1-5話【雨の悪夢 前】



「──────────」

 今まで見た事も無い程に真剣な表情をしたジズベット・フラムベル・クランベリーが手を動かすと、達筆過ぎる筆文字で金将と書かれた駒がパチっと小気味の良い音を立てて盤に打たれる。それを見た橘光は頬に親指をぴたぴたと当てる独特な仕草をしながら数秒思案して、やはり達筆過ぎてめちゃくちゃ読み辛い筆文字で桂馬と書かれた駒を進め、香車と書かれた駒を取った。

 そんな訳で将棋である。どんな訳だかは僕にも分からないが、どんな訳でも将棋である。

 だがそれは別に問題無くて、むしろ良く分からないルールの良く分からない異世界ボードゲームをされるよりは、よっぽど勝手が分かって取っ付きやすい。昨今増えていたオリジナルのテーブルゲームも嫌いでは無いが、スッと脳が理解して手癖で遊べるかどうかという点では、やはり既存のものには敵わない。

 光が桂馬を差し進めてジズの香車を取った後、トリカトリ・アラムの大きな四本の手指が、大きくも綺麗に磨かれている爪を駆使してつまんだ銀を指し、そのまま光の桂馬を取る。それを見たパルヴェルトはそれまでトリカトリの銀が置かれていた場所を通って角行と書かれた駒を一気に進め、その先にあったジズの銀を取った。するとジズは即座にパルヴェルトの角がある十字の延長線に飛車を構える。

 ………そう、都合二対の将棋駒を使い、都合五つの将棋盤を十字に並べた意味不明な盤上での戦が、そこでは繰り広げられていた。

 複数の将棋盤や通常以上の駒を使う中将棋や大将棋は存在するのは、多分ミリ程度でも将棋を知っているものなら「あー聞いた事無きにしもあらずんばうんば」と頷けるかもしれないが、実際の所中将棋や大将棋は殆どどころかぶっちゃけ全くと言っていいレベルで流行っていなかった。

 今回もそれと理屈は同じ。複数の将棋盤と、通常以上の駒を、まさかの倍の人数で奪い合っているだけ。

 最初は良かった。序盤は通常の将棋と同じように牽制駒を進めつつ裏で囲いを形成していくだけだったが、中盤に差し掛かった辺りから通常の将棋ではまず有り得ない程に複雑な読み合いが発生し始めた。駒の動きは通常通りなので前方への移動は何ら問題無いのだが、問題は前方ではなくまさかの左右から攻めてくる別の対戦相手との攻防だった。

 元々将棋というものは二人で向かい合って遊ぶものとして作られている。だからこそ、当然それに使用する駒たちの移動出来る範囲や距離は前に座る相手の事しか考慮されていない。そんな訳なのだから、通常通り前方からも進んでくる相手とやり合いつつ、右や左から向かってくる駒をいなすのは至難のわざ

 何よりも難しいのは、前方の相手をある程度押し込んだ後だった。左右の相手を攻め始めるのは良いとしても駒の動きは通常の将棋通りなのだから、右に進むにせよ左に進むにせよ取り敢えず『香車、桂馬、歩』の三種は横方向に進む事が出来ないので左右への攻めには一切使う事が出来ず、成って金に変えるか差し駒として使うかしかなかった。また通常の将棋では非常に強く重要な存在である金将と銀将も、左右の相手を攻めるには移動出来る方向の制限がかなり重たく使い難い。必然、縦横無尽に移動が可能な飛車と角行が何よりも重要な存在となっていた。

 通常の将棋でも飛車と角は大事だが、仮にそれらを取られたとしても目の前に座る相手一人を詰ませる事が出来れば何も問題は無い。実際肉を切らせてとでも言うかのように、最終盤では飛車や角を切ってでも入り込んで差し駒で必死を掛ける事も多い。だが将棋や中将棋、大将棋と違い四人で遊ぶさながら超将棋とでも呼ぶべき今回のスーパー特殊ルールのもとでは、目前の対処に飛車と角を切ってしまうとその後の立ち回りで大幅な苦戦を強いられるようになってしまい、場合によってはその隙を付いた正面の対戦相手がカウンターとして踏み込んで来る事もあるのだからもう頭痛が痛くて馬から落馬。


「城の倉庫で将棋みっけたー。誰か相手んなってやー」

 そんな事を言いながら二対についの将棋セットを持ってきた光に対して、不満げな顔になったジズは根本まで短くなっていたタバコを灰皿にぐりぐりと押し付けながら「あァー? 将棋なんざ先行超有利ゲーじゃねェのよォ」と吐き捨てた。

「そうなん? ウチ将棋はルールとかは知っとるけどそんなにやった事無いねんけど」

「実はアタシもそう聞いた事あるってだけよォ」

「なんやねんお前」

「てへェ」

 気怠げな表情と気怠げな口調でお茶目な事を言ったジズがあざとく小首を傾げると、あざとさとは無縁の位置にあるだろう銀色のピアスがぢゃらりと音を鳴らした。

「将棋ならボクも多少心得があるから分かるよ。生前に兄とやった事があるけど、確かあの時は後手だった兄が差した4四歩に引っ掻き回されて嘔吐した記憶があるね。後々調べてみたら初心者殺しのハメ手らしくて、いわゆる分からん殺しな分、流されると一気に後手が不利になるらしい」

「パルヴェルト、悪いが説明されても全く分からん」

「ボクの苦悩が分かってくれれば内容自体はどうでも良いのさ」

「お前の苦悩すら良く分からん。そもそもお前誰だっけ」

「酷いやそれぐらいは分かっておいてくれよブラザーッ!」

 というか、である。というか3四だか何だかって棋譜を聞いてパッと脳内に盤面が浮かぶのは相当慣れている奴だけだ。ルールとか囲いの種類が数個だけ分かる程度の僕にはハメ手がどうとか言われても理解なんて出来やしないし、僕なんてその囲いすら居飛車囲いとなんたら矢倉囲い……後はどっかの八十一に潜る人が使った雁木ぐらいしか知らん。

「互いの差し手が使う囲い方や攻め方守り方によってかなり変わるのは将棋経験者ならすぐに分かる事ですが、その上で先行有利という意見が消えないという事実は確かにありますね」

「ほー……ん。……ほなら四人でやろうや。倉庫にまだ幾つか駒も盤もあったけえ、それ持ってきて盤くっつけて四人でやろ」

「二対二でやるのかい?」

「んや一対一対一対一や。四人参加のバトルロワイヤル……バトルロイヤル? ロワイヤル? まあどっちゃか知らんけど要するにゴチャマンやよ」

「へーェ? 面白そうじゃねェの、アタシし◯んの王全巻読んでっから強いわよォ?」

「その理屈やったらウチはブラ◯クジャ◯ク全巻読んどるから医師免許無しで手術出来る事になるで」

「やめてくれハニー、それは本当のヤブ医者だ」


 そんな気安い流れで始まったこの超将棋。最初こそみんな気楽な表情でパチパチと駒を進めていたが、中盤に差し掛かる辺りからみんな揃って真面目な表情に変わり、中央で大乱戦が繰り広げられている今では全員「お前らハ◯ワンダ◯バーの登場歴でもあるの?」と言いたくなるほど作画の変わった鬼気迫る表情で死闘を繰り広げるようになっていた。

 僕も同じようなもので、最初は気楽な顔で眺めていたし中盤辺りでは「そう攻めるか。とすると──」とか真面目な顔で考察もしていたのだが、終盤に入り四人全員が常に中央盤で取り合い取られ合いをするぐらいから意味不明なレベルで複雑化した戦局に脳が一切追い付かなくなり一時いっときネットで流行った『パァ』という顔文字と全く同じ表情をしながら「ばななぁ」と呟きながら虚空を見詰めていた。

 そんな中、ジズから声が掛けられて何事かと我に帰る。

わりィタクト、タバコ切れた。あたしの部屋に取っ手付いたデケェ入れもんあっから持ってきて」

 いつもと全く違った間延びしていない口調のジズの表情を見てみれば、思わず「やっぱお前ハ◯ワンダ◯バー出てたろ、可愛い時のチ◯チ枠だ」と言いたくなるような顔に変わっていて、僕は思わず溜息を吐いてしまった。



「はあ、何で僕が。………いや僕が一番暇いてたからか」

 溜息を吐きながらもアッシーくんさながら雑にパシられた僕がラムネを連れてちょっと恋心を抱いているヤニカスな女の子の部屋に入ってみれば、

「…………………………良い匂いがする」

 そこは僕が予想していたヤニの臭いは全くせず、むしろとても爽やかな香りで満ちていた。香水や柔軟剤の香元として良く使われるフローラルだとか何だとかって匂いとは全く違うその香りは、一瞬だけシトラスみたいだと思えるような匂い。なんの香りなんだろうか。柑橘系なのは分かるんだけど、それ以外が分からない。

 考えれば考えるほどドツボにハマったように考えがまとまらなくなるその香りから意識を逸らして部屋を見渡してみると、その部屋は全体的にあっさりとしていて、女の子の部屋らしからぬ簡素な印象を受けるレイアウトになっていた。

「…………………お?」

 そんな中で僕の目に留まったのはベッドの上。

 水色のカバーをまとった枕の真横にある五体の人形だった。枕の隣から僕、光、トリカトリ、パルヴェルト、ラムネの五体が並べられていて、それは僕ら『いつものメンツ』からジズを抜いた人形たちのぬいぐるみだった。

 誰が作ったのかは分からないが中々どうして手が凝っていて、トリカトリ人形はしっかり四本指な上に他より一回りほど大きかったし、パルヴェルト人形や光人形なんかはご丁寧に長ドスやレイピアをしっかり装備しているし、僕の人形に至っては目の下にチャコペンか何かで薄暗く隈が塗られているのだから、全く良く出来たものだと素直に感心してしまう。

 まだジズが作ったとは確定していないものの、それでも僕らを象った人形が枕元に置かれているのは意外さも然る事ながら何よりとても可愛らしい要素だった。気怠げでダウナーな想い人の、そんな女の子らしい素敵な一面を目の当たりにした僕は思わず素直な感想を口にした。

