思えば投げ捨てられた足が地面に触れるより先に、トリカトリは駆け出して急接近した。

「おルぁ───ッ!」

 片足を千切り取られて立ち上がる事すらままならないチルティに向かって駆け出したトリカトリは、放り投げたポーズのままで上がっていたその手を握り直し、後ろ手を付いて後退っていたチルティに向けて殴り掛かる。後ろに付いていた両手を離したチルティは両腕を合わせるようにしてそれをガードするが、トリカトリの拳は何一つ速度を落とさずガードの上から殴打した。

「ぬっぐぅ……っ!」

 巨大な拳で打ち付けらた地面に、めり込んでくぐもったチルティの呻き声が聞こえる。


 勝敗は決した。


 軽快な動きで重たいカカト蹴りを放っていたチルティは中々見事な立ち回りだったように思えたが、その体格と力に物を言わせたトリカトリの「攻撃の上から攻撃を叩き込む」という独自の戦法とは相性が悪かったようだ。

 ………本来チルティ・ザ・ドッグは銃を使う戦い方を得意としているが、仮にこれが通常通りに銃を使っていたら身長三メートルに達するトリカトリにとってはかなり不利な戦いになっていただろう。当たり判定が大きいというのは基本的にデメリットにしかならないだろうし、光やジズのように動き回らず待ちに徹していた序盤を見るに、恐らくトリカトリは反撃型。いわゆるカウンタータイプだろうから、いつだか振り回していたマスケット銃の見た目をしたリロード無しの魔法銃を乱射されていれば、反撃に転ずる余裕は無く負けは必至だったろう。

 とはいえチルティが振り回す嘘みたいな連射性能のマスケット銃は魔法銃であり、決して実弾を射出している訳ではない。弾頭は存在せず、銃の見た目でありながら非物理武器だから、トリカトリがその上から殴るとかし始めたらどうなるかは分からない。魔法銃というからには魔力的なものを消費して撃つだろうから、どちらが先に息切れを起こすかといった持久戦になるのかもしれない。

 それはさておき………チルティの足はどうなるのだろうか。完全に握り潰されてモザイクが欲しくなるような惨状になってしまっているチルティの足だが、ペール博士はああまでなってしまった状態でも治療出来るのだろうか。

 やがて地面に刺さるようにして打ち付けられていた拳を持ち上げたトリカトリは、

「────っぬぐっ」

 即座に反対の拳を叩き付ける。すると地面にめり込み始めていたチルティの呻き声が再び聞こえた。

「えっ」

 馬乗りみたいな格好で左右の拳を叩き付け続けるトリカトリ。勝敗は決まったし、それなら試合は終了だろうと思っていた僕は唖然とする。

「────────」

 右と左とで交互に殴り続けるトリカトリは何も言わずにその両腕を振り続けるが、それはチルティが呻き声すら発さなくなっても止まらない。トリカトリの大きな拳が地面に叩き付けられる度に鳴っていたごすごすという地響きのような音も、いつしかごじゅごじゅと水気を帯びた音へと変わっていた。

 最初の内はチルティがガード出来ていたから硬い音だったのだろうが、それがいまではぬかるんだ沼地でも歩いているかのようなごちゅごちゅという音に変わっているという事は………詰まる所ガードを維持出来なくなったチルティが完全に殴り潰されているという事に他ならない訳で。

「とっ、トリカぁッ!」

 トリカトリの拳が持ち上げられる度その拳頭から赤黒い液体が糸を引いてる時点で既に手遅れな気がしてならなかったものの、それでも居ても立ってもいられなくなった僕は依然として動かない首様を置いて縁側から駆け出し、走ってトリカトリへと向かった。

 そんな僕の声に耳も貸さず黙って両の拳で殴り続けるトリカトリは、普段は余り見えないギザギザとした鋭い歯を剥きながらフッフッと荒く息を吐いて殴り続ける事を止めない。いつもは大して意識しない猫のような瞳孔は細く縦長に伸びており、その表情は普段見慣れている不器用でおっちょこちょいなクソデカメイドらしからぬ怒りに満ち満ちた表情だった。

 急いで駆け寄ったは良いが、しかしトリカトリには見向きもされない。だからといってよくあるように羽交い締めにして止めるには単純な筋力は当然ながら体格差が開き過ぎている。

「トリカっ! おいもうやめろっ! もう良いだろトリカっ! トリ────」


「───うるせえ───」


「──────────ッ!?」

 低く響くようなトリカトリの声が聞こえた瞬間、僕はいきなり声を失った。肺から流れた空気が声帯を震わせる感覚はするが、肝心の声が出なくなった。聴覚を失ったのかもと思ったが、トリカトリが両の拳で乱打し続ける音は変わらず聞こえている。

 失語症になった人か、或いは酸欠に陥った魚のようにパクパクと口を開閉するが何も変わらず、そこで僕はようやく状況を理解する。


 ……こいつ法度ルール使いやがった。


 この世界には法度ルールというものが存在する。分かり易く言うなら魔法のようなものだが、魔法と違って法度ルールを扱える者は決して多くない。魔法はある程度の適性があれば大体の人間に扱えるらしいし、仮に才能が無くても根気強く練習、鍛錬すれば大なり小なり魔法が使えるようになるが、法度ルールに関しては魔法とは全く異なり、扱えない者は恐らく一生無理なまま。

 そもそもの法度ルールを適応出来るようになる条件は『極めて強い感情、意思を抱く事』であり、またそれにより得られる法度ルールも自身が望むような便利なものではない場合が多い。

 例えばジズベット・フラムベル・クランベリーは自身の体型に対して強いコンプレックスを抱いているが故に「──もっと素敵な私になりたい──」という思いにより自身の体を好きなように作り変えるという性能の法度ルールを得ている。またパルヴェルト・パーヴァンシーも「───ボクは強くあらねばならない───」という強い思いに応じた法度を得ているし、同様にラムネ・ザ・スプーキーキャットも法度ルールを得ているし、ペール博士ことペール・ローニーも法度ルール持ちだという。

 しかし誰も彼もが法度ルールを得られる訳ではないと言っている通り、橘光や僕だけでなく首様やチルティも法度ルールを持っていない。あくまでも『極めて強い感情、意思を抱く事』が発現条件なので、今はラ◯オンキ◯グのテ◯モンとプ◯バァよろしく何かに付けてラムネの背に乗っている僕だっていつかは覚醒して無双する可能性だってある訳だ。パルヴェルト辺りを雑に殺された事がきっかけで「あのポンコツ……? ……パルヴェルトの事かァァーッ」みたいに超覚醒、めちゃ強い最強の法度ルールを得た僕が圧倒的な力で敵も味方も関係無く全てを薙ぎ倒して「……また僕なんかやっちゃいました?」とか言うんだ。いつかきっと、そうに決まってる。そうで無ければ心が保たない。

 そんな誰もが発現の可能性を持っている法度ルールだが、言った通り必ずしも自身が望んだような性能になるとは限らない。深層心理の奥底、潜在的な欲求を参照する法度ルールの中には「どうやって使うんだ? というか何に使うんだ?」と言いたくなるようなものもある。

 それの典型例がトリカトリ・アラムの法度ルールである。

 彼女が得た法度ルールは『自身を中心とした小さな範囲内での発言を拒否する』というものであり、戦闘ではクソの役にも立たない。場合によっては魔法の詠唱や法度ルールの宣言を止めれるという使い方も出来るだろうが、この世界で使われる魔法は詠唱なんて必要無く、そうでなくとも法度ルールの適応範囲が広くないので「そこまで近付けるなら殴った方が早い」という欠陥がある。

「………っ!? ………………っ!」

 呼吸は出来る。声帯が震えている感覚もあるし、喉に指で触れてみれば確かに振動もしている。しかし肝心の声、音が出ていない。そうこうしている間もトリカトリはチルティが居た場所を一心不乱に殴り続けている。

 悩んだ。どうすれば良いのかは分かっていたが、それでも僕は悩んだ。どう考えてもチルティはもう死んでいるだろうから、わざわざトリカトリを止める必要性は無い。止めた所で間に合わないのであれば、拳を振り回すトリカトリのその両腕に巻き込まれるリスクを負う意味なんて無い。

