第9話 宣戦布告
放課後の美術室。
私は子供の頃から絵を描くのが好きで、楽しいときも悲しいときも絵を描いてきた。色を塗っていると夢中になって、嫌なことや寂しいことを忘れられた。
それなのに、絵筆は止まったまま。
キャンパスの向こうにある、テーブルに乗った果物に顔を向けてはいるものの、頭は別なことで埋まっている。
友達のノーラが教えてくれた。
リタの父親は仕立て屋を経営しており、得意客は格式の高い貴族。
裁縫師になりたいミリアはリタに気に入られることで、作ったドレスをお店に置いてもらったり、貴族の屋敷に同行したりしているそう。
──リタに嫌われたら、私……。
涙ながらに叫んだミリア。申し訳ないことをしたと思う。
でもいくら考えても、ジュリシスに睡眠薬を飲ませるのは悪いこと。協力できない。
そもそも、精神年齢五十歳ぐらいじゃないかと錯覚するほどに落ち着いているジュリシスを、パジャマパーティーに誘う方が間違っている。
「はぁぁぁぁぁーーっ……」
ため息しかでない。やる気が海の底に沈んでしまい、浮上できずにいる。
落ち込んでいる原因は、ミリアだけではない。
「ジュリシスのこと、誤解していたみたい……」
ジュリシスが、「学校では話しかけてこないでください。僕も無視しますし、ルイーゼも僕を無視していいです」と拒絶した、その意味がわかったのだ。
(リタのような、強引な女の子が私に頼み事をしないために、一線を引いてくれたんだよね?)
私は頼み事に弱い。今回のような悪い誘いなら断れるけれど、もしリタが本性を出さずに、図書館デートをしてもいいと言ったなら、喜んで協力した。
ジュリシスは、私が頼まれたら断れない性格なのを知っているから、学校では話しかけてこないように言ったのだろう。
惚れ薬を使う前から、ジュリシスは私を守ってくれていた──。
そのことに、胸がかき乱される。
「私って、察する能力が低すぎる。悪いことをしちゃったな。お姉さんとして、これから一生懸命に頑張ろう」
しょげていても仕方がない。気持ちを切り替え、絵筆に色を乗せる。
コンクールに出品する絵の仕上げをしていると、ウェルナー先輩が部室に入ってきた。
「ルイーゼ、調子はどう?」
ウェルナー・シュリンツ先輩は三年生で、美術部部長。
学園長の息子なのに、偉ぶったところがない優しい人。眼鏡の奥にある目は穏やかで、微笑みには気品がある。
相談するには打ってつけの好人物。
「先輩、いいところに来てくれました! 第三者の客観的な意見が欲しいです!」
「意見? いいよ。僕でよければ」
「実は、パジャマパーティーに誘われたんですが、空気が読めなくて……」
「へぇー」
そのとき。美術部のドアが勢いよく開いた。勢いがよすぎて、ばぁぁぁーっん!! と、引き戸が壁にぶつかった音が響き渡る。
「お姉さん。パジャマパーティーには絶対に行かせません。薄い布一枚で他人に会うなんて、許可できません」
現れたのは、ジュリシス。
話し方は丁寧だし、落ち着いている。けれど声音は不穏で、表情の抜け落ちた顔は無機質すぎて逆に怖い。
「聞いていたの?」
「ドアが少し開いていました。よって、聞いていたというよりは、聞こえました。第三者の客観的な意見を求めているそうですが、僕が相手になります」
「えっ⁉︎」
ジュリシスは完全なる第三者ではない。もしも私がパジャマパーティーの誘惑に負けたら、討論会だと嘘をつかれて、睡眠薬を盛られたのだ。
正直に話したら、ジュリシスはリタを軽蔑するだろう。リタのしようとしたことは悪いことだけれど、ジュリシスに話していいものか迷う。まずは、両親に相談したい。
そこで、誤魔化すことにした。
「……大丈夫です」
「なにが大丈夫なのですか? 大丈夫である理由を説明してください」
私は絵筆を置くと、美術部の窓の外に広がる緑を眺めた。
「世の中には、なんとなく、という言葉がありまして。説明はできないけれど、なんとなく大丈夫」
「つまり、こういうことですか? 二歳年上の男の意見は欲しいが、五ヶ月遅く生まれた男の意見は必要ないと?」
「そんなこと言っていないし、思ってもいないから!!」
「ふふふ、あははーーっ!」
ウェルナー先輩は耐えきれないというふうに笑った。お腹を抱えている。
「君たち、おもしろいね。そういえば、噂で聞いたよ。姉と弟の関係を修復したんだってね。家族仲が良いというのは美しいね。お姉さんが幸せになるのを、弟くんは応援してあげるんだろう?」
「まさか。お姉さんの幸せは僕のところにありますから。ウェルナー先輩には渡しません」
「冗談?」
「本気です」
波が引くように、ウェルナー先輩の顔から笑顔がスッと消えた。
ジュリシスが氷の王子様なら、ウェルナー先輩は微笑みの王子様。それなのに、ジュリシスに目を向ける先輩の目は笑っておらず、さらには邪険な物言いをしている。
「なるほど。ルイーゼは、パジャマパーティーに行きたい。それなのに、口うるさい弟が邪魔をする。第三者としてどう思いますか? そういうことだね。僕の意見はこうだ。──ジュリシスは今すぐに、姉離れをすべきだ。嫉妬心を燃やすのは、家族愛とは呼べない。お姉さんを思うなら、今すぐに身を引くべきだ」
「は? そういうことじゃなくて、空気の読み方を……」
「僕はあなたを認めません。微笑みの仮面の下にある素顔を出したらどうですか?」
「言いがかりはよしてくれ。仮面などつけていない」
私は二人を交互に見た。なぜか、ジュリシスとウェルナー先輩が睨み合っている。
火花が散っているように感じるのは、気のせい?
「あのー、いったいなにが……」
「なるほど。では、試してみましょうか」
ジュリシスは穏やかな口調ながらも、底に険悪さを秘めた声音で提案した。
私の肩に、ジュリシスの右手が置かれる。驚いて振り返ると──。
私のおでこに、ジュリシスが口づけを落とした。チュッというリップ音が、物静かな部室に響いた。
「えっ……」
「貴様っ!! 俺に喧嘩を売っているのか! 宣戦布告と受け取っていいんだな!!」
「ご自由にどうぞ。仮面が外れて、素が出ていますよ」
ウェルナー先輩の、温かみのある優しさはどこに消えてしまったのだろう。
憎々しげにジュリシスを睨んでいる目も高圧的な態度も、まるで別人のようで、私は先輩の豹変にオロオロしてしまった。
ジュリシスはうろたえている私の腕を掴むと、美術室から強引に連れ出した。
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