「……何でよりにもよって化猫スケアリー中のぬいぐるみなんだよ」

 別にいつものラムネで良いじゃんとも思ったが、良く良く考えてみると普段のラムネの方が可愛いし、ぬいぐるみにしたらただの空色の猫でありラムネらしさはどこにもなくなってしまう。そう考えるとラムネらしさが伝わってくる法度ルールを適応した後の状態の方が、ぬいぐるみにするには良いのかもしれない。

「…………あれ? そういえば………」

 そこで僕はふと思い返す。ふと考えてみれば、今の所ラムネが化猫スケアリーモードになっているのを見た事があるのは僕ら『いつものメンツ』を除けばペール博士と湯気子ぐらいであり、例えばルーナティア城のメイドたちにぬいぐるみを作らせたのであれば、法度ルールを適応したラムネ・ザ・スプーキーキャットではなく通常時の空色にゃんこなぬいぐるみになっているはずだった。

 だからといってトリカトリに作らせるとしても、身長三メートルに達するような体躯のトリカトリの、あの大きく太い四本指で直径がミリ単位の裁縫針を扱えるとは到底思えない。何でもソツなくこなす光であっても、幾度となく「アァオッ! ドクソがァッ!」とか叫びながら指にプスプス針を刺してしまうはずだろうから、五体の人形を作り終える頃には少なくとも片手の指は絆創膏だらけになっていなくては納得出来ず、ついさっき将棋の駒を抓んでいたその指先を見るに光が作った訳では無さそうだし、ポンコツボーイのパルヴェルトは当然ながら論外だ。

「……………もしかしてジズが作ったのかな」

 そう考えると何だか胸が温かくなってくる。面倒臭がりを極めた結果、黒ビキニの上からパーカー羽織ってるだけとかいうヤバい普段着をしている僕の小さな片想いの相手が、普段から騒ぎ合う僕らを模したぬいぐるみをちくちくと作っている姿を想像をするとどうしようもなく嬉しいような幸せな気分になってしまう。まだ確証なんて何も無いが、超将棋が終わったらジズが作ったのかどうか本人に聞いてみるとしよう。

 そんな僕が気持ちで恐らくジズが作ったと思しきぬいぐるみをの◯太くんのお婆ちゃんみたいな優しい顔で眺めていると、やがて僕はそれに違和感を覚え始めていった。

 …………枕の横から僕、光、トリカトリ、パルヴェルト、ラムネの順で並べられているぬいぐるみたちだが、僕と光たちの間に開いている隙間がいやに広いように感じたのだ。

 一度違和感を覚えてしまえばもうそういう目でばかり見るようになってしまうもので、そうなってしまえば次から次へと疑問が浮かび出す。他のぬいぐるみたちは整然と綺麗に並べられているが僕のぬいぐるみだけ枕に寄り掛かるように斜めに傾いているし、僕のぬいぐるみ自体も他のとは違ってどことなくくすんで汚れているように見える。

 まさか、と思った辺りで僕はかぶりを振った。自惚れた考えが頭に浮かんだからだ。そうなる要素なんて何も無いし、そんな訳があるまい。

「…………何でも良いや、さっさと戻ろ」

 いつまでも想い人の部屋でダラダラしているからくだらん考えに至るんだと目線を逸らして目当ての品を探せば、ジズが言っていた入れ物は机の上に置かれていた。蓋が閉まっている真っ黒な箱は思っていたより少しだけ大きく、蓋から生えるように伸びたベルトでその口が閉じられていた。

 それに手を伸ばしてベルトを外し、間違いでは無いかのチェックとして中身を見てみれば、余り嗅いだ事のない火を点ける前のタバコ特有の強い刺激臭が鼻に付く。中には木綿か何かを固めて作った自作のフィルターと、和紙のように薄い紙片の束。そして良く分からない横長の台座のような器具が仕切りで分けられ収まっていた。

 仕切りを抓んで持ち上げてみれば二重底のようになっていた下部に、真っ茶色な枯れ草と小さな巾着袋のような何かがある。どう見てもこれがタバコですと分かる茶色の枯れ草を払いつつ巾着袋のようなものを取り出して確認すると、中には乾燥した唐辛子が入っていて、それが防虫剤の役割を担っているという事がすぐに分かった。

 目当てのものかどうかの確認が終わった僕はそれらを元に戻してベルトを締め直す。しっかり締まっているかの確認で取っ手を持ちつつ軽く上下に揺すってみるが、何も問題は無さそうだ。

「さて…………」

 頼まれていたものを手に持った僕はフスフスと鼻息荒く臭いチェックをし続けていた空色の幽霊猫に「ラムネ、行くよ」と声を掛けて部屋を後に────、

「………………………………………タンスだ」

 ────しようとして、誘惑に動きを止めてしまった。何をしてんだ間抜けお前まさかそんな事はと脳内で考えつつも、体は勝手にそれへと近付いてしまう。

「………………………………………タンスだ。タンス。箪笥たんす

 一度意識が向いてしまえば以下略である。僕は足元にタバコ入れをそっと置き、僕の背よりは幾らか低いタンスの上から二段目に指を掛けて引き出した。据わった眼差しで中身を確認すると、それは上着に見えた。元通りに戻せる自信が無かったので取り出しはしなかったが、グレーがいっぱいだったので恐らくパーカーだと分かる。

 ………当然ながら例外もあるのだけれど、基本的に人はタンスに衣類を仕舞う際、使用頻度の高いものを上側へ、普段は余り使わないものを下側に仕舞う傾向がある。ジズは人ではなく悪魔なのだが、その理屈に則るなら上から二段目に詰められているグレーの布はほぼ確実にジズが普段から羽織っているパーカーなのだと予想出来る。にしてはちょっと多過ぎじゃねーのとは思うが。

「………………………………………」

 僕は一番上の段に指を掛け、ごくりと生唾を飲んでからゆっくりと引いた。

「───────────────」

 真っ黒だった。黒い。真っ黒。漆黒。それが何なのかは考えるまでもなく理解した。

 ガンまった目付きで所狭しと詰め込まれているジズの普段着である黒ビキニを見てみれば、左右で見た目がだいぶ違う事に気付く。こういう時ばかり頭の冴える僕は右側がビキニ、左側がパンツなのだとすぐに分かった。色に関しても黒である事に変わりはなかったが、手前側は割とマットな質感をしていて、ある程度奥側は結構ツヤツヤしている。

 脳内で様々な物質がどぅるどぅると分泌されている今の僕なのだから、奥側にあるのはラバー材質の子たちで、手前側の子たちは綿めん製なのだと………いや待て待て子たちって何だお前あぶねー奴かよ。

「………………………………………試食」

 そんな事を呟いたマジであぶねー奴は、一番手前にある真っ黒な布を一つ掴んで持ち上げた。卵のような形に丸められていたそれは僕が持ち上げると共にはらりと広がる。

「………………………………………パンツだ。パンツ。ショーツ。パンティ」


 ───────パクるか?


 ───────やめとけ。死ぬぞ。


 僕の中の悪魔がそう囁いたが、僕の中の天使がそれをすぐに否定した。人としてどうこうもそうなのだが、十中八九バレて殺される。僕が部屋に入っているのはジズ本人も知っている事だし、これら黒ビキニは所狭しと収められていたのだがら、一つ取ってしまえばそこには露骨な隙間が生まれる。


 ───────代わりにお前のパンツを詰めときゃいいさ。

 ──────何を言っているんだ僕悪魔。まるで頭おかしい奴じゃないか。

 ──────何言ってんだ僕天使。パクった下着でシコるんだろう? パクった下着をこっそり履いて小躍りするんだろう?

 ──────シコるのはともかく小躍りするって発想は無かったよ僕悪魔。さてはお前プロだな?

 ──────一方的に自分だけっていうのは不公平だろう。だからお前のパンツを入れてやるんだ。

 ──────まるで意味が分からないよ僕悪魔。つまりどういう事だよ。

 ──────お前のパンツでジズがオナれるようにしてやるのさ。お前のパンツでジズが小躍り出来るようにしてやるのさ。そうすれば公平だ、そうしなくては不公平だ。

 ──────発想が狂気的だよ僕悪魔。この世の全ての性犯罪者の中でもスッとそんな発想に至れる奴なんて居やしないと思うよ。

 ──────フェアプレイの精神だ。

 ──────そういう言い方をされると何だかアリな気がしてくるね僕悪魔、もうだめかもしれないや。

 ──────流石は僕天使だな。素質がある。

 ──────君にそう言って貰えるとなんだか安心出来るよ。そうと決まれば帰りが遅れて怪しまれない内に、じゃあ取り敢えず脱いでみよっか。

 ──────大丈夫。顔はしっかりモザイクで隠れるから安心して、ほら脱ごっか。


「脱ぐ訳ねーだろ馬鹿かお前ら」

 アダルトビデオの導入みたいな事を言い始めた僕天使と僕悪魔の顔面に本気のデコピンをぶち込んでやると、そいつら二匹は「べぇお」「んゔぇあ」と叫んでぶっ飛んでいった。

「戻そう。今ならまだR指定が入らない」

 片手で抓んでいたジズの下着を両手で持ち直す。それを元通り卵のようにクルクルと丸めて───、

「………………………………………」

 あーあーばかばかやめろ広げんなってお前。体が勝手に踊り出す~。

 自らの意思とは関係無くジズの下着を広げた僕は、両の手のひらに乗せるようにそれを持ち直し、顔へと近付けつつ目を閉じる。

「スゥ───────────────」

 深く深くゆっくりゆっくり僕は呼吸する。鼻に当てた下着を目一杯に吸った僕はそれを離し、ジズがタバコを吸う時のように上へと向けて口から息を吐く。そして再び鼻に当てて力いっぱい吸い込んだ。

 柚子の香りがした。ジズの部屋と同じ香り。シトラスかとも思ったがそうでない。爽やかな柑橘類の香りの中に幾ばくかの苦味を感じる香りがあり、その残香には少しだけ甘い香りが混ざっていた。