「──────ッ!」

 それでも、法度ルールの影響を受けて声を発せなくなっている僕がトリカトリに飛び付くのに理由なんて無かった。止めようが止めまいがチルティは助からないだろうが、既にミンチにされているチルティを殴り続けるトリカトリの事を、何となくこれ以上見たく無かったというのが大きい。

 感情に任せて誰かを殴り続けるトリカを、これ以上見たくは無かった。ここで格好良く「誰かを助けるのに理由なんて要るかい?」とか言えたら格好良いのかもしれないが、ただのパンピーである僕なのだから急場でそんな事を言えるような度量なんて無い。そういうのはどこぞの空賊に任せておけばいい。

「───────…………っ?」

 幾ら体が大きいとはいえ馬乗りのようなポーズの相手に飛び付けば、その手は腰ではなく胸の辺りに触れてしまう。しかも振り払われる可能性を考慮していたから、僕はかなり力強くしがみつくようにしてトリカトリへと飛び付いた。童貞によってはおっぱい鷲掴みだと思われそうだが、基本的にある程度胸が大きくなるとブラジャーは必須になる。人によっては帰宅後すぐにブラを脱ぐ人も居るというが、少なくとも屋外では大体の女性がブラジャーを着用するのだから、余程薄い生地で作られた物を着用していない限りは、ブラ越しに胸を揉んだところで布地やワイヤーが硬いだけでクソ程も面白くないのが現実である。

「……………あらっ?」

 法度ルールによって声が発せないながらも懸命にしがみついて止めようとする僕に気付いたトリカトリは、まるで塩と砂糖を間違えた主婦のような声で困惑し、自身の拳と僕とを見比べながら、やがてその状況を理解した。

「───ぁやべっ」

 トリカトリの口から素の反応が出た。完全に「やっちまった」に繋がりかねない言葉が出ると同時に、トリカトリの暴走が治まった事を理解した僕が目を開くと、視界に入ったのはチルティだった肉の塊。着ていた和服は泥と血液が混じった不気味な色で押しつぶされており、その中でチラチラと見えるチルティの茶色の毛髪や骨の白、脂肪の黄色。以前に大量の死体を見ていて耐性が出来ている事もあるだろうが、ここまで原型を留めていないと吐き気すら出てこない。

「……トリカ、止まったか…………?」

「だ、大丈夫です。ご迷惑をお掛け致しましたわ」

 法度ルールが解除され、ようやく声が出せるようになった僕の言葉にそう返すトリカトリだったが、直後にチッと大きく舌打ちしながら低く「いってえな……」と呟いて自身の拳を払う。すると拳頭に刺さっていたと思しきチルティの歯の一部が血垂れと共にポロリと取れて地面を転がっていっま。ぬらぬらと赤黒く輝くその拳から転がり落ちる歯とトリカトリの本気の舌打ちを聞いて一瞬ヒヤッとしたが、それは杞憂だったようで、トリカトリはすぐいつもの調子に戻ってワタワタと慌てながら「どっ、どうしましょう。わたくしやり過ぎてしまいましたわっ」と右往左往し始めた。その仕草は僕がよく知るトリカトリのもので可愛げがあるのだが、その両拳が赤黒く照り輝いている事が全てを台無しにしている。

 しかしそのギャップが逆に僕を冷静にさせてくれた。

「……………とりあえず手ぇ洗ってきたら」

「はっはい」

 勘違いしている者も多いが、血というもの自体は別にぬるぬるとはしていない。元々乾きやすい上、鉄分の酸化によってかなりベタベタする事はあるが、血自体はぬるりとすべるような事は無いらしい。

 それでも血がぬめるように感じるのは、出血に伴って裂けただろう皮膚の下に付いている脂肪が原因だという。出血する際に血が脂肪に触れる事で、その血液は油分が混ざりぬるりと滑りやすくなるらしい。指先で自己主張するささくれをオフサイドで退場させようとして失敗した際なんかは良い例だが、あの時出る血にどれだけ触れても、よほどおデブで脂肪だらけのぶっとい指でもなければ別段指が滑りまくるような事は無いはずだ。すぐに乾いてベタベタし始める事はあっても、ささくれが出血する際に皮下脂肪等に触れていない為、その血液は殆ど滑らない。血液だけでも凄えぬるぬる滑るよという人は血中脂肪が飽和状態になっている可能性があるので、コレステロール値の管理を急いだ方が良いかもしれない。ってペール博士が言ってた。

「………………………」

 ワタワタと慌てたまま敷地内の裏手にある井戸まで走っていくトリカトリを見送りながら、僕は首様に目を向けた。しかし首様は従者であるチルティが殺されたにも関わらず、いつもと何も変わらない柔和な微笑みと線のような糸目のままだった。それを見た僕はチルティだった肉片に目をやり、その後再び首様へ目を向け直す。

「……………チルティ、死んでるけど、良いのかよ」

 ぶっちゃけた話をするなら、この世界では例え死んだとしても生き返る事は出来る。死亡から時間が経って腐敗している場合や、余りにも体組織が損失している場合を除けば、どういう理屈かは知らないがペール博士が蘇生してくれる。必要な魔力がどうたらこうたらで国家が傾くレベルの洒落にならない費用が掛かるらしいが、今回のようにミンチにされてはいても、焼き殺されているような訳じゃなければ蘇生は可能なのである。

 僕が気に食わないのは、首様が殺害を容認した事。チルティを助けようとすらしなかった事。チルティに死が近付きながら、チルティが死の淵に際しながら、しかし静止の言葉すら掛けなかった事。

 首様は僕らと同じく愚者であるが、しかし僕らと違い神である。故に死生観が僕らと異なるのは何となく分かっている。

 そうでなくとも愚者とは『しくじって死んだ者』だし、既に普段の首様とは全く異なる本気状態こと首折れ様として顕現している姿も見た事がある身としては、死に装束を着た糸目のお婆ちゃんが僕らとは全く異なる倫理観だろう事も察している。

「そうじゃな。死んでしもうたな。それがどうかしたか?」

 だから僕はそんな返事にも動揺せず、至って冷静なまま「良かったのか。それで」と返した。

「良くはない。ここいらに使えそうな生物はもう居らんからの。チルが居なければ飯炊きや風呂焚きはわしが自力でやらねばならんくなる。それは面倒じゃ」

「じゃあ何で見殺しにしたんだよ。助けろよ。救えよ。首様なら出来たはずだろ」

 段々と怒りが湧いてきた僕の言葉に含まれる真意に、首様はすぐに気が付いた。

 ………最近自覚出来るようになってきたが、橘光が「終わったはずの者が終わらずに居る」という事に強い不満を持つのなら、僕は「大して意味の無い無駄な行動」に対して強い不満を持つタイプの人間らしい。

 正直な所、僕はチルティが死んだ事に対して特にこれといって感慨は無い。そこまで仲が良くないというのは関係無い。例えジズや光、パルヴェルトやトリカトリが殺されたとしても、哀しみこそすれ怒りは湧いてこないだろう。

 何せ僕も愚者の一枠を担う者。どこか頭のおかしい愚か者なのだから、人が死んだとしてももう心は動かない。


 そんな事で心が動くなら、僕は両親を殺してないはずだから。


 その死に意味があるなら、その死の先に理由があるなら、僕はそれを認める事が出来ると思う。

 しかし今回はどうだろうか。チルティの死に意味はあったのだろうか。チルティが死んだその先に理由はあったのかだろうか。

 僕が思うに、チルティは無為に死んだ。そして僕はそれが許せなかった。許したくなかった。許せない。

「おお怖いのう怖いのう、わしのが格上と分かって尚噛み付くか」

 僕の苛立ちを感じ取った首様の糸目がうっすらと開かれ、黒目も白目も無い仄暗い闇がちらりと見え始めてくる。

 しかし直後、背後から唐突に聞こえてきた声に僕の怒りは雲散霧消してしまった。

 

「ぶふぃ〜。危うく死ぬかと思ったですよ」


「───な」

 驚いて振り返れば、局所的に窪んだ地面の中心に、あられもない姿をしたチルティ・ザ・ドッグが座っていた。着ていた和服はくすんた赤茶色に汚れており、腰帯で固定されている部分以外がはだけたチルティが、特徴的な犬耳をぺひぺひと前後に振りながら衣服に付いた土埃を払っていた。

