第10話 会話の無駄遣いは必要経費

 放課後の静かな廊下に、二人分の靴音と、私のぼやきが響く。


「ねぇ、どうしたの? ウェルナー先輩となにがあったの?」

「別になにも。姉さんを見る、あの人の目が気に入らないだけです。それよりも、なにを相談したかったのですか?」

「ああ、それね」


 ジュリシスには立ち止まる気配がない。私の腕を掴んだまま、足早に歩く。その速さについていくだけで、精一杯。心拍数が上がってしまう。


「はぁー。空気の読み方を聞きたかったの。あ、でも、誤解しないで! いくら勉強の苦手な私といえども、空気に文字は書いていない。空気は読むものではなく、呼吸するもの。そういうことはわかっているから。はぁー」


 ジュリシスは足を止め、振り返った。私が呼吸を荒くしていることに気付いたのだろう。腕を離してくれた。


「すみません。早く歩きすぎました」

「そうだよ! 私とジュリシスの股下の長さ、違うんだからね! はぁはぁ」

「これは提案なのですが、『空気の読み方を聞きたかった』で十分なのでは? それ以降、言う必要がありました? 言葉の無駄遣いはやめたほうがいいです。知性の低さが露呈するので」

「だったら、私も提案させてもらいますけど! 会話の無駄遣いは、必要経費。ユーモアのある会話をするのに必要だから!」

「なるほど。だから、お姉さんと話すのは楽しいのですね。納得しました」


 険のあったジュリシスの表情がほぐれ、楽しそうな笑い声をこぼした。

 その笑顔に、胸が躍る。そうだ。私は、ジュリシスとこういう他愛ない会話がしたかった。

 間違っても、政治家の手腕と人間性が比例していない問題とか、乱立している人権団体の質の向上を図るにはどうすればいいかとか、知的財産を守っている司書の給料を上げるにはどうすればいいかとか。そういう会話をしたいわけではない。

 ちなみにこの三つは、以前ジュリシスから話を振られたもの。この人は、私が答えられずにまごつく様子を楽しんでいる節がある。

 けれど惚れ薬によって、ツンツンしていたジュリシスから角が取れた。丸みを帯びた弟は、素直で可愛い。

 惚れ薬の効果が持続している間に、たくさん会話をしよう。


「ジュリシスのことを知りたいんだけど、教えてくれる?」

「はい」

「好きな女の子のタイプは?」

「ルイーゼです」

「そういうことじゃなくて、優しい子がいいとか、スタイルがいい子がいいとか。あるでしょう?」


 ジュリシスは、左手を右肘に。右手を右頬に当てて、考えるポーズを取った。

 ジュリシスの好きな女の子について質問をしたのは、ジュリシスファンの女の子たちのため。その子たちに役に立つ情報を得たい。


「そうですね……。優しいから好きとか、笑顔が可愛いから好きとか。そういう問題ではないようです。ルイーゼが僕に冷たく当たっても、怒った顔をしても、好きなんですよね。どうしてこんなにもルイーゼが好きなんだろう? ルイーゼだったら、腕一本になっても愛せる自信がある」

「ちょ、ちょっと、腕一本ってどういうこと⁉︎ 死んでいるから!!」

 

 困った弟だ。

 私は質問するのを止め、鞄を取りに美術室に戻ることにした。そのことに、ジュリシスはムスッとした。


「あの人、お姉さんのことを狙っています。気をつけてください」

「ウェルナー先輩のこと? えーっ? 面倒見がいいだけだよ。優しい人だから」

「違います。あの人の優しさは、下心でできています」

「下心?」

「お姉さんは、僕とウェルナー先輩が険悪になった原因を理解していますか?」

「えーっと……」


 ジュリシスは、私のおでこにキスをした。それを見た先輩は、怒りで顔を真っ赤にし、喧嘩を売っているのかと怒鳴った。

 ウェルナー先輩はジュリシスが惚れ薬効果でおかしくなっているのを知らないから、姉弟でなにをやっているのかと呆れたのだろう。


「原因は魔女の惚れ薬。最終的には、魔女の店にクレームを入れるということで理解しています」

「ん?」

「んん?」


 ジュリシスは不思議そうに私を見つめ、私も(あれ? 違うの?)と不思議に思って、見つめ返す。


 そのとき。甲高い女性の声が、特進クラスから響いてきた。


「だって、悔しいじゃない! ジュリシスを振り向かせるには、無理やりに既成事実を作る他にないじゃない!!」


 居残っている生徒たちの声は聞こえてはいた。しかし、なにをしゃべっているかまでは聞き取れなかった。

 けれど、リタの透明で甲高い声はよく通る。しかも興奮しているせいで、声量が大きい。

 

 黙っていてあげたのに、自分からバラしちゃうなんて!!

 焦っていると、ジュリシスは小馬鹿にしたように鼻で笑った。


「くだらない。相手にする価値もない」

 

 ジュリシスは吐き捨てると、踵を返した。リタのいる教室の前を通るのをやめ、遠回しをして美術室に戻ることにしたらしい。

 私はホッとして、ジュリシスの後に続く。

 歩き出した私たちの耳に、興奮したソプラノ声がまた届く。


「今日初めてルイーゼと話したけれど、あの子ってバカね。全然使えない。無能。ジュリシスが無視しているのも当然だわ」

「っ!!」

 

 ジュリシスの肩がビクッと跳ねた。

 ジュリシスは素早く身を翻し、特進クラスへと走っていく。


「えっ? あっ!!」


 今朝。ジュリシスは「僕に守らせてください」と話した。

 悪口を言われた私のために、リタに注意をするつもりなのだろう。

 ジュリシスはリタのいる教室に飛び込み、私も後に続いた。


「今、なんて言った!!」

「えっ……。ジュ、ジュリシス⁉︎」


 リタの黒目がちな両目が驚きで見開かれる。一緒にいる学友らも、ジュリシスの登場に動揺して青ざめている。


「今、なんて言った?」

「あ、あの、説明させて。私、あなたのことが好きで、それで……」


 冷静に問いかけるジュリシス。それに対して、リタは動揺がさらに深まって、忙しなく視線を泳がせている。


「ごめんなさい。私、あなたとどうしても恋人になりたくて……」

「ルイーゼのことを、バカ。全然使えない。無能と言ったね?」

「え、あ……そ、そっち? あ、そうね。ごめんなさい。あなたの家族を侮辱したこと、謝るわ」


 リタは一瞬拍子抜けしたものの、すぐに反省する態度を見せた。

 女王様のように振る舞うリタだが、ジュリシスの前ではしおらしくなるらしい。

 

「これから大切なことを話す。リタも他の者も、覚えてくれないか?」


 ジュリシスの重々しい口調はまるで、冷酷な皇帝が罪を犯した家臣に刑罰を告げるかのよう。

 威圧感と非情な声音に、リタと学友たち。そして私も、震えながら、宣告を待つ。


「ルイーゼは、僕の大切なお姉さんだ。この世のなによりも、愛おしい存在。その姉の悪口を言ったり触ったりした者を、僕は絶対に許さない! 全力で潰す!! ルイーゼのことを悪く言ってもいいのは、僕だけだ!!」


 ん? 最後の一文、いらなくない?




 

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