「はぁ───────────────」

 吸い込んだ想い人の香りをゆっくり吐き出してみると、何だか急に彼女が恋しくなってきた。気分は往年の神RPGの特殊状態異常「ホームシック」に掛かった時のようだ。

 抱き締めたくなった。唐突にいきなりジズを抱き締めて、その香りを堪能したくなった。別段匂いフェチではなかったが、恋の香りを初めて嗅いだ僕は今まで以上にその気持ちが強くなった。

 声が聞きたい。声を聞いてもらいたい。嗅ぎたい。嗅いでもらいたい。触れ合いたい。触れてもらいたい。味わいたい。味わってもらいたい。孕ませたい。孕んでもらいたい。産ませたい。産んでもらいたい。育てたい。育ててもらいたい。

 狂気的な考えが頭の中をぐるぐると周る。何秒経ったか分からないほどジズの下着を堪能した僕はゆっくりと目を開け、下着を戻そうと視線を動かした。卵のように丸めるやり方が分からなかったが何とかそれっぽく整えてそれを元に戻して、足元に置いてあったタバコ入れを持ち直す。ナニがとは言わないが過去に前例の無いほどバッキバキだったものの、小走りで移動すればメイドさんたちとすれ違ってもバレにくいだろうし、走っていればその内頭が冷静になって通常モードに戻るだろう。何よりここでヌいてる暇は流石に無い。これ以上遅くなる訳にはいかない僕は少し急ぎめに扉へと向き直ると、

「─────────────────」

「……………………………………………」

 ジズと目が合った。無表情だった。冷たい目をしている訳でもなければ怒った顔をしている訳でもなく、ただただ無表情だった。

 あ、死んだなって思った。終わったわこれって思った。

「……………………………………………」

 ジズは何も言わなかったが、その沈黙がひたすら怖かった。怒りは感じられないが、かといって好感も感じられなかった。エロ系の事柄には特に理解力のあるジズだったから、もしかしたら許してくれるかもしれないと期待した。ワンチャン許した上にその場で黒い下着を脱いで僕にくれたりしないかなぁとかも思ったが、そんな甘い考えはジズの表情が変わった事によって打ち消された。

「Welcome Fool」

 口を開いてそう言うジズの表情は僕がまばたきした瞬間に切り替わっていた。それはいつぞや首折れ様とやり合っていたあの時の嗤い顔と全く同じであり、その言葉の奥底にある真意を、僕は言葉ではなく心で理解出来た。



 地 獄 へ よ う こ そ 。



 どっかの聖人君子がはりつけられていたような十字の材木に両腕を縛り付けられた僕だったが、強いて歴史の偉人と違う点を挙げるとすれば、今の僕は彼とは違って全身が震え続けているという事だった。

「やめろー! 死にたくなーいッ! 死にたくなーいッ! シニタクナーイッ!」

 グラサンを掛けたどこぞの代打ちのように叫んでみるも特段何かが変わる訳では無く、ジズは相変わらず狂喜に満ちた狂気の表情をしたまま頭を左右にカクカクと揺らしていた。………最近気付いたのだが、ジズが頭を揺らすこの動作は少し苛立っている時に良く見られる。

 つまり今のジズはご機嫌斜めと、まあそういう事だろう。

 どこぞの死に装束を着た糸目のロリババアのように頭が振れると、その度に左耳に着けられた大量のピアスがチャリチャリと鳴る。それはまるで処刑執行人が斧を手に一歩ずつ歩み寄って来る足音に聞こえて仕方が無い。

「あぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ」

 かつてこれ程までに恐怖した事なんてなければ十中八九今後これ以上の恐怖を味わう事も無かろうという程に震え続ける全身により、僕は息を吐くだけで唇が振動してしまう程ビビり散らしていた。

「───────……………うし、整いましたァ」

「びゃあああああああああああああああ」

 振り子のようにカクカクと頭を揺らすのをやめたジズがそう呟く。死刑が行われるのは既に確定していたが、その刑の内容を決めあぐねていたジズがついに終わりを宣言したのだった。それを聞いた僕は未だかつて発した事のないような悲鳴をあげつつじょびぃぃぃぃいいいと派手におしっこを漏らした。

「………一日一回、感謝の正拳突きの刑、一年分────」

「………え? ……何だ、ジズ意外と優しいな。僕ジズになら毎日殴られても多分イケる自信あるよ」

 ついにジズが口にした刑罰の内容は、しかし僕が想像していたそれより遥かにマシだった。確かにジズの力で正拳突きなんてされれば、どこをどう殴られようとも悶絶は避けられないだろうが、とはいえグーパン一発程度ではそう簡単に死なないのだから僕は思わず安堵した。

 そして直後に後悔した。

「────ですがァ、時間無いので巻きでよろしくお願いしまァす」

「は? 巻き? 何を?」

「───ゥおるァッ!」

「あっちょ待っ」

 十字架に磔となっている僕は直立しているのと何ら変わらないような高さなのだが、僕と比べるととても背の低いジズが、そこから更に ふかくこし を おとして せいけんづき を はなった !

「───ッアァオッ」

 ジズが放った正拳突きは白いモヤのように見える旋風をまとって僕の股間にめり込んだ。途端、シャレにならないレベルの激痛が電撃の如く全身を駆け抜ける。やがてジズが拳を引けば、痛みは次第に謎の気分の悪さへと変わって僕のお腹をぐるぐる巡る。

 もはや苦悶の表情すら出来なくなった僕は完全に輝きを失った目を真上に向けつつ世界アヘ顔選手権でぶっちぎりの一位を取れるぐらい酷い面をしていたが、しかしジズはまだまだ到底満足していなかった。

「あーァすんませェん、時間押してるんでェ巻きでお願いしまァす」

「ぁ……は………ぅぁ………」

 一発目にして既に息も絶え絶えな僕に向かって巻きを伝えたジズが再び腰を落として「ッシャオラァッ!」と叫べば僕の股間にさっきと同じように右の拳が突き刺さり、さっき以上の痛みが股間を通して脳髄を突き抜けた僕は「───ッバァアオッ」と悶絶。しかし今度は痛みが謎のぐるぐる感に変わるよりも早く右の拳を引き抜いたジズは、僕がそれを認識する前に左の拳が旋風をまとって「オルルァッ!」と追撃を放ちそしてそれはやがて速度を増していく。

「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオオラオラッ!」

「アガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガッ!」

 どこかで聞いた事のある奇妙なラッシュと、どことなくラスボス手前でパーティアウトしそうなパープル感のあるスタンドみたいな叫びが木霊する。ジズが突き出す拳は当初こそくうを切り裂き大気をまとって旋風を巻き起こしながら僕のズボンを引き裂いていたが、いつしか音速に達したそれは爆音と共に大気を震わせそれは遂に僕のパンツを灰燼へと変え────、

「これでェ……三百さんびゃくゥ、六十ろくじゅうゥ───────」

 大きな棒が揺れたり跳ねたりしている…。あはは、大きい! 男優かな。いや、違う……違うな。男優はもっと、バルルルァーって振り回すもんな。痛いなぁ、ホントに。うーん……許されないのかな? おーい、許してくださいよ。ねぇ?

 ────いつしか音を置き去りにしたジズの拳が正拳突きを繰り返す度、剥き出しとなった僕のちんちんは上下左右にべルルルルルと暴れ狂う。もはや残像すら残す程になっていたそれらは、しかし殴られ続けるちんちんの残像なのか、それとも殴り続けるジズの拳の残像なのか、或いは暴れ狂う玉袋なのか………今の僕には、何も区別が出来なかった。

「─────── 五連打グォレンダァ──ッ!」

「ウワァァァァアアアア───ッ!」

 どこかで聞いた事のあるピピピピピピポンという電子音を鳴らしながら僕のライフポイントはゼロを示す。対戦ありがとうございました。

 

 まさしく地獄への片道切符となったジズのその言葉は、それこそ快速列車が如く僕を瞬時に地獄へと送り届けてくれた。文字通り快適な速度で駆け抜けた列車はその道中で事故って僕のお腹に大きなあざを作るような事も無く、僕は無事に地獄へと到着した。

 地獄というからには、はてさてどんだけ酷い場所なのかと戦々恐々としたものだが、そこは思った程の場所ではなく、なんだか普通の駅という感じだった。

 やがて僕の目の前に現れた上半身裸で虎柄パンツを履いている獄卒が、その虎柄パンツに右手を突っ込み股間をまさぐる。ゴソゴソと股間をまさぐる鬼の獄卒を見て「鬼でも性病になるんだな」等と親近感を覚えればズルリと引き抜かれたその手には「武山敏夫たけやまとしお」と書かれた名刺があり「あ自分こういう者です。お客さまの担当となったんで、何か困った事があればどんな些細な事でも遠慮せずに聞いてくださいね」と腰を折ってペコペコと挨拶をしてきた。「ああこれはどうもご丁寧に」だなんて返しつつ両手で抓まれた名刺に目を向ければ、股間に仕舞っていたそれをまさぐっていた右手の指の間には見覚えのある縮れ毛が一本挟まっており、僕はついつい「申し訳ないのですが頂いた名刺をしまうケースを持っておりませんで……」と丁重に受け取りを断った。

 言われて「あぁそうですか……それでは致し方ありませんねえ……」と凄い悲しそうになった獄卒さんにいたたまれなくなった僕が「それはそうと、一つ聞きたい事があるんですけれども」と話の流れを変えると獄卒さんは「あっであれば是非とも自分に聞いてください!」と笑顔を取り戻したのだから、僕は何だか安心した。

「現世に戻る場合ってどうすればいいんですか?」

 僕がそう聞くと、獄卒さんは「ああそれなら」と首を横に向けた。

「あちらの切符売り場で現世行の切符を買っていただければ」

「………改札とか見当たりませんが、そこの所は?」

「問題ありませんよ。列車から降りる際、駅員に手渡して頂ければよく見る『駅員さんが切符をパチンってやるあれ』を使いますので」

「ほー『駅員さんが切符をパチンってやるあれ』ですか。趣きありますねえ」

「人件費こそ掛かりますが、予期せぬ残高不足で後続に迷惑を掛けるような事にはまずなりませんからな」

「あーあれ妙にパニクりますからねー。ある程度は残高も把握してるんですけど「そろそろチャージしなきゃな」っていう頃に偶然忙しさが重なるとついついチャージし忘れちゃうんですよねえ」

