1-3話【噛み犬と噛ませ犬】



 ほんの少し思い出すだけでもゲロを吐きつつ耳から脳みそ噴き出しながら縦回転したくなる『みんなの前でちんちんオーバードライブ事件』から幾日か経った頃。それは何一つとして予兆を見せず、ある日唐突に起こった。

 僕の小さな恋心が本人にバレてなんか進退したとかそういう事ではないし、事ある毎に好き好きアピールしてくる橘光が全てを察してヤンデレ化して僕の脳天をカチ割って逆レイプしてきてそれが奇跡的に着床したとかいう訳でもない。まだ淡く小さな蕾も良い所な恋心は今の所ジズにはバレていないっぽいから『好きな人の前でちんちん十倍◯王拳事件』に関してはもはや黒歴史として忘れる事にした。いちいち勘の鋭いジズの事だから或いは気付いた上で気付いていない振りをしている可能性も大いにあるのだが、よしんば僕の想いに気付いていたとしても以降の会話なんかは何一つとして変わっていないので良しとする。

 ある日唐突に起こったのは揺るがぬ不幸、サンスベロニア帝国との国境付近に存在していたルーナティア国領土内にあった村での虐殺事件だった。

 いつになく真面目な顔をした魔王さんからその話を聞いた時は「あんだけ派手に飛空艇飛ばして大砲撃ってたんだし、弾薬や燃料不足を狙ってサンスベロニア帝国が進行してきたのでは」と意見の一つも具申したのだが、話によればサンスベロニア帝国には一切進軍の予兆が無く、また帝国内に放っている間諜スパイの報告によれば、やはり軍は何一つ動いていないとの事だった。

「模擬戦での名誉挽回、汚名返上の機会だとでも思ってさ、ちょっと行ってきてくれないかしら」

 少しだけ申し訳無さそうな顔をしながらそう言う魔王さんに対して、特に断る理由も無かった僕らは二つ返事でそれに応じた。足を引っ張る気しかしなかったパルヴェルト・パーヴァンシーや、今の所ロクな戦績ではないトリカトリ・アラムに関しては正直ルーナティア国にて予備隊として待機していて欲しかった気持ちがあったものの、しかし敵国の国境付近までの遠出であり、また危急を要する事態である関係上どうしたって荷馬車で車輪をガラゴロ鳴らしながらのんびり行軍する訳にもいかない訳だから、パルヴェルトには確実に発生すると思しき戦闘に驚いた馬が逃げ出さないように見張っていて貰いたかったし、割とゴリラ寄りの思考回路をしているトリカトリも本職メイドとして応急手当等の衛生兵の役割を担って貰う必要があった。

「…………僕らだけで行くのはちょっと不安だ」

 その話を聞いた僕は首様とチルティ・ザ・ドッグが本宅として建てた小さな神社に向かい、首様の援助を頼んだ。

 しかし思っていた返事とは全く異なり、僕の言葉を聞いた首様は「嫌じゃ、めんどい」とそれを一蹴。

 先の模擬戦で異次元規模の強さを見せ付けてくれた首折れ様が同行してくれない事に落胆した僕は、しかし諦めずに懇願。あの時散々横に首を振っていただけあり、僕がどれだけ頼み込んでも頑なに首を縦には振らなかった首様に対して、仕方が無かったので僕は最終手段としてなるべく手慣れた大人の男を意識しつつ首様の耳元に顔を近付け、ASMRかと思うほどのウィスパーボイスを心掛けながら耳を甘噛みしつつ頼み込んだ所「今度ちんちん貸す事」というのを条件に、トリカトリ同様戦績の芳しくないチルティ・ザ・ドッグをお供として貸し出して貰う事になり、嘔吐を通り越して内臓破裂してもおかしくない威力のストマックブローをチルティからお見舞いされたものの、晴れて戦力の増加には成功した。

 メンバーが増えた事に対する魔王さんへの説明で「童貞を対価としてパーティにインして貰いました。その内恐らく僕の股間が首様にインします」だなんて言える訳も無かった僕は、取り敢えず「自軍内での動きに関する見聞の共有」とか何かそんな感じの事をその場で適当に説明して快諾を得た。

 仮に僕からチルティに頼んだとしたら「ふざけるなですよニンゲン、チルお前の頼みなんて聞きたくないですよ」と言われて終わりだっただろうが、首様の言葉が関わってくると話は全く別なようで、命令されたその時は当然ながら国境付近の村に向かうまでの道中ですら文句一つ言わず僕に従ってくれた。………この辺りは流石元犬とでも言うべきか焼き鳥に釣られたどこぞの忠犬以上の従順っぷりだった。

 ラムネに関してはそもそも僕に取り憑いている関係上どうしても付いてくるしかなく駄々をこねる事も想定していたのだが、これもどういう訳なのかあっさり同行を了承してくれた。

 法度ルールを適応して舌足らずになったラムネに「あんしんしりょ。げぼくはおりぇがまもってやりゅ。じぇんぶおりぇにまかしぇとけ」だなんて言われれば、はてさていつの間にこんなに信頼を稼いだのだろうかと疑問の一つも浮かぶのだが、猫は食べ物をくれる人間に対しては一気に信頼を置く現金な生き物であると聞いた事があった僕は、またたび入りジャーキーの偉大さを噛み締めつつ素直に「ありがとう」と言っておいた。

 そんなこんなで馬上の人となった僕ら『いつものメンツ+一人』だったが、生前は貴族だったというパルヴェルトなんかは流石と言うべきか乗馬に関して極めて手慣れており、また愚者ではなくルーナティア人であるトリカトリも専用の鞍を着けている二頭の馬にこなれた動きで跨っていて、それを見た時は慣れてるなぁとかそういう感情ではなく「やっぱり馬一頭じゃ無理なんだ」と別のベクトルで驚いてしまった。

 同様にルーナティア人であるジズベット・フラムベル・クランベリーに関しては魔法が使える事と自身の法度ルールを活かし、まさかの飛んでいくとかいう異次元での移動手段を取った。思わず「異次元も何もそういやここ異世界だったわ」とバカみたいな感想を抱いてしまったが、魔法に関しては実は得意分野でも何でもなく「風に頼んで浮かせて貰ってェ、当のアタシは翼で進行方向を操作してるだけよォ」との事だった。恋心と同時に憧れの対象としても見ていた女性の得手不得手を見れた僕は何だか少しだけドギマギしたがこれは内緒にしておく。

 残るは我らが爆乳シモネタゴリラこと橘光であり、光に馬での移動が出来るのかと心底から不安だった。何せ『全キャラ狂戦士バーサーカー縛りプレイ』みたいなメンツの中でも一際目立った問題児なのだから、いざ実物の馬と光が対面した時なんかはさしもの僕とて初めてのおつかいを見守るお父さんの如くオロオロしてしまった。

 ところが驚く事に、光は本物の馬を前にしながらもこれといって何か騒ぎを起こすような事は無かった。

「ウチお馬さんは好きやで? おめめむっちゃ綺麗やし、口剥いてニッて笑うのなんかマジでキュンと来るじゃろ」

 初めて対面する人間に対してフレーメン反応を示す芦毛の雌馬の頬を撫でながらそう笑う光は、何一つとして悪意が無い事が芦毛の雌馬に伝わったのかすぐに意気投合していた。チルティからは「ぷへっ! くちゃっ!」だなんて言われた過去を持つ上に、筋金入りのヤニカスであるジズ違って煙草を吸わないにも関わらず日頃からラムネに「あいつらふたりはくさいからやだ」と言われて忌避されているものの、光の騎乗を察した芦毛の雌馬が乗りやすいように自分から膝を曲げて座ってくれるぐらいには良好な信頼関係を築いていた。もしかしたらただ座っただけなのかとも思ったが、その背に光が乗った瞬間ゆっくりと立ち上がったのだから本当に驚きだった。

 とはいえ意気揚々と「ほんなら出発でっぱつやでー!」とルーナティア城を出てからきっかり一時間毎に小さく「ケツ痛え」と呟く時計と化したのだから、やはり橘光は僕の期待を裏切らないアホの子なのだと確信した。