「……え、どうして……………死んだはずじゃ……頭潰れてたのに……」

 わざわざ確認した時のチルティの惨状は、えもいわれぬものだった。内臓器は全て殴り潰され、骨は粉砕され、かろうじて人型をしていた事だけ分かるレベルまで殴り潰されていたはずだった。それだって着ていた和服がその時の体制と同じように押し潰されていたから人型だと判別出来たというだけで、もしも和服が無かったらただのミンチと言う他に無い有様だったはずだ。

 白昼夢でも見ていたのか? ………いやそれは無いはずだ。直前まで僕は首様と会話していた。その首様は、会話の中でチルティが死んだ事に対して同意していた。もしもそれすら白昼夢であるならばもはや何も言えないが………フロイト博士ではないが今僕がこうして思考出来ている時点で少なくとも白昼夢の最中さなかである可能性はかなり低い気がする。

「……………なんでだ……?」

 目の前で起きた事に理解が及ばず呆然としている僕を見て、首様は糸目を更に細めてころころと転がる鈴のような笑い声を発した。

「のうぼんや。お前さん、わしが神じゃという事実を忘れておるじゃろ」

 死に装束の袖で口元を抑えながらそう言う首様に、僕は「……え?」としか反応出来なかった。そんな僕を無視して首様は続ける。

「わしはこれでも幻想の存在ぞ。そしてチルは幻想の存在と契約を交わした神域の生物。元犬は所詮は元、今のチルは神の使徒なんじゃよ? わしが未だ存在しておるに、チルだけ先に消える道理が通る訳あるまいて」

 細めていた糸目を少しだけ開いた首様がそう言うと、やがて手を洗い終えたトリカトリがバタバタと戻ってくる。駆けて来たトリカトリはいそいそと和服を着直すチルティを見付けると「あらっ? わたくし、貴女の事殺しませんでしたっけ」だなんて口にする。

「んあー? チルはしっかり殺されたです───いや殺すなですよ」

「あ、いえ、その。……申し訳ございません。めっちゃ蹴られて普通にイライラしまして……本当に申し訳ございませんでした」

「謝るだけなら誰にでも出来るですよ。本当に詫びる気持ちがあるならちょっと服着るの手伝うですよ。チル一人じゃお洋服着るの時間が掛かるですよ。帯巻くのクソ大変なのですよ」

「あっ、申し訳ありません! 本来なら私の方からお手伝いすべきでしたね!」

「そうですよこのポンコツ。デカい図体してるだけあってウスノロなのですよ。さっさと手伝うですよスカタン」

「──────チッ……うっぜぇなチビが」

「あーん? なんか言ったですかー? まさかオマエ自分の立場を忘れたですかー? あーあーチル一人じゃ服着れないですよー。誰かさんに乱暴されたせいでチルの服めっちゃ乱れちゃったですよー。あーあー」

「わっ分かりました分かりました。このままでは和服美女の山中レ◯プもかくやですものね、お手伝い致しますわね」

 そう言ったトリカトリが大きな四本指を駆使してチルティの帯を一旦外し、和服の着直しを手伝い始めた。

「………………………」

 それを眺めながら、しかし僕は何も言葉が出なかった。

 …………正直、舐めていた節はある。舐めていたというか、甘く見ていたというか。

 首様が人ではない事は既に知っていた。トリカトリが人ではない別の種族である事も、三メートルを超える体格や指の本数や太さからすぐに分かる。チルティが元々ただの野犬だった事だって、首様の魔法みたいな神力によって変貌させられた事だって知っていた。

 軽く見ていた。軽視していた。

 ─────そう、そうだ。思い出した。僕が今居る場所がどこなのか。電車に轢かれて死んだはずの僕が、それでもどうして今生きているのか。


 僕は異世界に呼び出されたんだった。



 ───────



「ウチずっと前から思ってんけどさ」

 日本語には『息をするように』という言葉がある。

 自分が何処に居て、どんな生活をしていたとしても、生きている限り呼吸だけは絶対に必要である。それは異世界に呼び出されたとしても変わらない事だと僕は思う。

「メイド物だからこそメイド服脱がして撮影するのはアリだと思うんよ」

 人はそう簡単には変わらない。死人が出ても尚変わらない者が居るぐらいなんだから、たかだか異世界転生如きで変わる訳なんてない。ニートだった主人公は異世界に行ってもコミュ障のままだろうし、クソ雑魚だった主人公が異世界に行ったとしても運動音痴が治る訳じゃない。どれだけ気取る事が出来たとしてもクソ野郎の本質がクソである事は揺るがない訳で、或いはなにがしかからチート能力を貰ったとしても結局は同じ事。

 ふと思い返せば、例えばゲームで一つだけチートが使えたとしても、必ず何か別の事柄で苦労するはずだろうと僕は思い至った。最初からレベルカンストだったとしても結局は金策で苦労するし、所持金マックスだったとしても敵からのレアドロップ率だとかは変わってない訳で。チートというのはそれ一つ使った所で派手な効果は得られない場合がかなり多く、使えるチートのほぼ全てを使ってそこで初めて無双出来るようになるのだと僕は思うのだ。

 ルーナティア国に愚者として呼び出された僕らの中には生前には持っていなかった法度ルールを得た者も多いが、ただでさえ正直微妙な性能ばかりな法度ルールなのだから、一つや二つや三つや四つ貰えた所で何かが劇的に変わる事はそうそう無いだろう。その場その場に合わせたチートコードを戦闘中にも関わらず十進数だか十二進数だかを打ち込んで自作出来るぐらいの能力を得ていなければ、都合良く無双出来る事はそうそう無く、そんな能力を持っていたとしたら理論上は何をしても失敗する事が無くなってしまう。

 そして次第に効率化が始まるんだ。百個ぐらいチート能力があったとしても、そのチート能力の中には必ず「使い勝手の良い能力」が存在してしまう。

 するとどうだろう、百個あったとしても頻繁に使うのは勝手が良い能力ばかりになっていく。だってその方が効率が良いから、わざわざ非効率的な能力を使うマイオナ思考でも無い限りは百個あったとしても実際使うのは内五〜八個ぐらいになってしまう。

 そして使い勝手の良いチート能力に溺れ始め、その人は次第に何も感じなくなっていく。

どうせ負けやしないから。何をやったって最終的に自分が勝つ事は確定しているから、自分が死なず身内も死なず、死ぬのはいつも敵ばかりなのが決まり切った・・・・・・生涯が始まってしまう。

 そんな人生を得たとしても僕なら一ヶ月程度で飽きるだろうし、一年も続けば心が壊れて首でも吊っているだろう。

 人生というのは失敗があるから成功という成果が羨ましく見えるものだ。失敗というが無く、同時に成功というも無いのなら、何をやっても失敗しない能力というのは詰まる所『全てが不変』と変わらない。だって一見失敗したように見えたって、どうせすぐに成功へと書き直す訳だろう? それの繰り返しな訳だろう?

 何も変わらない生涯なんて、実際味わってみれば発狂もんだろう。さっさとロープで首を括って次の人生に期待している方がよっぽどマシだ。

 人はそう簡単には変わらない。変わったかのように取り繕った所でいずれ化けの皮が剥がれ、ボロが出て、そして幻滅されるのだから、だったら最初から開き直っている方が良い。元々シモネタ好きな陰キャなのであれば、変に「ちんちんなんて興味無いね」とクールを気取らず、息をするようにシモネタをペラ回してる方がよっぽど楽しいはずだろうし、何より生物的によっぽど健全だろう。

 だから最近の僕は光辺りのシモネタにも全然動じず、また遠慮しなくなってきた。

「無しだろ。メイド服脱がしたらメイド物じゃなくなるだろ、そこは完全着衣プレイを楽しむべきだと僕は思う。下着すら脱がすなズラすだけにしろ、下着やスク水にハサミで切れ込み入れる阿呆は産まれる所からやり直せ」

「アタシは賛成ねェ。メイドっつったらほぼ常にメイド服着てる訳だからさァ………ギャップ萌えっつーのォ? 普段見慣れている姿から一転するのはソソるもんじゃねェ?」

「現在進行形でメイドをさせて頂いているわたくしに対する何の当て付けかとも思いますが、とりあえず私はたまのお休みで私服に着替えると心が踊ります。とはいえプリムまで取ったらその監督の作品は二度と観ませんわね。何なら生涯アンチとして吹聴し続けます。営業妨害? 詐欺同然のゴミ作品に掛けた金返してくれれば黙りますよって所でしょうか」