「分かります分かりますよそのお気持ち。……とはいえ今は観光客の増加を図って、どこからどこまで列車に乗ったとしてもゼロ円になるキャンペーン中ですので、今に限ってはその心配もありませんよ」

「ほーそれはまた太っ腹ですな。赤字にならないのですか?」

「私もそう思ったんですけど、何でも閻魔様が動画用で大量に買った五百円スクラッチがかなりの数当たりまして、超絶黒字になったとか言うんですよ」

「動画用……と仰るって事は、もしかして閻魔様もチャンネル持っていらっしゃる?」

「ええ。生憎と名前は失念してしまいましたがウチのせがれなんかは結構観てますよ。そんなこんなで超儲けた閻魔様でしたが……ほら。宝くじって国営でしょう? 国営で稼いだ金は国の為、ひいては国民の為に使うべきだと閻魔様が仰りましてね」

「ほっほぉーなんともご立派なこころざしです。それでくだんのキャンペーンという訳ですか」

「全くその通りです。……いやはや、まさしく語るに易く行うに難しですよ。さすが閻魔様、尊敬しちゃいます。頻繁に女体化させられてるだけはありますね」

「全くです。……ところで切符はどう購入するんです? 『駅員さんが切符をパチンってやるあれ』を使うぐらいですから現金払いかとも思いますが、電子マネーが使えないとなれば狙いの観光客もなかなか増えませんでしょう?」

「ええ、ええ。全くその通りで、お若いように見えるのに良く分かったいらっしゃる。ですから急いで電子マネーに対応出来る発券機を導入したんですが………今度はそれまで現金払いだったお客様方から、仕組みが複雑になったと苦情が来ましてなあ……」

「あーありますよねそれ。便利になったのを喜ぶ人も居れば、便利になる事を求めていない者も居る。後者の方々はむしろ新しい事を覚える手間にどうしても不満を抱えがちなんですよねえ」

「そうなんですよ……どうしようもない事なので私共が腹を立てるような事はありませんが、今度は逆にそんな態度がムカつくとクレームが来るのですから、もう何を言ってもどうせ怒るんだろうと思いながらテンプレート通りの事を繰り返すしかありませんよ」

「難しい世の中になったもんですね……。であれば念の為に、自分も切符の買い方について教わっておいてもよろしいですか? いざという時に何も分からないのであれば、或いは僕もクレーマーになってしまいかねません」

「ああ確かに! そうですね! 閻魔様から裁きを受ける段取りが決まってしまえば、もう当分はゆっくり出来る機会がありませんからな」

「でしたら是非とも、宜しくお願い致します」

 初対面にも関わらず「多分この人とは結構旨い酒が呑める気がする」と思わずにはいられない会話をしつつ、獄卒さんと共に発券機へと向かう。画面のどこを押せばいいかとか、現金払いの時はお札を複数枚同時に入れても大丈夫だとか、電子マネーで支払う場合はポイントが付与される関係で購入ミスによる払い戻しが出来ないから気を付けてとか、画面をあまり力強く押すと液晶が割れて弁償になっちゃうからやめた方が良いとか、力強く叩くようにドスドス押すのもタッチパネルの反応がすぐに悪くなっちゃうから避けてほしいとか色々と教わっていると、やがて発券機の下部から『地獄発 現世行』と書かれた小さな紙片が飛び出てきた。僕は流れるような動きでそれを手に取ると「えーまむぬくぅ地獄発ぅ現世行の列車ぐぁ発車しぁっす」という流暢過ぎて極めて聞き取り辛いアナウンスに合わせて早歩きでその場を後にする。競歩レベルの超絶早足で車両に乗った僕を見て呆然とした顔で「───あ、───え……?」と立ち尽くす獄卒さんだったが、獄卒さんが状況を理解して駆け出す頃には、僕らを隔てるようにウィーンプシューと扉が閉まる。そしてそのままガタンゴトンと聞き慣れた懐かしい音を鳴らして、列車は発車していった。

 悪魔祓いとかが流行った時代。悪魔と契約をする際は、ただ契約をするのではなくトンチを効かせて悪魔の裏をかかないと願いが叶う前に悪魔に魂を奪われてしまうのだと聞いた事があったが、多分今の僕ならある程度までは悪魔を出し抜く事が出来る気がした。



 ───────



 レナ・スタフォードの実弟であるテッド・スタフォードが交通事故で亡くなったのはレナがまだ六歳の頃の事だった。

 両親にとっては二人目の子供という事もあり、六年前とは違ってだいぶ勝手が分かっているつもりだったものの、しかし思い返さずとも六年前に家族となった我が子は女の子だったのだから、両親は初の男の子という事でやんちゃばかりなテッドには中々手を焼いた。まだ五歳のテッドが歳に見合わぬなにがしかをやらかす度に「テディは将来ビッグになるぞ」と言い訳のような事を呟く父の姿に、まだ年端もいかないレナは母と二人して溜息を吐くようになっていたが、二人共それが嫌という訳では無く「仕方がないんだから」と呟く言葉の節々には、どこか慈愛のようなものが秘められていた。

 それまで遊具で遊ぶ事に夢中になっていた二人が午後七時を示すチャイムと共にいきなり空腹を覚えるのは現金な性格をしているからという訳では無く単にパブロフの犬と言うに他ならないのだが、それでも直前まで次は何をして遊ぶかで言い争っていた二人が晩御飯は何かで言い争うようになったのは些か現金と言わざるを得ない。

 梅雨Rain Seasonが明けた初夏の午後。むっとした空気の中で鳴いていた名の知れぬセミ類の声が、いつしか別の虫の鳴き声へと変わっていく頃。何気無く弟から目を離して空を見上げれば、オレンジ色をした夕焼けの空に浮かぶ大きな入道雲積乱雲がこれから降る雨を告げていた。

 いつの世もどこの世界でも、きっかけなんてものはほんの些細なものである。『ただ上を向いただけ』だとしても、それが死を招く事だってあるという事をこの時レナ・スタフォードは強く理解した。

 耳をつんざくようなブレーキ音だとかタイヤが路面を横滑りする時に発生するゴムの焦げた臭いだとか、そういったものは何も無かった。実際に交通事故が起きる際には、そんな音や臭いを脳が認識するよりも遥かに早く人が死ぬ。

 そんな漫画的演出や小説的表現の代わりとばかりに鳴ったのは、弟の頭蓋をフロントバンパーが叩き割る重低音と、そのまま回転速度を緩めず走り抜けたタイヤが弟の半身を踏み潰す時の湿った破裂音だった。

「…………………………………」

 レナは立ち尽くした。唐突な死に思考が停止した訳ではなく、まだ六歳のレナにはそもそも人の死というものがしっかりと理解出来なかっただけだった。数秒前まで弟だった肉塊が、いつしか降り出した雨により深紅の液体を滲ませる頃になれば、ようやく自らの弟に何が起こったのかを理解出来た。

「やあ」

 それと同時、レナは弟だったそれの上に浮かんでいる羊のような何かの存在にようやく気が付いた。

「ぼくはメッソーレムと呼ばれているよ。きみの名前は?」

「…………レナ。レナ・スタフォード」

「そう。じゃあレニィだね」

「……なら、あなたはメェソルね」

 上を向くだけで人が死ぬなら、言葉を交わす程度の事でも少女が人を辞めるには十分なきっかけ足り得るという事を、この時の少女は理解していなかった。


 身体の成長と引き換えに魔法を扱う術を得たレナ・スタフォードは、寿命で死ぬ事の無くなった生涯を使って数多の世界から一つでも多くの不幸を減らす事を目的とした旅に出る決意をした。どういう理屈なのか、自らが人を辞めた時点で世界から忘れ去られてしまったレナは、メェソルから貰ったレニメアという名前を使い、自らを魔法少女として認識し始めた。

 六歳の時点から成長しなくなった少女が初潮の来ない体に子供を作れない事実を悟ったのは自らを魔法少女と名乗るようになってから数年の事だったが、二十年も経つ頃には自らをメッソーレムMessoremと呼んだものの名前の意味ぐらいは理解出来るようになっていた。そしてその頃にはメェソル死神が自らに付けた識別番号さながらな雑な名前の由来も薄々ながら勘付いていた。

「レニィ、この世界から破滅の臭いがする」

「わかった。行こう、メェソル」

 二つ返事で子羊の悪魔に応じるレニメアは、もはや深く考える事をしなくなっていた。数にすれば百の冬は軽く越しているこの身は、しかし一切の成長をしないが故に脳の体積も六歳児のそれと変わらない。過ぎ行く年月と共に基本的な思考回路や性格は確立されたものの、幼子故の長続きしない感情はそのまま変わらない。一眠りもしてしまえば前日起こった事など大体どうでも良くなるレニメアにとって、子羊の悪魔がどういう意図で自分を魔法少女にしたのかなんてものは、これから向かう世界にどんな草花が生えているかという期待と比べてしまえば霞の如く消え失せるというものだった。



 ───────



 地獄から蘇った僕が真っ先におこなったのは自らの股間からぶら下がる二つの玉の安否確認だったが、幸運にも僕の股間のゴールデンボールは二つとも葡萄酒造りに使われるブドウの如く潰れているような事は無く、むしろ金玉よりちんちんの方が酷い事になっていた。それも当然の話、ジズの正拳突きがまず当たるのは金玉ではなくそれより斜め上から垂れるようにして生えている、可愛い可愛い僕のちんちんなのである。

 最初の方こそぶん殴られた衝撃により、縦横無尽……元気いっぱい荒ぶっていた僕のキュートなちんちんだっだが、ジズの正拳突きが速度を増すにつれて荒ぶる間もなく次の正拳突きが飛んでくる事になる。そして僕のちんちんは自らの身を盾として、正拳突きがゴールデンボールへ直で当たる事を避け続けていてくれたのだから、ポークビ◯ツだった僕のちんちんも気付けばスーパーに売ってるやたらデカいサラミばりに巨大化するのも当然の話だった。