 かくしてルーナティア城を出発しゅっぱつした僕らはかなり急いで移動したのもあって、スタートからおよそ二日の昼頃にくだんの村へと到着した。

 ルーナティア城を出てから一日目は「ケツ痛え」だった光アラームだったが、二日目の朝からは「ケツ割れる」に変わり、村に到着する一時間前には「目指せシックスパック」とか呟き始める程に疲弊していた。仮にどれだけ馬に乗っていたとしてもお前のケツはそれ以上割れねえよと言いたくなったものの、実際僕もラムネの首の毛を握り締める指がかなり痛み始めていた上に、馬と違って巨大な化猫に乗っている関係上めちゃくちゃ上下に揺れるというのもあり、光のボヤきにすら返事をする気力が無くなっていた。

「うーい到着ぅー」

 ラムネの後頭部に顔をうずめるようにしがみついてた僕は、そんな光の言葉を聞いて顔を上げた。

 一切予兆の無かった大量虐殺が起きたというその村は、魔王さんから「小さな村よ」と聞いていたのだが実際目にしてみると「これが小さな村……?」と眉間がシワシワになるほどの大きさだった。確かにルーナティアの城下町に比べれば小さいとは思うが、僕がイメージしていた小さな村というのはアニメやゲームなんかで見る、家屋が数件と畑が二つか三つぐらいだったから実際目の当たりにした「小さい村」とやらの大きさには驚愕を隠せなかった。しかしすぐにそれらは作画の手間を省くための表現だという事に気付いた僕は、こんな所で今更どうでもいい現実に気付かされながら村へと進んでいく。

「くしゃい」

「───────」

 ラムネのそんな呟きの直後、僕は言葉を失ってしまった。

 村にある鳥居のような木製の門を潜り抜けた直後、鼻を通って脳天までぶち抜かれるほど強烈な腐敗臭に僕は顔をしかめてしまった。

 血。肉。内臓。糞便。皮膚。毛髪。歯。撒き散らされるかのように散在する『過去に者だった物』を見て、思わず生前の行いがフラッシュバックのように脳裏に浮かんだ僕だったが、唐突な来訪者に飛び去るカラスの羽ばたきを聞いてすぐに我に帰る。

 小さくかぶりを振って冷静さを取り戻した僕がしがみついてた指から力を抜いてラムネから降りれば、ずぢゅりと湿った音がして、異変を察した大量のハエが僕の周りを飛び交った。見てはいけないと分かっていながらも足元を見てしまった僕の視界に入ったのは、服や髪の長さから女性だった。目線を逸らせば道路脇で轢かれて死んでいる動物にたかっている乳白色のウジがそこらじゅうで大量に蠢いており、時折大きな黒いウジも幾つか見えた。

「───ふ……………ンっグ……」

 胃の奥から焼けるように熱いものが込み上げ、同時に鼻の奥がツンと痛む。一秒もしない内に、なんだか懐かしいような嘔吐物の臭いが鼻腔いっぱいに溢れるが寸での所でそれをぐっと飲み込んだ。

 生理的な防衛反応で思わず飲み込んだのもあったが、何よりここで吐いたら数日前まで女性だったそれ・・に嘔吐物が掛かってしまいそうで、それだけはしたくなかった僕は危うく溢れそうになった吐瀉物を力強く嚥下えんげした。焼けるような鼻の奥の痛みに思わず出た涙を指で拭いながら胃を落ち着けると、少しずつ頭が冷静になっていくのを感じられた。

 顔の近くを飛び回るコバエやギンバエだったが、僕はそれを振り払う気にはならなかった。感情移入は別に激しくない方だと思っているが、周囲を飛び回るハエを気持ちが悪いと払ってしまったら、ハエやウジに集られていたこの人に対して「気持ち悪いものに群がられていた人だ」と言っているような気がして、なんだかそれらを追い払う気にならなかった。

 そんな事を思っていると仲間たちが馬から降りた音が聞こえた。

「ボクは馬を見つつこの辺りを周ろう。他は各々に任せていいかい?」

「チルは一応パル坊を護衛しとくですよ」

「ならあたしは西に行くわァ」

「であればわたくしは東に向かいましょう」

 真面目な面持ちでそう語る皆に「じゃあ僕は北側……正面行くよ」と返した僕が「光はどうする」と目線を向ければ、光は何も言わずちらりと僕を見て、

「………………………ほんならウチもタクトと同じ真正面にするわ」

 至極冷静に、しかし少しだけ小さな声でそう答える。どことなく光の態度がおかしい事だけはすぐに分かったから「………うん、一緒に頼む」と返事を返し、僕はラムネに乗り直す。法度ルールを適応しているラムネが付いてくれているとはいえ、それでも指示約が僕では心許無い。光が付いてきてくれるというのは素直に有り難かった。

 走り回る訳ではないので力強くはしがみつかず、それこそ馬に乗るように背筋を縦に伸ばして周囲を見渡せるような体制を取って、僕は可能な限り地面のそれ・・を見ないように周囲に意識を向けていた。

 とはいえ、村の正門周辺は恐らく安全だろうと思う。もし危険があるとしたら既に僕らの身に降り掛かっているだろうし、であれば戦闘を任せたくないパルヴェルトであってもリスクは少ないだろう。仮に不測の事態に陥ったとしてもチルティが一発でも発砲すればその音で僕らは異変を察知出来るだろう。

 ジズとトリカトリが単独行動になってしまうものの、危機に際してもジズは飛べるし、トリカトリは即座に家屋を殴るなりして吹き飛ばすだろうから、やはりその轟音を聞いてみんなで駆け付ける事が出来る。

 それは光も全く同じではあるのだが、何だか今の光を一人にはしたくなかった。

 確かにみんな冷静に見えた。或いは冷血漢なのかもしれないだなんて思ってしまうほど、みんないつもと変わらぬ口調だった。パルヴェルトも、チルティも、ジズも、トリカトリも、光に至ってもとても冷静に見えた。

「…………………………」

 だから僕は場馴れしているものだと思い込んでいた。だってみんな表情一つ変えていなかったのだから。鼻がおかしくなるような異臭に包まれても口元に手を当てる事すらしなかったし、大量の死体や肉片を見ても嘔吐えずきもしなかったんだから、こういう光景を見慣れているものだと思いもする。

 だが決してそんな事は無かった。その時は確かにいつも通りの顔付きだったが、各々が行動し始める瞬間にみんなの表情はすぐに切り替わっていた。

 ジズは相変わらずの半目ながらも眠たげな表情ではなかったし、トリカトリは四本指の両手が白くなるまで力いっぱい握り締めていたし、チルティの眉根は不満を隠しもせず歪んでいたし、パルヴェルトの口元は強い怒りと悔しさから噛みしめるように固く閉じられていた。

 だが誰よりも早く村の北側へと歩き始めてしまった光の表情だけは、しっかり見る事が出来なかったのだ。

 だから僕は不安だった。何がどう不安なのかと聞かれても答えられない謎のもやもや、気色の悪い不快感が胸の中をぐるぐると駆け回っていた。

 いつもと変わらぬ歩幅で北へと直進する光は、しかし頭を周囲に向けながら歩いてはいなかった。周りを警戒するような事はせず、ただひたすら前を向いて力強く突き進む。ほんの一歩程度遅れて進んでいる僕とラムネの位置から見えないだけで、実際は目線で周囲を確認しているのかもしれなかったが、長ドスを握る光の手やその反対の手も別段力強く握られている訳ではなかった。

「光」

 ざりゅざりゅと湿り気の混ざった足音を立てながら無言で歩き続ける事に耐えられなかった僕が光に声を掛けると、光はいつもと何ら変わらない声色で「んー?」と反応した

「何が居るか分からないから……その、気を付けて欲しい」

「任せえ」

 端的に、ただ一つの言葉だけでそう答えた光は再び黙り込む。僕らの間に嫌な感じの沈黙が訪れるが、けれど僕は掛ける言葉が見付からず、何を言うでも無く黙り込むしかなかった。

 表情が見えないといえばラムネの表情も背中に跨っている関係上見る事な出来ないが、ラムネに関しては元々口数が少ない方だし、何より完全に人ではない猫なのでさして心配する必要は無いだろう。むしろ愚鈍な人間と違って、余計な指示を飛ばさない方がラムネはよっぽど上手く立ち回る事が出来る。それはこの間の模擬戦で十二分に理解させられていた。