「一応ボクは名家の貴族だったから、そもそもメイド服自体、見飽きてる感じがあるよ。ニホン人はメイドと召使いを混同している節が強いが………まあ何にせよボクは服より肌が見たい、ボクはT◯L◯VEるで大興奮出来る子だから」

 馬鹿は何処に行っても馬鹿なのだ。馬鹿が死んでも治らない事は僕ら愚者が身をもって証明しているのだ。

 そして馬鹿である事を恥じる必要なんてないのだと、僕は最近良く思うようになっていた。

「いやお前らの言い分は分かるけどさ、僕らからするとメイドを見慣れてないからメイド物のAVとかを観るんじゃないのかって思うんだ。ドラゴンとかユニコーンだとかに憧れるように、幻想の存在だと思うからこそ惹かれるんだよ。だとしたら光の言う通りにメイド服を脱がしたら、それは『メイド物AV』じゃなくて『結局全裸の女優ばかり出てくるAV』って事になっちゃわないか」

 よくある一般的な意見かもしれないが、僕はそう思う。メイド服に限らずスク水とかOLモノだってそうだ。タイトルにその名を冠する程ウリにしているのであれば、それを脱がしてしまえば何の価値も無くなってしまう。

「これはトリカの私見ですが、その女優さんにメイドとしてのキャラクター性が定着してれば違うんじゃありませんか?」

 けれどトリカトリが大きな小首を傾げながら言い出した。

「薄い本でメイドキャラが引っペがされてても大して違和感ありませんし………そう、例えばオリジナルキャラクターを使った姫騎士陵辱モノの薄い本とかでしたら、速攻でビキニアーマーを脱がしてしまえば姫騎士陵辱というより「何か気の強いオリキャラが犯されてるだけのエロ本」になるでしょう? でもそれが「知名度の高い姫騎士キャラ」であれば、例え二ページ目で全裸にひん剥かれていたとしても「立派なくっころ本」になると思いますわ」

「「「「なるほど確かに」」」」

 満場一致だった。勝てる気がしなかった。僕の足元に居たラムネは「ねむい」と言っていたが、きっと猫語で同意しているに違いない。意訳すれば「その通りですね」だろう。

 完璧な理論、非の打ち所が無いとはまさにこの事だ。本職メイドだというのもあって既に謎の説得力があったのだが、それに留まらずトリカトリは「加えて」と続けていく。

「仮にそのAV女優さんが普段からメイド物ばかり出ている有名な方でしたら、さっさと脱がすのも分かりますわ。ある程度はそういうイメージが定着していますもの。結局はケースバイケースって話になってしまいますが……私の意見はこんな所ですけれど、どうでしょうかヒカル様」

「チョッギプルルルィィィイイイイイッ!」

「どっかで聞いたような奇声で誤魔化すんじゃない」



 ───────



 ラムネ・ザ・スプーキーキャットは時々、本当に時々だがスイッチが入る事がある。狂戦士バーサーカー慣れしてしまった諸兄諸君に於いては攻撃面でのスイッチングかとも思うだろうが、生憎とそういう話ではない。

 まだ一歳前後の子猫であるラムネは、歳に似合わず猫らしくクールな姿を良く見れるが決してクールな性格をした猫だというような事は無い。

 猫であるにも関わらず愚者としてルーナティアに呼び出された際に人語を理解出来るようになっているからこそ、普段『いつものメンツ』とで会話している時なんかは、遠慮なのか気を遣っているのか自らの意思で大人しくうたた寝する事を選んでくれているというだけなのである。

 ラムネは愚者としてルーナティアに呼び出される際、人では無いからこそ不完全な形で現界してしまったのだという。だがだからこそラムネは普段から僕に取り憑くという形を取って自身の存在を僕という存在に紐付け、固定しているのだ。ラムネのカ◯カリ小梅みたいな小さなオツムにそんな御大層な事を理解出来るとは到底思えない為、これは恐らく理屈ではなく感覚や本能として理解しての行動だろうとペール博士は推察していた。

 どうして僕を相手に選んだのかは分からない。ジズなんかはかなりの猫好きらしいので、取り憑くならそっちでも良かったのではないかとも思うが、ラムネに聞いてみれば「あいつけむい、けむけむやだ」と嫌な顔をしながら筋金入りのヘビースモーカーに対して嫌悪感を顕にする程のようだから、消去法で僕になったのかもしれない。

「んーぃ。んー」

 ベッドの上で胡座あぐらをかいた僕の股ぐらの上に、まるで小さなおっさんのように足を投げ出して座るラムネは僕の手に向かってグイグイと力強く自身の頭を押し付けてくる。そんなラムネの顔を右手で撫でると、ラムネはご機嫌そうに目を閉じて「んぃー」と不思議な声を出す。

 猫を撫でるとアルファ波が出て癒やされるという話を聞いた事があるが、実際ラムネを撫でくり回していると心底から癒やされるのでその説は間違いでは無いのかもしれないと思える。ラムネ自体が可愛い子猫というのもあるが、そうでなくとも「求められている」という感じが伝わってきて心が満たされるような感覚になるのだ。だって僕が撫でている右手を離そうとするとラムネはすぐに、

「んっ! まだ! おてて! まだ!」

 こんな感じでムッとした顔をしつつ不満を口にしながら、両方の猫手を起用に使って離れようとする僕の手首をガシっと掴んで引き寄せようとするのだから、これが求められていない訳が無い。何せちょっと爪が立っているのか手首にぷすぷすと何か刺さる感覚がして痛いぐらいだし、仮に僕自身を求めていなくとも、少なくともこの手だけは求めてくれているだろう。

「よっ……こいしょ」

 右手でラムネを撫でながら胡座を解きつつ、反対の手を後ろに回して僕はベッドに仰向けになった。するとラムネはすぐにくるりと体を回して、僕のお腹の上でスフィンクスのような座り方をする。………猫がよくする座り方に手を内側に仕舞い込む香箱こうばこ座りというものがあるが、ラムネは滅多にそれをしない。特に僕のお腹の上で撫でられながらくつろぐ時はほぼ全てスフィンクス座りだ。

「んー……ぅぃ」

 僕の顔とラムネの顔とが近付くと、ラムネがどれぐらいご機嫌なのかが音で分かる。基本的にはんぃんぃと呻くラムネの声に遮られているが、よく耳を済ますところころ喉が鳴っている音が聞こえるし、頭を撫でながら喉元に親指を当ててみるとそこそこ大きな振動が伝わってくる。

「うー……んぃ」

 口元を親指で撫でると、普段は隠れて全く見えないラムネの唇と白い牙が見える。唇に直接触れないように親指を使って頬を持ち上げると、ヒゲが斜め上に向くのに伴ってラムネの長い犬歯と、ピンク色にてりっとしたぷるぷるの唇がチラチラと見え隠れする。指先で軽く触れると少し嫌そうにしながら、すぐに頭を下げて口元でなく横面に指が当たるようにズラした。口元に触れられるのはお好みではないようだ。

 ………そういえばこれはラムネと出会って初めて知った事だが、猫はヒゲがいっぱいある。いや頬にヒゲがワサワサ生えててねー沢山でねーという話では無くて、頬以外にもヒゲに相当する太い毛がいっぱいあるという話だ。

 眉根の上辺りに第二のヒゲがあるという話は知識として知っていたが、頬と喉の間辺りにも第三のヒゲが数本生えているのは知らなかった。

 猫のヒゲは厳密には『触毛しょくもう』という名前の器官らしく、なんでもその毛根には様々な神経が集まっているようで、少し触れる程度の刺激だけでなく温度や湿度の変化、空気の動きすら感じ取るのだという。そして猫は狭い場所をねぐらにしたがるが、上下左右に生えているそれら触毛ヒゲを使って、自分がその空間を通れるのかどうかを判別したり、高所をすいすいと歩く際に平衡感覚を調整するバランス棒のような役目も担ったりもするのだという。実際ラムネの頬のヒゲを軽く引っ張ってみると「んうぇー」と変な声を出しながらラムネの頬が伸び、横並びになっている小さく鋭い歯が見える。体の毛はアホほど簡単に抜けるのに対して、ヒゲはそう簡単には抜けないようになっているみたいだった。