 少年はいつしか大人になるもの。田舎に住む爺ちゃん婆ちゃんと「何歳になったの?」「六歳!」とかいう会話をしていたとしても、小学校を卒業する頃には仲良くなった女の子と親愛のキスをする事もある。少年というのはいつの間にか大人の階段を登り進めているものなのだ。

 鮭という魚は大人になると産まれた川に帰ってくるというが、人も大して変わらないもので。子供の頃に通った産道を、大人になると再び通りたがる。だから赤みの強いサラミとは打って変わってド紫に腫れ上がった僕のちんちんを見たペール博士が道端の犬の糞を見るような目をしながら「今度は何をしたんだい」と言ってきたとしても、孫を見る婆ちゃんのように「気付けばおっきくなったねえ」と言いたくなるほど大人の階段を登り進めたちんちんに向けた敬礼を下ろすような事はしなかった。

 自らのちんちんに三十秒ぐらい敬礼を続けていた僕だったが普通に肩が疲れてきたのと飽きてきたのとでその手を降ろす。大した会話もしていないのにいつしか好感度がゼロを振り切ってマイナスに達しているだろう湯気子が向けてくる目線が、まるで居酒屋の前で朝日に照らされキラキラと輝くゲロを見るかのようなものへと変わっているのはもう諦めるとして、相も変わらずペール博士がド紫に腫れ上がった僕のちんちんを快復させてくれた次の日の朝の事。僕ら『いつものメンツ』は突然やってきた第三勢力である魔法少女の話題で賑わっていた。

「ウチ今日からプリキ◯ア目指すわ」

「ならアタシが相方になってあげるわァ」

「キュアバイオレンスとキュアブラッドシェッドって所ですかね。変身バンクの作画が大変そうですわ」

「「ふたりはプリキ◯ア! マ◯クスハ◯ト!」」

「楽しんでるハニーとジズくんには悪いんだけれど、ボクはどうしてもマ◯クスハ◯トというよりフルフレンジーって感じがしてしまうよ」

「というかプリティはまだしもキュア要素はどこにあるんだ? いや初代プリキ◯アの時点でキュアCuredしてないよなーって思いはしてたけどさ」

「キュアーっちゅーたら癒やしやろ? ロリからボインまで様々な性癖に配慮しながらも様々な男性を癒やすええ感じのコンビやん」

「思い返せば初代プリキ◯アは拳と蹴りで戦ってたわけだしィ、その辺を参考に現代風にアレンジしましたァとか言っとけばゴーサイン出そうよねェ」

「時々マジで思うけどジズお前マジでルーナティア人か? 何でってぐらい僕らの世界の知識あるよな」

「じゃあボクはタキシ◯ド仮面的なポジションになろう! 怪人との戦いで苦戦する二人を助ける役目だね!」

「それプリキ◯アじゃなくてセ◯ラーム◯ンだろ」

「でしたらわたくしは何故か二人に分裂しつつチャイナ服を着て歌いましょう! 争いを望まぬ平和の歌を双子設定となった私が歌って差し上げましょう! 双子化のついでにちょっと慎重縮んだら良いなって願いを込めて歌いますわ!」

「それモ◯ラだよ。もうプリキ◯アのプの字もねーよ。平和の歌に私欲を混ぜるな」

「ウチどっちかっちゅーたらモ◯ラよりバ◯ラの方が好きやねんけどどうしたらええんかな」

「どうもしなくて良いと思うよ」

「アタシは今でもビ◯ランテが一番好きねェ。デザインもシナリオもマァジで至高そのものだと思うわァ」

「お前絶対ルーナティア人じゃないだろ」

 淫靡な微笑みをしたジズが取り敢えずそう言っとくだけでまるで全てを把握しているかのように聞こえる「さァ……どうかしらねェ」という魔法の言葉を呟いたが、どうせ大した事は考えていないんだろう。すぐに「変身バンク中の背景カラーなんだけどさァ、あたし黄色がいいわァ」と話に戻っていった。その姿を見てしまえば何だかもう考えるのが面倒になり、僕は「個人的にデストロ◯ヤーの幼体はもっと暴れさせて欲しかったな。メガヤ◯マのモチーフになったっていう、あのトンボみたいな奴」だなんて事を言いながら誤魔化した。

 …………光や僕は特にそうだが、僕ら『いつものメンツ』はいつも変わらずくだらない事を話している中にも、日本人に最もありがちな「まさか自分が」というような感情を割と抱きがちにも見られているようだ。

「ねえヘタレパシリくん、今日じゃ無いんだけど、またその内どっかでパシられてくれないかしら?」

 呼び出した僕に向かってそんな事を言う魔王さんに、特に断る理由も無かった僕は「良いですよ」と二つ返事だった。

「あら即決。流石は寝るかシコるか掲示板荒らすかぐらいしかやる事が無い糞陰キャね、その動きの軽さを活かして運動でもすれば痩せれるんじゃないかしら」

「生憎と僕は掲示板荒らしよりコメント欄を荒らす方が好きなんで。荒らしに構った『構い荒らし』が一緒に削除されてるの見ると心が踊る」

「クズの素質あるわ」

 そんな軽口の応酬を繰り返す僕らは、意外な事にそのまさか・・・に対して存外警戒していた。だからこそ魔王さんから「ある日いきなり現れた第三勢力」の調査を頼まれた話をした時は、誰もが揃って「まあ、そうなるな」とでも言いたげな表情になった。

 何しろあの時起こった村の虐殺を調査した際に僕らは勇者を一人終わらせているのだ。流れでとはいえ、その結果に対して味をしめた魔王さんが僕らに対しての頼み事を増やしてしまうのも正直無理は無い。

「でも………その、僕らばっか出て、他の愚者の立つ瀬とか気にしなくて良いんですか?」

 少し遠慮がちに僕がそう聞くと、魔王さんは「気にしなくて良いわ」とオウム返しをするように答えを返した。

 何せ所詮愚者は愚者、愚か者なのだから立つ瀬がどうとかいう下らない与太を気にするものは決して多く無く、それどころか愚者だけでなくルーナティア人の多くがどうでも良い口を揃えているのだから、こいつらは本当に戦争を真近に見据えた連中なのかと一抹ばかりの不安も湧く。

 …………日本人にありがちな「まさか自分が」を抱いているのは日本人ではなく、もしかしたらルーナティア人なのかもしれない。

 むしろその手の与太を気にするのは勇者含むサンスベロニア帝国の方に多いらしく、既に第三勢力として突如参戦した魔法少女の懐柔および監視としてサンスベロニア帝国お抱えの勇者が一人動いているというのだから、戦争を仕掛けた側である事を鑑みてもやる事成す事何から何まで手が早いとしか言い様が無い。

 とはいえ実際野放しにしていた勇者が勝手に好き放題やった末に三秒掛からず殺されたというのだから、次こそはと先手を取りたがるのも必然なのかもしれない。



 ───────



 アンリエッタ・ヴァルハラガールは生前「割と酷い部類」と言われるほどの中二病ではあったが、決して右目が四六時中疼いちゃう系の中二病という訳では無く、どちらかといえば「めっちゃ技名考えちゃう系」の中二病だった。大して多くない知識と知恵を総動員して技名を考える事が寝る前の日課だったが、ある日突然ヴァルハラガールを名乗ってイキり始めたアンリエッタに対して、周囲は当然ながら奇異の眼差しを向けまくったものだった。まだ少女である今は良いとしてもお前それ三十路過ぎてもガール名乗る気かよと誰もが無言でツッコミを入れたものだった。

 とはいえ、生前は剣と魔法の世界で生まれ育っていただけあり中二病が理由でイジメが起こり自殺に追い込まれるような事は無かったし、自殺と何ら変わらないどころかむしろ変に生きている分死ぬよりよっぽど見苦しいヒキニートになるような事も無かったのだから、勇者どうのこうの関係無くある種生まれながらにして恵まれた環境に居たといっても差し支えないだろう。

 自らを聖域の戦乙女と称してはばからないアンリエッタが中二病を患うに至った理由は、まだ幼い頃に出会った一人の冒険者が発端だった。まだまだ右目だか左目だか自分でも時々分からなくなる方の目が疼く前のアンリエッタは、薬草摘みに出掛けた際なにがしかあって女冒険者に命を救われた。理由が何だったかは大量に考えた自らの設定に埋もれて思い出せなくなっていたが、それでもあの時のアンリエッタは果敢に剣を振るって戦う女冒険者を見てとても心が動かされた。

 他の世界でどうだかは知らないが、アンリエッタの住む村では女の立場はかなり低く、その存在価値といえばコネを使って地方の領主に嫁がせるか夜這い吐精の相手にするかぐらいしか無かったのだから、その身一つで勇猛果敢に剣を振り回しアンリエッタを守る女冒険者の姿は、アンリエッタの瞳に色濃く焼き付き、文字通り片時も離れなかった。

 命を救ってもらったお礼として女冒険者がアンリエッタの家に一晩泊まった際、それまで寡黙な少女として「愛想が無い」と言われ続けていたとは思えない程キラキラと輝いた目をした幼きアンリエッタは、一番鴉が鳴くまで女冒険者と話をした。

 その日を境に中二病が発症したアンリエッタが考え尽くした設定に全く埋もれる事無く今でも鮮明に思い出せるのは、あの日の晩に女冒険者が語ってくれたその一言だけだった。

「良いかい? 世の中キッカケなんてものは必要無いんだ。変わるキッカケ、動くキッカケ、そんなものはどこにも存在しない」

 どうすれば冒険者になれるのかと問うたアンリエッタに、女冒険者は優しい微笑みでそう語る。

「変わろうと思えばいつだって変われる。変わろうと本気で思えているなら、キッカケなんて無くたって変われるし、逆にどれだけキッカケがあった所で、そいつ自身が変わろうと思えていなければいつま経っても変わらない」