 ………光もその所作や口調、声色は普段と何一つ変わらないのだから特に不安に思う事などありはしないはずなのだが、何故だか不安で仕方がなかった。


 黙りながら大体十数分程度歩いた頃だろうか、やがて視界の先に一際大きな家屋が見えてきた。他の建物とは違って横にも広いし屋根も高い位置にある事から、それがこの村の中でも偉い立場にある者の住居………恐らくは村長とか地主ぐらいの立場の人間ヒトが住んでいる家だという事は、愚鈍な僕でもすぐに予想出来た。

「だりぇかいりゅ」

 僕らより何倍も目が良いラムネが小さくそう呟く。

 言われて目を凝らして見ると、その家の真正面。玄関前と思しき位置に誰かが座っているのが何とか見えた。

 他の惨殺死体とは違って完全に原型を保っているように見えるそれは、僕らが近付くに連れて全裸にされて縄で縛られている女性だという事が分かった。

「─────────ひっ」

 縄か何かを使い後ろ手で縛られている女性は、しかし猿轡さるぐつわを噛まされている訳でも無くただ女の子座りでぺたんと地面に座って震えていた。その震えは過去にどんな惨劇が起こったのか、どんな悲劇に遭ったのか語らずとも全て伝わってくるほど大きく震えており、しゃくり上げるように息を飲む度にほんのり白く濁っているようにも見える半透明な液体に濡れた両胸が小刻みにふるふると揺れる。

「……………光、まだ生きてる」

「任せえ」

 僕の言葉に、しかし光の声色は変わらない。

 裸にされている女の人も、靴こそ脱がされているが足はちゃんと付いているし特に何かされているようには見えないので、逃げようと思えばいつだって逃げれるだろう事は多少距離が開いている僕らからでも明らかに分かったのだが、しかしその女性は口をつぐんで震えるばかりで逃げるどころか立ち上がろうとする様子すら見受けられなかった。とはいえしゃっくりでもするようにビクビクと震える身体に合わせてぷるぷるとバウンドするボールのように跳ねる両胸から分かる通り、その女性が極限まで怯えてしまっているのは誰の目にも明らかだったろう。

 何メートルかは分からないが、ある程度近付いて目を凝らさなくてもその姿が視認出来るぐらい接近した時、ふいに女性の背後にあった家屋の玄関扉が開いた。

「───────待ち侘びた」

 ギシギシと蝶番を軋ませながら開いた木張りの扉から、般若面を着けた異様な雰囲気の鎧武者がゆっくりと歩いて出てきた。

 右手に下げた抜き身の日本刀はあでやかな銀色に輝いていたが、どことなく暗い朱色に塗られた日本鎧は所々が茶色く変色していて、それが酸化して変色した返り血だという事はすぐに分かった。

 村人を軒並み斬り殺したその刀に付いていたであろう血は錆びる事を嫌がって拭き取られたのだろうか、暗い朱色の鎧武者には似つかわしくないほど妖しく奇麗に輝いていて、顔に着けている白い般若面は返り血を拭き取った擦り跡すらない純白だった。

「………………」

 歩みを止めた光に釣られてラムネも止まったが、光は異質極まりない般若面の鎧武者を見ても、特に何も言わず無言を貫いていた。いつもの光ならどんなシチュエーションでも必ず軽口を飛ばしていたはずだったから、やはりイレギュラー極まりない鎧武者や全裸で縛られる女性、そしてその胸にべとりと付いた殆ど透明な白濁液を見ても、やはり何も言わない今の光は決していつも通りでは無かった。

「ヒぃッ────」

 鎧武者の持つ刀の鍔がカチャリと音を鳴らすと、それを聞いて恐怖に息を飲んだ女性の胸が一際強くぶるんと揺れ、その胸に吐き掛けられた欲望の証が胸の谷間を伝って腹部へと垂れ落ちていく。やがてそれがへそに引っ掛かるかという刹那、鎧武者は右手の刀を横に振って女性の頭を撫でるように真っ二つにした。

「…………………ッ」

 ちょうど上顎と下顎の間を綺麗にすり抜けたその日本刀はヒィンという鈴鳴を奏で、それが鳴り止むより早く女性の上顎と頭がぼとりと音を立てて地面に落ちる。地面と上の歯を擦らせほんの少しだけ横滑りしたその頭部は、やがて小石か何かに引っ掛かってごろりと転がった。

 斬られた瞬間大きく痙攣するのに合わせて両胸がぷるんと大きく揺れるのに合わせ、女性は上顎から上を全て失ったにも関わらず、低く太い声を発した。

「はああああああああ─────────ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 それは人がする最期の吐息。もはや微動だにしなくなった女性は脳からの電気信号を失い、弛緩し始めた肺から流れた空気が声帯を振動させた時に出る最期の断末魔。

 その声が止むと同時に全身の様々な筋肉が弛んでいき、ぺたんと座っていた女性の足元に膀胱から溢れた尿が溢れ出す。乾き切った砂地に水が染み込むしゅわしゅわという音がしなくなる頃、女性の体はドサリと音を鳴らしながら横に倒れた。

 斬り落とされた頭部と同じ方向へと倒れた女性の体は、数秒前に転がった片割れである上半分の頭とまるで繋がるようになりながら、しかし完全に切断されてしまった頸動脈からどくどくと血を流して微動だにしない。流れ出た血が地面を濡らすが、既に自身の尿によって水分を得ていたその地面は音もなくその血を吸い取っていった。

 ─────ふ、と。頭を半分に斬られてしまった女性と目線が合ったような気がした。何一つ輝きのなくなったその目から涙が出ていた。

 怒りとか悲しみとか、そんなものは感じなかった。

 僕が感じたものは、ただ無為に生かされ無為に殺された女性と全く同じものだった。

「─────────どうして殺したんだ」

 上手く声が出なくて掠れた声だった。乾き切った喉から絞り出すように発したその言葉は、きっと殺された女性も抱いたろう疑問。

「反応が悪くなり飽いたからであるが、それが?」

 般若面を着けた朱色の鎧武者返しながら、横倒れになった女性の体を乱雑に蹴り飛ばして退ける。別段強く蹴っ飛ばした訳ではなく、例えるなら地面に置かれていた荷物を足で退けるかのような動きで蹴り捨てた。

 蹴られた体とぶつかり、僕の方を見詰めていた女性の瞳が逸れる。代わりに視界に入ったのは女性の尻から流れ出た液体。透明でも黄色でもないほぼ透明な白濁液は、それが筋弛緩により漏れ出た女性の尿でない事は誰の目にも明白だった。

「────────────そっか」

 疑問は既に無かった。なんでこんな事をしたのかとか、わざわざ僕らが来るまで生かしておいたのは何でなのかとか、仮に性欲が抑えられなくなったとしても村人全員を殺す意味はあったのかとか。そういった疑問はもう既に、今まで抱いたどれよりも強く強い深紅の憤怒Wrathに変わっていた。

 ぶっちゃけた話、般若面を常に着けちゃう厨二病崩れのクソ野郎を殺す必要性はどこにも無い。例えこいつを殺したとしてもあの女性や村人は生き返らないし、あの女性が受けた苦しみを思って仇討あだうちだと叫んだ所で女性の気が晴れる保証なんてあるはずもない。


 だがそういう事じゃない。


 そういう理屈とかは関係無く、ただ僕が殺したい。

 この男を殺したい。苦しませてでも一思いでも、どっちだって構わない。

 とにかく殺したい。今すぐ殺したい。どんな手を使ってでも殺したい。例え僕が相討ちとなり死ぬとしても殺したい。


 こ ろ し た く て し か た が な い 。


「───────────」

 じわじわと視界が紅く染まる感覚がしたが、それは感覚だけでは無いようで。質量を持って自身の鼓膜を震わせる幻聴と同じように、僕の視界は確かに深紅に染まっていった。

「待ちいやタクト」

 今まさにラムネの背から飛び降りてあの男を殺しに行こうとしていたその瞬間、長ドスを持ったままの左手を伸ばして僕を制止した光はそう呟いた。

 十数分前に聞いたはずの声色なのに、まるで数年ぶりに聞いたような感覚を覚えた僕の視界は既に深紅では無くなっていた。

 一瞬だけ冷静になったような気がしたが、既にあふれ出してしまった七つの死に至る罪は留まる事を知らず、まるで八つ当たりでもするかのように僕は光へこぼれた出した憤怒をぶつけてしまった。