「んぅー! なでるのいがいきんし! なでろ!」

 唐突にヒゲを抓んで引っ張られてご機嫌を損ね始めたラムネに「悪い悪い、ごめんねラムネ」と言いながらその頭を撫でると、しかしラムネは「むー……」と唸るばかりですぐには許してくれなかった。ラムネで遊んだ僕が十割悪いのは事実なのだが、こうなったラムネは非常に面倒臭くてかったるい。

 猫というものは自身の損得に直結する事柄に対しては良くも悪くもかなり根に持つ生き物だという事も、ラムネと出会ってから知り得た情報の一つだ。食べ物をくれる相手なんかはすぐに覚えるし、逆に害を与えてくるような人間なんかにはたった一度意地悪しただけでも二度と近寄ろうとしなくなる。

 ジズ曰く、猫は生物に対しての記憶力はかなり良い部類なのだという。実際ラムネは普段殆ど絡みが無いパルヴェルトやトリカトリに対してもすぐに名前を覚えたが、反面でちょっとした買い物なんかで「◯◯と◯◯買うから覚えといてね」だなんて頼んでも店に付けば「おやつかう! おやつ! じゃーきー! んまい!」と秒で忘れる。まあラムネに限らずそもそもの犬猫が脳みそカ◯カリ小梅だから致し方無い話ではあるが。

「んぉぅ……んぃ〜」

 僕のお腹の上でスフィンクス座りをするラムネの頭を右手で撫でながら、余った左手で尻辺りを撫でると、ラムネはそれまでとは違う不思議な声を出しながら徐々にお尻を高く上げ始めた。

 別にやらない猫もいるというが、基本的に多くの猫はお尻周りを撫でると後ろ脚を伸ばして徐々に尻が上がっていく。最初は「交尾のサインなのかな」とか思っていたのだが、猫博士ことジズが言うにはそういう意味合いは無いらしい。そもそもラムネはオスだし。獣姦という時点で罪深いというのにオス同士の獣姦ともなってしまえば罪深いを通り越して闇が深い。

 では何故お尻を高く上げるのかという話なのだが、何でも猫の尻尾というものはヒゲよりも遥かに重要な役割を持っているらしく、それの付け根に当たる部分には様々な感覚神経が集中しているのだとか。また猫は自分の尻尾の付け根辺りには頭が届かず自力では毛繕い出来ない個体が多いようで、それらの条件が合わさった結果、猫はお尻を撫でられるとついつい某ジャック・オーが如く天を突くように尻が上がってしまうのだという。ジズから聞いただけの知識なので真偽はジズ任せになるのだが、なんにせよラムネはお尻を撫でられると大体の怒りは収まる。

「……近い。近いよラムネ。近いよ」

 代わりに少しずつ前に進んでくるという欠点がある。お腹の上でスフィンクス座りをしているラムネは体格とか位置とかそういうのもあり非常にお尻が撫でやすい位置にあるのだが、安易に撫でると少しずつ少しずつにょこにょこと前に進んでくる。

 やがて肉眼ですらピントが合わない程に顔が近付くと、僕は右手を使い、小さなそれに指先で触れながら言った。

「………しまい忘れてますよ、ラムネさん」

 超至近距離まで近付いてきたせいでかなりボヤけた顔にはなっているが、ピントが合わない程の距離であっても口元からハミ出た舌は不思議としっかり分かる。出しっぱなしでハミ出ているピンクの舌に触れてみると、ラムネは指が当たった瞬間に「んぉ」と声を出してしゅっと舌をしまった。面白いのが、それまでは喉をゴロゴロと鳴らしていたのに、ハミ出た舌に指で触れるとすぐにゴロゴロ音が止んでしまったという事だった。

 ご機嫌を損ねたのかと思いラムネの頭をぐりぐりと撫でれば、ラムネは再び「んんー」と目を閉じて上機嫌な声を出す。相変わらず物理的ゼロ距離なのでピントは合っていないのだが、それでもラムネが喜んでくれているのは十二分に伝わってきた。呼吸に合わせて音の質が変わるゴロゴロ音が鼻息と共に鳴り出すが、その鼻息がかなり力強く顔周りがとても涼しい。ふすーふすーと顔周りに吹き付けられるその鼻息が信頼と親愛の証のようで、それがとても心地が良く感じられる。

「んぶ」

 それこそキスが出来る程に近付いていたラムネだったが、唐突にその右の手で僕の口元を押さえ付けた。ほこほこと温かい肉球が僕の唇をむぎゅっと押さえ付けると、ラムネは何も言わずに僕の鼻先を舐め、毛繕いを始めた。

 先程まで撫でられる事で頭がいっぱいだったというのに、唐突に毛繕いを始めるのは猫ならではの気紛れさという所なのだろうか、しかもどうして自分ではなく僕の顔の毛繕いなのか。

 もはや猫博士と呼んで差し支えないレベルで猫好きなジズにゃん博士が言っていたが、人間もネット上なんかでは超絶頻繁にマウントの取り合いをするが、猫にとってのマウンティングは顔周りの毛繕いなのだという。立場が上の猫が別の猫に対して顔周りの毛繕いを行い、それに従順であるか抵抗するかで反抗心や仲の良さが大体分かるのだという。

 猫に限らずグルーミングを行う哺乳類の多くは、自身の顔に他者の顔が近付くのを嫌がる。これは生物的な防衛本能らしく、本来であれば血縁関係のある親族ぐらいでなければ顔周りのグルーミングなんてしない訳で、猫であれば鼻と鼻をちょんと触れ合わせる『鼻ちゅー』とか、おデコとおデコを合わせる『ご挨拶』とかは相当信頼を置いている相手としかしないのだというが、実際猫に限らず、例えばチンパンジーやニホンザルといった小型のお猿さんでも自分の顔に誰かの顔が近付くとフイっと逸らす事が非常に多い。

 だからといって決して嫌っているという訳ではなく、猫であればまだ産まれて間もない頃、目も開いておらずうごうごうにょうにょしていた頃にされた顔周りの毛繕いが関係しているのだそうだ。例えば飼い犬や飼い猫に顔を近付けてフイっと逸らされたとしても別に嫌われている訳ではなく、ただ生み親程ではないというだけの話。

 つまり先程のようにキスが出来る程の距離まで顔が近付いていたという事は、僕はラムネに生み親ぐらいまで信頼されているという事になる。

 まだ一歳前後の小さなラムネの小さな口から出てる舌はなんとか指で抓めるかという程に小さい。猫の舌は骨に付いた肉片を削ぎ落とす為にザラザラとしているというが、ラムネはまだまだ幼い子猫なので舌のザラザラもとても小さい。ラムネ的にはぞりーんぞりーんと舐めているのだろうが、僕的にはちょりーんちょりーんぐらいのザラザラ感しか感じられない。

「………んぉ?」

 と、そんな親愛の営みをラムネとしていると、唐突にラムネがグルーミングをやめて部屋の扉の方へと顔を向けた。釣られて僕も目線を動かしてみると、そこには部屋の扉で少しだけ体が隠れた女の子が立ってこちらを見ていた。

「……………もしかして邪魔ァ、しちゃったかしらァ?」

 遠慮がちにそう言ったジズだったが、しかし言葉に反して体は何一つ遠慮せず僕のずいずい部屋の中に入り、そのまま後ろ手に扉を閉めた。僕がそれに「邪魔とか気にしなくて良いよ」と返すと、ジズは「あらそう?」と言い、ベッドに仰向けに寝転がっている僕の頭の上辺りに腰掛けた。

 遠慮がちな口調だった割にマジでビタイチ遠慮してねぇなこいつとは思ったが……まあ実際遠慮し合うような間柄でも無し。幾ら子猫の舌とはいえザラザラとしているのは事実であり、そんなラムネの舌で舐められ続けてそろそろ鼻先がヒリヒリしてきた頃合いだったので、そういう意味ではラムネの気が逸れてタイムリーな来訪だったとも言える。

「何か用でもあったのか?」

「暇ァ持て余した神々って所かしらねェ」

 僕の言葉にそう返すジズに、しかし僕は何も言わずに寝転がったままでいた。お前神じゃ無くて悪魔じゃねとかいうツッコミは浮かんだが、何だか余りにもチープだった気がして言う気にならなかった。