 そう言って「きみは変われるかな?」と悪戯げに微笑む女冒険者の姿に、アンリエッタは変わる事を決意した。このまま呆けていた所で、村の男か或いはどこぞの小金持ちか。どちらにせよ肉便器よろしく性欲処理用の肉穴にされる事は先人の言葉から幾らでも予想が付いた。興味なんてビタイチ無い女としてのよろこびとやらを知るぐらいなら、冒険者としてのよろこびと、誰かを助けるよろこびを知っている方が何百倍もマシだろう。

 朝が来るまで少女とおしゃべりに興じた結果、ひたすら眠たげで足取りの覚束ない女冒険者が村を去った後、それまで剣なんて握った事も無かったアンリエッタは、深夜テンションも相まってか手始めに薬草摘みの役目を放り投げて剣の鍛錬を始めるようになった。

 瞳の裏に焼き付いている女冒険者の立ち回りを参考に剣を振り続けたアンリエッタに、当然ながら家族や村の住民は様々な言葉を投げ付けた。或いはここで周りから何も言われなければアンリエッタが中二病に罹患する事は無かったかもしれないが、周りから投げ付けられる言葉に対して適当な返答が浮かばなかったアンリエッタは、

「私は神より天啓を賜った。私は聖域の戦乙女である。控えろ下賤の者共よ」

 とかそんなような事を真顔で言い放ったのだから、村民たちは「やべーこいつ、遂に頭おかしくなった」と思う他に無かった。

 あの頃憧れた女冒険者のそれとは違い、いつしか片手盾と短剣を振るうようになっていたアンリエッタ・ヴァルハラガールは良い加減やる事も無いからとでも言うかのように、地方で悪政を強いている領主や、ちょっと名前が広まった魔物たちを手当り次第にシバいていった。

 いずれ来たる聖戦の時に備えて少しでも悪を挫いておこうと思っていたアンリエッタが聖戦に臨むような事は結局最期まで訪れなかったが、正義の為に戦い続ける孤高の戦乙女の名は世に広く知れ渡り、やがて彼女が老衰で天に旅立ってからも第二第三のヴァルハラガールが生まれ続ける程だった。

「…………………」

 だからこそアンリエッタは見ていられなかった。自分の立場がどうとか彼女の立場がどうとか、そういったものは何一つ関係無かった。

 アンリエッタにとって、いやヴァルハラガールを名乗る者である自分にとって、魔法少女と名乗る存在に対し、取り調べと称した不法行為が十に満たぬほど年端もいかない娘に行われている事を看過出来なかった。

 アンリエッタは中二病を拗らせたただの村娘ではあったが、その割に物事の善悪を両者の目線から見据えてから判断する癖があった。だからこそ勇者としてサンスベロニア帝国の為に戦うかどうかはルーナティア国とその国王の動き、立ち回りの方向性を見据えてからにすると決めていた。

「…………………」

 コツコツと靴音を鳴らしながら石造りの地下牢を進む。壁や床、天井は石造りではあるものの、廊下と牢を隔てているのは鉄の格子と金網だけ。くしゃみ一つしようものなら地下牢全域に反響し、別の牢から「風邪引くなよ」なんて気遣いをされかねない程吹き抜けている空間だったが、その最奥にある一室だけは鉄の扉で厳重に閉ざされていた。

 車のハンドルのような形をした丸い取っ手を「潜水艦か?」と思いながらぐるぐると回せば、その内がちゃんと音を鳴らしてロックが解除される。嫌気が差すほどクソ重たい扉を開けば、少し先に再び同じような扉がある。二枚の鉄の扉で厳重に閉ざされた部屋に入ると、鼻を突く青臭い栗の花のような臭いが充満した部屋に辿り着く。鼻腔を突き抜ける欲望の臭いに顔を顰めながらも部屋の奥に向かえば、そこには異臭の根源とされてしまった憔悴しきった表情をした魔法少女がぶら下がっていた。

 部屋の壁から橋渡しのように生やされた金属の棒に手足を鎖で繋がれた魔法少女は、さながらアルファベットのVかWのような体勢をしたまま、開き切って戻らなくなったその二つの穴から取り調べと称して吐きつけられた欲望をポタポタと垂らしていた。

 けれど少女の顔は疲弊しているものの茫然自失とは言えず、まるで慣れた事とでも言うかのように薄く息を吐いていた。疑問に思ったアンリエッタが開いたまま戻らなくなっている二つの口の、捲れ上がって目を背けたくなるような一つへと目をやれば、薄暗い部屋ながらも第三者から吐き付けられたものとは違う透明な体液が垂れているのが目に映る。

「…………………」

 文字通り世界を股に掛ける存在として、数多の世界を飛び回っていればこのようないわれのない難癖を付けられる事にも良い加減慣れるだろうし、そうなれば幾ら年端のいかない幼子の体であっても自己防衛から粘膜を保護する液体に濡れるのも当然なのかもしれない。ましてそれが初潮すら来ていない幼子であるのなら、子をはらむ事も無いのだからまさしく好き放題された訳で、であれば体が体を保護する為に溢れんばかりの粘液を滴らせたとしても是非の無い事なのかもしれない。そう考え至ったアンリエッタはまるで締め付けられるような胸の苦しみに、思わず眉根を寄せた。

「………あんまり、見ないでください……」

 魔法少女が口を開いた。とても掠れた、か弱い声だった。

 自分が眉根を寄せた事を嫌悪感の表れだと受け取られたのかとも思ったが、しかしそんな事は関係無く今の自分の姿を見られて恥ずかしいと思わない者はそう多くないだろうと思い至ったアンリエッタは元の無表情に戻り、少女の手足に嵌められている枷から鍵穴を探し、そこに二本の金属棒を差し込んでカチャカチャと弄り始めた。

 …………様々な娯楽コンテンツで時折語られているピッキングはヘアピン一つあれば出来ると思われがちだが、実際ヘアピン一つでそれを行う事は極めて難しい。仮にそれがヘアピンではなく自転車のスポークを折り曲げて作った物だったとしても、やはりそれ一本でピッキングは出来ない事は世間には余り知られていない。

 ピッキングを行う際には少なくとも二本の棒が要る。一つはシリンダー内部のピンに触れる為のピッカーと呼ばれる耳掻きのような形をした棒。そしてもう一つは、そもそもシリンダーを回す為に必要なテンションレンチと呼ばれるL字の棒である。先を平たくしたテンションレンチを鍵穴に差し込み回転方向へと力を加え、その後更にそこへピッカーを差し込んでピンを操作する。そうでなくては仮にどれだけピンを押し続けたとしても、そもそものシリンダーが回転せず一生開かないのである。

 故に一つのヘアピンを二つに折ったとしても、そのままではテンションレンチの役割を果たす方の先端が平たく潰されていない為にピッカーと干渉してしまい、最悪シリンダー内部で引っ掛かって二本共抜けなくなってしまう。自転車のスポークを折った自作のピッキングツールであっても同様で、折って曲げるだけではなく必ずハンマーで叩いて平たく伸ばしておかないとテンションレンチとして機能させ難い事が殆ど。だからこそ『ヘアピン一つでピッキングを行う事は極めて難しい』のである。出来ない事は無いが、偶然それらが干渉しにくいサイズのシリンダー錠だったという場合でもなければ、少なくともアンリエッタでは解錠出来ない。故に今まさにアンリエッタが使っているその二つの金属棒もわざわざ時間を見付けて自らが作った『ちゃんとした自作のピッキングツール』であった。

 耳掻きようなピッカーでシリンダー内を撫でるように前後させれば、ピッカーから伝わってくる感覚から魔法少女の手足を拘束している枷は、よくあるピンタンブラー錠である事が分かる。生前様々な場所へと忍び込む際に覚えたピッキングではあるが、アンリエッタに出来るのはよくあるギザギザとした鍵を使用するタイプのシリンダー錠のピッキングだけ。仮にこれがディンプルシリンダーやマグネットタンブラーであれば完全にお手上げだったが、ピンが飛び出ている方向から察するによくあるキーシリンダーだと分かる。

 ………この世界がディンプルキーを使うほど発展しているとは思っていなかったアンリエッタが最も警戒していた懸念点は、ウォード錠を使用されている事だった。ウォード錠は鍵としては非常に古い見た目をしたものだが、そのロック性は中々どうして優秀。ピン先が長く曲がったウォード錠に対応出来るピッカーでなければ内部で引っ掛かって開ける事が出来ないのだ。生前にも何度かウォード錠を使用した扉や宝箱に出会った事もあったが、アンリエッタが使用していたピッキングツールでは毎回開けられなかった為、当時は中々開けるのに苦労した。ウォード錠は対応出来るピッカーを使用すれば本当に秒で開いてしまうが、対応出来ないピッカーだとゆうに一時間は掛かるし、それだけ掛けて「無理だこれ」となる場合もある。

 生前は力任せに鍵ごと扉や宝箱をぶち壊していたアンリエッタだったが、サンスベロニア帝国に無許可で魔法少女を脱獄させようとしている今回では、そんな大きな騒ぎにする訳にはいかなかった。

「………よし」

 慣れた手付きでそれらを外せば、それまで束縛されていた魔法少女の手足がだらりと投げ出される。

「釈放……ですか……?」

 やがて両手足が自由になった魔法少女はそう言うが「ここから逃げるんだ」とだけ言ったアンリエッタは、スカートアーマーのような形状をした自身の衣服のポケットにピッキングツールを仕舞い、すぐに少女の衣服を探し始めた。それを見た魔法少女は「……私の服、多分そこの棚にあるんで……」と返す。言われた戸棚を漁れば、着衣のまま取り調べ・・・・を強要されたのか所々黄ばんだ衣服が見付かった。それをそのまま着せる事に抵抗感を覚えたアンリエッタ、自らが羽織っていた外套を脱いで衣服と共に魔法少女へ手渡した。