「何で止めるんだよ。らせろよ」

「任せえって言うとったじゃろが」

 けれど光は変わらなかった。

 本当に、何も変わらなかった。いつもと何一つとして変わらない軽薄な口調のまま、彼女は僕を諭すようにそう言った。

 光は僕の事を好きだ好きだと良く言っている。それが本音か冗談かは生前も死後もド陰キャな僕には分からない事なのだが、もし本気で僕の事を好きでいてくれているのだとしたら、光は今自分の想い人から本気の殺意をぶつけられた事になってしまう。

 それがどれほど辛い事なのかは想像も付かないし計り知る事なんて出来ないぐらいの哀しさであるだろうが、にも関わらず光はいつもと何一つ変わらない口調で僕をいさめた。

「そこで見とれ。ウチがやる。ウチに任せえ」

 光が長ドスの鯉口を切り刀身を鞘から抜き出すと、かりりと木鞘と刃が擦れる音がする。そしてその刀身が完全に鞘から抜けた瞬間、つい数秒前に聞いたのと同じようなヒィンという怪しい鈴鳴が奏でられた。

 ………いや、心なしか光の長ドスが奏でた音の方が低く太い音だった気がする。

 それを聞き、この場で最も強く怒り狂っているのが自分では無かった事に気付いた僕はラムネの肩をポンポンと叩くと、ラムネは何も言わずに後方へと後退りしてくれた。

「一つ問わせよ」

 般若面の鎧武者が口を開いた。

「貴様らは何故なにゆえ好きに生きぬのだ」

 返り血だらけの鎧武者はまるで子供が親に何かを聞く時のような口調のまま「愚者……と、呼ばれていたか」と、小さく首を傾げながら僕らに問うて来た。

「貴様らは耐え難い艱難辛苦の末、何一つ納得の行かぬままその生涯を終えたと聞いている。しかし我れらは死後何事かあって再びこの地に生を受けた。であれば何故、生前叶えられぬままで終わった事をこの地で叶えようとせん」

「…………………」

 鎧武者から疑問をぶつけられた光だったが口を噤んだまま何も答えず、右手に持った抜き身の長ドスをだらりと下げたまま動きもしない。

「我れは誰ぞを殺す事と、誰ぞを犯す事以外に何も愉しみを見出せん。どうしても、どうやってもだ。だがそんな我れに蚩尤しゆうが再びその機会を与えて下さったのだから、我れは再びそれを愉しんで居るというだけの事」

「…………………」

「何故貴様らは言いなりになる。平和の為に奴隷となる理由など何処にもあるまい。貴様らの神が、貴様らに与えて下さった又と無いこの好機を、何故未練もしがらみも無い世界の為に費やすのだ。もっと愉しめ。もっと嗤え。もっと好きに生きるべきであろう。でなければ勿体無いと───」

 自分の行いや発言によって周りがどう思うかを何一つ考えられない中学生のように自身の疑問を吐露する鎧武者だったが、その言葉が語り終えられるより前に光は「はぁぁぁぁ〜」と大きく長い溜息を吐き出した。

 だらりと下がっていた長ドスを担ぐかのように肩に乗せつつ俯き加減で「ったく……このスットコドッコイが」と不満をあらわにする橘光は、完全に僕がよく知る橘光であった。

 アホの子であり、周りの空気など毛程も読みもせず、その発言や行動によって誰が何を思うかだなんて、それこそその辺の中学生より遥かに考えられないバカ女である橘光は、片手を腰にやりながら鎧武者に向き直り「………あんなぁ」とゆっくりその口を開いた。

「なんやシコシコ盛り上がってるとこ悪んやけどさあ………ウチこの世界の平和とかマジはなっからどうでもええんよ。罪も無い民が苦しんでてどうこうとか、お前がしよった事に対してどうたらこうたらとか、言ったら昨日自分がひり出したうんこがどんな形だったかぐらい興味無いねん」

「─────────」

 余りにも余りな言い草に、般若面の鎧武者だけでなく横に居た僕まで唖然とする。

 けれど光はいつもと変わらない口調で、いつもと変わらない様子で、ただ思っている事を口にし続けた。

「ウチはただ終わったはずのモンが終わらず長々ダラ続きしてんのがバチクソ不快なだけやねん。ウチは一度死んだ身やのに何故か今もこうしてダラダラ命が続いとるんよ。んーでそんなウチとお前がここ面ぁ合わせとるっちゅーこたぁ、同じようにお前も一度死んだ身っちゅーこっちゃろ? ウチは流れるままに生きて終わってん。せやからここでも流れるままに生きて終わらせたいんよ」

 少し矢継ぎ早ながらも始めて聞いた光の理念に、僕は何故か胸の内が温かくなるのを感じる。

 飄々とした軽薄な口調で自身の生き方と死に方について喋った光は、しかし次の瞬間には今まで聞いた事も無いほど苛立った口調に変わり、鎧武者の疑問へと自身の解を提示した。


「────お前みてぇなタコ助の見苦しい悪足掻き程くだらんモンも無い。流れに乗って生きたんなら、流れ乗ってそのまま死ね。ウダウダ言っとらんとさっさと終われやダボ、ぼてくりこかすぞ」


 言い終えた瞬間、橘光は殺意を剥き出しにして鎧武者へと踏み込んだ。ジズや他の連中と喧嘩をする時の光は何だかんだ騒ぎつつニヤニヤと楽しむような笑顔で殴り合っていたのだが、今の光の表情は笑顔とは凡そ対極にあるだろう、怒りに満ち満ちた顔だった。


 ──────────


 自身の脳から外れてしまったリミッターには当初果てしなく振り回されたものだったが、ストレスで文字通り反吐を吐く程辛く苦しいリハビリの末、今では「何割まで」と加減を決めてタガの付け外しが出来る程までになっていたのだから、あの時「めんどっ」と吐き捨ててリハビリを止めなくて良かったと心底から思える。

 一般人が一割から二割前………生涯を掛けて鍛え抜いた格闘家であっても三割が限度と言われる中、自分は大体四割から六割ぐらいを意識してその怪力を振りかざしていた。

 当然ながら本気とは程遠いのだが、普段良く遊ぶジズやチルティだって本気なんかちらりとも出していないのだから、自分だって間違っても本気なんか出してやるつもりは無かった。

 理論上は十割までタガを外せるものの、それをすればほぼ確実に自分が死ぬのはリハビリと言う名で行使されていた医者の実験の結果から既に把握していた。四割までであれば慣れているので何一つ問題は無いが、ちょっと調子に乗って五割まで開くと次の日笑ってしまう程の筋肉痛に襲われ、自力では寝床から起き上がる事すらままならないぐらいの『反動』に苦しむ事になるし、六割まで開けると鼻血が出て、目の下の毛細血管がぷちぷちと千切れる確かな感覚を覚える程。

「────ぅるぇあッ!」

 実力や底も知れない相手が長々とペラ回していたにも関わらず、刀を下げたままグダグダ棒立ちしていた抜作ぬけさくの土手っ腹を五割の力で踏み込んだ勢いのまま、勢い良く右足を上げ踏み抜くように蹴り飛ばした。

 べぎょりと鎧が割れる音が聞こえるのに合わせて五割だったリミッターを、ほんの一瞬だけ七割まで開きながら左腕を伸ばしてやると、呻き声を上げる直前だった抜作が地面から離れて吹き飛びされるかどうかというぐらいで自分の手が抜作の右手首を掴む感覚がする。

 そこでリミッターを四割まで下げつつ背負い投げの要領で真上に振り上げれば、既に蹴り飛ばされて足が浮き掛けていた抜作はいとも簡単に振り上げられていく。そして再びリミッターを七割まで上げ直しつつ、掴んだ手を離さず地面に向けて振り下ろす。

 何が起こっているのか脳の処理すら追い付かない程の速度で般若のお面が地面にぶつかる瞬間、急いでリミッターを三割へ落とす。この感覚を間違えると、場合によっては戦闘中に脳が耐えられずそのまま意識を失う事もあるから気を付けなければならない。

