第9話
「ふんふふーん♪」
恵美は一人で店内の掃除を行っていた。
現在店は準備中で店長の岸波は2階で自室に籠って何やらしている。
そして友達の迎田茜は学校に行っているので、現状彼女は独りぼっちの状態だった。
その事に疑問を抱く事はない。
そもそもこうしてこの店に置いて貰っていること自体が奇跡なのだし、それ以上を求めるのは傲慢だと恵美は考えている。
それに、別に独りぼっちと言っても2階には店長がいるし、待っていれば友達はやって来る。
だから孤独を感じた事は一度としてなかった。
ただ……
「うーん……」
小さく唸る。
時折、彼女は思うのだ。
自分は一体何者なのか、と。
記憶を失っている自分は果たしてどこからやってきたのか、何を目的としていたのか。
少なくとも何もないところからいきなり現れた筈はない。
間違いなくどこかに出発点はある筈なのだ。
だけど現状、それを探る糸口は一つとしてないし、だから今は状況に流されるままでいるしかない。
だから今日もこうして台拭きで机を拭いていく――
「……ん?」
と、そこで彼女に視界に何か黒いものが映った気がした。
あれ、もしかしてゴキブリ?
彼女の背筋に冷たいものが走る。
恐る恐る恵美は顔を横へと持っていき、そして視界に映ったものを確認する――
「……ぇ?」
そこにいたのは、黒い人型だった。
天井すれすれになるほど大きな巨体、非日常の存在を目の当たりにした彼女は思わず悲鳴を上げそうになる。
いや、違う。
悲鳴を上げるべきだ。
悲鳴を上げて、助けを求めるべきだ。
しかし、助けが来たとして、例えば店長がやって来たとして、この黒い人型の餌食になってしまうのが――
「起きろ、セカンド」
その言葉は彼女の脳みそを激しく揺さぶり、思わず頭をぐっと抑え蹲る。
……そして次の瞬間、頭を上げた彼女の瞳には、今まで茜や岸波に見せた事がない光が宿っていた。
「……おはよう、グリード」
「おはようだ、セカンド」
ぱちぱちと眼を瞬かせ、それからちらりと視線を上へと向ける。
「マスターが来る前に、手短に私を起こした理由を教えてください」
「いやなに、お前が記憶を失っている時、今まで見た事のないほどに楽しそうにしていたからな」
「……そんな事の為に私を起こしたのですか?」
「そんな事とはなんだ。今、まさにお前は人生を楽しんでいる。それを見た私の気持ちを考えてみろ。嬉しくて吐き気がして来る」
「……いや、貴方吐く事ないですよね?」
「比喩表現と言う奴だ――どうだ? ここで一つ、いっその事連中を裏切ってここで働き続けると言うのは――」
「駄目」
人型、『アンノウン』のグリードの言葉に彼女は小さく首を横に振る。
「私は、お父さんの命令に逆らえない。逆らいたくない」
「それはお前が恐怖で支配されているからか?」
「……そんな事、ない」
「セカンド――いや、恵美。私はお前の幸せを何より願っている。だから、お前が組織を裏切ると言うのならば、それに全力で従うぞ?」
「……出来ないです、私は。お父さんを裏切るなんて事、出来ない」
「恵美……」
「だから、私は」
ふー、と息を吐き。
それから彼女は吐き捨てるように自身の使命を口にする。
「向風学園の生徒、その『プライド』のヘイローを殺す」
「…………そう、か」
「ねえ、グリード。私、そもそもどうしてこんな事になっているのですか? 確か私は『アンノウン』を率いて向風学園に向かっていました。その途中、指揮個体と逸れて、それで」
「暴走したんだ。そして暴走した『アンノウン』の攻撃に巻き込まれて、それでお前は意識を失った。そこをあの少女、迎田茜に拾われて、結果今、こうしてこの店にいるんだ」
「茜には感謝しか出来ないです。でも、その途中ヘイローの連中とは遭遇しなかったのですか? ここ、一応向風学園の管轄下にあると思うのですが」
「……いや。あの迎田茜は一般人だし。そして彼女がお前を運ぶ途中も、そういった人物とは遭遇しなかった」
「なる、ほど」
うん、と頷いて見せる彼女。
「それじゃあ、しばらくはこの店に居続けるしかないですね」
「ずっと居続けても良いんだぞ?」
グリードの言葉に対し、今度はしっかりと首を横に振る彼女。
「マスターにも、茜にも、迷惑はかけられませんから。だから、時が来たら私はここを離れなくてはならないでしょう」
「恵美……」
「セカンドですよ、グリード。私はお父さんの最高傑作。お父さんの手足」
「そう、か」
「用がないなら、もう一度戻ってください、グリード。私はまた掃除に戻ります」
「……」
それに対し、グリードは返答せずに姿を霧へと変え、そしてそれは彼女の体内へと戻っていく。
……頭痛に顔をしかめる様に、頭を押さえた彼女――恵美は目を開けると「……ん?」と首を傾げる。
「あれ、私。何してたんでしたっけ――ぁ」
と、そこで彼女は。
視界の端に、黒い何かを見た気がした。
恐る恐る視界を横に移し、しかしそこには何もなかった。
それでも不安は消えず、だから彼女は思わず叫んだ。
「マスターっ!」
しばらくして、とんとんと階段を下りる音が聞こえてくる。
すぐに姿を現した岸波は彼女に「どうしたー?」と尋ねてきた。
「ご、ゴキブリがいた気がするんですけどっ!」
「……」
額を抑える岸波。
「……とりあえず、また見た時は報告してくれ」
「はい――その」
「ん? どうした?」
恵美は少しだけ躊躇した後、「えと」と言葉を紡ぐ。
「お腹空いちゃったので、何か食べるものがあると、嬉しいです」
「ん……ああ、もうおやつの時間だな。それじゃあ、一緒にプリンでも食べるか?」
「はいっ」
二人で一緒に厨房の方へと歩いていく。
……その途中、恵美は何かを思い出しそうになって「ん?」と首を傾げたが、すぐにその感覚は綺麗さっぱりなくなり、気のせいだったかと思い直し、すぐに岸波の後を追うのだった。
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