「……次の尋問で何も吐かなかったら……今度はにょーどーを使って尋問って言われてました」

「…………………」

 長く手足を拘束されていた故、自力で服を着る事すら手間取っていた魔法少女を手伝っていたアンリエッタは、特に感情の篭っていないその言葉を敢えて無視した。

「にょーどーって、おしっこの穴の事ですよね……。……助けてくださって、ありがとうございます」

 ほんの少しだけ笑顔を見せながらそう語る魔法少女に「気にしなくていい」とだけ返すアンリエッタだったが、そのまま黙らずその疑問を口にした。

「そこの羊はお前の仲間ではないのか? 何故助けない」

 依然として宙を浮いているマスコットキャラクターのようなそれを睨みながらそう言うと、魔法少女は即座に「メェソルは仲間じゃありませんよ」と言葉を返した。

「ぼくとレニィは利害関係が一致しているから行動を共にしているだけであって、特に仲間だとかそういう関係ではないよ」

「利害が一致しているのなら彼女を助けた方がよっぽど利に繋がるだろう」

「いいや? レニィが苦しむ事すらぼくにとっては利なんだよ。死んで貰うのは些か困るけれどね、苦しむぐらいなら大歓迎さ。生きて世界を救ってくれても、しくじって苦しみ抜いて貰っても、ぼくにとっては構わない。死にさえしなければ、どっちだっていいのさ」

 感情の読めない無表情な羊が「何なら苦しんでもらった方がよっぽど利になるんだ」なんて言うその言葉に訳も無く苛立ったアンリエッタは思わず羊を殴ってしまったが、ぼにゅんという気色悪い感触がしただけで吹き飛んだ羊は何も動じていなかった。

 着替え終わった魔法少女に外套を被せながら「レニィと呼べば良いのか」と聞くと、魔法少女は「メェソルと同じようには呼んでほしくありません」と首を振った。

「けど過去の名前で呼ばれたくもありません。レニメアと呼んでください。メェソルがレイニーRainyナイトメアNightmareをもじって作った、今のわたしの名前です」

「また陰鬱な名前だな。………過去の名前は? 知るだけ知っておきたい」

 念を押すように「言いたくないなら別に構わない」と続けると、魔法少女は口をつぐんで悩んだ末、やがて小さく「レナ・スタフォード、でした」と口を開いた。

「そちらの方がよっぽど可憐で素敵な名前じゃないか。捨てるには惜しい、そちらの名で呼ばせて貰おう」

 アンリエッタがそう言うと、魔法少女は照れたように「ありがとうございます」とだけ返した。



 ───────



 アンリエッタと名乗った戦乙女がまだ幼気無あどけなさの残る少女を連れてサンスベロニア帝国の城下町を抜け出る姿を見掛けたウィリアム・バートンは、内心で何を思った訳でも無く取り敢えずその背中を追い掛けていた。特にこれといった意味があった訳でもない割に、平地を進む二人を追う際は腰を低く屈めながら虎走で追い掛けていたのだが、今にして思えば勇者などという胡散臭い肩書が気に食わず帝国の犬になる事にも飽き飽ていただけなのかもしれないと、ウィリアム・バートンは帝国を出る間際に考えていた。

「あたしが居て良かったわねぇ全く」

 キレイにワタ内臓を抜かれた魚を焼きつつ、その傍らにあるブツ切りというより輪切りという方が適当な酷い有様になっている魚を見ながらウィリアムがそう言うと、悔しげな顔をしたアンリエッタ・ヴァルハラガールは「ぐぬぬ……」と呻いた。

 孤高の戦乙女なのだから野営の心得ぐらいあると豪語していたアンリエッタに「お手並み拝見ね」と言ったウィリアムだったが、川から陸に打ち上げられた淡水魚が唐突に「Occidere!」と叫んだアンリエッタの放つ剣撃によって宙を舞いながら両断されたのを見た瞬間、不敵に微笑んでいたその表情は呆れ果てた顔へと変わっていた。火を起こす際も生魚をぶった斬ってからであり、それに関する鮮度がどうとかそういう配慮は何一つ無かったし、何ならその火起こしですら二回ほど鼻先から垂れ落ちた汗の雫によってジュッ……というか細い音を立てながら消しているのだから「この本当に野営の心得あるのかしら」とウィリアムが嘆息するのも無理のない話だった。

「ウィリー殿は手慣れているな」

 悔しげな口調でそういうアンリエッタにウィリアムは「まあねぇ」とだけ返し、焼き魚の位置をズラしていく。これが海水魚であれば多少手抜きな調理であってもどうにでもなる事は多いが、今回は淡水魚なので念入りに火を通さないといけない。

 異世界でどうなのかは把握していないが、少なくともウィリアムが居た世界では淡水生物に良い思い出は何一つとして無い。肝吸虫Clonorchis sinensisだとか横川吸虫Metagonimus yokogawaiだとかは当然ながら顎口虫Gnathostomaに皮膚の下を這いずり回られるのだけは想像するのも嫌であるし、場合によっては上流に生息していた野生動物の糞尿からエキノコックスを拾う可能性もある。

 異世界故、必ずしも同種が居るとは思っていないが、それでも生態系の中に寄生生物という枠が存在する世界であれば半生はんなまはおろか間違っても生食なんてしてしまえばそれ即ち死と何ら変わらないだろう事はウィリアムにも予想出来た。

 単調な日々の繰り返しや暇を何よりも嫌うウィリアム・バートンという垂れ目の男は、魚を焼く時も余り火が当たらないように配置していた。メラメラと揺れる火で直接焼くよりも、その火が出ている炭から発せられる遠赤外線でじっくり確実に焼いた方が肉汁等が溢れ出さずに焼けて美味いと思っているウィリアムは、その待ち時間の間に魔法少女の髪や体を川で洗い、拭いてあげていた。

 さながらお風呂上がりの父母のようなその光景にレニメアが思わず「お父さんみたいです」と口にすれば、かなり食い気味に「あたしはお母さんよ」と答える垂れ目のイケメンオネエことウィリアム・バートン三十二歳男性であったが、何かを察したレニメアはそこを追求しなかった。

「ウィリー殿はホモなのか?」

 けれど何かを察せなかったアンリエッタがそれを口にした瞬間、レニメアは戦争になる気配を感じ取った。

 だがそれは杞憂だったようで、既に同じような事を幾度と無く言われ慣れているウィリアムにとっては友人から「お前ちんちん剥けてる?」と聞かれるぐらい気安い質問だった。

「バイよバイ。ホモセクシャルは同性愛。あたしは両性愛。最近じゃあ他人様の許可無く勝手にレッテル貼りたがる連中も増えたけど、あたしは昔からバイセクシャルであってトランジェスターじゃないつもりよ。因みにあたし別に専門じゃないからゲイとバイの区別付いてないわ。あたしにとってあたしが何なのかが分かれば、他の有象無象なんてどうでも良いでしょ」

 威風堂々……というには少し違うが、余りにも聞かれ慣れている疑問に対しての慣れた回答を返すウィリアムに「なるほど」と頷いたアンリエッタだったが、数秒後に「ん?」と唸りながら首を傾げた。

「…………いや待て! 両性愛という事はレナの事も性対象として見ているって事ではないか!」

「えぇっ!? わたしまだえっちな目に遭うんですか!? 助かったと思ったのに!」

 こちらの返事を何一つ待たないまま勝手に騒ぎ出す二人に辟易したような口調で「なぁにを勝手に騒いでんのよ」と返したウィリアムだったが、二人は変わらず騒ぎ続けていた。

「思えば体を拭いてくれてる時も何となくえっちかった気がします……」

「ほら見ろ! 是非も無し! 推して参る!」

「バカじゃないのアンタ。こんなちっちゃい娘にあたしのデカマラぶっ込んだら内臓ズレるでしょうが。胃下垂になっても責任取れないんだからヤる訳無いでしょ」

「いかすい! 胃まで届きますか! やめてください死んでしまいます!」

「胃まで………おぉぅ……」

「ものの喩えよ比喩表現よ。そんなデカマラしてたら勃起した瞬間ち◯ぽに血ぃ持っていかれて貧血でぶっ倒れるわよ。エロ一つとっても命懸けとかやってらんないわ」

「なるほど……。………では実寸は如何ほどなのだろうか……このぐらいか?」

「その倍はあるわね。……というかアンタいやに食い付いてくるじゃない。なに? ムッツリ? それともただのバカ女?」

「知的好奇心だ」

「バカ女だったのね。見識を改めるわ」

「なんだとぅ! 推して参る!」

「うるっさいわねもう暴れてないでさっさと食いなさいこのバカ!」



 異世界に来てからはとんと夜戦食なんて作りもしなければ食べもしていなかったのだが、久し振りに食べたその焼き魚はウィリアムが思っていた通りの懐かしい味だった。かなりの時間を掛けて遠火でじっくりと焼いたそれは表面こそ直火に触れて黒く焦げていたが、真っ黒になった表皮をぺろりと剥がしてみれば中は全く焦げておらず、真っ白な身にほんのりと乗った油が焚き火の光を反射してキラキラと輝いていた。

 幾らか乳白色なその身はホクホクとした食感でありながら、奥歯で噛み締めるとじゅわりと味が染み出し舌を震わせる。調味料どころか塩のひと粒すら付けていないにも関わらず、その焼き魚はとても味が濃く感じられた。

「レニィ。向こうから誰か来るよ」

 さすがに満腹とはいかないまでも幾らか腹が膨れて眠気もやってくる頃、ふわふわと浮いたままだったメェソルが何気無く呟いた。

 それを聞いたアンリエッタとウィリアムはもう追手が来たのかと揃って舌打ちをしたが、浮かんでいる羊のようなマスコットを見やればそいつは全く違う方向を向いていた。

 ……つまり追手では無い第三者、方角的には愚者かルーナティア国の連中が来ている可能性が高い。行商人である可能性も確かにあるが、こういった時はネガティブな方向で目算を立てている方が安定する。