「──────────」

 バギョムッという鈍い粉砕音が自分の鼓膜を震わせたのを認識した瞬間、三割の力のままで回し蹴りでもするかのように右足をぐるんと振り回し、顔面から地面に激突した反動で浮かび上がっているその後頭部を狙って六割の力で足裏を押し付ければ、ブヂュルルィッと言う何だかやらしい感じの音を鳴らしつつ、真っ赤なラッパユリのような形の花が地面に咲いた。


 ──────────


 鎧武者に向かって光が乾いた地面にクッキリとした足跡を残しながら踏み込んだ所までは何とか頭で認識出来たが、それ以降の光の動きは目でこそ追っていられたものの一切脳がそれを処理出来ないほど早く、それはまるで「シューティングゲームで敵弾が見えてるのに指が動かないあの時の感覚」にとても似ていた。

 ガチの荒事が起こる度、何かに付けて相手の頭を踏み潰したがる橘光が今回もその例に漏れず身動きの一つすら取る事が出来ない鎧武者の頭を兜ごと踏み潰し終えた辺りで、僕の脳はようやく処理を終えて「何か動きが超速い時と割と遅い時とがあった」という馬鹿みたいな感想を抱いた。

 兜の上から兜ごと頭を踏み潰された鎧武者は尋常ではない圧力が掛かった事によりブヂュルルィッとかいう、飯を食い過ぎた時にトイレの中で良く聞くそれとそっくりな音を鳴らしながら、扇状に脳髄やら脳漿やら血液やらを撒き散らしてピクリとも動かなくなった。

 こういう時は真っ赤な薔薇が咲くイメージがあったが、般若面の着いている側以外の方向は金属の兜が壁となり、行き場を求めた頭の中身たちは壁として全く機能していない般若面の着いている側に集まり、一気に外へと飛び出したのだろう。その結果、円形ではなく扇状に開いた血飛沫を地面に遺したのだった。

 対勇者の初陣とは思えないほど瞬く間に事を終えた光がその右足を持ち上げると、光の足の形にヘコんだ兜がねちょっと水音を立てつつ、光の足裏にくっついて持ち上がった。それを見た光が軽く足首を振ると、足にめり込んでいた兜がぽろりと外れ、がりょんという間抜けな音を鳴らして地面に転がっていった。

 僕の代わりに殺しに手を染めた光に対して、ラムネの背中を降りながら僕ららしい皮肉の効いたジョーク混じりな礼でも言ってやろうかと頭を回転させていると、光は小走りでこちらへと駆け寄ってきた。

 やがて僕と光が触れ合うかぐらいの距離まで近付いて来て、僕は内心「これは、も、もしかして……」だなんて思いつつラブコメ展開を想像したのだが、長ドスを握ったまま僕に思い切り抱き着いてきた光は「後は任せるで」と小さく呟いた瞬間一気に重くなった。

「………ぬおっ!?」

 自分の胸にブラジャーの外れ掛かった光の胸がぼにんと押し付けられるような感覚を味わうと共に「抱き合ってるのにお腹がくっつかねえすげー」とかいう頭の良くない感想を抱いた僕が光の顔を見てみると、光はおよそヒロインとは思えないぐらいヤバい顔で鼻血を出していた。

 鼻血はダバダバ出てるし半開きの口からはよだれが垂れてるしそもそも白目剥いてるし、よくよく見ると一本鼻毛がオフサイドしているその姿を見た僕は「この顔パルヴェルトに見せたらどうなるんだろ」とか思ったのだが、周りから騒ぎを聞き付けた仲間が集まる足音や羽音が聞こえたので、気を利かせた僕は取り敢えず反則行為をしてしまった鼻毛選手を爪で抓みレッドカードで一発退場させた。これで少なくとも女の子としての尊厳はギリ保たれるかもしれない。

「うわブッサ」

 ………と思ったが集まってきた仲間たちの中でも一時的にパーティインしただけで愛着とか湧きにくいポジションに居るチルティ・ザ・ドッグが自身の語尾も忘れるぐらい完全に素でそう言った。

「────むっ! 純情の危機を感知したよ!」

 無慈悲かつ無遠慮の極みみたいな事を言ったチルティの声を聞いた瞬間いきなり意味の分からない事を言い出したパルヴェルト・パーヴァンシーは唐突に「パルヴェルトぉぉぉぉぉっア────ァイッ!」と叫び出した。

 何だテメーはうるせえなと頭パッパラパルヴェルトに目を向ければ、なるほど恋心の危機に対しての防衛行動だった訳かと思わず得心するほど力強くギュッと目を閉じていた。

 だが危機に際して発動した言うのであれば、逆に考えるともしそのパルヴェルトアイとやらが発動せず、思わずチルティが自身の口調すら忘れて「うわブッサ」と呟いてしまうそのご尊顔とご対面していたとしたら余裕で失恋していたのかと考えると、もしかしたらパルヴェルトは意外と顔で好きの嫌いのを選ぶタイプの人間なのかもしれない



 ───────



 別段隠すつもりなんて無かったのだが、実の所を言うと橘光は精神科医から渡された診断書が都合四枚ほど自宅に保管してあった。仕事や勉学に差し障る可能性を考慮すると、事前に診断書を学校側に見せておいた方が向後の為になると言われて医師に作らせたのだが、まさか診断書を一枚書かせるのに樋口一葉だけでは足りない程の金額を取られるとは思いも寄らなかった。

 どう足掻いても堅気ではない家庭に生まれ育った自分ではあったが、それでも父が小さな気を回してくれたのと、生まれながらにして女性である事から、自分は医療保険制度などをしっかり受ける事が出来た。しかしそれでもやはり『その筋の生まれ』というレッテルは一生付いて回るもので、起こした起こされたを問わず、騒ぎに関わった時の為に堅気の医者とその筋と関係がある医者とで二枚ずつ診断を書いて貰っていた。

 『対人嫌悪症』と『極めて強い人間不信』。高い金を払って医師に書かせた診断証明書の太枠内に書かれていたのは、主にその二つだった。

 小学六年生の時点で既にEカップだった橘光は、男子生徒だけで無く担任教諭からすら向けられる目線にただひたすら吐き気を催す日々の繰り返しだった。幼心ながら自分の体付きが珍しいものであるというのは理解していたが、それに伴った性的な目線を向けられる事はただただ不快でしかなかった。

 それだけなら男性恐怖症にでもなろうという話だったが、橘光は自分の胸にばかり興味を持つ猿共だけでなく、それに嫉妬する豚共にも苛立ちを覚えていた。靴の中に画鋲があるぐらいならまだ良い方で、時には靴の口から画鋲が溢れ出て下駄箱の外まで散らばっている事もあるぐらいだったのだから、男女を問わず人間全てに強い嫌悪感を抱くのも仕方が無い事なのかもしれない。

 自らの巨乳を少しでも隠せるようにと中学時代の全てを酷い猫背で過ごした橘光だったが、橘光が壊れてしまった決定的な原因は高校時代のとある日の放課後にあった。

 いわゆる『その筋の人』とは言っても幾つか種類はある。ヤの字である事に違いは無いが、何を中心にシノギ利益を得ているのかは各家や組ごとに異なり、こと橘組は荒事で稼ぐのが中心だった。

 ある程度は正当なビジネス関係の傘下にも加わってはいたものの、基本的には支払い滞納者に対しての追い込みや違法ドラッグや密輸品の売買、それをシマの中で勝手に行うガキの吊し上げに、無限に湧き出る新興勢力への勝ち込みと資産資金の押収等々。

 そんな荒い稼ぎ方をする家庭に生まれたのだから、必然的に様々な派閥との抗争に巻き込まれる事も割と日常的な事だった。

 父を狙って車の下に仕掛けられたプラスチック爆薬に不幸にも巻き込まれた橘光は当時高校一年生だったが、不幸中の幸いか頭部を打って意識を失う程度で他はほぼ無傷。その時に『歯止めが外れた』ものの、それのリハビリも何だかんだ順調に進み、半年後には無事退院出来た。