 それきり何も言葉を発さないジズは、僕の頭のほんの少し上の位置に腰を下ろしたまま、相変わらず僕の上でスフィンクスのように座っているラムネをのんびり眺めていた。

 ラムネが言うに、ジズは「げぼくにごー」のようで。ヤニカス由来の紫煙の臭いがする以外は、僕と同等ぐらいには気を許しているらしい。

「……………………ふんぬふんぬ」

 マジで特に理由も無く暇だったから来たのだろうが、どうせだからと僕は少しだけ勇気を出し、寝転がったままふんぬふんぬと体を動かす。

 やがて体の位置がズレて、僕の頭は小さなジズの小さな膝の上に乗った。

 そう、膝枕である。無許可の。ちょっと勇気出して甘えてみた。膝枕チャレンジとでも名付けよう。

「……………あァ?」

 一見すると不機嫌そうな表情のジズだったが、決して短くない付き合いだからこそその言葉がただの疑問である事は何となくで分かっていた。

「い、嫌、お、お嫌でしたか……?」

 分かっていた。分かっていたけど………ほら。な? 念の為だよ。念の為。ジズ目付きクソ悪いから怖くて仕方が無い。

 僕が恐る恐るそう聞くと、ジズは変わらず不機嫌そうな表情のまま「…………ふん」と鼻を鳴らして目を閉じた。

 何とか許されたのかと思ったが………その直後、ジズの小さな手のひらが僕の頭に乗せられた。

 驚いてカッと目を見開いた僕だったが、ジズは閉じていた瞳をいつものように気怠げに開き、不機嫌を顕にした口調で「に乗んじゃねェぞガキが」と雑に吐き捨てる。

「膝枕っつったら頭ァ撫でるまでが様式美でしょうが。跳ね飛ばす理由も無ェしィ、アタシはそれに従ってるだけよォ」

 聞く所によれば、膝枕はお互いの体格によって寝心地が百八十度変わるらしい。例えばこれが光の膝であれば僕の首はかなり傾くし、トリカトリなんかであれば論外だろう。

 しかしジズの体は自身の法度ルールにしてしまう程には小柄であり、その小さな膝枕は僕の首の傾きにちょうど良くフィットして、とても寝心地が良かった。いきなりこんなボディスキンシップをされたジズ自身の機嫌はちょっと損ねたっぽいけれど、結果としてお許しは頂けたようで、僕は素直に安心した。

 ビビり散らしていた僕が安堵の溜息を漏らすと、ジズはさっきのように「ふん」と鼻を鳴らして、再び目を閉じた。しかし僕の頭、おデコと頭頂部の間辺りを撫でる手はしっかり動いてくれていて、僕もジズに合わせて目を閉じた。

 暇を潰す為に遊びに来たつもりが、何をどうした事か膝枕をさせられている。それどころかナデナデまでする事になったにも関わらず、様式美にならって頭を撫で続けていてくれる。そんなジズの小さな優しさや仕草が愛おしくて堪らなかったが…………そこでふと僕は思った。

 僕はジズが好きだが………はて、僕は一体いつどこでジズの事をこんなに好きになったのだろうか。

 人はどんな事にも理由を付けたがる。理屈で証明出来ない事を、人はどうしてか認めたがらない傾向にある。日本人なんかは特にその傾向が強く、僕もそんな理屈好きな日本人なのだから想い人を想うようになった理由ぐらいは知っておきたかったのだが、どうした事か考えてみても特に理由が思い浮かばなかった。

 自分の気持ちを理解したのは正直思い出したくもない『みんなの前でちんちんオーバードライブ事件』の時だったが、そもそも僕はいつジズの事を想うようになったのだろうかと思うと考えが詰まって思考が前に進まない。

「………………………………………」

 もしかしたら、こういうのを恋と呼ぶのかもしれない。或いは、こういうの以外は恋では無いのかもしれない。

 言葉で説明出来ない感情が恋であって、言葉で説明出来るのならそれは恋では無いのかもしれない。

 何で好きなのか、どうして好きなのか。一般には理由があった方が良いのかもしれないが、僕は理由が語れない方が良いのかもしれないと思った。

 理由があったら、理屈があったら、それは自由とは程遠い位置に立ってしまうような気がしたからだ。

 誰かを好きになる事に理由なんて要らない。そんな言葉は、きっとこういう事を言うのかもしれないだなんて、想い人の膝の上で考えてみる。

 しかしそこで思い出す。


 ───────結局「なんかそんな気がする」以上の確認が出来ない謎パワーについて語らうぐらいならまだうんこの話でもしてる方がまだ有意義だと思うわァ。


 だいぶ前のあの時そう言ったのはジズだったが、今にして思えば………ああ全くその通りかもしれない。いやうんこの話をする気は無いが、それでも「自分がどうしてこの人を好きになったのか」なんて事、どれだけ考えた所で結論には至らない。であれば他の事を考えていた方が有意義だろう。

 でも何故か人は理由を求める。どうして「好きだから好き」は許されないんだろうか。

「………………………ラムネ、お腹からおりて」

 未だ僕の胸の上にいるラムネの脇の下に手を入れて持ち上げて下ろすと、ラムネは特に何も抵抗せず「んー……にょ」と伸びをしながら少し離れた所に向かって丸くなった。それを尻目に僕はジズの膝を枕にしたまま体を回す。すると僕の視界にジズの股間のデルタゾーンが映り込む。

「おうコラ」

 ジズの声が聞こえるが、僕は体勢を戻さなかった。

 だって何かの歌であったから。歌詞やフレーズはすぐに思い出せるのに、曲名やアーティストはすぐに思い出せないアレ。

「負けないこと投げ出さないこと逃げ出さないこどぁだだだだだだだだだッ!」

 耳を抓られる。かなり力が入っていて非常に痛いが、しかし僕は負けずにジズの腰へと両手を回して抱き着いた。横向きになりながらも抱き枕にしがみつくように腕を回すと、ジズは何も言わず、耳を抓る指を緩めた。お許しが出ました。

 抱き着くように腰に回した手の指先に何かが触れる。すりすりと指で撫で回せば、先端が三叉に分かれた特徴的なジズの尻尾の付け根だと分か────、

「──おぐっ」

 ボグッという鈍い音と共にジズの尻尾が振るわれ、僕のお腹に激痛が走る。痛みはじわじわとお腹全体へと広がり、やがて気持ち悪い感覚へと変わってお腹の中をぐるぐると周る。どうやら尻尾は駄目なようだ。

「…………チッ」

 アニメとかゲームであるような言葉にする舌打ちではなく、本当にシラフでやる舌打ちが頭上から聞こえた。しかしそれ以上は特に何も無く、それに安堵した僕は素直に腰へと手を回して目を閉じた。

「………………………………」

 良い匂いがする。女性特有の香りと、強い柚子の香りと、少しのヤニの香り。

 身長百センチ程度という小さな体格の女の子に抱き着いているにも関わらず、僕は不思議と性的な感情が思い浮かばず、それどころかそれは凄く安心出来るその芳香に顔を包まれた僕は、やがて鎌首をもたげるようにやってきた強い眠気に抵抗もせず飲まれていった。



 ───────



 昼下がりの中庭にある、丸テーブルが置かれた東屋あずまやで僕とラムネはくつろいでいた。具体的に何をするでもなく、備え付けられている椅子に座りながら微風そよかぜを肌で感じながら縁側の老人のようにうとうととしており、そんな僕の足元でラムネは丸くなって寝ていた。

 そんな僕らの元へやってきたのは、橘光だった。

「……あぁ……くっそ…………しんど……」

 やってきた光は力無い足取りで、苛立ちを顕にした不機嫌そうな表情のまま僕らの元へと歩いてくる。

 いつものアホで間抜けながらも元気で快活な様子とは打って変わって、それこそグロッキー一歩手前なその姿に僕は「……どうしたんだ。何かあったのか」と声を掛けるが、光はその言葉を無視してそのまま歩みを進めてくる。

「いや、ちょっ」

 僕の目の前まで歩いてきた光は、何を考えたのか僕の膝の上に座ってきた。

 ジズ等とは違って別に低身長ではない所か結構背の高い女にいきなり膝に乗られた僕は「重てえわ、いきなり何だよ」と声を出すも、相変わらず光は不機嫌そうに「ええねん。ええから」とだけ言って、僕の膝から退く所かむしろ背もたれに体を預けるかのように背を反らした。