「………数は?」

 慣れた口調でレニメアがそう聞けば、メェソルは「たくさんだね」と雑な答えを返してきた。

 バカ女に声を掛けようかと目をやったウィリアムだったが、既にアンリエッタバカ女は剣を抜いて盾を構え、腰を低くしており、ウィリアムは思わず「へえ」と息を漏らした。

「私が先手を担う。ウィリー殿はレナを守りつつ、結果如何いかんによっては次手で続いて攻めに回ってくれ」

「オーライ」

 意気投合するような二人の言葉に、レニメアが「わたしも戦います」と前に出るが、ウィリアム・バートンは即座にそれを手で制した。

「バカ言っちゃいけないわ。こういうのはあたし達みたいな汚い大人に任せておけば良いの」

 バイクのナックルガードのような……或いは餃子やナメクジにも見えてしまう独特な楕円形のシールドが付いた魔改造ダガーナイフに手を当てたウィリアムがそう言うと、レニメアは「でも」と否定の意思を示した。それを見たウィリアムは特徴的な垂れ目を不機嫌そうに歪めながら「でもじゃないのよ」と更に否定を重ねる。

「変にイキって荒事に混じったら承知しないからね。それこそあんたのちっちゃいあそこに、あたしのデカマラ突っ込んじゃうんだから。あたしが本気出したら胃下垂じゃ済まないわよ」

 そうまで言われれば最早黙る事しか出来ない。不承不承といった具合に唇を噛んだレニメアは、俯き加減で小さく「………はい」と呻くように頷いた。



 ───────



 パルヴェルト・パーヴァンシーは僕の事をブラザー相棒と呼ぶが、ぶっちゃけた話をするなら僕にとって相棒Buddyはラムネ・ザ・スプーキーキャット以外の何者でも無い。というかむしろ僕目線ではパルヴェルトを相棒と呼ぶ理由なんて何も無いのが現状なのだから、そりゃあどうしたってラムネの事を相棒として見てしまうというものだろう。

「げぼく、おきろ、げぼく」

 チョイチョイと頬を引っ掻いて僕を起こすラムネに目を開ければ、微妙に困ったような表情をしたラムネと目が合う。それに「……起きました、はい起きましたよ。どうしたの」と返事をすれば、ラムネはようやく僕の頬を引っ掻くのをやめてくれる。

 猫に顔をチョイチョイされながら起こして貰うそれは傍から見ると癒やし光景かもしれないが、実は小さく爪が出ているので癒やしでも何でも無く痛くて辛い。幽霊猫の癖にしっかり爪が伸びるラムネなのだから、定期的な爪切りをサボると少年に麦わら帽子を託した彼のような傷が顔に付けられてしまう。

「あんな、ラムネげーしちゃった……。そこでな、さっきな、げーしちゃった……」

 微妙に困ったようだった表情を泣きそうなものへと変えたラムネがそう言う。言われた方向に目をやればベッドの足元辺りであり、ベッドの上には何も無いので恐らく床だろう事が予想出来た。

「ん………分かった。んじゃ片付けるから少し待ってて」

 腰から上だけ起き上がった状態でぐっと伸びをしながら窓を見ると、カーテンの隙間からは良い感じの陽光が差し込んでいる。とけいが無いので分からないが、ちょうど良い具合の朝だろう。

「げーしちゃった……かたづけなきゃ……ラムネのげーかたづけなきゃ……」

「ちょいちょいちょい何してんすかラムネさん良いから良いからやめてくれマジやめて頼むから」

 不穏な言葉に慌てて起き上がってみれば幽霊猫の癖にしっかり溜め込まれた毛玉と思しきゲロが床に広がっており、それをラムネがほっくりほっくりと床を掻きながら隠そうとしていた。当然ながら床は木張りであり地面ではないので何も隠せないのだが、ラムネは何故かベッドから少しだけ垂れているシーツを引っ掻いて巻き込み始めた。

「かくさなきゃ……げーかくさなきゃ……」

「分かった分かった、ほらどいてラムネ」

 気付けば「片付けなきゃ」から「隠さなきゃ」へと変わり始めていたラムネを手の甲で退かしつつ、その辺にあったタオルでラムネの茶色いゲロを拭き始める。気持ち的にはティッシュとかで拭きたいのだが、生憎とルーナティアどころかこの世界全体を見渡しても紙はそこそこ貴重なので、仕方無くタオルで拭き取る。

 やがて拭き終えた僕は「はいおっけー」と言いながらバナナうんこみたいな形になった毛玉を包んだタオルを洗濯かごに放り投げる。

 洗濯かごに入れられた布物はその内メイドさんが回収して洗ってくれる。洗濯機なんてものも無いので手洗いかと思えば、実は殆ど洗濯機と変わらないような構造の足で踏んで回転させる手動洗濯機のようなもので洗われるらしい。

「……………………………まだにおいする……かくさなきゃ」

 パッと見キレイになった床だったが、ラムネはフスフスと鼻を鳴らすと再びそこを掘り始めた。

 またシーツを巻き込まれてもかったるいので「ほら良いから、おいで」と僕はラムネの脇の下に右手をを差し込んでそのまま持ち上げる。左手でラムネの尻辺りを支えつつ右手の親指と残りの指を脇の下に入れて、左手をお尻の辺りに回しながらラムネを横抱きするのだが、気を付けるべきは必ず尻尾を丸め込むようにしながらラムネのおちり穴に直接手が触れないようにする事。幽霊猫なので排泄はしないのだが、それでも何となく気分的に触れると嫌なのでラムネを抱く際は気を付けよう。

 そうして現場ならぬゲロ場からラムネを離した僕はそのままベッド脇に腰を下ろし、ラムネを足の上に乗せた。

 だるーんと足を投げ出したラムネの両腕の下に僕の右腕を通して体制を固定し、余った左手で頭を撫でてやるとラムネは目を閉じながら「んーぃ」と唸って撫でられていく。その内自らグイグイと力強く僕の手に頭を押し付け始めるラムネに、僕は特に抵抗せず撫で続けてやる。

 幸せな光景に見えるかもしれない。カーテンの隙間から差し込む陽光に、抜けて舞い上がるラムネの毛がキラキラと反射していなければ、実際とても平和で幸せだった。ふと見やればラムネを撫でていた僕の手には独特な空色の抜け毛が大量にくっついており思わず溜息を吐きそうになる。

「げぼく、まだ」

「はいはい」

 無表情のラムネが催促してくるのに応じた僕は再びラムネの頭を撫で始める。結構がっつり撫でているのにそれでも全然物足りないのか、少しでも撫でる速度が遅くなると、ラムネは目を閉じながらも「んーっ」と呻いて僕の手に力強く横っ面を押し付けてくる。これがまたかなりの力で、気を抜くとどんどん手が押されていってしまうのだ。負けじと僕も力強く撫で付ければ、ラムネは「んんぅい」と変な声で喜びを表現してくれる。

 生前は猫と関わる事無く死んでしまったが、もしも時あの時僕が猫を飼っている人間であったら、或いは僕はその猫の為にと死なずに生き永らえていたかもしれないと思ってしまう………それぐらい今のラムネは愛おしかった。これが仮にメス猫だったらセカンドバッグのようにラムネを抱えながらペール博士の元へと全力疾走し「擬人化きぼおーぉっ!」と叫んでいたかもしれないが、生憎とラムネ・ザ・スプーキーキャットはオスの子猫。人の体を得て僕とそういう関係になった場合どっちかのおちり穴がムルシ族の唇が如くガバガバに拡げられてしまう事は請け合いだったろう。百歩譲ってするのはまだしも、されるのは遠慮したい気持ちが強い僕からすれば二分の一でスカルファックが目指せる体になるのは避けて通りたい。

 特に予定も無いのでひたすらラムネを愛で続けていた僕だったが、やがて部屋の扉が四回ほどノックされ、僕はそちらに目を向けた。

「愚者さま、お目覚めでいらっしゃいますか。陛下がお呼びでございます」

 恐らくメイドさんではあるものの、正直ルーナティア城内のメイドさんは二人ぐらいしか名前を把握していないので誰だかは分からなかった。

「了解です。すぐ向かいます」

 誰ぞ分からんメイドさんに返事を返せば、すぐに理解したラムネが僕の膝から浮かび上がる。膝の上に大量にくっ付いている空色の毛を払いつつ、僕はロッカーを開けて服を取り出す。気持ち的にはズボンを替えたかったものの、どうせすぐに毛だらけになるのは目に見えていたので、僕は急いで上着を羽織って部屋を出た。

 そういえば「すぐ向かいます」とか適当言ったもののどこに向かえば良いか分かんねーなとか思いつつラムネと共に頭空っぽで謁見の間に小走りで向かえば、そこには既に『いつものメンツ』が揃っていた。



 魔王さんから話を聞けば、僕ら『いつものメンツ』は調査部隊としてサンスベロニア帝国に向かい、第三勢力である魔法少女との面談して貰いたいとの事だった。

 何でもサンスベロニア帝国には既に手紙が送られており、何でも第三勢力に対して話を通す権利はこちらにもあるとかなんとかで半ば無理矢理に対話の許可を取り付けているらしく、僕らがサンスベロニア帝国に入り込んでもいきなり引っ捕らえろー的な事にはならないようにしてあるらしい。僕らとしては断る理由なんて無かったのだが、既に書状が送られている関係上もし僕らが断ったらどうしていたのか少し疑問は残る。

「ケツ割れる」

 断る理由が無いなら断る必要も無い。かくして僕らはいつぶりかになる『きっかり一時間毎に勝手に鳴る光タイマー』を聞きながら馬上の人となっている訳だった。ああ言わずもがなだろうが僕だけは馬上の人ではなく猫上の人である。読みに関しては『ねこうえ』でも良い『びょうじょう』でも良い。好きに読んでくれて構わない。

 因みに前回付いてきていたチルティ・ザ・ドッグだが、今回は付いてきていない。

 あの時付いてきたチルティは帰宅後「お主なんの役にも立っとらんじゃないか! このぽんこつ!」と首様からお叱りを受けたらしく、以降ちょっとしたお手伝いとしての追従に対してチルティ自身がめっちゃ嫌そうな顔をするようになってしまったのだ。

 とはいえ今回は謎の魔法少女に対して敵意の有無を確認するだけであり、前回と違って今回は荒事に発展するような可能性が低い。仮に荒事に見舞われたとしても良く分からん鎧武者の人を数秒でデストロイしている様を見ていれば「別にチルティ要らんか」とも思えてしまう。

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