 しかし不覚だったのは、意識的にそうしていた猫背や周りへの気遣いが入院中に治ってしまった事だった。担当医は女性だったし、部屋も個室だった上にベッドカーテンまで存在していたし、周りを足早に歩き回るのは殆どが女性の看護師だったのだから、自らのコンプレックスから意識が逸れてしまうのも妥当だったろう。

 加え、クラスメイト等から向けられる視線の区別が付かなくなったのもあった。何せ爆発事故に巻き込まれて半年も欠席していた奴がある日いきなり登校し始めたのだから、好機の目線も向けられようというものだ。

 そして、久し振りの学校生活だったのが最後の決め手となった。

 特に何が起こるでも無く退院初日の学校生活を無事に終えた橘光は、無慈悲にも今日出された現国の宿題を机の中に入れっぱなしで下校しようとしていた事に校門を出る直前に気付いた。おっとあっぶねとか呟きつつ反転して教室に戻った橘光が見たものは、三人の女子生徒によって窓から自分の机が投げ捨てられる瞬間だった。

 中身が入ったままだと重さもあるし、何より投げる時に溢れて煩わしいから、とかそんな理由だろうか。机の中に入れっぱなしになっていた現国の宿題は明日も使うからと入れっぱなしにしていた数冊の教科書と共に破られ撒き散らされていた。

 事を起こしていた女子が何事か喚き散らしていたが、不思議な事に橘光の耳はそれを理解しなかった。

「─────────」

 ついカッとなってやり返しただけ。いじめられっ子が、いじめに耐え兼ね、いじめっ子にやり返しただけ。

 何の事は無い。日本では息をするよりも当たり前に起こる日常・・と、それに対するやり返しの一つである。

 自殺の道を選ばなかっただけまだ良かったのかもしれないが、良くなかったのは久々の学校生活だという事と────自分が何で半年も欠席していたのかを橘光自身が失念していた事だった。

 軽く叩いただけのつもりだった。ぎゃあぎゃあと自分の正当性を早口で捲し立てる雌豚の頬を軽く突っ張ってやるだけのつもりだった。まさかいじめられっ子が逆襲してくるなんてと呆然するアホ面にメンチを切りつつ「はよウチの机ぇ拾ってこいや」とでも言ってのけるつもりだった。

「おぎゅっ───────ぉぼぼほぼぼぼぼぼぼぼぼぼ」

 パンっ、と渇いた音が教室に響いた直後、今時潰れたカエルでも出さないような呻き声を上げた女生徒は、脅威的な怪力により直角にへし折られた首から赤い泡を吹き出しつつ、肺の中の空気を吐き出した。死に際に人が吐く最期の吐息で声帯を震わせながらも、人外レベルの力でねじ切られた血管から溢れる血と混ざった唾液でうがい・・・でもするように真っ赤なあぶくを吐き続ける女生徒だったモノを見て、横に居た二人は当然ながら橘光本人すらそれが何なのか理解出来なかった。

「───────────」

 やがて肺の中から全てを吐き出した終えたそれがぐらりと揺れ、近くの机をガタンと鳴らしながら巻き込んで倒れると、橘光は「やっべ、しくじった・・・・・」と呟いた。

 そういやウチ脳のリミッタ外れてたんだっけか。しくじったや。殺すつもりや無かったんけどな。

「まあええか」

 状況を理解して悲鳴をあげようと息を吸い込む二人の女生徒の頭を裏拳で吹き飛ばしながら呟いた橘光は、もうとっくのとうに壊れてしまっていたのかもしれない。



「明確な殺意の元に行われた行為であり、イジメを理由とする情状酌量の余地は無い」

 執行猶予なんて付く訳も無い。まだ未成年だったにも関わらず、少年院を通り越し、何故か刑務所入りであり判決は無期懲役。仮釈放無しの終身刑だった。

 いっそ死刑にしてくれれば遺族は元より橘光本人だってよっぽどスカッとしたものの、死刑制度の反対団体が誰に頼まれた訳でも無い癖に好き勝手喚き散らすものだから、光の実刑は無期懲役で留まってしまった。

 家族を殺した人間カスが今も尚生き永らえているという事実に納得出来ない被害者遺族に暗殺でもされてやれれば、死刑制度廃止を謳う団体もそれが憎しみと争いの連鎖を生み続ける事だと気付くかもしれなかったが、残念な事に日本の刑務所は他国に比べて比較にならないほど警備が厳しく、間違っても遺族が暗殺しにくるような結果は望めなかった。面会の時に銃で撃たれたりせんかなぁと思いもしたが、それも物理的に叶わない。

 勘違いされやすいが、そもそも刑務所に入っている者と面会出来るのは親族か身元引受人ぐらいであり、それらでも面会時間は三十分のみ。血縁関係の無い者が面会出来るのは留置所までであり、十日程で留置所から刑務所へと移された橘光と面会出来るのはもはや父親ぐらい。手紙や物品の差し入れぐらいなら割と誰でも可能だが、こと面会となると仮に恋人だったとしても基本的には門前払いされる事が多い。

 仮に特例措置として面会が許されたとしても、恐らく暗殺なんてやはり不可能だろう。向けられた敵意に対して条件反射で体が避けようとするとかは当然あるのだが、何より面会室で相互を隔てる為に張られたガラスが最近では防弾ガラスである事が多く、この手の復讐による暗殺が難しくなっているのが大きい。幾らか前までは強化プラスチックや硬質のアクリル樹脂製だったものの、光が生きていた時代では3Dプリンターの一般普及により誰でも銃火器を作る事が出来るようになってしまっているのが原因である。まだ全ての刑務所がそうという訳では無いが、それでも様々な安全面を考慮した結果、面会室で互いを隔てる透明な板を金属ワイヤー入りの防弾ガラスへと取り替えている刑務所もかなり多いという。

 加え、銃本体だけならそれこそ十何年前の時点からただの学生でも手に入れる事は出来たが、こと実包の入手は困難を極めるという事実も暗殺を難しくしている要因だった。ロシア辺りの武器商人とコネクションを持って密輸するか、或いは世界各国の海兵所属員が「定数外」としてちょろまかした訓練用の実弾をボッタクリ価格で買うかしか無かったからだ。

 しかし「では日本で銃弾は手に入れられないのか」というと全くそんな事は無く、日本は特にその手の警備意識がな国でもある。銃弾自体の入手は極めて困難であるものの、銃弾に使用する火薬はグラム単位なら個人でも通販で買えるし、火薬を抜かれた銃弾本体は『バレットアクセサリー』等と呼ばれて幾らでも手に入れられる。

 そして何より、今ではインターネットで幾らでも銃弾の構造は画像付きで調べられてしまうし、場合によっては銃を作る動画すら出て来るのだから笑ってしまう。

 本格的な銃器として使用するなら欠陥だらけで話にもならないが、瞬間的に一人二人殺すぐらいなら素人が雑に作った程度であっても十二分に機能してしまうのだ。日本は『銃火器』に関してはかなり厳しい国だが『銃火器になる前の物体』については何一つ警戒しないな国。平和ボケした国だなんて揶揄される事も多いが、厳密には平和ボケしているのではなく意識が足りていないだけなのである。実際、地震大国として名を馳せている割に国民の何割が玄関先に避難袋を置いているのかという話だろう。

 面会室の中央につぶつぶと穴が開けられた円形の通音口も、今では完全に潰されマイクによる音声通話のようなタイプへと変わっているものが増えてきている。吹き矢さながら火薬で針を射出する器具は素人でも簡単に作れるし、針先に塗る毒に関してもすぐに手に入る。推理物のコンテンツで散々騒がれたトリカブトなんて田舎の農協や緑花木を扱う店舗に行けば一鉢三百円程度で買えてしまうし、そうでなくとも一部の地方ではその辺の涼しげな原っぱで雑に自生している。それの根をすり潰してその辺の百均で買った裁縫針セットの中にある太めの針に塗ったら、もうその時点で暗器の完成である。後はその辺に腐るほど生えている竹かホームセンターで買った塩ビパイプを加工して射出機を作るだけ。火薬式でも構わないし、弓のようなしなり・・・を利用したタイプでも問題無く機能してしまうだろう。