 自分よりそこそこ背が高い体格の相手という時点でただでさえ狭苦しかった僕の顔周りだったが、モッサリとした金色のロングヘアーである橘光がその背を反らした事で、僕は顔面に光の後頭部が押し付けられるかのような状態になってしまった。

「…………………何なんだよこれ、全く」

 チルティやラムネから臭い臭いと言われていた光だったが、実際ゼロ距離で光の匂いを嗅いでみると言われている程臭くはなく、どこかで嗅いだ事のある感じがする甘い香りが鼻腔いっぱいに広がった。

「………………………」

 一体何の香りなんだろうと頭を巡らせてみるが…………何だろう。金木犀かな。何かそんな感じの甘ったるいような香りがする。心の底から安心出来るようなその香りを嗅いでいると、直前までうとうとしていた事もあってかとても眠くなる。

 けれど僕はその眠気に耐えながら「………で?」と金色の髪を口に巻かないように問い掛けた。

「何なんだいきなり……………妙に機嫌悪いけど、何かあったのか」

 そう聞く僕だったが、光は僕の膝に乗ったまま返事をしない。

 光に限らずこの手の状況で相手を急かした所で何も得しない事を知っている僕は光の返事をのんびりと待ち続けるが、光はその後も何も言わず、カチャカチャと何かを弄っていた。

 やがてジッパーを開けるようなジイイイという音が聞こえたかと思うと、変わらず背を反らしたまま少しだけ僕の方へと頭を向けて「手ぇ貸し。両手な、両手」と言ってくる。

「は? ………あぁ、はいよ」

 一体全体何なんだろうと思いつつも言われるまま両手を上げると、椅子の肘掛けか、或いはキョンシーのような体制になった。

 すると光は僕の手を取り、そのまま掴んで自身の下腹部へと持っていく。ズボンの裾が触れると思っていた僕の指先は、しかし布には触れず光の生肌に触れた。さっき聞こえたジッパー開けるような音は『ような』ではなく本当に自身のジーパンのジッパーを開けていた音であり、僕の両手を取った光はその手を自身の股間近くまで持っていった。

「……………………………」

 ルーナティアに呼び出されて少しの頃であればエロハプニング系主人公の如く慌てていただろう僕だったが、この世界での生活や奇妙奇天烈奇想天外にも良い加減慣れたもので、僕は変わらず背を預けてくる光に「オ◯ニーの手伝いでもすれば良いのか?」だなんて言葉を投げていた。

「んや。今日はそういう気分やないから、それはまたいつかな」

 光はそう言いながらも僕の手を掴み、グイグイと自身の股間へと持っていく。こういう時にヘラヘラするのも照れて慌てふためくのもカッコ悪いと思っていた僕は、自分の尻の穴をギュッと締めて心拍数を抑え込みながら特に抵抗もせず成すがまま。僕こういうのがカッコイイと思うんだ。

「……………………………いやどこまで行くんだ」

 やがてズボンの下にあるもう一枚の薄布に指先が触れる。まるでシルクのようなすべらかな触り心地のそれを抓んで持ち上げた光は、生肌とパンツの隙間へ僕の指を連れていく。

「いやどこまで行くんだ………っ」

 その後僕の両手の指先がもしゃっとした光の陰毛に触れると、光は掴んでいた僕の手を離し、その位置を調整するように動かす。やがて僕の手のひらは光のへその真下、陰部の真上辺りにぺたっと貼り付けられる形になった。

「…………………はぁぁぁぁぁぁぁ」

 光が大きな溜息を吐く。その溜息は僕らの元に歩いてきた時のような苛立ちを含んだものではなく、先程の僕が光の髪の匂いを嗅いだ時のような安心感のある溜息だった。

「…………タクトの手ぇ、あったかくてええなぁ」

 僕の膝に座った光がそう言うが、相変わらずその意図が読めない僕は顔だけを上手く動かし、光の右耳の横に自身の顔を出して聞いた。

「結局何なんだ、手マンでもすれば良いのか。どういう状況なんだよこれ」

「お腹痛いねん。でも湯たんぽやと熱過ぎるしって思て、ほならタクトの手ぇ借りてあっためたろーって思ってん」

「腹痛いのか? 食い過ぎか? ペール博士の所で腹痛薬とか貰ってきたらどうだ?」

「ちゃうねん、お腹痛い日やねん」

「は? 日?」

「生理」

 言葉として聞くと妙に生々しく感じるその言葉を聞いた僕は「……あぁ」と納得した返事だけ返して、そのまま言葉に詰まって黙り込んでしまった。

 ……………女性であれば大体の人が経験するもの。正式には月経と呼ばれ、古い時代では不浄の日とか言われる事もあった。

 通常の血液とは打って変わって黒味が強い場合の多い経血に対して、過去の人達は「黒く汚れた血である」としたが、実際に生理がどうとかは何一つ関係無く、そもそも血というものは余り衛生的では無い事を、古い時代の人たちは知らなかったんだろう。

 血自体にさしたる害は無い。そもそもの血は様々な栄養素が含まれている為、養殖されたスッポンとかの生き血であれば日本酒と割ったカクテルとして使われる程に栄養価が高い。

 しかしそれは我々のような生き物に限った話では無く、雑菌にとっても高栄養となる訳だ。故、体外に出てから時間の立った血というものは雑菌が大量に繁殖している可能性が極めて高く、そういう観点で見て始めて血は不衛生な存在であると言える。

 それが大体月一回のペースで排出される事から、過去の人達は整生理によって排出される経血を『不浄の血』と呼んだのだという。

「ウチ生理重いねん。二日目入ればクッソ軽くなんねんけど、初日エッグい重いねん」

 生理には痛みを伴う場合が多い。痛みの強さは個々人によって様々で、今の光のように非常に重い痛みに苦しむ女性も居れば、逆に全く痛みが無いまま毎回終わる女性も居る。痛みの強い人は、生理が終わるまでその慢性的な痛みに耐え続けねばならず、「生理中のイライラ」というものはホルモンバランスの変化だけでは無く、その痛みも要因の一つでもあるとされる。

「…………………女は大変だな」

「ごっつ他人事やん」

「物理的に分かってやれないからな。分かった気になって同調されんのも嫌だろ?」

「せやな。クソの意味も無い知ったか・・・・されるぐらいやったら、にこにこしながら「分からんちん!」って言われとる方がスカッとするわ」

 男である僕には生理というものが無いので、女性のその気持ちを理解してあげる事はどうやったって出来ない。出来る事といえば、理解してあげているような気になりながら、過度に触れない事ぐらいだろうか。

 …………とはいえ完全に全く理解出来ない、という訳では無かったりするのだ。男にも生理に似たような現象はある事を、女性は中々理解してくれない。

 レム睡眠時に脳から送られる電気信号により拡張する血管と、そのとばっちりでフル勃起するちんちんに関しての話題は、中々どうして女性からの理解を得難い。朝勃ちだけでなく、大体の男性であれば一度は経験するだろう『何故か授業中にフル勃起するアレ』に至っては、そもそもの当事者すら何故バッキバキになるのか理解していない事が多いぐらいだ。

 これは一般に『暇勃ち』と呼ばれる現象であり、冗談抜きで何一つとしてエロい事なんて考えていないにも関わらず起こる謎現象である。何も考えていない時に起こりやすいものなのだが、これは一瞬でも脳が「今眠いな」と判断した時に発生しやすい。これは前述したレム睡眠時の電気信号による血管拡張のとばっちりが原因であるとされるが、何にせよ男性ですらここまでしっかり把握している者が少ないのだから女性でここまで理解している者なんて一握りだろう。

 ネット上では定期的に「男は女の生理にとかに対して何も理解が出来ていない!」と騒ぐ奴が湧くが、そもそも物理的に性別が違うんだから理解した気にはなれても、本質から理解する事なんて医者ですら不可能な話だという事をあの人たちは分かっていない事が多い。