 平和の国だなんて呼ばれる日本だが、平和を得た対価として危機に対する意識の低さを得てしまったのだから、間違っても死刑廃止だなんてしてしまったら殺しの連鎖は止められなくなってしまう。だからこそ、少なくとも日本の刑務所内では暗殺などが起きにくいよう警戒されているのだ。所内で人が殺されれば管理不十分として総叩きを食らってしまうが、刑務所を出た先で死んでくれれば「それは我々の知った事ではありません」と一蹴出来るからだ。

 そんなこんなで刑務所にぶち込まれて何年経ったかもはや忘れてしまう頃、血の繋がりがある家族であるにも関わらず娘との繋がりを半ば断っていた父親が突然面会に来たのは橘光が三十路を越えた辺りだった。ご丁寧に毎年毎年誕生日を祝ってくれるクソみたいな親切仕様のせいで自分がどれほどの月日を無為にしているのか知らしめられるのにも慣れてきた頃、それまで何一つとして関わってこなかった父親の名前が監視員の口から飛び出せば冷え切って動かないと思っていた感情も多少は揺れるというものだった。

 監視員からそれを聞いた時に思わず「………今更なんやねんダボカスが」だなんて呟いてしまった橘光は、自分のその言葉にどれほどの苛立ちがこもっていたのかを強張りながら後退りした監視員から察した。

 名前は覚えている。自分の父であり何よりも自分の組の親父なのだから、漢字でだって一字一句間違いなく書ける。しかし橘光は面会を拒否した。

 それから数日後、今度は手紙が届いた。刑務所内にいる囚人に向けたものであっても手紙は送る事が出来るし、それに対して返事を返す事も出来る。当然ながら内容は全て検閲されるが。

 コンビニで売っているレターセットのようなチープなデザインの封筒に入っていた手紙には様々な事が書いてあった。橘組が看板を下ろした事、妻に見捨てられて一人になった事、お偉いさんとのツテや握っている弱みを使って光をそこから出してやれる事。

「……………今更なんやねん」

 仮にそれが法的に真っ黒な手段であったとして、それでも血の繋がった自分の娘をムショから出す手段があるなら、どうしてもっと早く動かなかったのか。別にここから出たいだなんて思いもしなかったけれど、どうしてもそう思わずには居られなかった。

 ………要するに寂しくなったのだろう。組が解散した事で妻から縁を切られ、それまでは従順だった組員も他所に吸収された。稼ぎまくってきた大金も看板を下ろす際に色々と使わざるを得なくなり、もはや大した額が残っていないのかもしれない。であれば侍らせていた愛人カキタレやイロも見放すだろうし、それで遂に寂しさに耐えられなくなってきたのだろうと光は考えた。

 独りぼっちになってしまって人恋しい。お互い寄れる身もないのであれば、多少歳を食っていたとしても肉欲の捌け口として安いエロ本のような展開になるかもしれない。実の娘とは言うがそもそも堅気ではないのだから、例え牙を抜かれたとしてもその手の倫理観なんぞある訳も無い。気付けば三十路を超えてしまった身ではあるが、ハゲ散らかしたブタ共からすれば三十はまだまだお姉さんなのだというし、それが百年に一度と言って良いほどの天然爆乳であれば多少無理をしてでも警察デカ共を強請ゆする価値があるのかもしれない。

 橘光は理解した。もう自分橘光の居場所なんて、この世界にはどこにも無いのだと。牙をもがれたこいつが求めているのは都合の良い抱き枕であり橘光という人間では無く、またほぼ意図的な殺人事件を起こした身であれば社会からも必要とされない。或いは彼氏彼女でも居れば心の拠り所になって良かったかもしれないが、それでも結局性欲の捌け口として都合良く遊ばれるだけであり、ある時避妊を忘れて孕みでもすれば雑に捨てられるのだろう。

 死のう。もういい。クソみたいな日々には飽き飽きした。


 ────もう終わらせよう。


 決意を固めれば後は早かった。

 刑務所内では自殺防止の為、そう簡単には死ねないようにと様々な工夫がされている。天井には首を吊れるような部分が無く、ドアノブでの首吊りを狙おうにも部屋の扉にはドアノブが付いておらず扉の開閉は全て監視員が行うようになっている。就寝時と起床時にのみ触る事が出来る毛布のシーツや、トイレットペーパーを長く伸ばせばかなり強度のある紐が出来上がるが、何しろそれを結び付ける場所が徹底的に排除されてるのだ。

「…………うっし、やるか」

 しかし橘光は人とは違う怪力を持っていた。それが原因で三十路を過ぎるほど刑務所内で過ごしてきたものの、外部的に損傷した訳でも無い脳が機能代償を起こすような事も無く、一度壊れてしまった脳が勝手に治る事は無かった。

 橘光は角が取り払われた丸みの強いステンレスベッドへと座り、まるでヨガでもするかのように右足を自分の頭に回した。ふんぬふんぬと鼻息荒く自分の頭を足で挟んでしまえば、後は右足に力を入れるだけ。通常であれば首を痛めるだけで終わるだろうが、リミッターの外れた怪力であれば頚椎を外す事など朝飯前だった。

 奇しくも初めて殺した人間と同じ死因で自殺する事になるとは思わなかったが、お互い今度はもっと上手く生きようやと故人へ思わずには居られなかった。


 橘光が異世界転生をしたのはその日だった。

 どういう理屈で異世界に転生なんてするのかは当然ながら分かるわけがなかったが、何で三十路で自殺した自分が十代に戻っているのか等はもっと理解に苦しんだ。ジズベットなんたらかんたらいうクソ長い名前のチビ人外から「最も幸せだった時」に戻っただけなのだと言われれば、もう考える事が嫌になり「なるほど分からん」と思考する事を放棄した。

 それでも理解した事と言えば、サンスベロニア帝国とかいう国がルーナティアとかいう国を殲滅する為に召喚したのが『大成した勇者』であり、それに対抗するルーナティア国は『しくじった愚者』を呼び出して均衡を図ろうとしたのだという事ぐらい。

 勇者とは得てして魔王に対立する存在である事が多く、下手な者を呼んでしまえば場合によっては敵が増えるだけになりかねない。だからこそ悪に近い側に居る愚者こそが勇者と戦うには適任なのだとジズは言っていたが、しかし医師の診断書に『人間不信』だの『対人嫌悪症』だのと書かれるような女である所の橘光は、要するに使い捨ててもさして惜しくない愚者The Foolが欲しかったのだろうと考えた。不眠症なのか睡眠障害なのか大きな隈が出来ている青年は当然ながら、常に青年の足元にいる猫ですら要らないやつおろかものなのだと思うとなにがしか考えたくもなるが、あーだのこーだの考えた所で何かが変わる訳でもないのは分かりきっていた橘光は何度目か分からない「今更なんやねん」という文句を垂れつつ、感情の赴くまま自由気ままに立ち回っていた。

 愚者として呼び出された橘光が、その後同じ愚者である森山拓人を気に入ったのは、自分の体付きに対して性的な目線は当然ながら好奇の眼差しすら向けなかったからだった。今まで出会った男共というのは刑務所内に勤める者ですら橘光の胸にばかり目を向けており、パルヴェルトと名乗ったいけ好かないおぼっちゃまに至っては「誰だって良い」という思惑が見え透いていたのだが、どうした事が拓人だけは光の事を下心のある目では見なかった。こちらが余りにも露骨な誘惑をした時は流石に目線も胸に向いたが、数秒後には死んだ魚のように濁った目に戻っていた。ともすればインポテンツなのかとも考えレイプ紛いの手段で股間を揉み倒した事もあったが、容赦の無いグーパンが顔面に飛んできた辺りそういう訳でも無いようだった。

 森山拓人の事を異性として意識するようになったのはちょうどその頃からだったが、同じようにジズの事を友達ツレとして意識し始めたのもその頃からだった気がする。

 元より意識して人を避けてきたのだから、当然人との正しい会話なんて知りもしなかった。生前は三十路を超えるまで生きていたものの、その半生以上をブタ箱で孤独に過ごした橘光なのだからどんな話題が適切なのか全く分からなかったのだが、とはいえ何でも良いから拓人と色んな話をしてみたかった橘光は、兎にも角にも思った事を素直に口にするようにしていた。

 しかし拓人はそれに対してゴミを見るような顔を向けるだけで、むしろその話題に食い付いてきたのはジズベットなんたらかんたらとかいうクソ長い横文字女の方だった。何かに付けて光の胸に対して嫉妬してくるジズは、しかし今までに出会ってきたような豚女共とは全く違っていた。

 竹を割ったようにスカッとするほど正面から露骨に嫉妬して、場合によっては殴り合いの喧嘩になる事も多かったが、今までの豚女共と違って醜悪な言葉や手段で自分を貶めようとはしてこなかった。

 ジズは、光に対して真正面からぶつかってきた初めての同性だったのだ。

 もしかしなくともゲームや漫画でよく見た『悪友』みたいな立ち位置で、憎み合うように見せ掛けて実際はただ騒ぐ事を楽しんでいるのかとも思ったが「ンな訳無ェだろ駄肉がよォ」とごわごわとした厚めのブラ越しにも関わらずねじ切られるかと思うぐらいの力で乳首を抓られれば、人との関わりが少なかった橘光は「マジなんやねんこいつ」と思わずにはいられなかった。その癖自分の振った話にはしっかり乗ってくれるのだから、もう本当に訳が分からなくて当惑していた。

 そんなジズと初めて殴り合いの喧嘩になったのは「あわやビーチクもぎもぎフル◯ツ事件」から数日経った日の事だったか。ふとした事で始まった「カラオケでバラードばっか歌う奴ってどう思うか」という論争に対する「女の横でラップばっか歌う男に比べればマシよねェ」というジズの回答がキッカケだった。

 今にしても凄え下らねえなと思うような理由から発展した殴り合いの喧嘩だったが、ジズとの喧嘩で殴り合いに発展するのはそれが初めてだったので、橘光は不覚にも拳を振るう事を躊躇ってしまった。

 ジズの事を思ったのではない。ただ自分が過去に起こした殺人がフラッシュバックするかのように脳裏に浮かんできたからだった。あの時は軽く頬を突っ張ろうとしただけで首をへし折ってしまったのだから、今みたいに力を込めて殴ってしまえば実銃射撃の動画で的にされる哀れなスイカやミネラルウォーターのボトルが如く弾け飛んでしまうのではないかと躊躇してしまい、ジズの顔面を殴ったもののそのまま振り抜かずに拳を止めてしまった。

「……阿呆あほうがよォ」

 橘光は甘かった。しかしジズは甘くなかった。

 たった一瞬、時間にしてゼロコンマすら下回るようなその静止を見抜いたジズは、そう呟きながら何一つ容赦の無いカウンターを入れてきた。体を翻すようにぐるりと回し、遠心力の乗った変な形の尻尾が土手っ腹にぶち当たって吹き飛ばされる。直前までシャレオツなお茶会を楽しんでいた丸テーブルを巻き添えに吹き飛ばされた橘光は、だが不思議と心の底から嬉しくて「ダハハハハッ! マジかッ! マジかぁこれッ!」と山賊の親分みたいな笑い声を上げてしまった。

 冷え切って凍っていた感情がじゅわりと溶けて動き出すのを感じる。自分が殴っても死なないどころか強気にカウンターまでぶち込んでくる女が、今目自分の前にいる。その事実がたまらなく嬉しくて、どうしてか笑いが止まらなくなってしまった。

 そこから先の立ち回りに関しては手癖で殴り合っていたが為に余り覚えていない。兎にも角にもジズとボコスコ殴り合い、さながら昭和のヤンキー漫画みたいに「強ェじゃん」「お前もな」みたいなコテコテのダブルノックアウトをした橘光は、その後「そんな簡単にブラジャー壊すなこのタコ! 初エッチで彼女のブラ壊す童貞かお前は!」と拓人にネチネチと説教をされたのだが、ここまで来るともはやそんな説教すら嬉しくて仕方が無かった。

 この世界に来てから何度壊れたブラジャーを直す羽目になってんだかと喧嘩による怪我の心配より下着の修理に対する不満を先に垂れる拓人をよそに、およそ女がして良い顔とは程遠いほどボコボコに腫れたジズの顔面を見ながら「殺すつもりで殴ってたんけどなぁ……」と呟いた光に対して「アタシもなんだけどねェ……」とジズが返す。

 すると拓斗はいきなり声を荒げて怒鳴ってきた。

「馬鹿じゃねーのかお前ら! そんな頭おかしい事言ってんじゃねえよ! 人は死んだら戻ってこないんだぞ! 本当に───本当にもう二度と戻ってこないんだぞ!」

 悲痛な叫びだった。生前で何があったのか気になる程に、悲痛で苦しい叫びだった。

 かと思えば拓斗はいきなり怒鳴った事に対して照れ臭くなったのか口元を歪めながら、

「…………おっぱいだって垂れたら二度と戻らないんだぞ! それと同じだ! だからこそ垂れないようにって、死なないようにって努力しなきゃいけないんだぞ!」

 と、そんな馬鹿みたいな誤魔化し方をし始めた。

 まず思ったのは「なに言ってんこいつ」だったが、森山拓人という悲しい死を遂げた男の子が自分を心配してくれている事だけは取り敢えず伝わってきた。そして同時に、誰かに心配されるのが初めてだった橘光は、チョロくも森山拓人の事を好きになったのだと自覚した。

 十中八九、胸の話なんてどうでも良いのだ。そんなものどう考えても照れ隠しでしかない。

 拓人は自分達が悲しい死に方をした愚者だからこそ、こんなクソみたいな理由で雑に殺し合って欲しくないのだと言いたかったんだろう。けれど言ってる途中で何だか照れ臭くなり「どんな手術をしても一度切れたクーパー靭帯は二度と戻んねえんだぞ」だなんて酷い話の反らし方をしてしまったんだろう。


 ああ、そうだ。そういえばそうだった。

 思えばこいつも、常人では到底納得出来ないような人生を送って死んだんだっけ。


 それを思い出した光が森山拓人の名を頭に思い浮かべる時、カタカナでタクトとするようになったのはこの時からだった。特に深い意味はなかったが、自分が好きになったのは森山拓人という不幸な人間ではなく、もう二度と不幸な死を経験すまいと奔走するタクトと呼ばれる少年なのだと考えると、思えば誰かに恋する事すら初めてだったっけと胸が熱くなる。

「んふふ」

 くどくどと説教を受けながら思わず笑う。

 例えば誰かと喧嘩したり、例えば誰かに説教されたり、例えば誰かに恋したり。思い返せばそんな当たり前の事を何一つとして経験してこなかった自分が、こうしてここで全て経験する事が出来ているのだから、こんなに嬉しい事は無かった。

「ええなあ、タクト。ウチ好きやで。タクトん事、大好き」

「そのボコボコになった酷え面ぁ治してから出直してこい」

 誰かに想いを伝える事がこんなにも幸せな事だなんて知らなかったし、勇気を出した告白があっさり失敗に終わると胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感じになるのも知らなかった。

 そして自分がただの一度の失恋では諦めれないしつこい女だという事も知らなかった。或いはヤンデレ系ヒロインの如く自分がタクトに執着してしまうのかもと考えると、それはそれで面白そうだと思えてしまう。ジズにしてもタクトにしても、本音で心の底から何かを言い合えるというのは紛れもなく恵まれている証拠なのだろう。

 あの時は自分の為に人を殺した。あの時は怒りや不満を解消する為だけを理由とし、一方的にこの力を振りかざした。

 今度は誰かの為にその力を振るってみよう。誰かを思って、誰かの為に、この怪力才能を活かしてみよう。それがどんな結果をもたらして、どんな思いをするのか、橘光は経験してみたかった。

「ふと思ってんけど、ヤンデレ女が主人公ボコって逆レイプすんのよくあるけどさ、意識ぶっ飛んでてもちんちんってバキバキに勃起出来るもんなん?」

「夢精ってェ現象があるぐらいなんだからイケんじゃねェのォ?」

「つっても頭から血ぃ流しとるんやで? 脳天カチ割られとんに射精出来るとかドマゾの才能あるやろそいつ」

「動物って死に際を察すると子孫を残す為に勃起するって聞いた事あるわねェ。それがマジならイケんじゃねェ?」

「お前ら僕の説教中なの理解してんのか」

「「サーセン」」

 橘光は、今が楽しくて仕方が無かった。

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