 同様に、男性の朝勃ちや暇勃ちという現象に対しても「いつもエロい事ばっか考えてる」だなんて理解以前の考えに至っている事が多い。

 …………いつぞや誰かが言っていた。日本は性知識に関しての教育が、下手な発展途上国よりも遥かに遅れている『性教育後進国』であると。その割にアダルトグッズ等の発展は他国の追随を許さない上、援助交際や出会い系ツール等の発展ばかりが進んでいる『性産業先進国』であると。


 1975年度にアメリカで公開された[The ABC of Sex Education for Trainables]という短編映画を知っているだろうか。僕は知らなかった。

 映画とは言うものの二十分程で終わる、映画としては超短編のそれをご存知だろうか。僕は知りもしなかった。

 興味すら持ちやしなかった。名前を聞いても、調べる気にすらならなかった事を、今では少しだけ恥じている。

 性的な発言やコンテンツに対して過敏に反応し否定したがる人ほど、この映画に関して名前すら知らない事が多いのだと光は言っていたが、実際光と出会って間もない頃、息をするようにシモネタを口にする光を否定していた僕はこの映画に関して光から「知っとる?」と聞かれるまでは名前すら知らなかった。

 この映画は『知的障害を持つ者に対して、性知識とセクシャリティに関する教育をしっかり施す必要がある』という事を大衆に伝えるのが目的で制作されたのだという。内容としては「子どもがオ◯ニーしている最中、母がその部屋に入ってそれを目撃した。さあどうする」というような感じらしく、我が子の自慰を目撃した母はそれを叱ったり嫌悪したりするような事はせず「そうね。それは部屋の中でこっそりするべきものよ。外でやってはいけないのよ」というように正しい知識で子を諭す内容となっている。その時に母が「今やってたこと見ちゃったわ。さぞかし気持ち良かったでしょう?」だなんてトチ狂ったような台詞を言うという点がクソほどネタにされる事もあるのは内緒だ。

 僕は分からない。僕には分からない。

 所謂エロを否定するべきなのか、それとも肯定するべきなのか。ただのガキである僕には到底分からない。死後、愚者としてルーナティア国に呼び出される程の愚か者である僕には、どっちが正しいのかなんて分かるはずがないのだ。

 しかし過度であってはいけない事だけは分かる。過度におおっぴらにしてはいけないし、だからといって過度に否定してもいけない。それだけは分かる。

 正しい知識を、正しい場所で。

 僕が死ぬ前、インターネット上では『おっぱいチャレンジ』なるものが流行っていた。成人女性から学生まで幅広い層の女性が、街中や飲食店といった公共の場で一瞬だけ服をたくし上げて胸を露出し、それの自撮りをインターネット上で投稿するという内容だったが、当時の僕は何も考えず頭空っぽで「シコい! うっ! …………ふぅ」と愉しんでいた。

 僕はこれを否定する気はない。野外露出という性癖を否定する気なんて露程も無い。例え死姦であったとしても、個々人の性癖を否定する気はない。信号機に性的興奮する人に関しては「それは流石に考え直したら?」とは思うが、それでも否定だけは絶対にしたくない。

 問題視すべきは性癖ではなく、その性癖を抱くに至った要因、生活環境だろうと僕は思う。第三者を巻き込む可能性のある、公共の場での露出行為。それが性癖になるって事はつまり、その人がまだ幼い頃に、誰一人としてそれが立派な罪であるという教育をしなかったという事に他ならない。信号機に性的興奮する人に関しては「流石にそれは予想出来なかった」としか言えないが。

 性規制は必要である。しかし性的興奮というものは生物である限り絶対に存在する、本質的な欲求なのだから、間違っても過度な性規制をしてはいけない。捌け口を失ったまま押さえ付けられた性的欲求は、いずれ必ず暴走し、性犯罪という悲しい形に変わってしまうだろう。

 だからこそ、必要なのは性規制では無く性教育であると光は語る。

 正しい知識を、正しい場所で。性に関して過度に忌避する者が増えた結果、少なくとも僕が死ぬ前の日本は正しい性知識の一つすら学ぶ場所の無い国となっていた。だからこそ不必要なまでに性を否定する『クソフェミ』だなんて呼ばれてしまう人達が増えてしまっているのだろう。

 本来フェミニストというものは『女性に対する不平等の改善を訴える者』とか『女性に優しい人』の事を指す言葉であり、間違ってもセクシャリティに関して過度に騒ぐ人に対する呼び名では無い。

「……………いや。もう手遅れなのかもな。考えるだけ無駄なのかもな」

 そう独りごちた僕に、それまで僕の手のひらでお腹を温めていた光が少し疲れたような声で「んー?」と反応した。

 言ってしまえば正しい日本語を使えない日本人が多い世の中だったのだ。『雰囲気ふいんき』だとか『重複じゅうふく』だとか。それだけでなく『代替だいがえ』に至っては正しい読み方をすると逆に「は? だいたいって何だよ」とか言われてしまうレベルまで来ているという。とはいえこんな事を言っている僕だって、言葉として口にする時は『原因げいいん』とか『店員ていいん』とか言ってしまうのだから、間違いを正そうだなんて考えるだけ無駄だろうし、そうでなくとも、もう手遅れだ。間に合わない。


 だって僕は、もう死んでしまった。


 光の下腹部にあてがわれた僕の手のひら。その中指と薬指の先端に触れる、もしゃもしゃとした毛の感触。生理の痛みを和らげる為に僕の手で暖を取っている光に対して冷たく当たる気なんて無かった僕は、その手を左右に小さく動かして手持ち無沙汰を解消していた。

 指先に触れる光の毛はとても細く、中指を軽く動かして指に巻き付けるようにしてみても、するりと解けてしまう程に滑らかだった。手のひらで擦れる光のお腹は非常にしっとりとしていてキメが細かく、軽く叩くように手首を浮かしては戻してを繰り返してみれば、ぺひぺひという軽い音と共に柔らかい感触が手のひら全体に伝わってくる。

「んへへ。なんね、くすぐいやん。………ヤりたくなってきたんけ?」

 僕の手の甲を握っていた光の指が、僕の指に絡まってくる。まるで恋人握りと言われるそれのように手の甲側から手を握ってくる光は、僕の膝の上に座りがながらその背をクッと反らし、右後ろを向くように僕の顔を覗き込んでそう言った。

「そうだって言ったら、ヤらせてくれるのか?」

 背面座位でキスでもするかのような体制になりながら僕がそう言うと、光は悪戯っぽく「んふふ」と笑う。

「ダメ。ヤらせてあげへん」

「へえ。僕の事、好きって言ってた割には────」

 意地悪なんだな、と。言い終わる前に、僕の言葉は背中を反らした光がしてきたキスによって中断を余儀なくされた。

 フレンチキスではなく、一度きりのバードキス。

 たった一度ついばむだけの小さな口付けをしてきた光は、僕の指に絡めていた自身の指を解き、自身の唇をぺろりと舐めてから口を開いた。

「生理中のおセッセはあかんでよ? 妊娠率低い割に衛生的にもきびいもんがある。………どうせヤるなら、ウチちゃんと赤ちゃん欲しい」

 そう言った光は、まるで直前のバードキスなんて無かったかのように「ふぃぃぃぃ〜」と息を吐きつつ僕に向けて深く背を預けてきた。すると再び僕の顔面にモッサリとした金色のロングヘアーが押し付けられ、先程嗅いだ甘い香りが脳髄を駆け巡るように鼻腔いっぱいに広がっていく。今のはきっと小さな甘えだったのだろうが、しかし生理の痛みが相当辛いのか甘え続ける余裕が無くなってしまったのかもしれない。

 超絶良い雰囲気にも関わらずその先に踏み込もうとしない光に対して一瞬落胆した僕だったが、よくよく考えてみれば僕と光が今居るのはルーナティア城の中庭、公の場である。頻繁にシモネタを口にする割にやたらと貞操観念がしっかりしている光が、こんな場所でおっ始めようとする訳が無かった。

 しかし橘光という女はは思った事をすぐ口にするというだけで、内心では色々と深く考えている事が多い。そんな光が敢えてこの場で僕にバードキスをしてきたのには、恐らく光なりの理由がある。

 はて、バードキスをしたがる人の心理は何だったか。性的なフレンチキスとは違って触れるだけのバードキスには、確か何か色々と意味があったはずだったのだが、キラキラと陽光を反射する光の甘い金髪に埋もれた僕は再び強い眠気に襲われ、その口付けの心理に関して辿り着く事は出来なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る